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近江編(34):修学院離宮(15.3)

 まずは下離宮の見学です。御幸門を通り抜けると右手奥に袖塀を持つ中門があります。石段をのぼると、後水尾院の御座所となった寿月観の御輿寄です。
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 御輿寄を左に見ながら進むと小さな苑池があり、四隅が反った朝鮮灯篭がいいアクセントになっています。
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 そして後水尾院行幸時の御座所となった建物、寿月観に着きました。なお「寿月観」の扁額は,後水尾上皇の宸筆だそうです。
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 寿月観の東にある小さな滝は、後ろの三角形の石を富士山に見立て、水の落ちる様が白糸を引いたように見えることから「白糸の滝」と呼ばれているとのこと。ここから鑓水が流れますが、緑にあふれたこのあたりの景観は格別です。櫓型灯篭もいい風情ですね。
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 東門を抜けると視界が開け、松並木の間を歩いて中離宮へと向かいます。この松並木は明治になって拡幅整備されたもので、かつては田んぼの畦道でした。なお綺麗に手入れされた松並木ですが、葉や枝を間引いて空間を開けて姿を整えつつも、あたかも人手を加えていないような柔らかな感じに仕上げる「御所透かし」という手法で手入れされているそうです。松並木の間からは,のどかな田園風景を眺めることができます。後水尾上皇は、離宮の造営の際に利用する域を最小限にとどめて他は耕作地として残し、耕作する農民の姿を自然景観に取り入れようとしたそうです。いい気なものですが。現在は農地を買い取り、地元の農家と賃貸契約を結んで耕作を依頼しているそうです。おお、京都市街も微かに見えてきました。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2017-09-24 08:54 | 近畿 | Comments(0)

近江編(33):修学院離宮(15.3)

 それでは修学院離宮を紹介いたしましょう。「京都観光Navi」の紹介文を引用しますと、1656~59年、後水尾上皇が比叡山麓に造営した広大な山荘で、約54万5000平方メートルの敷地に上・中・下、三つの離宮から構成され、いずれも数寄な趣向の茶亭等が閑雅にめぐらせた池の傍らに立ちます。自然と建物の調和が絶妙です。
 当然、莫大な費用がかかりましたが、これには裏話があります。できたてのほやほやの江戸幕府は、朝廷の権威を利用するために秀忠の娘・和子を後水尾天皇に入内させるとともに、禁中並公家諸法度(1615)を制定するなど、その統制に細心の注意を払いました。さらに、幕府の許可なく天皇が高僧に"紫の僧衣"を与えとして、紫衣を取り上げ、抗議した沢庵らを処罰します。これが紫衣事件。以前から幕府に反発していた後水尾天皇はこれで怒髪天を衝き、幕府の制止も聞かずに、和子が産んだ明正天皇に譲位してしまいました。859年ぶりの女帝ですね。天皇に対する統制の難しさを痛感した幕府は以後、強引な統制をやめソフトな融和策をとることになります。例えば、修学院離宮造営に対する援助もその一環です。その結果、可哀相に東福門院和子は朝廷内において孤立を余儀なくされ、やがて"衣装狂い"にのめりこんでいきました。半年間に、約一億五千万円相当の着物を購入したというのですから、これはもう狂気に犯されていたのかもしれません。そしてその注文先が「雁金屋」、そう、尾形光琳の生家です。彼女が亡くなったのは1678年、その時光琳は二十歳です。薄幸の狂気が、一人の天才芸術家を育んだ…などと想像するのも歴史を知る喜びの一つです。
 余談ですが、沢庵の配流先である春雨庵の記事を以前に掲載しましたので、よろしければご笑覧ください。

 表総門から入り、参観許可証を提示して中へ、参観者休所で待機しますが、桂離宮にくらべて質素な建物でした。さあ出発時間です。参観人数は二十人ほど、前に説明担当の方、後ろに歩みをせかす係の方が配置され、サンドウィッチ状態での見学となります。
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by sabasaba13 | 2017-09-22 06:24 | 近畿 | Comments(0)

近江編(32):修学院離宮へ(15.3)

