近江編(56):近江八幡(15.3)

 旧岩瀬邸は、かつては診療所だったそうです。観光案内所でいただいた資料を転記します。
 重要伝統的建造物群保存地区内に位置し、岩瀬診療所として町の人々に親しまれた建物である。渡り廊下を介して、左側にはスパニッシュスタイルの洋館(診療所)で玄関周りのディテールはほぼ昔のまま残っている。渡り廊下右側は入母屋屋根で真壁造りの和風住宅であり、左右2棟の調和がうまく図られている。
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 そして最後に八幡商業高校へ、ヴォーリズが来日して最初に英語教師として就任した学校です。この校舎は彼の設計で、滋賀県内でも古い鉄筋コンクリート造の学校建築です。恰幅の良さとスマートさがうまく調和した素敵な建物です。
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 そして自転車を返却して近江八幡駅へ、これから醒ヶ井(さめがい)へと向かいます。琵琶湖線に乗って二十分ほどで米原に到着しここで乗り換えです。少々時間があったので駅のトイレに入ると、ひさしぶりに「便器の的」に出会えました。的は炎、以前に塩山駅前の公衆便所でも見たことがあります。東海道本線に乗り換えて五分ほどで醒ヶ井駅に着きました。
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 ここ醒ヶ井は中山道61番の宿場町で、お目当ては、地蔵川の清流と趣のある街並みです。なお『医学探偵の歴史事件簿』(小長谷正明 岩波新書)に、次のような逸話が紹介されていました。
 ともあれ東国を平定して、尾張の熱田に戻った倭建命は、土地の豪族の娘の美夜受比売(みやずひめ)と契を交わした。それから、伊吹山の荒ぶる神を退治に出かけた。熱田に戻るつもりだったらしく、草薙の剣を比売の元においたままで。結果的に、その剣は熱田神宮のご神体になった。
 命は「この山の神は素手で捕まえてやる」と豪語して山を登りつづけ、途中で牛のように巨大な白猪に出あい、大声で「白猪は神の使い走りだ。今しとめずとも、帰りにひとひねりしてやるぞ」と壮語する。すると大氷雨が降ってきて命は打ち惑わされた。山の神そのものであった大白猪のたたりで、正気を失ったのだ。山を降りて、醒ヶ井あたりでようやく醒めたという。(p.170~1)
 傷ついたヤマトタケルがこの地の清水を飲んで、目が醒めるように元気になったという逸話があるくらい由緒と歴史のある湧水です。この水が地蔵川の源泉となっているそうです。
# by sabasaba13 | 2017-12-11 07:28 | 近畿 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 47

 寺田寅彦は、『流言蜚語』の中で科学的・論理的な批判を行なっています。
 長い管の中へ、水素と酸素とを適当な割合に混合したものを入れておく、そうしてその管の一端に近いところで、小さな電気の火花を瓦斯の中で飛ばせる、するとその火花のところで始まった燃焼が、次へ次へと伝播して行く、伝播の速度が急激に増加し、遂にいわゆる爆発の波となって、驚くべき速度で進行して行く。これはよく知られた事である。
 ところが水素の混合の割合があまり少な過ぎるか、あるいは多過ぎると、たとえ火花を飛ばせても燃焼が起らない。尤も火花のすぐそばでは、火花のために化学作用が起るが、そういう作用が、四方へ伝播しないで、そこ限りですんでしまう。
 流言蜚語の伝播の状況には、前記の燃焼の伝播の状況と、形式の上から見て幾分か類似した点がある。
 最初の火花に相当する流言の「源」がなければ、流言蜚語は成立しない事は勿論であるが、もしもそれを次へ次へと受け次ぎ取り次ぐべき媒質が存在しなければ「伝播」は起らない。従っていわゆる流言が流言として成立し得ないで、その場限りに立ち消えになってしまう事も明白である。
 それで、もし、ある機会に、東京市中に、ある流言蜚語の現象が行われたとすれば、その責任の少なくも半分は市民自身が負わなければならない。事によるとその九割以上も負わなければならないかもしれない。何とならば、ある特別な機会には、流言の源となり得べき小さな火花が、故意にも偶然にも到る処に発生するという事は、ほとんど必然な、不可抗的な自然現象であるとも考えられるから。そしてそういう場合にもし市民自身が伝播の媒質とならなければ流言は決して有効に成立し得ないのだから。
 「今夜の三時に大地震がある」という流言を発したものがあったと仮定する。もしもその町内の親爺株の人の例えば三割でもが、そんな精密な地震予知の不可能だという現在の事実を確実に知っていたなら、そのような流言の卵は孵化らないで腐ってしまうだろう。これに反して、もしそういう流言が、有効に伝播したとしたら、どうだろう。それは、このような明白な事実を確実に知っている人が如何に少数であるかという事を示す証拠と見られても仕方がない。

