散歩の変人:近畿
2019-05-02T08:15:57+09:00
sabasaba13
地球を彷徨し、本と音楽の海を漂う
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姫路・大阪・京都編(9):陶然亭(15.12)
http://sabasaba13.exblog.jp/30254193/
2019-05-02T08:15:57+09:00
2019-05-02T08:15:57+09:00
2019-05-02T08:15:57+09:00
sabasaba13
近畿
本日の料理、まずはタラの白子の茶わん蒸し。
穴子の刺身。
シマアジとマグロの刺身とウニ。
グジの焼きもの。
マツバガニとイクラ。
カラスミ、エビイモ、ムカゴ、玄米。
穴子丼。
じゃこ飯。
漬物。
デザートの焼きプリン。
んもう、舌鼓がエルヴィン・ジョーンズのようなポリリズムを叩き出します。素材を生かした上品な味付けには、いつ食べても舌を巻きます。再訪を約束してお店を出ました。白川のほとりを歩きながら、ライトアップされた夜の紅葉を堪能。
三条駅までぶらぶらと歩き、京都地下鉄東西線-京阪京津線に乗って浜大津駅へ。コンビニエンス・ストアで寝酒とつまみを購入して少し歩くと、われらが定宿、琵琶湖ホテルに到着です。チェックインをして、琵琶湖を眼下に一望できる部屋で旅装を解きました。大浴場で汗を流し、部屋のベランダでビールを飲みながら夜の琵琶湖を眺めました。嗚呼、至福のひと時。]]>
姫路・大阪・京都編(8):あべのハルカス(15.12)
http://sabasaba13.exblog.jp/30250607/
2019-04-30T06:53:55+09:00
2019-04-30T06:53:55+09:00
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近畿
なお「ハルカス」とは、古語の「晴るかす」に由来していて、「人の心を晴れ晴れとさせる」という意味があるそうです。展望台「ハルカス300」へ上るにはシャトルエレベーターに乗って16階へ、ここでチケットを購入して直通エレベーターに乗り換えます。最上階の60階に着くと、そこは360度全ての壁が大きなガラス窓となった展望回廊。いやあ、これは凄い、大阪の街並みが手に取るように一望できます。四天王寺、通天閣、大阪城、大阪市環境局舞洲工場を見つけては二人で小躍りしてしまいました。
そろそろ夕映えの刻、大阪の町並みがきれいな暮色に染め上げられていくのをしばし満喫。大枚1500円を払ってのぼってきた甲斐があったというものです。
そうそう、重森三玲作庭の「八陣の庭」を見下ろすために岸和田城天守にのぼった時、「あべのハルカス」が見えたことを思い出しました。ということは岸和田城が見えるはずですが…視力の良い山ノ神でも見つけられませんでした。
さてここ「ハルカス300」は「恋人の聖地」として選定されているはず、係の方にモニュメントの所在を訊ねると、まだ設置されていないとのことでした。残念。かわりに「ハルカス300」のキャラクターである空模様の熊、「あべのべあ」を撮影して憂さ晴らし。
本日の四枚です。
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姫路・大阪・京都編(7):姫路(15.12)
http://sabasaba13.exblog.jp/30247487/
2019-04-28T07:14:29+09:00
2019-04-28T07:14:29+09:00
2019-04-28T07:14:29+09:00
sabasaba13
近畿
さて、姫路のご当地B級グルメといえば、姫路おでん。今回は穴子フリークの山ノ神に敬意を表して、姫路穴子をいただくことにしました。姫路穴子と創作和食の店「一張羅」に入って、穴子の二色丼を注文。蒸し穴子と焼き穴子、ともにおいしゅうございました。山ノ神もすっかりご満悦の笑顔です。♪When you're smilin' The whole world smiles with you♪
駅へ行く途中にあった洋食屋のウィンドウには、「アーモンドトースト」と「かつめし」がありました。気になりますね、どんな味なんだろう。
