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近江編(9):近江八幡へ(15.3)

 そして愛知川に架かる近江鉄道愛知川橋梁に着きました。接近はできそうもないので、望遠で撮影。「文化遺産オンライン」によると、"橋長239m、単線仕様の鉄道橋で、9連プレートガーダーと単ポニーワーレントラスよりなる。J形スティフナーと、トラスの台形フレームや横桁の配置等にイギリス橋梁技術の特徴をよく示す。明治後期造の現役の鉄道橋として貴重"だそうです。と、当該の記事をコピー&ペーストしただけで、私にはよく分かりません。ごめんなさい。
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 それでは能登川駅へ向けて一路、ペダルをぶんまわしましょう。さすがは"とびだし坊や発祥の地"、少年少女にじさま・ばさまと百花繚乱の飛び出し人形に出会えました。
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 丁重にお礼を言って代金を支払い、自転車を返却。能登川駅から琵琶湖線快速列車に乗ると、六分ほどで近江八幡駅に到着です。観光案内所で地図と資料、そしてレンタサイクルの所在地を教えてもらいました。駅の近くにある、JR西日本提供の「駅リンくん」で自転車を拝借。一日500円というのは格安ですね。
 それでサドルにまたがりいざ出発、まず目指すは旧八幡警察署武佐分署庁舎です。持参した地図を頼りに、東へ向かいペダルをこいでいると、毎度おなじみになった「とびだし坊や」と、アヒルのガードレール・アニマルを発見しました。
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 三十分ほどでお目当ての旧八幡警察署武佐分署庁舎に到着。とても警察署とは思えない、まるで別荘のような洒落た洋館です。
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 なおこのあたりは中山道第六十七番の宿場、武佐宿ですが、その面影はありません。往時は旅籠が二十三軒もあり、享保13(1728)年には輸入された象もここを通ったそうです。また、八日市・永源寺を通り八風峠を越え伊勢へとつながる八風街道の起点で、海産物、紙、布等の物資が行き交ったとのことです。
 それでは近江八幡へと向かいましょう。途中で交通安全足型と、ボクサー風の飛び出し小僧を撮影。♪Li la lie…♪
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by sabasaba13 | 2017-07-20 06:32 | 近畿 | Comments(0)

近江編(8):五個荘(15.3)

 さてそれでは付近にある近代化遺産を経巡りながら、能登川駅へと戻りましょう。ペダルをこいでいると、噂の飛び出し小僧と「コバタ物件」を見つけました。
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 そして日本でも数少ない書道の専門学校・淡海書道文化専門学校の旧校舎を撮影。
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 情報誌「三方よし」(第36号 2011.9)に紹介文があったので引用します。
 塚本さとは近江商人の家に生まれ、商家の妻として生涯を送った女性です。大正8年(1919)、さとは念願だった淡海(たんかい)女子実務学校を創立します。杉浦重剛、下田歌子、嘉悦孝子らとともに、仮校舎から授業をスタートさせました。 翌年、校舎を隣に移転。さとは校長として全力で運営にあたり、多くの学生たちに生き方の指針を示しました。カリキュラムは、一般教養から家事、作法、芸術までを幅広く網羅していました。経営にあたっては私財を投じ、最後まで学校の存続を望みますが、経営状態が悪化し、大正13年には閉校にまで追い込まれます。
 その後、さとの志を引き継いで学校経営を引き受けたのは創立以来の顧問であり、歌人であった下田歌子でした。大正15年、淡海実践女学校は下田歌子校長とともに、淡海高等女学校として再スタートを切りました。その際、滋賀県から交付を受けた校舎(県立神崎商業学校旧校舎)に移転しています。淡海書道文化専門学校の旧校舎です。
 実践女子学院を創設した、近代日本における女子教育の第一人者・下田歌子が関係していたのですね。彼女の出身地・岩村で銅像を見た記憶があります。
 竜田公会堂は、マンサール屋根が小粋な洒落た建物です。
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 旧五個荘郵便局は、キレッキレのシャープな意匠です。正面を三列の縦長壁で構成して垂直性を強調し、直線・直角・四角を組み合わせた装飾がちりばめられています。いわゆるセッション様式ですね、いろいろと郵便局物件を見てきましたがまごうことなき逸品です。
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 珍しい透かしブロックを撮影して、しばらく走ると「あんた! 何したん!!」という京都新聞の広告看板がありました。いや、その、突然そう言われても、もごもご。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2017-07-19 06:33 | 近畿 | Comments(0)

