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紀伊編(13):御坊(08.9)

 さて西本願寺日高別院ですが、もともとは1540年(天文9年)、吉原(現美浜町)に湯川直光が建立した浄土真宗本願寺派のお寺さんで、豊臣秀吉の紀州攻めの際に焼失し、1595年(文禄4年)、鷺森御坊の別院として再建されたそうです。その際に御坊舎に因んで地名も御坊と呼ばれるようになったそうな。以降、門徒を中心に人々が周辺に往来し町場が形成され、日高地方の商業の中心になりました。町は日高別院を中心に西町・中町・東町に分かれていますが、特に東町には現在でも土蔵屋敷が多く残り、近世の町並みを顕著に残しているそうです。樹齢400年あまりのイチョウの巨木に挨拶をして、それでは東町の方へぶらぶらと行ってみますか。
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 と、このあたりで気づいたのですが、普通の桟瓦ではなく、平瓦と丸瓦を組み合わせた本瓦葺きの民家が多いのですね。なるほど、だから「武士は食わねど高楊枝」的な重厚な感じを受けたのか。
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 別院の前から東町に向かう通りでは、土蔵やレトロな町家・商家をよく見かけることができます。
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 そして圧巻は東町商店街。本瓦をいだいた古い和風建築の商家が建ち並び、「堀口金物店」「中松金物店」「たねは島半」「風呂・神具・住宅機器 ウエノヤマ」といった地元密着型の商店が健気に商いをされています。かなり年季の入った建物ばかりですが「ぺしゃんこにされてもへこたれないぞ」と胸を張るその意気やよし。
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 そして手押しポンプ、手書きの看板、ホーロー看板といった、町の景観に風情を加えるアイテムも目白押し。「正宗屋酒店」の洋館がちょっとしたアクセントを与えています。
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 中でも白眉は薗徹薬局ですね。本瓦葺き平屋の庇下欄間には、古い古い木製看板が所狭しと飾られています。「皮膚病治療剤ヒンター」「大学目薬」「婦人病薬 命の母」「含嗽原液 グルゲル」「眼病新剤 ラヂン点眼薬」「肺肋膜気管支霊薬 神霊湯」「痰咳を去り熱を取る 天寿」 マニアにとっては垂涎もの、マニアでなくても一見の価値があります。はあ…
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 藤田洋三氏命名するところの世間遺産に満ち満ちた町ですね。「世間遺産放浪記」(石風社)から引用します。
 「世界遺産」や「近代化遺産」が脚光を浴びる中、社会からはなかなか見向きもされない、これら「世間遺産」たちとの出会いは、筆者自身に強い印象を与えるものばかりでした。長く人の生業やくらしとともにあった、「用の結果の美」としての建築や道具、または庶民の饒舌、世間アートとでも呼びたくなるような不思議な造形の数々…
 王道を行く富田林に対して、あまり注目されない覇道の御坊、お薦めです。もっと歩き回ればまだまだ素敵な物件に出会えそうでしたが、これから道成寺・湯浅に行く予定もあるので泣く泣く移動することにしました。「アディオス、御坊」と心の中で呟き再訪を期しましょう。

 本日の五枚です。
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by sabasaba13 | 2009-07-16 07:06 | 近畿 | Comments(0)

紀伊編(12):御坊(08.9)

