グリンデルワルト編(14):バーゼル市立美術館(10.12)
 そして下の階に行くと、ここバーゼルを拠点に活躍したハンス・ホルバインのコレクションが展示してあります。まずはエラスムスの肖像にご挨拶。華奢な鵞ペンに守られただけの、あくまでも協調和解を旨とする知性の人エラスムス、固く結ばれたその唇に彼の「人間であろう」という不屈の決意を感じます。そしてこちらもぜひ見たかった『死せるキリスト』(1521‐22)とご対面。…もう言葉もありません。縦31cm×横200cmというきわめて横長のキャンバスを棺に見立て、そこに横たわる処刑三日後のキリストの亡骸を描いた絵です。やせ衰え腐敗しかかった無惨な体、半開きの口、空ろな眼。実は『ドストエフスキー 謎とちから』(亀山郁夫 文春新書604)でこの絵のことを知ったのですが、氏によると『白痴』の中でムイシュキンはこう言っているそうです。「あの絵を見ていると、信仰を失う人だっているかもしれない!」 アンナ夫人の回想によると、1867年のヨーロッパ旅行でこの絵に接したドストエフスキーは圧倒的な感銘を受けたようです。「それから十五分から二十分ぐらいして戻ってみたが、ドストエフスキーは釘付けになったように、まだその前に立ちつづけていた。興奮したその顔には、癲癇の発作まぎわにしばしば見たことがある例の驚いたような表情が浮かんでいた」 そしてその衝撃が、『罪と罰』の主題に木霊しているというのが亀山氏の推論です。"人間は復活できるのか? 復活にはどのような意味があるのか?" 詳しくはぜひ本書をお読みください。
 そして現代絵画の部屋では、シャガール、レジェ、カンディンスキー、クレー、モンドリアンの作品群を堪能。最後の部屋では、ジャコメッティの彫刻が展示してありました。目を引かれたのが『猫』。例によって肉付けも凹凸もなく、荒々しくとげとげしい肌の細長い彫刻なのですが、なぜか愛嬌があります。猫の本質を鷲掴みにした、ということなのでしょうか。帰りにミュージアム・ショップに寄って、この『猫』と、『風の花嫁』 『エラスムス像』 『死せるキリスト』の絵葉書を購入。せっかくなので路面電車に乗ってバーゼル駅へと向かいましょう。ヨーロッパの常で、無賃乗車も容易なのですが、そこはそれ、やはり人の道を外れてはいけません。美術館の前に切符の自動販売機があったのですが、購入の仕方がよくわかりません。右往左往していると、近くを通りかかった老年のご夫婦が懇切丁寧に教えてくれました。Danke schoen! こういう親切に触れると、帰国したら困っている旅行者の手助けをしてあげようという気持ちがわいてきます。やってきた路面電車に乗ってバーゼル駅へと向かいました。


 本日の一枚です。
# by sabasaba13 | 2012-05-27 10:11 | 海外 | Trackback | Comments(0)
グリンデルワルト編(13):バーゼル市立美術館(10.12)
 旧市街のセント・アルバン通りをすこしぶらつき、ヴェットシュタイン橋からライン川と大聖堂を眺め、そして宮殿のようなバーゼル市立美術館に到着です。

 1671年に開設された世界最古の公共美術館の一つで、ここバーゼルで印刷業などにより財を成したアマーバッハ家(Amerbach)がコレクションした美術品をバーゼル市が購入し公開したものが基となっているそうです。中庭には氷が張られ、スケートを楽しむ子どもたちや家族連れを、『カレーの市民』(ロダン)たちが気難しげな顔をして見詰めていました。

