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近江編(61):長浜(15.3)

 それでは醒ヶ井駅に戻り、今夜の塒、長浜に向かいましょう。途中で、こちらを凝視すると、親子連れらしき交通安全足型に出会いました。
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 待合室で列車を待っていると、「醒井湧くわくMAP」があることに気づきました。これは不覚、これから訪れる方はぜひご利用ください。東海道本線に五分ほど乗って米原駅へ、待ち合わせの時間があったので駅前に出ると「Azalea」という物産店があったので、薫り高い珈琲を所望。なお米原から東海道本線に九分ほど乗って近江長岡に行き、バスに10分ほど乗って島池に行くと「逆さ伊吹山」が見られるそうですが、時間の関係でカットしました。再訪を期す。
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 そして米原から北陸本線に乗って九分ほどで長浜駅に到着です。時刻は午後六時、そろそろ薄暮となっていました。夕食はぜひご当地B級グルメ「焼鯖そうめん」を食べたいのですが、残念ながら駅構内の観光案内所は閉まっています。幸いなるかな、そこに置いてあったパンフレットで焼鯖そうめんを食べられる店が判明。さっそくこの地図を頼りに、お店を求めて長浜の街を彷徨いました。街灯に照らされた舟板塀と白壁が、いい風情です。しかし好事魔多し、ある店はもう閉店、ある店はもうつくっていない、歩いて歩いて最後の一軒「成駒屋」でありつくことができました。お店にあった解説を転記します。
 その昔、日本海で獲れた鯖をびわ湖西岸を通り京都へ運ぶ道中を"鯖街道"と名付けられました。長浜へも鯖街道の支流が延び焼鯖そうめんとして郷土料理が自然にうまれました。
 またこの湖北地方には〔五月見舞い〕といって、農家に嫁いだ娘のもとへ春の田植えの農繁期に家事に農作業に追われる娘を案じ実家から食材の焼鯖を届ける風習があります。その焼鯖とそうめんを炊き合わせ手軽に食べられることから農繁期定番の郷土料理となりました。また、長浜では曳山祭りの客人をもてなすハレの日のご馳走でもあります。【焼鯖そうめん】は娘を思いやる親の愛、お客様へのおもてなしの心をこめた伝統の郷土料理なのです…。
 焼鯖そうめんを美味しくいただきましたが、小鉢で出された「えび豆」もなかなかいけました。こちらも長浜の郷土料理で、琵琶湖産のすじえびと大豆をしょうゆ、みりん、酢、酒、砂糖やざらめ等で作った調味料で煮た料理です。
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 そして歩いて「グリーンホテルYes長浜 みなと館」へ行きチェックイン。おっ、レンタサイクルがあるぞ、これは盲亀の浮木優曇華の花、さっそく明日の早朝に借りられるようフロントで予約をしました。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2017-12-21 06:31 | 近畿 | Comments(0)

近江編(60):醒ヶ井(15.3)

 醒井の話に戻りましょう。加茂神社に「鮫島中将の歌碑」があったので、その解説文を転記します。
 明治28年、北白川能久親王は、台湾で熱病にかかられ、重体になられました。病床で「水を、冷たい水を」と所望されましたが、水がありません。付き添っていた鮫島参謀は、かって醒井に来られた時の水の冷たさを思い起こされ、一枚の紙に

あらばいま 捧げまほしく 醒井の うまし真清水 ひとしずくだに

 と詠んで親王のお見せになると、親王もにっこりされたと伝えられています。鮫島中将の直筆の、歌碑です。
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 北白川能久親王の銅像について以前拙ブログに掲載しましたが、なかなか波瀾万丈の人生を送った方です。

