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近江編(13):近江八幡(15.3)

 それでは八幡堀へと戻りましょう。途中で瓦屋さんを何軒か見かけました。その看板に「八幡瓦・三州瓦・岐阜瓦・奈良瓦・淡路瓦・石州瓦・越前瓦」と、各地特産の瓦が記されているように、ここ近江八幡は瓦の特産地です。「かわらミュージアム」のHPによると、豊臣秀吉の命によって豊臣秀次が1585(天正13)年に築城した「八幡山城」にその淵源を求められるそうです。
 近くには、蝶ネクタイをしめマイクを持った異な風体の鳥を用いた「飛び出し人形」がありました。
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 今、写真を拡大して確認すると、「知ったかぶりカイツブリ製作委員会」と小さく記されています。なんだそりゃ? インターネットで調べてみると、カイツブリとは、琵琶湖などに生息する水鳥で、滋賀県の県鳥になっているそうです。それをメインキャラクターにしたアニメ「知ったかぶりカイツブリ」が滋賀県で人気を集めているとのこと。公式サイトもありますので、よろしければご笑覧を。

 そして素敵な景観の八幡堀に着きました。白壁や板壁の家々と石垣、それを水面に美しく映す堀。ピクチャレスクな光景です。解説板があったので転記します。
 近江八幡のまちが発展した理由はいくつかありますが、八幡堀の役割は欠かすことはできません。堀は城を防御するために存在しますが、豊臣秀次はこの八幡堀を運河として利用することを考え、琵琶湖を往来する荷船をすべて八幡の町へ寄港させました。
 また、八幡山城下はかつての安土と同じく、楽市楽座を取り入れたことから、商人の町として大いに活気を呈しました。
 多くの商人が八幡の町から全国へと旅立ち、近江商人として活躍した原動力となった八幡堀も、昭和30年ごろになると時代は高度経済成長期に入り、人々の生活が変化する中で、次第に市民の関心も薄らいでいきました。やがて、八幡堀はドブ川のようになり、埋め立てられようとしました。
 しかし、「八幡堀は埋めた瞬間から後悔が始まる」の合言葉により、市民が立ち上がり、清掃活動に取り組みました。その結果、次第にかつての姿を取り戻すようになり、今日でも各種団体による清掃活動が続けられています。
 近江八幡市民の炯眼と尽力に敬意を表します。

 すぐ近くには、古い学校、白雲館があります。中央に屹立する楼閣、左右対称のバランスのよい佇まいに、唐破風がいいアクセントになっています。解説板を転記しましょう。
 明治10年(1877)に八幡東学校として建築された白雲館は、八幡商人や地域住民の人々の熱意と協力で当時6千円(米1俵が1円34銭)の費用をかけて建設されました。明治10年の児童数は男115人、女117人、計232人と記されています。
 学校として使用された後は、役場、郡役所、信用金庫等を経て、平成6年に建設当時の姿に復元されました。
 白雲館という名称は、藤原不比等の和歌「天降(あまふり)の神の誕生(みあれ)の八幡かも比牟礼(ひむれ)の杜になびく白雲」から名付けられた説や鎌倉時代の臨済宗の僧:白雲えい暁(はくうんえいぎょう)の徳を偲んだことによる説などがあります。
 なお「えい」は「慧」の脚の「心」がない字でした。インターネットで調べてみると、「白雲慧暁(はくうんえぎょう)」とありましたが、どちらが正しいのでしょうか。ご教示を乞う。

 本日の七枚です。
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by sabasaba13 | 2017-07-24 06:26 | 近畿 | Comments(0)

近江編(12):近江八幡(15.3)