 それでは修学院離宮へと向かいましょう。伏見桃山駅から京阪本線に乗って出町柳駅へ、叡山電鉄本線に乗って修学院駅で下車しました。徒歩20分ほどで着けるようですが、まだ時間があるので途中にあった軽食喫茶「千房」でやきめしをいただきました。心あたたまる家庭の味でした。
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 みごとな白漆喰の蔵を撮影して、参観予約時間午後三時のすこし前に到着です。
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 修学院離宮は1.5回訪れたことがあります。1回は予約をした上でのオフィシャルな参観、0.5回は…以前に掲載した拙ブログの記事を転記します。
 そして修学院離宮の脇を通って… おっ離宮の畑と植込みがすぐ目の前に見えます。おまけに人が自由に入っている! 「立入禁止」という看板が裏返しになっているので、こりゃ紅葉特別拝観なのか、宮内庁もなかなかういやつじゃ近う寄れ苦しゅうないぞ帯を解け、と勝手に判断し自転車で乗り込みました。もちろん庭園内部には入れませんが、付属の畑や、尋常ではない凝った造りの見事な垣根、絨毯のような苔と数本のもみじを見物できました。われわれの血税を使って手入れしてあるためか、何となく気品のある素晴らしい紅葉でした。するとキコキコと皇宮警察の方が自転車に乗ってやってきて「すみません、立入禁止です」と腰に下げた拳銃の引き金に指をかけながら(嘘)言うではありませんか。どうやら何者かが看板をひっくり返したようです。どなたか知りませんが、なかなか洒落たことをなさる通人ですね、ありがとう。裏技(犯罪?)ですが、看板をひっくりかえせば素知らぬ顔で修学院離宮に入れますよ。簡単に裏返せるので、お試しあれ(犯罪教唆?)。
 今となっては甘美な思い出ですが閑話休題。
by sabasaba13 | 2017-09-16 06:26 | 近畿 | Comments(0)

近江編(31):伏見(15.3)

 それでは男…もといっ(あーしつこい)弾痕を拝見しに参りましょう。龍馬通りを歩いていると、龍馬とお龍カップルの顔はめ看板がありました。
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 その先は、酒蔵が建ち並び、なかなか雰囲気のある街並みです。さてこのあたりにあるはずだが…きょろきょろ…あった。「魚三楼」という料理店に解説がありました。後学のために転記しましょう。
鳥羽伏見戦の弾痕

 右側、格子に数條ある痕跡は鳥羽伏見戦(1868年)の弾痕です。幕末の慶應4年1月3日、4日に此処伏見で薩長土連合の新政府軍と幕府軍とが大激戦をくりひろげました。世に言う鳥羽伏見の戦いです。(明治維新の最初の戦)
 幕府の大政奉還の奏上、朝廷の"王政復古の令"の直後朝廷側が決定した第15代将軍慶喜の辞官、納地(一切の官職と幕府領の返上)は、幕府を怒らせ、京へ攻め上って参りました。新政府軍は、これを鳥羽伏見で迎え撃ち、伏見では一大市街戦が展開され、幕府軍は敗れ、淀、大阪方面へ退却しました。
 この戦乱で伏見の街の南半分が戦災焼失、街は焼野原となりましたが、幸いにして、この建物は弾痕のみの被害で焼失免れました。
 格子を抉る弾痕を指でなぞりながら、徳川氏の命運を決めたこの戦いに思いを馳せました。なお「魚三楼」は明和元年(1764)創業の老舗料亭で、薩摩藩の炊事方も務めたそうです。
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 なお鎌倉の妙法寺には、鳥羽・伏見の戦いの原因となった薩摩屋敷焼き討ち事件における双方の死者を祀った「薩摩屋敷事件戦没者の墓」があります。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2017-09-14 06:27 | 近畿 | Comments(0)

近江編(30):寺田屋(15.3)

 そして濠川沿いの遊歩道を散策、見ていて赤面したくなるような「龍馬とお龍、愛の旅路」像があったので撮影。
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 解説を転記します。
 薩長同盟を締結させた直後の慶応2年(1866)寺田屋に宿泊していた坂本龍馬は伏見奉行所配下の捕り手に囲まれます。この時、危機を察知したお龍により命を救われた龍馬は、しばらく伏見薩摩藩邸にかくまわれていましたが、右手の傷を癒すためここ寺田浜から三十石舟に乗りお龍とともに、九州の霧島へと旅立ったのです。
 そういえば日豊本線の隼人駅を訪れたときに、「龍馬とお龍 日本最初の新婚旅行の地 霧島市」という大きな看板がありました。西郷隆盛と小松帯刀が温泉療養をすすめたのですね。