 それでは駅へと戻りましょう。のんびりと歩いていると、はるか遠方に残雪を頂いた霊峰伊吹山が眺められます。道の脇にやや広い空間があり、「子供狂言上演場所」という解説がありました。
 醒井宿では、明和元年(1764年)頃から、東新町、新町、本町、西町の各町に一基ずつ計四基の曳山があり、地蔵盆には宿場内を引き回し、子供狂言が奉納されていました。上演場所は、中山道を往来する人馬の邪魔にならないように、道路の一部を拡げておき、ここに曳山を据えて行っていました。
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 その先には「西行水」という湧水があり、「泡子塚」という解説がありました。
 岩の上には、仁安三戌子建立の五輪塔があり、「一煎一服一期終即今端的雲脚泡」の十四文字が刻まれてあります。
 伝説では、西行法師東遊のとき、この泉の畔で休憩されたところ、茶店の娘が西行に恋をし、西行の立った後に飲み残しの茶の泡を飲むと不思議にも懐妊し、男の子を出産しました。
 その後西行法師が関東からの帰途またこの茶店で休憩したとき、娘よりことの一部始終を聴いた法師は、児を熟視して「今一滴の泡変じてこれ児をなる、もし我が子ならば元の泡に帰れ」と祈り

水上は 清き流れの醒井に 浮世の垢をすすぎてやみん

 と詠むと、児は忽ち消えて、元の泡になりました。西行は実に我が子なりと、この所に石塔を建てたということです。
 今もこの辺の小字名を児醒井といいます。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2017-12-19 06:34 | 近畿 | Comments(0)

近江編(59):醒ヶ井(15.3)

 「善隣友好、互恵対等の外交姿勢」を貫いた雨森芳洲の名を聞くと、従軍慰安婦問題を象徴する「少女像」をめぐって紛糾する昨今の日韓関係に重いが及びます。思えば、その前提となった朝鮮に対する苛烈な植民地支配と、豊臣秀吉による朝鮮出兵にはすこし似たところがあると思います。二度に渡る武力侵略(壬辰・丁酉倭乱/文禄・慶長の役)、それに伴う民衆や国土への損害、さらに朝鮮民衆を奴隷として拉致・連行したうえでの人身売買、磁器製作技術を入手するための朝鮮人陶工の誘拐など、日本は朝鮮に対して深甚な加害を行ないました。しかしその後の外交的対応が、当時と現在ではまったく違います。徳川家康は、秀吉の強圧外交を受け継がず、朝鮮を含む近隣諸国との安定外交をめざしました。朝鮮人捕虜約1400人を帰国させ、これを誠意と受け取った朝鮮側との間で外交ルートが開け、紆余曲折の末に朝鮮通信使を軸とする友好関係が結実しました。もちろん単なる友好的使節ではなく、朝鮮側は加害国日本の内情偵察、日本側は幕府の権威強化のための利用など、それぞれの思惑はありましたが。
 これに対して植民地支配終結後の日本政府の対応はどうでしょう。基本的なスタンスは「加害をできる限り矮小化し、被害を早く忘れてほしい」というものだと思います。そこには家康が示したような誠意は見受けられません。
 雨森芳洲の事績を知ることによって、日朝関係の歴史に思いを馳せるのも大事かと思います。

 なお余談ですが、対馬の厳原で漂民屋跡という史跡を見ました。日本の沿岸に漂着した朝鮮人漂流民を丁寧に介抱し、宿泊させ、本国へ無事に送還するための拠点施設がかつてあったそうです。朝鮮出兵により国交が断絶した時期にも、人道的立場から継続され、その後の国交を回復させる要因にもなったとのこと。相手国の人命を尊重し困難を助けることが、善隣関係を育むためにいかに資するかを示す好例です。日本がアジアでの孤立から脱却して、周辺諸国と真の友好関係を結ぶための参考になる逸話だと思います。

 雨森芳洲に関してもうひとつ紹介しておきたいことがあります。対馬の厳原で彼の墓参をしたときに、彼の言葉を刻んだプレートがありました。
 何れの国にも、日帳日記など言ひて、書きしるしおく事あり。
年を積みて見れば牛に汗し、棟に充るほどなれど、大方は、陰晴たるなど言へる類の事のみ書きて、政務人事にあづかりたる議論号令まで、詳しく書きたるは稀なり。
 疑わしき事あれば年はへなる人こそとて問いて決することも多し。
 それも五六十年には過ぎし。
 記録さえ確かならば、幾百年ともなき長生きしたる人を左右に置けるに同じかるべし。
 されば此国の智恵、もろこしに及ばざるひとつは、記録に乏しき故にや。「たはれぐさ」
 個人的な体験だけに頼らずに、記録の整備によって得られる知識・技能の共有を重視した彼らしい言葉です。そして「特定秘密保護法」成立によって国家権力にとって都合の悪い記録や情報が隠匿されることになってしまいました。やれやれ、"此国の智恵"はますます劣化していくことでしょう。
by sabasaba13 | 2017-12-17 09:04 | 近畿 | Comments(0)