 大地震、大火事の最中に、暴徒が起って東京中の井戸に毒薬を投じ、主要な建物に爆弾を投じつつあるという流言が放たれたとする。その場合に、市民の大多数が、仮りに次のような事を考えてみたとしたら、どうだろう。
 例えば市中の井戸の一割に毒を投ずると仮定する。そうして、その井戸水を一人の人間が一度飲んだ時に、その人を殺すか、ひどい目に逢わせるに充分なだけの濃度にその毒を混ずるとする。そうした時に果してどれだけの分量の毒薬を要するだろうか。この問題に的確に答えるためには、勿論まず毒薬の種類を仮定した上で、その極量を推定し、また一人が一日に飲む水の量や、井戸水の平均全量や、市中の井戸の総数や、そういうものの概略な数値を知らなければならない。しかし、いわゆる科学的常識というものからくる漠然とした概念的の推算をしてみただけでも、それが如何に多大な分量を要するだろうかという想像ぐらいはつくだろうと思われる。いずれにしても、暴徒は、地震前からかなり大きな毒薬のストックをもっていたと考えなければならない。そういう事は有り得ない事ではないかもしれないが、少しおかしい事である。
 仮りにそれだけの用意があったと仮定したところで、それからさきがなかなか大変である。何百人、あるいは何千人の暴徒に一々部署を定めて、毒薬を渡して、各方面に派遣しなければならない。これがなかなか時間を要する仕事である。さてそれが出来たとする。そうして一人一人に授けられた缶を背負って出掛けた上で、自分の受持方面の井戸の在所を捜して歩かなければならない。井戸を見付けて、それから人の見ない機会をねらって、いよいよ投下する。しかし有効にやるためにはおおよその井戸水の分量を見積ってその上で投入の分量を加減しなければならない。そうして、それを投入した上で、よく溶解し混和するようにかき交ぜなければならない。考えてみるとこれはなかなか大変な仕事である。
 こんな事を考えてみれば、毒薬の流言を、全然信じないとまでは行かなくとも、少なくも銘々の自宅の井戸についての恐ろしさはいくらか減じはしないだろうか。
 爆弾の話にしても同様である。市中の目ぼしい建物に片ッぱしから投げ込んであるくために必要な爆弾の数量や人手を考えてみたら、少なくも山の手の貧しい屋敷町の人々の軒並に破裂しでもするような過度の恐慌を惹き起さなくてもすむ事である。
 尤も、非常な天災などの場合にそんな気楽な胸算用などをやる余裕があるものではないといわれるかもしれない。それはそうかもしれない。そうだとすれば、それはその市民に、本当の意味での活きた科学的常識が欠乏しているという事を示すものではあるまいか。

 科学的常識というのは、何も、天王星の距離を暗記していたり、ヴィタミンの色々な種類を心得ていたりするだけではないだろうと思う。もう少し手近なところに活きて働くべき、判断の標準になるべきものでなければなるまいと思う。
 勿論、常識の判断はあてにはならない事が多い。科学的常識は猶更である。しかし適当な科学的常識は、事に臨んで吾々に「科学的な省察の機会と余裕」を与える。そういう省察の行われるところにはいわゆる流言蜚語のごときものは著しくその熟度と伝播能力を弱められなければならない。たとえ省察の結果が誤っていて、そのために流言が実現されるような事があっても、少なくも文化的市民としての甚だしい恥辱を曝す事なくて済みはしないかと思われるのである。(大正13[1924]年9月) 『天災と国防』(講談社学術文庫) p.125~129

# by sabasaba13 | 2017-12-10 07:42 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

近江編(55):近江八幡(15.3)

 切れ味鋭い意匠の市立資料館は、かつての八幡警察署でした。1953年にヴォーリズによって改修設計されたとのことです。
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 そしてのんびりとペダルをこぎながら、古い町並みと八幡堀の景観を堪能。
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 アンドリュース記念館(旧YMCA会館)は、和洋折衷にスパニッシュ風味がかかった不思議な建物です。1907(明治40)年に、ヴォーリズが日本で最初に設計をした建物で、彼に導かれてキリスト教信者となり若くして亡くなった親友ハーバート・アンドリューの遺族より贈られた資金を元に、ヴォーリズの貯蓄金全てを捧げて建てたそうです。
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 近江八幡教会はシャープでモダンな印象ですが、ヴォーリズの設計ではありません。ただその由来が興味深いので、後学のため解説板を転記します。
 1879年6月同志社新島襄らにより、滋賀県彦根にキリスト教が伝えられ、その後1888年「八幡講義所」が設立され、1901年5月9日「八幡組合基督教会」が創立されました。
 ウィリアム・メレル・ヴォーリズは、1905年滋賀県立商業学校(現:八幡商業高等学校)の英語教師として来幡し、1907年2月には「八幡基督教教育青年会館」(現:アンドリュース記念館)を建設しました。同年9月に現アンドリュース記念館に隣接した現在の場所に最初の教会堂を建設しました。以後、キリスト教は県下各地に宣べ伝えられました。
 1981年12月に教会堂が失火により全焼、1983年5月8日に一粒社ヴォーリズ建築事務所の設計により現在の教会堂は再建されました。
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 旧近江兄弟社「地塩寮」もヴォーリズの設計です。解説板を転記します。
 1940年6月(昭和15年)近江兄弟社の独身青年社員宿舎としてヴォーリズ氏により建てられました。寮の名は「あなたがたは地の塩である」という聖書の言葉に由来します。1階は社員の語らいの場であったロビーと5つの個室、2階も同様の個室を有します。
 住む人の健康な生活を願い、各室は南側の庭に面し太陽の光を十分に取り入れるなどの工夫がなされています。
 1984年(昭和59年)、近江兄弟社と関係の深い近江八幡教会が取得し、翌年改築されました。
 現在、1階は教会の集会や会議に使われ、2階は牧師家族の住居として用いられています。外観は現在も建築当時のままの姿を残しております。
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# by sabasaba13 | 2017-12-09 06:57 | 近畿 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 46

