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選挙は買い物ではない

 いよいよ衆議院総選挙ですね。民進党のゴタゴタにつけこみ、「希望の党」の準備が整わないうちに、北朝鮮の脅威を煽って過半数の議席を獲得してモリカケ疑惑に蓋をするとともに、憲法・法律を無視してやりたい放題をしようとする安倍上等兵。あわよくば第二・第三・第四自民党と合わせて三分の二以上の議席を占めて憲法改正/改悪をしてしまおうという腹もあるでしょう。なんとも有権者を愚弄した姑息な手法ですが、これはそこまでなめられている有権者にも責任がありますが。

 さてこれまで安倍上等兵内閣がしてきた施策を整理しましょう。憲法違反の秘密保護法制・安保法制・共謀罪法制、沖縄の民意を無視した辺野古新基地建設強行、秘密だらけのTPP交渉、安全を無視した原発の再稼働・輸出、福島の被害者に対する冷酷な態度、一般国民を苦しめる消費税増税、政府・官邸による恐るべき言論統制と情報操作などなど。アメリカ・大企業・経済的強者・自民党・官僚ファースト、経済的弱者の棄民と地方の切り捨て、過半数の議席を得た政権は万能であり批判は許さないという傲岸な姿勢、といったところでしょうか。よってこの政権を支持するのは、恩恵を与えられる1%(ぐらいかな)の経済的・社会的強者だと思うのですが、現実はさにあらん。何故、強者でない99%(ぐらいかな)の方々がこの政権を支持しているのでしょうか。自分を含めた弱者を切り捨てることが経済発展と国力強化に資すると考えているのか、「他の政権よりもまし」という理由にもならない理由なのか、はたまた中国・韓国・北朝鮮への強気な姿勢に惚れこみ自分も強くなった気でいるからか、よくわかりません。いずれにせよ、この阿漕で姑息で低劣な政権の本質を知らない、知ろうとしないことに原因があるのではと愚考します。ちょっと疑問に思って、ちょっと調べて、ちょっとを読んで、ちょっと考えればわかることなのに。政治に対してあまりに無知・無関心な人々が激増しているような気がします。

 今回の選挙は、上記の政策の是非が問われるとともに、憲法九条の改正(改悪)か維持かがとわれる非常に重要なものです。その結果、自民党とその同調勢力が勢いをつければ、強者ファーストに加えてアメリカの戦争の片棒を合法的に担ぐという事態になりかねません。有権者には、ぜひとも慎重に一票を投じて欲しいと衷心から願っております。
 ただ危惧するのは投票率です。前回の衆議院議員総選挙の投票率は52.66%… 今回の選挙は「弱いやつを切り捨てて戦争に突っ走るけどいい?」と問われているわけですが、「どうでもいいよ」と棄権する有権者がどれくらいになるのか。50%そこそこの投票率でこんな重要なことにゴーサインが出されたと強弁されてはたまったものではありません。でも心配だなあ。
 どうすれば投票所に足を運ばねば、と多くの人に思ってもらえるか。実は最近読んだ『転換期を生きるきみたちへ 中高生に伝えておきたいたいせつなこと』(内田樹編 晶文社)の中に、白井聡氏による「消費社会とは何か-「お買い物」の論理を超えて」という素晴らしい評論がありました。その一部を紹介します。
 問題は、「行っても無駄だ、だから行かない」という思考回路であり、これこそが、分析され、批判され、乗り越えられなければならない、ということです。
 重要なのは、「どうせ行っても何も変わらないから行かない」という行動様式は、消費社会のそれとしては正しい、ということです。投票するとはどういうことなのか。投票行動は買い物のようなものである、ととらえることができるかもしれません。このようなとらえ方は、少なくない政治の専門家が現にしています。お店で欲しいものを探し、それがあればお金と引き換えにそれを買うのと同じように、期待する政治家を選んで、お金の代わりに一票を入れる。この見方によれば、投票所に行ったのに積極的に票を入れたくなるような候補がいないという状態は、買い物に行っても欲しいものはないとあらかじめわかっているならば、家から出ない方が合理的な行動です。同じように、期待できそうな政治家がいないのならば、わざわざ投票所に足を運ぶことは、バカげたことであり、家で寝ている人の方が賢い、ということになります。
 こうしてわかることは、社会的矛盾が増大し、政治の果たすべき役割の重要さが増しているにもかかわらず投票率が下落し続けるのは、人々がある意味で合理的に行動している結果だ、ということです。しかしながら、ここで批判されねばならないのは、こうした行動に現れている「ある意味の合理性」「消費社会的合理性」にほかなりません。明らかにされねばならないのは、投票することを買い物と同じようなものととらえていることの根底的な誤りです。
 買い物と投票するという政治的行為の根本的な違いは、選択可能性ということです。お買い物に行った場合、私たちは選び放題に選ぶことができます。この店が気に入れなければ別の店へ、その店も気に入らなければまた別の店へと渡り歩き、どれも気に入らなければ何も買わないで帰る、ということも自由です。そのようにしたところで誰も文句は言わないどころか、どのお店でも店員さんは、何も買わなくても「またぜひお越しくださいませ」と実に丁寧な態度で接してくれます。なぜなら、物があふれた消費社会においては、どんなチャンスでもとらえてお客の欲望を掻き立て、物を買ってもらわなければならないからです。そのためには、お客の食指が少しでも動きそうな物を取り揃えておくわけで、そのなかから私たちは選び放題だし、それらの商品に私たちは関わらないでいることも選択できる、というわけです。
 これに対して、政治は全く違います。私たちの多くが選挙で棄権し、投票率が下がっても、誰かは必ず当選し、選ばれた人たちのなかから政権が成立します。その政権が愚かな政策を推進した場合、その悪影響は投票した人にもしなかった人にも及びます。政治を嫌ったり、政治に対して無関心でいることはできますが、嫌おうが放っておこうが、その影響から逃れることは誰もできません。政治における究極の事象は戦争ですが、戦争が起きた場合、その影響は生命への損害という形にまで高まります。
 ですから、「期待できる候補がいないから投票に行かない」という行動がどれほど愚かしいものなのか、すでに明らかだと思います。政治権力を委ねる相手を選ぶという行為は、買い物に出かけることとは、全く異なるものです。積極的に選びたい候補者がいようがいまいが、選ばれた権力は現実に私たちの生活に影響を及ぼします。その意味で、投票という政治的行為に、選択可能性はないのです。ぜひこの人に当選して欲しいという候補者がいない場合でも(そのようなケースは非常にしばしばあります)、私たちは「なるべくマシな」、もっと言えば「最も害の少なそうな」候補を選出しようとするのが、当然の行為です。政治は、お買い物と違って、積極的に選びたくなるものをお膳立てしてくれたりはしないのです。(p.214~6)
 そう、選挙はお買い物ではないのですね。私も「なるべくマシな」「最も害の少なそうな」政党と候補者を慎重に選んで投票所に行こうと思います。
by sabasaba13 | 2017-10-10 06:31 | 鶏肋 | Comments(0)

