素晴らしき日曜日

 昨日は小春日和の素晴らしい日曜日でしたね。そういえば『素晴らしき日曜日』(監督:黒澤明)という名画がありましたっけ、今度購入して見てみましょう。閑話休題、午前九時から仲間とテニスなのですが、今回のコートは初めてです。練馬区の「石神井松の風文化公園」内にあるコートで、かつては日本銀行の運動場だったそうです。仲間の談によると、なかなか環境の良いコートだそうで、これは楽しみです。自転車で行く手もあったのですが、ちょっと遠いと山ノ神が言うので電車で行くことにしました。西武池袋線に乗ると、富士山の山頂がビルの谷間からくっきりと見えました。ああカメラを持ってくるべきだったと悔やみましたが、あとの祭り。石神井公園駅で降りて、富士街道をてくてくと歩いていきます。名前から想像するに、富士講などで富士山に向かう人びとが歩いた道なのでしょうね、しかし建物が林立し正面に富士山の「ふ」の字も見えません。十数分歩くとコートに到着です。なるほど、石神井公園に隣接しており、武蔵の面影を残すような木立のある好環境です。コートは七面で人工芝、申し分ありません。管理棟に手続きに行くと、そこは「ふるさと文化館分室」を兼ねており、「田沼武能肖像写真展 時代(とき)を刻んだ貌(かお)」が開催されていました。テニスが終わったらこの展覧会を見て、こちらの喫茶で食事をして、三宝寺池を散策することにしましょう。
 半袖でも汗ばむような陽気でほぼ無風、テニスをするには理想的なお天気のもと、心地良い汗を流して二時間テニスを満喫しました。ボレー・ミスを連発したのが反省点ですね、やはりフットワークとステップインが大事です。ダブル・フォルトがなかったので、これは自分を褒めてあげましょう。当たり前だと言われた返す言葉もありませんが。そして別れ際に仲間と花見の計画を立てて散会しました。

c0051620_21392288.jpg そして「ふるさと文化館分室」へ。その中にある「練馬区ゆかりの文化人に関する展示室」へ入ると、檀一雄の書斎が再現されていました。練馬区に住んだ文化人リストがあったのですが、私の知っている方として、石ノ森章太郎、大塚久雄、草野心平、坂本太郎、瀬戸内寂聴、祖父江孝男、ちばてつや、手塚治虫、野村万作、馬場のぼる、弘兼憲史、藤沢周平、前橋汀子、牧野富太郎、松本清張、松本零士、我妻栄、和辻哲郎が挙げられていました。そしてとなりのスペースで開催されている「田沼武能肖像写真展 時代(とき)を刻んだ貌(かお)」を鑑賞。ホームページから引用します。
 写真家・田沼武能(たぬまたけよし・1929~)は、"人間のドラマを見つめること"をテーマに、これまでに多くの著名人や子どもたち、世界各国の人々の姿を撮り続けてきました。
 東京市浅草区(現・東京都台東区)に生まれた田沼は、幼い頃から父の営む写真館で写真とともに育ち、東京写真工業専門学校(現・東京工芸大学)卒業後、木村伊兵衛(1901~1974)のもとで写真家への道を歩み始めます。新潮社の嘱託のころ「芸術新潮」や「新潮」の撮影を担当したほか、フリーランスとなってからは世界に活動の幅を広げ「LIFE」や「FORTUNE」などの撮影を皮切りに、国内外問わず活躍するようになりました。
 「すべての人間は、他人の中に鏡を持っている」(ショーペンハウエル)という言葉に共鳴する田沼は、「人間」との出会いを第一に、被写体の生きてきた人生そのものを温かなまなざしから写しだすとともに、また自身の姿を見出し投影してきた写真家です。
 本展では、田沼の撮影した練馬区にゆかりのある作家、五味康祐、檀一雄、松本清張らの肖像写真20点をご覧いただきます。
 へえー、木村伊兵衛に師事したんだ。つい先日に『戦争のグラフィズム 「FRONT」を創った人々』(多川精一 平凡社ライブラリー)を読み終えたばかりなので、不思議な縁を感じます。彼は東方社と「FRONT」には関わっていなかったようですが。展示されていたのは、和辻哲郎、草野心平、松本清張、檀一雄、五味康祐、庄野潤三、瀬戸内寂聴、野坂昭如、三浦哲郎、山田風太郎、藤沢周平の肖像写真でした。やはり一家をなす方の風貌は魅力的ですね。もちろんそれを引き出してフィルムにおさめた田沼氏の技量もお見事です。中でも松本清張の気骨、藤沢周平の飄逸、そして野坂昭如の含羞が印象に残りました。とあるバーのカウンターで酒を飲む、破顔一笑の檀一雄と仏頂面の松本清張も面白い一枚。解説によると、ここは銀座のバー「クラクラ」で、二人の間で微笑むマダムは坂口安吾未亡人だそうです。何を隠そう、私、安吾のファンで、以前に桐生新潟で安吾物件を拝見しました。奥さんはさぞ大変だったろうなあ。気になったので、いまインターネットで調べてみると、坂口三千代という方でした。獅子文六が命名した文壇バー(なんだそれは)「クラクラ」を経営し、『クラクラ日記』(ちくま文庫)という随筆も書かれているそうです。こんど読んでみようかな。

