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若草山山焼き編(14):山焼き(15.1)

 パチ。目が覚めると午後五時、山ノ神をゆすり起こしてそろそろ山焼き見物に出かけることにしましょう。もしや眺望が良いかと期待し、ホテルの屋上にのぼりましたが、それほどではなかったので初志貫徹、奈良公園に行きましょう。ホテルの近くにある荒池からも、薄暮のなか屹立する興福寺五重塔がよく見えました。道路には、「鹿に注意」ということでしょう、大きな鹿のピクトグラムが描かれていました。
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 公園が近づくにつれ、徐々に人の流れが太くなっていきます。やはりたいへんな混雑ですね。そして観光案内所で教えてもらった「奈良春日野国際フォーラム甍」のあたりに到着。なるほどある程度の距離をへだてて三笠山の全貌が見え、かつ立錐の余地もあります。
 午後6時15分、まずは大輪の花火が夜空を焦がします。scene1祈り 迫力のオープニング!、scene2凛 鹿花火も登場?! scene3伝統 奈良県で唯一の尺玉連打!scene4魂 感動のフィナーレ!というプログラムですが、鹿の顔をかたどった花火がまじるのはご愛敬です。そして午後6時30分、いよいよ点火。東大寺と興福寺の寺領あらそいに端を発したという説、春の芽生えを促すために枯れ草を焼いたという説など、その由来は諸説ありますが、まあどれでもよろしい。迫力ある火焔の乱舞を堪能させていただきましょう。山裾に火がつけられるとあっという間に燃え広がり、山全体を紅蓮の炎が包んでいきます。ファイヤー! わずか十五分ほどでしたが、迸る命のような劫火を満喫することができました。うん、また見に来たいものです。帰宅後にたまたま読んだ『かくれ里』(白洲正子 講談社学芸文庫)に次のような一文がありました。
 文智女王のお名を知ったのは、そういう偶然の機会であったが、ほんとうに興味をもったのは山村御殿を尋ねてからである。それは若草山の「山焼き」の日であった。橿原の方に用事があって行っていたが、奈良の人たちが、「山焼き」は、どこから見るのが一番いいかという話になり、円照寺のあたりが、人も込まないし、全体が見られるということで、帰りがけによってみることにしたのである。(p.201)
 円照寺か…今、調べてみたらすこし遠いのですが、穴場のようですね。選択肢の一つとして脳裡に刻んでおきましょう。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2017-05-26 06:27 | 近畿 | Comments(0)

若草山山焼き編(13):奈良ホテル(15.1)

 なお「埃まみれの書棚から」というサイトに"随筆・小説のなかの「奈良ホテル」"という一文がありましたの、ぜひ紹介します。
和辻哲郎 『古寺巡礼』

 奈良についた時はもう薄暗かった。この室に落ち着いて、浅茅ヶ原の向ふに見える若草山一帯の新緑(と云ってももう遅いが)を窓から眺めていると、いかにも京都とは違った気分が迫ってくる。奈良の方がパアッとして、大っぴらである。…食堂では、南の端のストオヴの前に、一人の美人がつれなしで坐っていた。黒味がかった髪がゆったりと巻き上がりながら、白い額を左右から眉の上まで隠していた。眼はスペイン人らしく大きく、頬は赤かった。…奈良の古寺巡礼に来てかういふ国際的な風景を面白がるのは、少しおかしく感じられるかも知らぬが、自分の気持ちには少しも矛盾はなかった。われわれが巡礼しようとするのは『美術』に対してであって、衆生救済の御仏に対してではないのである。

 食後T君と共にヴェランダへ出て、外を眺めた。池の向ふの旅館の二階では、乱酔した大勢の男が芸妓を交へてさわいでいる。興福寺の塔の黒い影と絃歌にゆらめく燈の影とが、同じ池の面に映って若葉の間から見えるのも、面白くはなかった。われわれはそれを見下すような気持になって、静かに雑談に耽った。(5月18日夜)