続・前原誠司という男

 アメリカの飼い犬、前原誠司氏については、以前に拙ブログで紹介しましたが、『新崎盛暉が説く構造的沖縄差別』(新崎盛暉 高文研)を読んでいたら、また登場しました。以下、引用します。
 だが(※2010年)9月に行われた名護市議選では、稲嶺市長派が4議席増の16議席、島袋前市長派が1議席減の11議席となって稲嶺市長支持基盤は強固なものになった。前原誠司国交相(沖縄担当相)などが、民主党も推薦して当選した稲嶺市長の頭越しに、自公推薦で落選した島袋前市長やその周辺の利権がらみの地域ボスたちと接触し、多数派工作を繰り返したことへの反発もあっただろう。前原国交相や北澤防衛相は、鳩山首相が「国外、県外」の旗を降ろしてはいない1月の市長選挙の段階から、民主党沖縄県連は稲嶺支持であるにもかかわらず、裏で島袋前市長を支持していたとも言われ、落選後上京した島袋吉和を慰労していた。(p.55~6)

 すでにこれより先の(※2011年)7月、前原政調会長は、自民党の中谷元、公明党の佐藤茂樹と共に「新世紀の安全保障体制を確立する議員の会」の代表幹事として沖縄を訪れ、自公民いずれが政権を担おうとも、超党派で辺野古移設を推進していくと強調している。彼らの地元分断工作に尻を叩かれ、地元容認派は、「普天間移設と北部振興策は明らかにリンクしている」として「北部振興推進・名護大会」を開き(10月26日)、容認派から誘致派へと脱皮しつつある。(p.63~4)

 2010年9月、尖閣諸島海域で、中国漁船と海上保安庁の巡視船の衝突事件が起こった。当時、海上保安庁を所管する前原誠司国交相(沖縄担当相兼担)らは、この問題を利用して中国脅威論をあおり、在沖米軍基地、とりわけ普天間の海兵隊基地やそれに代わる辺野古の新基地建設の必要性を強調する根拠として、最大限利用しようとした。(p.78)
 今、読んでいる『終わらない〈占領〉』(孫崎享・木村朗編 法律文化社)にも登場しました。引用します。
 普天間基地問題で政権交代前に「国外移設、最低でも県外移設」を掲げていた鳩山民主党政権が、その基本方針を何ら具体化できずに「迷走」して放棄することになったのは、当時の官邸(平野博文官房長官)・外務省(岡田克也大臣)・防衛省(北澤俊美大臣)・国交省(前原誠司大臣)が、外務・防衛官僚と一体となって鳩山由紀夫首相の意思を無視して、従来の対米従属路線で動いたからに他ならない(のちにウィキリークス情報によって判明)。(p.77)
 やれやれ。ま、でも、極右の「希望の塔」に合流したことですっきりしました。後は衆議院議員選挙で、主権者である私たちが審判を下すのみですね。このまま沖縄の人々に犠牲を強いて平気でいる政党に投票するのか、道義心と人間性をもとに新基地建設に反対する政党に投票するのか。

 沖縄「返還」時に佐藤首相の密使を務めた若泉敬氏は晩年、平和を享受しながら沖縄に目を向けない本土を「愚者の楽園」と呼んだそうです(2010年6月19日放送NHKスペシャル 『密使 若泉敬 沖縄返還の代償』)。このまま「愚者の楽園」にいることを選ぶのか、それとも誇り高き別の道を歩むことを選ぶのか。
by sabasaba13 | 2017-10-08 07:38 | 鶏肋 | Comments(0)

