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丹波・播磨・摂津編(16):山邑邸(10.2)

 さあそれでは中に入りましょう。入館料を払い、玄関からあがると「室内は写真撮影禁止」というつれない注意書き。嗚呼それはないでしょ、それは。ライト財団(?)に著作権等があるためか(建築だからそれはないだろうなあ)、はたまた絵葉書販売促進のためか、よくわかりませんが是非認めていただきたい。気を取り直して階段をのぼり二階へとまいりましょう。そうそう、この建物は4階建てですが、尾根の傾斜に沿って各階が階段状にずれて重なっているため、どの断面をとっても1階または2階建ての建築となっています。敷地や環境と一体になった建築、有機的建築(organic architecture)を提唱したライトの面目躍如ですね。応接室の入口は、ホームページの解説によると幅は約62cmと大変狭くなっています。ところが中に入ると、光に満ち溢れた広々とした空間が広がっています。この広さを強調するためにあえて入口の狭くしたのですね。茶室の躙口を思い起こさせます。それにしても何と明るい部屋であることか。両サイドには嵌殺しの大きな窓があり、正面にはバルコニーに通じる大きなガラス戸。そして壁面の最上部には、採光・通気のためのドアがついた小さな窓が連続して並んでいます。大きな窓からは下界に広がる街並みや港や海を眺望でき、まるで展望台にいるようです。『自然の家』の中でライトはこう述べています。
 住まいというものは、まず第一に庇護する覆い(シェルター)として見えなければならない。…建物を洞窟のように考えるのをやめ、風景と関係したゆったりとした覆いの姿をまず考えるようになった。外部へと開かれた眺め、内部に取り込まれた眺め。(p.18)
 「風景と関係したゆったりとした覆い」、なるほどねえ、この応接室にいると彼の思想が具現化されていることがよくわかります。そして外壁と同じ大谷石による装飾にあふれた壁が、部屋のあちこちに配置され、外部と内部の連続性を演出しています。また作り付けの長椅子・飾り棚・置台が壁面をおおいつくし、部屋全体を総合的にデザインしようとするライトの断固たる意志が伝わってきます。応接室の北側には、大谷石で作られたモダンなデザインの大きな暖炉がありますが、彼は赤々と燃える炎にも強い思い入れがあったそうですね。中央に二セット置かれた、六角形のテーブルと五角形の椅子が印象的ですが、これはライトのオリジナルではなく、所有者であるヨドコウ(淀川製鋼所)がライトのデザインを模して制作したものだそうです。そしてドアにあった葉をモチーフにした飾り銅版が部屋の随所にちりばめられ、いいアクセントになっています。ああ何時間でもここにいて寛いでいたい、と思わせてくれる素敵な応接室でした。
 ふたたび階段をのぼって三階へ行くと、足下までのびた大きなガラス窓が続く長い廊下になっています。ホームページの解説によると、窓は当時のアメリカではめずらしい外開きになっており、一般的だった上げ下げ窓をライトはあえて採用しませんでした。『自然の家』の中で、彼はこう述べています。"私は、外向きに開く窓のために闘った。開き窓(ケースメント)が家と外部空間を結び付け、外へと向かい自由な開口をつくり出すからだ。いわば開き窓というものは、単純なだけでなく、使う上でも、その効果においても、もっと人間的なもの―すなわち自然なものだったのだ。(p.55)" またこの窓にも葉をモチーフにした飾り銅版がしつらえてありました。同じく解説によると、太陽の光が窓から入ると銅板を通して床に影を落とし、まるで葉のすき間から射し込む木漏れ日のように見えるそうです。残念ながら曇りのため、その光と影による演出は拝めませんでした。またこの銅版は、色も自然のグリーンに近づけるためわざわざ緑青を発生させたそうです。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2011-02-25 06:19 | 近畿 | Comments(0)

丹波・播磨・摂津編(15):山邑邸(10.2)

