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若草山山焼き編(24):大和郡山(15.1)

 この事件に関する史蹟は、これまでに津和野を訪れました。よろしければ訪問記をご一読ください。
 なお棄教を迫られた浦上キリシタンたちが、国家権力の強圧と暴力に対して抵抗し、毅然として信仰を守り抜こうとした史実は、大佛次郎氏が『天皇の世紀』(文春文庫)の中で詳細に述べておられます。一部ですが紹介しましょう。
 …政治権力に対する浦上の切支丹の根強い抵抗は、目的のない「ええじゃないか踊り」や、花火のように散発的だった各所の百姓一揆と違って、生命を賭して政府の圧力に屈服しない性格が、当時としては出色のものであった。政治に発言を許されなかった庶民の抵抗として過去になかった新しい時代を作る仕事に、地下のエネルギーとして参加したものである。新政府も公卿も志士たちも新しい時代を作る為になることは破壊以外に何もして居なかった。浦上の四番崩れは、明治新政府の外交問題と成った点で有名と成ったが、それ以上に、権力の前に庶民が強力に自己を主張した点で、封建世界の卑屈な心理から脱け出て、新しい時代の扉を開く先駆と成った事件である。社会的にもまた市民の「我」の自覚の歴史の上にも、どこでも不徹底に終わった百姓一揆などよりも、力強い航跡を残した。
 文字のない浦上村本原郷の仙右衛門などは自信を以て反抗した農民たちの象徴的な存在であった。維新史の上では無名の彼は、実は日本人として新鮮な性格で、精神の一時代を創設する礎石の一個と成った。それとは自分も知らず、その上間もなく歴史の砂礫の下に埋もれて、宗教史以外の歴史家も無視して顧みない存在と成って、いつか元の土中に隠れた。明治の元勲と尊敬された人々よりも、真実新しい時代の門に手を賭けた者だったとも言えるのである。元勲たちは実は時代の波に乗せられて自己の意思なく漂流していたものである。(⑪p.105)

 浦上切支丹の「旅の話」は、この辺で打切る。私がこの事件に、長く拘り過ぎるかに見えたのは、進歩的な維新史家も意外にこの問題を取上げないし、然し、実に三世紀の武家支配で、日本人が一般に歪められて卑屈な性格になっていた中に浦上の農民がひとり「人間」の権威を自覚し、迫害に対しても決して妥協も譲歩も示さない、日本人としては全く珍しい抵抗を貫いた点であった。当時、武士にも町人にも、これまで強く自己を守って生き抜いた人間を発見するのは困難である。権利という理念はまだ人々にない。しかし、彼らの考え方は明らかにその前身に当るものであった。(⑪p.230)
 人間としての権威と権利を守るために、強権に対して妥協も譲歩も示さず、抵抗を貫く。私たちが学ぶべき点だと思います。

 それではそろそろ大和郡山とお別れです。実は、今調べていて分かったのですが、付近には、室町時代に出来た環濠が原型に近い形で残されており、その規模も全国最大級という稗田環濠集落や、番条環濠集落があるとのことです。探訪を断念した東岡町の遊郭物件と合わせて、再訪を期しましょう。レンタサイクルもあるようですし。
 近鉄郡山駅には、金魚をデザインしたトイレ男女表示がありました。
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 大和西大寺駅で近鉄京都線の急行に乗り換えて京都へ。近鉄京都駅では「日本最古の神社 三輪明神」という大きな看板を発見。そして京都駅の地下街にあった「いろはかるた」で、とんぺい焼きと牡蠣入りねぎ焼きをたいらげました。
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 「いのだコーヒ」で食後の珈琲を所望し、京都20:02発の新幹線に乗り込みました。
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 車内誌「ひととき」では高野山を紹介する記事がありましたが、たしか重森三玲がつくったお庭があることを思い出しました。こちらも再訪してみたいものです。とりあえずマスコット・キャラクターの「こうやくん」を撮影。
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 若草山焼き編、これにて一巻の終わりです。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-06-10 06:37 | 近畿 | Comments(0)