ふとアーケードを見上げると、唐破風の意匠でした。姫路駅に入ると、気がつけばこちらの天井も唐破風を模しています。もう姫路城一色ですね。
本日の一枚です。 ]]>
姫路・大阪・京都編(6):姫路城(15.12)
http://sabasaba13.exblog.jp/30244045/
2019-04-26T06:27:20+09:00
2019-04-26T06:27:21+09:00
2019-04-26T06:27:21+09:00
sabasaba13
近畿
姫路城は、「美しい」を目的として造られた城ではないのである。「絶対に落ちない」ということを目的として造られた、実用の権化なのである。造られた時は「関ヶ原の合戦の後」-天下は徳川に傾いているけれど、まだ大坂冬の陣と夏の陣が残っている。豊臣方の影響力が強い「西への備え」をする拠点が、姫路城なのだ。この城が、「燃えない、落ちない、絶対大丈夫」を前提にした城になるのは当然だろう。だから、1609年に出現したこの城を、もしも大坂城の主である淀殿が見たら、きっと彼女は、「とてもお城とは思えない品のない造りね」などと言っただろう-と、私は思う。(p.160) 自己顕示欲の時代(安土桃山時代)から、実用に徹した管理社会(江戸時代)への移行期に築かれたのが姫路城であるという見立てですね。鋭い! "ガチガチの耐火建築"という視点で眺めると、城の佇まいもちょっと変わって見えてきます。ま、美しいことには変わりありませんが。でもその美しさは、坂口安吾風に言うと"直接心に突当り、はらわたに食込んでくるもの"なのかもしれません。『堕落論・日本文化私観』(岩波文庫)所収の「日本文化私観」から引用します。 ここには、美しくするために加工した美しさが、一切ない。美というものの立場から附加えた一本の柱も鋼鉄もなく、美しくないという理由によって取去った一本の柱も鋼鉄もない。ただ、必要なもののみが、必要な場所に置かれた。そうして、不要なる物はすべて除かれ、必要のみが要求する独自の形が出来上っているのである。それは、それ自身に似る外には、他の何物にも似ていない形である。(p.135~6) この美しい姫路城は、美を誇るために築かれた城ではなく、絶対に焼け落ちないという必要を満たすために築かれた城なのだということを、肝に銘じましょう。
本日の一枚です。 ]]>
姫路・大阪・京都編(5):姫路城(15.12)
http://sabasaba13.exblog.jp/30240966/
2019-04-24T06:26:05+09:00
2019-04-24T06:26:06+09:00
2019-04-24T06:26:06+09:00
sabasaba13
近畿
また、石垣の角には、直方体の石を長短の辺が交互になるように積まれています。直方体の石が算木に似ていることから算木積みといいます。高石垣が築かれるようになる慶長期(16世紀末から17世紀初め)に完成した積み方です。
三国堀のあたりはモミジが多く、きれいに色づいていました。今年の紅葉はもう終わりかなと諦めていたのですが、どうしてどうして、なかなかの紅葉です。予定を変更して、明日は京都で錦秋を愛でようかな、と心に迷いが生じました。
というわけで、姫路城を存分に楽しめました。山ノ神もご満悦の様子、ああよかった。なお余談ですが、往時のままに残る天守閣は12城あり、「現存十二天守」と呼ばれます。弘前城(青森県)、松本城(長野県)、丸岡城(福井県)、犬山城(愛知県)、彦根城(滋賀県)、姫路城(兵庫県)、松江城(島根県)、備中松山城(岡山県)、丸亀城(香川県)、伊予松山城(愛媛県)、宇和島城(愛媛県)、高知城(高知県)ですね。ゴーマンかましてよかですか。実は後日に丸岡城を訪れて、現存十二天守をすべて制覇しました。やった。
本日の五枚です。
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姫路・大阪・京都編(4):姫路城(15.12)
http://sabasaba13.exblog.jp/30237957/
2019-04-22T08:47:31+09:00
2019-04-22T08:47:32+09:00
2019-04-22T08:47:32+09:00
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近畿