 さて、ここヨドコウ迎賓館は、帝国ホテルの設計依頼を受けて来日した(1915‐1922)ライトによって、神戸・灘の酒造家である山邑家の別邸として設計されました。実施設計と監理はライトの弟子である遠藤新、南信によって行われ、1923(大正12)年から翌年にかけて建設されました。それでは中に入ってみましょう。門から奥へと続くアプローチの右手には石垣、その上の小高い敷地に木々の間から建物がちらちらと垣間見えます。ああ気をもたせないでえ、このいけず。建物の全貌をちらつかせながら、エントランスへと導く演出なのでしょう。そして最も奥まったところで、ぱあっと視界が開け、車寄せと玄関がその姿をあらわします。ああライトだ…
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 周囲の地形や景観との調和、水平線を強調したデザイン、大きな窓、そして装飾模様を型付けしたコンクリート・ブロック。なおこれについては、「コンパクト版建築史 【日本・西洋】」(彰国社)に興味深い記述(p.140)がありましたので、紹介しましょう。前述のように、帝国ホテル建設のために来日した頃、ライトはタリアセンの焼失やスキャンダルによる社交界からの追放で、経済的に困窮していました。そこで彼は装飾模様を型付けしたコンクリート・ブロックの開発に活路を見出し、透かし細工やマヤ装飾をモチーフとしたブロック製の建築を建て、それが中期作品の特徴となったそうです。
 ピロティのような車寄せに入ると、左手と正面から神戸の町や港を一望できるようになっています。素晴らしい眺望ですね。彫刻された大谷石がまるで額縁のように風景を切り取っていました。
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 このあたりの壁にとりつけられた灯りの洒落たデザインは統一されており、彼の手によるものでしょう。「自然の家」(ちくま学芸文庫)の中で、ライトは「すべてのしつらえが建築の統合的な一部分となるよう、できる限り造り付けにした(とくに電灯と暖房器具は必ずそうした)。また家具も建物の一部とし、その場に釣り合うよう、できる限りデザインすることにした」(p.38)と語っています。そして右手が玄関、中央に大谷石製の大きな水盤がありますが、ライトの水に対する関心と愛情がうかがえます。こうした想いが後に「落水荘」として結実したのかもしれません。あるいは茶室の蹲を模したのかな、だとしたら遠藤新による示唆があった可能性もありますね。ドアについている一枚の飾り銅版は、植物の葉を意匠したもの。このモチーフが、やがて建物の各所で華麗な変奏曲を奏でることになります。
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 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2011-02-24 06:21 | 近畿 | Comments(0)

丹波・播磨・摂津編(14):山邑邸(10.2)