 さてそろそろバスの出発する時間です、停留所に戻りましょう。さきほど乗ったバスがずっと待機しており、運転手さんがのんびりと紫煙をくゆらしていました。挨拶をして乗り込み、左側最前部の座席を陣取り、さあ出発。運転手さんと四方山話をしながら(していいのか)駅へと向かいます。そして紀州鉄道の古い車両に乗り込みました。ガイドブックによると、日本一短いローカル私鉄で、鉄ちゃんにはお馴染みの路線だそうです。御坊~西御坊間の約2.7キロを八分でつないでいます。この古い車両は知る人ぞ知る知らない人は知らないキハ600という、その筋では有名なものだそうです。板張りの床とニスの匂い、古風な座席、武骨だがどこか愛嬌のある外観、もう昭和三十年代にタイムスリップしてしまった気分です。車内をきょろきょろ物色していると「新潟鐵工 昭和35年」というプレートがありました。ってことは、つまり、その、なんだ、私と同い年だ! 生まれてすぐ和歌山の正一おじさん(仮名)にひきとられて離れ離れになった双子の兄と、偶然神保町の東京堂書店で再会を果たした気持ちです。おにいちゃん!
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 なんて冗談をかましているうちに、列車は日高高校の最寄り駅「学門」に到着。こちらの切符は受験生に人気があるそうです。そして紀伊御坊(有人駅)、市役所前と、列車は民家の隙間を縫うようにのてのてと走り、終点・西御坊駅に到着です。観光案内所があるわきゃないと覚悟していたので、駅舎に「紀州・ごぼう寺内町散策マップ -大正のロマンが息づく町並み-」という掲示物があったのには助かりました。さっそく撮影し、これからぶらつくところの当たりをつけました。それにしても、ここは駅舎というよりも夜逃げ直後の民家ですね。だだっぴろい広間(待合室)があるだけで、入口には「西御坊駅」という看板すらありません。その素っ気なさというか恬淡さには舌を巻きます。そして壁には「テロ対策実施中」というお決まりのポスター。いったい、誰が、何のために、紀州鉄道西御坊駅でテロをするというのだ!
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 まずは駅周辺を散策してみましょう。「清床」という店仕舞いした床屋、蒸気機関車が描かれている年代物の「踏切注意」標識、玄関の前に鳥居がしつらえてある民家、うん、ちょっと胸がときめいてきたぞ。
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 そして「松原通り商店街」と描かれたアーチをくぐって商店街を抜け、寺内町の中核・本願寺日高別院を表敬訪問することにしましょう。ぽつんぽつんと雨だれのように商店が点在し、シャッターを閉ざした店も見かける商店街なのですが、磊落はしているけれど不思議と貧しいという印象は受けません。なぜなのだろう? 右手の塀越しに、野口雨情と親交のあった山本好一邸が見えますが、なかなか洒落た洋館です。やがて通りの正面に日高別院の大きな瓦屋根が見えてきました。門前にあった「飛び出し娘」のちょっとメランコリックな表情が印象的です。
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 本日の四枚です。
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by sabasaba13 | 2009-07-15 19:23 | 近畿 | Comments(0)

紀伊編(11):日の岬(08.9)

 バス停の前に何やら記念碑らしきものがあったので近づいてみると、さきほどの謎がとけました。解説板によると、1957(昭和32)年、この近くの海上で日本漁船が火災を起こしたそうです。そこにたまたま通りかかったデンマーク船エレン・マークス号が救命艇を出し救助活動を行いますが、日本人船員一人が海中に転落してしまいました。同船乗組員のヨハネス・クヌッセン機関長(39)は暗夜の激浪の中へ飛び込み、彼を救おうとしますが荒れ狂う波間に姿を消し、翌日水死体として発見されました。うーん、見ず知らずの異国人を救うために嵐の海に飛び込むなんてすごい勇気ですね、衷心より哀悼の意を表し物言わぬ石碑に合掌。それではお目当ての灯台へと向かいましょう。坂道を下る途中に、1918(大正7)年、若山牧水が熊野に向かう時に日の岬沖で詠んだ歌の碑がありました。「日の岬越ゆとふ今をいちしろくふねど傾く暗き雨夜に」
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 車道を下ると灯台へと続く脇道があり、少し歩くと白亜の日ノ御埼灯台とご対面です。紀伊水道を航行する船のみちしるべとして1895(明治28)年に点灯しましたが、1945(昭和20)年に戦災で消失、その後1951(昭和26)年に再建されたと解説板にはありました。なお大型灯台として初のタイル張りだそうです。内部へは入れず、また周囲を鬱蒼とした木立が覆っているため眺望はよくありません。
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 ふたたびバス停へと戻り、その近くの階段を上ると「カナダ資料館」があり、こちらの屋上が展望台になっています。紺碧の空と海、遠方には四国を遠望することもできました。
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 それでは資料館にも寄ってみましょう。展示されている解説を読んでわかったのですが、三尾からの移民が向かったのはアメリカではなくカナダなのですね。先鞭をつけたのがやはり工野儀兵衛で、1888(明治21)年に単身でカナダに渡りサケ漁に従事、翌年から郷里の人々を呼び寄せはじめたそうです。ただし、蓄財したら帰郷するという出稼ぎ移民でした。仕事は漁業・製缶業・製材業などで、波が荒く出漁する者がいなかった西海岸の漁場を開拓したのは彼ら三尾出身者でした。他にも、移民の生活用具やトランク・衣類などが展示されています。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2009-07-14 06:22 | 近畿 | Comments(0)