 体がすっかり冷え切ったので、カフェで珈琲を飲み一休み。さあそれでは入館しましょう。入館料11スイス・フランを支払おうとすると、係の女性はにこやかに曰く「第一日曜日は無料です」。やったあ! なんてついているのだろう。もしかしたら糾える縄のように、今回の旅は本当に福だったりして…いやいやいやいや予断は許せない。明日がピーカンだったら今度こそ幸運だと信じましょう。荷物と上着をクロークに預け、最上階から見学することにしました。なお写真撮影は禁止ですが、これはフラッシュの光を防ぐためか、あるいは絵葉書販売促進のためか、理由はよくわかりません。『大豹に襲われる黒人』(アンリ・ルソー)、『ドービニーの庭』(フィンセント・ファン・ゴッホ)、『ナフェア・ファア・イポイポ(あなたはいつ結婚するの?)』(ポール・ゴーギャン)といった、綺羅星のような近代絵画の名作を堪能していると、真正面の奥に一番会いたかったあの絵が見えてきました。そう、「一級の野蛮人」ことオスカー・ココシュカの縦181センチ、横220センチの大作、『風の花嫁』(1914)です。なんとせつなく、哀しく、激しく、そして美しい絵でしょう。横たわり抱き合う男女、うっとりととろけるように眠る女性、しかし男は空虚な表情で虚空を見つめています。この二人を包むようにとりまく、雲のような、波のような、空気のような"青"。幾重にも幾重にも塗り重ねられた、さまざまなニュアンスの壮絶な"青"。青の激しいうねり、女の陶酔、そして男の虚無。いったいどんなテーマが隠されているのでしょう。まずは、スーパーニッポニカ(小学館)から引用します。
オスカー・ココシュカ Oskar Kokoschka (1886―1980)
オーストリアの画家、劇作家。3月1日ペヒラルンに生まれ、ウィーン工芸学校に学んだ。1908年ごろからアール・ヌーボーの影響を脱して表現主義の傾向に向かう。10年ベルリンの「シュトゥルム(嵐)」のサークルに加わり、「絵筆の占師」の異名をとった独特の心理的肖像画によって注目される。第一次世界大戦に従軍して戦傷を受け、19年ドレスデン美術学校教授、24~31年中近東、北アフリカ、ヨーロッパ各地を旅行して、広大な視野をもつバロック的な風景画を描く。37年ナチスによって作品を没収され、38年ロンドンに亡命。同地でギリシア神話をモチーフとする作品を描いて、戦争とナチスへの抗議を行った。肖像、風景、神話のほかに幻想的な絵も描いているが、鮮やかな色彩の諧調を特色とし、思想的な内容を盛った石版画の連作も試みている。46年ウィーン名誉市民となり、53年以降はスイスのレマン湖畔のモントルーに住み、80年2月22日同地に没した。
 この絵に関しては、『世界名画の旅5』(朝日新聞社)で詳しく紹介されているので、私の文責で要約いたします。この絵に描かれた男性はココシュカ本人、そして女性はアルマ・マーラーです。貴族一門の父を早くに失い、音楽だけを心の友とする寂しい少女期を過ごした美しい彼女の初恋の相手はグスタフ・クリムト。母親は「早過ぎる」とこれを諌め、やがて彼女は指揮者・作曲家のグスタフ・マーラーと結婚します。楽才に恵まれていたにもかかわらず、マーラーはアルマに作曲を禁じ、妻としての献身だけを求めました。そして夫を失った彼女の前に現れたのがココシュカです。二人は恋に落ちますが、彼の子を宿したアルマは生むことを拒否します。彼女に母親像を求めたココシュカと、自由を求めたアルマ、二人の心はすれ違ったようです。そうした時に描かれたのがこの『風の花嫁』です。絶望したココシュカは第一次世界大戦に従軍して重傷を負い、アルマは建築家のグロピウスと結婚、二人の愛は引き裂かれました。戦争から戻ったココシュカは人形師に頼んで、細部まで克明に似せた等身大のアルマの人形をつくらせ、観劇や食事のときも傍らから離さなかったそうです。そして彼女が死ぬ十カ月前に、ココシュカからの電報が届きました。"最愛なるアルマ。バーゼルにある私の作品『風の花嫁』の中で、私達は永遠に結ばれている" 贅言はここまで、あとはただ絵に見惚れるのみ、なお余談ですが、1960年、ココシュカはマルク・シャガールとともに、ヨーロッパの文化・社会・社会科学に貢献した人物に与えられるエラスムス賞を受賞したというのも、私にとっては不思議な因縁ですね。

 本日の三枚です。


# by sabasaba13 | 2012-05-24 06:16 | 海外 | Trackback | Comments(0)
グリンデルワルト編(12):バーゼル(10.12)
 さてそれでは大聖堂とはお別れして市立美術館へと向かいましょう。地図を頼りにぶらぶら歩いていくと、"Holbein-Rundgang""Erasmus-Rundgang"というプレートが建物の壁に掲示してありました。ガイドブックによると、五つのお散歩ルートが市によって用意されているとのことです。