 本物に出会えた後の圧倒的な余韻にひたりながら、タクシーに戻り、小野駅へと向かってもらいました。さて小野から神戸の中心地・三宮に行くには、ルートが二つあるようです。神戸電鉄で谷上まで行き地下鉄に乗り換えるか、あるいは粟生に戻り加古川まで行ってJR新快速に乗るか。運転手さんにお訊ねしたところ、JRの方が早いが、加古川線は本数が少ない、というお返事でした。嗚呼不覚にも、粟生駅で時刻表を撮影してくるのを失念してしまいました。しょうがない小野駅で確認しようとしましたが、JRの時刻表はなく駅員もいない… やれやれ。ホームに入線してきた粟生行き列車の運転士さんに訊ねると、うまい具合に粟生駅で連絡があるそうです。さっそく飛び乗り、粟生で加古川線に乗り換え、加古川へ。そしてぎゅうぎゅう満員の山陽本線新快速に乗り込んで三ノ宮へ。阪急に乗り換えて芦屋川に到着したのが11:18。小野からここまで二時間弱かかりましたが、当初の予定より早く着くことができました。次なる物件は、フランク・ロイド・ライトが設計した山邑邸(ヨドコウ迎賓館)です。
 芦屋川駅には学生専用の出口があったので、付近によほど学校が集まっているのでしょう。周辺の地図がなかったので、駅員さんにお訊ねすると、すぐそこを流れる川に沿って北方向に歩き、坂をのぼれば数分で着くということでした。教えてもらった方へ歩いていくと、右手の高台に、木々に埋もれるように佇む洋館が見えてきました。きっとあれですね。
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 橋を渡り、「ライト坂」と名づけられた急坂を上っていくと到着です。
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 それではフランク・ロイド・ライトについて、スーパーニッポニカ(小学館)から要約し紹介します。
 Frank Lloyd Wright (1867‐1959) アメリカの建築家で、20世紀のもっとも重要な建築家の1人。ウィスコンシン州リッチモンドセンターに生まれ、同州立大学土木学科を卒業後、1887年シカゴに出てルイス・サリバンの建築事務所に入り、多くを学んだ。93年に独立して住宅建築を中心に設計活動を開始、やがて初期の注目すべき作品、プレーリー(草原)・ハウス・シリーズを発表していく。ここでは日本建築に関心が示される一方で、水平面に延びる線、空間の流動性、緩い勾配(こうばい)の屋根と深い庇(ひさし)がもたらす陰影など、大地とのみごとな一体感が示され、高く評価された。
 住宅以外にも、ラーキン社ビル(1904)、ユニテリアン教会(1906)があり、以上の作品をまとめて1910年ベルリンで出版し、「有機的建築」に関する主張とともにヨーロッパの建築界に大きな反響をよんだ。しかし、その後の約20年間、出奔という形での最初の妻との離婚、14年のタリアセンでの召使いの放火殺人事件によるチェニー夫人と2人の子供の死など、個人的な不幸が続いたこともあって、ライトの設計活動はマヤ様式の色濃いものとなった。シカゴのミッドウェー・ガーデン(1913)、東京の帝国ホテル(1916~22)など数も少ない。
 しかし、この不世出の建築家は、1936年の「落水荘」とよばれるカウフマン邸、38年のジョンソン・ワックス本社ビルの二つの優れた仕事によってふたたびその天才をよみがえらせ、第二次黄金期をつくる。すでに70歳台であったが、当時世界的に広がりつつあった国際建築様式を消化しつつ、30~60度角の平面構成を基調にした建築を展開させて、円熟した個性とあわせて、強靱な生命力をうたわせる造形を示している。この活躍は第二次世界大戦後も引き継がれ、第二ジェイコブズ邸(1948)、プライス・タワー(1956)が作られ、ニューヨークのグッゲンハイム美術館完成直前の59年4月9日、アリゾナ州タリアセン・ウェストで没した。
 付け加えますと、彼が設計した建物はほとんどがアメリカにあり、海外で実現したのはカナダの3件と日本の6件の計9件のみだそうです。カナダの作品はすでに現存しないので、日本はアメリカ以外でライトの作品に接することのできる唯一の国ということになります。その6件のうち現存するのは、駒沢の旧林愛作邸(1917)、芦屋の旧山邑邸(1924)、明治村に玄関部分のみ移築された帝国ホテル(1916~22)、西池袋の「自由学園明日館」(1921)。なお旧林愛作邸は、現在、電通の社宅「八星苑」となっていて非公開だそうです。よって山邑邸を見学すれば、日本におけるライト作品を制覇したことになります。「それがどうした」と言われれば、"So it goes on"としか答えられませんが。
by sabasaba13 | 2011-02-23 06:13 | 近畿 | Comments(0)

丹波・播磨・摂津編(13):浄土寺浄土堂(10.2)