林芙美子

 また、奈良ホテルにも泊まったことがあります。終日池に面した部屋から、笹薮のゆさゆさするのを眺めていた事があります。奈良ホテルに泊まるような、心おごった豊かな気持ちも捨てがたく有難いのに私はホテルを出ると、友人と二人で町のうどん屋に這入って狐うどんをたべたりもしました。(『私の好きな奈良』)

 ホテルへ泊って窓を開けると、三笠山の麓にはもう灯がつきそめて、昔ながらのたそがれだ。…ホテルはひっそりしているので、まるでフォンテンブロウのサボイに泊ってゐるやうな静けさであった。夜更けてスチームのなる音は巴里の色々な宿屋を憶ひおこす。(『早春』)

山口誓子 『炎昼』

 花楓(はなかえで)新婚のふたり椅子に揺れ
 花馬酔木(はなあしび)雨はうつぼ柱に鳴れる
 けふも奈良ホテル春雨に樋(とひ)鳴れり

志賀直哉 『寂しき生涯』

 此春、奈良ホテルで、久しぶりに大宮君の絵を見た。『高円山』といふ題の百号程の絵だった。例の如く、実際の高円山とは似もつかぬ山に変わっていたが、大宮君として、悪くない方の絵だった。大宮君が画室で此絵を描いてゐるのを見に行った事を憶ひ出した。然し、此絵はホテルの余り客の行かない廊下の端にかけてあるばかりでなく、私が見た時には真前に大きな棕櫚竹の鉢が台にのせて、画面とすれすれに置いてあった。

堀辰雄 『大和路・信濃路』

【一九四一年十月十日、奈良ホテルにて】
 くれがた奈良に著いた。僕のためにとっておいてくれたのは、かなり奥まった部屋で、なかなか落ちつけそうな部屋で好い。すこうし仕事をするのには僕には大きすぎるかなと、もうここで仕事に没頭している最中のような気もちになって部屋の中を歩きまわってみたが、なかなか歩きでがある。これもこれでよかろうという事にして、こんどは窓に近づき、それをあけてみようとして窓掛けに手をかけたが、つい面倒になって、まあそれくらいはあすの朝の楽しみにしておいてやれとおもって止めた。その代り、食堂にはじめて出るまえに、奮発して髭ひげを剃そることにした。

【十月十一日朝、ヴェランダにて】
 けさは八時までゆっくりと寝た。あけがた静かで、寝心地はまことにいい。やっと窓をあけてみると、僕の部屋がすぐ荒池あらいけに面していることだけは分かったが、向う側はまだぼおっと濃い靄もやにつつまれているっきりで、もうちょっと僕にはお預けという形。なかなかもったいぶっていやあがる。さあ、この部屋で僕にどんな仕事が出来るか、なんだかこう仕事を目の前にしながら嘘みたいに愉しい。きょうはまあ軽い小手しらべに、ホテルから近い新薬師寺ぐらいのところでも歩いて来よう。

谷崎潤一郎 『細雪』

 6月上旬の土曜日曜に、貞之介は留守を雪子に頼み、悦子をも彼女に預けて、幸子と二人だけで奈良の新緑を見に出かけた。…土曜の晩は奈良ホテルに泊まり、翌日春日神社から三月堂,大仏殿を経て西の京へ廻ったが、幸子は午頃から耳の附け根の裏側のところが紅く脹れて痒みを覚え、鬢の毛が触るとその痒さがひとしほであるのに悩んだ。…『ほんとに、さうやわ。あのホテル、ちょっとも親切なこともないし、サアヴィスなんかも成ってない思うたら、南京虫がいるなんて、何と云うひどいホテルやろ』 幸子は、折角の二日の行楽が南京虫のために滅茶々々にされたことを思ふと、いつ迄も奈良ホテルが恨めしく、腹が立って仕方なかった。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-05-25 06:28 | 近畿 | Comments(0)

若草山山焼き編(12):奈良ホテル(15.1)