 次に、『女工哀史』を書いた細井和喜蔵の妻・高井としをの自伝です。『わたしの「女工哀史」』(岩波文庫)から引用します。
 二日目の夕方にアパートへ帰り、お米も残っていたのでご飯を炊き、塩をつけておにぎりをつくり、夜は元のハス池のところへもどり、野宿をしました。三、四日目ころから、朝鮮の人をつかまえて小松川の方へ連れて行くのを見ました。朝鮮人が井戸へ毒を入れたなぞといっているのをききました。在郷軍人だか右翼だか警官だか、その時はわかりませんでした。多い時には朝鮮の人を二十人、三十人ぐらいずつ麻のひもでじゅずつなぎにして、木刀や竹刀でなぐりながら、小松川の方へ連れて行くのを見ました。池のなかへ逃げ込んだ朝鮮の人が、大きなハスの葉の下へもぐっているのを見て、ほんとうにお気の毒で言葉もでませんでした。見かねてにぎりめしと水を少しあげたら、手をあわせておがんでおられましたが、恐ろしいことでした。(p.80)

 七日目ぐらいになると余震も少し間をあけるようになり、アパートへ帰ろうかと思っている時でした。細井の友人で、同人誌に詩を書いている山本忠平さんが、坊主頭で紺の印ばんてんに縄帯姿で現われました。「君たち、こんなところでなにしていたのか。早く逃げないと殺されるぞ。南葛労働組合の執行部は全員殺された。僕も今から田舎へ行く。とにかく早く逃げろ。アパートへ荷物をとりに行ったらつかまるぞ」といって、お別れしたのです。(p.81)
 映画監督の黒澤明も、自伝『蝦蟇の油』(岩波現代文庫)の中でこう回想しています。
 町内の家から一人ずつ、夜番が出ることになったが、兄は鼻の先で笑って、出ようとしない。
 仕方がないから、私が木刀を持って出ていったら、やっと猫が通れるほどの下水の鉄管の傍へ連れていかれて、立たされた。
 ここから朝鮮人が忍びこむかも知れない、と云うのである。
 もっと馬鹿馬鹿しい話がある。
 町内のある井戸水を、飲んではいけないと云うのだ。
 何故なら、その井戸の外の塀に、白墨で書いた変な記号があるが、あれは朝鮮人が井戸へ毒を入れたという目印だと云うのである。
 私は惘れ返った。
 何をかくそう、その変な記号というのは、私が書いた落書だったからである。
 私は、こういう大人達を見て、人間というものについて、首をひねらないわけにはいかなかった。(p.94~5)
 萩原朔太郎は「近日所感」という詩をのこしました。
 朝鮮人あまた殺され
 その血百里の間に連なれり
 われ怒りて視る、何の惨虐ぞ (『現代』1924(大正13)年2月号)

# by sabasaba13 | 2017-12-08 06:25 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

近江編(54):近江八幡(15.3)