 そして、その寺田屋に着きました。そう、幕末に起こった二つの事件の現場となった旅館です。ひとつは、1862(文久2)年、薩摩藩主の父・島津久光が、暴走する薩摩藩尊王攘夷派を殺害した事件。もうひとつが前述した、坂本龍馬の遭難です。1866(慶応2)年、京での薩長同盟の会談を斡旋した直後に、寺田屋に宿泊していた坂本龍馬を、伏見奉行配下の捕り方が捕縛ないしは暗殺しようとした事件です。いち早く気付いたお龍が、風呂から裸のまま裏階段を二階へ駆け上がり投宿していた龍馬らに危機を知らせたというのは、有名なエピソードですね。
 それでは入場料を払って中へ入りましょう。そこかしこに「刀痕」「昔白刃の裏梯子 "お龍さん恋の通路の裏梯子"」「お龍さんが急を知らせた階段です」「裸のお龍さんで有名なお風呂です」といった手書きのビラが貼ってあるのには、ちょっと眉に唾をつけたくなりますね。ほんとなのかな。
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 帰郷後に調べたところ、やはり偽物でした。『ニホンシログ』というサイトによると、寺田屋は鳥羽・伏見の戦いにより焼失し、今の建物はその後に再建されたものです。そしてこの建物を、幕末当時のままの「寺田屋」と偽った張本人が第14代寺田屋伊助という方だそうです。ちなみに「寺田屋」とは血の繋がりのない赤の他人。1962(昭和37)年に司馬遼太郎が新聞に『竜馬がゆく』の連載を始めたころに、この建物を買い取り旅館経営を始めたとのこと。ま、目くじらをたてず、龍馬のテーマ・パークとして楽しめばいいのでしょうが、本物ではない旨は明言してほしいですね。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-09-12 14:16 | 近畿 | Comments(0)

近江編(29):伏見(15.3)

 祇園四条駅から京阪本線に乗って中書島駅で京阪宇治線に乗り換えて観月橋駅で下車。宇治川に沿って東へすこし歩くと、月見館本館に到着です。木造三階の威風堂々とした旅館で、昭和初頭に建てられた老舗旅館です。三角をなす千鳥破風がいい味付けになっています。
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 Uターンして西へ歩いていくと、煉瓦造りの平戸樋門がありました。近世から明治初期にかけて京大坂を結ぶ淀川舟運で賑わった運河・濠川がこの樋門通じて宇治川に注いでいるのですね。
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 そして近鉄澱(よど)川橋梁が見えてきました。野武士のような風格のある鉄製トラス橋で、竣工は1928(昭和3)年。陸軍演習に支障がないよう無橋脚橋梁として建設され、日本の単純トラス橋で最大の径間長165mを誇るそうです。
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 ぶらぶらと中書島駅方面に歩いていくと、「水でつながる文化とくらし 酒と歴史が薫るまち」という観光案内地図が路傍にありました。歴史上重要な町・伏見だけあって史跡がてんこ盛り、そしてなにより正確で見やすい地図が素晴らしい、逸品です。さっそくカメラで撮影し、舐めるように見ていると…「鳥羽伏見の戦い弾痕跡」がありました。そうか、戊辰戦争の端緒となった鳥羽・伏見の戦いはここで起きたんだ。その銃弾の跡が見られるとは、男…もといっ弾痕マニアとしてははずせません、ぜひ訪れましょう。風情にあふれる月桂冠大倉記念館を濠川越しに撮影。
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 そして中書島駅近くにある銭湯「新地湯」と再会しました。いやあ何度見てもいいですね、昭和初期の雰囲気を濃厚に醸す、わけのわからない装飾にあふれたキッチュな外観に見惚れてしまいます。中も往時のレトロな雰囲気が充満しているとのこと、お風呂マニアの方は「チャリで巡るお風呂屋さん!風呂敷日記」というサイトが必見です。
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 そして史跡「織田信長公塚石(墓石)」を発見。解説板によると、豊臣秀吉が伏見城にいた時、主君追慕のために設けた墓石だそうです。中書島駅から15分ほど歩くと、三栖閘門(みすこうもん)の、水門を上下させるための二本の巨塔が見えてきました。
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 近くまで接近して写真撮影、そのシャープな造形や装飾が印象的です。解説板があったので転記します。
 三栖閘門は伏見港と宇治川を結ぶ施設として昭和4年(1929)に造られました。2つのゲートで閘室内の水位を調節し、水位の違う濠川と宇治川を連続させて、船を通す施設です。
 昔は、たくさんの船が閘門を通って伏見と大阪の間を行き来していました。
 現在、道路や鉄道の発達にともない、交通路としては利用されていませんが、地域との関わりが深く、歴史的にも大変貴重な施設です。