 ある路地を歩いていると、ドイツ語なので詳細はわかりませんが、"HAUSE""ERASMUS"という単語が含まれた記念プレートがありました。おそらくここがエラスムスの住んでいた家なのでしょう。偶然とはいえよくぞ遭遇できたものです。感無量。

 前掲書によると、エラスムスがバーゼルに住んだのは二回。まず1521年から八年間この町で暮らしました。彼が求めたのはカトリック的でも宗教改革的でもない中立の町。"ヨーロッパの中心に位置し、静かで品よく、街路は清潔で、落着いた非激情的な人々が住み、いかなる好戦的な領主にも隷属せず、民主主義的に自由なこの町は、独立の学者に憧れの静寂を約束する" (p.149)とあります。ここで画家のハンス・ホルバインや版元のフローベンと知り合い充実した日々を送るのですが 、やがてバーゼルも宗教改革の熱病にとりつかれます。群衆は教会に殺到し、祭壇から絵画や彫刻をひったくり、それらを大聖堂の前に山と積んで焼いてしまいました。愕然とした六十歳のエラスムスはここを去り、安静を求めてオーストリア領フライブルクへと移住しました。そして1535年、七十歳となった彼は再びバーゼルに戻り、フローベンの息子やアマーバッハたちの暖かい好意に包まれて最晩年を過ごすことになります。"世界から隔絶されて、まったく静かに、疲労と体力の衰えのために一日のうち四五時間以上はベッドから離れられなくなったエラスムスは、その生涯の最後の時を内的な悪感のうちに過ごす"(p.201) なおフランソワ・ラブレーがここに彼を訪ね、「私が今日あるのも、ひたすら貴方あってのことです。…慈父ニシテ祖国ノ栄誉、文芸ノ守護者、真理ノ不敗ノ戦士ヨ」とあいさつしたという感動的なエピソードも残されています(p.202)。そして1536年7月12日、ラテン語でしか述べたり語ったりしなかった彼が硬直した唇で、「かみさま(リーヴェ・ゴッド)」と低地ドイツ語で呟き息を引き取ります。ここが、彼が最期の時を迎えた家なのですね。

 本日の三枚です。


# by sabasaba13 | 2012-05-23 06:19 | 海外 | Trackback | Comments(0)
グリンデルワルト編(11):大聖堂(10.12)
 そして下へと降り、エラスムスの墓銘碑を探しましたが見当たりません。係の女性に訊ねて場所を教えてもらい、正面に向って左手にある柱の裏にまわると…ありました。