 自転車を返却して、彦根駅から琵琶湖線新快速に乗って十四分ほどで近江八幡駅に到着です。一昨日の探訪で見残したいくつかのヴォーリズ物件を見て回ることにしましょう。前回と同様(書き忘れた気もしますが)駅近くにある「駅リンくん」で自転車を借りて、まず向かったのは旧近江家政塾(石橋邸)です。直交する屋根と「焼き過ぎ膨張レンガ」の塀が印象的。資料の解説を転記します。
 キリストの精神に基づき、実力ある婦人の養成を身につける目的とした教育事業の学校であった。吉田悦蔵氏の妻、清野夫人が料理等、街の婦人教養を目的に近江家政塾として建てた。大屋根を架けた外観は和風で、床は板張り、大きく開口部をとり、教室を明るくした。ミッション教育事業の一翼を担うことになった。
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 すぐ近くにある旧広瀬邸は「bistro だもん亭」として再利用されていました。同じ資料から引用します。
 木造2階建て、日本瓦葺きで外壁は真壁である。窓のデザインは建築当時の木製の両開き窓を現代風にアレンジしている。玄関は南側に位置する。室内はヴォーリズ建築の特徴が随所に残っており、住み心地を重視したヴォーリズのヒューマニズム溢れる空間を感じることができる。
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 ピカチュウの飛び出し人形を撮影して、しばらくペダルをこぐと「朝鮮人街道」という石柱がありました。
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 解説文を転記します。
朝鮮人街道(京街道)
 江戸時代、将軍が交代するたびに朝鮮国より国王の親書をもって来日する「朝鮮通信使」は、役人の他にも文人や学者など、多い時には500人規模で組織され、往復で約1年もの歳月を費やしたと言われています。
 行程はソウルから江戸までの約2,000キロにもなりますが、近江八幡を含む、彦根から野洲までの一部の地域で「朝鮮人街道」と今も呼ばれています。
 本願寺八幡別院(市内北元町)では正使、そして京街道(当地域)一帯で随員の昼食や休憩場所として使われ、当時の町人はまちを挙げて歓迎し、文化交流がさかんに行なわれました。
 朝鮮通信使に関する史跡などは、これまでに牛窓豊橋勝本(壱岐)厳原(対馬)室津下蒲苅島清見寺など、各地で出会いました。両国それぞれの思惑はあるでしょうが、基本的に友好的な関係を保った歴史を忘れないようにしたいものです。
# by sabasaba13 | 2017-12-07 06:33 | 近畿 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 45

 非戦・平和・信仰の自由を訴え続けたキリスト教思想家・柏木義円の舌鋒は鋭いです。
 …流言蜚語の馬鹿らしさ苟くも健全なる頭脳の持主の信ず可き事柄にては無之… (④p.114)

 …早晩其真相を明かにして此妄想を一掃不致し永く何時迄も臭い物に蓋致し、有耶無耶に致置候ては後に大害を貽(のこ)すことゝ存候。流言蜚語の出所に想到候時は戦慄を禁じ兼候。(④p.114)

◎殺す勿れ
 今回の大震災秩序混乱の際に乗じ幾多の乱暴が行はれたが世に火事場泥棒と云ふこともあれば、其間に強盗窃盗強迫放火等が行はれても浜の真砂の数多き横着者の絶へない間は亦止むを得ないことであろう。併し亀戸事件や甘粕事件其他どさくさ紛れに世に知られずして闇から闇に葬り去られたる此種類似の事や、鮮人虐殺事件等に至つては国家の為め社会の為めと云ふ名を以て官憲や良民が之を為し、一部社会が之を是認し少くとも之に共鳴同情するのだからこれ実に由々敷一大事で軽々に看過す可きではない。此は軍隊教育の余毒、偏狭なる国家主義教育の余弊、軍国主義の悪影響であることは勿論であらうが、去るにても今回虐殺事件の被告が、私の為に殺したのではなく国の為めとか世の為めとか思つて殺したのだから寧ろ褒められさうなもの、さうでなくともドサクサ紛れにやつたのだから大目に見て置かれさうなものを意外にも検挙されたのは馬鹿を見た、こんなことなら無駄骨折な、せねばよかつた位の後悔で無辜の人を殺して済まなかつたとの、良心に由れる本当の悔改らしきものゝ見へないのは、日本人は本当に人の生命の貴いことを知らないのであるが、これは国民教育=国民性の大欠陥と謂はねばなるまい一派の徒は自警団の殺人暴行を剛健の気象の発露とか、尚武の精神とか云ふて喜んで居る。此れ吾人が今特に此題を掲げて論ずる所以である。(『上毛教界月報』 1923.12.15) (④p.115~6)
 そして布施辰治とともに国家権力と闘った弁護士、山崎今朝弥の文章です。『地震・憲兵・火事・巡査』(岩波文庫)から引用します。
 僕のここで是非言って見たい事は、あの地震と火事は、どうして何処から起ったものか、それはどうしても防げなかったものか。その時の流言蜚語はどこから降って何処から湧いたか。戒厳令は果して当を得た処置であったか、その功罪は果してどうであったか。鮮人問題と支那人問題、附たり過激派と社会主義者。大災に発露した無産者の人情美、それに付けても有産者には人情があるものか。知識階級とは無識者の謂か。新聞社の見識のない事と意気地のない事。国士どころか豆粕にも到らぬ軍人の粕、人間の粕。(p.220)

 ただでさえ気が荒み殺気が立って困っている処へ、剣突鉄砲肩にしてのピカピカ軍隊に、市中を横行闊歩されたでは溜ったものでない。戒厳令と聞けば人は皆ホントの戒厳と思う。ホントの戒厳令は当然戦時を想像する。無秩序を連想する、切捨て御免を観念する。当時一人でも、戒厳令中人命の保証があるなど信じた者があったろうか。何人といえども戒厳中は、何事も止むを得ないと諦めたではないか。(p.223)

 実に当時の戒厳令は、真に火に油を注いだものであった。何時までも、戦々恟々たる民心を不安にし、市民をことごとく敵前勤務の心理状態に置いたのは慥かに軍隊唯一の功績であった。(p.223)