 展示室から出たところに古本交換会で残った本が置いてあり、持ち帰り自由とのことなのでさっそく物色。『或阿呆の一生・侏儒の言葉』(芥川龍之介 角川文庫)と『ドイル傑作集Ⅳ -冒険編-』(コナン・ドイル 新潮文庫)をいただきました。また掲示してあった周辺地図によると、練馬区の名木、權藤家のスダジイとハクモクレンが近くにあるので、後で寄ってみることにしましょう。
 そして二階へ、こちらには五味康祐の「資料展示室」と「オーディオ展示室」がありました。氏は時代小説を執筆するとともに、クラシック・オーディオ評論家としても名を馳せておりました。私も昔、『五味オーディオ教室』(ごま書房)を読んだ記憶があります。彼の遺品とオーディオ機器を練馬区に無償譲渡されて、ここで公開されています。そのオーディオによるレコード・コンサートが月一回開かれ、また毎週火・水曜日にはメンテナンス(音出し)が行なわれているとのことです。展示されていたタンノイからどんな音が響き渡るのか、ぜひ聴いてみたいものです。多目的室には、これは彼の遺品であるベーゼンドルファーのピアノが置いてありました。事務室に寄って、レコード・コンサートの予定表をいただき、田沼武能氏の写真絵葉書を購入しました。昭和36年の浅草で撮影したもので、ろう石で道路に絵を描いている子供たちの写真です。私もしたことがありますが、道をキャンバスにして、ろう石で絵を描くというのは素晴らしい体験でした。今の子供たちに味合わせてあげたいものです。

 そして喫茶室で、私はミートソース、山ノ神はペペロンチーノのスパゲティをいただきました。味は…言わぬが花。でも食後の珈琲と紅茶は美味しかったですよ。外へ出て隣接する三宝寺池のほとりを歩いていると、ヒキガエルがのそのそと道を横切りました。そうか、間もなく啓蟄ですね。カエルを見るのは久しぶり、何となく嬉しくなりました。ベンチには老若男女のみなさまが座り、思い思いに小春日和を楽しんでおられましたが、お弁当を食べている方のところへ、みすぼらしい野良猫が物欲しげにのそのそと近づいていきます。ご相伴にあずかれたのかな。すこし先へ行くと、カメラを構えた方々が立ち並んでいましたが、石神井公園名物、カワセミの撮影です。すると近くにいた年配の女性が、「あそこにいますよ」と枝々の間にいるカワセミを教えてくれました。おおっ、宝石のように美しい鳥ですね。
 売店の脇を通ると、野良猫「みいちゃん」の写真が貼ってあり、チーズの入ったお菓子は吐いてしまうのであげないでくださいと注意書きがありました。さきほど見かけた猫ですね。すると売店の女性が出てきていろいろとお話をしてくれました。かなりの高齢で、ときどきボランティアの方が動物病院に連れていくそうです。この前は口内炎を治療したそうな。でもけっこう元気に飛び跳ねているそうです。そうか、さっきの仕草は食べ物欲しさの演技、猫かぶりだったのかもしれないな。

 權藤家のハクモクレンは見事な枝ぶりにたくさんの蕾をつけ、間もなく開花です。もうしばらくしたら見にきたいものです。駅に向かう途中にあった東京ガスライフバルに寄って、電気需給契約についての手続きを教えてもらいました。一刻も早く、無責任・没義道な東京電力との縁を切ろうと思っています。石神井公園駅から列車に乗って、さきほどいただいた「侏儒の言葉」を斜め読みしていると…やった。岩波文庫には収録されていない補輯「ある自警団員の言葉」がおさめられていました。今、関東大震災時の虐殺についてずっと追いかけているのですが、どうしても読みたかった一文です。註によると、いったん雑誌に発表したが、単行本にまとめる際に筆者が削除した一編だそうです。これは嬉しい。
 家に戻り、陽だまりのなかで小一時間ほど昼寝。そしてアーノンクールの『ドン・ジョヴァンニ』を小さな音量で流しながら、村上春樹氏の新作『騎士団長殺し』(新潮社)をしばらく読みました。夕食は、山ノ神が二日がかりでつくってくれたビーフ・シチューに舌鼓、たいへん美味しゅうございました、いやほんと。「日曜美術館」を見ながら食休みをした後、J・S・バッハの「無伴奏チェロ組曲」第5番のプレリュードを集中して練習。とてつもなく難しいのですが、大好きな曲なので何とかものにしたいと思います。