前原誠司という男

 民進党の新代表として前原誠司氏が進出されました。やれやれ。

 この方がどんな御仁なのか? 一見さわやかで誠実そうな外観ですが、どうしてどうして。私たちの利益よりもアメリカの国益を優先する、まるでアメリカの飼い犬のような、たいしたお方です。『沖縄の〈怒〉 日米への抵抗』(ガバン・マコーマック+乗松聡子 法律文化社)から引用します。
 鳩山政権下の高官たちは政治家も官僚も、半世紀以上にわたる自民党政権時代の前任者たちと同様、首相や日本の有権者にではなく、米国に忠実であった。前原誠司は典型的である。2010年2月、鳩山が普天間移設代替案の問題で内外から圧力を受けていた頃、米国のお気に入りの前原(国土交通・沖縄および北方対策担当大臣、後の外相)はキャンベル国務次官補とグレグソン国防次官補と会い(ルース公電、10TOKYO247)、普天間問題を米国の都合のいいように進めるための会合を持ち、自らの内閣内の問題分子(社民党の福島瑞穂)への対処等について話している。普天間移設諸案の検討を「信頼できる自衛隊の仲間たち」にお願いしていると、シビリアンコントロールの原則に抵触するような発言もしている。前原は、キャンベルに「日本政府がもっと日米同盟への支持を公的に表明すべき」と言われ、「自分は機会あるごとに日米同盟への支持を表明している」と言い、山岡賢次・民主党国会対策委員長が提案した(小沢一郎が支持し、東アジア共同体を提唱する鳩山の考えにも近い)米日中の「正三角形論」については「ばかげている」と付け加えたとされる。一国の大臣が他国の要人とこのような話をしていたら通常の感覚ではスパイ行為と見なされるが、日米「同盟」下ではこのような異常さが「正常」の範疇に入るのだろうか。(p.125~6)
 "信頼できる自衛隊の仲間たち"にお願いして、沖縄県民の願いを無視してアメリカに有利な普天間基地移設を画策し、アメリカに批判的な社民党を連立から排除し、アジア近隣諸国との友好・協調よりも日米同盟を重視する御仁です。しかもそうした話を米政府の要人にべらべらと語って歓心を引こうとする大臣でもありました。スパイ、売国奴、買弁、奴僕、飼い犬、いろいろ言い様はあるかと思いますが、いずれにせよ政治家としての資質と人間としての品性を疑います。

 さてこのような買弁政治家に率いられた民進党は、どうなるのでしょうか。 インターネットの毎日新聞ニュース(17.9.1)によると、蓮舫元代表は今年6月、共産・自由・社民三党の党首と会談し、次期衆院選に関して「4野党が協力して候補者調整を行う」ことなどで合意しました。新代表選で争った枝野幸男氏はこの合意に基づき連携を進めると主張しましたが、前原氏はその合意を見直す考えを代表選中に示していたそうです。つまり、自民党を政権の座からひきずりおろすための野党共闘はしない、ということですか。あるいはアメリカに批判的な政党とは手を組まないということかな。
 ま、これで安倍でんでん内閣はしばらく安泰でしょう。従米の安倍上等兵が率いる与党と、従米の前原二等兵が率いる野党第一党が、対立するふりをしながら手を取り合い息を合わせて華麗なステップを踏むことと思います。Rock 'n' rollに合わせて… ♪国家を挙げての右習え 核なるうえはGo with you 暗い過去も顧みずに ついて行きましょう♪ もしかすると前原氏はアメリカが送り込んだ「トロイの木馬」かもしれません。
 アメリカの属国として、お金を貢ぎ、基地を好き勝手に使ってもらい、米兵の犯罪を放任し、事故の責任を追及せず、その爪牙となって戦争をする。いやはや、なんて惨めな国なのでしょう。その惨めさを解消するために、中国・韓国・北朝鮮などに居丈高にふるまう。あるいはオリンピックやワールドカップに現を抜かし、スマホやゲームや娘たちの集団舞踏にはまり、その惨めさを忘れる。いや、惨めであることにすら気がつかない。"亡国に至るを知らざれば之れ即ち亡国"、田中正造の言です。

 いやいや諦めません。諦めたら、やつらの思うつぼですから。"もうなにも考えまいとする誘惑"に屈せず、粘り強く粘り強く抗っていきたいと思います。田中正造のように、瀬長亀次郎のように、阿波根昌鴻のように。

 本日の一枚です。あれ? "All for All"じゃなくて、"Japan for America"でしょ、前原さん。
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by sabasaba13 | 2017-09-03 08:59 | 鶏肋 | Comments(0)

追悼しないの? 小池知事

 わが目を疑うような、信じ難い記事を読みました。インターネット版「毎日新聞」(17.8.24)の記事です。以下、引用します。
小池知事 朝鮮人犠牲者慰霊式典へ追悼文送付を取りやめ

 東京都の小池百合子知事が、関東大震災時に虐殺された朝鮮人犠牲者を慰霊する9月1日の式典への追悼文送付を取りやめていたことが分かった。歴代知事は毎年送付し、昨年は小池知事も送付していた。都の担当課は「知事は朝鮮人も含め全ての犠牲者に追悼の意を表しているので、個別の慰霊式への追悼文送付は見合わせることにした」と説明している。