 さあそれではホテル内を探検することにしましょう。消火器ボックスにかけてあるガラス破砕用の鶴嘴や、赤い消火用バケツに、奈良ホテルの魂を感じます。
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 一階におりると、廊下には皇族を筆頭に、エドワード英国皇太子、アルベルト・アインシュタイン、ヘレンケラー、オードリー・ヘップバーンなど宿泊した著名人の写真が並べてありました。公式サイトによると、昭和期には軍事色を帯び、満州国皇帝、ドイツナチス党幹部、イタリアファシスト党幹部の来館が相次ぐようになったそうですが、その写真はありませんでした。きちんと歴史に向き合えばいいのに。ロビー「桜の間」にあったピアノには、「アインシュタイン博士とピアノ」という解説がありました。
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 後学のために転記します。
 1922年12月17日より2泊されたアインシュタイン博士が弾いたこのピアノは、長らく所在不明でした。1992年旧国鉄大阪鉄道管理局舎の解体時に発見され、交通科学博物館に保管されていたものがこのピアノだと確認されたのは、2008年には博士がピアノを弾く写真の原版を入手したことなどによるものです。ピアノは戦後GHQによる接収前にホテルより運び出されたと推測され、創業100周年の2009年、約60年ぶりに里帰りを果たしました。脚部に鉄道省・国鉄の「動輪」が施された優雅なデザインのピアノです。(米国ハリントン社製)
 ラウレルの胸像もありましたが、彼も宿泊したのですね。ちなみに、太平洋戦争下、フィリピン共和国の大統領であった、ホセ・ラウレル大統領のことです。ラウレルは、日本の敗戦が濃厚になった1945(昭和20)年3月に日本へ脱出し、奈良ホテルで亡命生活を送りました。ラウレルは、その年9月には連合軍に戦犯容疑で連行されるまで、ラウレル一行は奈良ホテルに滞在します。1969(昭和44)年、ラウレル元大統領の一家が奈良ホテルに訪れ、亡命生活時に対する感謝の気持ちを込めて胸像を造りホテルに設置したそうです。
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 さて紫煙を燻らしたくなったので、喫煙できる場所をフロントで訊ねると…やはり外にある屋根と囲いのあるベンチでした。しかし、電気ストーブが設置されていたところに奈良ホテルの魂を感じます。
 それで部屋に戻りましょう。陽光がさしこみ、スチームの柔らかな暖気とあいまって、部屋はぬくもりに満ちていました。スチームの鳴らす微かな音も旅愁をそそりますね。
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 そしてふかふかのベッド、時刻は午後三時。はい、昼寝ということで合意が成立。これほど快適な午睡はなかなか経験できません、か、い、か、ん… zzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzz
 というわけで、素晴らしいホテルでした。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-05-24 06:30 | 近畿 | Comments(0)

若草山山焼き編(11):奈良ホテル(15.1)

