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近江編(26):桂離宮(15.3)

 そして池の向こうに、船着場のある茶室・笑意軒が見えました。近づいて中をのぞくと、扁額の下に円形の下地窓が左右に六個並べた独特の意匠です。夜、この六つの丸窓から室内の光が漏れる光景は、幻想的でしょうね。中の間には大きな窓が設けられ、その向こうには水田がひろがっているそうです。手前に池、奥に田んぼ、涼風が吹き抜けるため、夏の茶室となっています。窓の下の腰壁もまた斬新な意匠、中央部分をひらべったい平行四辺形に区切って金箔を張り、左右の細長い直角三角形のスペースには市松文様の天鵞絨(ビロード)を張ってあります。
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 襖の引手は船の櫂の形、杉戸の引手は矢羽根の形、細部も侮れません。
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 笑意軒の前にある敷石は、さまざまな形や色の石がちりばめられ、歩くのがもったいないくらいです。ここが「草の延段」ですね。船着にあった小さな灯篭は竿や中台がなく、太陽・月・星を表す丸・三日月・四角の穴が穿たれた愛らしいもので、「三光灯篭」と言うそうです。
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 そして新御殿・中書院・古書院を左に眺めながら歩いていくと、古書院の広縁から突き出た月見台がありました。池に面した六畳大、竹簀子張りのスペースで、観月のための施設です。
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 そして最後の茶室・月波楼へ。池に面しており月見を楽しんだ茶室で、襖には紅葉の粋な小紋がちりばめられています。ここは秋の茶室ですね。古書院の月見台が主に月の出の観賞を目的としているのに対し、月波楼は小高い盛土の上に建っているので池の面を広く見下ろすことができ、池水に映る月の影を賞したようです。襖の引手は機の杼(ハタのヒ)でしたが、どういう由来があるのでしょうか。ご教示を乞う。月波楼の前に据えてある手水鉢は、水穴を鎌の刃に、右手の出張った部分を柄に見立てて 「鎌型手水鉢」と呼ばれています。秋の刈入れを象徴させたのですね。そういえば、冬の茶室・松琴亭の外腰掛には、収穫を意味する二重升の手水鉢ありましたっけ。なんと芸が細かいことよ。
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 そして古書院の玄関口である「御輿寄(おこしよせ)」へ。ここには杉苔で覆われた壺庭があり、切石をきっちりと組み合わせた延段、「真の延段」があります。石段の上には、六人分の沓の幅があることから「六つの沓脱」と称される、御影石製の沓脱石があります。また、自然石と切石を混ぜた飛び石が自由奔放に打たれており、石の饗宴とも賞すべき素晴らしい空間となっています。
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 中門の内と外にも、素敵な石が打たれていました。中門をくぐって振り返ると、ここもいい風情です。切妻造茅葺のしぶい門、右手には黒文字垣、そして洒落た敷石、一幅の絵のような光景でした。なお黒文字はクスノキ科の落葉低木で、その枝は高級妻楊枝の材料です。

 本日の七枚です。
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by sabasaba13 | 2017-08-23 07:38 | 近畿 | Comments(0)

近江編(25):桂離宮(15.3)