紀伊編(10):日の岬へ(08.9)

 朝目覚めてカーテンを開けると、陽光が差し込んできました。どうやら今日は良いお天気のようです。ホテルで朝食をいただき、一休みしてさあ行動開始。JR和歌山駅から紀勢本線に乗って、めざすは御坊(ごぼう)です。おっとその前に、「イコカ」の料金チャージをしておきましょう。今日はかなりお世話になるはずです。列車に乗り込み、海の見える右側の座席をしっかりとキープ。到着まで約一時間、地図を片手に車窓を流れゆく光景をゆっくりと楽しむことにしますか。これも旅の楽しみの一つですね。無人駅がよく目につきますが、もともとそうなのか、あるいは昨今における地方の衰微のせいなのでしょうか。屋根の破風が三連に連なっている民家も発見、このあたりにおける特色なのかな。ん? 箕島駅? そうか、高校野球で有名な箕島高校はここにあるのか。やがて列車は有田川ぞいを駆け抜けていきますが、山々の斜面にはミカン畑が広がっています。海岸線を疾走し海がよく見えるのかと期待したのですが、残念ながら海から少しはなれた内陸部に線路は引かれています。それでも時々、うららかに輝く海と陸地にへばりつく漁村を見ることができました。
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 そうこうしているうちに、御坊に到着。ホームにはまるで絵に描いて額縁に入れて熨斗をつけたようなローカル線の車両が停まっていました。おおこれが噂の西御坊行き紀州鉄道か。さっそく後で乗ってみることにしましょう。駅には貸し自転車もありましたが、御坊はそれほど広い町ではないので今回は借りずに只管歩くことにしました。さて改札を出ようとすると…イコカが使えません。駅員さんに訊ねると、ここで下車したという証明書をくれ、後で和歌山駅で記録を取り消してくれと言われました。やれやれ、乗車賃を支払って駅前に出ると、日の岬行きのバスが今まさに出発しようとしています。これを逃したらしばらくバスはなさそう、あわてて飛び乗りました。
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 御坊の町なかをしばらく走ると、やがて左手に海が見えてきました。途中にある三尾という集落に、「アメリカ村」というバス停がありました。ガイドブックによると、この集落から多くの人々がアメリカに出稼ぎに行き、帰国後アメリカ風の家を建てたことに由来するそうです。バス待合室には小学生が描いた「三尾名物 工野儀兵衛 クヌッセン機関長 うみねこ イセエビ」という壁画がありました。儀兵衛さんはおそらく移民・出稼ぎの嚆矢となった人物でしょう、クヌッセン機関長とは何者??? しばらくするとバスは小高い山を上りはじめ、そして終点の紀伊半島の最西端・日の岬に到着。御坊駅からここまで30分ほどでした。帰りのバスは40分後に出発なので、その間を利用して散策をしましょう。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2009-07-13 06:10 | 近畿 | Comments(0)

紀伊編(9):淡輪駅~和歌山(08.9)