 そして興福寺の放生池として作られた人工池、猿沢池に着きました。湖面に映った青空と木々と興福寺五重塔がきれいでした。なお猿沢池には「澄まず、濁らず、出ず、入らず、蛙はわかず、藻は生えず、魚が七分に水三分」という七不思議があるとのことです。鶴福院町からも、五重塔がよく見えました。そして不審ヶ辻子町(ふしんがずしちょう)へ、こういう古色ゆかしき町名を残しているのには見識を感じます。
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 なおこの不思議な町名の由来を説く木板が掲げられていたので、転記します。
 その昔、夜になると元興寺の鐘楼に鬼が現れ、人に危害を加えるので、道場というお坊さんがこれを退治しようと争い、逃げる鬼の後を追ったが、このあたりで見失ってしまったところから、不審ヶ辻子と呼ぶようになった。
 ここからすこし歩くと、今夜の塒、奈良ホテルに到着です。『奈良県の歴史散歩 上』(奈良県歴史学会 山川出版社)から引用します。
 奈良ホテル本館は、鹿鳴館などの設計で有名なイギリスの建築家コンドルの弟子で、日本銀行本店や東京駅を設計した辰野金吾が設計にあたり、35万円の巨費を投じて和洋折衷の2階建が完成、1909(明治42)年に開業した。開業前に関西鉄道が敷地を購入し、鉄道国有化によってそのまま国に買収されたため、奈良ホテル敷地は国有地となり、ホテルの経営も1913(大正2)年から鉄道院の直営となった。現在は民間経営である。(p.65)
 同ホテルの公式サイトからすこし補足すると、1905年、日露戦争に勝った日本には来遊する外国人が急増。そのため政府は全国の主なホテル・旅館経営者を集め、必要な保護特典を与える旨の発表をしました。これを受けて、関東では大倉喜八郎(帝国ホテル創業者)、関西では西村仁兵衛(都ホテル創業者)が活動を起こしました。そして1906年、西村は眺望に恵まれた高畑町飛鳥山を坪1円で買収し、翌年に都ホテルなど4ホテルを統合した大日本ホテル株式会社を設立したのがその嚆矢だそうです。
 以前にTV TOKYOの『美の巨人たち』でも取り上げられた名門クラシックホテル、楽しみです。
 外観は重厚な桃山御殿風の木造建築、中に一歩入ると豪壮な檜造りの空間が広がります。フロント前のマントルピースには鳥居がしつらえてありましたが、外国人向けの意匠なのでしょうか。フロントでチェックインをして、二階の客室へ。漆喰仕上げの真壁造風の壁、大階段に取り付けられた擬宝珠、太い一本の檜を削り出した手すりが見事です。部屋はそれほど広くはありませんが、天井が高くひろびろと感じられる空間です。使用されてはいませんが、マントルピースもありました。
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 窓のところには「窓の開放に関するお願い」という札がありました。
 奈良ホテルはご覧の通り、豊かな緑に囲まれた場所に立地しております。窓を開放されますと、奈良公園の元気な生き物たちが入室する場合がございます。窓は長時間開放されないようご協力お願いいたします。
 元気な生き物たちに入室してもらいたいものだと窓を開けようとすると、山ノ神に「やめて」と窘められましたが。まずは洗面所をチェックする山ノ神、山と積まれた豪華なアメニティ・グッズに狂喜乱舞。♪空に灯がつく通天閣におれの闘志がまた燃える♪と口ずさみ、「根こそぎ持っていくわ」とほくそ笑むその姿には畏怖感すら覚えます。
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 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2017-05-23 06:33 | 近畿 | Comments(0)

若草山山焼き編(10):奈良(15.1)

 この東向通りには、日本聖公会奈良基督教会と親愛幼稚園があります。「文化遺産オンライン」から引用しましょう。
 日本聖公会奈良基督教会は、奈良市中心部、興福寺境内の西隣に位置している。奈良県内で古社寺修理の経験を持つ大木吉太郎の設計施工により、親愛幼稚園舎は昭和4年、会堂は同5年にそれぞれ竣工した。会堂は本格的な三廊式教会堂であるが、勾配の緩い伸びやかな屋根、小組格天井、菱格子欄間など和風要素で構成されている。親愛幼稚園舎もほぼ同様の意匠からなり、間仕切を外せば会館としても使用することができる。日本聖公会奈良基督教会は、奈良公園に隣接する立地条件から、純粋な和風意匠でつくられた教会堂建築である。古建築から着想を得た諸要素を巧妙にまとめ、各部のバランス、細部意匠とも秀逸で意匠的に優れている。古社寺修理から学んだ伝統的な要素を駆使し、教会堂として完成させた昭和初期の近代和風建築として、高い価値がある。
 なお『建築探偵 神出鬼没』(藤森照信 朝日新聞社)に教示していただいたのですが、1894(明治27)年、奈良国立博物館が建てられた際、そのフランス風の洋館が奈良にそぐわないと地元民や県議会の批判をあびました。以後、奈良公園一帯の建物は和風建築しか認められなくなったそうです。なるほど、奈良ホテルの和風意匠もそのためなのですね。(p.133)
 四本のイオニア式列柱が見事な南都銀行本店を撮影しましたが、奈良では珍しい様式建築です。もとは六十八銀行奈良支店で竣工は1926(大正15)年、設計は長野宇平治です。辰野金吾の弟子で、銀行建築を数多く手がけた建築家です。私が見たことがあるのは、台北の旧総督府と、旧日本銀行岡山支店(現ルネスホール)、旧日本銀行松江支店(現カラコロ工房)ぐらいかな。
 そしてお昼ご飯を食べる店を付近で物色。帯に短し襷に長し、迷った挙句に「二鶴」で鰻を食べることにしました。タレと白焼きの二色丼にうまき、美味しうございました。
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 落ち着いた雰囲気の本林院町を通り過ぎると、庇の上で極太の尻尾をたらしたが気持ち良さそうに午睡をしていました。猿沢池にそそぎこむ率川(いさがわ)を橋からふと見下ろすと、舟型の台座に何体かの石仏が集められた一角がありました。とりあえず写真におさめ、今インターネットで調べてみると、これは『率川地蔵尊』(または「尾花谷地蔵尊」「舟地蔵」とも)と呼ばれるもので、幕末のころ、この辺りの河川工事をした際に埋もれていた約40体の石仏が見つかり、ここに集められて祀られるようになったのだそうです。へえー、だから街歩きは面白い。なおこの時に渡った石橋の橋脚には「明和七庚寅年五月吉日」と刻まれており、1770年に架けられた古い石橋だそうです。これには気づきませんでした、不覚。