 そして飛石の上を歩いていくと展望が開け、池や中島、対岸の松琴亭が見えてきます。この急に視界が開けるという劇的な効果も演出されたものですね。青黒い賀茂川石を並べて海岸に見立てた洲浜、その先端には灯台を模した小さな岬灯篭、そして天橋立に見立てた石橋といった景色も、景観にアクセントを与えています。そして池泉回遊庭園の醍醐味、歩くにつれて景観が徐々に変化していきます。
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 白川橋という直線的な石橋を渡ると、冬の茶室である、もっとも格の高い「松琴亭」に着きました。
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 こちらにはかの有名な、白と藍染の四角い加賀奉書を互い違いに張った市松文様の襖があります。その大胆で斬新な意匠には驚嘆です。細部の洒落た意匠にも目を引かれます。そして橋本氏が喝破されたように(p.18)、池側の縁先には青い石が配置されて、室内の藍色と呼応しています。この素晴らしいカラー・コーディネイト、石の色・形・配置に注目するのも桂離宮の楽しみ方の極意ですね。ここから池を見渡すと、これまでよく見えなかった古書院と月波楼を見渡せます。すべてを見渡せるパースペクティブではなく、景観を細かいパーツに分けて楽しんでもらおうという演出ですね。
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 そして橋を渡って、飛び石を歩いてのぼると、すこし小高いところにある春の茶室・賞花亭に着きました。峠の茶屋を模したもので、皮付柱を用いた、間口二間の小規模で素朴な茶屋です。大きな下地窓を設けてあり、清々しく開放感にあふれた造りになっています。かなわぬ夢ですが、桜か新緑の時期に、薫風を肌で感じながら、この茶室でお茶をいただいてみたいものです。ここから見下ろす池の景観も、これまでとはまた微妙に変化しています。
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 飛び石をおりると橋があり、その向こうには古書院・中書院・新御殿が見えますが、こちらは見学できないようです。うーん、い、け、ず。新御殿の「桂棚」が見たかったのに。そして大きな島の西端に建つ持仏堂、園林堂へ。離宮内で唯一の本瓦葺、そして宝形造の建物です。もっこりとしたむくり屋根がチャーミングですね。かつては楊柳観音画像と細川幽斎(智仁親王の和歌の師)の画像が祀られていましたが、現在は何も祀られていないとのことです。堂の周囲には黒石を敷き詰めた霰こぼしの雨落(あまおち)がありますが、そこをしれっと方形切石の飛び石が斜めに横切っていきます。しかも余分な石があったり、最後は45度傾けたりと、遊び心にあふれた意匠です。
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 本日の六枚です。
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by sabasaba13 | 2017-08-22 07:49 | 近畿 | Comments(0)

近江編(24):桂離宮(15.3)

 さあ出発時間です。参観人数は二十人ほど、前に説明担当の方、後ろに歩みをせかす係の方が配置され、サンドウィッチ状態での見学となります。入口を抜けると、両側を生垣にはさまれ正面に小ぶりの松(住吉の松)がある細長い岬がありました。この生垣と松のために、池と松琴亭が見通せません。景観への期待と想像をもたせるために焦らしているのですね。この松は「衝立の松」とも言うそうです。
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 そして天皇や上皇を迎えるための御幸道(みゆきみち)へ、桂川の青黒い小石が敷きつめられた「霰こぼし」の道です。すこし歩くと、先ほどの表門からの苑路にある御幸門に着きました。
 後水尾院の行幸に備えて建てられたもので、切妻造茅葺の素朴な門です。樹皮がついた棈(あべまき)の太い柱が印象的です。屋根裏は葭と竹を組み合わせたもので、思わず写真を撮りたくなるような意匠でした。なおこのあたりからは、先ほどの「桂垣」の裏側が見られます。(写真はピンボケですが)
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 御幸道をすこし戻って左の苑路を歩くと、薩摩の島津家から献上された蘇鉄が植えられています。「蘇鉄山」ですね。寒さ除けの藁が巻いてありましたが、編んである筵ではなく、編まないままの藁を庭師が昔ながらの方法で巻きつけているそうです。見事な職人芸ですね、まるで現代アートのようです。
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 この奥にあるのが、茶室「松琴亭」のためにつくられた「外腰掛」です。なるほど、珍しい蘇鉄を見ながらここで待つわけですね。飛び石は、橋本氏が"美しい配色"と絶賛したものですが(p.21)、陽の光が強くてよくわかりませんでした。無念。次の「外腰掛」へと続く延段(敷石道)は自然石と切石を混ぜた洒落た意匠で、眼を楽しませてくれます。なお古書院御輿寄前の「真の延段」、笑意軒前の「草の延段」に対して「行の延段」と呼ばれるそうです。加工石を「真」、加工石と自然石を「行」、自然石を「草」と言うのですね。
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 こちらにあった、升を二重に組み合わせた手水鉢はモダンな造形。秋の刈入れ後の収穫を象徴しているとのことです。「外腰掛」は、間口三間の茅葺寄棟造り、田舎家風のオープンで質素な待合です。葭と竹と生木のコンビネーションの妙が楽しめる、天井板を張らない化粧屋根裏が見どころ。
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 本日の四枚です。
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by sabasaba13 | 2017-08-21 07:02 | 近畿 | Comments(0)