 ここから八幡堀を越えてすこし走ると、旧中川煉瓦製造所ホフマン窯に到着です。残念ながら非公開で、外から煉瓦造の煙突を撮影することしかできませんでした。なお「滋賀文化のススメ」というサイトに詳しい解説があったので、小生の文責で要約します。
 "富国強兵""殖産興業"をスローガンに日本全体が近代化に力を尽くした明治時代、その象徴が煉瓦を使った建築物でした。煉瓦建築の需要が高まると、滋賀県内でもいくつかの煉瓦製造工場が操業を開始し、その一つが、ここ旧中川煉瓦製造所およびホフマンです。ホフマン窯とは、ドイツ人技師フリードリッヒ・ホフマンによって1858年に特許を取得された、煉瓦を焼くための窯のことです。煙突の下にはトンネル状の窯がぐるりと「ロの字」のようにめぐっており、内部に仕切りを入れていくつもの"部屋"を造り、各部屋に乾燥させた煉瓦を積み上げて、反時計回りの順に焼成していきます。およそ半月ほどでホフマン窯を一周しますが、これを繰り返すので、年がら年中煉瓦を焼き続けることができる仕組みです。
 なぜ近江八幡で煉瓦製造が行われたのか。もともと近江八幡は江戸期より「八幡瓦」で有名で、土を利用した同じ"焼物"ということで、その取り扱いに共通な点があったためです。また、大量に焼かれた煉瓦を各地へ運び出すのに、八幡堀と琵琶湖の水運を利用できたことも幸いしました。さらに、1890(明治23)年には琵琶湖疏水が竣工したため、京阪神方面への煉瓦の供給が容易となりました。
 明治時代から大正時代にかけて建築資材として多用された煉瓦ですが、関東大震災で煉瓦建造物の多くが崩壊したため、その後は煉瓦造りの建物はあまり建てられなくなり、コンクリートにその座を奪われてゆきました。ここ中川煉瓦製造所も1967(昭和42)年まで煉瓦の販売を続けましたが。ホフマン窯での煉瓦製造がいつまで行われていたかについては、確かな記録は残っていないそうです。おしまい。
 煉瓦に歴史あり、ですね。近代化の貴重な証人、ぜひとも整備をして公開されることを熱望します。なお現存しているホフマン窯は四つ、ここと、栃木県下都賀郡野木町にある旧下野煉化製造会社(シモレン) 、埼玉県深谷市にある旧日本煉瓦製造、そして京都府舞鶴市にある旧神崎煉瓦です。未見の旧神崎煉瓦はいつの日にか、訪れてみるつもりです。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2017-07-23 06:57 | 近畿 | Comments(0)

近江編(11):近江八幡(15.3)

 そして池田町洋風住宅街(ヴォーリズ建築群)へ。街角に解説板があったので転記します。
 アメリカ人・ウィリアム・メレル・ヴォーリズは、1905年にキリスト教の伝道を目的に、現在の八幡商業高校に英語の教師として来日しました。その後は、建築家として「建築物の品格は人間の人格と同じくその外装よりむしろ内容にある」との考えをもとに建築活動を展開。この住宅街はヴォーリズが大正期に手がけた初期の作品で、アメリカの開拓時代を象徴するコロニアルスタイルと呼ばれる建物です。以後、山の上ホテル、大丸心斎橋店・関西学院大学、等々、全国に約1600に及ぶ建築を手がけました。そんな彼を内村鑑三は「ヴォーリズ君は世に稀に見る建築術の天才であり、また深く正しく日本を解し、これを愛する米国人の一人であります」と評価しています。
 残念ながら住宅はすべて非公開です。とは言っても、その外観や佇まいから、ヴォーリズの考える"理想の家"がそこはかとなく感じられます。どのお宅にも煙突があるのは、マントルピース(暖炉)が設置されているからですね。彼は、住宅は子どもの成長の器であると考え、ゆったりとした居間をとり、マントルピース(暖炉)を設けその前で家族のコミュニケーションが図れるようにしました。武骨だけれど暖かみのある煉瓦塀は、「焼き過ぎ膨張レンガ」で作られているそうです。これから訪れるホフマン窯で焼成されたレンガの中で商品価値のない捨てられた焼き過ぎ膨張レンガを無駄にせず、しゃれた塀の材料として利用し、建築コストの削減も図りました。観光パンフレットによると、彼は「建築家は日常生活のために使用する快適で健康を守るに良い、能率的な建物を熱心に求めている建築主の意を汲む奉仕者となるべきである」と語っていたそうです。彼が設計した住宅には、採光性と耐久性、風通しのよさ、内開きのドアと固定椅子など工夫された玄関、安心して使える階段、掃除のしやすさといった特徴があるとのことです。「三方よし(売り手よし・買い手よし・世間によし)」という、近江商人の精神が影響しているのかもしれませんね。近江兄弟社のサイトにも「青い目の近江商人」と紹介されていました。