 スーパーニッポニカ(小学館)から抜粋して引用します。
 Desiderius Erasmus(1466―1536) オランダの人文学者。ロッテルダムに司祭の私生児として生まれる。…1488年にステインのアウグスティヌス派の修道院に入ったが、晩年には教皇に請願して僧籍を脱した。カンブレの司教の秘書を務め、その援助で95年パリに遊学、もっぱら古典ラテン文芸の研究に没頭した。自活をするためにイギリス貴族の子弟の個人教授をし、99年教え子といっしょにイギリスに渡り、トマス・モアやジョン・コレットらの人文学者と知り合った。…1506年にはイタリアからイギリスへ旅行中に着想して、ロンドンのトマス・モアのところで一気に書き上げたのが有名な戯文『愚神礼賛』(1511)である。それは「愚かさの女神」が世にいかに愚かなことが多いかを数え上げ、自慢話をするという形式をとり、哲学者・神学者の空虚な論議、聖職者の偽善などに対する鋭い風刺が語られている。
 1516年、キリスト教君主たちの間でキリスト教的平和の締結されることを切望した『キリスト教君主の教育』を公刊。またギリシア語『新約聖書』の最初の印刷校訂本を上梓したり、『ヒエロニムス著作集』(ともに1516)を公刊するなど、多彩な活動をなし、「人文学者の王」と仰がれるに至った。晩年は帰国後スイスのバーゼルに住み、そこで死去した。彼は教会の堕落を厳しく批判し、聖書の福音の精神への復帰を説いたので、その弟子からは多くの宗教改革者を出した。彼自身もルターの宗教改革に初めは同情的であったが、その熱狂的な行動には同調できず、『自由意志論』(1524)を書いて論争してからはルターと決定的に分裂した。ディルタイによって「16世紀のボルテール」とよばれたように、コスモポリティックな精神の持ち主で、近代自由主義の先駆者であるばかりでなく、ラブレーをはじめフランス文芸思潮に大きな影響を及ぼした。
 渡辺一夫氏のエッセイを通して彼の業績はそれなりに知ってはいたつもりですが、お恥ずかしい話、その著作を読んだことがありません。前もって『痴愚神礼讃』と『平和の訴え』(ともに岩波文庫)を読んでおくべきだったなあと悔やんでも後の祭り。これは帰郷してからの宿題としましょう。後日談ですが、その課題を果たす前に、シュテファン・ツヴァイクの『エラスムスの勝利と悲劇』(みすず書房)を読んだのですがこれが滅法面白い。『人類の星の時間』『権力とたたかう良心』とならぶ傑作ですね。「人文学者の王」と敬慕されたゆえ、エラスムスは宗教改革の荒波に巻き込まれてしまいます。教皇派もルター派もともにエラスムスを味方につけようとしますが、寛容・理性・和解・協調・自由・独立を尊重する彼はいずれの党派にも与せず、彼の永遠の節度である公正だけに仕えようとします。"むだとは知りながら、彼は汎人間的なもの、共通の文化財をこの不和から救うために、仲介者としてその中間に、したがって最も危険な場所に身を置くのである。彼は素手で火と水を混ぜ、一方の狂信者たちを他方の狂信者たちと宥和させようと試みる" (p.18) ただ一人、個々の派閥よりも人類全体に忠実であり続けた彼は、両派から攻め立てられ、孤独に一人きりで死んでしまいます。しかしこの小さな微かに燃える燈心は、ラブレー、モンテーニュ、スピノザ、レッシング、ヴォルテール、さらにカント、トルストイ、ガンディー、ロマン・ロランへと受け継がれていくことになります。華奢な鵞ペンに守られただけの、あくまでも協調和解を旨とする知性の人エラスムス。彼が掲げた炬火が、今だからこそ一人でも多くの人間の手に渡りますように願わずはいられません。
 なお余談ですが、エラスムスと日本にはちょっとした縁があります。1600 (慶長5)年、豊後に漂着した最初のオランダ船がリーフデ号(De Liefde)、乗組員のウィリアム・アダムス(三浦按針)やヤン・ヨーステン(耶揚子)が徳川家康の外交顧問となったことで有名です。その旧名がエラスムス号、同船の船尾についていたエラスムスの木像は船体破棄後も保存され、貨狄(かてき)様といわれ、群馬県佐野の竜江院に伝存しました。現在では東京の国立博物館に収蔵されているので、いつかこの目で見てみたいと思います。

