散歩の変人:鶏肋
2024-03-23T08:18:10+09:00
sabasaba13
地球を彷徨し、本と音楽の海を漂う
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旧新橋停車場
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2024-03-22T06:03:00+09:00
2024-03-23T08:18:10+09:00
2024-03-22T06:03:28+09:00
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鶏肋
旧新橋停車場
この建物は、1872(明治5)年10月14日(太陽暦)に開業した日本最初の鉄道ターミナル新橋停車場の駅舎の外観を、当時と同じ位置に、できるだけ忠実に再現したものです。
新橋停車場駅舎は、アメリカ人R・P・ブリジェンスの設計による木骨石張りの構造で、1871(明治4)年に完成し、西洋建築がまだ珍しかった時代の東京で、鉄道開業直後に西洋風に整備された銀座通りに向かって、偉容を誇っていました。
1914(大正3)年、新設の東京駅に旅客ターミナルの機能が移り、それまでの烏森駅が新橋の名を引き継いで現在の新橋駅となり、貨物専用駅となった旧駅は汐留駅と改称、物流の大拠点として戦前戦後を通じて東京の経済活動を支えました。
文明開化の象徴として親しまれた旧駅舎は、1923(大正12)年の関東大震災に際して火災のために焼失し、1934(昭和9)年から始まった汐留駅改良工事のため、残存していたプラットホームや構内の諸施設も解体されました。
1986(昭和61)年、汐留駅はその使命を終えて廃止され、跡地の再開発工事に先立つ埋蔵文化財の発掘調査が1991(平成3)年から行われた結果、旧新橋停車場駅舎とプラットホームなど構内の諸施設の礎石が発掘されました。1996(平成8)年12月10日、駅舎とプラットホームの一部の遺構が史跡『旧新橋停車場跡』として国の指定を受け、この史跡を保護しつつわが国鉄道発祥の往時を偲ぶために、駅舎を再建することになったものです。
鉄道マニアの端くれとしては、こういう歴史的な建造物を復元してくれるのは大変嬉しいことです。
内部は鉄道歴史展示室として公開されており、企画展として「鉄道写真家・南 正時作品展 ブルートレイン夢の旅路へ」が催されていました。1階は常設展示室で、ガラス窓を通して見える駅舎基礎石の遺構や、お雇い外国人が使っていた西洋陶磁器類、改札鋏や工具類など鉄道業務に用いられた金属製品、汽車土瓶など、発掘調査で出土した遺物を展示しています。欲を言えば、駅舎内部の施設等を忠実に復元してほしかったな。
そして練馬へ戻り、ダイニング「La むめい狼」で昼食をいただきました。公式サイトから紹介文を引用します。
食材にこだわり、お米は、栃木県産のコシヒカリを使い、肉は厳選した食材を使用し、野菜は淀橋の市場から、魚は築地まで仕入れにオーナー自ら足を運んで仕入れています。
そんなこだわり素材を一流シェフが調理いたします。練馬で和食から洋食までをランチでも。女性ひとりでも気軽に楽しめる、ダイニング La むめい狼。
洒落た内装とインテリアですが、値段はリーズナブル。素材の美味しさもさることながら、私はフライのころものサクサク感に惚れ込んでいます。魚好きの山ノ神曰く、刺身と煮付けもなかなかのもの。私はエビフライ・クリームコロッケ・ハンバーグを、彼女は金目鯛の煮付けを注文して、舌鼓を打ちました。すこーん
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労働組合への弾圧
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2024-03-16T05:58:00+09:00
2024-03-16T05:58:51+09:00
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鶏肋
さらに太田氏は、この国の近未来を予見します。このまま過酷な労働条件が続き、格差社会が耐えられないものになると、労働運動や反貧困の民衆運動が激化する可能性・危険性が高い。それを恐怖する財界・政府の意を呈した警察権力は、労働運動への峻烈な弾圧を行なうに違いない、と。いやこれは近未来の話ではありません。関生支部への弾圧など、警察による労働運動への弾圧はもうすでに始まっています。心してかからねば。
「関生支部」と、それに対する弾圧について触れておきましょう。長文ですが、とてもとても大切なことなのであえて引用します。じっくりと読んでいただけると幸甚です。
『週刊金曜日』(№1417 23.3.24)
警察・検察による産業労働組合「関生支部」弾圧事件(上) 中川七海・渡辺周 警察と検察が一体となって、労働組合を弾圧している。弾圧されているのは、全日本建設運輸連帯労働組合関西地区生コン支部(関生支部)だ。関西で生コンを運ぶミキサー車の運転手らでつくる労組で、幹部と組合員が次々に逮捕されている。2018年からの逮捕者数は、延べ89人に上る。検察の取り調べでは組合の運動を「どんどん削っていく」と脅した。23年3月2日には大津地裁で、組合トップの湯川裕司委員長に対して実刑4年の判決が下った。一連の弾圧により、1300人いた組合員は600人にまで減った。
関生支部は、賃金アップや休日の取得など組合員たちの暮らしを豊かにいてきた。憲法で認められた労働組合の権利に基づいて活動しただけである。
なぜ、警察と検察は躍起になって関生支部を弾圧するのか。2週にわたってお届けする。
関生支部の湯川裕司委員長らに判決が下る3月2日。大津地裁の傍聴席は、労組の関係者や、生コン業者、マスコミの記者ら約70人でいっぱいになった。
畑山靖裁判長は、判決の言い渡しを後回しにして、裁判所として認定した事実から述べ始めた。ようやく主文を読み上げたのは、2時間後だ。
「被告人、湯川裕司を懲役4年に処する」
実刑判決に、傍聴席がどよめいた。他の組合幹部ら5人も、執行猶予つきで、懲役1年~3年の判決だった。生コン業者や建設会社に対し、「工事現場において軽微な不備を指摘する活動」を繰り返したことなどが、業務の妨害や脅迫にあたると認定した。
だが、関生支部にとっては工事現場での不備を指摘することは重要だ。些細なミスであっても積み重なれば大事故につながることがあるからだ。これは労働災害を防ぐために、米国のハーバート・ウィリアム・ハインリッヒが提唱した「ハインリッヒの法則」として知られる。この法則によると、1件の重大事故に対して29件の軽微な事故と300件の異常がある。働く人の安全を守る労働組合としては、たとえ裁判所が「軽微な不備」として片付けても、現場で改善を求める活動は必要だ。
実刑判決が下っても、湯川委員長はまっすぐ前を見て表情を変えない。職員に連れられ、法廷を後にした。
傍聴席から、畑山裁判長に向かって叫ぶ人もいた。
「それでも法曹か!」「憲法28条で保障された行動やないか!」「裁判官やめろ!」
畑山裁判長は退廷を命じることもなく、沈黙していた。
関生支部の組合員、松尾聖子さんはこの日の裁判を傍聴していた。判決後、涙をこらえながら悔しがった。
「労組の活動してただけやん。なんで、警察と検察の言う通りに有罪になるねん」
松尾さんは、今から24年前の1999年2月、生コンのミキサー車の運転手として働き始めた。シングルマザーで、1歳半の娘と、5歳になる双子の娘の、3人の子どもを育てていた。彼女自身は26歳だった。
「子どもを育てるために仕事を探しててんけど、幼い子どもがおったらなかなか採用されんかった。性格的に、水商売もできへんし。そんな時に友人に紹介してもらったのが、ミキサー車の運転手やったんです」
関生支部には、しばらくして加入した。労働組合について何も知らなかった松尾さんだが、憲法や法律を一から学び労働者の権利の重要性を知った。京都と滋賀にまたがる、関生支部の京津ブロックで書記長にも就任した。
労組の働きかけで給料は上がり、2007年には日雇いから正社員になることができた。
ところが18年、組合への弾圧が始まった。警察は、組合員が労働条件の是正を求めて行なう交渉やビラ配り、ストライキを恐喝未遂や威力業務妨害とみなし、逮捕し始めたのだ。
19年4月19日朝6時前、松尾さんの自宅のインターホンが鳴った。警察官6人が突然やってきた。
「私と同じ関生支部の組合員やった義兄が逮捕され、捜査対象になったんです。男性の警察官がズカズカと家に入ってきました」
警察官はまず、玄関に置いてあったゴミ袋を開け、中を調べ始めた。クローゼットから風呂場の収納まで家の中すべてを捜索した。
警察官は、松尾さんの下着の入った棚の引き出しまでガッと開けた。松尾さんは「やめてください。そこに何があるって言うんですか」と抗議した。だが、警察官は聞く耳をもたない。中に手を入れて物色した。
松尾さんをはじめ多くの組合員が同じような目に遭った。弾圧を恐れ、約700人が組合を去った。だが松尾さんは組合を辞めない。
「労働組合の活動は、労働者が声をあげる手段ですよね。警察や検察がおかしくても、私は泣き寝入りはしたくない」
関生支部を徹底的に弾圧する姿勢は、検察の取り調べにも表れている。
18年8月9日、多田尚史副検事(現在は検事)は組合員への取り調べでこう述べた。「連帯」というのは関生支部のことを指す。
「私は一人でやってるわけじゃない。警察と検察官は何人もいるからね」「連帯をきちっと削ってくださいという話もある。当然やりますよ。これからどんどん削っていきますよ」
同年11~12月にかけては、横麻由子検事が取り調べを通じて組合からの脱退を迫った。
「連帯の労組員を続ける気持ちは変わらないんでしょうか。今後も同じ活動を続けていたら、同じことになる。同じ状況になっても続けていく意味はあるんですか」
なぜ、関生支部が狙われるのか。次回、報じる。(p.30~1)
『週刊金曜日』(№1418 23.3.31)
警察・検察による産業労働組合「関生支部」弾圧事件(下) 中川七海・渡辺周 日本にある労働組合は、ほとんどが「企業内労働組合」だ。主に大企業のなかにあり、その企業に入社した際に加入する。経営側に求めるのは、自社の社員の給与アップや福利厚生。業界全体のことは考えない。
しかも企業内労働組合の幹部は、任期が終われば再び社内の人事システムに組み込まれる。自分の出世を気にして経営側と馴れ合うことがしばしばだ。企業内労働組合が経営側とまともに闘うことはほとんどない。会社にとって都合のよい、形だけの労働組合なのだ。
これに対して関生支部のような産業別労働組合は根本的に仕組みが違う。所属する会社の垣根を超えて、同業者の労働者たちが個人の資格で加盟する。同じ業種に携わる労働者全体の待遇改善のために、組合の執行部は経営側と闘う。
労働者の立場が経営側よりも弱いという前提があるからこそ、労働者は団結する権利が認められている。そう考えると、同じ業界の労働者が連帯して経営側に対抗できる産業労働組合こそが、本来の労働組合だといえる。