若草山山焼き編(23):カトリック大和郡山教会(15.1)

 そしてカトリック大和郡山教会に着きました。こちらには「切支丹流配碑」があるのですが、門扉が閉ざされていたため近くまで行けず、ズームで撮影しました。観光ナビから引用します。
浦上キリシタン配流記念碑
 大政奉還後、明治政府は幕府のキリシタン迫害をゆるめるどころか、むしろ強化し、慶応4年=明治元年(1868)長崎浦上キリシタン約2,800人たちを名古屋以西の10万石以上の19藩に配流した。郡山藩にも明治2年の暮、14家族86人が送られてきた。彼らはまず北茶町の雲幻寺(現在の良幻寺)に収容され間もなく町内各所に移されたが、初めは藩主柳澤保申の意志により待遇は他藩に比べひじょうによかった。
 しかし、明治4年、太政官の巡察使が来てから郡山藩の待遇が良すぎると注意を受け、以来、待遇は一転した。
 明治5年、津藩から送られて来た23人のキリシタンとともに、郡山城三の丸に移されてからは少しし待遇は良くなったが、同年暮に幼少年は奈良に移され軽労働を、他の者は天ノ川銀山に送られ労役を強いられた。
 やがて明治政府は、カトリック教諸外国の非難により明治6年3月、キリシタンを放還することになり、郡山藩預かりの114人は帰国を許された。しかし配流の5年間に9人が病死している。
 大正15年殉教者6人の名を刻んだ墓碑が雲幻寺境内に建てられたが、昭和44年、大和郡山カトリック教会(城南町)へ移され、浦上キリシタン配流記念碑となり、毎年11月3日に遺族も参加してミサが行われている。
 合掌。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-06-09 06:30 | 近畿 | Comments(0)

若草山山焼き編(22):大和郡山(15.1)

 それでは最後に、キリシタン殉難碑のある大和郡山カトリック教会へと向かいましょう。途中で見かけた古い町屋にはばったん床机が設置されていました。
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 古い電話ボックスは水槽となっており、なんと金魚が遊弋していました。さすがは大和郡山。
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 もう営業されていないのでしょうか、古い旅館「花内屋」は品格のあるいい風情ですね。起り屋根、前面を飾る繊細な格子、虫籠窓、木彫の看板、いずれも見惚れてしまいました。その先には「紀元二千六百年記念」と刻まれた石柱がありました。
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 近鉄の線路を越えて西へ歩いていくと、スポーツ用品店の店頭に巨大なグラブが飾ってあり、「グラブ神社」という解説板がありました。
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 後学のために転記しておきます。
グラブ神社
 神宿る巨大グラブの絵馬を大和郡山八幡神社様に奉納1.6m×1.2mの吉野檜製ショーケースに野球発祥アメリカのクラシックグラブと日本のグラブ十体、そして平城京で子ども達が行っていたという打毬のバットも納めました。ぜひご参拝下さい。
場所 柳四丁目二十五番
 余談ですが、「野球」は俳人・歌人の正岡子規が命名したものですね。野球が大好きだった彼は、幼名の升(のぼる)をもじって「のボール」と読ませる号を用いていたそうです。今読んでいる『子規と漱石 友情が育んだ写実の近代』(小森陽一 集英社新書)から引用します。
 この1898(明治31)年の五月、子規は新聞『日本』に『ベースボールの歌』を発表する。長谷川櫂氏は、この九首を「子規が訣別した青春時代をかなしみ、たたえる歌」(『子規の宇宙』 角川選書、2010)と位置づけている。

