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近江編(41):水口(15.3)

 それでは旧水口図書館に向かいましょう。途中に、「名物かんぴょう」というポスターがありました。歌川広重の「東海道五十三次」に描かれてから、全国的に有名になったそうです。
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 踏切を渡って地図を頼りに歩いていくと、まるで貴族の別荘のように瀟洒な洋館がありました。解説板を転記します。
 この建物は昭和3年(1928)水口町出身の実業家井上好三郎氏の寄付により、水口町立水口図書館として建てられたもので、設計は滋賀県ゆかりのヴォーリズ建築事務所である。
 南東側を正面としその右隅に玄関を、右側側面に通用口を設け、一階は小学生用閲覧室と書庫、二階は成人用閲覧室兼会議室に利用された。構造は主要な躯体を鉄筋コンクリートで構成し、壁は煉瓦積みという手法をとっている。玄関の両脇にはトスカナ式の円柱を配し、その上には壁を半円アーチ状にくぼめて書物と燭台、オリーブなどのレリーフを施し図書館らしさを表現する。
 窓は縦型長方形で両開きガラス窓を配置している。また玄関上方の二階窓には小振りのバルコニーを設けアクセントとする。特に塔屋の上に置かれたランタンは、この建物のイメージに大きく寄与している。全体に装飾は抑えられているが上記のようなアクセントや太めの軒蛇腹が立面を引き締めており、戦前最盛期のヴォーリズらしさにあふれた珠玉の作品と高く評価される。
 宿場町の古い町並みに面して突如現れたモダンな建物は、当時の人々をあっと言わせ、知の館としてまたランドマークとして多くの人々に親しまれ、昭和45年の図書館移転後も教科書っ選定のための施設として利用された。
 その後老朽化が進む一方で、近代化遺産に対する市民の関心も高まり、平成13年には国の登録有形文化財となり、平成15年にはランタンの復原や構造補強など保存整備工事が行われ、ふたたび活用の道が開かれた。
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 "知の館"か…素敵な表現ですね。地元の方々の、この図書館に対する思い入れの深さを感じます。思えば、私も少年時代には図書館にたいへんお世話になりました。時は1970年代、携帯電話もスマートフォンもコンビニエンスストアもインターネットもテレビゲームもカラオケもディズニーランドもない時代でした。もちろんたいしたお金も持っておらず、あるのは時間だけ。内気な少年をなんの留保もなく受け入れてくれたのが区立図書館でした。人気のない書庫の片隅にある小さな窓から中学校のプールで泳ぐ女子生徒を覗…もといっ、座り込んで恐竜図鑑や「ドリトル先生」シリーズや「ゆかいなホーマーくん」など手当たり次第に本を読み耽った至福のひと時。もし私に知的好奇心らしきものがあるとすれば、それは間違いなく図書館によって育まれたものです。あらためて感謝の意を込めて、「ありがとうございました」と言いたいと思います。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-10-20 06:28 | 近畿 | Comments(0)

近江編(40):水口(15.3)

 時刻は午前八時すこし前、朝食が食べたかったのですが、駅周辺のお店はまだ開いておりません。とりあえず、水口に行って図書館と教会を見てきましょう。八日町駅から近江鉄道本線の貴生川行き列車に乗って約40分、水口石橋駅に着きました。「東海道五十次 水口」という石標を撮影して、すこし歩くと曳山の倉庫がありました。
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 解説文を引用します。
 江戸時代、水口は東海道の宿場町であり、また加藤氏二万五千石の城下町として地域の政治、経済、文化の中心として発展しましたが、曳山祭はこの町に住む町衆の力によって創り出されたものであり、近世のマチ水口の象徴であります。
 曳山の登場は享保二十年(1725)のことで、このとき九基の曳山が巡行し藩邸にもくりこんで賑わいました。その後一町ごとに曳山が建造されるようになりその数三十基余りに達したといわれています。
 当地の曳山は「二層露天式人形屋台」という構造をもち、複雑な木組み、精緻な彫刻、華やかな幕を飾りつけるとともに屋上に「ダシ」と呼ばれる作り物をのせて町内を巡行します。その構造上、組み上がったままで各町内に建てられている「山蔵」に収納されています。
 落ち着いた街並みを歩いていくと、三角屋根が愛らしい日本基督教団水口教会に着きましたが、これもヴォーリズ設計事務所の手になるものです。解説板を転記します。
 本教会の歴史は明治中期に遡るが、この教会は昭和5年11月、W・M・ヴォーリズの近江ミッション(後の近江兄弟社)により、牧師館とともに建てられたものである。
 設計はヴォーリズ設計事務所。木造モルタル仕上、平屋建。屋根はもとスレート葺き。礼拝堂に続く畳敷きの和室は珍しい。
 住宅建築を基としたシンプルな外観は、古い城下の街角に、かろやかな「風」をもたらしている。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2017-10-14 06:26 | 近畿 | Comments(0)