近江編(7):五個荘(15.3)

 それでは「五個荘観光センター」でお昼ご飯をいただきましょう。ランチセットのキャベツメンチカツを所望したところ、嬉しいことに漬物バイキングがついていました。これは嬉しい、五種類の漬物を少しずつとってすべていただきました。
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 メンチを食べながら、観光パンフレットを読んでいると、近江商人に関する一文がありましたので転記します。
商法を支えた近江商人の理念

 江戸時代、近江商人は天秤棒を肩に全国各地にわたって活躍しました。その精神は現代に至るまで連綿と受け継がれています。
 江戸時代初期から発祥した近江商人たちは、はじめ行商からスタートし、やがて舟や牛馬を使って大規模な卸売を行うようになります。
 特徴的なのは、ただ産物を他の地域で商うだけではなく、各地域の産物を仕入れ、よく売れる地域で商うという「諸国産物廻し」でした。
 また、大福帳による複式簿記を行うなど、独自の資本意識を持って、近江商人たちは今でいう流通システムの確立を行ったのでした。

 売り手よし 買い手よし 世間によし 三方よし

 商いというものは、売り手が利益を得て、買い手が欲しい商品を手に入れるという、売り手も買い手も満足する取引でなければならない。そして、その取引で得られた利益は世間のため、広く公共のために活用されなければならない。
 「売り手よし・買い手よし・世間によし」という、近江商人の格言として有名な「三方よし」の理念を説いた最初の人物は、江戸時代中期、近江国神崎郡石馬寺村(五個荘石馬寺町)の麻布商、中村治兵衛家の二代目宗岸であったと言われています。
 「売り手よし・買い手よし・世間によし」か…これは三思に値する言葉ですね。商売は人や社会を幸せにするために営まれる、経済が社会に埋め込まれていた時代をよく表現しています。経済行為においては、リスクやコストを他者や社会や未来に押しつけぬよう自制すべきである、と言い換えてもいいかな。思うに、近代とはそうした自制を取り払った時代だと考えます。短期間で簡単に大儲けすることを至上命題とし、投機的投資に現を抜かし、ひたすら経済成長をめざす、経済に社会が埋め込まれた時代です。「売り手だけよし」の"一方よし"ですね。そのリスクやコストは、無力な弱者に押しつけて平然とし、どのようなカタストロフが起ころうとも責任を取らない。株式・通貨・不動産の各市場が危機を生み出そうとも、再生不能エネルギー資源が環境を破壊しても、希少資源の支配をめぐる戦争が起ころうとも、それがテロリズムを誘発しようとも、未来の世代が犠牲になろうとも、知ったこっちゃない。今だけ、金だけ、自分だけ。
 やれやれ、「それでも人間か」と罵倒したくなりますが、シェイクスピアだったら「それが人間だ」と切り返すでしょうね。もしdecentな世界と未来を望むのであれば、この近江商人の言葉をもう一度噛みしめるのも悪くないと思います。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-07-14 06:27 | 近畿 | Comments(0)

近江編(6):五個荘(15.3)