 久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも
 国人ととつ国人とうちきそふベースボールを見ればゆゝしも
 若人のすなる遊びはさはにあれどベースボールに如く者はあらじ
 九つの人九つのあらそひにベースボールの今日も暮れけり
 今やかの三つのベースに人満ちてそゞろに胸のうちさわぐかな
 九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす
 うちはづす球キャツチャーの手に在りてベースを人の行きぞわづらふ
 うちあぐるボールは高く雲に入りて又落ち来る人の手の中に
 なかなかにうちあげたるは危かり草行く球のとゞまらなくに

 子規が実践しようとした短歌革新が、どのような表現世界を目指していたのかが、明確に伝わってくる九首である。「ベースボール」というカタカナ語と関係を結ぶことによって、使い古されたはずの歌語にまったく新しい命が吹き込まれ、「明治」という時代の精神の一つの在り方が、はじけるような力強さで伝わってくる。坪内稔典氏は、「チームによるゲーム」としての「ベースボール」に、子規が「共同の楽しみを見出していた」として、「そのチームに句会や歌会などと同じような共同性を見出していたにちがいない」(『正岡子規-創造の共同性』 リブロポート、1991)と指摘している。(p.114~5)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-06-08 06:29 | 近畿 | Comments(0)

若草山山焼き編(21):洞泉寺町(15.1)

 そして「まちなかサロンカフェー 佳香」で珈琲をいただいて一休み。
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 それではかつての遊郭町、洞泉寺町へと行きましょう。この町の存在は、『赤線跡を歩く』(木村聡 ちくま文庫)に教示していただきました。「ニュース 奈良の声」から引用します。
 市史によると、洞泉寺町の遊郭の歴史は、近世郡山藩が成立した江戸初期にさかのぼる。元和3、4(1617、18)年ごろ、同じ城下町内の雑穀町から移された。同7(1621)年、士風に悪影響があるとして取り払われたが、その後、再び遊女町に戻り、幕末には6軒が店を並べた。
 1995年県発行の「ならの女性生活史 花ひらく」によると、明治の本県には、奈良町と郡山町に合わせて4カ所の公認された遊郭があり、洞泉寺町はその一つ。同書に収められた、洞泉寺町の遊郭経営者の家に生まれた人の証言によると、昭和32(1957)年の売春防止法施行に伴い、遊郭が閉鎖された当時は14、15軒が営業をしていた。閉鎖後は、貸し座敷や麻雀店にしたり、大学生に間貸しするなどの転業をしたという。
 県建築士会郡山支部によると、遊郭だったとみられる建物は現在5軒。建物は軒を連ねるか、近接するかしており、同町の歴史的町並みを形成する要素になっている。
 このうち、旧川本家住宅は市ホームページによると、大正13(1924)年の建築で木造3階建て。格式の高い豪壮な造りで、近代遊郭の屋敷構えを知ることができる貴重な近代和風建築という。市が保存を目的に買収し、平成26(2014)年、国の登録有形文化財に登録された。まちづくり、観光、人権教育などの拠点としても活用されているという。公開に向け、現在、耐震工事が行われている。
 それでは徘徊いたしましょう。ひと目でそれと分かる遊郭建築が数軒、軒を並べています。豪壮な三階建て、繊細な格子窓、洒落た玄関、意を尽くした意匠、これは見事です。
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 中にはハート型の窓が三つ並ぶという建物もあり、おもわず緩頬してしまいました。ただ前出の「ニュース 奈良の声」によると、いずれも空き家か人が住んでいない状態になっており、関係者諸氏は取り壊しを考えているそうです。費用がかかるのは理解できますが、なんとか保存ができないものでしょうか。貴重な建築であると同時に、時代の暗黒面も物語る証人だと思うのですが。
 実は、東岡町あたりも遊郭跡であるということで、さがしたのですが見つけることができませんでした。事前調査の不足、および新幹線の乗車時刻の関係で、捜索を断念。再訪を期したいと思います。

 本日の五枚です。
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by sabasaba13 | 2017-06-07 06:31 | 近畿 | Comments(0)

若草山山焼き編(20):大和郡山(15.1)