近江編(58):醒ヶ井(15.3)

 地蔵川を渡って奥まった所にある醒井公会堂は、なかなか味のある建物です。木造平屋建て・寄棟造桟瓦葺の和建築ですが、正面中央玄関の両脇に櫛形アーチの縦長窓、隅の柱はコーナーストーン(隅石)風仕上げにして洋風テイストを加味しています。
 このあたりに「ハリヨ」「バイカモ」についての解説板がありました。「ハリヨ」とは、滋賀県と岐阜県の一部に分布する絶滅危惧種の魚で、この地蔵川水系に最も多く生息しているとのことです。「バイカモ」とは、「梅花藻」と書き、キンポウゲ科の淡水植物で、川の中から顔を出すように梅に似た小さな花を咲かせるそうです。見頃は5月中旬から8月下旬までで、水面に浮かぶ白とピンクのコントラストが愛らしいとか、これは見てみたいですね。
 そして加茂神社へ、境内脇の石垣の下から湧き出ているのが居醒(いさめ)の清水。ヤマトタケルが熱病に倒れた時、体毒を洗い流した霊水とも伝えられます。こちらには、雨森芳洲の和歌を記した解説板がありました。
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 後学のため、転記しておきます。
水清き 人の心を さめが井や 底のさざれも 玉とみるまで

 雨森芳洲(1668‐1775) 滋賀県髙月町雨森出身
 江戸時代の儒学者、教育者、外交家。26才の時木下順庵の推挙により対馬へ渡る。以来、朝鮮、中国との外交に尽くし、特に朝鮮通信使との折渉、応接に貢献する。その善隣友好、互恵対等の外交姿勢は現在も高く評価されている。
 80才で一万首の歌を詠む決意をした芳洲は、古今和歌集を千回も復読したという。この歌も、その中の一首である。
 彼は都合2回、朝鮮通信使を伴って中山道を往来したそうなので、おそらくその際にこの醒井宿で詠ったものでしょう。

 本日の四枚です。
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by sabasaba13 | 2017-12-15 06:33 | 近畿 | Comments(0)

近江編(57):醒ヶ井(15.3)

 街並みは駅のすぐ近くなので、徒歩で散策を楽しめました。まずはS(醒井?)と期された野球帽をかぶった飛び出し小僧がお出迎え。そして建物とあまりにも不釣り合いな巨大な唐破風の玄関が眼にとまりましたが、これは醒井尋常高等小学校の玄関を移築したものと解説板にありました。後方の建物は料理旅館「醒井楼」です。
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 四本の巨大な付け柱(ピラスター)が印象的な格調高い建物は、旧醒井郵便局です。ヴォーリズ建築事務所設計で1915 (大正4)年に建てられ、当初は木造下見板張りの洋館風の建物でしたが、1934(昭和9)年に現在の姿に改修されました。木造2階建で、外壁はモルタルを厚く塗り石貼り風に見せています。現在は米原市醒井宿資料館として生まれ変わり、資料の展示や休憩室として再活用されています。
 それにしても素晴らしい景観ですね。車道も歩道もないまっすぐな道に沿って落ち着いた雰囲気の和風民家が建ち並んでいます。道の片側には清冽な地蔵川が勢いよく流れ、そのせせらぎの音が耳をくすぐります。"悪魔の機械"はほとんど通らず、あたりは静寂につつまれ、かすかに聞こえるのは水の音と鳥の声。日々心身に積もった塵が洗い流されていくようです。もうしばらく散策を楽しみましょう。
 小川がT字になったところには、「十王」と刻まれた石灯篭がたっていました。解説板によると、平安中期の天台宗の高僧・浄蔵法師が諸国遍歴の途中、この水源を開き、仏縁を結ばれたと伝えられているそうです。近くに十王堂があったことからこう命名されました。
 近くに「観光客様 無料駐車場 →」という看板がありましたが、"様"と言われると恐縮してしまいます。地元の方々の平穏な日常に侵入して、その暮らしを脅かしているのにね。「お金を使って地域経済を潤しているのだから当然」という気にはとてもなれません。『「おもてなし」という残酷社会』(榎本博明 平凡社新書)を読んではじめて知ったのですが、こうした対応を顧客満足(CS=Customer Satisfaction)と言うそうです。その結果、顧客が増長慢心して、荒ぶる神の如くふるまい、サービスを提供する側を過剰に追い込んでいる状況が気がかりです。
 地蔵川のほとりに沿って家々が建ち並び、家に入るための小さな石橋が架けてあるのもいい風情です。川におりる石段がありましたが、かつては川で洗いものや洗濯をしていたのでしょうね。
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 その先にあったのが醒井問屋場(といやば)です。問屋場とは江戸時代、街道の宿駅で、宿場を通行する大名や役人に人足や馬の提供、荷物の積替えの引継ぎ事務を行なっていたところで、このように完全な形で残っているものは全国的にも珍しいとのこと。「本陣跡」という木柱の向こうには、木造三階建のお宅がありました。
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 本日の五枚です。
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by sabasaba13 | 2017-12-13 06:32 | 近畿 | Comments(0)