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by sabasaba13 | 2017-09-09 06:33 | 近畿 | Comments(0)

近江編(28):東華菜館(15.3)

 二十分ほど歩いて阪急桂駅まで戻り、駅前にあった「ポデスタコーヒー」でロイヤル・ディッシュをいただきました。嬉しいことに全席で喫煙が可能、愛煙家の小生としては助かります。
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 最近、煙草を吸っていると白眼視される傾向がより強くなり、身の置き場がありません。もちろん、煙に害があることは十二分にわかっておりますし、できる限りの配慮もしています。自己弁護の余地はないことを承知のうえで言いたいのは、人体に害をもたらすものは煙草の煙だけではないということです。『同調圧力メディア』(森達也 創出版)から引用します。
 あるいはさまざまな健康被害をもたらすとして「狂った油」と呼ばれるトランス脂肪酸は、アメリカのマクドナルドでは使用中止を発表したが、日本マクドナルドは今もポテトフライに使っている。だからマクドナルドのポテトフライはなかなか腐らないらしい(試したことはないけれど)。
 問題は店のレベルだけではない。モンサントの遺伝子組み換え作物やミツバチが大量死するネオニコチノイド系農薬フィプロニルは、ほぼヨーロッパからは締め出されているが、日本では規制されていない。(p.176~7)
 なぜこうした油や農薬を規制しないのか。あるいは自動車の排気ガスや工場などから排出される物質などは、煙草の煙よりも害が少ないのか。そして何よりも、福島原発事故で排出された放射性物質、原発稼働によって日常的に排出される放射性物質の危険性はどうなのか。これを明らかにせず、喫煙者のみを攻撃するのは片手落ちだと思います。

 閑話休題。紫煙をくゆらしながら珈琲を味わい、これからの行程を確認しました。修学院離宮の参観集合時間は午後三時、あと四時間ちょっとあります。当初の予定通り、伏見に行って、近代化遺産である月見館本館、平戸樋門、近鉄澱川橋梁、三栖閘門、そして寺田屋を見物することにしました。桂駅から阪急京都線に乗って河原町駅へ、ここで地上に出て徒歩で京阪本線祇園四条駅に向かいます。鴨川のほとりにある、スパニッシュスタイルで様々な装飾が魅力の東華菜館はヴォーリズ設計だったのですね。昨日知りました。四条大橋を渡って出雲阿国像を撮影、向かいにあるレストラン「菊水」はかねがね気になっていた料理店です。いつかここで食べてみたいな。
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 本日の一枚は、東華菜館です。
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by sabasaba13 | 2017-09-07 06:24 | 近畿 | Comments(0)

近江編(27):桂離宮(15.3)