 近くにあった八幡小学校もヴォーリズの設計、洒落た三角屋根と車寄せが印象的です。解説板を転記します。
 開校は明治19年。大正6年に建てられた木造2階建校舎は擬洋風建築様式を取り入れた西洋的建築物で、NHK朝の連続ドラマ「はっさい先生」の舞台ともなった。

 本日の四枚です。
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by sabasaba13 | 2017-07-22 07:22 | 近畿 | Comments(0)

近江編(10):近江八幡(15.3)

 40分ほど走って近江八幡駅前に到着、そして本日のお目当て、ウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計の建物めぐりです。まず観光案内所でいただいた資料から、彼のプロフィールを転記します。
 ヴォーリズは1880年10月28日アメリカのカンザス州レブンワースに生まれた。少年時代より音楽と絵を描くことを好み、建築家になろうと志した。「学生伝道隊運動」の世界大会にYMCAより出席をし、キリスト教の教えを海外で伝道をしようと決意をした。
 1905年2月2日に八幡に着き、県立商業学校の英語の教師として教鞭をとった。授業でも、また授業以外のバイブルクラスでも大変人気があり、生徒の心を掴んで2年間活躍した。その後もヴォーリズは八幡に留まり、キリストの教えを生活の中に生かそうと決意し建築の設計を始めた。
 1907年にヴォーリズ自身が近江八幡YMCA会館(現在のアンドリュース記念館)を設計、その後も仕事が順調に増えた。多くの人々と出会い、信仰により結ばれて支えられていた。
 グループの事業は
1.建築設計事務所 (ヴォーリズ建築事務所)
2.医療事業 (肺結核診療所としてツッカーハウス(現在のヴォーリズ記念病院))
3.製薬会社 (メンソレータム(現メンターム)の製造、販売)
4.教育事業 (近江兄弟社学園の幼・小・中・高等学校)
5.図書館 (旧伴庄右衛門邸を利用して近江兄弟社図書館)
 を擁するまでに拡大した。中でもヴォーリズの建築が人の心を惹きつけている。
 1906年から1925年の18年間に設計された建物は、日本国内で確認されているものだけでも住宅が164棟、学校・図書館・寄宿舎が118棟、病院が6棟、教会・音楽堂・講堂が114棟、銀行・会社・デパートが24棟ある。こうした数多くの建築の中でも、ヴォーリズ建築の特徴を、またその人柄や心を最もよく顕しているのは住宅である。
 1919年に一柳満喜子と結婚をし、1941年に日本に帰化をし、日本国籍を取得して一柳米来留(ひとつやなぎめれる)と改名をした。これは米国より来て留まるという決意を示している。その後1957年8月に蜘蛛膜下出血のために病床に就き、1964年5月7日享年83歳で天に召された。
 彼の作品は、これまで東華菜館日本福音ルーテル市川教会会堂九州学院高等学校講堂兼礼拝堂大丸ヴィラ芝山口記念会館山の上ホテルを見てきましたが、肩ひじを張らず奇を衒わず、住みやすそうな使いやすそうな印象の好建築ばかりでした。ここ近江八幡には、彼の作品が数多残っているので、できうる限り見てまわりたいと思います。