 本日の六枚です。
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by sabasaba13 | 2017-05-20 06:28 | 近畿 | Comments(0)

若草山山焼き編(9):奈良公園(15.1)

 そして名建築との世評高い奈良県庁の脇を通りすぎました。竣工は1965年、設計は片山光生、モダニズム建築の傑作とのこと。既述のように、こちらの屋上が山焼きを眺めるベスト・スポットなのですが予約をしないと上ることはできません。無念。奈良公園では鹿と鹿せんべい屋さんを撮影しました。
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 そうそう、さきほど観光案内所でもらったパンフレットによると、山焼きイベントの一つとして「鹿せんべい飛ばし大会」が挙行され、30mラインをクリアすると抽選会に参加して景品をもらえるそうです。ちなみに翌日の読売新聞県内版によると、鹿が下でちゃんと待っていてすぐに食べてしまうそうな。ま、そりゃそうだ。

 なおこの大会の公式サイトがあったので、オフィシャルソングの「鹿せんべいツイスト」を紹介します。これは笑えますよ。
奈良の名物 数ある中に 日本人なら誰もが知ってる
世界の鹿の 憧れの的 一度は食べたいって それは鹿せんべい
人間だって 一度食べたら 忘れられない 不思議なその味
悲しい時も つらい時でも 食べたら踊りだす 鹿せんべいツイスト
☆Yah!ツイスト! さあみんなで 陽気に踊ろうよ リズムに乗って
これがうわさの 鹿せんべいツイスト!
あのイギリスの女王様も 奈良の土産に買って帰った
ロイヤル・ファミリー3時のお茶には 今では欠かせない それは鹿せんべい
バッキンガム宮殿 緑の芝生で みんなでそろって 鹿せんべい投げ
すました顔した衛兵達も 投げたら踊りだす 鹿せんべいツイスト
☆ 繰り返し
若草山から 猿沢の池まで 大仏殿から 五重塔まで
踊って歩こうよ せんべい食べながら
奈良公園で踊るツイスト とても難しいよ 緊張しちゃうよ
ステップ踏むたび どきどきするのさ だってそこら中 鹿の糞だらけさ
Yah!フン!フン!フンを踏んだらダメ!
糞を踏んだら踏んだらダメ! 鹿せんべいツイスト!
糞を踏んだら踏んだらダメ! 鹿せんべいツイスト!
糞を踏んだら踏んだらダメ! 鹿せんべいツイスト!
ア?ッ!踏んでしもた?!
 噴水の中心に小さな行基像がある近鉄奈良駅の前を通り過ぎて東向通りへ。「ダイソー」では、鹿の角カチューシャを売っていました。
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 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2017-05-19 06:29 | 近畿 | Comments(0)

若草山山焼き編(8):奈良少年刑務所(15.1)