 その近くには古い意匠の火の見櫓がありましたが、おそらく江戸時代のそれを復元したのでしょう。交通安全足型を撮影して本町へ。
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 このあたりは古い商家が櫛比する落ち着いた雰囲気の街並みです。厨子二階塗籠造り、格子窓、起り屋根、うだつなど、見ていて飽きません。
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 郡山城の外堀を利用し整備した公園、外堀緑地を通り抜けて紺屋町へ。
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 このあたりはかつて染物屋さんが集まっていた町で、道筋の中央には水路が通っています。この水はお城の堀から流れ出ており、染めた布や糸を晒していたそうです。こちらにある箱本館「紺屋」は、明和年間(1764~1771)に建てられた市内最古の町屋です。奥野氏が代々染物屋を営んでいましたが1998年に廃業したため、藍染の体験もできる資料館として再生しました。
 洞泉寺町の方へ歩いていくと、「美しく、強く、成長する国へ。」という訳の分からないスローガンを掲げる高市早苗氏(自民党)のポスターが貼ってありました。
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 そう、2016年2月8日、衆議院予算委員会において、放送局が「政治的に公平であること」と定めた放送法の違反を繰り返した場合、放送法4条違反を理由に、電波法76条に基づいて電波停止を命じる可能性について、「行政が何度要請しても、全く改善しない放送局に何の対応もしないとは約束できない。将来にわたり可能性が全くないとは言えない」と述べた御仁ですね。自民党の尻の穴を舐めろ、さもないと痛い目にあわせるぞ、というメディアへの恫喝も問題ですが、「政治的に公平」の趣旨を「政権与党への批判を禁ずる」と捉えることにも疑問を感じます。このお方だけではなく自民党のみなさまには、ぜひ『学校が教えないほんとうの政治の話』(ちくまプリマー新書)を熟読して斎藤美奈子氏の言をかみしめていただきたいものです。
 政治参加の第一歩は、あなたの「政治的なポジション(立場)」について考えることです。政治的なポジションは、結局のところ、二つしかありません。
 「体制派」か「反体制派」か、です。
 「体制」とは、その時代時代の社会を支配する政治のこと。したがって「体制派」とはいまの政治を支持し「このままのやり方でいい」と思っている人たち、「反体制派」はいまの政治に不満があって「別のやり方に変えたい」と考えている人たちです。
 さて、あなたはどちらでしょう。
 どっちでもない? あ、そうですか。そんなあなたは「ゆる体制派」「ぷち体制派」「かくれ体制派」です。どっちでもない、つまり政治に無関心で、特にこれといった意見がない人は、消極支持とみなされて自動的に「体制派」に分類されます。
 先にいっておきますが、政治的な立場に「中立」はありえません。
 世の人々はとかく「自分こそが中立で、まわりが偏っているのだ」といいたがります。あるいは「自分こそが正義で、まわりがまちがっているのだ」と考えたがります。とんだ誤解というべきでしょう。民主主義とは多種多様な意見を調整し、よりよい結論を導くためのしくみです。人の意見は多様なものである、という前提に立てば、どんな意見も少しずつ「偏っている」のが当たり前なのです。(p.19)
 そうそう、奈良二区有権者のみなさまも是非読んでください。そしてこのような御仁が衆議院議員としてふさわしいのかどうか熟考していただきたいものです。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2017-06-06 06:27 | 近畿 | Comments(0)

若草山山焼き編(19):大和郡山(15.1)