 式典は市民団体などで作る実行委員会の主催で、都立横網町公園(墨田区)の「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑」前で毎年9月1日に実施される。この日は同公園内の慰霊堂で関東大震災と東京大空襲の大法要も開催され、歴代知事は毎年出席して哀悼の意を表した。都によると、少なくとも石原慎太郎氏ら歴代知事は、主催者の求めに応じて朝鮮人犠牲者の慰霊式典に追悼文を送付してきた。
 追悼文を巡っては、3月の都議会第1回定例会の一般質問で古賀俊昭都議(自民)が虐殺された人数に異論があるとして、「追悼の辞の発信を再考すべきだ」と発言。小池知事は「犠牲者数などについては、さまざまなご意見があることも承知している。毎年慣例的に送付してきたものであり、昨年も事務方が慣例に従って送付した。今後は私自身が目を通した上で適切に判断する」と答弁していた。
 都公園課の担当者は「(見合わせは)以前から検討していたこと。この答弁で決めたわけではないが、きっかけの一つとなったのは事実」としている。
 関東大震災50年の1973年に設置された追悼碑には「あやまった策動と流言蜚語のため六千余名にのぼる朝鮮人が尊い生命を奪われた」と刻まれている。【柳澤一男】
 いったいどういうことなのでしょう。理解できません。虐殺された人数がはっきりしなから、追悼しなくてもよいということなのか。あるいは地震と火災等でなくなった方々と一緒に追悼すれば事足りるということなのか。古賀俊昭都議(自民)と小池百合子都知事の言動から透けて見えるのは、「日本は素晴らしい国だ、その誇りを守るために過去の過ちはなかったことにしよう/忘れてしまおう」という発想です。やれやれお二人さん、ちょっとここに座って、『普遍の再生』(井上達夫 岩波書店)で紹介されている、大沼保昭さんの言葉をよくお聞き。
 過ちを犯したからといって卑屈になる必要はない。過ちを犯さない国家などというものは世界中のどこにもないのだから。しかし、過ちを犯さなかったと強弁することは自らを辱めるものであり、私たちの矜持がそうした卑劣を許さない。私たちの優れた到達点を率直に評価し、同時に過ちを認めるごく自然な姿をもつ国家こそ、私たちが愛し誇ることのできる日本という国ではないか。私はそう思う。(「日本の戦争責任と戦後責任」 『国際問題』 501号 2001年12月号) (p.68~9)
 そう、過ちを認めない恥知らずな国になってほしくないのです、私は。失敗や過ちから学ぶことをしないから、この国はいまだに失敗と過ちを繰り返し続けているのではないですか。
 それにしても腑に落ちないのは、国家が犯した過去の過ちを認めない御仁が、なぜたくさんいるのかということです。素晴らしい国・日本が過ちを犯すはずがないという、単純かつ夜郎自大に思い込んでいるだけなのか。あるいはもっと深い狙いがあるのか。片山杜秀氏は『大東亜共栄圏とTPP』(ARTES)の中で、こう指摘されています。
 …福祉国家モデルが、いまつぶれようとしています。とくに日本。では、どうするのか。
 国が「面倒みます」とはいったものの、もう面倒をみられなくなった。面倒をみられなくなったのなら、同じ国で国民だとかいう必要ももうありません。道州制どころか国は分裂して、昔みたいな薩摩藩とか何藩だとかに分裂しちゃえばいいじゃないか、食えるところだけ食っていけばいいじゃないか、みたいな話になってきます。オレだけ食えればいいじゃないか、ということですね。そうなってしまったら、歴史は浅いけれども、今まで積み上げてきた近代国家のシステムは壊れてしまいます。国家を壊さないとするなら、どうするか。やはり福祉国家の破産後には、安上がりな連帯のしかけがまた帰ってくるでしょう。
 橋下市長がいっている《君が代》とかのポーズは、また戦争しましょうとか、また帝国主義のモデルに帰ろうといっているわけではありません。たんに、もう面倒はみられないんだけれども、だからといって、社会を壊してもらっては困るんですといっているわけです。いちおう日本国民じゃないですか、まあ仲良くして絆があるようなふりをしようじゃありませんか、錯覚して一生生きててくださいということなんですね。
 そのためには国旗とか国歌とかで、仲間だということにしておくのがよい。お互い面倒はみないけれど、仲間なんだよと。お互いが面倒をみないのになんで仲間なんだかわかりませんが、一緒なんだよ、日本人なんだよというわけですね。やはり、われわれはバカですから、国旗や国歌でなんとなく仲間かなと思っていると、何年かはごまかされます。やっぱり、おかしいかな、と思っているうちに死んでいく。この国はそういう段階にきてしまっているんです。
 橋下市長がいっていることは、大阪維新の会の維新八策とかのスローガンを見ればわかるように、基本的には新自由主義です。自助、自立、自由、自己責任。国家や自治体は面倒をみません。勝手にやってくださいと。そのぶん、役人とかがいらなくなるから給料を減らしますよと。だから、お金がかからないようにしますと。お金がかからないということはサーヴィスも低下します。あんたたちの面倒はみないんですと宣言しているに等しいですね。でも、同じ日本人じゃないですか、国旗、国歌があるから、仲良くしましょう、社会を壊して反乱を起こさないようにしてくださいね。いっていることは結局これだけではないですか。
 ひどい国ですね。私は本当にもう、泣けてくるというか、ついにここまできたかという感じがいたします。いま《君が代》がどうとかいっているのは、戦争をしようとか、そんな話とはまったく関係のない、ただこちらは面倒をみないけど、少しでも連帯心を低下させないような安上がりなしかけをひとつでも多くもっていたい、というそれだけの話にすぎないわけでしょう。
 左翼の人は、「また戦争が」とかいって心配してますが、どうも違うのではないか。ただ、安上がりで絆があるように見せかけようという話だけなんですから。そこをわかっていただいて、今の日本を考え直すことが大事なんだと思うんです。(p.52~6)
 まさかここまで下劣な意図があるとは思いたくありませんが…可能性はありますね。