 事件もなく、お金もさほど使いませんでしたが、素晴らしい日曜日でした。花森安治曰く、「日々の暮らし以上に、かけがのないものはない」。

 追記。寝る前に布団にくるまれて『騎士団長殺し』を読んでいたら、次の一文がありました。
 彼はモーツァルトのレコードを選んでかけた。「ピアノとヴァイオリンのためのソナタ」。タンノイのオートグラフは派手なところはないが、深みのある安定した音を出した。クラシック音楽、とくに室内楽曲をレコード盤で聴くには格好のスピーカーだ。古いスピーカーだけに、とくに真空管アンプとの相性が良い。(第1部p.246~7)
 恐ろしいぐらいの偶然ですね。だから人生は面白い。
# by sabasaba13 | 2017-02-27 06:34 | 鶏肋 | Comments(0)

カマゲイ

c0051620_844738.jpg それでは「大岡信ことば館」に入館いたしましょう。ん? 企画展として開催されていたのが「釜芸がやってきた! 釜ヶ崎芸術大学・わしが美なんか語ってもええんか?」です。カマゲイ? なんじゃそりゃ?
 はい、お待たせしました。こちらで偶然に出会えたのが「カマゲイ」です。それでは釜ヶ崎芸術大学の概要について、展覧会のサイトから転記しましょう。
 釜ヶ崎は大阪市西成区のなかのさほど広くない地域の呼び名で、日本最大の日雇い労働者の街として知られています。かつてここに日本の高度経済成長を支えるべく、全国から若い労働力が集められました。現在の彼らは高齢化し、また様々な理由で他の地域から弾き出されることになった人々もここへ身を寄せ、今の釜ヶ崎は形作られています。その釜ケ崎で詩人・上田假奈代さん率いるNPO法人こえとことばとこころの部屋(ココルーム)が、「学びたい人が集まればそこが大学になる」という旗印のもと、市民大学釜ケ崎芸術大学を立ち上げます。大学講師や様々なプロフェッショナルを招いて、各種講座・ワークショップを開催し、アートを通して常に彼らと共に考え、共に成長していこうとする姿勢を見せています。
 というわけで、講座やワークショップに参加した釜ヶ崎に住むおっちゃんたちのつくった絵、書、詩、オブジェを紹介する展覧会です。稚拙で未熟ですが、粗雑な作品はひとつとしてありません。学ぶこと、知ること、表現することの喜びが炸裂する、素晴らしい作品群です。
 感銘を受けたので、「釜ヶ崎芸術大学2013報告書」を購入して、帰宅後に熟読しました。報告書によると、講座は表現、音楽、詩、天文学、書道、感情、ガムラン、哲学、お笑い、狂言、絵画、写真、合唱、ダンス、地理といった多様な内容です。その雰囲気を伝えてくれる釜芸大「天文学」講師の尾久土正己氏のコメントを紹介します。
 最初の観望会は12/29、2台の望遠鏡を三角公園に持ち込んだ。「お前はどこのもんで、何をしに来たんや?」と怖そうな顔で話しかけてきたおじさんは、望遠鏡を覗いた瞬間、「これ本物か?」「うさぎおるんか?」と目が少年のようになっていた。また、病気で視力が落ちていて、なかなか見ることができずにいたおじさんの顔を手で持って、接眼部が目の正面にくるようにサポートしてあげると、「ええもん見させてもろったわ」と喜んでくれた。そのうち、見終えたはずのおじさんが別のおじさんを連れて戻ってきて、「おい、これを見てみ! デコボコがたくさん見えるやろ?」と解説をしてくれたり、列を整理してくれたりと、あっと言う間に公共の天文台で行われているような観望会が出来上がってしまった。
 学ぶこと・知ることの喜びと驚き、それらを人と分かち合うことによってさらに増加されるということ。おっちゃんたちの生き生きとした姿が、「学ぶ」ということの本質を十全に語ってくれます。もうひとつは、釜芸大「哲学」講師の西川勝氏のコメントです。
 釜ヶ崎芸術大学の良いところは、入学試験も落第もないところだ。学びたいという気持ちだけが大切にされる。学ぼうとする姿勢が何よりも難しい。試験に受かって自分の能力を誇示し、授業料を払って対価としての知識を要求するのでは、学ぶという姿勢は生まれてこない。成績や学歴という頼りないもののために、自分の人生を手段にしているかに見える若者たちを見ると気の毒になってしまう。生きることと学ぶことが、目的手段としてばらばらにならないような学びの場を、もっと広げていく必要があるだろう。
 進学・進級・卒業・学歴のための手段としての「学び」、それが学校教育をいかにスポイルしていることか。「学びたい人が集まれば、そこが大学になる」という、第一期釜芸パンフレットの言葉をかみしめたいと思います。
 補助金欲しさに文部科学省官僚の天下りを受け入れる早稲田大学関係者諸氏、補助金をちらつかせて再就職先の獲得に血眼となっている文部科学省官僚諸氏、穴を掘ってさしあげましょうか。
 なお2016-2017年に開催される釜ヶ崎芸術大学講座がすでに決定されています。