 ホテルに自転車を返却して預けておいた荷物を受け取り、小腹がへったのでティーラウンジでサンドウィッチをいただきました、高かったけれど背に腹は代えられません。
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 それでは出発、さらば奈良ホテルよ。さらば荒池よ、五重塔よ。
 近くにあった老舗旅館の「菊水楼」を撮影してふたたび奈良公園へ。そうです、やはり鹿のみなさんに鹿せんべいをあげなければ。「このせんべい代は可愛いい(ママ)鹿の保護にあてます」という証紙でくるまれた鹿せんべいを150円で購入し、山ノ神にわたしました。できるだけ公平に食べさせようとする御仏のような彼女は、一匹に一枚と決めていたようですが、食べさせたのに煩くつきまとう鹿がいます。とうとう彼女の臀部に頭突きをくらわす始末、思わず写真に撮って見せたら、「なんで助けてくれなかったの」と仏頂面の山ノ神、「ヒグマだったら身を呈して助けていた」と、白々しい嘘をつく私。
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 そして県庁の屋上へとのぼりました。おおっ素晴らしいパノラマ、三笠山や大仏殿、興福寺五重塔を手に取るように一望できました。いつか山焼きをここから見てみたいものです。
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 近鉄奈良駅へ行き、忘れちゃいけない、駅近くの「たなか」に寄ってさきほどいただいたクーポン券で柿の葉寿司を貰い受けました。駅構内には「日本一高いビルの展望台でひとやすみ あべのハルカス300」と記された、マスコット・キャラクター「あべのべあ」のポスターがありました。いつか上ってみたいものです。そして近鉄奈良線に乗って大和西大寺駅へ、さらば朱雀門よ。
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 近鉄橿原線に乗り換えて近鉄郡山駅に到着です。所要時間は約20分、この間に柿の葉寿司を半分こして食べてしまいました。それでは大和郡山の街歩きをはじめましょう。いきなりマンホールの蓋に、名物の金魚を発見。
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 そう、ここ大和郡山は金魚の養殖で有名なのですね。観光協会の公式サイトによると、大和郡山市における金魚養殖の由来は、享保9年(1724年)に柳澤吉里が甲斐の国(山梨県)から大和郡山へ入部のときに始まると伝えられています。幕末の頃になると、藩士の副業として、明治維新後は、職禄を失った藩士や農家の副業として盛んに行われるようになりました。また、これら歴史的背景に加え、自然条件としては水質、水利に恵まれた農業用溜池が数多くあり、溜池に発生する浮遊生物(ミジンコ類)が金魚の稚魚の餌に適していたことなど、有利な条件が備わっていました。近年は都市化に伴う水質汚濁等の環境悪化などで生産量は減少したものの、 養殖農家約50戸、養殖面積約60ヘクタールで、年間金魚約6,000万匹が販売されています。おしまい。

 正体不明の飛び出し小僧と、酒蔵らしき大きな建物を撮影し、しばらく歩くと豊臣秀長の菩提寺である春岳院がありました。
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 そしてお目当ての一つ、杉山小児科医院に到着。様々な装飾がほどこされたハーフティンバー様式で、ドイツ民家のような洒落た物件です。これなら子供たちも泣き叫ばないだろうなあ…たぶん。

 本日の四枚です。
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by sabasaba13 | 2017-06-05 08:04 | 近畿 | Comments(0)

若草山山焼き編(18):高畑町(15.1)