 過ちから学びましょう。しかし意外と知られていないのは、この関東大震災時における虐殺が、とてつもない過ちだということです。デマを信じた民衆が朝鮮人を虐殺したというイメージが流布されていますが、それは事実のほんの一部です。
 この事件に興味を持ち、去年は、埼玉・群馬神奈川千葉1千葉2東京と、慰霊碑や史跡を経巡ってきました。それと同時進行で、かなり集中して研究書を読んだのですが、この事件の底知れぬ暗部を知ることができました。
 この虐殺事件には二つの側面があります。まず国家的犯罪としての側面です。まず「三・一独立運動の再来=朝鮮人による暴動・放火」という予断による誤報を、国家権力が意図的・組織的に流布したことです。そしてその予断に基づいて戒厳令を施行したこと。これにより、社会は一気に戦争状態となり、敵=朝鮮人を殺してもよいという状況が生まれました。そして軍・警察が自ら虐殺を行なうとともに、自警団による虐殺を黙認、場合によっては教唆したこと。情報が誤りであると判明すると、国家権力の責任を隠蔽するためにさまざまな手段をとったこと。軍隊・警察による虐殺については徹底的に隠蔽し、一切の責任を取っていません。そして誤報を流布した責任を免れるために、架空の朝鮮人暴動を捏造しました。さらに虐殺された朝鮮人の遺体を徹底的に隠し、虐殺数や虐殺状況を隠蔽しました。そして虐殺の責任をすべて自警団・在郷軍人会・青年団・消防団など民衆にかぶせ、かつ民衆からの批判をかわすために極めて微温的な刑罰にしか処さなかったこと。朝鮮人を保護する過程で、民族運動家・労働運動家・社会主義者などを選別して殺害したこと。そして関東大震災に関する歴史書を編纂する際に、朝鮮人虐殺の責任を朝鮮人自身と日本人民衆に押し付け、国家の責任を歴史から抹消しようとしたことです。
 もう一つは国民的犯罪です。官憲による誤報の流布があったとはいえ、朝鮮人犠牲者の圧倒的多数は、日本の民衆によって虐殺されました。そして証拠を隠滅し、加害者を庇い、その責任を免れようとした事例も多々ありました。
 言わば、レイシズムにもとづいた国家と国民の共同犯罪だったのですね。そして国家は、調査もせず謝罪もせず責任もとらず、今に至ります。つまり日本という国家は、この過ちをまったく反省もしていないし、この過ちから何も学ぼうともしていないわけです。ということは…また同じ過ちを繰り返す恐れがあるということです。

 これは居ても立ってもいられない。いつの日にか拙ブログに上梓しようと準備していたのですが、小池知事がこのような挙に出る以上、猶予はありません。私なりに調べた事件の概要を隔日で掲載することにしました。ぜひお付き合いください。

 追記。「朝日新聞DIGITAL」(17.4.23)によると、虐殺の舞台となった群馬県で、下記のような事件が起きていました。朝鮮人に対する加害責任を頬かむりしようとする動きが、静かに静かに進んでいるようです。
 群馬県立近代美術館で22日から展示予定だった、県内の「朝鮮人犠牲者追悼碑」をモチーフにした造形作品が、同館の指導で解体撤去されたことがわかった。追悼碑をめぐっては、存廃が法廷で争われている。同館は「県は碑の存廃をめぐる裁判の当事者。存否の両論を展示内容で提示できない以上、適さないと判断した」としている。
 撤去されたのは、前橋市の作家白川昌生さんの作品「群馬県朝鮮人強制連行追悼碑」。布を使って追悼碑を表現した直径5メートル、高さ4メートルほどの作品で、同県在住の芸術家の作品を集めた展示の一つに予定されていた。同館と白川さんによると、同館幹部らが21日夕、展示前の最終点検で不適と判断。白川さんと修正を模索したが、最終的に同館側が撤去を求めたという。
 碑は、戦時中に動員・徴用され、建設現場などで働いて死亡した朝鮮人らを追悼する目的で、市民団体が2004年、県立公園内に建立。県は14年、碑の前で開かれた追悼集会の発言が「政治的」で設置許可条件に違反したとして許可更新を不許可とした。市民団体が処分取り消しを求める行政訴訟を起こしている。白川さんは「群馬の問題だから、群馬で展示できれば良いと思った。残念だが、仕方がない」と話している。

by sabasaba13 | 2017-08-27 07:57 | 鶏肋 | Comments(0)