武者走りは内陣の外側をとりまく廊下で、戦闘時には武士が行き交い、敵兵に射撃をあびせました。城兵がひそんで応戦するためのスペースが武者隠し、敵兵に向かって石を投げ落すための石打棚、火縄銃の煙出しと明かりとりのための高窓などもありました。
最上階からの眺望は素晴らしい、もう気分は殿様です。なおここには小さな神社がありましたが、姫路城の守護神である刑部神社で、1879(明治12)年に祀られたそうです。
そして階段を下りて外へ。備前門の石垣には直方体の大きな石が使われていますが、これは古墳の石棺を転用したそうです。後学のために解説板を転記します。 備前門の入口脇にはきれいに加工された直方体の石が縦に積まれています。これは、古墳に埋葬されていた石棺の身で、築城の際に石垣に転用されたものです。そのほかの石垣にも組合式石棺の側石や底石なども転用されています。こうした古墳の石棺が積石として多く転用されているのが、姫路城の石垣の特徴です。築城によって、姫路近辺にあった古墳がいくつも破壊されたことが想像できます。
太鼓櫓を通り過ぎると、お菊井戸がありました。そうか、怪談「播州皿屋敷」の舞台はここだったのですね。ここの解説文も転記しておきます。 この井戸は、播州皿屋敷の怪談で知られる「お菊井戸」といわれています。
永正年間(1500年頃)、姫路城主小寺則職(のりもと)の執権青山鉄山は町坪弾四郎と語らい、城を奪おうと企てていました。則職の忠臣衣笠元信は、お菊を青山家に女中として住み込ませ、その企てを探らせました。則職暗殺を探知したお菊が元信に知らせたため、則職は家島(姫路市)に逃げて殺されずにすみましたが、城は鉄山に乗っ取られました。お菊の動きを知った弾四郎はお菊を助ける代わりに結婚を強要しました。元信を慕うお菊はそれを拒みました。弾四郎はそんなお菊を憎み、青山家の家宝10枚揃いの皿の一枚を隠し、その罪をお菊にかぶせて責めあげました。それでも弾四郎を拒むお菊は、ついに切り殺されて井戸に投げ込まれました。
その後、毎夜この井戸から「1枚、2枚、3枚、…9枚」と9枚目まで何度も数えるお菊の声が聞こえたといいます。やがて元信らが鉄山一味を滅ぼし、お菊は「於菊大明神」として、十二所神社内に祀られました。
本日の三枚です。
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姫路・大阪・京都編(3):姫路城(15.12)
http://sabasaba13.exblog.jp/30234694/
2019-04-20T06:24:54+09:00
2019-04-20T06:24:55+09:00
2019-04-20T06:24:55+09:00
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近畿
9:17に京都駅に到着、JR京都線の新快速に乗り換えて、姫路へと向かいます。左手に見える瀬戸内海や明石海峡大橋の眺めを愉しんでいると、11:01に姫路駅に着きました。
大手前通に出ると、正面に姫路城を遠望できます。それではお城に向かいましょう。途中に「道満」という姫路かりんとうのお店がありました。
十五分ほど歩くと、姫路城に到着です。それにしても、何と美しい城なのでしょう。白一色で覆われた、均整のとれた佇まいには見惚れてしまいます。今年(2015年)の3月18日に平成の大修理が終わったばかりなので、白さが目に染みるようです。
まずは「コトバンク」にある「日本の城がわかる事典」から、姫路城についての解説を引用します。 兵庫県姫路市にあった南北朝時代から江戸時代の城。姫山を本丸とする平山城の典型。南北朝時代に赤松貞範が築いたのが最初といわれる。本格的築城は豊臣秀吉が毛利氏攻撃の拠点としたときから。徳川家康は、西国大名に対する備えとして1600年(慶長5)、姫路城に女婿の池田輝政を封じた。輝政は、現存規模の城郭へと大改修し、1609年(慶長14)に完成させた。盛時の近世城郭を伝える典型的遺構で、大小4つの天守をもつ連立式の天守閣のうち、もっとも大きい大天守は5重の屋根が巡り、地下1層を含む7層のもの。天守閣ほか多くの建造物は国宝、重要文化財に指定。1993年(平成5)、姫路城は世界遺産(文化遺産)に登録された。日本城郭協会選定による「日本100名城」の一つ。JR山陽本線・山陽電鉄姫路駅から徒歩15分。白漆喰を用いた優美な形態から、白鷺城ともよばれる。 入城口を抜けて、なだらかな坂を登っていくと見えてくるのが「菱(ひし)の門」です。あたりを睥睨するが如く屹立する、古武士のような門に圧倒されました。櫓門と呼ばれる型式で、二の丸の入口を固めた城内で最も大きな門だそうです。