 浄土寺は真言宗のお寺さんで、聖武天皇の勅願によって行基が開創したと伝えられますが、その後荒廃。このあたりは大部之荘という東大寺の荘園だったので、鎌倉初期に俊乗坊重源が東大寺の播磨別所として中興しました。何といってもお目当ては、東大寺南大門とならび、全国でたった二つしか現存していない大仏様建築の浄土堂です。治承の兵火(1180)で焼失した東大寺の復興にあたり、大勧進に任じられた重源が、当時の中国建築の様式を取り入れてつくった建築様式で、東大寺大仏殿の造営にちなんでこの名で呼ばれます。たしか高校で受けた授業では、天竺様とも呼ぶと教わった記憶がありますが、インド様式と誤解されやすいので、こちらの名称がよく使われるようです。南大門の豪放・雄大な姿に惚れ込んでいるので、ぜひとも見たい物件でした。
 タクシーにはしばらく待っていてもらい、石段を上って境内に入ると、同じような堂宇が数棟ありますが、どれだろう。おっあったあった。宝形造で、反りがなく直線的な屋根、全体的に平べったいという感じの地味な外観ですが、柱上部の複雑な組物に大仏様建築の片鱗があらわれています。さっそく靴をぬぎ、入場料、もとい拝観料を払って内部へ。思いのほか、広大な空間であることにまず驚愕。そして中央に鎮座する約5メートルの木造阿弥陀三尊像(快慶作)の壮大さもさることながら、虚飾を排し、とにかく広い空間を確保するための巨大な屋根をどうやって支えるかという一点に英知と技術をかたむけた、そのダイナミックで雄渾な構造には眼を見張りました。本尊の四方に屹立する四本の太い柱、そこから直角・斜めに走る太い梁、それを支える幾重にも重なり柱に挿し込まれて肘木。「神聖にして劇的な空間をつくるために、僕たちはこの大きな屋根を力を合わせて支えているんだ、ただそれだけさ」という木材たちの、静かな合唱が聞こえてくるようです。新幹線の中で読んだフランク・ロイド・ライトの「自然の家」の一節、「不必要なものを除去するということ、あるがままの素材を用いることから美が生まれる」(p.20)が脳裡をよぎりました。ああもどかしい、いくら言葉を組み合わせ積み重ねても、この凄さを伝えることはできません。ほんとは写真を撮ってお見せしたかったのですが、むごいことに堂内は撮影禁止。「畏れ多い/罰が当たる」という呪術的理由、あるいは「絵葉書が売れなくなる」という経済的理由によって、仏像撮影を禁止するのは理解できますが、それ以外の構造部分については認めてほしいですね。それはともかく、一見の価値があるので、兵庫県を訪れた際にはぜひ寄ってみてください。
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 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2011-02-22 06:17 | 近畿 | Comments(0)

丹波・播磨・摂津編(12):浄土寺へ(10.2)