 常設展「大岡信の部屋」では、「アノニマス!折々のうた」が展示されていました。朝日新聞に掲載し続けた人気コラム「折々のうた」の中から、「よみ人しらず」や「東歌」など、無名の人々の作品が紹介されていました。私の大好きな『閑吟集』からひとつ紹介しましょう。
梅花は雨に
柳絮は風に
世はただ虚(うそ)に、揉まるる

 室町歌謡。梅の花も柳のわたも、春の雨風に翻弄されて舞う。世の中も同じく、ウソで揉みくちゃ。ウソを「虚」と書き記してある。直接には「嘘」の意味もあろうが、それだけでなく、根本にはこの世の虚しさへの諦観があろう。戦乱の世を生きる人々の処世観でもあったと感じられるが、ひるがえって思えば、二十世紀の終幕を生きる現代日本社会でも、同じように「虚」に揉まれて大忙し。

 午後四時を過ぎたので「てっちゃん」に行ったところ、材料が入手できず今日は「長泉あしたかつ丼」は提供できないとのこと、無念。ま、いいや、今回の旅はカマゲイに出会えただけでも満足です。「学ぶ」ことに迷いが生じたら、釜ヶ崎のおっちゃんたちのことを思い出しましょう。
# by sabasaba13 | 2017-02-26 08:05 | 美術 | Comments(0)

富士宮編(9):三島(17.2)

 ふたたび富士駅で東海道線に乗り換えて三島へ。地元のあしたか牛をふんだんに使ったメンチカツどんぶり、「長泉あしたかつ丼」を「てっちゃん」というお店でいただくことにしましょう。んが、しかし、お店が開くのは午後四時であと一時間ほどあります。三島は以前に訪れたことがあるので、とりあえず駅前にある観光案内所に寄って見残した物件の有無を調べてみました。観光地図をいただいて、しげしげと眺めていると…「大岡信ことば館」という物件がありました。へえ、詩人の大岡信氏は、ここ三島の出身だったんだ。そういえば、以前に訪れた時に、水上通りに立ち並ぶ「水辺の文学碑」の中に、大岡信氏の詩碑があったことを思い出しました。幸いなるかな、「てっちゃん」の近くなので、ここで小一時間ほど時間をつぶすことにしましょう。ついでと言ってはなんですが、案内所の方に、富士山がよく見える場所をお伺いしたところ、駅前のスクランブル交差点がよいと教えてくれました。さっそく行ってみたところ、駅舎とビルの狭間から頂上がすこし見えるだけでした。途中に三島市制70周年記念マスコットキャラクターの「みしまるくん・みしまるこちゃん」を見つけたので撮影。
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 東海道線・新幹線のガードをくぐって左へとすこし歩くと、「大岡信ことば館」に到着です。館長である岩本圭司氏の言葉を紹介します。
 静岡県三島市出身の大岡信さんは、とても「ことば」を大切にしてきた詩人です。大岡さんは「ことば」について、私たちの話し言葉や文学などに見られる言葉だけが「ことば」なのではなく、美術や音楽や舞踊など、人が人に何かを伝えようとすること、コミュニケートすることすべてが「ことば」であり、またその「ことば」を大切にすることで人としての豊かな感性が育つと話しています。
 大岡さんのこんな魅力ある考えを基礎にして、さらに次世代へと繋いでいくことで、豊かな感性に溢れた未来を築くことができるのではないかと、日本の教育産業のなかにあって常に真摯な姿勢を崩すことなく事業を展開してきたZ会グループが、2009年10月三島駅北口に「大岡信ことば館」を開館しました。
 開館以来、いわゆる文学館や美術館といった小さな枠にとらわれることなく、「ことば」の視覚化・造形化を試みたり、また音としてのことばの可能性を探ったりなどしながら、常に「ことば」に焦点を当て続けてきた弊館ですが、今後もさらに様々なチャレンジを続けながら、皆さんと共に「ことば」に学び、また「ことば」のなかに遊んでいきたいと考えています。
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 本日の一枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-02-25 06:33 | 中部 | Comments(0)

富士宮編(8):富士宮(17.2)