関生支部は1965年、183人の組合員で結成された。生コンを運ぶミキサー車の運転手や、重機のオペレーターらが加入する全国組織「全日本建設運輸連帯労働組合」の支部として活動してきた。
73年からのオイルショックで業界内の倒産や解雇が多発した際には、企業との間で労働協約を締結し、労働者たちの権利を守った。賃金アップや、非正規労働者の正社員化も実現してきた。
81年には、約3000人の組合員からなる産業労働組合に成長した。だが組織の拡大に伴い、経営側の危機感は募る。
三菱鉱業セメント社長などを歴任し、79年~87年には日経連(現・経団連)の会長を務めた大槻文平氏は、関生支部の活動について次のように語っている。
「箱根の山を越えさせない」
「資本主義の根幹にかかわる」
大槻会長の日経連での任期と時期を同じくして、捜査当局による関生支部への弾圧が始まる。80年~83年にかけ、19件の活動で幹部らが摘発された。
その後も弾圧は続く。2005年には大阪府警が当時の武健一委員長ら関生支部の幹部7人を逮捕した。
そして18年から始まった今回の弾圧。逮捕者数は延べ89人に上り、湯川裕司委員長には大津地裁で実刑判決が下された。関生支部が発足して以来、最大規模だ。関西一円の警察が一斉に捜査に乗り出した。
その本気度は、検察の取り調べにも表れている。
18年8月9日、多田尚史副検事(現在は検事)は組合員への取り調べでこう述べた。「連帯」というのは、関生支部のことを指す。
「私は一人でやっているわけじゃない。警察と検察官は何人もいるからね」
「連帯をきちっと削ってくださいという話もある。当然やりますよ。これからどんどん削っていきますよ」
同年11月~12月にかけては、横麻由子検事が取り調べを通じて組合からの脱退を迫った。
「連帯の労組員を続ける気持ちは変わらないんでしょうか。今後も同じ活動を続けていたら、同じことになる。同じ状況になっても続けていく意味はあるんですか」
なぜ今、最大の弾圧なのか。
私は産業労働組合への政治・経済権力の警戒感がかつてなく高まっているからではないかと考える。
背景には非正規労働者が増え、給与も上がらない日本の経済状況がある。
22年の非正規労働者は2101万人。労働者全体の4割近くだ。1990年の非正規労働者は881万人だったから、約30年で約2・4倍に増えたことになる。
年間給与も90年には平均463万円だったが、2020年は433万円に下がっている。
この状況では、労働者が産業労働組合で活動するようになる可能性は高まる。関生支部への弾圧は、そうした動きを牽制するための「見せしめ」ではないだろうか。
だがこうした警察と検察による弾圧に、待ったをかける裁判所が出てきた。大阪高裁である。
23年3月6日、大阪高裁は、関生支部の武谷新吾・書記次長ら3人に無罪を言い渡したのだ。一審の和歌山地裁では、威力業務妨害で次のように述べている。
「産業別労働組合である関生支部は、業界企業の経営者・使用者あるいはその団体と、労働関係上の当事者にあたるというべきだから、憲法28条の団結権等の保障を受け、これを真折るための正当な行為は、違法性が阻却される」
大阪高裁は21年12月にも、京都地裁で有罪判決が下った関生支部の組合員に逆転無罪を出している。
代理人として、国を相手取って訴訟を起こしている弁護士たちもいる。海渡雄一、太田健義、萩尾健太、木下徹郎、小川隆太郎の各氏だ。18年以降の関生支部の組合員たちの逮捕や起訴を「ありとあらゆる不当な刑事訴追が繰り広げられている」と主張している。
Tansaも、捜査当局による関生支部組合員の逮捕・起訴は、労働者運動への弾圧であると捉える。今回の弾圧が誰の意思と指示により行なわれているのか。その中枢を特定するため取材を続ける。
これは関生支部だけの問題ではない。非正規労働者が増え、賃金が下がり、生活が苦しくなるこの国で生きる全ての人々にとっての問題である。(p.42~3)
そう、財界が政府とつるみ、警察・検察を動かして労働組合を弾圧する。これは小説の世界ではなく、現実に起きていることなのです。労働者を低賃金かつ劣悪な労働条件で酷使して利益をあげたい財界にとって、もっとも恐ろしいのは労働者の団結であるということがわかります。よろしい、古代中国人の智慧を実践しましょう。
自分が一番したいことはするな。敵がもっとも嫌がることをせよ。]]>
東京空襲資料展
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2024-03-12T05:59:00+09:00
2024-03-13T20:15:06+09:00
2024-03-12T05:59:38+09:00
sabasaba13
鶏肋
~戦中・戦後の生活や労苦を物語る資料に加え、当時の様子を写した写真資料を展示~
昭和16年(1941)12月に太平洋戦争は始まり、東京は昭和17年(1942)4月18日に初空襲を受けました。昭和19年(1944)夏以降、空襲は本格化し、昭和20年(1945)3月10日に現在の墨田区・江東区・台東区を中心とする下町地区に米軍のB29爆撃機約300機が来襲し大規模な空襲が行われました。この2時間余りの空襲で10万人ともいわれる尊い生命が失われました。その後も昭和20年8月15日までに100回を超える空襲が続き、東京は焦土を化しました。
東京都は、平成2年(1990)に3月10日を「東京都平和の日」と定め、様々な記念行事をおこなってきました。また、平成13年(2001)には都立横網町公園内(墨田区横網・旧被服廠跡)に「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」を建設し、その内部には犠牲となられた方々のお名前を記した「東京空襲犠牲者名簿」を納めています。本展では戦中・戦後の生活や労苦を物語る資料に加え、空襲下の東京を写した写真資料を展示しています。
また本年度は共催市である三鷹市より、市所蔵の戦時資料の展示協力を受け、調布市からは市ゆかりの人物について、東京都の資料と併せて展示します。
違和感を覚える紹介です。なぜ責任の所在をぼやかすような曖昧な表現をするのでしょう。「太平洋戦争は始まり」は「日本は太平洋戦争を始め」に、「この…空襲で10万人ともいわれる尊い生命が失われました」は「この…空襲でアメリカは10万人ともいわれる尊い生命を奪いました」とすべきではないでしょうか。見識を疑います。
ま、それはともかく、地下1階アトリエウエストは予想外に狭い会場でした。もっと広いスペースにすべきだと思います。
最大のお目当ては、空襲に遭った方々が経験談を語る映像です。その凄まじい経験に言葉を失い、一時間ほど見入ってしまいました。戦争の実相を知るために、これはいつでも視聴できるライブラリーとして整備してほしいものです。(もうされているのかな) そして同じことが今、イスラエル軍によってガザ市民に対して行なわれていることも忘れないようにしましょう。
心に残った言葉があります。ある方がこう言われました。
悲惨な時代だった… どうしようもない時代だった…
「どうにかできる時代」にするよう、みんなで尽力しましょう。主権者なのですから。
東京大空襲については、これまでも拙ブログで、「東京大空襲」、「東京大空襲2」、『東京大空襲の戦後史』(岩波新書)、映画『ペーパーシティ』といった記事を掲載してきたので、ぜひご笑覧ください。
そして展示品と解説を見学。いくつか紹介します。
M60油脂焼夷弾筒(左)
油脂焼夷弾はナフサネートやパーム油などをガソリンと混ぜ、鉄製の筒に詰めたナパーム弾。東京では木造家屋の密集する下町地区で大量に投下され、空襲後の罹災地域では油脂が燃え尽きた後の筒が大量に残された。
M50テルミットマグネシウム焼夷弾(右)
昭和20年(1945)に都内で拾得された金属焼夷弾。油脂焼夷弾に比べて貫通力に優れており、テルミットで外側を包むマグネシウムを燃焼させ、着弾すると閃光を発しながら火花をまき散らし、火災を引き起こす。同年8月の八王子の空襲などで大量に使用された。
隣組防空群腕章
従来からあった「家庭防火団」が昭和14年(1939)に「家庭(※隣組カ)防空群」となった。近隣10戸程度で組織された民間の防火組織で、警察の指揮統率の元、適切な消火活動ができるよう、退避や消火訓練がおこなわれた。
東京都区部焼失区域図
昭和28年(1953)に東京都が発行した『東京都戦災誌』の付録地図。東京都区部で空襲により焼失した地域を色分けして示している。
戦後に撮影された、東京中心部と周辺
戦後、米国によって全国各地の空襲被災地などが撮影された。
『国民防空図譜』 第21図 隣保班
空襲時における防火活動や防空服装、隣組・警防団・消防署との連携や隣保共助を説いたもの。『国民防空図譜』は、めくり式の絵解き資料で、東京都で所蔵しているものは第35図まで収録されている。
なおこの図譜の上部には、こう書かれています。
『空襲時の防火にとって隣保班の陣営ほど重要なものはない 「我家は我手で護る」の信念を堅持すると共に隣保共助の精神を強化して家庭と隣組との総力で沈着機敏に防火に従事し是非とも自衛防火の徹底を期さなければならぬ』
自助、共助…あれ、公助はないのか。国家権力は市民の命や暮らしを守る気はないということですね。日本という国家の体質は、いまも戦前とあまり変わっていないようです。でも変えなければ、主権者ならできるはずです。
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好味屋のプリン・アラモード
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2024-03-05T07:26:00+09:00
2024-03-08T23:36:17+09:00
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とある日、恋の予感と言いますか、ガラスケースにあったプリン・アラモードに目が釘付けとなりました。小さなカップにもられたプリンとクリームと果実、好味屋さんがつくるのですからきっと昔ながらの味に違いありません。旦那さんに訊くと、相好を崩して、卵黄・卵白と手作りのカラメル・ソースを合わせた昔ながらのレシピで先代から受け継いだやり方を愚直に守っていると誇らしげに話してくれました。さっそく購入して、山ノ神に紅茶をいれてもらい一緒に食べましたが…美味しい。滋味にあふれる昔ながらの味に感動しました。
以後、わが家のスイーツの定番となり、食卓を飾っております。ただ難点がひとつあります。プリンを二つ入れた紙の箱をおさめたレジ袋を、自転車のハンドルにぶら下げて持ち帰るのですが、紙の箱が大きめなので震動によって上部構造物が崩壊してしまったことが三回ほどありました。山ノ神は「いいのよ」と眼では許してくれましたが、口角は確実にひきつっていました。それ以来、『恐怖の報酬』のイヴ・モンタンのように、細心の注意を払って運搬しております。ま、大きな問題ではありませぬ。機会がありましたら、好味屋のプリン・アラモードという奇跡、ぜひご賞味あれ。