五山送り火

 京都の夏をいろどる行事、祇園祭につづいて五山送り火を見てきました。どこで見るかについては、逡巡しましたが、結論は宿泊客に解放される「ホテル平安の森京都」の屋上です。祇園祭の際に泊まって施設やサービスは合格点、岡崎神社のとなりに立地するので大文字とほど近く、船形・左大文字・鳥居形も遠望できるそうです。アクセスが少々わるいのが難点ですが、大きな瑕疵ではありません。運良く予約もとれ、8月16日から一泊二日で上洛しました。
 去年は大雨という災難に遭ったそうですが、今年は晴れ。午後八時、ホテルの屋上から、至近距離の大文字送り火、そし遠くに灯された船形・左大文字・鳥居形の送り火を、きれいに見ることができました。精霊を冥府に送るという宗教的な意味合いを肝に銘じながら、山ノ神と二人で一時間ほどの京の夜空を焦がす炎の舞に酔いしれました。
 なお翌日にモーニングサービスをいただいた白川通の喫茶「アッコ」の御主人アッコさんによると、今年の点火はたいへん上手くいったそうです。

 夜の火を撮影するのは難しいものですね。三脚も持参せず、技術的な知識もなく、撮った写真です。勉強し直して再訪を期したいと思います。
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by sabasaba13 | 2017-08-26 08:47 | 鶏肋 | Comments(0)

北海道旅行

 おととい、北海道から戻ってきました。歩みの遅い台風の直撃や影響を懸念しましたが、自称「天下無双の晴れ男」。曇天・小雨の時もありましたが、要所要所では晴天に恵まれました。
 札幌に二泊、美瑛に移動して五泊、再び札幌で一泊という旅程でしたが、北海道の自然、人びとの営み、歴史を堪能することができました。
 いつの日にか旅行記として上梓するつもりですが、とるものもとりあえず写真で報告します。

札幌の夜景(もいわ山より)
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積丹半島 神威岬
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積丹半島 島武意海岸
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モエレ沼公園 海の噴水
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富良野 ファーム富田
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美瑛
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美瑛
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美瑛 四季彩の丘
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美瑛 青い池
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北竜町
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美瑛 ぜるぶの丘・亜斗夢の丘
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美瑛 ケンとメリーの木
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小樽運河
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by sabasaba13 | 2017-08-14 09:11 | 鶏肋 | Comments(0)

2017 暑中見舞

 暑中お見舞い申し上げます。

 日頃「散歩の変人」を御愛読していただき、ありがとうございます。これからしばらく北海道旅行に行ってきます。炎熱地を焼く日々がまだ続くかと思いますが、ご自愛を。

 暑気払いに、手持ちの写真の中で涼しそうな一枚をどうぞ。仁淀川安居渓谷(高知県)です。

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by sabasaba13 | 2017-08-04 07:29 | 鶏肋 | Comments(0)

祇園祭

 先日、はじめて祇園祭の前祭を見てきました。うーん、素晴らしかった。いつのことになるかわかりませんが、後日に旅日記は掲載するつもりですが、とりあえず数葉の写真で報告します。

放下鉾
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伯牙山
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太子山
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放下鉾
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放下鉾
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函谷鉾
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放下鉾
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放下鉾
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岩戸山
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by sabasaba13 | 2017-08-02 06:27 | 鶏肋 | Comments(0)

大平台の紫陽花

 先週の土日に、箱根大平台に紫陽花を見に行ってきました。鎌倉も良かったのですが、やはりその数の多さは圧倒的です。ま、その分、観光客の数も圧倒的でした。もちろん私もその一人ですが。
 なおここ大平台は、枝垂れ桜が満開の頃も素晴らしいですね。あまり人には教えたくない穴場です。

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by sabasaba13 | 2017-07-05 06:25 | 鶏肋 | Comments(0)

2017年都議会選挙

 都議会議員選挙での、自民党の歴史的惨敗。

 快哉

 これが、日本を"美しい国"に改造しようとする安倍上等兵内閣の野望を阻止する第一歩になるかもしれません。ちなみに氏が考える"美しい国"の内実とは、次のようなものですね。世界各地で荒稼ぎをする日本企業、それを軍事力でサポートする自衛隊、草刈り場にされた国の人びとの怨嗟を一身に浴びる"美しい国"日本。福島の人々は見殺しにされ、原発がフル稼働し、新規の原発も次々と建設されていく"美しい国"日本。農業は壊滅し、生物としての生き死にまでをアメリカに左右される"美しい国"日本。流暢なアメリカ英語を操りながらアメリカ企業の底辺労働者として酷使される人々であふれる"美しい国"日本。一刻も早く安倍でんでん内閣に引導を渡したいものです。

 その一方で、大勝した小池百合子知事と「都民ファースト」の動きにも警戒を怠ることなく、状況を見詰めていきたいと思います。彼女の極右的思想と、「日本会議」との関係は気になるところです。自民党内では、安倍上等兵の後釜として、稲田氏を見限って小池氏を担ぎ出そうとする動きがあるのではないかな。「都民ファースト」が、自民党の分身・別動隊・鉄砲玉でないことを衷心より祈っております。