 最後に訪れたのが外村繁邸。呉服木綿問屋を営んでいましたが、外村繁は「草筏」「花筏」など近江商人を題材にした小説を書いた方だそうです。知りませんでしたが。こちらにも素敵なお庭と川戸がありました。
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 なお滋賀の良質な土を磨きあげて光沢をだす「大津壁」は初めて見ました。
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 そして近くにある川並へ、こちらの街並みも素敵でした。
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 お腹がへったので昼食をいただこうと「五個荘観光センター」に行くと、その隣にあった「プラザ三方よし」の入口に、よく見かける飛び出し小僧顔はめ看板が立てかけてありました。ダブルは珍しいわな、とりあえず写真におさめようと近づくと…ぬぅわんと「とびだし坊や発祥の地 東近江市」と記されているではあーりませんか。以前、湖東三山を訪れた時に、やたらと手作りの飛び出し小僧を見かけたので、八日市は飛び出し小僧のサンクチュアリではないかと呟いたことがありますが、発祥の地だったのか。帰郷後にインターネットで調べてみると、「まほろば製作所」のサイトにその由来が紹介されていました。
 それは今から30年以上も前のこと。昭和30年代から40年代にかけて高度経済成長期にあった日本では、車の交通量が急激に増加し、全国で交通事故が増え続けていました。子どもの飛び出しによる事故も多く発生したため、その対策が急務となっていました。"交通戦争"という言葉が頻繁に使われるようになったのもこの頃のことです。そんななか、滋賀県旧八日市市(現・東近江市)の社会福祉協議会が中心となり、急増していた子どもの飛び出し事故を未然に防ぐ啓発活動を展開するという計画が持ち上がりました。当時、同社会福祉協議会から相談を受けた、看板製作業の久田工芸さんが啓発資材の製作を請け負うこととなり、代表者久田泰平さんの手によって、「坊や」が飛び出す様子をかたどった「飛び出し注意」を促す合板製看板、いわゆる「飛び出し人形=飛び出し坊や」が考案されました。昭和48年(1973年)のことだそうです。
 へー、飛び出し小僧に歴史あり、ですね。

 本日の四枚です。一枚目が五個荘、二・三枚目が川並です。
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by sabasaba13 | 2017-07-13 06:30 | 近畿 | Comments(0)

近江編(5):五個荘(15.3)

 それでは五個荘へと向かいましょう。JR大津京駅から湖西線に乗って山科駅へ、琵琶湖線新快速に乗り換えて能登川駅へ、一時間弱で到着しました。ここから近江商人ゆかりの地・五個荘へ行きますが、幸い駅前に「東近江観光案内所」がありました。立ち寄って資料をいただき、レンタサイクルの有無を訊ねると、すぐ近くの「青木自転車商会」で借りられるとのこと。やった。
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 雪を戴く山なみを望みながら田園を爽快に快走、妙齢のマネキン人形もすまし顔で出迎えてくれました。
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 三十分ほどで五個荘です。「滋賀・びわ湖観光情報」から、五個荘についての紹介文を引用します。
 五個荘金堂地区は近江商人ゆかりの地として知られており、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。町並みを歩くと舟板塀や白壁をめぐらした蔵屋敷があり、清らかな水が流れ錦鯉が優雅に泳ぐ掘割が縦横に走っています。金堂地区では近江商人屋敷3邸(外村宇兵衛邸・外村繁邸・中江準五郎邸)と金堂まちなみ保存交流館が公開されており、近江商人の本宅の佇まいを知ることができます。平成27年には日本遺産「琵琶湖とその水辺景観-祈りと暮らしの水遺産」に認定されました。
 なるほど、情緒にあふれる落ち着いた雰囲気の街並みです。白壁・なまこ壁に舟板塀、掘割が美しい景観をなしていました。
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 なお「東近江観光ナビ」から詳しい地図や資料をダウンロードできますので、よろしければご利用ください。

 まずは近江商人屋敷・中江準五郎邸を訪れましょう。昭和初期、朝鮮半島や中国で三中井百貨店を築いた中江家四兄弟の末の準五郎の本宅です。こちらの見どころはお庭ですね、大きな池とバランスよく配置された庭石が往時の隆盛を物語っています。二階から見下ろす眺めも素敵でした。
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 次は外村宇兵衛邸へ。主に呉服太物を商った近江商人で、明治時代には全国長者番付に名を連ねたそうです。広い座敷や豪華な雛人形には目を瞠りました。
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 二階にのぼると、美しく連なる甍の波を見ることが出来ます。日本の街並みを見る楽しみのひとつですね。こちらのお宅にあったのが川戸(かわと)という、掘割から水を引き込んだ、屋根をかけた洗い場です。てんびん棒をかついだ近江商人の銅像もありました。
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 本日の五枚です。
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by sabasaba13 | 2017-07-12 06:27 | 近畿 | Comments(0)