 そして白毫(びゃくごう)寺へと向かいますが、途中で珍しい透かしブロックを見かけました。やはり上りの坂道が続きます、電動アシスト付自転車でよかった。すいすいと電気の力を借りて、十分ほどで白毫寺に着きました。
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 天智天皇の皇子、志貴皇子の山荘跡に建てられたと言い伝えられる古刹で、鎌倉時代に叡尊によって再興されました。百段余りの石段を登ると境内から奈良市街を一望することができました、絶景絶景。奈良の街並み、寺門、石段、土塀を写真におさめるとまるで一幅の絵のようです。なお咲いてはいませんでしたが、奈良三名椿の一つとして知られる五色椿や参道の石段を覆う萩も有名です。
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 それでは高畑(たかばたけ)界隈を彷徨しましょう。このあたりは、春日大社の神職が住む町として古くからひらけ、柳生街道の終始点であったことから賑わってきました。また、大正から昭和にかけては多くの文人墨客に愛され、文化の町としても知られるようになりました。白壁・築地塀・奈良の伝統的な町屋・文人墨客が建てた洋館風の民家・石の道標や路傍の石仏などが楽しめる、私の大好きな町です。お寺さんを背景に屹立する火の見櫓と、志賀直哉旧居を撮影。
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 その近くには登録有形文化財に指定されている中村家住宅(旧足立家住宅)主屋・塀がありました。
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 解説文を転記します。
 この住宅は、洋画家足立源一郎(1889-1973)が自邸として大正8(1919)年に建て、昭和3(1928)年に洋画家中村義夫(1889-1957)が譲り受けたものです。
 主屋は、赤瓦を葺き、外壁をモルタルで仕上げた洋風住宅です。フランスから帰国した足立自ら南プロバンス風に設計したと伝わっています。内部には、ステンドグラスで飾った玄関、吹抜けのアトリエ、サンルーム等があります。土塀にも赤瓦を使用し、瀟洒な門柱を構えています。
 なお、この一帯には、明治初期まで春日大社の神官たちが、土塀で囲った屋敷に暮らしていました。当家の土塀も、そうした歴史を受け継ぐものです。
 町の風情を楽しみながら自転車をゆっくりと走らせ、奈良公園へ。三笠山の麓を駆け抜けて山焼きの跡を視認し、東大寺大仏殿や鹿たちを撮影しながらホテルへと向かいました。途中で「天極堂」に立ち寄って、山ノ神はお土産の葛菓子を購入。
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 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2017-06-04 08:08 | 近畿 | Comments(0)

若草山山焼き編(17):新薬師寺(15.1)

 そして十数分ほどペダルをこいで新薬師寺へ向かいました。747(天平19)年、聖武天皇の病気平癒を祈って光明皇后が創建した古刹です。お目当ては、凛とした小振りな本堂(国宝)の中に鎮座する塑像群、本尊の薬師如来を守護する十二神将です。残念ながら写真撮影はできないのですが、その厳しい表情と躍動的な姿態を拝んでいると身心がひきしまる思いです。
 なおこちらにも会津八一の歌碑がありました。
ちかづきて あふぎ みれども みほとけ の みそなはす とも あらぬ さびしさ
 『自註鹿鳴集』(岩波文庫)には、こう記されています。
 あふぎみれども 高さ二尺四寸の立像にで、決して高しとはいふべからざるも、薬師堂の正面の壇上に、やや高く台座を据ゑたれば、「仰ぎ見る」とは詠めるなり。この歌の作者自筆の碑は、今は空しくその堂の前に立てり。嶋中雄作君の建つるところ。(p.27~8)
 お寺さんでもらったパンフレットによると、これは香薬師、子供の姿をした薬師如来の小像で、昭和時代に寺外へ持ち出されて今も行方不明だそうです。嶋中雄作は中央公論社の社長ですね。
 なお新薬師寺のとなりには「扉があいているときはどうぞご自由にお入り下さい」「熟柿庵」という札がかかった、寺でもなし神社でもなし菜園でもなし、草木やアカンサスが雑然と生い茂る摩訶不思議な空間がありました。今もってよくわからないのですが、木片に金釘流で無造作に書かれていた「緑蔭のブランコに歳なくしけり」という句が妙に心に残っています。
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 そして近くにある、唐招提寺のような大屋根と甍が印象的な「入江泰吉記念 奈良市写真美術館」に参りました。公式サイトから、奈良大和路の写真家として著名な入江泰吉(1905~1992)についての紹介文を引用します。
 1905(明治38)年、奈良市に生まれる。画家を志すが家族の反対で断念するも、長兄からアメリカ・イーストマン社のベストコダック・カメラを譲り受け、写真に打ち込む。1931(昭和6)年、大阪で写真店「光芸社」を開業。文楽人形を撮影した「春の文楽」で世界移動写真展一等賞を受賞、文楽の写真家として活躍する。1945(昭和20)年3月、大阪大空襲に遭い自宅兼店舗が全焼、ふるさと奈良へ引き揚げる。同年11月17日、疎開先から戻される東大寺法華堂四天王像を目撃、そのときアメリカに接収されるとの噂を聞き、写真に記録することを決意。以後、奈良大和路の風景、仏像、行事等の撮影に専念。晩年は「万葉の花」を手掛けるなど約半世紀にわたって撮り続けた。1992(平成4)年1月16日死去。享年86歳。
 しばし彼が撮影した、奈良大和路の仏像や風景をテーマとした珠玉の写真を鑑賞。至福のひと時を過ごせました。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2017-06-03 06:30 | 近畿 | Comments(0)