 駅に着いて二階のオープン・テラスにのぼると、どこからともなく大きな歌声が聞こえてきました。やれやれ、真昼間から酔っぱらっているのかなと思って駅前を見下ろすと、スーツを着た若い男性が、咽喉も裂けよと言わんばかりに、声を張り上げて歌い自己紹介をしています。そして十数メートル離れたあたりに、それを冷徹な雰囲気でじっと見つめるスーツ姿の男性がいました。もしかすると、これがあの有名な"新人研修"かもしれません。人前で蛮声をあげさせることによって個人のもつ尊厳や誇りを破壊し、上司からの命令に対する疑問を持たせずに絶対服従を強要し、組織に埋没させて部品のように酷使する。肌に粟が生じる光景でした。
 それにしても、会社がここまで個人の尊厳を奪うことが許される日本の社会とは、いったい何なのでしょう。これは学校にも通底する問題です。実は、『いじめの構造 なぜ人が怪物になるのか』(内藤朝雄 講談社現代新書1984)に、実に示唆に富む一文がありましたので紹介します。
 法哲学者の井上達夫は、戦後日本社会について『現代の貧困』(岩波書店)で次のように論じている。日本社会は高度産業資本主義に共同体的な組織編制原理を埋め込んで、経済成長を続けてきた。国家は中間集団の集合的利益の保護や調整のために介入することには積極的だったが、中間集団内部の共同体的専制から個人を保護するために介入する仕事をしようとはしなかった。日本の統治原理上、中間主義共同体から個人を保護する目的では、意図的に法が働かないようにされてきた。その結果、中間集団共同体は利権に関しては国家に強く依存していても、集団内部の個人に対して非法的な制裁を実効的に加えることができ、内部秩序維持に関してはきわめて強い自律性を有することになった。中間集団共同体は従業員に対する人格変造的な「教育」「しつけ」を好き放題に行うことができ、従業員の人格的隷従を前提として、組織運営を行うことができた。
 社畜化ともいうべき悲惨な人格的隷属のひとつひとつは、こと細かく政府によって計画されたものではなかったかもしれないが、ある一定の制度・政策的条件のもとで社会に繁茂し、これを政府は放置した。
 もちろん日本は、国家というレベルで考えると、言論の自由が保障されており、複数政党制の民主的な選挙が行われている先進国である。
 しかしここで、国家全体主義の旧ソ連の労働者と、中間集団全体主義の日本の会社員とを比較してみて、どちらの人間存在がトータルに全体に隷属しているだろうか。社畜コミュニタリアンのきめ細かい忠誠競争やアイデンティティ収奪のほうが、クレムリンのビッグブラザーよりも、はるかに深く、市民的自由を奪い、肉体と魂を強制的に全体に埋め込むことに成功しているのかもしれない。
 昭和初期から敗戦までの日本社会は、国家全体主義も中間集団全体主義もきわめて強かった。一方、戦後日本社会は、国家全体主義がおおむね弱体化したにもかかわらず、学校と会社を媒介して中間集団全体主義が受け継がれて肥大化し、人々の生活を隅から隅まで覆い尽くした社会であった。いわば学校や会社を容れ物にして、国体が護持されてきたのである。(p.255~6)
 中間集団全体主義、これは鋭い指摘です。無法地帯としての中間集団が、従業員に対する人格変造的な「教育」「しつけ」を好き放題に行うことができ、従業員の人格的隷従を前提として組織運営を行うことができるシステム。人びとの人権を踏みにじり、法に拘束されることなく酷使したからこそ、近代化や高度経済成長に成功したのかもしれません。それではなぜ、こうした中間集団から抜け出すことができないのか。『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』(平凡社ライブラリー)の中で、C.ダグラス・ラミス氏は、その理由は「恐怖」だと指摘されています。(p.138~9) 会社に所属して一生懸命に働き続けなければ、貧乏やホームレスになるかもしれないという恐怖。あるいは、病気になったら医者に行かねばならないが、でもその支払いができないかもしれないという恐怖です。そしてそういう恐怖があるのは、社会のセイフティ・ネットが弱いからだとも。なるほど、安倍伍長政権がせっせせっせと福祉予算を削減しているのは、そういう理由なのですね。個人を中間集団に埋没させて、批判精神と改革への志向という牙を抜いてしまう。

 駅のホームに着いても、背後から悲鳴のような歌声が微かに聞こえてきました。まるでこの国に捧げる挽歌のように…

 本日の一枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-02-24 06:23 | 中部 | Comments(0)

富士宮編(7):富士宮(17.2)

 駅から十数分歩くと、富士山本宮浅間大社とお宮横丁に着きました。オープン・スペースを取り囲むように、富士宮焼きそば、静岡おでん、富士山餃子、あげまんじゅうを売るお店が櫛比しておりました。とるものもとりあえず腹ごなし、富士宮やきそば学会直営アンテナショップでご当地B級グルメの富士宮やきそばをいただきました。ウスターソースで味付けされたコシのある麺、ラードを絞った後の肉かす、富士宮の高原キャベツ、鰯の削り粉があいまって、焼きそばの王道とも言うべき剛毅朴訥な味を堪能。なお麺のコシの強さについては、学会の報告によると、一般的な焼きそば麺は蒸した後に一度茹でますが、富士宮やきそばの麺は茹でずに急速に冷やし、油で表面をコーティングするため水分が少なく、独特のコシが生まれるそうです。焼きそばが作られ始めた終戦直後は冷蔵技術が乏しかったので、日持ちや行商に対応させるためこのような製法が確立していったとのこと、麺に歴史ありですね。
 ふと正面を見ると、それはそれは美しい富士山を眺めることができました。富士に焼きそばはよく似合います。
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 そして富士山本宮浅間大社へ、鳥居と富士の定番ショットを撮影。近くには祭神である木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)のキャラクター、「さくやちゃん」の顔はめ看板がありました。
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 本殿を参拝して、恒例の絵馬ウォッチング。「スギヤマ鍼灸院で毎日10人治療し一日でも早く治せるように!」 素晴らしい、ヒポクラテスのようなお方です。「無事にビザがおりますように!!」 事情はよくわかりませんが、微力ながら私もお祈りしておきます。
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 本殿の右には、清冽な雰囲気の湧玉池(わくたまいけ)がありました。解説板を転記しておきます。
 この池は霊峰富士の雪解けの水が溶岩の間から湧き出るもので水温は摂氏十三度、湧水量は一秒間に三.六リットル(約二十石)年中殆ど増減がありません
 昔から富士道者はこの池で身を清めて六根清浄を唱えながら登山するならわしになっております