近江編(4):大津京駅(15.3)

 大津京駅構内には、大津京に関する展示がありました。そう、ここは663年の白村江の戦いの後、667年3月に中大兄皇子が飛鳥から遷都をしたところですね。その当時の状況について、『日本の歴史03 大王から天皇へ』(熊谷公男 講談社)から引用します。
 667年(天智6)になって、中大兄皇子は王都を近江大津宮に移した。近江は畿外の地にあたる。王都が畿内の外に出たのは、伝説時代を別にすればはじめてのことである。ヤマトの人々にはつよい抵抗があった。『書記』には、遷都のときに「天下の百姓、都遷すことを願わずして、諷(そ)へ諫(あざむ)く(風刺する)者多し。童謡(わざうた:風刺の歌)また衆(おお)し。日日夜夜、失火の処多し」とあって、人々の反発と不穏な情勢とを伝えている。
 近年の調査によって大津市の錦織地区から宮殿とみられる大型の掘立柱建物跡が発見され、近江大津宮跡であることがほぼ確定した。この地域には、比叡山のふもとの傾斜地がおよんでいて、琵琶湖との間にはせまい平地しかない。ここに難波長柄豊碕宮のような巨大な朝堂院をもつ王宮を造営することは困難である。
 このころ半島では、唐は高句麗征討の真っ最中であり、新羅も出兵を命じられている。また国内では、ヤマトに高安城を築くなど、防衛体制の強化に努めていた。東アジア情勢は、依然として緊迫していたのである。そうしたなかで中大兄皇子が、人々の反対を押し切ってヤマトよりさらに奥まった近江に王都を移したのは、防衛体制の強化が主たる目的であったとみてまちがいないであろう。(p.314~5)
 なお疑問なのは、「大津京」という駅名です。熊谷氏が指摘されているように、ここに大きな王宮を造営することは困難です。またウィキペディアによると、日本書紀には、平城京や平安京のような条坊制が存在したことを示す記載はないほか、特別行政区としての「京域」の存在も確認できないとのことです。よって「大津京」ではなく「大津宮」と表記するのが、歴史学的には正しいのではないのか。ま、壮大な王都があった方が、地域の誇りになるし観光客誘致にも資すると考えたい気持ちもわかりますけれど。駅にあった展示資料には「大津宮」と記されていたので、そのあたりは理解しているようです。
 もう一つ、その資料には中大兄皇子が「天智天皇」として即位したと記されていましたが、これについても再考すべきだと思います。「天皇」という称号は、この時点ではまだ成立していないというのが古代史の定説です。同書より引用します。
 …天皇号の成立時期については、一部に推古朝説もあるが、現在は、筆者も含めて天武・持統朝説をとる研究者が多数を占める。筆者は、「天皇」という称号は、まず天武天皇をさす尊称として天武朝に誕生し、没後の持統朝に浄御原令の制定とともに君主号として法制化されたと思う。(p.335~6)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-07-11 06:22 | 近畿 | Comments(0)

近江編(3):琵琶湖ホテル(15.3)