近江編(23):桂離宮(15.3)

 参観者出入口に至るまでの竹の垣根も、繊細な意匠の見事なものですが、桂穂垣というそうです。表門は竹でしつらえた質素な門ですが、閉ざされていてここからは入れません。そして午前九時すこし前に待機場所に到着、参観許可証を提示して参観者休所で待つことになります。参観は無料、これは嬉しいですね。
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 なお『芸術新潮』(2000.7)に掲載された、橋本治氏による「桂離宮の歩き方」がたいへん参考となりました。また井上章一氏による『つくられた桂離宮神話』(講談社学術文庫)もなかなか面白いですよ。ブルーノ・タウトに始まる桂離宮の神格化が、戦時体制の進行にともなうナショナリズムの高揚と、建築界のモダニズム運動の勃興を背景に、周到に仕組まれた虚構であったことを実証する、知的興奮に満ちた本でした。ちなみに、ブルーノ・タウトは『日本美の再発見』(岩波新書)の中で、次のように東照宮をこき下ろし、桂離宮を賞揚しています。
 桂離宮は、およそ文化を有する世界に冠絶した唯一の奇蹟である。パルテノンにおけるよりも、ゴシックの大聖堂あるいは伊勢神宮におけるよりも、ここにははるかに著しく「永遠の美」が開顕せられている。…これ以上の簡素を求めることは不可能である。…これ以上単純でしかも同時にこれ以上優雅であることは、まったく不可能である。
 専制者芸術の極致は日光廟である。ここには伊勢神宮に見られる純粋な構造もなければ、最高度の明澄さもない。材料の清浄もなければ、釣合の美しさもない、-およそ建築を意味するものはひとつもないのである。そしてこの建築の欠如に代るところのものは、過度の装飾と浮華の美だけである。
 虚心坦懐、できるだけ先入観を排して、自分の眼を信じて桂離宮を楽しみたいと思います。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-08-20 07:11 | 近畿 | Comments(0)

近江編(22):桂離宮(15.3)

 それでは桂離宮へと向かいましょう。以前にも一度訪れたことがあるのですが、その時には写真撮影が禁止でした。驚くべきは、その理由は「苔の保護のため」! なぜ写真を撮ると苔に悪影響を及ぼすのか、理解できません。まあ伊勢神宮も撮影禁止だし、天皇制と「隠す」という行為は切っても切れない関係にあるのは理解できますが… 興味深かったのは英文にはそうした理由付けがなかったことです。そりゃあこんな理由では納得しませんよね、外国の方は。「公」(publicではなく、オオヤケ=大きな家=権力と富をもつ者)に命令されると、その根拠を深く考えず鵜呑みにしてしまうわれらが伝統文化を上手に利用しています、さすが宮内庁、と愚考した次第です。その後、写真撮影が可能となったという情報を得ましたので、インターネットで申し込み、午前に桂離宮、午後に修学院離宮を再訪することにしました。ほんとうは桜か紅葉の時期に訪れたいのですが、いつも予約は埋まっておりほぼ不可能です。宮内庁にコネがないと、この時期には見られないのかもしれません。

 阪急桂駅からのんびりと歩いて二十分、桂川のほとりにある桂離宮に着きました。竹の垣根が続いていますが、これが「桂垣」ですね。竹林の竹を折り曲げて編み込んだ垣根、橋本治氏曰く、"垣根の活け造り"です。いやはや、凄いことを考えたものだ。その先には徳大寺樋門の遺構がありました。解説板を転記します。
 桂離宮は、八条宮の別荘として、初代智仁(としひと)親王によって十七世紀始め(ママ)元和元年(1615年)頃に造営を起こされ、二代智忠(としただ)親王によって正保二年(1645年)頃までに建物や庭にも手を加え、概ね現山荘の姿に整えられました。宮家はその後、京極宮、桂宮と改称されて明治に至り、同十四年(1881年)第十一代淑子(すみこ)内親王を最後に途絶え、桂山荘は明治十六年(1883年)宮内省所管となり、桂離宮と称されることになりました。