 朝目覚めてカーテンをあけるとうす曇り、天気予報によると天候は下り坂で明日には雨になるとのことです。せめて神戸の夜景を見るまではもってくれよと祈りつつ、出発の準備を整えました。本日の予定は、浄土寺浄土堂を見て神戸へ移動、山邑邸を見学して神戸市内の諸物件と布引ダムを訪問、時間があれば富岡鉄斎美術館を見て、夜景見物と、まるで下手な上方漫才のようにコッテコテの油ぎった行程です。まったく誰がこんな旅程を考えたんや(ぼけ)。あんたや(つっこみ)。などと一人で漫才をしている場合ではありません。身づくろいをすませチェックアウトをして篠山口駅へ。7:15発福知山線福知山行きの列車に飛び乗りました。実は三田市に三田学園旧校舎(中学本館)という古い学校建築があるそうなのですが、時間の関係上スキップすることにしました。車窓から朝靄たなびく幽玄な連山の姿を眺め、しばらくすると下滝駅に到着。「恐竜化石発見の里」という垂れ幕が駅のホームにかかっていました。そして7:31に谷川駅に到着、ここで加古川線に乗り換えます。途中に「黒田庄」という駅がありましたが、石母田正が「中世的世界の形成」で舞台とした荘園ではありませんね。あれはたしか伊賀国名張郡でした。
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 次の駅は「日本へそ公園」、車内の吊り広告によると、このあたりは東経135度と北緯35度が交差する日本の中心だそうです。「それがどうした」と言われれば「俺の目を見ろ何にも言うな」としか答えられませんが。そして8:03に西脇市駅に到着、ここで加古川行き列車に乗り継ぎますが、待ち時間は23分です。やれやれ。駅前に出て紫煙をくゆらしながら観光案内地図を見てみると、源頼政の墓所(長明寺)や足利尊氏と直義が激戦をくりひろげた光明寺などが付近にあるそうです。
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 珈琲を飲みたいなと思いましたが、駅前には喫茶店の"き"の字もありません。やれやれ。しょうがないのでベンチに座って、これからの行程を確認しました。次は粟生(あお)で神戸電鉄に乗り換えて小野で下車、浄土寺浄土堂をめざします。ただ気がかりなのは、駅からかなり離れていることです。神姫バス「天神」行きで10分、「浄土寺」下車すぐということですが、本数はきわめて少ないと覚悟しておいたほうがよいでしょう。駅前でタクシーが客待ちしていれば御の字なのですが、タクシーの"た"の字もない無人駅だったらどうしよう… 公衆電話でハイヤーを呼ぶしかありませんが、電話の"で"の字も…と妄想はどんどん悪い方向に向かっていきます。プディングの味は食べてみないとわからない、とにかく現地に着いて状況を見てから臨機応変に動きましょう。そうこうしているうちに、列車が入線してきました。そして8:45に粟生に到着、ちょっと時間があるので外へ出ると、まるでジョルジョ・デ・キリコの絵に出てくるような回廊のある不思議な駅舎でした。そして神戸電鉄に乗り換えて、数分で小野に到着です。案ずるより産むが易し、大きな駅ビルのある賑やかな街で、当然の如く駅前でタクシーが客待ちをしていました。さっそく飛び乗り、十分ほどで浄土寺に到着です。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2011-02-21 06:21 | 近畿 | Comments(0)

丹波・播磨・摂津編(11):篠山(10.2)

 ふたたび自転車にまたがり、お徒士町武家屋敷群をめざします。途中の南新町にはきれいな竹林と井戸がありましたが、整備中のため中には入れません。その先には全国で唯一残るという南馬出土塁がありました。馬出とは、兵馬を集め隊列を組むための場所なのですね。
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 そして小林家長屋門、安間家史料館の外観を拝見。
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 そのすぐ近くがお徒士町武家屋敷群ですが、いまひとつ統一感がなく期待外れ。そして見張りや狙撃衆が陣取るために、約50m間隔で植えられたというエノキを拝見。現在では、三本しか残っていないそうです。
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 昭和レトロな町並みが残るという西町にも寄ってみましたが、こちらも期待外れ。ただ由美かおるの御御足と水原弘の御尊顔に出会えたのは収穫でした。
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 そして篠山城址へ。1609年、徳川家康の命により大阪城攻略の拠点として、わずか6ヶ月で築城されましたが、建物は取り壊され現存していません。なおこちらは桜の名所としても有名ですね。中に入ると、大規模な木造平屋建築の大書院が復元されていました。その先にある本丸跡からは、山々に抱かれた篠山の町を眺望できます。
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 お城の前にある駐車場で公衆便所に入ると、木製の男女表示がありましたが、明らかに意図的に女性を太目に表現しています。さきほどの物件といい、女性に対する揶揄なのか、あるいはここ篠山では肥えた女性に美を看取するのか。ご教示を乞う。
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 次は、景観マイスターおすすめの、山内町にある築地塀の佇まいですが、肝心の築地塀はわずか一か所しかなくこちらも期待外れ。なお京都でよく見かける、塀にあけられた検針用の小窓がありましたが、金網で厳重に警護されていました。
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 さてそろそろ夕食と洒落込みますか。自転車を観光案内所に返却し、さきほど唾をつけておいた「懐」というお店に入り、丹波牛炭火焼を注文。ついでに夜食用として寿司もお願いしました。炭火で焙られた香ばしい牛肉に舌鼓を打ち、篠山食料品店でナイト・キャップとして篠山の地酒「鳳鳴」を購入。
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 定刻どおりやってきたバスに乗り込んで篠山口駅に戻り、荷物をコインロッカーから取り出して、駅近くのビジネスホテルに投宿。鯖寿司を肴に芳醇な地酒を満喫し、就寝。
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 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2011-02-20 06:25 | 近畿 | Comments(0)