 京阪石山坂本線に乗って五分ほどで皇子山駅に到着。めざすはびわ湖大津館、旧琵琶湖ホテルです。すぐに辿り着けるだろうとたかをくくっていたら、道に迷ってしまいました。途中にあった交番で教えてもらい、やっとのことで着きました。おおっこれは凄い、まるで歌舞伎座のように外連味にあふれた、日本趣味コテコテの物件です。「びわ湖大津館」の公式サイトから引用します。
 びわ湖大津館は、1934年(昭和9年)、外国人観光客の誘致を目的に県内初の国際観光ホテルとして建築された建物(旧琵琶湖ホテル本館)をリニューアル活用した大津市の文化施設です。
 旧琵琶湖ホテル時代には、『湖国の迎賓館』として昭和天皇を始め多くの皇族の方々、ヘレン・ケラー、ジョン・ウエイン、川端康成など多分野の著名人をお迎えし、名実ともに県下唯一の格式を持ったホテルとして営業されておりました。
 建物の設計は、東京歌舞伎座や明治生命館等を設計したことで有名な岡田建築事務所(岡田信一郎創設)によるもので、桃山様式と呼ばれる特徴的な和風の外観と洋風の内観は、琵琶湖の風景と古都大津の風土に見事に調和したデザインとなっております。
 1998年(平成10年)、琵琶湖ホテルが新しく浜大津に移転することになり、この建物の取り壊しを惜しむ多くの市民の声に応えて、大津市が耐震と改修保存を行い、2002年(平成14年)4月から柳が崎湖畔公園 びわ湖大津館として新たに開館致しました。
 現在、3階建の館内にはレストランやショップの他、貸会議室・貸ホールや市民ギャラリーなどがあり、人々が集い、創造や交流を生み出す場として利用されています。
 そうか、岡田信一郎か。歌舞伎座の見立ては当たっていました。なお彼が関係した建築では、旧中之島公会堂護国院を訪れたことがあります。曇天のもとにぶく光る琵琶湖と、イングリッシュガーデンの顔はめ看板を撮影して、JR大津京駅へ向かいました。
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 本日の一枚です。
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 追記です。その後に読んだ『権力の館を歩く』(御厨貴 ちくま文庫)に次のような一文がありました。
 鳩山一郎は首相になりたかった。無邪気なまでにそう思いこんでいた。陽気で前向きで開放的な鳩山を見こんで、中学校時代以来の友人で建築家の岡田信一郎が、1924年、鳩山から何の注文も受けずに、鳩山のために文京区音羽の高台に三階建ての鉄筋コンクリート造りの洋館を建てた。無論設計料などとらなかった。(p.84)

by sabasaba13 | 2017-07-10 07:41 | 近畿 | Comments(0)

近江編(2):大津(15.3)

 朝六時に目覚めてすぐに洗顔、インスタントコーヒーを飲んですぐにホテルを出発です。まずは浜大津駅から京阪石山坂本線に乗って皇子山駅へと向かいます。大津には、滋賀県立近代美術館、フェノロサの墓がある法明院、膳所には義仲と芭蕉の墓がある義仲寺がありますが、時間があったら最終日に寄ることにしましょう。
 大津の中心街を歩いていると、洒落た意匠の窓がある和洋折衷の建築に遭遇。看板によると、この道が旧東海道なのですね。今、撮った写真をチェックしていると、その看板に「呉服の雁金屋」と記されていました。尾形光琳の実家と関係…ないですよね。小さな三角破風とメダリオン、その下の小ぶりなベランダ、スパニッシュ瓦、アンシンメトリーな庇など、見どころの多い愛らしい石田歯科医院や、その隣にある様々な意匠の格子が組み合わされ、二階軒下の肘木がリズミカルに並ぶ瀟洒な町屋も健在でした。旧友に出会ったような懐かしさを憶えます。近江が美味しい「かど萬」も元気に営業されているようです。
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 その前にある「旧大津公会堂」は、1934(昭和9)年、大津商工会議所と大津市立図書館とを併設した「大津公会堂」として建設されたもの。スクラッチタイルが印象的な、風格のある物件です。現在では、四つのレストランが入った交流・商業施設として再利用されています。以前に、ここにある近江牛のグリル&バー「モダンミール」で食事をしたことがありますが、常軌を逸した量のガーリック・ライスは忘れられません。