 徳大寺樋門は、桂川のたび重なる氾濫を防ぐために築かれた堤防(防塁)に設置され、桂川から離宮内庭園池に引き水するために利用されていたもので、幾度か改築整備されてきました。この樋門は、明治四十一年五月(1908年)改築のものですが、流域の都市化等の変遷により平成五年六月(1993年)桂樋門の新設にともない廃止されることになりましたので、その一部(遺構)を残し、往時を偲ぶものです。

 桂の地一帯は平安中期から代々藤原氏が領有し、鎌倉時代に入って近衛家の領有となり、古くから月の名所や瓜の産地になっていたようで、平安時代の文学作品『源氏物語』のなかに

 つきのすむ 川のなかなる 里なれば 桂のかげは のどけかるらむ

 ほか多く詠まれています。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2017-08-19 06:29 | 近畿 | Comments(0)

近江編(21):桂カトリック教会(15.3)

 朝目覚めてカーテンを開けると雲の合間から陽がもれています。どうやら天気は大丈夫ですね。チェックアウトをして京都駅へ、途中に、睫毛の長い妙齢の女性のガードレール・アニマル(失礼)がありました。地下鉄烏丸線に乗って四条駅で阪急京都線に乗り換えて桂駅で下車。お目当ての桂カトリック教会は、駅から歩いて十分ほどのところにありました。
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 シャープな造型ですが、実はジョージ・ナカシマの設計なのですね。以前に香川県高松市の牟礼にある「ジョージ・ナカシマ記念館」を訪れて以来興味を持ち、この教会もいつか訪れてみたいと思っていたのですが、念願が叶いました。なお彼とこの教会については、「建築環境デザインコンペティション」内の「現代建築考」に藤森照信氏の詳細な解説があるので、長文ですが転記します。
 ジョージ・ナカシマと言っても若い人は初耳かもしれないが、これを機に覚えておいてほしい。時期は、レーモンド前川國男と重なり、仕事としては家具のデザインに新境地を開いたことで知られる。アメリカのナショナルギャラリー(国立美術館)に行くと、イサム・ノグチの彫刻と組になってジョージ・ナカシマの"樹"を感じさせる木のテーブルが置いてあったりする。
 名から分かるように日系のアメリカ人で、戦前、来日して、レーモンドと前川の事務所で働き、その時は建築家だったが、帰国して、戦時中、アメリカの日系人収容所で家具制作に目覚め、以後、戦後のアメリカを代表する家具デザイナーとして鳴らした。吉村順三は終生の親友だった。
 打ち放しに木枠と障子。そして素木のイス。いかにもナカシマ
 十数年前、ペンシルバニア郊外の森の中に立つアトリエを訪れた。もちろん本人は没した後だが、日系人の夫人と早稲田の建築を出た娘さんが今もアトリエを守っていて、娘さんのパートナーは家具づくりに励んでおられた。
 アトリエはもちろん元建築家ナカシマの設計になり、シェル構造の大空間であったが、細部のプロポーションや納まりに建築としてはなんとなく違和感があり、言ってしまえば巨大な家具のように見えた。
 で、京都はカトリック桂教会である。
 1965年につくられたナカシマの日本での唯一の建築。
 日系人収容所時代に知り合ったアメリカ人神父が、終戦後、GHQとともに来日し、布教して信徒を増やし、桂に新たに教会をつくることになり、ナカシマに設計を依頼したのだと言う。
 住宅地の一画に立つ教会を一目見て、嬉しかったし、懐かしかった。
 嬉しかったのは、ほぼ竣工当時の姿を留めていてくれたこと。この時期の建築は、構造的にも材料的にも問題が隠れている場合が多く、補強などの改修を避けられないのである。
 懐かしかったのは、戦後モダニズムの初々しさが伝わってきたからだ。この点について、以下、述べてみたい。
 まず、打ち放しコンクリートから。打ち放しは今でもよく使われているが、印象はちょっと違う。今はコンパネか鉄板型枠を使うから広い面がペッタリ平らに打ち上がるが、これがつくられた頃は、板の小片を並べた型枠だったから、小片の目地と型枠全体の目地が強調され、小さな凸凹がたくさん壁面に現れ、その結果、今よりずっと陰影が付いた。
 陰影が付くと、打ち放しはどうなるか。岩や土の肌と通底するような粗さと存在感が生まれ、その結果、レーモンドの言い方に習うと、"大地"を感じさせるようになる。近代の工業製品でありながら、大地をしのばせることのできる打ち放しコンクリートの肌。
 HPシェルの天井が高い効果をあげている
 そうした肌を久しぶりに見て、嬉しくかつ懐かしかった。
 次もコンクリートがらみで、シェル構造をとっている。HPシェルである。今ではシェル構造をやる人はほとんどいないが、この教会がつくられた1950~60年代は、日本のシェルの全盛期に当たり、丹下の〈愛媛県民館〉(1953)を皮切りに次々に出現していた。
 近代的構造によって近代ならではのダイナミズム(力動的)表現を生み出そう、というル・コルビュジエに起源を持つ構造表現主義は、当時、世界でも日本でもコンクリートシェルによってしか実現できなかったのである。
 そうして数多くつくられたコンクリートシェルも、今こう数えてみると、カトリック桂教会以外にはごく少なくなってしまった。
 インテリアについて触れておこう。障子の利用、素木の木の枠取り的な使い方に、誰でも日本の伝統を感ずるだろう。1950~60年代は、モダニズムと日本の伝統の共通性に関心が払われていた時期で、レーモンド、丹下、吉村、坂倉などが、この方向に向かっていた。ナカシマもその一翼を担っていたのである。
 日本の戦後モダニズム建築の初心が、ここにはちゃんと生きている。
 残念ながら門扉が錠で閉ざされており、内部を拝見することはできませんでした。再訪を期したいと思います。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-08-18 07:54 | 近畿 | Comments(0)