丹波・播磨・摂津編(10):篠山(10.2)

 そしてその一角にある丹波古陶館に入ってみました。いつの頃からか陶磁器が好きになり、べつに骨董として蒐集したり自ら土をひねったりはしないのですが、窯のある町を訪れてその雰囲気を味わい日常雑器を買うのを喜びの一つにしています。これまでも、有田、伊万里の大川内山、唐津、壺屋、備前、伊賀、常滑、瀬戸、信楽、笠間益子を経巡ってきましたが、今回の丹波焼の窯は町から離れたところにあるので探訪は断念。せめてこちらで丹波焼の名品を堪能することにしました。さて丹波焼について、当館でいただいたパンフレットの紹介文を引用しましょう。
 平安時代の終わりに、なぜか丹波、常滑、越前などに、同じ様式の壺が造られています。それらは一般的に「三筋壺(さんきんこ)」とよばれているもので、小振りでやや外に開いて立ち上がった口造りを持ち、胴の三ヵ所に横筋の文様が施されています。
 須恵の窯から、新しい窯業集落に変わったおおよそ八百数十年前、丹波の工人たちは、中央政庁や社寺のもとめに応じて祭器、経器、薬壺など、かなり上手物を焼きましたが、三筋壺もその一つです。しかし、陶土や窯の条件は、その目的に応えることができず、丹波窯はやがて大衆の生活を支える窯業集落として、独自の道を歩むことになります。
 紐造りの困難な成形、長い日時と破損の多い焼成の結果に、陶工たちはどのような思いで取り組んだのでしょうか。
 今、私たちが感じる器そのもののもつ力強さや、窯業の生んだ鮮やかな緑の自然釉も、不可抗力な焼物造りの障害の産物だったのではないでしょうか。平安末期から慶長年間に至る穴窯の時代は、ひたすら成形と窯とのたたかいであったのです。
 慶長末年、登窯の導入によって、新しい技法を得た丹波の陶工たちは、轆轤、釉薬を巧みに使い斬新な仕事ぶりをみせます。それは生活の用に即した、美しく逞しい器の数々でした。
 登窯と塗土が生みだした燃えるような「赤土部(あかどべ)」の輝きは、すでに陶工の心にかけがえのない"美"として映っていたでしょう。それは、陶土の悪さに阻まれた穴窯の焼締め無文の時代とは大きくイメージを異にするものです。
 江戸時代末期になると、さらに新しい釉薬や漉土による陶土の改善がなされ、白、黒、灰、鉄などの釉薬の掛け合わせによる多彩な文様と、さまざまな用途をもつ器が生まれました。
 平安時代末期に生まれ、いつの時代にも衰微することなく、常に生活の器を焼き続けてきた丹波焼は、間違いなく日本民陶の歴史を代表する焼物なのです。
 質実で剛毅なフォルムと自然釉が生み出す偶然の美、丹波焼の名品を十分に満喫いたしました。なお周囲の景観に溶け込むような、白壁・なまこ壁の建物もいいですね。観光ポスターで使われている写真はここの中庭から通りを写したものです。
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 なお近くに能楽資料館もありますが、時間の関係でスキップ。そしてしばし路地裏まで舐めるように散策、その途中であるお宅に壁に貼ってある「丹波篠山とってもレトロなまち歩き」という地図を見つけました。普通のガイドブックには紹介されていないディープな物件まで記されているすぐれものです。なぜこれを配布してくれないのだろうブツブツ、ま、いたしかたない、写真におさめこれから活用いたしましょう。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2011-02-19 09:42 | 近畿 | Comments(0)