 そして浜大津駅に到着、構内に自衛隊幹部候補生募集のポスターが貼ってありましたが、そのキャッチ・コピーが「未来を導く、指揮官になる」というもの。アメリカ合州国御用達暴力装置の指揮で、未来が導かれたらたまりませんね。一刻も早く国営国際救助隊「雷鳥」として再出発してほしいものです。
 でも戦争法案が可決されて、使いっ走りとしてアメリカの国益のための戦争に加担することが可能となり、自衛隊に死傷者が出る可能性が大きくなった今、応募する人はいるのかしらん。と思ったら、『経済的徴兵制』(布施祐仁 集英社新書0811)を読んで、たいへんな事態が進行していることがよくわかりました。愚かだけれども支持率には敏感な安倍上等兵を筆頭とする自民党諸氏が、強制的な兵役制度を導入する可能性は低い。そうではなく、グローバルに拡がる経済格差の余波を受けた貧しい若者たちを自衛隊に志願させる「志願制」、すなわち「経済的徴兵制」が水面下で進行しているのですね。さまざまな優遇措置をとりそろえ、進学・就職できない若者を自衛隊に「志願」させるという手法です。引用します。
 国立大学の学費は、1970(昭和45)年には年額1万2000円だった。それが今では学費の安い文科系学部でも50万円を超えている。もちろん物価も上がっているが、「消費者物価指数(総合)」では、2013(平成25)年を100としたら、1970年は32.6である。物価が約三倍になっているのに対して、国立大学の学費は約45倍に跳ね上がっている。
 ここまで学費が高騰した原因は、歴代の自民党政権が、「大学教育を受けることで学生個人も利益を得るのだから、その分は個人負担すべき」という「受益者負担」の方針をとってきたからだ。その結果、日本のGDPに占める高等教育予算の比率は0.6%と、OECD(経済協力開発機構)参加国の中で最低レベルとなってしまった。一方、家計の中で教育費が占める割合は30.5%と、OECD参加国中四番目に高くなっている。
 このように、歴代自民党政権の新自由主義的な政策によって憲法や教育基本法の定める「教育の機会均等」は骨抜きにされ、大学に進学することは学生にとっての「リスク」になってしまった。(p.32~3)

 政府の政策により大学進学の選択肢を奪われた若者を、経済的な利点を餌にして軍隊に誘導する-まさに「経済的徴兵制」である。(p.34)
 そして自衛隊による軍事行動の目的は、アメリカの国益のためだけではありません。軍事力を背景に多国籍企業が自由に経済活動を行える世界秩序を守ろうという点では、日米の利害は一致しているのですね。引用します。
 海外での「国益擁護」のために自衛隊をもっと活用すべきだという声は、経済界からも上がっている。
 日本経済団体連合会(日本経団連)は2007年、今後10年のヴィジョン「希望の国、日本」を発表した。
 その中で、「国際テロなど新たな脅威に対して国際社会が団結して取り組む必要が高まっている。国民の安心・安全を確保するために必要な安全保障政策を再定義し、その展開を図っていくことが求められている」として、憲法9条2項を改正して「国益の確保や国際平和の安定のために集団的自衛権を行使できることを明らかにする」ことを求めた。
 経済同友会も2013(平成25)年4月、「『実行可能』な安全保障の再構築」と題する提言を発表した。
 提言では、「戦後60年余を経て、日本は各国との相互依存関係を世界中に拡大し、その人材や資本、資産、権益もあらゆる地域に広がっている。いわば、日本の国益は、日本固有の領土・領海と国民の安全のみではなく、地域、世界の安定と分かちがたく結びついているのであり、この流れはグローバル化の中で、一層進展していくことだろう」と指摘。
 「日本経済の基盤として安全保障を考える企業経営者の立場」から、「ライフラインとしてのシーレーンの安全確保」や「海外における自国民保護体制の強化」「集団的自衛権行使に関わる解釈の変更」などを求めている。
 今回の安保法制の真の目的もここにある。安倍政権は国会審議で「国民の命と平和な暮らしを守り抜くための法案」と繰り返し、あたかも国民一人ひとりの命と暮らしを守るための立法であるかのように説明したが、彼らが自衛隊の海外任務の拡大でねらっているのは、軍事力を後ろ盾とした「国益」の擁護と追求であり、グローバル市場で日本の企業が自由に活動できる環境を守ろうとしているのである。(p.215~6)
 「自衛隊が私たちの命と暮らしを守る」という甘言にいとも簡単に騙される国民。政治家・官僚・財界のみなさんにとってこんなに扱いやすい国民はいないでしょう。「未来を導く、指揮官になる」の「未来」とは、私たちを犠牲にして大企業が肥え太る「未来」なのにね。