 なお今回の選挙で、私が憂慮したことが二点あります。投票率の低さと、公明党の無節操・無定見です。
 まず投票率の低さ。最終的な投票率は51.27%、前回から7.77ポイント上がったとはいえ、半数弱の有権者が棄権したということです。開いた口が塞がらず、呆れて物も言えません。たいした手間でもないのに、この体たらくは何故? 「適当な候補者がいなかっか」なんていう戯言は言い訳にもなりません。最近読んだ『転換期を生きるきみたちへ』(内田樹編 晶文社)の中で、白井聡氏が舌鋒鋭い批判を展開されていたので、長文ですが是非とも紹介したいと思います。
 問題は、「行っても無駄だ、だから行かない」という思考回路であり、これこそが、分析され、批判され、乗り越えられなければならない、ということです。
 重要なのは、「どうせ行っても何も変わらないから行かない」という行動様式は、消費社会のそれとしては正しい、ということです。投票するとはどういうことなのか。投票行動は買い物のようなものである、ととらえることができるかもしれません。このようなとらえ方は、少なくない政治の専門家が現にしています。お店で欲しいものを探し、それがあればお金と引き換えにそれを買うのと同じように、期待する政治家を選んで、お金の代わりに一票を入れる。この見方によれば、投票所に行ったのに積極的に票を入れたくなるような候補がいないという状態は、買い物に行っても欲しいものはないとあらかじめわかっているならば、家から出ない方が合理的な行動です。同じように、期待できそうな政治家がいないのならば、わざわざ投票所に足を運ぶことは、バカげたことであり、家で寝ている人の方が賢い、ということになります。
 こうしてわかることは、社会的矛盾が増大し、政治の果たすべき役割の重要さが増しているにもかかわらず投票率が下落し続けるのは、人々がある意味で合理的に行動している結果だ、ということです。しかしながら、ここで批判されねばならないのは、こうした行動に現れている「ある意味の合理性」「消費社会的合理性」にほかなりません。明らかにされねばならないのは、投票することを買い物と同じようなものととらえていることの根底的な誤りです。
 買い物と投票するという政治的行為の根本的な違いは、選択可能性ということです。お買い物に行った場合、私たちは選び放題に選ぶことができます。この店が気に入れなければ別の店へ、その店も気に入らなければまた別の店へと渡り歩き、どれも気に入らなければ何も買わないで帰る、ということも自由です。そのようにしたところで誰も文句は言わないどころか、どのお店でも店員さんは、何も買わなくても「またぜひお越しくださいませ」と実に丁寧な態度で接してくれます。なぜなら、物があふれた消費社会においては、どんなチャンスでもとらえてお客の欲望を掻き立て、物を買ってもらわなければならないからです。そのためには、お客の食指が少しでも動きそうな物を取り揃えておくわけで、そのなかから私たちは選び放題だし、それらの商品に私たちは関わらないでいることも選択できる、というわけです。
 これに対して、政治は全く違います。私たちの多くが選挙で棄権し、投票率が下がっても、誰かは必ず当選し、選ばれた人たちのなかから政権が成立します。その政権が愚かな政策を推進した場合、その悪影響は投票した人にもしなかった人にも及びます。政治を嫌ったり、政治に対して無関心でいることはできますが、嫌おうが放っておこうが、その影響から逃れることは誰もできません。政治における究極の事象は戦争ですが、戦争が起きた場合、その影響は生命への損害という形にまで高まります。
 ですから、「期待できる候補がいないから投票に行かない」という行動がどれほど愚かしいものなのか、すでに明らかだと思います。政治権力を委ねる相手を選ぶという行為は、買い物に出かけることとは、全く異なるものです。積極的に選びたい候補者がいようがいまいが、選ばれた権力は現実に私たちの生活に影響を及ぼします。その意味で、投票という政治的行為に、選択可能性はないのです。ぜひこの人に当選して欲しいという候補者がいない場合でも(そのようなケースは非常にしばしばあります)、私たちは「なるべくマシな」、もっと言えば「最も害の少なそうな」候補を選出しようとするのが、当然の行為です。政治は、お買い物と違って、積極的に選びたくなるものをお膳立てしてくれたりはしないのです。(p.214~6)

 私はこれまで、多くの政治学者が「ちゃんと投票に行くべき」と発言したり、「若者よ、政治にもっと関心を持とう」などと発言する様子を冷ややかに見てきました。それはなぜか。一定以上の年齢の人間に、差別なく投票権が与えられるようになったのは-そのような選挙を「普通選挙」という-、そんなに昔のことではありません。日本の場合でも、男子普通選挙が実施されたのは帝国議会が開設されてから38年後の1928年、女性に投票権が与えられたのは、第二次世界大戦での敗北を経た今から70年前のことです。このような権利が獲得されたのは、多くの人々の長い努力と莫大な犠牲が払われてのことなのです。こうした歴史を誰もが学校で習っているはずなのに、投票所に行って投票するという実に簡単な行為すらしないほど怠惰で愚かな人間が、政治権力によって犠牲になってしまうとも、それは自業自得と言うほかありません。
 「投票に行きましょう」とか「政治に関心を持とう」といった呼びかけをする人の動機が善意に基づくことを私は全く疑いませんが、これらの呼びかけの発するメッセージが「投票に来てくれませんか」、「政治に関心を持ってくれませんか」というものでしかないのならば、むしろこうした呼びかけは有害なものにすらなりかねません。なぜなら、その場合、呼びかけは「ぜひお越しください」という「お店の言葉」と変わらないからです。それでは、買い物に行くことと選挙で投票することは同じようなものだという勘違いを正すどころか、助長するものになってしまいます。
 政治に関心を持ち、投票に行くことは、「そうしたければそうしたらいい」という具合に選択可能なものではありません。それは市民的義務です。先ほど、苦難に満ちた政治的権利獲得の歴史を知ろうともせず、自らの貴重な権利を行使することを自発的に回避するような愚か者が悪い政治のために酷い目に遭っても自業自得であると述べましたが、このように愚かな人間が自らの愚かさの犠牲になるだけで、事は終わらないのです。
 悪い政治の影響は、愚かな行動をした人間だけに限定されて及ぶものではありません。現在の日本の政治が全般的に腐敗し堕落している一因は、消費社会的合理性(=政治的愚かさ)に基づいて行動する人間があまりにも多くなってしまったためです。どこまでもお客様根性を貫く有権者に対しては、政治家が誠実に振る舞うことは決してありません。その必要がないからです。こうして政治の世界から緊張感が失われ、よく考えていない有権者の票と低投票率に助けられて選出された、たまたま時流に上手く乗っただけの質の悪い政治家と世襲政治家が、税金を浪費して下らないバカ騒ぎを演じる、という光景がますます目につくようになっています。つまり、あまりにも多くの人たちが市民的義務を回避するようになってしまったために、政治という社会に対して多大な影響を持つ領域が全般的に劣化してしまったのです。(p.216~8)