 本日の二枚です。

# by sabasaba13 | 2012-05-22 06:18 | 海外 | Trackback | Comments(0)
「雑文集」
 「雑文集」(村上春樹 新潮社)読了。村上春樹氏が、授賞式などで行なった挨拶や、未収録の随筆などをおさめた一冊です。謙虚な氏のことなので、"雑文"と謙遜されていますが、どうしてどうして。形式にとらわれず、随所に氏の考える文学論・小説論・小説家論がちりばめられています。例えば、次の一文はいかがでしょう。
 でも少なくとも文学は、戦争や虐殺や詐欺や偏見を生み出しはしなかった。逆にそれらに対抗する何かを生み出そうと、文学は飽くことなく営々と努力を積み重ねてきたのだ。もちろんそこには試行錯誤があり、自己矛盾があり、内紛があり、異端や脱線があった。それでも総じて言えば、文学は人間存在の尊厳の核にあるものを希求してきた。文学というものの中にはそのように継続性の中で(中においてのみ)語られるべき力強い特質がある。僕はそう考えている。(p.28)
 また賛否両論、話題となったエルサレム賞受賞式の挨拶ではこう述べられています。
 私が小説を書く理由は、前じ詰めればただひとつです。個人の魂の尊厳を浮かび上がらせ、そこに光を当てるためです。我々の魂がシステムに絡め取られ、貶められることのないように、常にそこに光を当て、警鐘を鳴らす、それこそが物語の役目です。私はそう信じます。生と死の物語を書き、愛の物語を書き、人を泣かせ、人を怯えさせ、人を笑わせることによって、個々の魂のかけがえのなさを明らかにしようと試み続けること、それが小説家の仕事です。そのために我々は日々真剣に虚構を作り続けているのです。(p.79)
 "人の魂を絡め取ろうとするシステム"と"人間の尊厳"、彼の小説を読み解く上で重要なキーワードのような気がします。それでは人間の尊厳とは何か。他の箇所を引用します。
 僕の小説が語ろうとしていることは、ある程度簡単に要約できると思います。それは「あらゆる人間はこの生涯において何かひとつ、大事なものを探し求めているが、それを見つけることのできる人は多くない。そしてもし運良くそれが見つかったとしても、実際に見つけられたものは、多くの場合致命的に損なわれてしまっている。にもかかわらず、我々はそれを探し求め続けなくてはならない。そうしなければ生きている意味そのものがなくなってしまうから」ということです。(p.388)
 村上氏は、大事なものを探し求め続ける営みを「物語」と捉えているのだと思います。そして人間というものは、それぞれの固有の「物語」を持って生きている、かけがえのない、交換不可能な存在であると。そうした個々のささやかな「物語」の存在を許さず、大きな「物語」へと絡み取ってしまうのが"システム"ではないのか。私はそう読み取ったのですが、そう考えると、ナショナリズムや市場原理主義といった「大きな物語」が弥漫している現状がよく理解できます。あるいは、個々の小さな「物語」に孤立感や孤独感を感じて寂しくなり、大きな「物語」に救いを求める人もいるのかもしれません。これは私の思いつきですが。その個々の、小さいけれど大事な「物語」をつなぐのが小説の大切な役割だと、氏は考えておられるのではないかな。
 僕が小説を書くひとつの大きな目的は、物語というひとつの「生き物」を読者と共有し、その共有性を梃子にして、心と心とのあいだにパーソナルなトンネルを掘り抜くことにあるからです。あなたが誰であっても、年齢がいくつでも、どこにいても(東京にいても、ソウルにいても)、そんなことはぜんぜん問題ではありません。大事なのは、その僕が書いた物語を、あなたが「自分の物語」としてしっかりと抱きしめてくれるかどうか、ただそれだけなのです。(p.72)
 いろいろな文章を勝手に切り貼りして、私が考えた、村上春樹氏の文学論です。ご海容を。もちろん、他にも楽しくて深い随筆などが目白押しです。特に、氏の愛する音楽に関する文章に佳作が多いですね。J・S・バッハやセロニアス・モンクについて語った愛情に溢れるエッセイは忘れられません。個人的に、珠玉の一編を選ぶとすれば、かつてヤクルト・スワローズで活躍したデーブ・ヒルトンについてのエッセイです。忘れもしません、時は1978年、私が大学に入学した年でした。広岡監督率いる万年弱小球団があれよあれよと勝利を積み重ね、初優勝したのですね。投手は松岡(安田でもいいですが)、捕手は大矢、一塁は大杉、二塁はヒルトン、遊撃手は…ごめん忘れた、三塁は船田、レフトは杉浦、センターは若松、ライトはマニエル、思い出は美化されるにしても素晴らしいラインアップでした。中でもヒルトンには、うまく言えませんが不思議な魅力を感じていました。(たしかこの年の打率は0.317) その魅力を、過不足なく言葉にして届けてくれた忘れ難いエッセイです。たしか「ナンバー」という雑誌に掲載され、しばらく愛蔵していたのですが、引越しの際に紛失してしまいました。まさかこんなところで再会できるとは。それ以後、スワローズのファンとして日々の試合に一喜一憂しておりますが、これは私の小さな「物語」です。
# by sabasaba13 | 2012-05-21 06:15 | | Trackback | Comments(0)
言葉の花綵70
 神様は富というものを軽蔑していらっしゃるから、ロクでもない奴にしかお与えにならない。(オースティン・オマリー)

 考えてみれば、金というのはセックスとまったく同じで、充分にある時は他のことも考えるけれど、足りないとなるともうそのことしか考えられなくなる。
(ジェイムズ・ボールドウィン)

 恋というのは本当にすてきなものだから、老いたらお金を払ってでも買うのよ。(フランソワーズ・サガン)

 貧しい者は自分が相手に近づくことができないだけでなく、もう愛していない相手から逃れることができない。(E・M・フォースター)

 貧民席の人は拍手してください。それ以外の方は宝石をじゃらじゃら鳴らしてください。(ジョン・レノン)

 金を数えられる間はまだ本当の金持ちではない。(ポール・ゲッティ)

 私をメンバーとして迎えてくれるようなクラブには入りたくない。(グルーチョ・マルクス)