近江編(20):京都(15.3)

 そして自転車を返却して近江八幡駅へ。明日は桂離宮と修学院離宮を訪れるので、今夜は京都に泊まります。琵琶湖線快速列車に乗って三十分ほどで京都駅に到着。八条口から歩いて十分ほどのところにある京都プラザホテルにチェックインをして部屋に荷物を置き、夕食をとるために駅方面へと行くと、途中に巨大な「イオンモール」がありました。最近よく見かけますがどうも好きになれずに、忌避してしまいます。インターネットで調べると、基本理念は「お客さま第一」、経営理念は「イオンモールは、地域とともに「暮らしの未来」をつくるLife Design Developerです。(※Life Designとは商業施設の枠組みを越えて、一人ひとりのライフステージを見据えたさまざまな機能拡充を行い、ショッピングだけでなく、人との出逢いや文化育成なども含めた"暮らしの未来"をデザインすること)」だそうです。「お客さま第一」か… トランプ大統領も小池百合子都知事もよく使う表現ですが、少々違和感を持っております。アメリカや都民やお客様を第一に考えるということは、他の者は犠牲になってもよいということを含意しているのではないでしょうか。社会や人間ってそんなに単純なものではないと思うのですが。その違和感に言葉を与えてくれたのが、橋本治氏です。『たとえ世界が終わっても』(集英社新書0870)から引用します。
 だから、「この先どうするの?」って話だけど、「大きくならない金儲けの方法」って、実はすごく簡単なんです。「今、本当になにが必要なのか?」っていう実体経済に根差した需要をきちんと見極めて、自分たちの出来る限りのものを作って供給するっていうことだけやってりゃいいわけよ。そういうことやったって「大きく儲かる」ということは起こりませんけどね。でも、そういう「小さな産業」とはいわないけれども、個人商店のようなものがいくつもあれば、自ずとリスクも分散されることになる。それって、ビジネスとして考えても、危機管理の鉄則にかなっているいいやり方なんですよ。シャッター通りもなくなるしね。
 ところが、大国幻想を持っている人たちは、そういうめんどくさいことを考えないわけです。日本は中小や零細企業が多くて、昭和の30年代くらいまでの日本政府は、そういう企業をなくして大きくしなきゃだめなんだと思ってた。そういう流れは潜在的にその後もあるから、「小さな商店はもう成り立たないから、全部でっかく統合して、なんでもかんでもイオンみたいな巨大なショッピングモールにしよう」っていうことになる。でも、そのショッピングモールの業績が傾いたら、「ここの支店は採算割れだから閉店します」になる。そうなると、今度は、その地域の人たちがなんにも買えなくなるわけでしょ? そういう事態は、地域の過疎化によって、もう実際に起こってる。(p.124~5)
 そう、採算割れをしたら閉店するはずです。つまり「お客さま(の持っているお金)第一」ということですね。街のためにイオンモールがあるのではなく、イオンモールのために街がある。イオンモールのために地元資本の小商いが壊滅してもしったこっちゃない。そう、「経済」の申し子です。足早にその付近から立ち去り、京都駅の「京とんちん亭」に入って、ねぎ焼きとしめをいただきました。
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 売店で地酒を購入してホテルへ戻り、明日の旅程に思いを馳せながら就寝。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-07-31 06:22 | 近畿 | Comments(0)