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原発をとめた人びと
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2024-03-03T07:26:00+09:00
2024-03-03T07:26:42+09:00
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鶏肋
そしてあらためて思うのは、もし珠洲に原子力発電所が建設されていたら、かなり高い確率で過酷事故が起きていたことでしょう。そうしたらどのような悲惨な事態になったことか、想像しただけで身の毛がよだちます。原発の建設を食い止めた珠洲の方々の運動や労苦をとりあげた記事が『東京新聞』(24.1.23)に掲載されていたので、ぜひ紹介します。
こちら特報部 珠洲原発を止めて「本当によかった」 無言電話や不買運動に耐えた阻止活動28年の感慨 能登半島地震の震源地近くに建設が計画されていた「珠洲原発」。建設予定地だった石川県珠洲市高屋町は、今回の地震で住宅の大半が壊れ、陸路も海路も閉ざされて孤立状態に陥った。もし原発が実現していたら、重大事故が起きて住民の避難がより困難になった可能性もあった。建設を阻止したのは、住民らの長年にわたる根強い反対運動だった。どのような思いで止めたのか。(岸本拓也)
今回の地震で被災した高屋地区にある円龍寺の住職・塚本真如さん(78)は今月中旬、同県加賀市にある2次避難先のホテルで「こちら特報部」の取材にほっとした様子で語った。
珠洲原発計画の反対運動で中心的な存在だった塚本さん。1975年に持ち上がった計画は、住民の反対運動と、それを切り崩す電力会社側との28年に及ぶ「闘争」の末、2003年12月に凍結された。塚本さんは「あと1年粘られたら、つぶれとったのは僕らの方やった」とかつての日々を振り返る。
関西、中部、北陸の3電力は1976年に正式に原発計画を公表した。しかし、関電が建設計画を進めた高屋地区では当初、住民のほとんどが反対していたという。そこへ関電側が住民の懐柔に動いた。「タダで飲み食いさせたり、原発視察名目の接待旅行に何度も招いたり。芸能人を呼んだ住民向けのコンサートも開かれた。僕は一度も行かなかったけど、最後は住民が飽きて視察に参加しなくなるほどだった」
関電から、地域の祭りで使う奉灯「キリコ」の収納庫や農作物の保冷庫などを建てるための多額の寄付もあった。原発予定地の土地を貸して、億単位の賃貸料を得た住民もいたという。「カネ」の力の前に、一人また一人と賛成に回り、地域は分断されていった。
計画が持ち上がった当初、塚本さんは原発に賛成でも反対でもなかった。しかし、「推進、反対の本を100冊は読んだ。学ぶほど、安全はウソで固められていると疑うようになった。放射能と人間は共存できんなと」。米スリーマイル島や旧ソ連チェルノブイリでの原発事故もあり、疑念は確信に。反対運動へ深く関与していった。
転機となったのが、関電が高屋地区での原発建設に向けた現地調査に乗り出した89年5月。塚本さんを含めた住民たちは調査に入ろうとする関電の車列を阻止し、市役所で約40日間にわたる座り込み抗議を始めた。円龍寺は反対運動の拠点となった。
「それまで表に出ないようにしていたが、このときは大声を上げた。行動しないと何もならんと。知らん間にリーダー的な存在に祭り上げられていた」と塚本さん。住民らは念仏を唱えて道路に座り込んだ。調査を中断に追い込んだ。
この頃から原発を巡る対立は激しくなっていく。高屋地区では住民の賛否が分かれる中で、毎年秋の住民運動会が中止された。生活雑貨店を営み、原発に反対した井上伸造さん(76)は「『反対派の店で物を買うな』と、不買運動も起きた」と明かす。
塚本さんへの圧力も強まった。自宅では連日、無言電話が鳴り、電話が盗聴されたとしか思えない内容が書かれた手紙などが届いた。嫌がらせは、計画が凍結されるまで10年以上続いた。推進派に包丁を突きつけられたこともあった。しかし、「絶対に推進派の個人攻撃だけはするな」と周囲に何度も言い続けた。
反対派で建設予定地の土地を共有化したり、関電株を買って計画撤回の株主提案をするなどして手を尽くした。原発に反対する政治家を増やそうと、県議選や市長選などにも関わった。「強い者の味方をしたら坊主じゃない」という父の教えが行動を後押しした。
塚本さんらの反対もあり、3電力側は2003年12月ついに計画凍結を発表した。11年の東京電力福島第1原発事故の後には「珠洲に原発はなくて良かった」と、推進派だった住民が塚本さんに話しかけてきたことも。だが、今では原発が住民の話題に上ることもない。住民同士のわだかまりは「もう過去のこと」だという。
今回の能登半島地震で珠洲原発の予定地だった高屋地区の海岸線は数メートル隆起した。もし原発があったら大打撃を受けた可能性もあった。前出の井上さんは「原発事故が起きたら、能登はなくなっとったかもしれんね」。塚本さんは淡々と語る。「言葉を尽くすより、あの様子を見て想像がつくでしょう。やっぱり日本に原発を造れるところなんてどこにもないね、と」
東京電力福島第1原発事故後、市民の立場で脱原発を求める発信・提言を続けている「原子力市民委員会」は、今回の能登半島地震で、地震や津波が頻発する日本の原発の危険性があらためて浮き彫りになったとして、18日にオンラインシンポジウムを開いた。
「事業者による活断層評価は明らかに過小評価だった。数メートルに及ぶ地盤の隆起や変異を原発の安全設計に組み込むことはできない」「社会インフラが機能不全に陥った。原発事故発生時に避難や機材、人員の増強は不可能だと分かった」
座長を務める龍谷大の大島堅一教授(環境経済学)が、今回の震災で浮き彫りになった、志賀原発の問題点を列挙した。
「原発にとって脅威なのは、想定していない揺れが起こること」と「想定外」の地震の怖さをあらためて訴えたのは、元東芝原発設計技術者の後藤政志氏。志賀原発1号機の直下には活断層が走っていると一時は評価されたが昨年、覆った。「この断層を元に地震が起きると強く主張するわけではない。他で大きな地震が起きた時に連動して揺れ、原発に影響を与えるんじゃないか、という心配をしている」。その上で、「地割れや隆起が起きれば、原発は持たない。原発を断層のない安定した地盤の上に設置することは最低限必要。能登半島地震は原発の危険性を突きつけている」と訴えた。
原子力資料情報室の松久保肇事務局長は使用済み核燃料(SF)について言及した。北陸電は仮に全電源が喪失した場合、SF冷却プールが100度に達するのは1号機で17日間、2号機で29日間と推定している。だが、松久保氏は「志賀原発は長時間停止しており、SFの発熱量がかなり下がっているからこれだけ時間がかかる。停止直後ならこんなに余裕はなかった、ということになるだろう」と話す。津波についても「今回は原発に3メートルの津波が来たとされているが、3メートル以上来たらどうなるか。海水ポンプも壊れていたのではないか」と危惧する。
一方、環境経済研究所の上岡直見代表は、石川県が策定した避難計画で指定する道路の多くが寸断されたとし、「原発避難は30キロ、数十キロ移動する。徒歩は考えられない。自動車で移動するのかといったら駄目ということ」と断じた。
今回は、多くの家屋が倒壊しており、屋内退避もままならない。上岡氏は「仮に倒壊しなくても、ライフラインが途絶すれば屋内退避はできない」とする。さらに、避難時に放射性物質が衣服や体に付着していないか調べる場所「スクリーニングポイント」の開設や、ヨウ素剤の配布も困難だと指摘した。
大島氏は「日本は世界にも稀な地震、自然災害大国。現行の規制基準に重大な欠陥があり、避難態勢にも実効性がない。現在稼働する全ての原発をただちに停止させるべきだ」と語った。(宮畑譲)
◆デスクメモ
10年前、大飯原発の運転差し止め命令を出した樋口英明
元福井地裁裁判長は13日、「当時の人たちのおかげ」と、珠洲原発を止めた塚本さんらに感謝した(16日東京新聞茨城版)。その感謝の輪に、関電も加わるべきだ。珠洲原発が実現していたら、何が起きたか想像もつかないのだから。(歩)
いやはや、地方自治体の脆弱な財政という弱みにつけこんで、お金をばらまき、地域をずたずたに分断し、強引に原子力発電所を建設するという電力会社の姑息・陰険・悪辣・卑劣・狡猾な手法には嘔吐感を覚えます。
そしてそれを跳ね返して建設中止を勝ち取った塚本真如さんをはじめとする住民の方々の不撓不屈の闘いに敬意を表します。そのきっかけを、塚本氏は「学ぶほど、安全はウソで固められていると疑うようになった。放射能と人間は共存できんなと」と語っておられます。やはり"学ぶ"ことは大事ですね、少し調べれば、地震は予知できず、日本全国どこでも巨大地震が発生する可能性があり、原発の耐震性は脆弱であることはすぐにわかります。
塚本氏のご尊父が言われた「強い者の味方をしたら坊主じゃない」という言葉も心に残ります。原発の過酷事故で、もっとも大きな被害や打撃を被るのは弱い人びとです。そうした人びとの側に立つのが僧侶であるという矜持を持ちなさい、ということでしょう。わが尊敬する加藤周一氏が、民主主義の要諦は「弱きを助け強きを挫く」と喝破されましたが、民主主義を支えるものはこの心持ちと意気だと思います。「弱い者の味方をしたら自公政権/電力会社/司法じゃない」という考えの対極ですね。
そして何よりも言いたいのは、関西・中部・北陸の三電力会社が原発建設計画をつくった際に、この地域では巨大地震が起きる可能性は極めて低いという前提を基にしたはずです。しかし巨大地震は起きました。そう、もう一回言っておけばよかったと後悔しないように、何千回も言われ尽くしたようなことでももう一度言いましょう。地震は予知できず、日本全国どこでも巨大地震が発生する可能性があり、原発の耐震性は脆弱であり、過酷事故が起きれば国土・環境・人間を壊滅させる。
原発をつくるな 原発をとめろ 原発をなくせ
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気候危機対策や被災地復興よりも、人殺しとアメリカの利益とお祭り騒ぎと博打の方が大事
http://sabasaba13.exblog.jp/33269402/
2024-02-26T06:15:00+09:00
2024-02-26T06:15:18+09:00
2024-02-26T06:15:18+09:00
sabasaba13
鶏肋
とりあえず私たちにできることは、日本政府のお尻を叩いて、本気で気候危機対策に取り組ませることです。先日、アラブ首長国連邦(UAE)で開かれた国連気候変動枠組み条約第28回締約国会議(COP28)に参加した日本政府の動きに少し期待したのですが… 気候変動の被害にあった途上国を支援するための基金に、日本はいくら拠出すると表明したかご存じですか?