 つかふべき教にをとらむ
 浅間なる御手洗川の
 そこにわくたま         平兼盛
 それでは富士宮駅へと戻りましょう。境内に「駿州赤心隊」の碑がありましたので、後学のためこちらも転記しておきます。
 富士亦八郎重本 文政九年(1826年)~明治三十年(1897年) は駿州赤心隊を結成、勤皇に献身した。
 富士山本宮浅間大社の大宮司家に生まれ十五歳で江戸に出て、漢学・武術を学ぶ。二十歳で帰郷第四十四代大宮司家を継ぐかたわら塾を開き、国学、漢学、兵学を教える。東征軍に参加、駿州赤心隊を率いて幕軍と戦う。その後、西南戦争に従軍、現靖国神社の前身、東京招魂社の社司となり祭祀を司り最後は東京麹町区長。
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 御手洗橋のあたりで振り返ると、富士の威容がよく見えました。

 本日の三枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-02-23 06:31 | 中部 | Comments(0)

富士宮編(6):富士宮(17.2)

 繰り言はこのへんにして、てくてくと歩いていくと甍の上から富士山の天辺がよく見えます。しばらく歩くと歩道に「塾の送迎は他の車両や近隣住民への迷惑になっています。駐車場での待機をお願いします。」という掲示が貼ってありました。そのすぐ前が「尚学館」という進学塾です。なるほど、悪魔の機械を使って愛する御子息を送迎するわけだ。塾入口には「己を制する者は入試を制す」「真の学力を身につけるなら尚学館」というスローガンが掲げられています。
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 要するに、入試で高得点をとることが学力であるという認識なのですね。カマゲイ講師の西山勝氏(ヒントになるかな)がこうおっしゃっています。
 試験をして門前払いをする学校には、あらかじめ人を評価する冷たさがつきまとう。…試験に受かって自分の能力を誇示し、授業料を払って対価としての知識を要求するのでは、学ぶという姿勢は生まれてこない。成績や学歴という頼りないもののために、自分の人生を手段にしているかに見える若者たちを見ると気の毒になってしまう。
 より良い成績やより高い学歴を得れば、自分の能力を誇示でき、より安逸で物質的に豊かな暮らしも手に入る。そのためにお金を支払い、悪魔の機械で送迎してあげる。これは教育というよりも投資ですね。お金を投資して、高いリターンを期待する。自分が手に入れるリターンがすべて、他者はすべて蹴落とすべき競争相手ということでもありますね。ということは、高い学歴を手中にすれば、もう学ばなくなるわけだ。他者を敵と見做し、安逸な暮らしを実現するための手段として学ぶ人びと。そこには弱者・少数者へとの協同や、社会や世界を少しでもましなものにしようとする意思は、微塵もありません。官僚・財界・政治家にとって、これほど支配しやすい方々はないでしょうね。福島や沖縄の人びと、社会的弱者、在日外国人、かたっぱしから見殺しにして切り捨てようとしている安倍伍長政権を支持する方がかなりいるのは、こうした背景があるのかもしれません。

 本日の一枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-02-22 06:29 | 中部 | Comments(0)

富士宮編(5):富士宮(17.2)