近江編(19):近江八幡(15.3)

 それでは、市街地へと戻りましょう。途中に「元祖 近江八幡水郷めぐり 船のりば」という看板があり、「日本で一番おそい乗り物 元祖手こぎの舟」と記されていました。残念ながら営業はもう終わり、機会があったら乗ってみたいものです。
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 ユニークな透かしブロックを撮影して、旧ヴォーリズ住宅に到着。下見板張りの壁と大きな窓と煙突が印象的な、洒落た住宅です。
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 解説板を転記します。
 この建物は、「近江兄弟社」を創設し、県内を始め(ママ)関西地方を中心に、教会や学校、病院、住宅、商業建築など一千棟を超える建物を設計したウィリアム・メレル・ヴォーリズの後半生の自邸である。
 この住宅は昭和六年に幼稚園の教員寄宿舎として建築されたが、建築途中に自宅に変更され、引続いて和室部が増築されている。
 外観は質素であるが下見板張り、両開きの窓、暖炉の煙突などに洋風を感じさせる。
 内部は独立した洋室の間取りや数多く設けられた収納空間、さらに夫人のために日本の生活様式に合わせて和室を取り入れるなど生活面での配慮と機能性を重視したヴォーリズの設計態度がよく表れている。
 なおヴォーリズ記念館として公開されていますが、内部の見学は要予約とのことでした。こちらもぜひ再訪したいものです。

 そして旧八幡郵便局へ、表現のしようがないのですが、ユニークな意匠のひと目見たら忘れられない建築です。解説パンフレットから引用します。
 特定郵便局として1909年に活動を始めて1921年にヴォーリズ氏によって増築設計された建築物である。スパニッシュスタイルの和洋折衷の寄棟屋根のヴォーリズ初期の貴重な建物である。朽ち果てて原型を失った建物を、現在は「NPO法人 ヴォーリズ建築保存再生運動一粒の会」の1人1人の熱意により再生中で、コミュニティー施設として一般に開放されている。
 中に入ると、ヴォーリズ関係の本や資料を販売していました。資料を二点購入し、係の方としばし談笑。私がヴォーリズ建築を探訪していると話したら、破顔一笑、二階に案内してくれました。ぼこぼこの床を示しながら話してくれた再生の苦心談などを、興味深く拝聴。どうもありがとうございました。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2017-07-30 06:28 | 近畿 | Comments(0)

近江編(18):近江八幡(15.3)

 ひるがえって同じような状況が、いま、再現されていることに憂慮します。格差社会の再現に対して、その原因や責任を究明・批判しようとしない知的怠惰、あるいは怯懦・諦観。格差社会をつくりあげた自民党・公明党、官僚、財界に牙を剥かず、弱者・少数者・他国に対して牙を剥く人びと。戦前の支配者たちは、格差社会を維持するために戦争による植民地拡大という道を選びましたが、現在の支配者たちはどういう道を選ぼうとしているのでしょうか。アメリカの世界戦略に加担してアメリカ隷下の軍隊として戦争をするのか、あるいは共謀罪によって"日本の敵"を大量につくりだし、国民の不安とストレスをぶつけさせてガス抜きをするのか。はたまた中国・韓国・北朝鮮への敵意と憎悪をさらにかきたてるのか。優秀なアスリートを大金かけて育成し、オリンピックなど国際的スポーツショーで活躍させて、ストレスを解消させるのか。
 おそらくその組み合わせでしょうね。いずれにせよ、「他に適当な人がいない」という理由で安倍上等兵内閣を支持する方が多いのですから、また過半数の議席を得た政党は白紙委任状を持っていると考える方、政治や未来や他者に関心をもたず「今だけ金だけ自分だけ」と考えている方も多いのですから、自民党・公明党+官僚+財界は楽なものです。