はい、それでは師岡カリーマ氏に答えを教えていただきましょう。『東京新聞』(23.12.2)から引用します。
本音のコラム 優先順位が違う 師岡カリーマ アラブ首長国連邦(UAE)で開かれている国際会議COP28は、早速初日に、気候変動の被害にあった途上国を支援するための基金の運営が合意された。複数の国が620億円の拠出を表明したという。総額を聞いただけでその少なさが衝撃的だが、そのうち日本の拠出は15億円で、UAE・ドイツの10分の1、英国の5分の1。なお、気候変動による経済的被害は毎時間約24億円(ガーディアン紙)に上ると言われる。アメリカの拠出金も26億円ほどだが、参考に調べてみたら、オスプレイが1機100億円、アメリカが昨年イスラエルに提供した軍事支援がアルジャジーラの報道で5600億円。優先順位が桁違いである。
気候変動は全人類にとって待ったなしの死活問題。その脅威にもっともさらされているのは途上国の人々だ。英国の支援団体によれば、気候変動によって昨年は2700万人の子どもが飢えを強いられた。原因をつくってきたのは主に先進国だが、気候難民の増加で困ると思っているのも先進国のはず。それにしては、日本が約束した拠出金はまるでどこかのお金持ちの1カ月分のお小遣いみたいな金額だ。他の枠組みでも資金を出しているのはわかるが、それは独英も同じであろう。
日本はもはや、大金を出せる豊かな国ではないということ? それなら防衛費も相応に抑えてほしいものだ。
はい、15億円です。いやほんと、15億円です、15億円。
開いた口がふさがりません。
ちなみに、あの構造的欠陥機・オスプレイを自衛隊は17機購入。約1700億円をドブに捨てています。
完成しても不揃いな地盤沈下が予測され、米軍が使用を拒否しかねない辺野古新基地建設費が9300億円(軟弱地盤がからむ難工事のためさらに増えそう)。(『週刊金曜日』 №1459 24.2.9 p.45)
同日(23.12.2)同新聞の記事によると、岸田首相はエジプトの財政支援に約338億円の拠出を検討すると表明しました。大規模な殺戮と破壊によってガザからパレスチナ人を追い出し、エジプトに受け入れさせようとしているイスラエル。その後方支援なのでしょうか。イスラエルをバックアップするアメリカの歓心を買うためかな。
大阪・関西万博というお祭り騒ぎおよびカジノの地均しのための政府支出は、インフラ整備費に8390億円、会場建設費に1647億円(会場建設費783億円、日本館関連360億円、途上国支援240億円、警備費199億円、万博の機運醸成38億円、誘致費用27億円など)。(『東京新聞』 23.12.24 内田樹氏)
なお能登半島地震の被災地に向けた物資の支援を強化するための支出は47億円余り。これはもっと増えるかもしれませんが。
気候変動の被害にあった途上国を支援するための基金に15億円。能登半島地震の被災地に47億円。
その一方で、人殺しとアメリカの利益とお祭り騒ぎと博打のためには合わせて数千億円を支出。お祭り騒ぎを盛り上げるために(万博の機運醸成)、途上国支援の倍以上のお金を使うなんて正気の沙汰とは思えません。
恥知らず、人でなし、守銭奴という言葉しか思い浮かびません。気候危機対策や被災地復興よりも、人殺しとアメリカの利益とお祭り騒ぎと博打の方が大事だというのですから。こんなろくでもない政府を選んだのは、いったい誰なんでしょう。
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2023年の異常気象
http://sabasaba13.exblog.jp/33268581/
2024-02-25T07:11:00+09:00
2024-02-25T07:11:45+09:00
2024-02-25T07:11:45+09:00
sabasaba13
鶏肋
2023年、過去12万年の地球上の歴史の中で最も暑い夏が訪れました。異常気象リストには、新たな「記録的被害」が追加されました。新しい年を迎える前に、私たちにできること、目指す方向を知るために、すこし時間をとって、2023年を一緒に振り返ってくださると嬉しいです。【1月】 南スーダン 歴史的洪水で九州より広い土地が浸水
洪水で被害を受けた住宅。4年続く記録的洪水により、住民たちは住み慣れた土地から離れることを余儀なくされている。
南スーダンは、九州よりも広範囲となる4万7,700平方キロメートルもの地域が洪水によって浸水しました。農作物が収穫できず、多くの家畜が死亡しています。
南スーダンでは、人口の63%もの人々が食料を安定して手に入れることができず、140万人の子どもたちが栄養失調、290万人が飢餓状態にあると推定されています。洪水の影響で、貧困と低栄養状態の蔓延にさらなる拍車をかけることが懸念されます。【1月、2月】 チリ 10年続く「メガ干ばつ」により広がる火災
南米のチリでは、2,700平方キロメートルもの土地が火災の被害に遭い、少なくとも24人が死亡しました。南半球では夏にあたるこの年初の時期に熱波と強風の影響もあり、急速に火が広がりました。チリでは、10年以上干ばつが続いており、世界気象機関(WMO)は過去1,000年で最も長い「メガ干ばつ」であるとし、深刻な水資源危機を警告しました。【2月、3月】 南東アフリカ サイクロンが1,000人の命を奪う
2月6日から3月15日、アフリカ南東部のマラウィやモザンビーク、マダガスカル、ジンバブエをサイクロンが襲い、1,000人以上が命を落としました。このサイクロンは、史上最も勢力が強く、最も長い期間猛威を振るったサイクロンとして記録を塗り替えました。【4月】 インド・バングラデシュ・タイ 「アジア史上最悪」の熱波
インドやバングラデシュ、そしてタイを記録的な猛暑が襲いました。「アジア史上最悪の4月の熱波」と評された猛暑が各地で深刻な被害を引き起こしました。
インドでは6つの都市で44度を超え、バングラデシュでは、首都のダッカで暑さのために道路の表面が溶けました。タイでも44.6度を観測、タイ国内の最高記録を更新しました。専門家は「人類が引き起こした気候変動が、アジア中で今起きているような猛暑が頻度と凶暴性を増す主な原因である」としています。【5月】 イタリア 1日半の間に降った6カ月相当の大雨
洪水の被害を受けたイタリアのエミリア・ロマーニャ州では、36,000人が家を失った。
被害は「開発途上国」とされる地域にとどまりません。イタリアでも、5月に1日半の間に6カ月分に相当する豪雨が起こり、20以上の河川が氾濫。280箇所で土砂崩れが発生しました。13人が死亡、何千人もの人々が避難を強いられました。市民保護大臣は、土壌が長期間にわたる乾燥で硬化し、水分を吸収する能力が著しく低下していた、と説明しています。【6月】 日本 台風2号で49名が死傷
日本を襲った台風2号と梅雨前線の影響で、愛知県や静岡県など、6県に長時間にわたって線状降水帯が発生しました。河川の氾濫や土砂崩れが発生し、49名が死傷、被害を受けた家屋は8,000棟を超えました。農産物への被害も深刻で、沖縄だけでも、葉タバコやサトウキビ、野菜などの被害額が7億円にのぼりました。【7月】 カナダ 森林火災950万ヘクタールが焼失
カナダではこの夏、制御不可能な大規模森林火災が発生。北海道よりも広範囲となる9万5,000平方キロメートルもの森林が焼け、15万5,000人以上の人々が避難しました。秋まで続いた火災の消失面積を含めると、合計で18万5,000平方キロメートルもの森が焼けてしまいました。【8月】 観測史上最高の海水温と1.5度を超える平均気温の上昇
8月には、観測史上最も高い海水温が記録されました。通常、海水温度が最も高くなるのは3月ですが、2023年は4月を越えても異常な高温を維持し続け、この8月に1979年以降最高温度を記録しました。
EUの気象情報機関は、8月の世界の平均気温が産業革命以前の平均気温より約1.5度高かったと報告しました。今年の夏に限ってみると、パリ協定で合意された1.5度の目標値をすでに超えてしまったことになります。【8、9月】 ハワイ、ギリシャ、スペイン 大規模森林火災
ハワイ・マウイ島で壊滅的な被害を生んだ森林火災は、近代のアメリカで、最も多くの死者をだした森林火災の一つとなりました。ハワイ州では、1年間に森林火災が起きる面積が数十年で4倍になっています。
南ヨーロッパでも深刻な被害が。同地域の夏の気温は世界平均の3倍の速さで上昇しています。スペインのカナリア諸島では8月に大規模火災が発生し、2万6千人が非難を余儀なくされ、ギリシャでも2週間以上燃え続ける史上最悪の火災が発生しました。今年EU域内で焼えた森林の41%は生物多様性の宝庫となっている地域でした。【10月、11月】 続く高気温、史上最も暑かった年となる見込み
2023年の6月、7月、9月、10月はいずれもその月の史上最高平均気温が記録されました。2023年が年間を通して史上最も暑かった年になることは「ほぼ確実」と予測されています。
11月に入っても、ギリシャでは35度を超える気温が観測され、東京でも11月の最高気温が100年ぶりに塗り替えられました。私たちはまさに、秋がなくなる時代を迎えつつあります。
心肝が凍ります。もはや一刻の猶予もない状況であり、人類は一致団結して叡智をかたむけなければならないのに… それなのに、巨額の軍事費を費やす国、武力侵略や紛争に邁進する国、気候危機を旗印に一儲けたくらむ企業、いったい何を考えているのでしょう。
とりあえず私たちにできることは、日本政府のお尻を叩いて、本気で気候危機対策に取り組ませることです。先日、アラブ首長国連邦(UAE)で開かれた国連気候変動枠組み条約第28回締約国会議(COP28)に参加した日本政府の動きに少し期待したのですが… 気候変動の被害にあった途上国を支援するための基金に、日本はいくら拠出すると表明したかご存じですか?