 さて貝塚から南海線に乗って、めざすは古い駅舎があるという淡輪(たんのわ)です。車窓から外を見ると、もうすっかり薄暮、西の空が神々しい茜色に染め上げられていました。30分ほどで淡輪駅に到着、さっそく下車してもうすっかり暗くなった外へ出てみると、おおなるほどこれは愛くるしい駅舎です。尖頭アーチ型をしたかわいい小さな塔が、アシメトリックに配置されたなかなか洒脱な意匠。昨今の金太郎飴的画一化の進んでいる駅舎にくらべて、古い駅舎には個性的なデザインのものが多いような気がします。景観への配慮、あるいは駅舎は地域の顔であるという鉄道マンの誇りのなせる技なのでしょうか。いずれにせよ、利潤追求のため過密ダイヤを組んで事故を引き起こし、駅員を削減して人身事故を防げなくなっている、現代の鉄道会社とは志がえらく違っていますね。次の列車が来るまで30分ほどあるので、付近を散策することにしましょう。とはいっても「屋外は真ッ暗 暗の暗」、駅前にはぽつんぽつんと人家が点在するだけです。海が近そうなので残照でも見に行こうかなと思い途中まで歩きましたが、たどりつけそうにありません。車のヘッドライトに浮かび上がった「飛び出し小僧」と四囲を暖かく照らす赤提灯を撮影して駅に戻りました。
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 駅には「チカンはあかんで。ゼッタイあかんで。」というポスター、そして「それはだめ 長い足でもみぐるしい」という子どもさんによるマナー標語が貼ってありました。
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 やってきた列車に乗り込むと、20分ほどで終着の和歌山市駅に到着です。今夜泊まるホテルはJR和歌山駅の近くですが、この駅には南海電鉄は乗り入れておりません。よってJR紀勢本線に乗り換えねばなりませんが、しばらく列車はないようです。いたしかたない、駅前からバスに乗ってJR和歌山駅に向いました。十数分で到着し、ホテルで旅装を解きさあ夕食を求めて和歌山の街を彷徨しますか。といいながら実は店の当たりはつけてあります。JTB発行の情報誌「るるぶ」によるとここ和歌山ではラーメンの名店が多く、そのなかでわが眼をひいたのが「まるイ」、何と青ねぎが麺とスープをすべて覆い隠しております。これは葱好きの私に対する挑戦状と見た、よしっ受けて立ちましょう。駅前から歩くこと十数分で「まるイ」に到着。さっそく件のラーメン(730円)を注文し待つこと数分、その雄姿が現れました。…これはGREEN MONSTERだ… 湯気とともに立ち上る青ねぎの清々しい香りが鼻腔をくすぐり、豚骨醤油味の豊潤なスープとあいまって、愉悦の境地へと誘ってくれます。なおサイドメニューとして、テーブルに「はや寿司」(120円)が積み上げられているのも「なかなかやるでねがっ」ですね。「るるぶ」によると、サバとともに十分に発酵させたのが慣れ寿司、すぐに食べるのがはや寿司だそうです。サバ好きの私はもちろん二ついただきました。さてそれでは宿に戻り、地酒を飲みながら明日の計画をねることにしますか。
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 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2009-07-08 06:14 | 近畿 | Comments(0)

紀伊編(8):貝塚(08.9)

 ふたたび南海線に乗って20分ほどで岸和田に到着、ここの駅舎も古いものだという情報を得ていたのですが、残念、新しい駅舎に建て替えられていて影も形もありませんでした。しゃあない、また列車に乗って次の貝塚で下車、寺内町・貝塚を散策することにしましょう。16世紀後半、当地の一向宗門徒が紀州・根来寺から卜半斎了珍を迎え、願泉寺を中心に町づくりを行い石山本願寺から寺内町として取り立てられました。1577(天正5)年には本願寺の支城として織田信長と戦って敗れ、焦土と化します。その後、町は再興され、紀州鷺ノ森より顕如上人を迎えて二年間本願寺御堂となったこともあるそうです。南北約800m、東西約550mの広さをもつ環濠城塞都市で、西は大坂湾、北は北境川、南は清水川を濠と見立て、これらをつなぐ形で東に濠が掘られていました。駅のすぐ近くにある感田神社境内には、その濠の跡が一部残されていました。
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 ここから西へ歩くと、願泉寺の巨大な甍がすぐ眼に入ってきます。修復工事中のため中には入れなかったので、その周辺の路地をしばし散策することにしました。富田林には及びもしませんが、それでもところどころに虫籠窓や格子窓のある町屋が残っていました。
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 踏切の近くには、鋸型屋根の町工場がありましたが廃屋になっているようです。今、調べてみたところ、貝塚はかつて紡績業の中心地で、大日本紡績(現ユニチカ)があった町でもあるのですね。そう、「東洋の魔女」、ニチボー貝塚の本拠地です。この物件もかつては家族経営による小さな紡績工場だったのかもしれませんね。駅前の商店街に歩を進めると、ある廃屋の軒下に「遺族の家」という錆びたプレートがありました。これまでも由比では「殉国の家」、御手洗では「靖国英霊の家」というプレートを見かけてきました。戦死者の遺族を顕彰しようとするのが狙いだと思いますが、地方ごとに表記が違うのが興味深いですね。どういう組織が作成していたのでしょうか。またこれを掲げたことにより、地域ではその家庭はどのよう扱われたのでしょうか。
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 本日の一枚です。
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 追記。後日、「反貧困」(湯浅誠 岩波新書1124)を読んでいたら次のような記述がありました。
 一説には「大阪の北九州」などとも言われ始めた貝塚市では、2005年から生活保護の被保護世帯数が減少し始めており、この他にも違法行為の蔓延している可能性が拭えない。(p.172)

by sabasaba13 | 2009-07-07 06:19 | 近畿 | Comments(0)