若草山山焼き編(16):旧大乗院庭園(15.1)

 パチ。目が覚めてカーテンを開けると、今日もお天気は良さそうです。洗顔をしようと洗面所に入ると…小山のようにあったアメニティ・グッズが消滅しています。寝惚け顔で入ってきた山ノ神曰く、「夜中にコロボックルが持っていったわ」。そうきたか。ホテルにはちょっとしたお庭があるので、朝の散歩をしました。「乃木将軍お手植えの松」があり、「明治四十四年十月 師団対抗演習の統裁官として御来館記念」と記されていたので、おそらく日露戦争に備えての演習だったのでしょう。小さな石段をおりると荒池のほとりをめぐる遊歩道があったので、しばし散策。
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 そしてメインダイニングルーム「三笠」へ行き、茶粥定食をいただきました。朝の目覚めに優しい茶粥は、奈良の地元の人たちも普段からよく食べるそうです。粥をすすりながら、山ノ神に本日の行程をレクチャーしました。ホテルで自転車を借りて、旧大乗院庭園と新薬師寺あたりを徘徊、県庁の屋上にのべって古都奈良を睥睨し、列車で大和郡山に移動して杉山小児科医院診療棟と赤線跡を見物して京都へ戻り、新幹線で帰郷、というわけのわからない予定です。
 そして部屋に戻って出立の準備、「ずっとここに住みたい」と宣う山ノ神を、「住めば」と冷たく突き放す非情な私。階下におりてお土産を物色していると、さすがは"倒るる所に土をつかむ"山ノ神、柿の葉寿司を無料でもらえるクーポンを目敏く見つけて手に入れました。そしてチェックアウトをして、ホテルの自転車を借りることにしました。電動アシスト付自転車は1,296円/1日、ノーマル変速付自転車は864円/1日。逡巡しましたが、高円山のふもとにある白毫寺に行って奈良市街の眺望を楽しもうと思いますので、坂道があるであろうと予測して前者を借りることにしましたが、結果として大正解でした。荷物をフロントに預けていざ出発。まずはホテルのすぐ隣にある旧大乗院庭園を訪れました。ホテルの公式サイトから転記します。
 奈良ホテルの南側に隣接する「名勝 旧大乗院庭園」が2010年4月3日より、一般公開を開始いたしました。
 大乗院とは、1087年(寛治元年)に創建され、平安時代から江戸時代に栄えた門跡寺院のひとつ。(藤原氏の子弟が入室し、興福寺の別当職を輩出していた) 治承4年(1180年)の南都焼き討ちによる焼失後に現在地に移り、廃仏毀釈の影響で明治初年に廃寺となるまで存続していました。現在、その敷地内の一部が奈良ホテルとなっています。
 同庭園は室町時代の徳政一揆で荒廃しましたが、その後門跡尋尊大僧正の依頼により、室町時代に活躍した作庭の名手善阿弥によって改造されます。将軍足利義政を始め公家たちがしばしば拝観に訪れ、以降、明治初頭まで南都随一の名園と称えられていました。
 一時は奈良ホテルのテニスコートやパターゴルフ場が設置されたこともありましたが、戦後その一部が整備され、1958年(昭和33年)国の名勝に指定されるに至りました。
 1995年からは奈良文化財研究所による発掘調査と並行して、江戸時代末期の門跡・隆温が描いた「大乗院四季真景図」をもとに復元工事が進められ、この度平城遷都1300年祭に伴い、一般公開を開始いたしました。
 古い建造物などはないのですが、芝生・池・木々・赤い橋がきれいな広々とした庭園です。鏡のような湖面が風景を映してきれいでした。鴨たちも日向ぼっこを楽しんでいました。
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 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2017-06-02 06:30 | 近畿 | Comments(0)