 閑話休題。それでは奈良少年刑務所へと参りましょう。お好み焼・焼きそばの「三角屋」では、骨董を買い受けるそうです。さすがは奈良、マンホールの蓋には鹿が描かれていました。
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 そして奈良少年刑務所の正門に到着。噂には聞いていましたが、魂消た物件です。円筒を両側に侍られせた、まるでお伽噺に出てくる古城のような煉瓦造りの建築です。いやはや、「どこが刑務所じゃ、責任者を呼んでこい」と一喝したくなるような愛らしさ。いったい、誰が、どうしてこのような刑務所をつくったのでしょうか?
 はい、実はわかっています。『建築探偵 東奔西走』(朝日新聞社)から、藤森照信氏の論考を私の文責でまとめてみます。竣工は1908(明治41)年、設計は山下啓次郎。驚き桃の木山椒の木ブリキに狸に蓄音機、ジャズ・ピアニスト山下洋輔氏の祖父にあたる方なのですね、これが。それではなぜこれほどモダンな刑務所を、政府はつくったのか。不平等条約の改正を宿願とする明治政府は、欧米諸国が改正に応じない理由の一つとして、監獄の不備があることを知りました。そこで、全国から五つの刑務所を選んで重点的に整備することにしましたが、その全てを担当したのが山下啓次郎です。警視庁に勤める父・房親が、大学で建築を学んだ息子にその仕事を任せたようです。ちなみにその筋では、奈良・千葉・長崎・鹿児島(現存せず)・金沢(現存せず)を五大監獄と言うそうです。入所は遠慮しますが、千葉と長崎刑務所の外観だけでも見てみたいものです。なお散歩の変人による刑務所探訪として、ダブリンのキルメイナム刑務所と、網走監獄の掌編がありますので、よろしければご一読を。

 追記です。2017年3月31日、老朽化のため、ここは刑務所としての運用を停止し閉鎖されました。今後はホテルや博物館など観光資源として活用される見通しだそうです。ぜひ第二の人生を送っていただきたいものです。

 近くにあった植村牧場は、創業1884(明治17)年、明治時代からの牛舎を今も使用されているそうです。その前にあるのがコスモスで有名な般若寺です。
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 それでは奈良ホテルへと向かいましょう。東七坊大路をてくてくと南へ歩いていくと、煉瓦造りや起(むく)り屋根の古い町屋が点在しています。
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 東大寺の転害(てがい)門は、1180(治承4)年の平重衡の兵火、1567(永禄10)年の松永久秀の兵火にも焼け残った貴重な建物で、天平時代の東大寺の伽藍建築を想像できる唯一の遺構だそうです。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2017-05-15 08:14 | 近畿 | Comments(0)

若草山山焼き編(7):夕日地蔵(15.1)