 軍閥者流は折角失墜した、その信用と威光を再び回復するため軍略的に仮想敵国を設けて人心を緊張せしめ、変乱を未発に防いだ功を独擅し、以て民心を収攬し、気を軍閥に傾けしめんと企んだのである。(p.225~6)

 日本人にはナゼ愛国心のある奴が一人もないか、ナゼ目先の見える者がないか、ナゼ遠大の勘定を知らないか、ナゼ早く悪い事は悪いと陳謝ってしまわないか。当時の詔勅を読むがよい、日韓併合は日本ばかりのためではなかった。単なる領土拡張のためにする帝国主義から来たものでもなかった。民法でも府県制でも、果たまた市町村制でも読んで見るがよい、自治も独立も意味は同じで異なる事はない。鮮人問題解決の唯一の方法は、早く個人には充分損害を払い、民族には直ちに自治なり独立なりを許し、以て誠心誠意、低頭平心、慰藉謝罪の意を表するより外はない。(p.234~5)

 一つの悪事を隠蔽するためには幾つも悪事を犯さねばなりません。(p.241)

 今、日本が米国に併呑され、米国人が日本及び日本人を軽蔑しまたは虐待するなら、僕はキットその時、日本の独立運動に狂奔するに相違ない。印度や愛蘭以上の深刻激烈なものであるに相違ない。そうして、先ず第一に独立運動を愛国主義だのと嘲笑する日本人に向かって、生命がけの戦争を開始するに相違ない。解放運動があらゆる桎梏から逃れることが目的である以上民族的隷属に基づく軽蔑や虐待からも解放さるべく、先ず独立運動を捲き起すのは当然だ。僕は今朝鮮問題を考えて真に「自分を抓って人の痛さを知れ」ということをシミジミ日本人として感ずる。(p.276)

 過般の震火災に際し行われたる鮮人に関する流言蜚語については、実に日本人という人種はドコの成り下りか知らないが、実に馬鹿で臆病で人でなしで、爪のアカほどの大和魂もない呆れた奴だと思いました。その後のことは切歯痛憤身震いがします。(p.277)

 吾々は昨年九月の震災を、この一周年に当り如何に記念すべきか、という『読売新聞』の課題に対し、選外壱等に当選さるべきものとして大正十三年八月一日書いた原稿。
(一) 朝鮮人の殺された到る処に鮮人塚を建て、永久に悔悟と謝罪の意を表し、以て日鮮融和の道を開くこと。しからざる限り日鮮親和は到底見込みなし。
(二) 司令官本部に宗一地蔵を建立し、永遠に無智と無謀と幼児の冥福とを祈り、以て排日問題の根本口実を除去すること。米国排日新聞の日本に対する悪口はことごとくこれに原因すればなり。
(三) セッテンデーもしくは亀戸労働祭を挙行し、亀戸警察で軍隊の手に殺された若い労働者の魂を猛烈に祭ること。日本の労働者だからよいようなものの、噴火口を密閉したのみで安泰だと思ってるは馬鹿の骨頂だ。何時か一時に奮然として爆裂するは当然過ぎるほど当然である。(p.278)

# by sabasaba13 | 2017-12-06 06:29 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

近江編(53):彦根(15.3)

 彦根駅近くには「自衛隊滋賀地方協力本部 彦根地域事務所」「自衛隊ショールーム」がありましたが、自衛隊については過去の記事をご笑覧ください。「社会貢献も、国際貢献も、平和をめざす私たちの大切なテーマです」「平和を愛する人が欲しい」というスローガンが空しく響きます。♪The answer my friend is blowin' in the wind.♪

 彦根駅前には井伊直政公像がありました。
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 解説文を転記します。
 永禄4年(1561年)現在の静岡県井伊谷に生まれ、幼少の頃から文武両道に励み、慶長5年(1600年)に徳川四天王の一人として天下分け目の合戦で知られる関ケ原の戦で功をあげ、石田三成の居城であった佐和山城を与えられ、18万石の大名となった。
 その後、城を現在の彦根山へ移そうとしたが、同7年(1602年)41歳で病没し、子らが直政の遺志を受け継ぎ二十年の歳月を費やし元和8年(1622年)彦根城を完成させた。
 こうして、彦根三十五万石初代藩主井伊直政公は、今日の彦根市発展の礎を築いたのである。
 えーと、たしかNHK大河ドラマ『おんな城主直虎』の主人公、井伊直虎の養子となって井伊家を継いだ方ですね。この手の歴史ドラマにはまったく食指が動かないのでどうでもいいのですが。それにしてもNHK大河ドラマは、権力に抗ったひとびと、例えば田中正造幸徳秋水布施辰治をとりあげませんね。当然と言えば当然ですが。
# by sabasaba13 | 2017-12-05 07:20 | 近畿 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 44