四角い三国堀越しに見上げる天守閣も素晴らしい。無風だと鏡のように天守閣や土塀を映すのでしょうが、残念ながら漣がたっていました。
西の丸を通り抜けて「はの門」をくぐると、左に石垣、右に白い土塀、正面に白亜の天守閣が見えてきます。ここもフォトジェニックな光景でした。 ]]>
姫路・大阪・京都編(2):姫路へ(15.12)
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2019-04-18T06:30:52+09:00
2019-04-18T06:30:53+09:00
2019-04-18T06:30:53+09:00
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近畿
資料は「1.子どもへの方策」「2.大人や行政が主体となって家庭、学校、地域で取り組むべきこと」として、それぞれの場で取り組むべきことを挙げています。
「1」の「家庭」では、「挨拶をしっかりする」から始まり、「各家庭の『心の庭』(会話と笑いの場)をつくる」「団地、マンション等に『床の間』を作る」等。「学校」では「教壇を復活させることなどにより、教師の人格的権威の確立させること(ママ)」「青少年施設、自治公民館等での合宿」「遠足でバスを使わせない、お寺で3~5時間座らせる等の『我慢の教育』をする」「学校に畳の部屋をつくる」等。
「地域」では「有害情報、玩具等へのNPOなどによるチェック、法令による規制」等。
「2」の「家庭」では、「子どもを厳しく飼い馴らす」必要があることを国民にアピールして覚悟してもらう」「『ここで時代が変わった』『変わらないと日本が滅びる』というようなことをアナウンスし、ショック療法を行う」「家庭教育について対話できる土壌をつくるため、企業やテレビと協力して古来の諺などを呼びかける」「家庭教育手帳の年度毎の更新、配布」「バーチャル・リアリティは悪であるということをハッキリと言う」等。「学校」では、「一定レベルの家庭教育がなされていない子どもの就学を保留扱いする」「他の子どもの学習する権利を妨げる子どもを排除する権限と義務を学校に付与する」「警察OBを学校に常駐させる」等々。 "「子どもを厳しく飼い馴らす」必要があることを国民にアピールして覚悟してもらう"という件が肝でしょう。行政が家庭や学校に介入して子どもたちを鋳型にはめこみ、国家や企業にとって望ましい/扱いやすい人間に改造しようということですね。今読んでいる『現代史』(ポール・ジョンソン 共同通信社)の中に、以下の一文がありました。 レーニンと同じく、それ以上にスターリンと同じく、ヒトラーは今世紀最大の極悪非道な実践者だった。その背景には社会改造、つまり人間はコンクリートのようにシャベルで形作ることができるという考えがあった。(上p.192~3) 分科会に加わった極悪非道な方々に、『第四の書 パンタグリュエル物語』からフランソワ・ラブレーの言葉を贈ります。 子どもは液体を満たす容器ではない。それは火をつけるべきものである。
本日の一枚です。 ]]>
姫路・大阪・京都編(1):前口上(15.12)
http://sabasaba13.exblog.jp/30225544/
2019-04-14T07:47:24+09:00
2019-04-14T07:47:25+09:00
2019-04-14T07:47:25+09:00
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近畿
あとは私の趣味で選んだ大阪にあるディープな物件めぐりにつきあってもらいましょう。とりあえずリストアップしたのが、「恋人の聖地」に選定されたお初天神と梅田スカイビル空中庭園展望台。そして源ケ橋温泉浴場、大阪市立美術館、旧堺燈台、旧桜宮公会堂、日本基督教団天満教会、日本基督教団大阪教会、日本基督教団大阪住吉教会、梅谷歯科医院、愛珠幼稚園、日本基督教団島之内教会、日本橋駅・近鉄日本橋駅。まともな神経の持ち主でしたら見向きもしないところばかりですが、山ノ神の広大無辺な度量に甘えることにしました。