 本日の四枚です。
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by sabasaba13 | 2017-07-09 07:39 | 近畿 | Comments(0)

近江編(1):前口上(15.3)

 以前、滋賀県の錦秋を愛でたときに、こんなことを呟きました。
 ホテルの部屋に戻り、昼間だったら琵琶湖を一望できる大浴場に行って温泉を満喫。ルース・ベネディクトさん曰く「受動的な耽溺の芸術」ですが、気持ちいいものは気持ちいいのさ! でも「烏の行水」の私は、十数分ほどであがって売店で地酒を購入し、部屋で明日の行程を検討することにしました。しょぼいとはいえ自称歴史学徒のはしくれとしては、琵琶湖北岸にある菅浦にはぜひ行ってみたいですねえ。地下請・守護不入・自検断といった自治権を保持した中世村落にして、鎌倉中期から現在に至るまでの大量の共有文書(菅浦文書)を残していることでも知られています。村落の入口には往時の四足門も残っているそうです。朽木の興聖寺もそそられますねえ、昭和を代表する作庭家にして庭園史研究家の重森三玲氏が一番好きだという庭園が残されているそうです。しかし時刻表およびガイドブックで調べてみるとアクセスがよくないため、この二ヶ所を訪れるだけでかなりの時間が費やされそうです。せっかくなのだから、梅津、堅田といった琵琶湖岸の歴史ある町も訪ねてみたいもの。よしっ、今回は紅葉狩りに特化して、琵琶湖岸の小さな町めぐりは日をあらためて敢行することにしましょう。
 内に秘めていた"琵琶湖岸の小さな町めぐり"という野望を、とうとう実現することができました。時は2015年3月。一週間の休暇がとれたので、五泊六日で琵琶湖を一周してきました。幸い「滋賀を歩こう」という琵琶湖観光を紹介した好サイトにも出会え、これを軸にして行程を組み立てました。第一日目は夜に大津に到着し、ビジネス・ホテルに宿泊。第二日目は、五個荘と近江八幡を散策して京都に宿泊。第三日目は、久しぶりに桂離宮と修学院離宮を訪れて、長駆、近江八幡に移動して宿泊。第四日目は、水口・豊里・彦根・醒ヶ井を徘徊して長浜に宿泊。第五日目は、長浜・竹生島・木之本・菅浦・近江今津を彷徨してマキノに投宿。そして第六日目は、針江・朽木・堅田・坂本を探訪して帰郷。あいもかわらず貧乏性の、ハルク・ホーガンの筋肉のようにパッツンパッツンにつまった旅程ですが、臨機応変・神出鬼没、伸縮は自在のざっくりとしたものです。ま、適当かつ良い加減に歩き回るつもりです。持参した本は『終わりと始まり』(池澤夏樹 朝日新聞出版)と、『地に呪われたる者』(フランツ・ファノン みすず書房)です。

 2015年3月好日、仕事を終えた後、新幹線で京都に行き、琵琶湖線米原行きに乗り換えて大津駅に着きました。「ホテルアルファーワン大津」にチェックインをして荷物を置き、夕食をとるためにJR大津駅まで戻りました。さてどこで食べましょうか、帯に短し襷に長し、いろいろと迷った結果、近江地鶏が食べられる「鳥楽」に決めました。肉汁あふれる地鶏の唐揚げもわるくはなかったのですが、つきだしのザク切りキャベツが思いのほか美味しかったですね。
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ホテルに戻り、明日に備えて早々と就寝。おやすみなさい。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-07-08 06:30 | 近畿 | Comments(0)