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「群馬の森」朝鮮人追悼碑を群馬県が撤去
http://sabasaba13.exblog.jp/33266974/
2024-02-23T07:21:00+09:00
2024-02-23T07:21:45+09:00
2024-02-23T07:21:45+09:00
sabasaba13
鶏肋
「群馬の森」朝鮮人追悼碑を県が代執行で撤去へ 許すまじ「歴史否定」の暴挙 安田浩一
「歴史」そのものが壊されようとしている。群馬県高崎市の県立公園「群馬の森」に市民団体が設置した朝鮮人労働者追悼碑について、県は行政代執行による撤去作業に着手した。1月29日l、公園は全面閉鎖された。追悼碑周辺は重機進入に必要な樹木伐採が終了し、20年間にわたって「記憶 反省 そして友好」を訴えてきた追悼碑の撤去は時間の問題となった。
戦時中に労務動員された朝鮮人犠牲者を悼む目的で追悼碑が設置されたのは2004年。市民団体の請願を県議会が全会一致で採択した結果によるものだ。「群馬の森」公園は、日本における"ダイナマイト発祥の地"として知られる。かつては陸軍の火薬製造所があり、関連施設の遺構は今も公園内に点在する。
「そうした場所だからこそ追悼碑を設置する意味があった」と話すのは、碑を管理する市民団体「『記憶 反省 そして友好』の追悼碑を守る会」の石田正人さん(71歳)。県内では中島飛行機地下工場をはじめ、鉄道、ダム建設現場などで多くの朝鮮人が労務動員された。過酷な労働現場で命を落とした人も少なくない。追悼碑は文字通りに「追悼」の気持ちを表すだけでなく、歴史を省みると同時に、被害者の思いに応え、ともに未来を築くために設置された。
追悼碑には「記憶 反省 そして友好」の文字が刻まれ、裏面には以下のような文言が記される。
〈20世紀の一時期、わが国は朝鮮を植民地として支配した。また、先の大戦のさなか、政府の労務動員計画により、多くの朝鮮人が全国の鉱山や軍需工場などに動員され、この群馬の地においても、事故や過労などで尊い命を失った人も少なくなかった。(中略)過去を忘れることなく、未来を見つめ、新しい相互の理解と友好を深めていきたいと考え、ここに労務動員による朝鮮人犠牲者を心から追悼するためにこの碑を建立する〉
公有地に建てられた初めてのケースということもあり、設置当初より注目を集め、全国各地からの見学者が絶えなかった。
追悼碑は10年ごとに使用許可が更新される予定だったが、14年、県は突然、更新を認めず、市民団体に撤去を通知した。団体が開いた追悼式典で出席者が「強制連行」などの言葉を使ったことが、政治的行事を行なわないとの条件に反するというのが理由である。
さらにこうした県の判断を後押ししていたのが右翼勢力である。
歴史否定と人種差別活動を展開してきたレイシスト集団は更新不許可の決定前から、追悼碑が「反日的」であるなどと主張。県議会の保守系会派へのロビイングを行なうと同時に、県担当部署への抗議申し入れ、市民団体に対する攻撃を繰り返してきた。県の更新不許可処分は、レイシスト集団に導かれたものでもあった。
その後、県の処分の適法性を争った裁判が行なわれたが、22年6月、最高裁で県の勝訴が確定した。これは追悼碑によって「憩いの場としての公園にあるべき施設としてふさわしくない」とする県の主張を全面的に認めたものだった。
だが市民団体はこの10年間、一度も慰霊碑前で追悼式などの行事を開いていない。公園の静穏を乱してきたのは街宣車で怒声を飛ばすなどしてきた右翼勢力の側だった。つまり裁判所は「騒いだ者勝ち」の判断を下したことにもなるのだ。
1月28日、追悼碑の撤去を惜しむ人たちが全国から集まり、それぞれが花を手向けた。"見納め"の集いではあったが、ここにも戦闘服着用の右翼団体が乱入、威嚇を繰り返したが、集まった市民らに「帰れ」と一喝され、すごすごと引き下がる姿もあった。
県は公園の閉鎖期間を2月11日までとしている。この期間内に追悼碑は撤去されるはずだ。だが、それは「追悼」の終わりを意味するものではない。
「あきらめない。壊されてもまたつくればいい」
追悼碑前で多くの人がそう訴えるのであった。歴史否定を進める側にこれ以上の成功体験を与えてはならない。(p.6)
去年の7月に、高崎・川越を旅した際に、ぜひこの碑を見たかったのですが、拙ブログで報告した通り辿り着けませんでした。反対の声も多かったようなので、そう安易には撤去しないだろうと思っていたのですが甘かった。
日本と韓国の和解、そして友好のために東学農民軍の犠牲者を悼む碑を建立した両国の市民の志とは正反対の所行です。過去の加虐行為をなかったことにして、自尊心と自己満足に浸り安眠を貪る恥知らずな行為だと思います。山本一太群馬県知事と、右翼団体と、最高裁の態度に、「日本は過去に悪いことをしたことがない素晴らしい国、ああ気持ちいい」という強烈な自慰史観を感じるのは私だけでしょうか。
そもそも追悼式典で出席者が「強制連行」などの言葉を使ったことが、政治的行事を行なわないとの条件に反するという理屈がわかりません。「強制的に連行して労働させたという明証はなく、これはデマゴギーである」という理路ならまだわかりますが、その明証を提示もせずにいきなり「政治的な発言をしたから撤去する」というのはあまりにも乱暴です。敗戦時に、責任を免れるために関係機関・関係者が都合の悪い書類や記録を焼却してしまったという事実も忘れてはいけません。
わが日本を「悪いことをしても認めず謝らない恥知らずな国」にしたくないと思い、あえて苦言を呈します。山本知事、右翼団体と最高裁のみなさん、ぜひ中国の古典をお読みください。
徳は孤ならず必ず隣あり 『論語』 過ちて改めざる、是を過ちと謂う 『論語』 人は以て恥ずること無かる可からず 『孟子』]]>
東学農民革命が記憶遺産に
http://sabasaba13.exblog.jp/33266073/
2024-02-22T05:58:00+09:00
2024-02-22T05:59:07+09:00
2024-02-22T05:58:16+09:00
sabasaba13
鶏肋
民衆デモと農民一揆の記録がユネスコ世界記憶遺産に登録
1960年に起きた、独裁政権に反対する民衆デモ「4.19革命」と、1890年代半ばの農民一揆「東学農民革命」の記録について、ユネスコ=国連教育科学文化機関の世界記憶遺産への登録が決まりました。
ユネスコの執行委員会は現地時間の18日、フランスのパリで会議を開き、韓国が登録申請していた「4.19革命」と「東学農民革命」の記録物2件について登録を承認しました。
ユネスコの国際諮問委員会はことし3月の会議で、この2件について記憶遺産に登録するよう勧告していました。
4.19革命は、1960年に李承晩(イ・スンマン)政権の長期独裁政治に反発した学生や市民が行なった民衆デモで、その記録物には1960年2月に大邱(テグ)で開かれた集会から、不正選挙に反対するため4月19日に開かれた大規模なデモまで、一連の流れが記録されています。
東学農民革命は、1894年から1895年にかけて、李氏朝鮮で起きた農民による乱で、この記録物には、腐敗した指導層や外部勢力の侵略に反発し、平等で公正な社会を目指して起こした民衆の反乱に関する内容が記されています。
この2件の登録が承認されたことで、韓国の記憶遺産は、1997年に登録された「訓民正音解例本」と「朝鮮王朝実録」をはじめ、「承政院日記」、「直指心体要節」、「朝鮮王朝儀軌」、「高麗大蔵経板および諸経板」など、合わせて18件になりました。
後者について、『第2版 日本・中国・韓国=共同編集 未来をひらく歴史 東アジア3国の近現代史』(日中韓3国共通歴史教材委員会 高文研)で補足します。
1894年、朝鮮半島南西部の全羅道(チョルラド)で大規模な農民反乱が起きました。全?準(チョンポンジュン)、金開南(キムゲナム)、孫化中(ソンファジュン)ら農民軍のリーダーは、宗教組織である東学の広がりとともに勢力を拡大しました。(※東学:1860年に崔済愚[チェジェウ]がはじめた朝鮮の民衆宗教。西洋諸国の侵略に対抗し、東[東洋]の道を立てるという意味で「人がまさに天である[人乃天]」という万民平等の理念をうちたてた) 東学はすべての人が天のように貴重だという思想をもち、平等な新しい世界への希望を伝えており、多くの信徒を集めていました。
1894年4月、全?準らは農民を結集して反乱を起こしました。農民軍は全羅道をおさえ、全羅道の中心都市である全州(チョンジュ)を占領しました。朝鮮政府はこれを鎮圧するために軍隊を派遣するとともに、清に対して軍隊の派遣を要請しました。それにこたえて清軍が出兵すると、日本も待っていたかのように軍隊を送りました。外国の軍事的な干渉を恐れた朝鮮政府と農民軍は、戦うことをやめ、共に政治の腐敗をただそうと約束しました。
農民軍は全羅道と忠清道(チュンチョンド)一帯に執鋼所(※1894年の農民戦争の時に農民がつくった各地方を単位とした自治機関。農民軍の中から選ばれた「執鋼」が、地方官である守令にかわって、農民と協議して様々な問題を処理した)を設置して、改革をはじめました。腐敗した役人や悪名高い両班(ヤンパン)を処罰し、賎民の身分を解放し、不公平な租税をただしました。
ところが、ソウルに入って来た日本軍は7月に朝鮮王宮を占領、国王をとりこにすると、清軍を攻撃しはじめました。日清戦争のはじまりです。
政府内の開化派官僚は、この機会に権力を奪いました。彼らは農民の要求を一部受け入れ、身分制度や科挙制度を廃止し、徴税制度を改革するなど、さまざまな近代的改革を推進しました(甲午改革)。
一方、農民軍は日本を追い出すために再び立ち上がりました。今度は、慶尚道(キョンサンド)、江原道(カンウォンド)、黄海道(ファンヘド)など全国各地で蜂起が起こりました。11月、ソウルに向かって進撃した農民軍は、日本軍および朝鮮の官軍と何度も戦いました。しかし、近代的な兵器で武装した日本軍にはかなわず、敗れてしまいました。このとき犠牲となった農民軍は数万名と推定されています。(p.36~7)
ということで、日本政府と日本軍が深く関わっている事件です。文明国クラブに仲間入りするための「入学試験」である日清戦争について考える際に、朝鮮の東学農民や台湾の民衆との戦いは忘れてはいけない視点です。私見ですが、その試験のひとつに、植民地化された地の人々をいかに制圧して服従させるかという科目があったのではないか。そして日本は苦心しながらもそれをやってのけて合格点を得たのではないか。