近江編(39):八日町(15.3)

 朝、目覚めてカーテンを開けると、お天道様のご尊顔を拝することができました。天気は大丈夫そうですね。ホテルをチェックアウトし、近江八幡駅から近江鉄道八日市線に乗って新八日市駅に向かいます。切符を買おうとしたら、駅員さんに「がんばれ受験生! 合格パス」という、810円で一日乗り放題というお得な切符を勧められました。八一〇を縦に並べると「合」という字になるという芸の細かさ。ようがす、購入しましょう。彦根行きの列車に乗り込み、16分ほどで新八日町駅に到着。
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 うわっ、しぶっ。かなりがたがきていますが、1922(大正11)年に建てられた洋風の駅舎です。
 下車して歩いていると、鬼の角のような異形の山が見えました。古い煉瓦塀のところには、もうおなじみとなった「飛び出し小僧」が元気に飛び出そうとしています。扇型の縁起の良い透かしブロックを撮影し、地図を頼りに歩いているとお目当ての宮路医院旧病棟に着きました。
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 1929(昭和4)年頃の竣工で、連続窓が印象的な洋風建築です。
 なお棟木の出っ張った部分(でいいのかな)に「水」と記したお宅をよく見かけましたが、火難除けでしょうか。
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 「延命湯」という縁起の良い名の銭湯を撮影して八日町駅に到着。駅前にご当地ポストらしきものがあったのですが、乗っている物件がわかりません。ま、秘すれば花、そのうちわかるでしょう。時刻表を確認するために駅構内に入るとすぐにわかりました。「八日市大凧会館」、なるほど大凧だったのか。
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 今、東近江市のホームページを調べてみると、次のような一文がありました。一度見てみたいものですね。
 東近江大凧は、江戸時代中期に男子出生を祝って5月の節句に鯉のぼりと同じように揚げられたのがはじまりと言われています。村落ごとに競い合って凧揚げをしていたので、凧の大きさもだんだん大きくなりました。明治15年には、240畳敷きの大凧が揚げられたという記録が残っており、近年では昭和59年に揚げられた220畳敷きがあります。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2017-10-12 09:14 | 近畿 | Comments(0)

近江編(38):近江八幡へ(15.3)

 それでは修学院駅へと向かいましょう。途中にあった鷺森神社に、下記のようなお知らせがありました。
修学院小学校 新一年生 入学祈願祭のご案内
四月 一日 十時 鷺森神社本殿にて斎行
修学院小学校新一年生の入学祈願祭を執り行います。保護者様ご同伴にてご出席ください。記念品をお渡ししています。
 うーむ、何なのだろう、祈願祭というのは。人気があるので抽選で新入生を選抜しているのでしょうか。ホームページを見ても不明でした。ただ「校長室から」というコラムに、次のような言葉があったので、意を強くしました。がんばれ、修学院小学校。
 5月の憲法月間では,日本国憲法の三原則(国民主権・基本的人権の尊重・平和主義)を,日々の学校生活に生かすため,教室でできることを考えました。一人一人が真剣に考え,自分自身のできることから始めることで,笑顔になる友だちが増えたのではないでしょうか。
 でも、アドルフ・安倍、ヨゼフ・菅、ヘルマン・麻生が知ったら、有形無形、ありとあらゆる非公式な嫌がらせやいじめをして、この方針を撤回させるでしょうね。鶴亀鶴亀、桑原桑原。