持参した本は『ナチスの戦争 1918-1949 民族と人種の戦い』(リチャード・ベッセル 中公新書)です。]]>
近江編(88):坂本~京都(15.3)
http://sabasaba13.exblog.jp/29502715/
2018-05-19T06:32:13+09:00
2018-05-19T06:32:13+09:00
2018-05-19T06:32:13+09:00
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近畿
そして白壁の続く街並みを走っていると、あるお宅でバッタン床几を見かけました。観光案内所で自転車を返却して京阪電車の坂本駅から石山坂本線に乗って京阪膳所駅へ、JR琵琶湖線に乗り換えて京都駅に着きました。時刻は午後四時半、せっかくなので京都で見残した近代化遺産を見物することに決定。駅構内に「日本最大の塑像 大如意輪観音」という飛鳥・岡寺のポスターを発見。
そして近鉄京都線に乗り換えて伏見駅へ。駅近くにあった塀の下の方に、木製の小さな鳥居が貼りつけてありました。古典的な小便除けですが、はたして昨今効果はあるのでしょうか。その近くには「お宝・不用品現金化」という道具屋さんのポスターが貼ってありましたが、さすがは歴史のある町ですね。
歩くこと十五分ほどで、お目当ての竹田火の見櫓に着きました。長年の風雪を耐え忍び、背筋を伸ばして屹立するその姿には神々しささえ感じます。近くに解説があったので転記します。 竹田火の見やぐらは、京都市の南部に位置し、北は近鉄京都線、東は竹田街道、西は東高瀬川に囲まれた地域の中心部に、大正12(1923)年8月に設立した竹田村消防組第二支部の装備品として建設され、以後、近隣町内の防火、防災活動に役割を果たしてきた。火の見やぐらは、江戸時代までは木造で作られていたが、近代に至り、製鉄技術の発展に伴って鉄骨造のものが建設されるようになった。しかし、都市環境の変化に伴い、現存するものは少ない。
竹田火の見やぐらは、鉄骨造としては初期の形態を残しており、また構造部材も当時の国内の製鉄技術を知るうえで、貴重な文化財的建造物であることから、地域住民からの保存要望を受けて、中央緑地敷地内に移転、保存したものである。 いつまでもお達者でとエールを送って火の見櫓にお別れし、伏見駅から近鉄で京都駅に戻り、JR嵯峨野線に乗り換えて二条駅へ。ここから十数分歩くと、日本聖公会京都聖三一教会に到着です。竣工は1930(昭和5)年、ハーフティンバー様式の瀟洒な教会です。設計はバーガミニー、聖路加国際病院の設計にも関わった建築家ですね。
見るべき程の事は全て見つ、それでは帰郷しましょう。二条駅に向かう途中で、「御近所の皆様へ 瓦が落下するおそれがあります 危険につき御注意ください!!」という貼り紙のある崩壊寸前の家を見かけました。
二条駅近くには、「Times」と「MOS BURGER」の看板がありましたが、いずれも白を基調としたおとなしいものです。景観への配慮か、あるいは地域住民からの要望ゆえか。
そして京都駅に戻り、「京都牛膳」という駅弁を購入して新幹線に乗り込みました。駅弁に舌鼓を打ち、時おり車窓を流れる夜の闇を見ながら、次なる旅行、京都観桜の旅に思いを馳せました。このひと時が楽しいのですね。
本日の二枚です。
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近江編(87):坂本(15.3)
http://sabasaba13.exblog.jp/29498903/
2018-05-17T06:23:00+09:00
2018-05-17T06:27:35+09:00
2018-05-17T06:23:24+09:00
sabasaba13
近畿
落ち着いた雰囲気の町並みを走っていると、ひと際目立つ恰幅のよい蕎麦屋がありましたが、ここが有名な「鶴喜そば」ですね。
石垣や清流を愛でながらペダルを踏んでいると、天台座主となった皇族の居所であったため高い格式を誇る滋賀院門跡に着きました。まずは見事な穴太積みの石垣を堪能。