紀伊編(7):下赤坂の棚田~浜寺公園駅(08.9)

 この広場からは棚田のほぼ全貌を見下ろすことができます。ちょうど稲刈り直前で、黄金色に輝き頭を垂れる稲穂が秋風に揺れていました。眼下遠くに広がる富田林の街並みや大阪平野を眺めながら、腰をおろして紫煙をくゆらし、しばし虫の音と鳥の声と風の音を堪能しました。それでは少し徘徊することにしますか。
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 電線を張り巡らしているところがありましたが、猪よけでしょう。奥の方にも棚田は広がっていますが、こちらは耕作放棄地が多いように見受けられました。一部はコスモス畑として利用されています。またオーナー制度も行われていないようですね、地元農家の方が中心となって耕作をされているのでしょう。実は事前にインターネットで調べたところによると、この時期は彼岸花がところ狭しと咲き誇るそうですが、残念ながらほとんど見かけませんでした。9月26日では開花にはまだ早いのかな。
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 あっという間に時間は過ぎ去り、そろそろバスの到着時刻です。棚田に別れを告げ、十分ほど歩いてバス停に戻り、定刻通りやってきたバスに乗り込みました。乗客は私一人、指定席の左側最前列の席に座ると、運転手さんは往きのバスと同じ方でした。「用事終わりましたん?」と言われたので「いやあ実は棚田見物でして」と答え、しばし和やかな歓談が続きます。途中で、家々に埋もれたような半鐘を発見したのであわてて最後部に移動し撮影。このあたりは白塗りの藏が目立つ街並みですが、山一つ越えると奈良なので流通の拠点として栄えたのかもしれません。
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 駅に到着し、運転手さんにお礼を言って下車、これから辰野金吾設計による浜寺公園駅へと向かいます。富田林から近鉄長野線で河内長野へ、南海高野線に乗り換えて天下茶屋へ、そして南海線に乗り換えて浜寺公園駅に到着です。所要時間は一時間強といったところですか。さっそく下車して、駅舎を拝見することにしました。平屋の白塗り洋風木造建築、柱の骨組みを装飾として壁面に残すハーフチンバー様式と三角破風のぺディメント、ぽんぽんぽんぽんと軽快に並ぶドーマ(屋根窓)が印象的です。正面玄関の四本の柱はまるでとっくりのようなユニークな意匠。駅舎内に解説があったので紹介しますと、明治末期ごろこのあたりはひと夏100万人といわれるほど多くの海水浴客がおしよせていたそうです。それに対応するために難波~浜寺公園間が電化され、あわせて東洋一の海水浴場にふさわしい駅舎として1907(明治40)年につくられたのがこの駅で、現役最古の洋風駅舎だそうです。設計は、東京駅や日本銀行本店を手がけた近代建築界の草分け、辰野金吾。ちなみにとっくり型の柱は、鹿鳴館二階ベランダ部分と似た意匠であるとのこと。重厚な煉瓦建築を得意とした辰野金吾が、こんな瀟洒で軽快な建築を設計したとは意外でした。古い駅舎がどんどん壊されている昨今、ぜひとも末永く保存していただきたいものです。
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 本日の四枚です。
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by sabasaba13 | 2009-07-06 06:12 | 近畿 | Comments(0)

紀伊編(6):富田林(08.9)