 まず駅前にヴォーリズが設計した日本基督教団近江金田教会がありました。観光パンフレットから引用します。
 赤い瓦屋根と真っ白なスタッコ壁、正面から見て左側にある鐘楼が特徴的でシンプルな外観でヴォーリズらしい優しさや暖かさを感じさせる建物である。農村伝道を目的として建てられた木造2階建てである。外壁の窓枠や表札などは当時のままで趣きがある。2階に礼拝堂がある。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-07-21 06:32 | 近畿 | Comments(0)

近江編(9):近江八幡へ(15.3)

 そして愛知川に架かる近江鉄道愛知川橋梁に着きました。接近はできそうもないので、望遠で撮影。「文化遺産オンライン」によると、"橋長239m、単線仕様の鉄道橋で、9連プレートガーダーと単ポニーワーレントラスよりなる。J形スティフナーと、トラスの台形フレームや横桁の配置等にイギリス橋梁技術の特徴をよく示す。明治後期造の現役の鉄道橋として貴重"だそうです。と、当該の記事をコピー&ペーストしただけで、私にはよく分かりません。ごめんなさい。
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 それでは能登川駅へ向けて一路、ペダルをぶんまわしましょう。さすがは"とびだし坊や発祥の地"、少年少女にじさま・ばさまと百花繚乱の飛び出し人形に出会えました。
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 丁重にお礼を言って代金を支払い、自転車を返却。能登川駅から琵琶湖線快速列車に乗ると、六分ほどで近江八幡駅に到着です。観光案内所で地図と資料、そしてレンタサイクルの所在地を教えてもらいました。駅の近くにある、JR西日本提供の「駅リンくん」で自転車を拝借。一日500円というのは格安ですね。
 それでサドルにまたがりいざ出発、まず目指すは旧八幡警察署武佐分署庁舎です。持参した地図を頼りに、東へ向かいペダルをこいでいると、毎度おなじみになった「とびだし坊や」と、アヒルのガードレール・アニマルを発見しました。
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 三十分ほどでお目当ての旧八幡警察署武佐分署庁舎に到着。とても警察署とは思えない、まるで別荘のような洒落た洋館です。
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 なおこのあたりは中山道第六十七番の宿場、武佐宿ですが、その面影はありません。往時は旅籠が二十三軒もあり、享保13(1728)年には輸入された象もここを通ったそうです。また、八日市・永源寺を通り八風峠を越え伊勢へとつながる八風街道の起点で、海産物、紙、布等の物資が行き交ったとのことです。
 それでは近江八幡へと向かいましょう。途中で交通安全足型と、ボクサー風の飛び出し小僧を撮影。♪Li la lie…♪
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by sabasaba13 | 2017-07-20 06:32 | 近畿 | Comments(0)

近江編(8):五個荘(15.3)

 さてそれでは付近にある近代化遺産を経巡りながら、能登川駅へと戻りましょう。ペダルをこいでいると、噂の飛び出し小僧と「コバタ物件」を見つけました。
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 そして日本でも数少ない書道の専門学校・淡海書道文化専門学校の旧校舎を撮影。
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 情報誌「三方よし」(第36号 2011.9)に紹介文があったので引用します。
 塚本さとは近江商人の家に生まれ、商家の妻として生涯を送った女性です。大正8年(1919)、さとは念願だった淡海(たんかい)女子実務学校を創立します。杉浦重剛、下田歌子、嘉悦孝子らとともに、仮校舎から授業をスタートさせました。 翌年、校舎を隣に移転。さとは校長として全力で運営にあたり、多くの学生たちに生き方の指針を示しました。カリキュラムは、一般教養から家事、作法、芸術までを幅広く網羅していました。経営にあたっては私財を投じ、最後まで学校の存続を望みますが、経営状態が悪化し、大正13年には閉校にまで追い込まれます。
 その後、さとの志を引き継いで学校経営を引き受けたのは創立以来の顧問であり、歌人であった下田歌子でした。大正15年、淡海実践女学校は下田歌子校長とともに、淡海高等女学校として再スタートを切りました。その際、滋賀県から交付を受けた校舎(県立神崎商業学校旧校舎)に移転しています。淡海書道文化専門学校の旧校舎です。
 実践女子学院を創設した、近代日本における女子教育の第一人者・下田歌子が関係していたのですね。彼女の出身地・岩村で銅像を見た記憶があります。
 竜田公会堂は、マンサール屋根が小粋な洒落た建物です。
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 旧五個荘郵便局は、キレッキレのシャープな意匠です。正面を三列の縦長壁で構成して垂直性を強調し、直線・直角・四角を組み合わせた装飾がちりばめられています。いわゆるセッション様式ですね、いろいろと郵便局物件を見てきましたがまごうことなき逸品です。
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 珍しい透かしブロックを撮影して、しばらく走ると「あんた! 何したん!!」という京都新聞の広告看板がありました。いや、その、突然そう言われても、もごもご。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2017-07-19 06:33 | 近畿 | Comments(0)