そして拝観料を払い、小堀遠州作と伝えられるお庭を拝見しました。縁側から眺める池泉鑑賞式庭園で、幸いなことに参拝客は私一人。大きな池とそれを取りまく石の饗宴、見事な石橋、滝の音、そして木々の緑。心身に積もった俗塵が洗い流されるような静寂な雰囲気にしばしひたりました。
そして比叡山坂本ケーブルの坂本駅へ。昭和初期に建てられた、ヨーロッパの山荘風の洒落た駅舎です。ほんとうはケーブルカーに乗って、頂上の延暦寺駅も見たかったのですが、時間がないため省略しました。無念。なお近くに「長さも景色も日本一」という、ケーブルカーの宣伝がありました。以前に一度、乗ったことがあるのですが、たしかに素晴らしい眺望でした。お薦めです。
最後に日吉大社に立ち寄って、日吉三橋と呼ばれる古い石橋を撮影。大宮橋、走井橋、二宮橋、神々しく清冽な雰囲気の中に静かに両岸をつなぐその佇まいに、しばし見惚れました。『かくれ里』(白洲正子 講談社学芸文庫)の中に、次のような一文がありました。 近江には、優れた石仏が多く、狛坂廃寺の石仏(奈良時代)をはじめ、花園山中の不動明王(鎌倉)、比叡山西塔の弥勒菩薩(鎌倉)、鵜川の四十八体仏(室町)など、それぞれの時代にわたって、美しい作を見ることが出来る。石仏だけでなく、他の石造美術にも傑作が多いが、中でも特筆すべきは、日吉神社の石橋であろう。
これは天正年間に秀吉が奉納したもので、一の鳥居を入ったところ、紅葉にかこまれた大宮川の清流にかかっている。上流から、大宮橋、走井橋、二の宮橋の順に並び、堂々としていながら少しも重苦しさを感じさせない。お正月か、年の暮か、忘れてしまったが、風花が舞う日に私は、この橋の上で、神主さんの一行と出会ったことがある。十人近くもいただろうか。白一式の、粛々とした行列で、小さな祠や、〆縄をはった木や石に、無言の祈りを捧げて行く。参詣人は一人もいず、寒空にひびくのは、柏手の音ばかり。それはみるからに清々しい、神さびた祭りの光景であった。(p.95~6)
本日の八枚です。
走井橋
大宮橋
二宮橋 ]]>
近江編(86):堅田(15.3)
http://sabasaba13.exblog.jp/29494865/
2018-05-15T06:34:06+09:00
2018-05-15T06:34:06+09:00
2018-05-15T06:34:06+09:00
sabasaba13
近畿
高床形式で四隅に立つ四本の柱と、中心に立つ支柱の計五本の柱で支え、高さ約7・8メートルの支柱の頂部に火袋を取付けます。光源は大正7(1918)年まではランプを使用し、それ以後電灯に切り替えましたが一度途絶え、平成元(1989)年地元有志により点灯が再開されました。
昭和36(1961)年9月の第二室戸台風により倒壊寸前の状態となりましたが、地元の熱心な保存運動により、昭和48(1973)年、今日見る姿に復旧されました。 それでは自転車を返却して、堅田駅へと戻りましょう。途中で崩れそうになりながらも健気に営業されている(のかな)銭湯「港湯」を撮影、泡風呂というのが気になりますね。大津市観光キャラクター「おおつ光ルくん」のポスターがあったのでこちらも撮影、以前に石山寺でお目にかかったと記憶しております。
「湖族の郷資料館」で自転車を返却してバスで堅田駅へ。駅構内には、伊藤蘭をモデルにした「おとなび」のポスターがあったので思わず撮影。はい…えーと…実は…ファンです。
本日の二枚です。
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近江編(85):堅田(15.3)
http://sabasaba13.exblog.jp/29490640/
2018-05-13T06:20:42+09:00
2018-05-13T06:20:42+09:00
2018-05-13T06:20:42+09:00
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近畿
「近江八景」のひとつ『堅田の落雁』として古くからその情景が愛されてきたのも頷けます。