 修学院駅から叡山電鉄本線に乗って出町柳駅へ、京阪本線に乗り換えて七条駅で下車。地上に出て、1913(大正2)年に開通した鴨川に架かる橋では最古の、七条大橋を撮影しました。森山松之助が意匠設計を担当した5連の鉄筋コンクリートアーチ橋です。
 そしてバスで京都駅に行き、琵琶湖線に乗って近江八幡駅へ。本日は寄り道をしましたが、明日からは再び琵琶湖周遊の旅に復帰します。駅から歩いて「ホテルはちまん」へ行きチェックイン、荷物を部屋に置いてホテル近くにあった「ティファニー」でビフカツをいただきました。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2017-10-02 07:56 | 近畿 | Comments(0)

近江編(37):修学院離宮(15.3)

 そして楓橋を渡りますが、その名の通り、楓の木が多く紅葉の時期にはさぞや見事な眺めでしょう。でもその時期に参観するのは至難の業なんですよね。アドルフ・安倍首相が刎頚の友だったらなあ。そして中島にある窮邃(きゅうすい)亭へ。後水尾院によって造営された上御茶屋・下御茶屋の建物のほとんどが滅失・再建されているなかで、ここが唯一、創建当時のものとされているそうです。
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 内部は18畳の大広間で、間仕切りはありません。浴龍池に面した突き上げの板戸が開けられており、池の水面が天井に映って揺らぎ、幻想的な雰囲気でした。動画でお見せできないのが残念。後水尾院は、ここまで計算に入れたのでしょうか。なお猿が入ってくるので開けない時もあるとのこと、今日は幸運でした。
 そして土橋を渡りますが、ここから西浜の桜並木が池の水面に映る景色が見られました。桜の時期はさぞ見事でしょう、でも抽選に当たるのは困難ですね。ヨゼフ・菅官房長官が竹馬の友だったらなあ。
 西浜は池の堰堤となっており、右手には、異なる種類の樹木を混ぜ植えたものを刈込んで、全体の形を整えた大刈込がありました。これは、池の水がもれぬように石垣を組んであるので、それを隠すためのものだそうです。
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 これにて参観は終了。御成門をくぐって松並木をふたたび歩いて表総門から退出しました。雄大なパノラマや霞棚など、桂離宮とはまた違った景観や趣向を楽しめました。それにしても、返す返すも、何としてでも、万難を排して、荊妻を( )に入れてでも、紅葉の季節に訪れたいものです。でも間違いなく抽選は高倍率、ヘルマン・麻生副総理が莫逆の友だったらなあ。

 本日の四枚です。
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by sabasaba13 | 2017-09-30 08:03 | 近畿 | Comments(0)

近江編(36):修学院離宮(15.3)

 先ほど歩いた松並木を戻り、どんつきのT字路を右に曲がってさらに松並木道をのぼっていくと、柿葺の屋根を持つ御成門に着きました。おっここはわれわれのような庶民もくぐらせてくれるのですね。中に入ると急な石段を上りますが、左右は背の高い刈り込みで視界を遮られています。広大な浴龍池(よくりゅうち)を見せずにじらすための工夫ですね。
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 石段を上り切ると突然視界が開け、眼下に浴龍池と借景の山々を望む大パノラマが広がります。ブラーボ。なお池には万松塢・中島・三保ヶ島という島がありますが、それらが龍が水浴びしている姿にみえることから「浴龍池」と名付けられたそうです。
 この雄大な景色を堪能できるビュー・ポイントに建つのが隣雲亭、純粋に景色を眺めるために装飾はほとんどありません。白い漆喰で固められた三和土には、鞍馬の赤石と賀茂川の真黒石が埋められており、一個・二個・三個の組み合わせによって点々と模様を描かいているので「一二三(ひふみ)石」と呼ばれるそうです。
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 縁に腰かけてしばし胸のすくような眺望を堪能しました。そして石段をおりると途中に滝見灯篭、そして杉木立の奥に雄滝が見えました。後水尾院は、この滝の音を聴きながら、隣雲亭にある洗詩台で詩歌をつくったそうです。
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 やがて万松塢と中島に架かる屋根がついた千歳橋が見えてきましたが、後水尾院の作庭時にはなく、1824(文政7)年の大改修の際に、内藤信敦が石橋台を、水野忠邦が屋形を寄進したそうです。ブルーノ・タウトが「環境に似つかわしくない中国風の橋」と言ったそうな。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2017-09-28 06:27 | 近畿 | Comments(0)