近江編(7):五個荘(15.3)

 それでは「五個荘観光センター」でお昼ご飯をいただきましょう。ランチセットのキャベツメンチカツを所望したところ、嬉しいことに漬物バイキングがついていました。これは嬉しい、五種類の漬物を少しずつとってすべていただきました。
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 メンチを食べながら、観光パンフレットを読んでいると、近江商人に関する一文がありましたので転記します。
商法を支えた近江商人の理念

 江戸時代、近江商人は天秤棒を肩に全国各地にわたって活躍しました。その精神は現代に至るまで連綿と受け継がれています。
 江戸時代初期から発祥した近江商人たちは、はじめ行商からスタートし、やがて舟や牛馬を使って大規模な卸売を行うようになります。
 特徴的なのは、ただ産物を他の地域で商うだけではなく、各地域の産物を仕入れ、よく売れる地域で商うという「諸国産物廻し」でした。
 また、大福帳による複式簿記を行うなど、独自の資本意識を持って、近江商人たちは今でいう流通システムの確立を行ったのでした。

 売り手よし 買い手よし 世間によし 三方よし

 商いというものは、売り手が利益を得て、買い手が欲しい商品を手に入れるという、売り手も買い手も満足する取引でなければならない。そして、その取引で得られた利益は世間のため、広く公共のために活用されなければならない。
 「売り手よし・買い手よし・世間によし」という、近江商人の格言として有名な「三方よし」の理念を説いた最初の人物は、江戸時代中期、近江国神崎郡石馬寺村(五個荘石馬寺町)の麻布商、中村治兵衛家の二代目宗岸であったと言われています。
 「売り手よし・買い手よし・世間によし」か…これは三思に値する言葉ですね。商売は人や社会を幸せにするために営まれる、経済が社会に埋め込まれていた時代をよく表現しています。経済行為においては、リスクやコストを他者や社会や未来に押しつけぬよう自制すべきである、と言い換えてもいいかな。思うに、近代とはそうした自制を取り払った時代だと考えます。短期間で簡単に大儲けすることを至上命題とし、投機的投資に現を抜かし、ひたすら経済成長をめざす、経済に社会が埋め込まれた時代です。「売り手だけよし」の"一方よし"ですね。そのリスクやコストは、無力な弱者に押しつけて平然とし、どのようなカタストロフが起ころうとも責任を取らない。株式・通貨・不動産の各市場が危機を生み出そうとも、再生不能エネルギー資源が環境を破壊しても、希少資源の支配をめぐる戦争が起ころうとも、それがテロリズムを誘発しようとも、未来の世代が犠牲になろうとも、知ったこっちゃない。今だけ、金だけ、自分だけ。
 やれやれ、「それでも人間か」と罵倒したくなりますが、シェイクスピアだったら「それが人間だ」と切り返すでしょうね。もしdecentな世界と未来を望むのであれば、この近江商人の言葉をもう一度噛みしめるのも悪くないと思います。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-07-14 06:27 | 近畿 | Comments(0)