 ぼくは君の意見には反対だ。しかし、きみがそう言う権利のためには命を懸ける。(ヴォルテール)

 表現の自由とは何か? 世論に逆らう自由がなければ、表現の自由など無意味だ。(サルマン・ラシュディー)

 暗殺とは究極の検閲である。(ジョージ・バーナード・ショウ)

 私に言わせれば、テレビはとても教育的だ。誰かがスイッチをいれた途端に、私は別の部屋に行って本を読む。(グルーチョ・マルクス)

 TVというのは、テリブルなヴォードヴィルの頭文字だ。(グッドマン・イエス)

 テレビは、何百万もの人々に同時に同じジョークを伝えながら、その全員を孤独なままに置く。(T・S・エリオット)

 世界の隅々まで光りをもたらすものが二つだけある。一つは太陽であり、もう一つがAP通信だ。(マーク・トウェイン)

 政治家は自分でも自分が言っていることを信じていないから、他人が信じてくれるとびっくりする。(ドゴール)

 何かを測るのはやさしい。むずかしいのは、自分が何を測っているかを正確に知ることだ。(J・W・N・サリヴァン)

 世の中には三種類の嘘がある。嘘と、とんでもない嘘と、統計だ。(ディズレーリ)

 科学というのは刃物だから、玩具にしていると自分の指を切る。(アーサー・エディントン)

 科学の目的は無限の知恵への扉を開くことではなく、過ちの可能性を有限にすることだ。(『ガリレオの生涯』 ブレヒト)
# by sabasaba13 | 2012-05-20 07:54 | 言葉の花綵 | Trackback | Comments(0)
「言葉の力」
 「言葉の力 ヴァイツゼッカー演説集」(永井清彦編訳 岩波現代文庫)読了。
 問題は過去を克服することではありません。さようなことはできるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。(p.10)
 あまりにも有名な演説ですね。以前、その全文を読みたいがため、岩波ブックレット「荒れ野の四十年」を購入しましたが、それも含めた彼の演説をまとめたのが本書です。西ドイツ→統一ドイツの大統領として、コール政権を支えた方ですね。『世界の歴史 冷戦と経済繁栄』(中央公論新社)に以下の記述があります。「この政権は、首相のコール、外相のゲンシャー、大統領のヴァイツゼッカーの組み合わせで運営されていったことである。コールは(※キリスト教民主同盟の)党内掌握と内政を、…ゲンシャーが外交を、そしてヴァイツゼッカーが知的な問題を扱っていた(p.396)」 1985年5月、ボン・サミットのために訪独したレーガン大統領が献花のために訪問した墓地に、ナチスの親衛隊(SS)が埋葬されていたことが国際問題になったそうです。しかし5月8日、ドイツ降伏40周年の日に、連邦議会の式典においてこの演説を行ったため、国際的な感銘を与えました。彼の演説を貫いているのは、過去と誠実に向き合い、末来に責任を持ち、偏見と敵意と憎悪を排し、社会や世界への関心を持ち、そしてよく考えて行動を起こそうとする態度です。何よりも心に残るのは、言葉の力を信じ、論理的かつ真摯な言葉で他者を説得しようとしていることです。歴史学者ハーバート・ノーマンの「説得せよ、さもなくば破壊あるのみ Persuade, or perish.」という言葉を思い出します。彼の、"言葉の力"に満ちた演説の一部分を紹介しましょう。
 ヒトラーはいつも、偏見と敵意と憎悪とを掻きたてつづけることに腐心しておりました。若い人たちにお願いしたい。他の人びとに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。(p.29)

 われわれは依然として、世界の他の地方に犠牲を強い、将来に負担を残しながら、無責任な規模の生活をしています。(p.70)

 しかし、素人も政治家と同様、専門家でないからといって、自らの役割を過小に見積もる理由はありません。共に絶えず新たに批判的な問いをする権利と義務をもっています。共に考える風潮がなくなってゆくことが、社会に対する最大の害です。(p.72)

 ナショナリズムに含まれている人間らしいナショナルな感情が歪曲されたことが破壊的な影響を及ぼしたのです。愛国心(パトリオティズム)は仲間への愛情ですが、ナショナリズムは他の人間への憎悪で、これがヨーロッパの兄弟戦争の主な原因となりました。(p.78)