 でも… マーチン・ルーサー・キングの言葉です。
 本当の悲惨は、独裁者の暴虐ではなく、善良な人々の沈黙である。

 結核のことから、だいぶ話が大きくなってしまいました。なお戦後の結核患者について、小熊英二氏がご尊父から戦前・戦中・戦後の日本について聞き取りをした貴重な記録『生きて帰ってきた男』(岩波新書1549)の中で次のように述べられていました。後学のために引用します。
 結核予防法は1919(大正8)年に制定されたが、1951年の改正により、結核患者の従業禁止と療養所入所が基本方針となった。周囲への感染予防のため、都道府県知事は結核患者の就業を禁止し、指定の結核療養所に入所命令を出せることとなったのである。
 入所後は、医師から結核が完治したと認められるまで、療養所から出ることはできない。その代わり、療養所に入った患者の診察や治療の費用は、保護者から申請があれば都道府県が負担することとされた。
 このコンセプトは、患者の隔離収容と扶養を基本原則としており、1953(昭和28)年制定の「らい予防法」とほぼ同じであった。治療費が自己負担だった戦前の結核患者の状況と比べれば、患者の経済状況は改善された。しかし一方で、社会から隔離された患者は、いわば「飼い殺し」の状態となり、何年にもおよぶ長期収容で社会性を喪失しかねない。療養所内での人権状況なども問題になり、「らい予防法」は1996年に、結核予防法は2007年に廃止された。
 また謙二は、療養所内の生活費のために、生活保護を受けていたことは覚えている。1950年に改正された生活保護法は、新たに国籍要件などを設けて日本国籍所持者に保護を限定したが、同時に素行不良者などへの保護欠格要件を廃止し、広範囲な救済に方針転換した。この改正が行なわれた1950年には、厚生省の予算の46パーセントが生活保護に費やされたという。
 しかし、謙二がうけとっていた生活保護による生活費は、当時の規定による月額600円であった。岡山療養所の結核患者だった朝日茂が、この金額は憲法25条の規定である「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を侵害しているとして、1957年に訴訟を起こしたことはよく知られる。
 この訴訟での原告側主張によると、月額600円では補助栄養食である生卵の購入にも事欠き、一年に一枚のパンツや、二年に一枚の肌着も買えなかったという。「朝日訴訟」とよばれたこの裁判は、1960年の一審では被告側勝訴、1963年の二審では請求棄却となった。そして1964年の原告の死亡を経て、1967年に最高裁で訴訟終了となっている。(p.216~8)

by sabasaba13 | 2017-07-29 07:32 | 近畿 | Comments(0)

近江編(17):近江八幡(15.3)

 そして見逃せないのが、この天皇を頂点とする格差社会が、貧者=民衆に恐怖を与え、抵抗力を奪うという点です。『無意識の植民地主義』(野村浩也 御茶の水書房)から引用します。
 恐怖政治=テロリズムは、「抵抗したら殺されるかもしれない」という「暴力の予感」を被植民者に喚起することによって機能する。重要なのは、暴力や死を予感させることなのだ。その点では、失業もほとんど同じである。職を奪って食えなくさせ、そのまま放置しておけば、そのうち確実に死ぬのだから。それは、直接殺す手間をはぶいた、いわば時間差殺人である。したがって、失業させることもまた暴力であり、死を予感させる暴力なのだ。(p.204~7)
 失業とは、死を予感させる暴力であり、ある種のテロリズムであるという視点は斬新です。失業を含めた貧困の淵に立たせているかぎり、民衆は恐怖に怯え、抵抗力を失い、格差社会というシステムを受忍するしかないのですね。
 しかしその受忍が限界を超え、予感ではなく死に直面したらどうなるのか。世界恐慌(1929)の影響による昭和恐慌(1930~31)が、日本をそのような状況に追いこみます。企業の操業短縮、倒産、産業合理化による賃金引下げ、人員整理、失業者の増大。そして農村では、農産物の価格暴落、生糸輸出の激減、豊作による米価下落(1930)と、翌年の大凶作。都市失業者の帰農による農家の困窮。その結果、『大系 日本の歴史14 二つの大戦』(江口圭一 小学館)によると、下記のような凄惨な事態が現出しました。
 特に夜の分は顔をさだかに見別け難いのを幸い、一残飯商店に二百名乃至三百名が列をなして押かけ、むしろ凄惨の気をみなぎらせている。…なかには相当の服装をしている者が子供を乳母車に乗せて通うなど、その現場は極度に窮乏化した最下級生活者の縮図をここに展げ、残飯商人は時ならぬ好景気に恵まれている。…豊橋の市街地に現れた疲弊困窮の姿は末世の感漸く深きものがある。(『名古屋新聞』 32年6月18日) (p.178)