 近くに、ほっこりと微笑む石仏がありましたが、これが夕日地蔵です。秋艸道人・会津八一の歌を記した立て札が傍らにありました。
 ならざかの いしのほとけの おとがひに こさめながるる はるはきにけり
 漢字で表記すると、「奈良坂の石の仏の頤に小雨流るる春は来にけり」でしょうか、優しさに満ちた心あたたまる歌ですね。家に帰ったあと、『自註鹿鳴集』(岩波文庫)で確認したら、下記のような自註がありました。
 ならざか 昔は平城京大内裏の北方を山城国へ抜ける道を「ならざか」と呼びしが、今はこれを「歌姫越」(ウタヒメゴエ)といひ、もとの般若寺越の坂を「ならざか」といふこととなれり。
 いしのほとけ 奈良坂の上り口の右側の路傍に俗に「夕日地蔵」と名づけて七八尺の石像あり。永正六年(1509)四月の銘あり。その表情笑ふが如く、また泣くが如し。またこの像を「夕日地蔵」といふは、東南に当れる滝坂に「朝日観音」といふものあるに遥かに相対するが如し。(p.37)
 以前にも書きましたが、会津八一の歌に出会うと、大学時代、新潮文庫の『会津八一歌集』と『大和古寺風物誌』(亀井勝一郎)を鞄に入れて友人と二人で奈良の古寺めぐりをした思い出がいつもよみがえります。大垣止まりの普通(急行?)列車(今でもあるのでしょうか)に自転車を分解・携行して(いわゆる「輪行」)乗り込み、普通列車を乗り継いで奈良に到着。宿は高畑にある奈良教育大学の学生寮。帰省している学生の部屋を、一泊200円で使わしてくれましたっけ。朝食は抜き、昼食は食パンのみ、夕食はご飯と缶詰(サバの水煮かカツオのフレーク)。キャンピング・ガスバーナーと飯盒を持参したので、奈良町で米を買い、部屋の中で(!)ご飯を炊きましたね。とにかく一円でも経費を抑え、一箇所でも多くの古寺・古墳を訪ねようとした旅でした。たしか期間は一週間、もちろん一回も風呂に入らず、ひたすらペダルをこいで奈良の主な見どころはすべて踏破しました。今、山ノ神に提案したら、即座に三行半を叩きつけられそうな汚い/貧しい旅ですが、懐かしい思い出です。F君、元気ですか。今にして思えば、いかに費用を安くできたかを誇る「貧しさの美学」が往時の学生には横溢していたような気がします。学生にとっては、自家用車や海外旅行なんて見果てぬ夢の時代でした。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-05-14 08:20 | 近畿 | Comments(0)

若草山山焼き編(6):北山十八間戸(15.1)

 その近くにある、本瓦葺きで切妻造りの長屋のような建物が北山十八間戸です。『奈良県の歴史散歩 上』(奈良県歴史学会 山川出版社)から引用します。
 今在家から国道を離れ、旧街道(京街道)を北へ200mほど行くと、金網で囲まれた白壁の建物がある。真言律宗の僧で叡尊の弟子、忍性がハンセン氏病患者のために建設したといわれる北山十八間戸(国史跡)である。最近は教科書に掲載されることも少なくなり、さびしい気もするが、わが国で最も古い病院遺構、あるいは救済事業施設の遺構の一つであることにかわりはない。当初は般若寺の北東に建てられたこの建物は、1567(永禄10)年、三好・松永の乱で焼失し、寛文年間(1661~73)に現在の地で再建されたもので、切妻造・本瓦葺の建物である。
 川上町は佐保川の上流にあるところから名づけられたというが、建物のわきから奈良市街をながめていると、このあたりが高台にあることを改めて知るとともに、ハンセン病のために物乞いに行くことができない患者を背負って毎日、奈良の市に連れていったという忍性の伝説を思い出す。第2次世界大戦後は、引揚者の共同住宅になったこともある。今は訪れる人もほとんどなく、近くの16世紀初めにつくられたという夕日地蔵とともに静かにたたずんでいる。(p.51)
 忍性という律僧には興味を引かれます。『週刊朝日百科 日本の歴史 中世Ⅰ‐7 鎌倉仏教』(朝日新聞社)から引用します。
 叡尊の弟子の忍性は、はじめ西大寺で活動したが、関東に戒律をひろめるために、建長四年(1252)西大寺を去った。常陸国で律宗の寺院を開き、殺生禁断の地を定めるなど幅広い活動を続けた後、鎌倉に入り、文永四年(1267)以降、北条重時の創建になる極楽寺を中心に活動した。忍性は、師の叡尊が一人一人の人間を救うことに仏教の意味を見出していたのと異なり、道路を開き、橋をかけ、井戸を掘り、多くの病人を看護するための施設を作ることなどを目的として、力を尽くした。架けた橋百八十九か所、開いた道路七十一か所、井戸三十三か所を数えることができ、救癩のために尽くすことも大きかった。こうした社会事業を行うには多大の費用を要したが、そのために律宗の僧たちは活発な勧進を行った。それが鎌倉時代中期以降の交通や商業の発展を背景にしていることはいうまでもない。そして、こうした活動を続けるために、忍性は積極的に政治的な権力に近づき、保護と援助を求めた。こうした点でも、律宗の行き方は、新仏教とは対照的であった。(4-208)
 鎌倉仏教と言うと、いわゆる新仏教のことのみが注目されます。法然、親鸞、一遍、日蓮、栄西、道元といったビッグネームが綺羅星の如く活躍したのですから当然ではありましょう。しかしこれまで仏教の研究に専心してきた旧仏教が、新仏教の隆盛に刺激されて、民衆とともに歩もうとしはじめた動きも見逃せません。貞慶、明恵、叡尊、そしてその中でもこの忍性の活動には瞠目します。現実的な方法(橋、道、井戸、北山十八間戸)によって、苦しんでいる人びとを一人でも多く救うのが仏教だ、彼はそう考えたのではないでしょうか。ベルトルト・ブレヒトが戯曲『ガリレイの生涯』(岩波文庫)の中で、ガリレイにこう言わせています。"私は科学の唯一の目的は、人間の生存条件の辛さを軽くすることにあると思うんだ"(p.192) 宗教の目的も、そういうものであって欲しいですね。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-05-13 06:30 | 近畿 | Comments(0)