 記念館のとなりでは河津桜がもう咲きはじめていました。それでは伊東駅へと戻りましょう。途中に、津波発生時の避難先を示す掲示がありました。そして伊東駅から伊東線に乗って熱海駅へ。東海道線に乗り換えて沼津へと向かいます。
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 三島あたりから、富士山が頂上までクリアに見えてきました。これはいけそう、期待で胸はふくらみます。そして沼津駅に到着、ここで列車を乗り継ぎますがすこし時間があるので駅前へ出てみました。沼津は以前に訪れたことがあるので今回はカット、駅前に貼ってあった「ゆるキャラ」だけ撮影しておきました。沼津信用金庫の「ころろん」は、富士山をモチーフに女性職員が考案されたそうです。「おとのちゃま」はT-1グランプリのイメージキャラクター。これは、静岡市茶業振興協議会が、小学生にお茶の楽しさとおいしさを知ってもらうために開催しているとのこと。なるほど、tea-1か。参加者が"お茶の○×クイズ"、"お茶の種類あて"、"お茶の入れ方実技"の3種類の競技を行い、日本茶の茶ンピオンを決定するそうです。
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 そしてふたたび東海道線に乗って富士駅へ、身延線に乗り換えて富士宮駅に到着しました。一階にあった観光案内所に寄り、地図をいただき、富士宮焼きそばの美味しい店を訊ねると、富士山本宮浅間大社の前にあるお宮横丁を紹介してくれました。ついでに富士山をよく眺望できる場所をお聞きすると、大社の鳥居と、市役所上階からの眺めが良いそうです。残念ながら土曜日なので市役所には入れないとのこと。うーん、い、け、ず。ツーリストのために入れてくれてもいいのに。念のため、ダブルダイヤモンド富士で有名な田貫湖へ行くバスの時刻表を調べていただくと…一日数本しかありません。悪魔の機械を買わせて、○ヨ○や○ッ○ンのCEOや株主たちを肥え太らせようという腹なのかい、えっ、おい、とからみたくなりました。

 本日の一枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-02-21 06:32 | 中部 | Comments(0)

富士宮編(4):伊東(17.2)

 「伊東観光番」の壁に貼ってあった掲示を見ると、近くに東郷平八郎の別荘、「東郷記念館」があるとのこと、ちょっと寄ってみました。人柄をしのばせるような質素な木造平屋の日本家屋ですが、彼が夫人の療養のために建てた別荘だそうです。
 東郷平八郎と言えば、戦艦「三笠」に乗り込み、日本海海戦を勝利に導いた名将として知られていますが、彼が日米開戦に関わったことはあまり知られていません。『御前会議 昭和天皇十五回の聖断』(大江志乃夫 中公新書1008)という名著をもとに紹介したいと思います。(p.203~8)
 戦争を回避するための日米交渉において、ぎりぎりの対立点が、中国からの全面撤兵というアメリカの要求を日本(近衛文麿内閣)が受諾するかどうかの一点であったことは周知の事実です。東条英機陸相は、撤兵の責任を陸軍が負わないために、海軍に戦争の自信がないと発言させ、撤兵やむなしとの結論を海軍の責任として出させることを考えていたようです。「反対してくれないか」と東条陸相に頼まれたと、及川古志郎海相は証言しています。日米戦争ともなれば主役は海軍で、海軍が反対しているのに、陸軍が撤兵を拒否すれば対米開戦の責任を陸軍が全面的に負うことになります。しかし自信がないにもかかわらず、及川海相は和戦の「決定は総理に一任したい」と発言し、海軍の態度表明を避けてしまいました。
 彼は後に、「私の全責任なり」と述べ、アメリカと戦えないと海軍が言わなかった理由を二つ挙げています。まず、満州事変(1931)のころ、彼の上司である谷口尚真大将が、対英米戦は不可能なので事変に反対しました。これに対して東郷平八郎元帥が、彼を以下のように面罵したそうです。
 軍令部は毎年作戦計画を陛下に奉っておるではないか。いまさら対米戦できぬといわば、陛下に嘘を申し上げたことになる。また東郷も毎年この計画に対し、よろしいと奏上しているが、自分も嘘を申し上げたことになる。今さらそんなことがいえるか?
 神様にひとしい雲上人である東郷元から、上司である谷口に叩きつけられたこの面罵、「このことが自分の頭を支配せり」と及川海相は語っています。なお東郷平八郎は1934年に死去しているので、大江氏は「死せる東郷が生ける海軍を対米戦に走らせ壊滅させた」と評されています。大江氏は、年度作戦計画は想定にもとづく純戦略計画であり、実際の戦争遂行を指導すべき政略である戦争計画とは次元が違い、この発言は支離滅裂であると批判されています。
 もう一つの理由は、「近衛さんに下駄をはかせられるな」という沢本頼雄海軍次官からのアドバイスによるものです。下手に対米戦に反対すると、"保身術にたけた無定見な公卿出身の近衛"から責任を押しつけられる。そうなれば弱気な海軍に対する国民の激烈な批判も予想されます。そこで近衛の口から「対米戦はできない」と言わせれば、海軍の責任は回避できるということです。
 というわけで、陸軍は海軍に、海軍は近衛首相に、それぞれ戦争決意の責任を転嫁し、結局、1941年10月16日、近衛首相はその責任を回避するために内閣総辞職をしました。そして後任の東条英機内閣によって対米戦が遂行されたわけです。やれやれ。
 これは関東大震災時の虐殺とも通底しますが、官僚(軍人も官僚ですね)・政治家の恐るべき無責任さをどう理解すればいいのでしょうか。大局を概観して熟慮し、責任をもって決断し実行するということを回避するという、日本の政治構造の宿痾。いまだに治癒されていないことに恐怖すら覚えます。

 本日の一枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-02-20 07:39 | 中部 | Comments(0)

富士宮編(3):伊東(17.2)