 というわけで時間にして一時間強、至福のひと時を堪能いたしました。今回の見学での収穫は、やはり石の美しさと面白さと楽しさを知ったことです。係の方も、桂離宮は六月がお薦めと言っていました。人少なく、新緑がきれいで、そして何より雨の日には石の色が美しいから。なるほど、雨の桂離宮か、偶然を期すしかないのですが是非とも訪れてみたいものです。もちろん、花、紅葉、雪の桂も。
 そして思ったのが、日本文化の精髄とか、日本文化にもモダニズムの源流があったとか、日本文化という文脈で桂離宮を語るのはやめるべきだということです。そして日本文化を、ひいては日本という国や日本人を賞賛するために桂離宮を利用することも。出典は忘れてしまったのですが、文化人類学者・岩田慶治氏が次のように述べられています。
 このごろ、国をあげて国際化が唱えられ、その声、その流れのなかで日本文化を再認識しようという試みが活?である。
 それは大いに結構であるが、そのさい日本文化の存在が当然の前提とされている嫌いがある。日本文化とは何か、果して日本文化という呼べるものがあるのか、という根本的な自己反省から出発してもよいのではなかろうか。
 さて、はじめに触れたような文化比較論から離れて、換言すれば遠景としての日本文化論ではなく、一歩、その文化の内部に踏みこんでみよう。日本文化と呼ばれる額縁を取り外して、自ら画面の中に入って筆を取るといってもよい。そうすると、そこに見られる光景は外からの眺めとはずいぶん違うのである。そこに見えてくるのは、作者の行為とその作品なのである。農民は稲を育てて米をつくる。みかん農家はみかんの木を育ててみかんをつくる。別に、日本文化をつくっているわけではない。
 人麻呂は亡き妻を偲んで挽歌をつくり、赤人は自然の寂寥相を歌って自分を表現した。それぞれの創造者はその道によって自己表現を試みたのである。親鸞や道元が生涯をかけて追求したところは、日本文化とはかかわりのない世界であった。
 創造者たちはそれぞれに自己表現の究極を目ざしたのであった。別に、日本文化をつくろうとしたわけではない。強いていえば、自分文化をつくろうとしたのである。
 万葉集には自ずから万葉調のリズムが流れ、古今集には、また、それなりの微妙な言葉のひびきがある。だから、そこに日本文化の基調音を聞きとることはできるかもしれない。しかし、それは作者の与り知らぬことで、作者は自分の作品が日本文化の標本にされることに迷惑しているかもしれないのである。
 文化という歴史的な堆積物を、どういう額縁にいれるか、それを人間集団のどのレベルで切って、その裁断面を点検したらよいのか。自分か、民族か、国民か、人類か、それとも草木虫魚か。それが問題である。
 私としては、まず、これらの名称のもつ言葉のあいまいさを正したいのである。「自分って何」、「民族って何」、「国民って何」、「人類って何」、「草木虫魚って何」。
 言葉を正して、文化を創造する。
 私の願うことは、日本文化を支えることではなくて、自分文化を開花させることなのである。
 八条宮智仁親王も智忠親王も、そのもとで働いた庭師も植木職人も石屋も、日本文化と関わりなく、自分たちが綺麗で楽しいと思う庭、自己表現としての庭をつくっただけなのだと思います。私は桂離宮を訪れて、楽しませてもらい、美しいと感じ、それを自分文化をつくりあげるための養分として役立てましょう。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-08-24 07:40 | 近畿 | Comments(0)

近江編(26):桂離宮(15.3)

 そして池の向こうに、船着場のある茶室・笑意軒が見えました。近づいて中をのぞくと、扁額の下に円形の下地窓が左右に六個並べた独特の意匠です。夜、この六つの丸窓から室内の光が漏れる光景は、幻想的でしょうね。中の間には大きな窓が設けられ、その向こうには水田がひろがっているそうです。手前に池、奥に田んぼ、涼風が吹き抜けるため、夏の茶室となっています。窓の下の腰壁もまた斬新な意匠、中央部分をひらべったい平行四辺形に区切って金箔を張り、左右の細長い直角三角形のスペースには市松文様の天鵞絨(ビロード)を張ってあります。
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 襖の引手は船の櫂の形、杉戸の引手は矢羽根の形、細部も侮れません。
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 笑意軒の前にある敷石は、さまざまな形や色の石がちりばめられ、歩くのがもったいないくらいです。ここが「草の延段」ですね。船着にあった小さな灯篭は竿や中台がなく、太陽・月・星を表す丸・三日月・四角の穴が穿たれた愛らしいもので、「三光灯篭」と言うそうです。
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 そして新御殿・中書院・古書院を左に眺めながら歩いていくと、古書院の広縁から突き出た月見台がありました。池に面した六畳大、竹簀子張りのスペースで、観月のための施設です。
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 そして最後の茶室・月波楼へ。池に面しており月見を楽しんだ茶室で、襖には紅葉の粋な小紋がちりばめられています。ここは秋の茶室ですね。古書院の月見台が主に月の出の観賞を目的としているのに対し、月波楼は小高い盛土の上に建っているので池の面を広く見下ろすことができ、池水に映る月の影を賞したようです。襖の引手は機の杼(ハタのヒ)でしたが、どういう由来があるのでしょうか。ご教示を乞う。月波楼の前に据えてある手水鉢は、水穴を鎌の刃に、右手の出張った部分を柄に見立てて 「鎌型手水鉢」と呼ばれています。秋の刈入れを象徴させたのですね。そういえば、冬の茶室・松琴亭の外腰掛には、収穫を意味する二重升の手水鉢ありましたっけ。なんと芸が細かいことよ。
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 そして古書院の玄関口である「御輿寄(おこしよせ)」へ。ここには杉苔で覆われた壺庭があり、切石をきっちりと組み合わせた延段、「真の延段」があります。石段の上には、六人分の沓の幅があることから「六つの沓脱」と称される、御影石製の沓脱石があります。また、自然石と切石を混ぜた飛び石が自由奔放に打たれており、石の饗宴とも賞すべき素晴らしい空間となっています。
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 中門の内と外にも、素敵な石が打たれていました。中門をくぐって振り返ると、ここもいい風情です。切妻造茅葺のしぶい門、右手には黒文字垣、そして洒落た敷石、一幅の絵のような光景でした。なお黒文字はクスノキ科の落葉低木で、その枝は高級妻楊枝の材料です。