若草山山焼き編(5):きたまち(15.1)

 そしてきっちりと護岸工事をされた貧相な川に出ましたが、ここが佐保川ですね。かつては南都八景のひとつ、佐保川の蛍と称えられたそうですが、昔日の面影はありません。ちなみに残りは、東大寺の鐘、春日野の鹿、南円堂の藤、猿沢池の月、雲井阪の雨、轟橋の旅人、三笠山の雪だそうです。すこし歩くと聖武天皇陵にでくわしました。へえーここにあったのか。
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 佐保川沿いの道に出て、お地蔵さんや石仏、土塀に築地塀に格子窓を愛でながら歩いていると、「多門町」という町名表示のホーロー看板の下部に「仁丹歯磨」という宣伝がありました。
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 仁丹が歯磨きを売っていたとは知りませんでした。またこの町名表示は、広告を入れることを条件に仁丹がつくって配布したものなのでしょうか。謎が謎を呼びます、だから散歩はやめられません。あるお宅は、渋い築地塀、そして門の屋根が本瓦葺でした。維持管理はたいへんかと思いますが、町の景観に潤いをあたえる物件ですので大切にしていただきたく思います。
 またあるお宅の塀には、殺意を感じるほどの鋭い忍返しが設置されていました。あっ鹿だ。このあたりまで徘徊しているのですね、驚きました。
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 そして奈良坂です。『大系 日本の歴史5 鎌倉と京』(小学館)の中で、中世史研究者の五味文彦氏は次のように述べられています。
 都市の境界領域に目をやれば、北里の東北の奈良坂が注目される。平氏の南都攻めのさいには攻防の拠点となっており、『平家物語』は衆徒六万の軍勢が奈良坂を固めたと記している。奈良坂は奈良の出入口であり、その名も車道とよばれ、京都の出入口である清水坂とは、宇治路で結ばれていた。まさに軍事・交通上の要地である。
 そこには清水坂と同様に下層民の集住する場、北山宿がある。文永六年(1269)、北山の般若寺の西野において、律宗の叡尊は非人二〇〇〇人にたいし、大規模な施行をしており、また北山十八軒戸のハンセン病患者救済施設も叡尊のたてたところという。叡尊の弟子忍性は、ちかくにある東大寺の大勧進となって、東大寺の修造に関与したが、大勧進職は、重源にはじまり、栄西・行勇らの禅僧がそれにつづき、そして律僧の手に帰したものである。(p.250~1)
 京都の清水坂と奈良の奈良坂には多くの非人が住んでおり、「坂の者」と呼ばれていたことを思いだしました。たしか興福寺が支配していたのですね。東大寺大仏殿が見下ろせるので、ここが高台であることがよくわかります。装飾にあふれた煉瓦造りの小さな建物がありましたが、奈良市水道計量器室です。奈良にはじめて水道が引かれた時、1920(大正9)年ごろにつくられたそうです。
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 本日の五枚です。
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by sabasaba13 | 2017-05-12 06:32 | 近畿 | Comments(0)