近江編(56):近江八幡(15.3)

 旧岩瀬邸は、かつては診療所だったそうです。観光案内所でいただいた資料を転記します。
 重要伝統的建造物群保存地区内に位置し、岩瀬診療所として町の人々に親しまれた建物である。渡り廊下を介して、左側にはスパニッシュスタイルの洋館(診療所)で玄関周りのディテールはほぼ昔のまま残っている。渡り廊下右側は入母屋屋根で真壁造りの和風住宅であり、左右2棟の調和がうまく図られている。
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 そして最後に八幡商業高校へ、ヴォーリズが来日して最初に英語教師として就任した学校です。この校舎は彼の設計で、滋賀県内でも古い鉄筋コンクリート造の学校建築です。恰幅の良さとスマートさがうまく調和した素敵な建物です。
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 そして自転車を返却して近江八幡駅へ、これから醒ヶ井(さめがい)へと向かいます。琵琶湖線に乗って二十分ほどで米原に到着しここで乗り換えです。少々時間があったので駅のトイレに入ると、ひさしぶりに「便器の的」に出会えました。的は炎、以前に塩山駅前の公衆便所でも見たことがあります。東海道本線に乗り換えて五分ほどで醒ヶ井駅に着きました。
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 ここ醒ヶ井は中山道61番の宿場町で、お目当ては、地蔵川の清流と趣のある街並みです。なお『医学探偵の歴史事件簿』(小長谷正明 岩波新書)に、次のような逸話が紹介されていました。
 ともあれ東国を平定して、尾張の熱田に戻った倭建命は、土地の豪族の娘の美夜受比売(みやずひめ)と契を交わした。それから、伊吹山の荒ぶる神を退治に出かけた。熱田に戻るつもりだったらしく、草薙の剣を比売の元においたままで。結果的に、その剣は熱田神宮のご神体になった。
 命は「この山の神は素手で捕まえてやる」と豪語して山を登りつづけ、途中で牛のように巨大な白猪に出あい、大声で「白猪は神の使い走りだ。今しとめずとも、帰りにひとひねりしてやるぞ」と壮語する。すると大氷雨が降ってきて命は打ち惑わされた。山の神そのものであった大白猪のたたりで、正気を失ったのだ。山を降りて、醒ヶ井あたりでようやく醒めたという。(p.170~1)
 傷ついたヤマトタケルがこの地の清水を飲んで、目が醒めるように元気になったという逸話があるくらい由緒と歴史のある湧水です。この水が地蔵川の源泉となっているそうです。
by sabasaba13 | 2017-12-11 07:28 | 近畿 | Comments(0)

近江編(55):近江八幡(15.3)