その際に、日本軍による残虐な弾圧の犠牲となった方々を悼み、それを謝罪する碑が日韓の市民によって建立されたというニュースも報じられました。『しんぶん赤旗』(23.10.24)から引用します。
朝鮮での対日蜂起 東学農民戦争 平和への決意込め謝罪表明 井上勝生
日清戦争中に、日本軍に対して蜂起した朝鮮の東学農民軍の犠牲者を悼む碑が、日韓両国の市民によって韓国に建立され、10月30日に除幕式が行われます。碑名は「東学農民軍犠牲者を悼む謝罪の碑」。建立場所は、韓国南西部の古都、全羅道羅州市、旧城南門の近くです。
東学農民戦争の遺跡地などを訪ねる「日韓歴史紀行」に参加する日韓市民と、羅州市関係者などが参列します。「日韓歴史紀行」は、今年で18回目になります。日韓市民から募金が集まり、羅州市の協力を得て建立がなされました。
日本政府と日本軍は、日清戦争で朝鮮王宮を軍事占領し、国王を監禁し、親日政権を急造して朝鮮の主権を侵害しました。韓国民衆が東学勢力の下に集まり、東学農民軍を組織して、竹やりと火縄銃で、ライフル銃の日本軍と戦いました。当時、東学は、弾圧を受けながらも、平等思想、相互扶助などを実践し、民衆の支持を集めていました。
日本市民が、謝罪をこめた追悼碑を羅州市に建てることにしたのは、日本軍が羅州に全羅道南部の討伐本部を置いて、戦死者、全土で総計5万人以上といわれる残虐な東学農民軍討伐戦をおこない、韓国軍を動員して、その討伐戦も指揮したからです。
京畿道、忠清道、慶尚道、全羅道、江原道などの東学農民軍を討伐する日本軍の作戦は、3カ月の大作戦になります。派遣された後備軍第十九大隊3中隊が、ソウル以南の討伐を実行しました。日本軍は、1894年10月中旬、3路に分かれて朝鮮半島を南下しました。命令第1条の結語は、東学農民軍の「根拠を探究し之を剿絶(そうぜつ)すべし」です。絶滅命令でした。
討伐戦を実行した日本軍兵士の「従軍日誌」が徳島県で見いだされました。この兵士が所属した中隊の全羅道の討伐戦も記されています。全羅道の谷城では、12月31日、農民軍10名を捕まえて営舎で焼殺しました。95年1月2日、玉果で5名を捕らえ拷問の上、銃殺、死体を焼き払います。討伐は果てしなく展開しました。大隊長は、「殺伐の策を取るべし」と日本公使と司令官から命令された、と証言を残しています。
長興では1月9日、負傷の農民軍10名を「帰舎後…拷問の上焼殺せり」。31日、海南で「七名を捕え来り是を城外の畑中に一列に並べ銃に剣を着け…軍曹の号令にて一斉の動作之を突き殺せり」。日清戦争で銃剣での一斉刺殺が行われていたのです。
羅州には、東学農民軍殲滅のため、大隊本部が約1カ月置かれました。「南門より四丁計り去る所に小き山有人骸累重」。死体の山ができていました。「責問(拷問)の上…此所に屍を棄てし者六百八十名に達せり近方臭気強く土地は白銀の如く人油結氷せり」。兵士の記した「従軍日誌」は、京都大学人文科学研究所『人文学報』111号に全文復刻されています。
21世紀に入っても、世界で、かつての植民地支配の暴虐さの追求は、なお深められています。近代史における日本の朝鮮への侵略に対し、日本側が碑を建てて犠牲者を悼み、謝罪の表明をするのは、初めてのことです。「日韓歴史紀行」代表の中塚明・奈良女子大学名誉教授は、碑は、日韓両国市民による、平和と人権の確立への決意を示すものと述べています。
「近代史における日本の朝鮮への侵略に対し、日本側が碑を建てて犠牲者を悼み、謝罪の表明をするのは、初めてのこと」なのですね。軽いショックを覚えました。しかし、過去の侵略や加虐について調査・研究をして記録として残し、謝罪や補償を行ない、教育等を通してその歴史的事実を共有し、二度と繰り返さないと決意表明をして和解の礎とする、その第一歩としての尊い試みだと思います。私もその一翼に連なっていく所存です。
こうした試みがなされる一方で…
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砂川事件判決
http://sabasaba13.exblog.jp/33265286/
2024-02-21T05:55:00+09:00
2024-02-21T05:55:59+09:00
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sabasaba13
鶏肋
<社説> 砂川事件判決 「公平な裁判」だったのか
1957年の「砂川事件」を巡り、最高裁長官が米国側に評議の状況などを伝えたことで「公平な裁判を受ける権利が侵害された」として国に損害賠償を求めた裁判で、東京地裁は原告の訴えを退けた。「具体的な評議内容まで伝えた事実は認められない」との判決は疑問で納得しがたい。
55年に米軍基地拡張のため、東京都砂川町(現・立川市)周辺の土地を大規模に収用する計画が浮上し、これに反対する運動は「砂川闘争」と呼ばれた。
地元住民を学生や労働者が支援し、警官隊らと衝突を繰り返した。57年に柵が倒れたことで、学生ら23人が米軍基地内に立ち入り、7人が旧日米安全保障条約に基づく行政協定の実施に伴う刑事特別法の違反罪で起訴された。
59年の一審判決は「米軍駐留は憲法違反」として無罪を言い渡したが、検察は高裁を飛び越えて最高裁に「跳躍上告」。最高裁は一審判決を破棄・差し戻して64年に7人の有罪が確定した。
判決が再び注目されたのは2008年以降、米国国立公文書館での文書発見がきっかけだ。
砂川事件の上告審の審理中に、当時の田中耕太郎最高裁長官がマッカーサー2世・駐日米大使らと裁判所外で面談していたことが記され、一審判決は覆される旨の発言まであった。原告が「公平な裁判を受ける権利が侵害された」と受け止めたのは当然だろう。
しかし、東京地裁は判決で「具体的な評議内容、予想される判決内容まで伝えた事実は認められない」などと述べ、訴えを棄却してしまった。
米国の公文書は、駐日米大使が国務長官に宛てた電報や書簡の写しであり、極めて重要な書類である。「世論を揺るがす少数意見を避けたい」との表現は、最高裁長官の意向そのものだ。米側と評議の進め方などを巡り協議していたことを示す内容ではないのか。
そもそも米軍基地自体が問題となっていた中で、最高裁長官が当事者とも言える駐日米大使と面会し、裁判を話題にすること自体が不適切極まりない。地裁が「文脈や意図が不明」「長官の発言か不明」と判断したのも早計だ。
憲法37条が保障する「公平な裁判を受ける権利」は、民主主義国で最も基本的な権利のはずだ。司法が身内を守るような発想では、信用を失うだけである。
司法の劣化は何度も指摘してきましたが、また上塗りです。国策への忖度、政府の幇間、三権癒着、「法治国家」という嘘の看板、どう表現しても、この底抜けの劣化は目に余ります。
『検証・法治国家崩壊 砂川裁判と日米密約交渉』(吉田敏浩+新原昭治、末浪靖司 創元社)が、この裁判の問題点を下記のように指摘されています。
田中(※耕太郎)最高裁長官はマッカーサー大使に、最高裁での裁判日程や判決内容の見通しなどを報告しながら裁判を進めていたということが、前述のアメリカ政府解禁秘密文書によって立証されることになったのです。「憲法の番人」と呼ばれ、公明正大であるべき最高裁の名を、実は長官自らが汚していたのです。(中略)
この判決はもうひとつ、きわめて重要な影響を戦後の日本におよぼすことになりました。それは米軍基地の存在を違憲ではないとするためのロジックとして、「〔安保条約のような〕わが国の存立の基盤にきわめて重大な関係をもつ高度な政治性を有する問題については、憲法判断をしない」という「統治行為論」が使われたことです。その結果、政治家や官僚たちが「わが国の存立の基盤にきわめて重大な関係をもつ」と考える問題について、いくら市民の側が訴えても、最高裁は憲法判断をしなくてもよくなった。政府の違法な権力行使に対し、人びとの人権をまもるべき日本の憲法が、十分に機能できなくなってしまったのです。まさに「法治国家崩壊」というべき状況が生まれてしまったのです。(p.2~4)
今回の判決は、この前半で述べられている問題点を不問に付してしまったわけですね。そして後半で指摘されている問題点についても肝に銘じましょう。そう、もはや日本は法治国家ではなく、(政府の脱法行為を)放置(する)国家、あるいは呆痴国家に堕してしまったことを。
そして福島原発事故における政府の責任を認めず、辺野古新基地建設の代執行を容認し、朝鮮人追悼碑の群馬県による不許可を認めた最高裁。この行政の茶坊主をどうすればいいのでしょう。
『最高裁が法を犯している!』(洋泉社新書y192)で、井上薫氏が提言されたことを再掲しましょう。国会議員による裁判官訴追委員会を活性化すること、人事権を含む司法行政を最高裁から取り上げ、国会のコントロールがおよぶ別の第三者機関に委ねること、マスコミがこうした事態をきちんと報道すること。
そしてなにより、司法を茶坊主として頤使する自民党を政権の座から引きずりおろし、本気で司法改革に取り組む気概のある政党に政権を委ねることです。司法を私たちの手に取り戻しましょう。
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教皇フランシスコの叡智
http://sabasaba13.exblog.jp/33261177/
2024-02-16T06:07:00+09:00
2024-03-10T21:22:33+09:00
2024-02-16T06:07:38+09:00
sabasaba13
鶏肋
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親愛なる兄弟姉妹の皆さん
主のご降誕のお喜びを申し上げます。(略)
聖書では、平和の君に「この世の支配者」(ヨハネ12,31)が対抗し、死の種をまくことで、「いのちを愛される主」(知恵の書11,26)に逆らいます。救い主の降誕後、ベツレヘムで幼子の殉教が起きるのをわたしたちは見ました。母親の胎内で、希望を求める絶望した人々の旅路の中で、幼児期を戦争で引き裂かれた多くの子どもたちの生活の中で、この世でいったいどれだけの無辜の人々が虐殺されていることでしょうか。彼らは今日の幼子イエスです。