丹波・播磨・摂津編(9):篠山(10.2)

 だいたいの行程を組み立て、いざ出発。おっとその前に山ノ神に奉納するお土産を買わなければ。ガイドブックに載っていた、丹波栗を使った銘菓を商う「栗屋西垣」に行ったところ、お店は移転していました。戸に貼ってあった移転先の地図を撮影して、市街地の北を東西に走る車道へと向かいました。雲がわいてきましたが、おおむね空は麗らかに晴れ、日向ぼっこをしているような連山と刈入れが終わりまどろんでいる田畠を見ながら、しばし心地よいサイクリング。そしてお店に到着し、純栗羊羹を二棹購入いたしました。練り物・煮物・甘い物が大好物の山ノ神のご機嫌をとり、次なる旅を容認してもらうための重要な布石です。そしてふたたび二階町に戻り、大正ロマン館を通り過ぎて篠山城へ。東外堀に沿って走っていると、トトロを描いた飛び出し人形を発見。実はこの後、次から次へたくさんのオリジナル飛び出し人形をゲットしました。ううむ、ここ丹波篠山は滋賀県八日市とならぶ飛び出し人形のサンクチュアリかもしれない。ぜひラムサール条約で保護してほしいものです。
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 そして河原町妻入商家群に到着。案内所でもらった観光地図によると、旧街道の面影を残した町並みのここ河原町は、築城後まもなく町づくりがはじめられ、城下町篠山の商業の中心として大変栄えました。家並みは、妻入商家に代表され、5~8mほどの狭い間口、しかし奥行きは大半が 40m以上と深く、表構えの大戸、千本格子や荒格子、蔀(しとみ)、中二階の出格子、ムシコ窓、袖壁などが残り、往時の姿を今に伝える素晴らしい景観を織りなしているそうです。さっそく自転車を駐車場にとめて散策を開始。路地の両側に、白壁・妻入りの古い商家・町屋が建ち並ぶみごとな景観です。新潟県にある出雲崎にも妻入りの町並みがあると聞きましたが、全国的に見ても珍しいものですね。でもなぜなんだろう?
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 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2011-02-15 06:20 | 近畿 | Comments(0)

丹波・播磨・摂津編(8):篠山(10.2)

 そして12:59に篠山口駅に到着。ここでスーパーニッポニカから抜粋して、篠山を紹介します。
 兵庫県東部にある市。東西に細長い篠山盆地にあり、京街道(篠山街道、現国道372号)が横断し、東の旧宿場町福住とともに交通の要地であった。1609年(慶長14)に幕府の命で築城が完成してから、松井松平、藤井松平、形原松平の各氏から青山氏と続く6万石の城下町として繁栄した。明治以後は、歩兵第70連隊の置かれた軍都として知られたが、鉄道を避けたので、城下町らしい武家屋敷や妻入商家の町並みがいまに残っている。米作中心で冬は酒造出稼ぎ(丹波杜氏)が多かったが、第二次世界大戦後は酒造のほか、食品、薬品、プラスチックなどの近代工場も進出した。
 それにつけ加えれば、丹波猿楽として能楽のさかんな地として知られています。また瀬戸焼、常滑焼、越前焼、信楽焼、備前焼とならぶ、いわゆる"六古窯"の一つ、丹波焼を生んだ地でもあります。そして京料理を支えた食材の一大供給地としての篠山も忘れてはいけません。丹波黒豆・丹波栗・松茸・山芋・猪肉、ああ涎が出てきた。
 改札を出ると、さっそく丹波焼の黒豆人形「デカボー」が出迎えてくれました。解説によると、デカンショ節のルーツは篠山の民謡だそうです。荷物をコインロッカーに入れ、駅前に出ると、「乗って近づく複線化 早期複線化を実現しよう!」という大きな垂れ幕がかかっていました。
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 駅前からバスに乗り、十五分ほどで篠山の中心街、二階町に到着。龍野とは違い、観光客の姿をよく見かけます。帰りのバスの時刻を撮影し、まずは近くの篠山食料品店で、おやつの黒豆おこわを購入。さば寿司にも思いっきり後ろ髪を引かれましたが、ちょっと量が多すぎるので断念。
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 そして交差点にある「懐」というお店では、丹波牛を食べさせてくれることを発見。夕食はこちらでいただくことにしましょう。そのとなりのビルの壁面最上部では、巨大な猪のオブジェがあたりを睥睨していました。丹波名物を誇らしげに列挙し掲げるお店もありました。
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 まずは自転車を借りることにしましょう。近くにある大正ロマン館は、1923(大正12)年に建てられたモダンな町役場を利用したお休み処・土産屋です。こちらで用便を済まそうとトイレに行くと、大正時代を意識したモボ・モガの男女表示でした。心もち女性の方が太目に見えますが、偶然かな。実は意図的な行為であったことが判明します。その話は後ほど。自転車は道路を挟んだ向かい側にある観光案内所で借りられるとのこと。さっそく案内所に行き、一台拝借しました。そして前のベンチに座り、黒豆おこわを頬張りながら、もらった観光地図をもとに最高指導者会議を一人で開催しました。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2011-02-14 06:15 | 近畿 | Comments(0)