 切れ味鋭い意匠の市立資料館は、かつての八幡警察署でした。1953年にヴォーリズによって改修設計されたとのことです。
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 そしてのんびりとペダルをこぎながら、古い町並みと八幡堀の景観を堪能。
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 アンドリュース記念館(旧YMCA会館)は、和洋折衷にスパニッシュ風味がかかった不思議な建物です。1907(明治40)年に、ヴォーリズが日本で最初に設計をした建物で、彼に導かれてキリスト教信者となり若くして亡くなった親友ハーバート・アンドリューの遺族より贈られた資金を元に、ヴォーリズの貯蓄金全てを捧げて建てたそうです。
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 近江八幡教会はシャープでモダンな印象ですが、ヴォーリズの設計ではありません。ただその由来が興味深いので、後学のため解説板を転記します。
 1879年6月同志社新島襄らにより、滋賀県彦根にキリスト教が伝えられ、その後1888年「八幡講義所」が設立され、1901年5月9日「八幡組合基督教会」が創立されました。
 ウィリアム・メレル・ヴォーリズは、1905年滋賀県立商業学校(現:八幡商業高等学校)の英語教師として来幡し、1907年2月には「八幡基督教教育青年会館」(現:アンドリュース記念館)を建設しました。同年9月に現アンドリュース記念館に隣接した現在の場所に最初の教会堂を建設しました。以後、キリスト教は県下各地に宣べ伝えられました。
 1981年12月に教会堂が失火により全焼、1983年5月8日に一粒社ヴォーリズ建築事務所の設計により現在の教会堂は再建されました。
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 旧近江兄弟社「地塩寮」もヴォーリズの設計です。解説板を転記します。
 1940年6月(昭和15年)近江兄弟社の独身青年社員宿舎としてヴォーリズ氏により建てられました。寮の名は「あなたがたは地の塩である」という聖書の言葉に由来します。1階は社員の語らいの場であったロビーと5つの個室、2階も同様の個室を有します。
 住む人の健康な生活を願い、各室は南側の庭に面し太陽の光を十分に取り入れるなどの工夫がなされています。
 1984年(昭和59年)、近江兄弟社と関係の深い近江八幡教会が取得し、翌年改築されました。
 現在、1階は教会の集会や会議に使われ、2階は牧師家族の住居として用いられています。外観は現在も建築当時のままの姿を残しております。
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by sabasaba13 | 2017-12-09 06:57 | 近畿 | Comments(0)

近江編(54):近江八幡(15.3)

 自転車を返却して、彦根駅から琵琶湖線新快速に乗って十四分ほどで近江八幡駅に到着です。一昨日の探訪で見残したいくつかのヴォーリズ物件を見て回ることにしましょう。前回と同様(書き忘れた気もしますが)駅近くにある「駅リンくん」で自転車を借りて、まず向かったのは旧近江家政塾(石橋邸)です。直交する屋根と「焼き過ぎ膨張レンガ」の塀が印象的。資料の解説を転記します。
 キリストの精神に基づき、実力ある婦人の養成を身につける目的とした教育事業の学校であった。吉田悦蔵氏の妻、清野夫人が料理等、街の婦人教養を目的に近江家政塾として建てた。大屋根を架けた外観は和風で、床は板張り、大きく開口部をとり、教室を明るくした。ミッション教育事業の一翼を担うことになった。
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 すぐ近くにある旧広瀬邸は「bistro だもん亭」として再利用されていました。同じ資料から引用します。
 木造2階建て、日本瓦葺きで外壁は真壁である。窓のデザインは建築当時の木製の両開き窓を現代風にアレンジしている。玄関は南側に位置する。室内はヴォーリズ建築の特徴が随所に残っており、住み心地を重視したヴォーリズのヒューマニズム溢れる空間を感じることができる。
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 ピカチュウの飛び出し人形を撮影して、しばらくペダルをこぐと「朝鮮人街道」という石柱がありました。
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 解説文を転記します。
朝鮮人街道(京街道)
 江戸時代、将軍が交代するたびに朝鮮国より国王の親書をもって来日する「朝鮮通信使」は、役人の他にも文人や学者など、多い時には500人規模で組織され、往復で約1年もの歳月を費やしたと言われています。
 行程はソウルから江戸までの約2,000キロにもなりますが、近江八幡を含む、彦根から野洲までの一部の地域で「朝鮮人街道」と今も呼ばれています。
 本願寺八幡別院(市内北元町)では正使、そして京街道(当地域)一帯で随員の昼食や休憩場所として使われ、当時の町人はまちを挙げて歓迎し、文化交流がさかんに行なわれました。
 朝鮮通信使に関する史跡などは、これまでに牛窓豊橋勝本(壱岐)厳原(対馬)室津下蒲苅島清見寺など、各地で出会いました。両国それぞれの思惑はあるでしょうが、基本的に友好的な関係を保った歴史を忘れないようにしたいものです。
by sabasaba13 | 2017-12-07 06:33 | 近畿 | Comments(0)