 徳富蘇峰が『国民新聞』(1923.9.29)に掲載した「流言飛語」です。
 流言飛語は、専制政治の遺物。支那、朝鮮に従来有り触れたる事也。蝙蝠は暗黒界に縦横す。吾人は青天白日に、蝙蝠の飛翔するを見ず。
 公明正大なる政治の下には所謂る処士横議はあり、所謂る街頭の輿論はあり。然も決して流言飛語を逞ふせんとするも、四囲の情態が、之を相手とする者なければ也。
 今次の震災火災に際して、それと匹す可き一災は、流言飛語災であつた。天災は如何ともす可らず。然も流言飛語は、決して天災と云ふ可らず。吾人は如上の二災に、更らに後の一災を加へ来りたるを、我が帝国の為めに遺憾とす。
 吾人は震災火災の最中に出て来りたる山本内閣に向て、直接に流言飛語の責任を問はんとする者でない。併し斯る流言飛語―即ち朝鮮人大陰謀―の社会の人心をかく乱したる結果の激甚なるを見れば残念ながら我が政治の公明正大と云ふ点に於て、未だ不完全であるを立証したるものとして、また赤面せざらんとするも能はず。
 既往は咎めても詮なし。せめて今後は我が政治の一切を硝子板の中に措く如く、明々白々たらしめよ。陰謀や、秘策にて、仕事をするは、旧式の政治たるを知らずや。
 蘇峰の弟・徳冨蘆花は、烏山での虐殺を聞き、随筆のなかでこう語っています。
 鮮人騒ぎは如何でした? 私共の村でもやはり騒ぎました。けたたましく警鐘が鳴り、「来たぞゥ」と壮丁の呼ぶ声も胸を轟かします。隣字の烏山では到頭労働に行く途中の鮮人を三名殺してしまいました。済まぬ事羞かしい事です。(『みみずのたはこと(下)』  岩波文庫 p.143)
 フランス駐日大使にして詩人でもあったポール・クローデルは、こう述べています。ちなみに彼は、彫刻家カミーユ・クローデルの弟ですね。
 災害後の何日かのあいだ、日本国民をとらえた奇妙なパニックのことを指摘しなければなりません。いたるところで耳にしたことですが、朝鮮人が火災をあおり、殺人や略奪をしているというのです。こうして人々は不幸な朝鮮人たちを追跡しはじめ、見つけしだい、犬のように殺しています。私は目の前で一人が殺されるのを見、別のもう一人が警官に虐待されているのを目にしました。宇都宮では16人が殺されました。日本政府はこの暴力をやめさせました。しかしながら、コミュニケのなかで、明らかに朝鮮人が革命家や無政府主義者と同調して起こした犯罪の事例があると、へたな説明をしています。(『孤独な帝国 日本の1920年代』 草思社)
 神楽坂における虐殺を目撃して衝撃を受けた中島健蔵(文芸評論家)は、『昭和時代』(岩波新書275)の中でこう述べています。
 現に知れわたっている関東大震災の悲劇は、大正、昭和にかけての日本残虐史の絵巻の中でも、ひときわ目立つ。わたくしは、ここに、もっとも大きな悲劇の出発点があったと認めるのである。法秩序を無視する残虐が公然とおこなわれ、甘粕一人をのぞいて、たれ一人直接の責任を問われなかったというような事態は、まさに、現代では大震災のときにはじまったと考えているからだ。
 わたくしは、警察署の板塀に張り出された布告を自分の目で見た。あんな布告が国家権力の末端の名において張り出されさえしなかったら、そしてむしろ逆に彼らがはじめから流言をおさえる方にまわっていたら、明らかに事態はちがったものになっていたはずである。(p.21)

 ここに、あのときの雰囲気の基盤があった。そして、その基盤は、さらに、国民大衆の中にあった雰囲気によって支えられていた。国家権力に対する盲従、新しいものに対する嫌悪、そして、「邪魔者は殺せ」という感情。これはもちろん、日本特有のものではない。しかし、もしも、もう少し大きな声で、もう少し大勢の人数で、この雰囲気をつぶすことができたら、日本の現代史は別のものになっていたはずである。(p.24)

# by sabasaba13 | 2017-12-04 06:30 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

近江編(52):彦根(15.3)

 天守の外へ出ると、着ぐるみの「ひこにゃん」が現われ、遠足できていた子どもたちに囲まれていました。それでは彦根駅へと戻りましょう。自転車にまたがり少し走ると、彦根城を頂いたご当地ポストを発見。
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 その先には大老・井伊直弼の歌碑がありました。
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 後学のために解説を転記します。
井伊大老(直弼)歌碑