丹波・播磨・摂津編(7):福知山線(10.2)

 今にして思えば宮本武蔵が滞在し剣術指導をしていた圓光寺に行くのを忘れましたが、まあいいでしょう。また来る理由ができたというものです。ふたたび揖保川を渡って、本龍野駅へと向かいましょう。すると来る時には気づかなかった、オリジナルの飛び出し小僧を二人発見しました。いやはや、修練が足りませんね、自戒自戒。
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 10:11発の列車に乗り込み、10:33に姫路駅に到着。コインロッカーから荷物をとりだし、山陽本線新快速で尼崎へ。ここから長駆、丹波篠山へと向かいます。が、その前に腹ごしらえ。次の列車までそれほど余裕がないので、手軽な昼食にしましょう。駅前に出るとさいわい「かぐら」といううどん屋があったので、入店しさっそくきつねうどんを注文。いやあ昆布だしのお汁が美味美味、関西ではうどんを食べていれば間違いありません。おまけに天かす入れ放題のサービスつき、満足満腹です。
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 駅構内に入ると「忘れていませんか? キャリーバッグの存在」というポスターがありました。私はあのおぞましい物体への不快感を五年前から表明しているのですが、やっと時代が追いついてくれたか。そのとなりには、福知山線事故に対するJR西日本社長の謝罪ポスターが貼ってありました。以前からありましたが、事故調査委員会に対する働きかけや資料提出の不備についても触れているのが目新しい点です。
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 ただ「深いご不信の念を抱かせてしまいました」という、excuseにもとりうる物言いがひっかかりますね。ほんとに反省しているのかしらん。あの事故の背景には、ひたすらスピードアップを求める会社の経営方針があったのではないでしょうか。「列車の運転」(中公新書1948)の中で、著者であり運転士でもある宇田賢吉氏はこう語っておられます。
 運転士は秒針に追われて走る仕事である。現在ではスピードアップが追及されて、次駅までの残り時間と速度を勘案して調整する余裕ある運転は少なくなった。ひたすら走ってやっと定時というのが常識になりつつある。(p.260)
 こうした"経済効率"に合わせて人間の生身を切り刻み引き伸ばす「プロクルステスの寝台」的状況を、JR西日本は、そしてすべての鉄道会社は、改善しようとしているのか、そこが知りたいのですけれどね。そして13:00発、福知山線篠山口行きの快速列車に乗り込みました。あの107名の死者を出した脱線事故は2005年4月25日午前9時19分頃、尼崎駅-塚口駅間で起きたのでしたっけ。現場を視認することはできませんでしたが、しばし黙祷しました。
by sabasaba13 | 2011-02-13 07:40 | 近畿 | Comments(0)