近江編(6):五個荘(15.3)

 最後に訪れたのが外村繁邸。呉服木綿問屋を営んでいましたが、外村繁は「草筏」「花筏」など近江商人を題材にした小説を書いた方だそうです。知りませんでしたが。こちらにも素敵なお庭と川戸がありました。
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 なお滋賀の良質な土を磨きあげて光沢をだす「大津壁」は初めて見ました。
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 そして近くにある川並へ、こちらの街並みも素敵でした。
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 お腹がへったので昼食をいただこうと「五個荘観光センター」に行くと、その隣にあった「プラザ三方よし」の入口に、よく見かける飛び出し小僧顔はめ看板が立てかけてありました。ダブルは珍しいわな、とりあえず写真におさめようと近づくと…ぬぅわんと「とびだし坊や発祥の地 東近江市」と記されているではあーりませんか。以前、湖東三山を訪れた時に、やたらと手作りの飛び出し小僧を見かけたので、八日市は飛び出し小僧のサンクチュアリではないかと呟いたことがありますが、発祥の地だったのか。帰郷後にインターネットで調べてみると、「まほろば製作所」のサイトにその由来が紹介されていました。
 それは今から30年以上も前のこと。昭和30年代から40年代にかけて高度経済成長期にあった日本では、車の交通量が急激に増加し、全国で交通事故が増え続けていました。子どもの飛び出しによる事故も多く発生したため、その対策が急務となっていました。"交通戦争"という言葉が頻繁に使われるようになったのもこの頃のことです。そんななか、滋賀県旧八日市市(現・東近江市)の社会福祉協議会が中心となり、急増していた子どもの飛び出し事故を未然に防ぐ啓発活動を展開するという計画が持ち上がりました。当時、同社会福祉協議会から相談を受けた、看板製作業の久田工芸さんが啓発資材の製作を請け負うこととなり、代表者久田泰平さんの手によって、「坊や」が飛び出す様子をかたどった「飛び出し注意」を促す合板製看板、いわゆる「飛び出し人形=飛び出し坊や」が考案されました。昭和48年(1973年)のことだそうです。
 へー、飛び出し小僧に歴史あり、ですね。

 本日の四枚です。一枚目が五個荘、二・三枚目が川並です。
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by sabasaba13 | 2017-07-13 06:30 | 近畿 | Comments(0)

近江編(5):五個荘(15.3)

 それでは五個荘へと向かいましょう。JR大津京駅から湖西線に乗って山科駅へ、琵琶湖線新快速に乗り換えて能登川駅へ、一時間弱で到着しました。ここから近江商人ゆかりの地・五個荘へ行きますが、幸い駅前に「東近江観光案内所」がありました。立ち寄って資料をいただき、レンタサイクルの有無を訊ねると、すぐ近くの「青木自転車商会」で借りられるとのこと。やった。
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 雪を戴く山なみを望みながら田園を爽快に快走、妙齢のマネキン人形もすまし顔で出迎えてくれました。
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 三十分ほどで五個荘です。「滋賀・びわ湖観光情報」から、五個荘についての紹介文を引用します。
 五個荘金堂地区は近江商人ゆかりの地として知られており、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。町並みを歩くと舟板塀や白壁をめぐらした蔵屋敷があり、清らかな水が流れ錦鯉が優雅に泳ぐ掘割が縦横に走っています。金堂地区では近江商人屋敷3邸(外村宇兵衛邸・外村繁邸・中江準五郎邸)と金堂まちなみ保存交流館が公開されており、近江商人の本宅の佇まいを知ることができます。平成27年には日本遺産「琵琶湖とその水辺景観-祈りと暮らしの水遺産」に認定されました。
 なるほど、情緒にあふれる落ち着いた雰囲気の街並みです。白壁・なまこ壁に舟板塀、掘割が美しい景観をなしていました。
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 なお「東近江観光ナビ」から詳しい地図や資料をダウンロードできますので、よろしければご利用ください。