近江編(35):修学院離宮(15.3)

 そして中離宮に到着です。中離宮はそもそも創建当時の構想にはなかった御茶屋で、後水尾上皇の第八皇女である朱宮(あけのみや)光子内親王のために造営された山荘・楽只軒を中心とした朱宮御所が前身です。後に林丘寺(りんきゅうじ)の境内となりましたが、明治時代に皇室に返却され、中離宮として新たに修学院離宮に加えられたとのことです。
 表門は国公賓が訪れたときのみ開かれる門で、われわれの如き下賤な衆生は入れません。脇にある通用門を抜けて石段をあがると中門ですが、われわれの如き縁なき衆生は入れません。
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 通用門をくぐり、洒落た飛び石や石橋を歩いていくと楽只軒に着きました。朱宮御所創建当時からあり、中離宮では最も古い建物です。
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 前庭と池を撮影して客殿へ。見どころは、五枚の欅板を高さを変えて設置し、霞のたなびく様に似せた「霞棚」です。桂離宮の桂棚、醍醐寺三宝院の醍醐棚とともに天下三名棚の一とされております。その優美で洒落た動的な造形には惚れ惚れしますが、背面に貼られた和歌・漢詩の色紙のリズミカルなバランスと、両脇にある襖腰張の群青と金箔のモダンな菱形模様も素晴らしいですね。
 座敷の杉戸には鯉が描かれていますが、全体が網で覆われています。夜毎に杉戸を抜け出して池で遊ぶので、金色の網を描かせたといわれています。鯉の絵の作者は不明、網は円山応挙の筆と伝えられていますがほんとかな。ちがう杉戸には、祇園祭の山鉾が描かれており、作者は住吉具慶と言われています。こちらの座敷には明るい陽射しがさしこむとともに、微風にゆらぐ池の水面が壁に映って、光の饗宴を楽しめました。
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 客殿の北側、仏間の外側の縁には、数本の直線で構成される手摺がありました。「網干(あぼし)の欄干」と呼ばれるもので,漁の網を干した姿を現しているとのことです。それでは上離宮へと参りましょう。途中にきれいなむくり屋根があったので近づくと、菊の紋章がついていました。
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 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2017-09-26 06:19 | 近畿 | Comments(0)

近江編(34):修学院離宮(15.3)

 まずは下離宮の見学です。御幸門を通り抜けると右手奥に袖塀を持つ中門があります。石段をのぼると、後水尾院の御座所となった寿月観の御輿寄です。
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 御輿寄を左に見ながら進むと小さな苑池があり、四隅が反った朝鮮灯篭がいいアクセントになっています。
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 そして後水尾院行幸時の御座所となった建物、寿月観に着きました。なお「寿月観」の扁額は,後水尾上皇の宸筆だそうです。
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 寿月観の東にある小さな滝は、後ろの三角形の石を富士山に見立て、水の落ちる様が白糸を引いたように見えることから「白糸の滝」と呼ばれているとのこと。ここから鑓水が流れますが、緑にあふれたこのあたりの景観は格別です。櫓型灯篭もいい風情ですね。
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 東門を抜けると視界が開け、松並木の間を歩いて中離宮へと向かいます。この松並木は明治になって拡幅整備されたもので、かつては田んぼの畦道でした。なお綺麗に手入れされた松並木ですが、葉や枝を間引いて空間を開けて姿を整えつつも、あたかも人手を加えていないような柔らかな感じに仕上げる「御所透かし」という手法で手入れされているそうです。松並木の間からは,のどかな田園風景を眺めることができます。後水尾上皇は、離宮の造営の際に利用する域を最小限にとどめて他は耕作地として残し、耕作する農民の姿を自然景観に取り入れようとしたそうです。いい気なものですが。現在は農地を買い取り、地元の農家と賃貸契約を結んで耕作を依頼しているそうです。おお、京都市街も微かに見えてきました。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2017-09-24 08:54 | 近畿 | Comments(0)

近江編(33):修学院離宮(15.3)