平和の君に「イエス」と言うことは、戦争に、すなわちあらゆる戦争、戦争の論理そのもの、目的地なき旅、勝者なき敗北、弁解できない狂気に「ノー」と言うことです。しかし、戦争に「ノー」と言うためには、武器に「ノー」と言わねばなりません。なぜなら、定まらない傷ついた心を持った人間が、死の道具を手にすれば、いずれはそれを使うだろうからです。また、武器の製造、売買、取引が増えるならば、どうやって平和を語ることができるでしょうか。今日、ヘロデ王の時代のように、神の光に逆らう悪の計略が、偽善と隠蔽の陰で動いています。どれほどの武力による虐殺が、耳をつんざく静寂の中で、多くの人が知らぬ間に行われていることでしょうか。人々は武器ではなく、パンを求めています。日々の生活の維持に苦労し、平和を願っています。しかし、人々は軍備にどれだけの公的な資金が費やされているかを知りません。本来それを知るべきなのです。戦争の糸をあやつる利害や儲けが人々の知るところとなるように、それについて語り、記すべきなのです。
「平和の君」を預言したイザヤはこう記しました。「国は国に向かって剣を上げず」、人は「もはや戦うことを学ばず」、むしろ、「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」(イザヤ2,4)日がいつか来ると。神の助けのもと、その日が近づくように努力しましょう。
その日が、イスラエルとパレスチナに近づきますように。そこでは、戦争が人々の生活を揺るがしています。わたしは、これらすべての人を、特にガザのキリスト教共同体と、小教区、聖地全体を抱擁したいと思います。10月7日のいまわしい攻撃の犠牲者に対する悲しみを心に抱きつつ、未だ人質として囚われている人々の解放を改めて呼びかけたいと思います。無実の民間人の犠牲という恐ろしい結果をもたらす軍事作戦を終わらせ、支援物資の到着に道を開き、絶望的な人道状況が和らげられることを心から願います。暴力と憎しみをあおり続けることをやめ、強い政治的意志と国際共同体の支持に支えられた、当事者間の誠実で忍耐強い対話を通して、パレスチナ問題の解決に着手せねばなりません。兄弟姉妹の皆さん、パレスチナとイスラエルの平和のために祈りましょう。
わたしの思いは、苦しむシリアの人々、そして今も苦しみの中にあるイエメンの人々に向かいます。愛するレバノン国民を思い、一刻も早く政治と社会の安定が取り戻されることを祈ります。
幼子イエスを見つめながら、ウクライナのために平和を祈ります。ウクライナの苦しむ人々へのわたしたちの精神的・人間的寄り添いを新たにし、わたしたち一人ひとりの支えを通して、人々が神の愛を具体的に感じ取ることができますように。
アルメニアとアゼルバイジャンの最終的な和平の日が近づきますように。人道的取り組みの継続、避難民の合法で安全な帰還、諸宗教と各共同体の信仰の場の相互尊重が促進されますように。
サヘル地域、アフリカの角、スーダン、カメルーン、コンゴ民主共和国、南スーダンに混乱をもたらす緊張と紛争を忘れないようにしましょう。
朝鮮半島で、恒久平和の条件を生み出す対話と和解のプロセスが開かれ、兄弟的な絆を強める日が近づきますように。
つつましい幼子となられた神の御子が、アメリカ大陸の政治当局とすべての善意の人々を励ましますように。彼らが人間の尊厳を傷つける貧困と闘い、不平等を取り除き、痛ましい移民現象に対応するために、社会的・政治的対立を克服し、ふさわしい解決を見出すことができますように。
幼子イエスは、プレゼピオから、わたしたちに声なき者の声となるようにと頼みます。水とパンがないために亡くなった罪なき人々の声、仕事が見つからない人たち、失業者たちの声、より良い未来を求め、過酷な旅と、恥知らずな人身取引が横行する中で、命を危険にさらしながら祖国を後にする人々の声となることをわたしたちに願っています。
兄弟姉妹の皆さん、一年後に開幕する、恵みと希望の時、聖年が近づいています。この準備期間が、戦争に「ノー」と言い、平和に「イエス」と言うための、また、イザヤが預言するように、「貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために」(イザヤ61,1) わたしたちを呼ばれる主の招きに喜びをもって答えるための、回心の機会となりますように。
これらの言葉は、今日、ベツレヘムで生まれたイエス(参照 ルカ4,18)において成就しました。救い主、平和の君であるイエスをお迎えし、心を開きましょう。
ただ戦争に反対するだけではなく、その戦争を支える武器の製造・売買・取引によって莫大な利益を得る個人や企業(ボブディランが歌うところの"戦争の親玉")について知り、語り、記録せねばならない。それが戦争への抑止となるというメッセージでしょう。繰り返します。
人々は軍備にどれだけの公的な資金が費やされているかを知りません。本来それを知るべきなのです。戦争の糸をあやつる利害や儲けが人々の知るところとなるように、それについて語り、記すべきなのです。
これだけ現実の本質に切り込んだメッセージを発した宗教指導者がこれまでいたでしょうか。教皇の熱い思い、しかと受け取りました。「死の商人」を可視化するとともに、「死の商人」を擁護する政府、あるいは自ら「死の商人」と化する政府を権力の座からひきずりおろすこと。己の課題にしたいと思います。まずは経済成長(金儲け)のために、日本を殺人幇助国家に変えようとしている恥知らずな自公政権を、次の衆議院選挙において退場させましょう。
また、ガザやウクライナだけではなく、現在武力紛争が起きている地域に触れていることにも高い見識を感じます。世界は、少なくとも教皇庁は、あなたがたのことを忘れてはいない、なかったことにはさせないというメッセージを受け取りました。
ロイター通信(24.1.9)のニュースによると、ローマ教皇フランシスコは、民間人への「無差別攻撃」は戦争犯罪であるという演説を行なったそうです。
ローマ教皇、民間人への「無差別攻撃」は戦争犯罪
ローマ教皇フランシスコ(87)は8日、外交関係者向けの年次演説で、民間人に対する「無差別な攻撃」は国際的人道法に抵触するため戦争犯罪となると訴えた。
演説はバチカン(ローマ教皇庁)が認めている184カ国の特使らに45分にわたり行われた。
このほか、アフリカとアジアの紛争、米国と中南米の移民危機、気候変動、キリスト教徒への迫害にも言及した。
教皇は、近代の戦争はしばしば民間と軍事の標的を区別せず、民間人への無差別攻撃に至らない戦争はなくなっていると指摘。「ウクライナとパレスチナ自治区ガザの紛争にはこれを明確に証明している。国際的人道法の重大な違反は戦争犯罪であることを忘れてはならない。指摘するだけでは不十分で、阻止しなければならない」と述べた。
その上で「国際社会は国際的人道法の擁護と実践に向け、さらに努力する必要がある」と呼びかけた。
「ローマ共同」(2019.11.27)によると、フランシスコ教皇は原発反対の立場も鮮明にしています。
ローマ教皇フランシスコは26日、原発はひとたび事故となれば重大な被害を引き起こすとして「完全に安全が保証されるまでは利用すべきではない」と警告した。教皇庁(バチカン)は原発の是非について立場を明確にしておらず踏み込んだ発言。東京からローマに戻る特別機の中で、記者会見し述べた。
日本滞在中は、核廃絶への強いメッセージと比べ、原発を巡っては遠回しに反対の立場を示すにとどまっていたが、東日本大震災被災者や東京電力福島第1原発事故からの避難者と交流し、被害実態を直接聞いたことが教皇に影響を与えた可能性がある。
彼は、戦争や原発によって被害を受ける人びとに、常に寄り添おうとします。尊敬すべき人物です。なおその彼が、世界53カ国を旅する様子を記録した『旅するローマ教皇』というドキュメンタリー映画があります。イントロダクションを引用します。
ヨーロッパ、中東、アフリカ、アメリカ、そして日本…。
2013年から9年間で37回、53か国をローマ教皇と共に旅をする。 ローマ教皇の旅-2013年のイタリア、ランペドゥーサ島から始まり、2022年の新型コロナウイルスのパンデミック下のマルタの訪問までが本作で描かれる。難民問題、紛争に苦しむ中東やアフリカ、アメリカでは平和について語り、世界で唯一の被爆国である日本では黙とうを捧げる。森林火災、台風など自然災害を受けた土地を訪れ環境問題を語り、イスラム教や正教会の指導者と会見し融和を訴える。カトリック教会で起きた性的虐待については謝罪する…。
「旅とは知的で精神的な修行だ」と語る教皇は、世界各国へ足を運び、笑顔で手を振るだけでなく、市井の人々と触れ合い、握手をし、直接話を聞く。そして、夢見ることの大切さを伝える。垣間見える明るく飾らない人間性。様々な世界の問題に耳を傾け、言葉を投げかける教皇フランシスコ。本作を通して私たちは彼と共に旅をする。この教皇の旅は、現在の社会情勢を映し出し、私たちの心をゆさぶる。
うん、これはぜひ観てみたいですね。
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屋良朝苗氏の言葉
http://sabasaba13.exblog.jp/33259447/
2024-02-14T06:02:00+09:00
2024-02-14T08:25:45+09:00
2024-02-14T06:02:41+09:00
sabasaba13
鶏肋
本音のコラム 相手の立場になって 大矢英代 沖縄の辺野古新基地建設で、政府が代執行に伴う工事に着手してから1カ月。暗たんたる気持ちの中、琉球政府初の公選行政主席・屋良朝苗氏の言葉を思い出す。「沖縄の闘いとは、刃物で切り開けるいばらの道ではなく鉄筋コンクリートだ。激しく突き当たっても刃がこぼれるだけだから、鈍角的態勢で、相手の立場を考えながら乗り越えて行かねばならない」
今、中国脅威論が高まる日本社会の中で、屋良氏の言葉は私たちに問いかける。日本人は「相手の立場」つまり中国の立場から物事を考えられているだろうかと。東アジアの地図をぐるりとひっくり返して、中国側に立って考えてみてほしい。自分たちの喉元に近い南西諸島には、自衛隊のミサイル基地が造られ、銃口はこちらに向けられている。日本政府は、世界最大の軍事力を持つ米軍の「核の傘」の下で、アジア諸国との連帯よりも、米国の顔色ばかりうかがう主権国家とは名ばかりの状況。なんせ率いるのは、憲法も三権分立もないがしろにし、利権と裏金問題がはびこる自民党だ。このままでは、自分たちの安全が危ない…あれ、もしかして、おびえているのはお互いさまでは?