若草山山焼き編(24):大和郡山(15.1)

 この事件に関する史蹟は、これまでに津和野を訪れました。よろしければ訪問記をご一読ください。
 なお棄教を迫られた浦上キリシタンたちが、国家権力の強圧と暴力に対して抵抗し、毅然として信仰を守り抜こうとした史実は、大佛次郎氏が『天皇の世紀』(文春文庫)の中で詳細に述べておられます。一部ですが紹介しましょう。
 …政治権力に対する浦上の切支丹の根強い抵抗は、目的のない「ええじゃないか踊り」や、花火のように散発的だった各所の百姓一揆と違って、生命を賭して政府の圧力に屈服しない性格が、当時としては出色のものであった。政治に発言を許されなかった庶民の抵抗として過去になかった新しい時代を作る仕事に、地下のエネルギーとして参加したものである。新政府も公卿も志士たちも新しい時代を作る為になることは破壊以外に何もして居なかった。浦上の四番崩れは、明治新政府の外交問題と成った点で有名と成ったが、それ以上に、権力の前に庶民が強力に自己を主張した点で、封建世界の卑屈な心理から脱け出て、新しい時代の扉を開く先駆と成った事件である。社会的にもまた市民の「我」の自覚の歴史の上にも、どこでも不徹底に終わった百姓一揆などよりも、力強い航跡を残した。
 文字のない浦上村本原郷の仙右衛門などは自信を以て反抗した農民たちの象徴的な存在であった。維新史の上では無名の彼は、実は日本人として新鮮な性格で、精神の一時代を創設する礎石の一個と成った。それとは自分も知らず、その上間もなく歴史の砂礫の下に埋もれて、宗教史以外の歴史家も無視して顧みない存在と成って、いつか元の土中に隠れた。明治の元勲と尊敬された人々よりも、真実新しい時代の門に手を賭けた者だったとも言えるのである。元勲たちは実は時代の波に乗せられて自己の意思なく漂流していたものである。(⑪p.105)

 浦上切支丹の「旅の話」は、この辺で打切る。私がこの事件に、長く拘り過ぎるかに見えたのは、進歩的な維新史家も意外にこの問題を取上げないし、然し、実に三世紀の武家支配で、日本人が一般に歪められて卑屈な性格になっていた中に浦上の農民がひとり「人間」の権威を自覚し、迫害に対しても決して妥協も譲歩も示さない、日本人としては全く珍しい抵抗を貫いた点であった。当時、武士にも町人にも、これまで強く自己を守って生き抜いた人間を発見するのは困難である。権利という理念はまだ人々にない。しかし、彼らの考え方は明らかにその前身に当るものであった。(⑪p.230)
 人間としての権威と権利を守るために、強権に対して妥協も譲歩も示さず、抵抗を貫く。私たちが学ぶべき点だと思います。

 それではそろそろ大和郡山とお別れです。実は、今調べていて分かったのですが、付近には、室町時代に出来た環濠が原型に近い形で残されており、その規模も全国最大級という稗田環濠集落や、番条環濠集落があるとのことです。探訪を断念した東岡町の遊郭物件と合わせて、再訪を期しましょう。レンタサイクルもあるようですし。
 近鉄郡山駅には、金魚をデザインしたトイレ男女表示がありました。
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 大和西大寺駅で近鉄京都線の急行に乗り換えて京都へ。近鉄京都駅では「日本最古の神社 三輪明神」という大きな看板を発見。そして京都駅の地下街にあった「いろはかるた」で、とんぺい焼きと牡蠣入りねぎ焼きをたいらげました。
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 「いのだコーヒ」で食後の珈琲を所望し、京都20:02発の新幹線に乗り込みました。
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 車内誌「ひととき」では高野山を紹介する記事がありましたが、たしか重森三玲がつくったお庭があることを思い出しました。こちらも再訪してみたいものです。とりあえずマスコット・キャラクターの「こうやくん」を撮影。
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 若草山焼き編、これにて一巻の終わりです。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-06-10 06:37 | 近畿 | Comments(0)