近江編(53):彦根(15.3)

 彦根駅近くには「自衛隊滋賀地方協力本部 彦根地域事務所」「自衛隊ショールーム」がありましたが、自衛隊については過去の記事をご笑覧ください。「社会貢献も、国際貢献も、平和をめざす私たちの大切なテーマです」「平和を愛する人が欲しい」というスローガンが空しく響きます。♪The answer my friend is blowin' in the wind.♪

 彦根駅前には井伊直政公像がありました。
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 解説文を転記します。
 永禄4年(1561年)現在の静岡県井伊谷に生まれ、幼少の頃から文武両道に励み、慶長5年(1600年)に徳川四天王の一人として天下分け目の合戦で知られる関ケ原の戦で功をあげ、石田三成の居城であった佐和山城を与えられ、18万石の大名となった。
 その後、城を現在の彦根山へ移そうとしたが、同7年(1602年)41歳で病没し、子らが直政の遺志を受け継ぎ二十年の歳月を費やし元和8年(1622年)彦根城を完成させた。
 こうして、彦根三十五万石初代藩主井伊直政公は、今日の彦根市発展の礎を築いたのである。
 えーと、たしかNHK大河ドラマ『おんな城主直虎』の主人公、井伊直虎の養子となって井伊家を継いだ方ですね。この手の歴史ドラマにはまったく食指が動かないのでどうでもいいのですが。それにしてもNHK大河ドラマは、権力に抗ったひとびと、例えば田中正造幸徳秋水布施辰治をとりあげませんね。当然と言えば当然ですが。
by sabasaba13 | 2017-12-05 07:20 | 近畿 | Comments(0)

近江編(52):彦根(15.3)

 天守の外へ出ると、着ぐるみの「ひこにゃん」が現われ、遠足できていた子どもたちに囲まれていました。それでは彦根駅へと戻りましょう。自転車にまたがり少し走ると、彦根城を頂いたご当地ポストを発見。
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 その先には大老・井伊直弼の歌碑がありました。
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 後学のために解説を転記します。
井伊大老(直弼)歌碑