 それでは修学院離宮を紹介いたしましょう。「京都観光Navi」の紹介文を引用しますと、1656~59年、後水尾上皇が比叡山麓に造営した広大な山荘で、約54万5000平方メートルの敷地に上・中・下、三つの離宮から構成され、いずれも数寄な趣向の茶亭等が閑雅にめぐらせた池の傍らに立ちます。自然と建物の調和が絶妙です。
 当然、莫大な費用がかかりましたが、これには裏話があります。できたてのほやほやの江戸幕府は、朝廷の権威を利用するために秀忠の娘・和子を後水尾天皇に入内させるとともに、禁中並公家諸法度(1615)を制定するなど、その統制に細心の注意を払いました。さらに、幕府の許可なく天皇が高僧に"紫の僧衣"を与えとして、紫衣を取り上げ、抗議した沢庵らを処罰します。これが紫衣事件。以前から幕府に反発していた後水尾天皇はこれで怒髪天を衝き、幕府の制止も聞かずに、和子が産んだ明正天皇に譲位してしまいました。859年ぶりの女帝ですね。天皇に対する統制の難しさを痛感した幕府は以後、強引な統制をやめソフトな融和策をとることになります。例えば、修学院離宮造営に対する援助もその一環です。その結果、可哀相に東福門院和子は朝廷内において孤立を余儀なくされ、やがて"衣装狂い"にのめりこんでいきました。半年間に、約一億五千万円相当の着物を購入したというのですから、これはもう狂気に犯されていたのかもしれません。そしてその注文先が「雁金屋」、そう、尾形光琳の生家です。彼女が亡くなったのは1678年、その時光琳は二十歳です。薄幸の狂気が、一人の天才芸術家を育んだ…などと想像するのも歴史を知る喜びの一つです。
 余談ですが、沢庵の配流先である春雨庵の記事を以前に掲載しましたので、よろしければご笑覧ください。

 表総門から入り、参観許可証を提示して中へ、参観者休所で待機しますが、桂離宮にくらべて質素な建物でした。さあ出発時間です。参観人数は二十人ほど、前に説明担当の方、後ろに歩みをせかす係の方が配置され、サンドウィッチ状態での見学となります。
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by sabasaba13 | 2017-09-22 06:24 | 近畿 | Comments(0)

近江編(32):修学院離宮へ(15.3)

 それでは修学院離宮へと向かいましょう。伏見桃山駅から京阪本線に乗って出町柳駅へ、叡山電鉄本線に乗って修学院駅で下車しました。徒歩20分ほどで着けるようですが、まだ時間があるので途中にあった軽食喫茶「千房」でやきめしをいただきました。心あたたまる家庭の味でした。
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 みごとな白漆喰の蔵を撮影して、参観予約時間午後三時のすこし前に到着です。
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 修学院離宮は1.5回訪れたことがあります。1回は予約をした上でのオフィシャルな参観、0.5回は…以前に掲載した拙ブログの記事を転記します。
 そして修学院離宮の脇を通って… おっ離宮の畑と植込みがすぐ目の前に見えます。おまけに人が自由に入っている! 「立入禁止」という看板が裏返しになっているので、こりゃ紅葉特別拝観なのか、宮内庁もなかなかういやつじゃ近う寄れ苦しゅうないぞ帯を解け、と勝手に判断し自転車で乗り込みました。もちろん庭園内部には入れませんが、付属の畑や、尋常ではない凝った造りの見事な垣根、絨毯のような苔と数本のもみじを見物できました。われわれの血税を使って手入れしてあるためか、何となく気品のある素晴らしい紅葉でした。するとキコキコと皇宮警察の方が自転車に乗ってやってきて「すみません、立入禁止です」と腰に下げた拳銃の引き金に指をかけながら(嘘)言うではありませんか。どうやら何者かが看板をひっくり返したようです。どなたか知りませんが、なかなか洒落たことをなさる通人ですね、ありがとう。裏技(犯罪?)ですが、看板をひっくりかえせば素知らぬ顔で修学院離宮に入れますよ。簡単に裏返せるので、お試しあれ(犯罪教唆?)。
 今となっては甘美な思い出ですが閑話休題。
by sabasaba13 | 2017-09-16 06:26 | 近畿 | Comments(0)