 もうひとつが公明党の無節操と無定見。今回の選挙では「都民ファースト」に擦り寄ったわけですが、この政党には政治的な目標がないのでしょうか。多数票を獲得する勢いのある存在を敏感な鼻で嗅ぎ分け、にじり寄り、権力のお裾分けにあずかり、創価学会の勢力拡大を目論む、それしか目標がないように思えますが。この件についても最近読んだ『愛国と信仰の構造』(中島岳志・島薗進 集英社新書0822)の中で、両氏が同党を適確に分析・批判されています。こちらも長文ですが引用します。
[島薗] 戦前までの創価学会の歴史を遡ってみましょうか。
 同じ日蓮宗とはいえ、国柱会と違って、創価学会は創価教育学会という教育者の集まりから始まり、小集団活動に基礎を持っていたために、政治的なユートピア主義には結びつかず、戦前は反体制的な特殊な日蓮系宗派の立場を守り通そうとしました。このため、初代会長の牧口常三郎は治安維持法違反で捕まり、獄中死をしています。
 ところが、今の公明党はまったくの体制派で、自民党と一体化しているようにすら見えます。どうしてこうなってしまったのかを考えると、創価学会が、組織の発展を宗教そのものの成功と同一視する傾向を持っていることが、大きいのではないかと思います。
 それから、他宗教や他派を批判する排他性も強く内部の結束を重視する。党と教団が完全な一枚岩ではないとはいえ、そういった性格のもとで、選挙による党の成功と教団の勢力維持とが結びついてしまっているんですね。
 私自身は、現在の創価学会と公明党は、宗教のあり方をめぐる非常に重い問題に直面していると考えています。本来の理念である仏法に基づく平和主義・人間主義をそっちのけで組織維持のためにタカ派政策に乗っかっています。どの宗教でも同様の傾向はあるにせよ、信者の獲得、組織の拡大・維持を最大の目標にするという姿勢そのものを考え直すべき時に来ているのではないでしょうか。
[中島] 島薗先生がおっしゃったように、創価学会にはもう一度自分たちの過去と向き合ってほしいと私は考えています。
 設立後、十数年しかたっていない1943年に、初代会長の牧口常三郎が伊勢神宮の大麻(神札)を受け取らなかったことで治安維持法違反とされて、翌年に獄中死する。同じく理事の戸田城聖も捕まる。それが彼らの戦前の痛烈なまでの経験です。
 池田大作氏が書いた『人間革命』の始まりのほうはその話が中心になっている。つまり、権力から弾圧を受けた経験を背負っているから、信仰の自由というものが彼らにとっての非常に大きなテーゼになっている。
 思想的にパターナル(※強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益になるようにと、本人の意志に反して行動に介入・干渉する)な安倍首相に対して、信仰の自由など本来、リベラルの方向に立とうとする公明党というのは、その理念では反対向きのはずです。政策的にも、自己責任を強調するようになった自民党に対して、セーフティーネットを整えろと言う公明党は、方向性は逆です。
 しかし、公明党の目標が与党であり続けることにすり替わってしまった今、理念や政策の違いを超えて自民党に追随してしまう。その結果何が起きるかというと、自分たちがまさに弾圧されたような、たとえば秘密保護法のようなものを自分たちで推進してしまう。あるいは集団的自衛権の問題についても、自民党のほうに引っ張られてしまう。
[島薗] 私が創価学会の問題を重く見るのは、前章で述べた「正法」とも関係しています。
 正法をもう少し平たい言葉で言えば、仏教の社会倫理理念であり、仏教の社会性の自覚ということになりますが、創価学会はこの正法の理念を自覚し、現代的に実践しようという姿勢を持つ宗教団体のひとつです。社会参加・政治参加を謳っている宗教団体であればこそ、国家とは距離を保って活動してほしいわけです。
 ちなみに、同じ法華、日蓮系の在家宗教団体である立正佼成会は、集団的自衛権や安全保障関連法制について反対の声明を出しました。(p.202~4)
 ま、所詮、国民は、己の知的レベルに相応しい政治しか持てないということですね。
by sabasaba13 | 2017-07-04 06:25 | 鶏肋 | Comments(2)