あふみ(近江)の海 磯うつ浪の いく度か 御世にこころを くだきぬるかな

 安政7年(1860年)正月、直弼は、正装姿の自分の画像を御用絵師狩野永岳に描かせ、この自詠の和歌を書き添えて、井伊家菩提寺の清涼寺に納めたと伝えられる。
 この歌は、琵琶湖の波が磯に打ち寄せるように、世のために幾度となく心を砕いてきたと、幕府大老として国政に力を尽くしてきた心境をあらわしている。
直弼は、この二ヶ月後の3月3日、江戸城桜田門外で凶刃に倒れた。
 井伊直弼に関しては、毀誉褒貶、いろいろな評価があります。しかしここは、マルク・ブロックの"ロベスピエールをたたえる人も、にくむ人も、後生だからお願いだ。ロベスピエールとはなにものであったのか、それだけを言ってくれたまえ"という言を借りて、彼が何者であったのかを確認したいと思います。幕末維新研究の泰斗、田中彰は『日本の歴史⑮ 開国と倒幕』(集英社)の中で、以下のように述べています。
 1857年(安政4)6月の老中阿部正弘の死去のあと、幕閣の実権は老中堀田正睦(佐倉藩主)に移り、彼は開国政策を支持した。その背後には溜間詰(江戸城内黒書院の溜間で、登城してここに詰める大名を溜間詰、略して溜詰ともいう)の家門・譜代大名がおり、その指導権は彦根藩主井伊直弼が握っていた。これと対立したのが1853年(嘉永6)のペリー来航以来、攘夷主義の立場をとっていた徳川斉昭以下松平慶永、島津斉彬らに代表される大廊下詰家門大名、大広間詰外様大名の一派であった。
 当時、廃人同様といわれた第十三代将軍家定の継嗣問題をめぐってもこの二派は対立し、外交問題と内政問題とが結びつくことによって、この二派の対立はいっそう先鋭化した。
 つまり幕閣の独裁をおさえ、諸雄藩合議制を主張する家門・外様大名の一派は、一橋慶喜(斉昭の第七子)を将軍のあとつぎにしようとし(一橋派)、井伊ら幕閣独裁をとろうとした家門・譜代大名の一派は、紀州藩主徳川慶福(のち家茂)を擁立した(南紀派)。両派とも朝廷工作をすすめ、その暗闘のなかで南紀派の策謀が功を奏したのである。井伊が大老に就任し、独断専行、慶福を将軍継嗣に決定するとともに、威嚇と督促を重ねて迫る初代駐日総領事タウンゼント・ハリスに対しては、勅許をえないままに日米通商条約を調印した(1858年、安政5年6月)。
 継嗣問題で敗れた一橋派は、井伊の違勅調印を理由に、いっせいに井伊攻撃に立ち上がった。「違勅」には「尊王」を、「開国」には「攘夷」を対置した。「攘夷」は反幕閣・反井伊のスローガンになったのである。
 斉昭・慶喜親子や徳川慶恕、松平慶永らが不時登城して井伊を詰問すれば、梁川星巌、梅田雲浜、頼三樹三郎、池内大学らの志士たちは京都に参集して反幕的気運を盛り上げた。孝明天皇も激怒して譲位の意向を示し、1858年(安政5)8月には、条約調印に不満を示す勅諚(戊午の密勅)を水戸藩に下した。朝廷内部にも上級佐幕派公卿と下級攘夷派公卿とが対立し、後者は「列参」(集団行動)という示威行動をとるにいたった。
 この事態に幕府の危機をみた井伊は徹底的な弾圧策をとったのである。井伊の論理は、政治は朝廷から幕府に委任されているのであり、外圧の危機に「臨機の権道」をとるのは当然だとし、勅許を待たない重罪は甘んじて自分一人が負うというものだった。それだけに反対陣営に対しては、大老職に政治生命を賭けて対応したのである。だから、その政治行動は迅速果敢、強烈な政治意志の発現たる強圧的な弾圧策として断行された。
 しかし、その政治意志が幕藩体制の保守的な伝統の維持として貫かれようとする限り、客観的にはかえって矛盾を深化・拡大させる結果となった。(p.114~7)
 外圧という非常時的な危機と「攘夷」の不可能性へのリアルな認識、それを回避して国家を守るためにはあらゆる手段を取るという情熱、その結果に対する真摯な責任感。井伊直弼が一流の政治家であったことは間違いないと思います。ただ彼が守ろうとしたものは、譜代大名による権力独占の現状維持(ステータス・クオ)でした。よってその権力独占を打破しようとする反対勢力との間に、権力の配分をめぐるきわめて政治的な闘争が発生しました。ただこの両勢力には、権力を奪取したうえで何を目指すのかという視点が決定的に欠落していたと思います。たとえば民衆の安寧をも含んだ日本の独立維持という、より高次の目標がなかったのではないか。幕府の権力と暴力装置を過信した井伊は、反対勢力に凄惨な弾圧を加え、最後はその報復として凶刃に倒れます。
 己の力への過信、反対勢力の力量への過小評価、そして権力を使って何を実現するのかという目標の不在、これらが井伊の失敗の原因ではないでしょうか。マックス・ヴェーバーは『職業としての政治』(岩波文庫)の中でこう述べています。
 情熱は、それが「仕事」への奉仕として、責任性と結びつき、この仕事に対する責任性が行為の決定的な規準となった時に、はじめて政治家をつくり出す。そしてそのためには判断力-これは政治家の決定的な心理的資質である-が必要である。すなわち精神を集中して冷静さを失わず、現実をあるがままに受けとめる能力、つまり事物と人間に対して距離を置いてみることが必要である。「距離を失ってしまうこと」はどんな政治家にとっても、それだけで大罪の一つである。(p.78)
 "状況に対する距離感の喪失"、他山の石としましょう。
# by sabasaba13 | 2017-12-03 08:42 | 近畿 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 43