 午前四時に起床して日没まで働き、一二石の米収をうるが、六割八分の八石一斗を小作米として地主に納めるので、手もとには三石九斗しか残らず、就眠時間四時間を余儀なくされる養蚕は三〇年の繭価の暴落で一六貫が七三円にしかならなかったため、売却した米一石の代金二五円をあわせ、九八円が全収入であった。ここから養蚕具代・肥料代・税金・電灯代を差引いた一七円二〇銭が四人家族の一年間(一か月ではない)の全生活費であった。入浴は月三回、家は雨もりがする。「俺達の生活のなかに、ただ寝る時間以外に幸福という一瞬の時間もない」(加茂健「此の窒息から免れたい」『中央公論』 30年10月) (p.179)
 まさしく、死に直面した状況です。こうなると弱者・貧者といえども抵抗をせざるをえず、事実、労働争議・小作争議もこの時期に激化しています。天皇を頂点とする格差社会というシステム、「国体」が崩壊の危機に瀕したわけですね。支配者たちにとって、システムを救う選択肢は二つあったと考えます。
 ひとつは、「国体」を部分的に是正して富者の富を貧者に再分配すること。『世代を超えて語り継ぎたい戦争文学』(澤地久枝・佐高信 岩波現代文庫)のなかで、澤地氏はこう述べられています。
 五味川(※純平)さんとよく話し合ったのは、では満州事変を起こして満州をとらなかったら日本人は飢えたのか、という点でした。
 「なぜ日本は飢えるか」。五味川さんは、みすず書房の『現代史資料』に集められていた左翼的なビラの一枚を見て、「この視点がなかったんだ」と言った。それは、英文を訳したビラなんだけれど、侵略しなくても分配をちゃんとやっていけば、この島国の中で十分食べていける、という視点のものでした。こういう視点がなかった、落ちている、と五味川さんは言っていました。勝てないから戦争をやらないんじゃなくて、勝てても戦争はやっちゃいけないし、食べられないからよその国へ侵略すると考えがちだけれども、侵略しなくても、富をきちんと分配すれば、十分食べていける。避けようとすれば避けられた戦争だった。しかし、この視点が戦争中も今もない、と。(p.61)
 しかし既得権益に固執し格差社会を部分的にでも是正することを嫌悪した軍部は、もうひとつの選択肢、戦争による植民地拡大の道を選びました。そして官僚・財界・政治家もこれに追随します。その惨たる結果については贅言を要しないでしょう。
 問題は、格差社会の犠牲者である貧者・弱者がこの選択肢を支持したことですね。なぜ格差社会の是正ではなく、侵略戦争を求めたのか。戦争と植民地獲得による好景気への渇望、中国人に対する差別意識、中国におけるナショナリズムの軽視、日本の軍事力への過信といった理由が思い浮かびます。中国を犠牲にして国益をはかろうとする倫理的頽落、天皇を頂点とする格差の構造を究明・批判しようとしない知的怠惰、あるいは怯懦・諦観。高等教育が充分に普及していなかった戦前の社会状況を考慮すれば、そこまで言うのは酷かもしれません。しかしせめて知識人はその責を担うべきだったと思います。
by sabasaba13 | 2017-07-28 06:25 | 近畿 | Comments(0)