 ふたたび町中に戻り、あとは時間が許すかぎり縦横無尽に歩き回りましょう。強烈な忍び返し、三階建ての藏、穴のあいている馬つなぎの石、石製の防火用水などがすぐ見つかり、眼を楽しませてくれます。
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 なお焦げ目のついた板塀を時々見かけたのですが、後日、「建築史的モンダイ」(藤森照信 ちくま新書739)を読んでどうやらこれが「焼杉」という、西日本に特有の伝統技法らしいということが分かりました。
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 この街には珍しいクールな洋館は中央眼科医院、でも杉田医院は昔の建物のまま頑張っています。
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 豪壮な造りの旧杉山家は、「明星」「新詩社」で活躍した詩人・石上露子の生家ですね。その近くには「町中くわへきせるひなわ火無用」と刻まれた道標があります。
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 扉の脇にある「副町総代」というプレートには自治精神の残滓を感じます。しかしこんな落ち着いた町でもひったくりはあるようで、「きいつけや あんたのことやで そのバッグ」という富田林警察署のポスターが貼ってありました。
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 町の景観を守ろうとする努力は徹底しており、消火器ボックスはすべて緑色で塗られています。また水道・電気メーターをわざわざ木箱でおおっている例もありました。工事現場の仮設トイレを木の柵で囲っていたのには、こりゃまいった。
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 プライバシーを守るためか、塀に穴を開け外から電気等のメーターを見られるようにしているお宅もいくつか見かけました。京都ではよくお眼にかかります。中には格子の一画をメーター用に律儀に細工してある匠の技もありました。
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 というわけで古い町並み物件として王道を行く富田林、十二分に楽しめました。さてそろそろバスの発車時刻ですので、駅前へ戻りましょう。千早ロープウェイ前行きのバスに乗って、めざすは下赤坂の棚田です。平日は一時間に一本、土日は二本ほど走っているので、それほど不便ではありません。25分ほどで「千早赤坂中学校」というバス停に到着、帰りのバスを確認したところ約一時間後に来るようです。それまで棚田の散策を楽しむことにしましょう。バス停のすぐ目の前に道案内の標識があったので助かりました。緩やかな坂道を数分上ると千早赤坂中学校に到着、敷地内に入るとここにも標識があり、その指示通りに校舎の間を抜けると棚田が眼前に広がっています。経験則からいうと棚田に行くのはかなり苦労するのですが、ここはアクセスが容易です。棚田を展望できる小広場には「国史跡 赤坂城跡」という碑が立っていました。後醍醐天皇による元弘の変が発覚し、彼が笠置へ逃れた際に、楠正成がここで挙兵をしたとのことです。その後、幕府軍との間で落城、奪還、落城をくりかえし、千早城に籠城している間に鎌倉幕府は滅亡。なお城としての遺構ははっきりとしていないそうです。
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 本日の六枚です。
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by sabasaba13 | 2009-07-05 07:45 | 近畿 | Comments(0)

紀伊編(5):富田林(08.9)

 とるものもとりあえず、観光用の地図がほしいな。駅員さんに訊ねると、幸い駅舎内に観光案内所があるそうです。これは助かります、さっそく行ってみると…「休憩中」という札がかかり窓口は閉ざされていました。労働者が休むのは当然の権利、いたしかたないですね、でも観光客が持っていけるように資料を置いておいて欲しかったな。しょうがないので持参したガイドブックを頼りに、町の中心にあるらしい観光案内所に行ってみましょう。おっとその前に隣にあるバス停留所で、下赤坂の棚田に行くための「千早ロープウェイ前」行きバスの発車時刻を確認しておきましょう。駅前には戦前の物件らしき「楠氏遺跡里程標」という大きな記念碑が屹立していました。このあたりは南朝の忠臣・楠正成が挙兵したところなので、戦前においてはさぞや楠公詣でがさかんだったのでしょう。
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 さて駅前から車道を渡り、「本町通り」というゲートを抜けると落ち着いた雰囲気の街並みがはじまりました。数分歩くと「じないまち交流館」への道筋を示す道標を発見、すぐにたどりつくことができました。さっそく入館し(無料)、観光案内地図を所望、残念ながら貸し自転車はないとのことでした。こちらで小用をすまし、それでは散策をはじめましょう。いただいた地図によると東西約400m、南北約350mの中に碁盤の目状の往時の町割をほぼ完全に残しており、江戸後期に建てられた町家も数多く保存されています。まずは目抜き通りである城之門筋を南下しましょう。このあたりを数歩歩いただけで、もうこの町はただものではないというオーラを肌で感じます。白漆喰と黒板の壁、平瓦と丸瓦を交互に並べる本瓦葺きの屋根、時代時代の特徴を示す粋な虫籠(むしこ)窓、ていねいな細工の格子窓、そうした町家建築が驚くほどの密度で連なっていました。
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しかも凄いのは、そのほとんどが今も人が居住する現役の物件だということ、当然(例外もありますが)手入れもよく行き届いています。もちろん新しい家々もあるのですがだいたいが和風建築で、この見事な景観をぶち壊すような無国籍風物件は見当たりません。条例によるものか、自発的意思によるものかはわかりませんが、この街の風情をみんなで守ろうぜっという強固な思いと努力をひしひしと感じます。
 中核となる真宗寺院・興正寺別院は扉が閉ざされ残念ながら中には入れませんでした。しかし、通りに面してそびえたつ、立派な花頭窓が印象的な鐘楼(鼓楼?)など、往時の権勢を思わせる外観です。
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 城之門筋をつきあたったあたりは斜面となっており、藪の中を抜ける坂道があり、町の防禦区域であった雰囲気を感じさせてくれます。敵の侵入阻止や弓矢の材料となる竹が植えられていたのかもしれません。付近にはか細い流れがありましたが、環濠の名残もあるかどうかは不明です。
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 本日の六枚です。
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by sabasaba13 | 2009-07-04 20:48 | 近畿 | Comments(0)