 この虐殺について、同時代人はどう見てどう考えたのでしょう。管見の限りですが、いくつか紹介したいと思います。

 まず内村鑑三です。9月22日の日記に、「民に平安を与ふる為の軍隊であると思へば、敬せざるべからず、愛せざるべからず」とあります。戒厳令と軍隊出動に感謝するとともに、自身も自警団に入って夜警を勤めています。(④p.113)

 田山花袋は、朝鮮人が追われて、花袋家の縁の下に逃げ込んだのを「引きずり出してなぐってやった」と語ったのを『中央公論』の編集者・木佐木勝氏が日記に記録しています。(④p.117)

 微妙なのが宮沢賢治です。当時賢治は、日蓮宗の立場から様々な改革を唱える田中智学に傾倒し、智学が主宰する国柱会の会員でした。ちなみに石原莞爾も会員でしたね。田中智学は、朝鮮人排撃を主張し「鮮人暴動」など無根の報道を流布する『天業民報』を発行していますが、賢治はそれを町の辻々に張りまわっています。彼自身が朝鮮人への排撃を主張した文章は発見されていませんが、不可解なことがあります。筑摩書房の全集(1995年)書簡の部で、1922(大正11)年から丸三年間の分が、そっくり抜けているそうです。この書簡の中に、謎を解く鍵があるのかもしれません。(④p.120~2)

 作家の志賀直哉は、「震災見舞」の中でこう書いています。
 軽井沢、日の暮れ。駅では乗客に氷の接待をしていた。東京では朝鮮人が暴れ廻っているというような噂を聞く。が自分は信じなかった。
松井田で、警官二三人に弥次馬十人余りで一人の朝鮮人を追いかけるのを見た。
「殺した」すぐ引き返して来た一人が車窓の下でこんなにいったが、あまりに簡単過ぎた。今もそれは半信半疑だ。
 高崎では一体の空気がひどく険しく、朝鮮人を七八人連れて行くのを見る。
 ………………………
 そして大手町で積まれた電車のレールに腰かけ休んでいる時だった。ちょうど自分の前で、自転車で来た若者と刺子を着た若者が落ち合い、二人は友達らしく立ち話を始めた。
 「―叔父の家で、俺が必死の働きをして焼かなかったのがある―」刺子の若者が得意気にいった。「―鮮人が裏へ廻ったてんで、すぐ日本刀を持って追いかけると、それが鮮人でねえんだ」刺子の若者は自分に気を兼ねちょっとこっちを見、言葉を切ったが、すぐ続けた。「しかしこういう時でもなけりゃあ、人間は殺せねえと思ったから、とうとうやっちゃったよ」二人は笑っている。ひどい奴だとは思ったが、平時(ふだん)そう思うよりは自分も気楽な気持ちでいた。
 ………………………
 鮮人騒ぎの噂なかなか烈しく、この騒ぎ関西にも伝染されては困ると思った。なるべく早く帰洛することにする。一般市民が朝鮮人の噂を恐れながら、一方同情もしていること、戒厳司令部や警察の掲示が朝鮮人に対して不穏な行いをするなという風に出ていることなどを知らせ、幾分でも起るべき不快(いや)なことを未然に避けることができれば幸いだと考えた。そういうことを柳(※宗悦)にも書いてもらうため、Kさんに柳のところにいってもらう。
 反骨のジャーナリスト・宮武外骨が書いた「日鮮不融和の結果」です。(『震災画報』より ちくま学芸文庫)
 今度の震災当時、最も痛恨事とすべきは鮮人に対する虐遇行為であった。
その誤解の出所は不明としても、不逞漢外の鮮人を殺傷したのは、一般国民に種族根性の失せない人道上の大問題である。
 要は官僚が朝鮮統治政策を誤っている余弊であるにしても、我国民にも少し落ちついた人道思想があったならば、かほどまでには到らなかったであろう。
 根も葉もない鮮人襲来の脅しに愕いて、自警団が執りし対策は実に極端であった。誰何して答えない者を鮮人と認め、へんな姓名であると鮮人と認め、姓名は普通でも地方訛りがあると鮮人と認め、訛りがなくても骨相が変っていると鮮人と認め、骨相は普通でも髪が長いから鮮人だろうと責め、はなはだしいのは手にビール瓶か箱をもっていると毒薬か爆弾を携帯する朝鮮人だろうとして糾問精査するなど、一時は全く気狂沙汰であった。
 北海道から来た人の話によると、東京から同地へ逃げた避難者は警察署の証明を貰いそれを背に張って歩かねば危険であったという。

# by sabasaba13 | 2017-12-02 06:47 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)