今月14日は屋良氏の命日。今こそ、冷静になって相手の立場になって考えてみよう。恐怖の連鎖の末に安全な未来などないのだから。(カリフォルニア州立大学助教授)
世界最強/最恐/最凶の親分アメリカから高価なヤッパをふんだんに買った鉄砲玉日本。そりゃあ中国から見たら何をしでかすかわからないヤバい国です。今頃、中国では日本脅威論が沸騰しているのではないかな。
日本も中国も、鋭利な刃物をふりまわすとんがった対応ではなく、鈍角的態勢で相手の立場を考えながら、対話によって平和を築いてほしいと切に願います。安全保障のための軍備増強が、相手の軍備増強をまねきよせるという"安全保障のジレンマ"に陥らぬように。そして疑心暗鬼のなかで、ヒューマン・エラーやメカニック・トラブルから偶発的な戦争が日中間に起きぬように。そうしたら漁夫の利を得た親分がほくそ笑むだけでしょう。
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ブレイディみかこ氏インタビュー
http://sabasaba13.exblog.jp/33251319/
2024-02-06T05:46:00+09:00
2024-02-06T05:46:49+09:00
2024-02-06T05:46:49+09:00
sabasaba13
鶏肋
会いたくて 「聞けよ」って闘うことが自分をリスペクトすること 30年近く、イギリスに住み、階級社会の中で、自身が「底辺保育所」と呼ぶ保育所で働き、子育ても通してイギリスと日本を見つめてきたブレイディみかこさん。新刊『リスペクト-R・E・S・P・E・C・T』発刊の機に来日。話を聞きました。(西沢亨子) 「一人の人間が、不当に何かを取り上げられそうになったら闘うんだ、闘うことが自分をリスペクトすることだ、ということを書きたかったんです」
新書は、2013年から14年にロンドンで起きたシングルマザーたちの運動にもとづく小説です。緊縮政策による福祉削減と再開発で、ホームレス用宿舎から突然、退去を迫られた彼女らは区役所で冷たくあしらわれ、街頭に出て「人間には居住の権利がある」と訴えます。
「ジェントリフィケーションといって再開発で町がこぎれいになる一方で、家賃や物価が上がって普通の人が住めなくなる。日本も、賃金が上がらない国でマンション価格が高騰している。住宅が人の住む場所ではなく投資対象になっている。変ですよね」
運動は、民間への売却に備えて空き家だらけで放置されていた公営住宅の占拠へと進展。裁判で勝利し区長の謝罪と適切な住まい提供の約束を勝ち取ります。
「国連の社会権規約は、手頃な家賃の住宅、強制立ち退きから守られることを権利として、国が保障するよう求めてるんですね。それを教えてくれたのは、中学生のうちの息子なんです。イギリスでは学校でシチズンシップ(市民権・主権者)教育が位置づいていて、子どもの権利条約とか、人間には衣食住の権利があると学んでいます。反ジェントリフィケーションの運動も習ったって」
イギリスでこれらが「権利」と認識されている背景には、今では切り崩されているものの、かつて医療や大学授業料無償、公営住宅の建設など分厚い社会保障があったという経験や、「抵抗の文化」があると言います。
「1920年代からゼネストをして闘ってきた歴史が抵抗の文化を生んでいると思います。イギリスの労働者階級の人ってその歴史をすごく誇りにしていて、引き継いでいるっていう思いがあるんです。日本にも闘いの歴史はある。思い出そうよって言いたいですね」
いまイギリスでは鉄道労働者や看護師・医師・救急隊員、教員らがストで闘っています。
「救急車がすぐに来ないとか手術が延期とか、みんな反対しそうですが世論調査で6割ぐらいが医療関係者のストを支持しています。医療や教育予算が削られて、先生やお医者さんが大変になってる、求めるべきものを求めてるってみんな知っているんです。それに、公務員の雇い主は国や自治体だから、『政府、何やってんだ』ということなんですね。抵抗って話し合うための手段じゃないでしょうか。弱い立場の者は言っても聞いてもらえないから、『聞けよ』って。闘わないと何も変わらないと分かっているので、市民がストを支持するんだと思います」
「一億総中流」といわれた時代に「貧乏人の子だった」というブレイディさん。「恥ずかしくて、周りに言えなかったんですよ」。〈俺は金がねえ、ワーキング・クラスだ〉と歌うイギリスのパンクミュージックを聴き「あれ、金がないってかっこいいじゃん」と傾倒、渡英したのがイギリスとの関わりの始まりでした。
「昨年がLGBTQの人が始めたプライドフェスティバル50年で、初期の頃の人が雑誌で語ってたんです。小さな公園で始めたのが、いますごい数の人が集まってる。一つひとつ声をあげてきたからだ。闘うことなしには何一つ得られなかったって。闘いがある限り、いい方向に進むと思うんです。日本人も、闘えないはずはないと思います」
まず、国連の社会権規約は、手頃な家賃の住宅の提供や、強制立ち退きから守られることは権利であり、国が保障すべきだということがイギリス社会に浸透しているのが素晴らしいですね。人権というものは、思いやりや優しさだけではなく、それを政府に守らせることが大事だと、お恥ずかしながら最近『武器としての国際人権』を読んで私もはじめて知ったところです。
そしてイギリスでは学校でシチズンシップ(市民権・主権者)教育が教えられており、子どもの権利条約や、人権としての衣食住について学んでいることに驚きました。今の日本における教育の実状については詳しくはわかりませんが、少なくともシチズンシップに関する教育は行なわれていないように見受けられます。ブラック校則で生徒をしばりつけ、権利よりも義務を重視させ、ボランティア活動を強制し、偏差値の高い上級学校へ一人でも多くの生徒を送り込む。偏見かもしれませんが、当たらずとも遠からずだと思います。学校で人権について教えるなんて夢にも思いませんでした。
さらに抵抗と闘いの文化についてのコメントもためになります。弱い立場の者は言っても聞いてもらえないから、闘い抵抗しないと何も変わらない、だから市民は闘う労働者=ストを支持するという指摘は重要です。日本人は、政府が弱い者を見捨てるはずがないと信じ難い楽観を持っているのかもしれません。
政府が弱い者を救うことは絶対にあり得ないと確信し、過去の闘いの歴史を掘り起こして記憶し、その炬火を受け継いでいくことが大事だなとつくづく思いました。
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人類癒えよ
http://sabasaba13.exblog.jp/33248544/
2024-02-04T08:36:00+09:00
2024-02-04T08:36:22+09:00
2024-02-04T08:36:22+09:00
sabasaba13
鶏肋
人類癒えよ銀河に年の豆を打つ 秋尾敏
思わず立ち竦んでしまいました。気候危機、武力紛争、格差、難民、差別… 地球を巻き添えにしながら病む人類。もう自己治癒力に期待はできないのかもしれません。唯一の希望は子ども。子どもを救え。
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評価
http://sabasaba13.exblog.jp/33233203/
2024-01-24T06:22:00+09:00
2024-01-24T06:22:03+09:00
2024-01-24T06:22:03+09:00
sabasaba13
鶏肋
科博が抱える問題に立ち戻れば、2001年以降、国立博物館・美術館が独立行政法人化されたことが大きい。5年間の中期計画の策定が義務づけられ、年度ごとに業務実績が評価される。しかも評価がしやすいようにと、数値化された目標設定が求められる。しかし文化の継承・発展という事業は、本来は長期的で数値化されにくいものだ。あえて短期的かつ数値化して評価しようとすれば、本質が失われる。
なぜ文化にそぐわなわい評価や数値化が大手を振って闊歩するようになったのか。『新しい戦前 この国の"いま"を読み解く』(内田樹・白井聡 朝日新書920)の中で、内田樹氏が鋭い分析をされているので紹介します。
【内田】 今の日本の学校教育では、査定や評価にリソースを費やし過ぎていると思います。僕の記憶する限り、90年代のバブル崩壊までは、評価とか査定とか格付けとかいうことが学校教育の中で話題になることはほとんどなかったです。バブル以前の日本企業は、ふつうは年功序列、終身雇用制でした。つまり人事考課しない。何年かある職位についたら、みんな揃って係長になり、課長になる。部長以上になれる社員は選別されたけれど、課長まではほぼ全員がなれた。だから職位ではなく、仕事の内容で能力の差をつけた。同じ課長だけれど、どれくらい重要な仕事を任されているか、部下が何人いるかが違う。でも、給料は一緒。90年代まではだいたいどこの組織もそうでした。人事考課に手間暇をかけるということをしなかった。
これが高度成長期の人事でした。この時期はどの組織でも、分際をわきまえずに新しい事業に取り組む社員が企業を牽引していった。仕事が面白くて仕方がないから仕事をしていた。だから、組織も査定とか評価ということは二の次で、「とにかく面白いことをしたい」という社員にフリーハンドを与え、予算枠を与えて、好きな仕事をさせた。
ところが、90年代にバブルがはじけてからこの自由な雰囲気が失われた。能力主義、成果主義、評価活動ということが言われ出した。勘違いしている人が多いんですけれど、「能力主義・成果主義」ということがうるさく言われるようになったのは、経済成長が止まってからなんです。能力の発揮のしようがなく、成果の上げようがなくなってから、そういう言葉がうるさく口にされるようになった。それ以前の「いけいけ」の時代はみんな好き勝手にやっていたんです。誰も能力や成果を査定なんかしなかった。だって、評価や査定なんかいくらやってもイノベーションは起きないし、売り上げが増えることもないんですから。
でも、経済成長が止まってパイが縮み出したら「パイの取り分」について厳密な基準が必要だと言い出すやつが出てきた。大学でも「評価」という言葉が言われるようになったのはバブル崩壊後です。パイが縮んで来たので、隣の人間の分け前が「もらい過ぎ」に見えてきたんでしょう。貢献度や生産性に基づいて評価して、その格付けに基づいて資源を傾斜配分するという「新しいルール」が導入された。ある時期から「公務員叩き」や「生活保護受給者バッシング」が始まって、「もらい過ぎ」をむしり取るということに人々が熱中するようになった。もちろん、給料を下げても、働くモチベーションが下がり、能力のある人が逃げ出すだけで、何一つ価値あるものは生まれないわけですけれども、それが社会的公正の実現であるかのように思い込んで、いまだに懲りずに同じことを繰り返している人たちがいる。そうやって人の足を引っ張っているうちに日本はここまで衰えたわけですが。(p.193~5)
なるほど、得心しました。経済的な成果=パイの縮小にともなって、その分け前を、一番金が金が稼げそうなところを評価・査定によって選び、そこに集中させるということなのですね。いわゆる"選択と集中"ですか。でもそうなると、文化や教育が真っ先に切り捨てられるのは目に見えています。さらに氏も言われているように、評価・査定の結果を恐れるあまりに大胆なプランや行動が抑制されて、社会全体が委縮してします。いまの日本社会の息苦しさの一因はここにあるのでしょう。
パイが縮小したのなら、各自の取り分が減るのは我慢して、できるだけ公正に平等に配分すればいいのにと思うのは素人考えでしょうか。きっと、取り分をめぐって激しく厳しい競争が起きて、公正かつ平等な社会をめざす人びとが分断されて連帯ができなくなるのを期待する方々がいるのでしょう。
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