余談ですが、「近江八景」とは、比良の暮雪、堅田の落雁、唐崎の夜雨、三井の晩鐘、粟津の晴嵐、矢橋の帰帆、瀬田の夕照、石山の秋月のことですね。最近読んだ『シリーズ日本近世史③ 天下泰平の時代』(高埜利彦 岩波文庫)の中で、「近江八景」のことが記されていたので紹介します。 明からの渡来者がもたらした影響として、もう一例を加えることにする。近江八景や金沢八景の八景とは何か。もちろん八つの景色の意味だが、これは「瀟湘八景」という中国の景勝地を見立てたものである。…中国の長江中流の洞庭湖に注ぎ込む湘江と支流の瀟水の流域一帯を「瀟湘八景」と称え、これを価値ある景勝地として、日本にも禅僧たちにより中世期から伝えられた。この「瀟湘八景」という異文化の価値に、琵琶湖周辺の湖水と寺院や山並みなどの風景を見立てて近江八景と呼び、近世初頭に歌人として名声の高かった後陽成天皇や近衛信尹が和歌を詠んだことで、近江八景を景勝地として定着させることになった。(p.136~7) なお先代の浮御堂は1934(昭和9)年の室戸台風で倒壊してしまったため、現在のお堂は1937(昭和12)年に再建されたものだそうです。
そして居初(いそめ)氏庭園へ。古くから運送、漁業などの湖上特権を得、江戸時代には大庄屋として地域に貢献してきた堅田湖族三家のひとつ、居初家の屋敷内に広がる名勝庭園です。琵琶湖や湖東の山々を借景とした見事な枯山水庭園だということで楽しみにしていたのですが、休館日でした。無念。
本日の一枚です。 ]]>
近江編(84):堅田(15.3)
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2018-05-11T06:25:54+09:00
2018-05-11T06:25:54+09:00
2018-05-11T06:25:54+09:00
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近畿
資料館の前にあった公衆便所のトイレ表示は王朝貴族の男女。
それでは自転車にまたがって、日本基督教団堅田教会へと向かいましょう。竣工は1930(昭和5)年、ヴォーリズ建築事務所の設計です。チューダーアーチの窓と、トンガリ屋根の角塔がチャーミングですね。
なおこの教会についてインターネットで調べていると、たいへん気になる、そして憂慮すべき記事に出会いました。日本バプテスト連盟が滋賀県警大津警察署署長に宛てた抗議声明です。たいへん重要な内容ですので、長文ですが引用します。日本基督教団堅田教会 竹内宙牧師の不当逮捕に対する抗議声明
私たち日本バプテスト連盟理事会は、日本基督教団堅田教会竹内宙牧師が10月11日午前5 時に傷害罪にて逮捕され、10月21日まで長期にわたる不当な拘留と取り調べを受けたことに対し、強く抗議します。
私たちは事態を次のように把握しています。竹内宙牧師は10日に開催された「さいなら原発・びわこ集会」の実行委員でありましたが、その集会からの帰宅途中であった午後8時30分頃、大津駅にて、駅構内にいる集会参加者が「在日外国人の特権を許さない市民の会」(以下「在特会」)メンバーに人権を侵害される罵声を浴びせられたことに端を発し、彼らと集会参加者とが小競り合いになりました。それは、駅改札口を挟んでのことでしたが、在特会メンバーは改札口を越えて乱入してきました。その状況において、竹内牧師は、実行委員として、暴力に発展しないよう仲裁に入ったところ、その横でビデオを撮影していた在特会のメンバーがバランスを崩してしゃがみこみ、左膝に擦過傷を負ったと主張しました。そして、そのことにより、竹内牧師は傷害罪で逮捕されました。
第一に、竹内牧師は、この騒ぎの当事者ではなく、むしろ騒ぎを仲裁しようとし、ビデオ撮影 者に対しても押し倒すなどの暴力は全く加えておらず、注意をしただけであり、ビデオ撮影者の怪我には何ら責任がありません。正義と良識をもって市民社会に奉仕すべき警察が、騒ぎを起こした当事者である在特会メンバーを拘束することなく、仲裁に入った竹内牧師を傷害罪で逮捕したことは、事実誤認を超えて、何らかの予断と偏見に基づいた警察権の乱用であると言わざるを得ません。 第二に、竹内牧師に対する長期にわたる拘留、取調べが続いたことから、傷害に対するものとは異なる別の目的が逮捕の背景にあることを予見し、今後も平和を愛し人権を守る宗教者が逮捕される可能性があることに危惧を覚えます。第三に、在特会はこれまでに暴力で逮捕されたことのある団体であり、また逮捕されずとも、平和や人権を訴える集会に現われては、主催する宗教者などに、誹謗・中傷という言葉では言い表せないほどに卑劣な罵声を浴びせる人権侵害を繰り返している団体です。それにも拘わらず、上述の状況で警察が在特会の罵声による人権侵害に対し黙していたことに憤りを禁じ得ません。