紀伊編(4):富田林へ(08.9)

 それでは駅へと戻りますか。羽曳野警察署の建物最上部に掲げられた「羽曳野けいさつ」という文字が、これまたただならぬ気配を発しています。その隣が羽曳野市役所、「交通安全宣言都市」「非核平和宣言都市」「人権擁護宣言都市」「青少年健全育成宣言都市」「健康宣言都市」と、こんなに景気よくすここんすここんと宣言しちゃってだいじょうぶかな、と老婆心ながら思います。途中にあったマンションのゴミ捨て場には「外部者は、ここにゴミを入れることを固く禁止する 発見しだい……」という貼り紙。六つの点で表現される余韻が、大阪だけにこちらの想像力を肥大化させます。実際に何をされるのか試してみたくなりますね、ワクワク。コンクリート詰めにされて大阪湾に沈められるといった尋常な報復ではないのでしょう。そして古市駅に到着、小腹がへったので駅前にあった「味一番」という店でたこ焼きをいただきました。ここから近鉄長野線に七分ほど乗ると富田林(とんだばやし)駅に到着です。
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 富田林は歴史的に言うと寺内町(じないまち)と呼ばれる町で、戦国時代の前半に浄土真宗(一向宗)の寺院を中心としてつくられ、信者の職人・商人・農民が集住・武装し、その周りに土塁や堀などの防衛施設が整えられたものです。阿弥陀仏への強い信仰心と固い団結により戦国大名の支配を拒否し、戦国大名の立入りを拒否し、自由な商売(楽市)を自治的に行っていました。摂津の石山本願寺がcontrol-towerで、戦国大名にとっては言わば不倶戴天の敵。織田信長の最強の敵は武田信玄でも上杉謙信でもなく、この寺内町を地域的な核とする一向一揆であったと考えます。信長がめざしたのは全国の武士(戦国大名+国人+地侍)を武力によって服従・結集させ、その力で天下に平和・秩序・安定をもたらすという「軍隊の論理」の貫徹、つまり日本という国を巨大な"軍隊"にしてしまうことでした。これに対して、一向一揆は全国を支配するような強大な武士権力を拒否し、信仰と商工業・農業で結びついた、寺内町を中心とする地域ごとの共和国をめざしていたのではないでしょうか。自由で対等な取引・商売をしていれば、必然的に平和はもたらされるという「市場の論理」により、日本という国を巨大な"市場"にしようとした。よって信長にとって妥協の余地はなく、彼は一向一揆を徹底的に殺戮・壊滅させることになるわけですね(根切り)。代表的な寺内町としては、摂津の石山、加賀の金沢、大和の今井、そして河内の富田林があげられます。寺内町が近くにあれば旅程に組み込むようにしており、これまでも今井や久宝寺といったところを訪れてきましたが、環濠跡が往時のままに残る一身田がもっとも見事でした。
 ここ富田林は、1555(弘治元)年頃に興正寺の証秀が土地を買得して御坊(真宗寺院)を建設、周辺の住民を呼び集めて寺内町として成立し、諸公事免除などの本願寺並みの特権を得たそうです。織豊期に御坊は権力を失い、以後在郷町として存続して現在に至ります。
by sabasaba13 | 2009-07-03 06:53 | 近畿 | Comments(0)