 まずは近江商人屋敷・中江準五郎邸を訪れましょう。昭和初期、朝鮮半島や中国で三中井百貨店を築いた中江家四兄弟の末の準五郎の本宅です。こちらの見どころはお庭ですね、大きな池とバランスよく配置された庭石が往時の隆盛を物語っています。二階から見下ろす眺めも素敵でした。
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 次は外村宇兵衛邸へ。主に呉服太物を商った近江商人で、明治時代には全国長者番付に名を連ねたそうです。広い座敷や豪華な雛人形には目を瞠りました。
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 二階にのぼると、美しく連なる甍の波を見ることが出来ます。日本の街並みを見る楽しみのひとつですね。こちらのお宅にあったのが川戸(かわと)という、掘割から水を引き込んだ、屋根をかけた洗い場です。てんびん棒をかついだ近江商人の銅像もありました。
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 本日の五枚です。
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by sabasaba13 | 2017-07-12 06:27 | 近畿 | Comments(0)

近江編(4):大津京駅(15.3)

 大津京駅構内には、大津京に関する展示がありました。そう、ここは663年の白村江の戦いの後、667年3月に中大兄皇子が飛鳥から遷都をしたところですね。その当時の状況について、『日本の歴史03 大王から天皇へ』(熊谷公男 講談社)から引用します。
 667年(天智6)になって、中大兄皇子は王都を近江大津宮に移した。近江は畿外の地にあたる。王都が畿内の外に出たのは、伝説時代を別にすればはじめてのことである。ヤマトの人々にはつよい抵抗があった。『書記』には、遷都のときに「天下の百姓、都遷すことを願わずして、諷(そ)へ諫(あざむ)く(風刺する)者多し。童謡(わざうた:風刺の歌)また衆(おお)し。日日夜夜、失火の処多し」とあって、人々の反発と不穏な情勢とを伝えている。
 近年の調査によって大津市の錦織地区から宮殿とみられる大型の掘立柱建物跡が発見され、近江大津宮跡であることがほぼ確定した。この地域には、比叡山のふもとの傾斜地がおよんでいて、琵琶湖との間にはせまい平地しかない。ここに難波長柄豊碕宮のような巨大な朝堂院をもつ王宮を造営することは困難である。
 このころ半島では、唐は高句麗征討の真っ最中であり、新羅も出兵を命じられている。また国内では、ヤマトに高安城を築くなど、防衛体制の強化に努めていた。東アジア情勢は、依然として緊迫していたのである。そうしたなかで中大兄皇子が、人々の反対を押し切ってヤマトよりさらに奥まった近江に王都を移したのは、防衛体制の強化が主たる目的であったとみてまちがいないであろう。(p.314~5)
 なお疑問なのは、「大津京」という駅名です。熊谷氏が指摘されているように、ここに大きな王宮を造営することは困難です。またウィキペディアによると、日本書紀には、平城京や平安京のような条坊制が存在したことを示す記載はないほか、特別行政区としての「京域」の存在も確認できないとのことです。よって「大津京」ではなく「大津宮」と表記するのが、歴史学的には正しいのではないのか。ま、壮大な王都があった方が、地域の誇りになるし観光客誘致にも資すると考えたい気持ちもわかりますけれど。駅にあった展示資料には「大津宮」と記されていたので、そのあたりは理解しているようです。
 もう一つ、その資料には中大兄皇子が「天智天皇」として即位したと記されていましたが、これについても再考すべきだと思います。「天皇」という称号は、この時点ではまだ成立していないというのが古代史の定説です。同書より引用します。
 …天皇号の成立時期については、一部に推古朝説もあるが、現在は、筆者も含めて天武・持統朝説をとる研究者が多数を占める。筆者は、「天皇」という称号は、まず天武天皇をさす尊称として天武朝に誕生し、没後の持統朝に浄御原令の制定とともに君主号として法制化されたと思う。(p.335~6)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-07-11 06:22 | 近畿 | Comments(0)