 それでは古い交番へと向かいましょう。松川を渡ると、なにやらメッセージが所狭しとべたべた貼ってあるけったいなスナックに遭遇。ふりかえると、和風とモダン、二つの意匠の望楼がよいアクセントとなった旅館「東海館」が、川面にその威風を映していました。
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 再会を祝して記念撮影。玄関に掲示してあった解説を転記しておきます。
伊東市指定文化財 旧木造温泉旅館東海館

 東海館は伊東温泉を流れる松川河畔にある大正末期から昭和初期の温泉情緒をいまに残す木造三階建て温泉旅館群の一つです。昭和3年(1928)に創業、昭和13年頃(1938)、昭和24年頃(1949)に望楼の増築など、幾度かの増改築を行いながら旅館業を営んでいましたが、平成9年(1997)、70年近く続いた旅館の長い歴史に幕を下ろしました。その後、伊東温泉情緒を残す町並みとしての保存要望もあり、所有者から建物が伊東市に寄贈されることになりました。平成11年(1999)には、昭和初期の旅館建築の代表的な建造物として文化財的価値をもち、戦前からの温泉情緒を残す景観として保存し、後世に残す必要があるという理由から市の文化財に指定されました。平成11年から平成13年にかけて保存改修工事が行われ、平成13年(2001)7月26日、伊東温泉観光・文化施設『東海館』として開館しました。
 創業者の稲葉安太郎氏が材木店を営みながら、国内外の高級な木材を集め、この旅館を建てる際に形や木目などの美しく質の良い木材などをたくさん使っています。昭和13年頃に建築された部分では3人の棟梁を各階ごとに競作させたこともあり、廊下の飾り窓や階段の手すりの柱などにそれぞれ違った職人の技と凝った意匠を見ることができます。他にも、玄関の豪快で力強い彫刻や書院障子の組木のデザイン、照明器具などもみどころです。
 今回は時間がないので、内部の見学はカットしましたが、こちらも再訪を期します。

 そして旧松原交番に到着、現在は「伊東観光番」として観光案内所となっております。なんとなくどんくさく土臭い、愛嬌のある交番です。

 本日の二枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-02-19 08:48 | 中部 | Comments(0)

富士宮編(2):伊東(17.2)

 気になったので、帰宅後にインターネットで調べてみたところ、「レトロな風景を訪ねて」という素晴らしいサイトに出会えました。それによると、このあたりの「猪戸町」、および西小学校付近の「新天地」は、赤線跡だそうです。"赤線"という言葉は安易に使われているようなので、『赤線跡を歩く』(木村聡 ちくま文庫)を参考に説明しておきたいと思います。いわゆる赤線の原型となったのが、内閣の要請・出資を受けて設立されたRAA(Recreation and Amusement Association)という民間団体が、遊郭など既存の施設を転用して"進駐軍"(※占領軍ですよね)向けにつくった慰安施設です。その目的は、"進駐軍"から一般の婦女子を守る"性の防波堤"とすること。かつての日本軍が占領したアジアで女性への強姦・陵辱を頻繁に行ったことが記憶にあったのでしょう、当然アメリカ軍兵士も同様の行為をするにちがいないと考えたのですね。しかし性病の流行や倫理観の相違などから、すぐにGHQは全ての施設にオフ・リミッツ(立入禁止)の看板を掲げ兵隊の出入りを禁止、そのため日本人相手の商売へと鞍替えしました。その直前の1946 (昭和21)年1月、GHQの指令により、日本における管理売春の公娼制度は廃止されましたが、戦後社会の混乱と性風俗の悪化を恐れ、特定の地域を限って私娼による慰安所を設けて営業することが許されることになります。こうした動きがあいまって、吉原・洲崎・玉の井・亀有・立石・新小岩・新宿・千住・品川・武蔵新田・八王子・立川・調布などで産声を上げたのが「赤線」。なおその名の由来は、警察がこの地域を地図に赤線で囲って示したところからきています。そこでは鮮やかなタイルと色ガラス、入口にホールのある独特の様式が生まれ、カフェー調の店が全国の盛り場で流行しましたが、1956 (昭和31)年5月24日売春防止法が公布、翌年4月1日同法の実施により姿を消すことになります。

 伊東の猪戸町・新世界が"赤線"として指定されたのかどうかは確認できませんでしたが、同サイトによると、古い歓楽街の面影を濃密に残す建築が数多く残っているそうです。掲載されている写真を見ても、それらしい雰囲気の建物ばかりです。これまでにも前掲書を片手に、鳩の街玉ノ井洲崎を散策してきましたが、こちらもぜひ徘徊してみたいですね。ほんとうに再訪を期す。また京都にも、「五条楽園」という歓楽街の残り香が漂う街並みがあることを教示していただきました。こちらもぜひ訪れたいと思います。

 なお興味のある方には、類書として『敗戦と赤線 国策売春の時代』(加藤政洋 光文社新書418)もお薦めです。
# by sabasaba13 | 2017-02-18 06:30 | 中部 | Comments(0)