 人間の尊厳を守ることをとく必要としているのは誰か、をわれわれは充分に承知しています。自力ではなんとかできない弱者、事情に詳しくないよその人びとです。
 これこそ人間としての作法・振る舞い(アンシュタント)であり、われわれの民主制の命がかかっている、われわれの文明の根底なのであります。これを忘れるとき、われわれは野蛮に逆行いたします。(p.163)

 このような経験や報道から結論を出すとすれば、こうです。もし仮に、われわれドイツ人が「過去を川のように流してしまえ」Let the past flow away like the river(=水に流す)という原則に従っていたならば、何も解決できず、外交面での孤立を長引かせ、内政面では硬直状態を助長していただろう、ということです。
 現実と理想を融合させるために英知と努力を傾けるのが、政治家の最も重要な責務だと思いますが、実質的な権力を持たなかったヴァイツゼッカーは"言葉の力"でその責任を果たそうとしたのですね。その力強く理知的な言葉の数々は、理想の実現に向かおうとする人々をいつまでも勇気づけてくれるでしょう。ちょっと日本の政治家諸氏の語る言葉と比較してみますか。
 (仲間割れした不法入国の中国人が、顔の皮を剥がされて殺された事件に関して) しかしこうした民族的DNAを表示するような犯罪が蔓延することでやがて日本社会全体の資質が変えられていく恐れが無しとはしまい。(石原慎太郎東京都知事 産経新聞 2001.5.8)

日本人による売春は、中国へのODAのようなもの。(橋下徹弁護士[現大阪市長] 東京放送『サンデー・ジャポン』 2003.10.5)
 他者への偏見や軽侮を平然と語る彼ら、そしてそれを問題視しない日本社会。ヴァイツゼッカーの高い志と比べると、そのあまりに大きな落差に慄然とします。ま、国民は己の知的レベル以上の政治家を持つことはできないということでしょう。子どもよりも、まず大人の学力不足が心配です。
# by sabasaba13 | 2012-05-19 07:23 | | Trackback | Comments(0)
グリンデルワルト編(10):バーゼル(10.12)
 それではスーパーニッポニカ(小学館)を利用してバーゼルの紹介をいたしましょう。
 バーゼル、人口17万4976(1992)人で、チューリヒに次ぐスイス第二の都市。ドイツおよびフランスとの国境をなすライン川沿いに発達した町で、河川・鉄道交通の要地である。16世紀の宗教改革時に、フランス、イタリア、オランダから逃れてきた新教派の学者、企業家、商人らを市民が受け入れ、これが市の文化・経済の発展に貢献した。現在は化学工業(とくに薬品・染料)の一大中心であり、ほかに電気、機械、印刷などの工業が行われる。
 これにつけくわえれば、エラスムスやヘッセゆかりの地、宝飾時計の国際見本市、現代建築の宝庫としても人口に膾炙しています。しかしなんといってもお目当てはバーゼル市立美術館ですが、逸る気持ちを抑えてまずはエラスムスの墓銘碑がある大聖堂を訪れましょう。恰幅のよいファサードが印象的な駅舎を出ると、駅前は路面電車のターミナルになっています。新旧、さまざまな色の路面電車がたくさんの市民を吐き出しては呑み込み、四方へとがたこんがたこんと走り去っていきます。路面電車マニアにとっては身悶えするような光景ですね、写真を撮りまくりました。

 さてガイドブックの地図を頼りに大聖堂の方へ歩いていくと、途中に"Picassoplatz"がありました。ピカソ広場? 今、インターネットで調べたところ、市立美術館がピカソの作品を買い入れるために住民投票まで実施して資金を調達した、ということを聞いた画家が大変喜び、何枚かの作品を別途寄贈した、という逸話があるそうです。そうした縁から命名されたのかもしれません。市立美術館の前を通り過ぎて路地に入ると、正面に大聖堂の尖塔が見えてきました。

 そして到着、裏にあるテラスからは滔々と流れるライン川を一望できます。おっ渡し船が川を渡っていきました。往時の光景を彷彿とさせる風物詩ですね。

 そして大聖堂の中へ、料金を支払えば塔にのぼれるようなので、さっそく行ってみましょう。その街で一番高いところにのぼる、街歩きの鉄則の一つです。階段をのぼりきると回廊にたどりつきました。残念ながら曇天のため遠望はききませんが、ライン川とともに発展したバーゼルの街を一望することができました。