10月21日、竹内牧師は11日間にわたる不当な長期拘留を経て、ようやく釈放されましたが、私たちはこのたびの竹内宙牧師の不当逮捕と長期拘留に対し、重ねてここに強く抗議をいた します。 2011年10月22日 "誹謗・中傷という言葉では言い表せないほどに卑劣な罵声"をあびせて在日の人びとの人権を脅かす、この「在日外国人の特権を許さない市民の会」という団体についてはしばしば耳にします。HPの設立主旨を読むかぎりでは、"戦後六〇年以上の自虐史観に基づく極左思想の蔓延が生み出した「日本を絶対悪とみなす加害者史観」という病的妄想"への反発からつくられた団体のようです。日本を絶対善とみなす自慰史観という病的妄想にとらわれた方々が設立・参加する団体なのですね。ま、それもひとつの考えですから、それを主張・流布するのはいいとして、なぜ在日の人権を侵害するのか、理解できません。さらに理解できないのは、なぜ反原発集会を妨害するのか、それと在日特権はどう関係するのか。そして警察は、何故この団体の人権侵害行為を取り締まらず、その対象となった牧師を不当逮捕・長期拘留したのか。うーん、わかりません。ただ、国策に抗う者を許さないという線で、この団体と警察がつながっているのだと想像します。そしてその背後により大きくて邪悪な存在がありそうなことも。メディアによる調査と報道を衷心より期待します。さもないと、安心して国策を批判できなくなってしまいますから。共謀罪法案成立によって、ますます警察の元気が出そうな状況だけに、憂慮します。]]>
近江編(83):朽木(15.3)
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2018-05-09T06:23:21+09:00
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近畿
道の片側には江戸時代の始めに整備された水路があり、かつては洗い物や消火用水に利用され、現在でも融雪に利用されているそうです。水際で仕事をするためのスペースである川戸(かわと)も残っていました。レンガ造りの小さな塔は立樋(たつどい)で、湧き水を導水してサイホンを利用して各家庭に送水する分水塔だそうです。
恰幅のある古い商家は、熊瀬家住宅。酒作りや醤油作りを本業とする一方で、藩の御用商人としての保護を受け、幅広い商業活動を行っていました。道が直角に曲がっているのは、敵兵が一気に城へ攻め寄せるのを防ぐためで、こちらでは鍵曲(かいまがり)と呼ばれています。
なお前記のホームページを見ていると、ヴォーリズが設計したと伝えられている旧郵便局舎を見損ねてしまいました。あるいは気づかなかった? ああ悔しい。できうればこの町歩き地図を、街角に掲示しておいていただけると幸甚です。
10:36発のバスに乗って、11:04に安曇川駅前に到着。そろそろ小腹がへってきたので、近江今津に戻って、昨晩食指を動かされた「一番星」という洋食屋さんに行くことにしましょう。近江今津駅のホームからは、雪を頂く湖西の山並みがよく見えました。そして当該の店に入りメンチカツ…もとい関西ではミンチカツを注文、それなりに美味しうございました。なお広辞苑が置いてあるところに、オーナーのそこはかとない見識を感じます。
近江今津駅から湖西線で堅田へ、駅前にあった観光案内所は12:00~13:00が昼休みでした。仕方がない、十数分ほど待つことにしましょう。
駅前には「志賀廼家淡海顕彰碑」があり、その前の石柱に寄進者である「藤山寛美」「松竹新喜劇」の名が刻んでありました。ちょっとそそられますね、帰宅後に調べてみようと思い写真におさめました。今調べてみると、志賀廼家淡海(しがのやたんかい)という、「淡海節」で一世を風靡した堅田出身の芸人で、藤山寛美はその孫弟子にあたるそうです。なお「ゲジデジ通信」に、彼の数奇な生涯が詳細に語られていました。その近くにあった公衆便所には、ガラスブロックで琵琶湖が描かれていました。
本日の五枚です。
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