若草山山焼き編(15):奈良町(15.1)

 それでは夕食をとってホテルへと帰りましょう。春日大社には鹿に関する注意を記したピクトグラムがありました。「たたく・突進・かむ・突く」に注意か、はい我々は全部経験しております。春日大社萬葉植物園では「イルミ奈~ら」というイルミネーションの催しが行われていましたが、入場料は1000円。やめやめ、人工照明を見るのに大枚千円を払うなんて貧乏性のわれわれ二人にはできかねます。
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 その先では「春日大社 大とんど祭場」という垂れ幕がかかり、大きな櫓が組まれて火が燃え盛っていました。
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 春日大社の公式サイトにはこうあります。
 小正月の伝統行事である「大とんど」を境内の飛火野で開催。飛火野に火炉(5m×5m、高さ3m)を設置し、正月に神社に持ち込まれた古いお札やお守り、注連縄飾りなどを焚き上げます。当日の会場への直接の持ち込みも可能。事前に市観光協会にて募集したボランティアにより、ダイオキシンが発生しないようお守りなどからビニールを除去する分別作業を行い、環境にも配慮した大とんどにしています。
 そしてライトアップされた旧奈良県物産陳列所の前を通り過ぎます。『奈良県の歴史散歩 上』(奈良県歴史学会 山川出版社)から引用します。
 奈良国立博物館の東側、春日大社表参道バス停の西側に京都の平等院の鳳凰堂を模してつくられたという玄関ロビーをもつユニークな建物が見える。現在は公開されていないが、「県内物産ノ改良振興ニ資スル」ため、2万5700円余の工費を投じて1900(明治33)年に起工し、2年後に完成した奈良県物産陳列所(国重文)の建物である。県内のさまざまな物産を陳列したり、その一部は即売されたという。当初は1人1銭の縦覧料が徴収された。
 設計はその頃奈良県技師として古社寺保存法にもとづく古建築修理の監督にあたり、その後日本建築様式史の確立に力を注いだ関野貞(ただす)である。日清戦争から日露戦争にかけて、勧業政策の充実が叫ばれた時代を象徴する建物の一つである。幾何学的な文様を施した窓に白壁が映え、公園の緑と調和して非常に美しい。(p.27)
 さきほどの雑踏が夢のように静謐な奈良町をそぞろ歩いていると、和風建築の「春」というステーキ屋を見つけました。よろしい、ここで夕食をいただきましょう。洒落た中庭を見ながら、大和のサーロイン・ステーキに舌鼓を打ちました。
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 なお給仕をしてくれた若い女性と話が弾んだのですが、彼女は宮崎県出身で、世界史教師をめざしてバイトをしながら勉強中とのことです。フランスに二カ月留学して、日本の歴史や文化をあまりにも知らないのに気付き、ここ奈良に移り住んだとのことです。その意気やよし。ホセ・オルテガ・イ・ガセット曰く、"過去は、われわれがなにをしなければならないかは教えないが、われわれがなにを避けねばならないかは教えてくれるのである"。お互い、何を避けるべきかを歴史から学んでいきましょう。

 食後のお散歩で、猿沢の池と興福寺を散策。夜景をカメラにおさめてホテルに帰着しました。

 本日の四枚です。
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by sabasaba13 | 2017-05-27 06:30 | 近畿 | Comments(0)