 本日の七枚です。
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by sabasaba13 | 2017-08-23 07:38 | 近畿 | Comments(0)

近江編(25):桂離宮(15.3)

 そして飛石の上を歩いていくと展望が開け、池や中島、対岸の松琴亭が見えてきます。この急に視界が開けるという劇的な効果も演出されたものですね。青黒い賀茂川石を並べて海岸に見立てた洲浜、その先端には灯台を模した小さな岬灯篭、そして天橋立に見立てた石橋といった景色も、景観にアクセントを与えています。そして池泉回遊庭園の醍醐味、歩くにつれて景観が徐々に変化していきます。
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 白川橋という直線的な石橋を渡ると、冬の茶室である、もっとも格の高い「松琴亭」に着きました。
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 こちらにはかの有名な、白と藍染の四角い加賀奉書を互い違いに張った市松文様の襖があります。その大胆で斬新な意匠には驚嘆です。細部の洒落た意匠にも目を引かれます。そして橋本氏が喝破されたように(p.18)、池側の縁先には青い石が配置されて、室内の藍色と呼応しています。この素晴らしいカラー・コーディネイト、石の色・形・配置に注目するのも桂離宮の楽しみ方の極意ですね。ここから池を見渡すと、これまでよく見えなかった古書院と月波楼を見渡せます。すべてを見渡せるパースペクティブではなく、景観を細かいパーツに分けて楽しんでもらおうという演出ですね。
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 そして橋を渡って、飛び石を歩いてのぼると、すこし小高いところにある春の茶室・賞花亭に着きました。峠の茶屋を模したもので、皮付柱を用いた、間口二間の小規模で素朴な茶屋です。大きな下地窓を設けてあり、清々しく開放感にあふれた造りになっています。かなわぬ夢ですが、桜か新緑の時期に、薫風を肌で感じながら、この茶室でお茶をいただいてみたいものです。ここから見下ろす池の景観も、これまでとはまた微妙に変化しています。
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 飛び石をおりると橋があり、その向こうには古書院・中書院・新御殿が見えますが、こちらは見学できないようです。うーん、い、け、ず。新御殿の「桂棚」が見たかったのに。そして大きな島の西端に建つ持仏堂、園林堂へ。離宮内で唯一の本瓦葺、そして宝形造の建物です。もっこりとしたむくり屋根がチャーミングですね。かつては楊柳観音画像と細川幽斎(智仁親王の和歌の師)の画像が祀られていましたが、現在は何も祀られていないとのことです。堂の周囲には黒石を敷き詰めた霰こぼしの雨落(あまおち)がありますが、そこをしれっと方形切石の飛び石が斜めに横切っていきます。しかも余分な石があったり、最後は45度傾けたりと、遊び心にあふれた意匠です。
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 本日の六枚です。
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by sabasaba13 | 2017-08-22 07:49 | 近畿 | Comments(0)