 本日の二枚です。

# by sabasaba13 | 2012-05-18 06:19 | 海外 | Trackback | Comments(0)
グリンデルワルト編(9):シュピーツ(10.12)
 早朝に目覚めてカーテンを開けベランダに出ると、空は厚い雲に覆われ、アイガーには朝靄がかかっています。念のため、テレビをつけて天気予報を見ると…ヨーロッパおよびスイス全土にお天気マークがおおざっぱに表示されているだけ、これではよくわかりません。

 朝食を食べて部屋に戻ると、靄のためアイガーは全く見えなくなっていました。こりゃあスキーをしても楽しくありません、やはりバーゼルに行くことにしましょう。グリンデルワルト駅で切符を購入し、バーゼルまでの旅程をプリントアウトしてもらって8:49発の列車に乗り込み、まずはインターラーケン・オスト駅へ。寒々とした銀世界の中を列車は疾走していきます。車窓から屋根のついている橋が見えました。古い発電所もありましたが、ユングフラウ鉄道を動かすために造られたものかもしれません。

 そしてオスト駅でシュピーツ行きの列車に乗り換えです。自転車マークのついている車両があるのを見ると、嗚呼欧羅巴に来たのだなあと実感します。

 やがて右側の車窓からは大きな細長い湖がしばらく見え続けますが、これがトゥーン湖。この湖とブリエンツ湖の間にあるのでインターラーケン(湖の間)という地名がついたのですね。

 三十分ほどでシュピーツに到着、ここでまた乗り換えですが少々時間がありますので、駅の外に出てみましょう。ガイドブックによると、トゥーン湖畔にありブドウ畑がひろがるきれいな街だそうですが、散策するほどの時間はありません。それでも駅前からは湖や山なみ、そして教会の尖塔がある街並みを展望することができました。駅舎もなかなか洒落たものですね。

 そしてホームに戻ると、次の列車は十七分遅れているとのアナウンスがありました。タイムテーブルに正確なスイス鉄道にしては珍しいですね。しようがないので跨線橋から鉄路を行き交う列車や靄につつまれたアルプスの山なみを眺めていました。駅の近くには「ミグロ」がありましたが、たぶんこれから幾度かお世話になるでしょう。ホームのすぐ脇にバス停があるというのも便利ですね。

 入線してきた列車に乗り込むとけっこう混んでいましたが、席を確保することはできました。トゥーン、ベルンを走り過ぎ、列車は一路バーゼルに向います。車内ではイタリアの若者たちが傍若無人な大騒ぎ、でも老夫婦に席を譲ったので許しましょう。なにやら茶色いものが通路を横切ったので驚いて振り返ると、大きな犬を連れた方でした。そして十二時すこし前にバーゼル駅に到着、グリンデルワルトから三時間強かかりました。


 本日の二枚です。

# by sabasaba13 | 2012-05-17 06:20 | 海外 | Trackback | Comments(0)
グリンデルワルト編(8):夕食(10.12)
 そして再びゴンドラに乗ってグルントへ、グリンデルワルト駅前に行くバスがやってきたのでこれ幸いと乗り込みました。

 バス運転手が車内アナウンスで陽気に「マーベラスなお天気!」とはしゃいでおられましたが、まっことその通り。残り六日間、吹雪こうが、雨が降ろうが、槍が降ろうが、このマーベラスな一日だけでもう満足です。バスは数分で駅の近くに到着、ホテル地下にあるロッカールームに靴と板を置き、部屋で着替えて街へ買い物に出かけました。COOPでビールとジュースとおつまみを仕入れて部屋に戻り、冷え切った体をシャワーで温め、ベランダへ。暮色につつまれたアイガー、山の斜面にちらばる家々の灯を眺めながらビールを飲めばこの世は天国です。夕食はホテルのレストランでいただくことにしましょう。私はレシュティ、じゃがいもを短冊状に切ってこんがりと焼いたシンプルな料理ですが、大好物です。山ノ神は鱸のグリル、すこし分け合いましたがたいへん美味しゅうございました。

 部屋に戻る前にフロント前に掲示してある天気予報を見ると、明日は曇りのようです。朝の空模様を見て、バーゼルに行くかスキーをするかの判断を下しましょう。部屋に戻って読書をしながらウィスキーを呑んでいるとやがて睡魔に…

 本日の一枚です。
# by sabasaba13 | 2012-05-16 06:17 | 海外 | Trackback | Comments(0)
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