あふみ(近江)の海 磯うつ浪の いく度か 御世にこころを くだきぬるかな

 安政7年(1860年)正月、直弼は、正装姿の自分の画像を御用絵師狩野永岳に描かせ、この自詠の和歌を書き添えて、井伊家菩提寺の清涼寺に納めたと伝えられる。
 この歌は、琵琶湖の波が磯に打ち寄せるように、世のために幾度となく心を砕いてきたと、幕府大老として国政に力を尽くしてきた心境をあらわしている。
直弼は、この二ヶ月後の3月3日、江戸城桜田門外で凶刃に倒れた。
 井伊直弼に関しては、毀誉褒貶、いろいろな評価があります。しかしここは、マルク・ブロックの"ロベスピエールをたたえる人も、にくむ人も、後生だからお願いだ。ロベスピエールとはなにものであったのか、それだけを言ってくれたまえ"という言を借りて、彼が何者であったのかを確認したいと思います。幕末維新研究の泰斗、田中彰は『日本の歴史⑮ 開国と倒幕』(集英社)の中で、以下のように述べています。
 1857年(安政4)6月の老中阿部正弘の死去のあと、幕閣の実権は老中堀田正睦(佐倉藩主)に移り、彼は開国政策を支持した。その背後には溜間詰(江戸城内黒書院の溜間で、登城してここに詰める大名を溜間詰、略して溜詰ともいう)の家門・譜代大名がおり、その指導権は彦根藩主井伊直弼が握っていた。これと対立したのが1853年(嘉永6)のペリー来航以来、攘夷主義の立場をとっていた徳川斉昭以下松平慶永、島津斉彬らに代表される大廊下詰家門大名、大広間詰外様大名の一派であった。
 当時、廃人同様といわれた第十三代将軍家定の継嗣問題をめぐってもこの二派は対立し、外交問題と内政問題とが結びつくことによって、この二派の対立はいっそう先鋭化した。
 つまり幕閣の独裁をおさえ、諸雄藩合議制を主張する家門・外様大名の一派は、一橋慶喜(斉昭の第七子)を将軍のあとつぎにしようとし(一橋派)、井伊ら幕閣独裁をとろうとした家門・譜代大名の一派は、紀州藩主徳川慶福(のち家茂)を擁立した(南紀派)。両派とも朝廷工作をすすめ、その暗闘のなかで南紀派の策謀が功を奏したのである。井伊が大老に就任し、独断専行、慶福を将軍継嗣に決定するとともに、威嚇と督促を重ねて迫る初代駐日総領事タウンゼント・ハリスに対しては、勅許をえないままに日米通商条約を調印した(1858年、安政5年6月)。
 継嗣問題で敗れた一橋派は、井伊の違勅調印を理由に、いっせいに井伊攻撃に立ち上がった。「違勅」には「尊王」を、「開国」には「攘夷」を対置した。「攘夷」は反幕閣・反井伊のスローガンになったのである。
 斉昭・慶喜親子や徳川慶恕、松平慶永らが不時登城して井伊を詰問すれば、梁川星巌、梅田雲浜、頼三樹三郎、池内大学らの志士たちは京都に参集して反幕的気運を盛り上げた。孝明天皇も激怒して譲位の意向を示し、1858年(安政5)8月には、条約調印に不満を示す勅諚(戊午の密勅)を水戸藩に下した。朝廷内部にも上級佐幕派公卿と下級攘夷派公卿とが対立し、後者は「列参」(集団行動)という示威行動をとるにいたった。
 この事態に幕府の危機をみた井伊は徹底的な弾圧策をとったのである。井伊の論理は、政治は朝廷から幕府に委任されているのであり、外圧の危機に「臨機の権道」をとるのは当然だとし、勅許を待たない重罪は甘んじて自分一人が負うというものだった。それだけに反対陣営に対しては、大老職に政治生命を賭けて対応したのである。だから、その政治行動は迅速果敢、強烈な政治意志の発現たる強圧的な弾圧策として断行された。
 しかし、その政治意志が幕藩体制の保守的な伝統の維持として貫かれようとする限り、客観的にはかえって矛盾を深化・拡大させる結果となった。(p.114~7)
 外圧という非常時的な危機と「攘夷」の不可能性へのリアルな認識、それを回避して国家を守るためにはあらゆる手段を取るという情熱、その結果に対する真摯な責任感。井伊直弼が一流の政治家であったことは間違いないと思います。ただ彼が守ろうとしたものは、譜代大名による権力独占の現状維持(ステータス・クオ)でした。よってその権力独占を打破しようとする反対勢力との間に、権力の配分をめぐるきわめて政治的な闘争が発生しました。ただこの両勢力には、権力を奪取したうえで何を目指すのかという視点が決定的に欠落していたと思います。たとえば民衆の安寧をも含んだ日本の独立維持という、より高次の目標がなかったのではないか。幕府の権力と暴力装置を過信した井伊は、反対勢力に凄惨な弾圧を加え、最後はその報復として凶刃に倒れます。
 己の力への過信、反対勢力の力量への過小評価、そして権力を使って何を実現するのかという目標の不在、これらが井伊の失敗の原因ではないでしょうか。マックス・ヴェーバーは『職業としての政治』(岩波文庫)の中でこう述べています。
 情熱は、それが「仕事」への奉仕として、責任性と結びつき、この仕事に対する責任性が行為の決定的な規準となった時に、はじめて政治家をつくり出す。そしてそのためには判断力-これは政治家の決定的な心理的資質である-が必要である。すなわち精神を集中して冷静さを失わず、現実をあるがままに受けとめる能力、つまり事物と人間に対して距離を置いてみることが必要である。「距離を失ってしまうこと」はどんな政治家にとっても、それだけで大罪の一つである。(p.78)
 "状況に対する距離感の喪失"、他山の石としましょう。
by sabasaba13 | 2017-12-03 08:42 | 近畿 | Comments(0)