カテゴリ:中部
  • 天浜鉄道・中津川編(21):坂折の棚田(10.7)
    [ 2011-08-17 14:52 ]
  • 天浜鉄道・中津川編(20):大井ダム(10.7)
    [ 2011-08-15 07:16 ]
  • 天浜鉄道・中津川編(19):岩村(10.7)
    [ 2011-08-14 08:39 ]
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    [ 2011-08-12 08:42 ]
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    [ 2011-08-11 07:09 ]
  • 天浜鉄道・中津川編(15):明智(10.7)
    [ 2011-08-10 07:36 ]
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    [ 2011-08-09 06:23 ]
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    [ 2011-08-07 06:19 ]
天浜鉄道・中津川編(21):坂折の棚田(10.7)
 そして坂折の棚田へと向かいます。タクシーは山なみを縫うように走り、山間に佇む集落や棚田の景観を車窓から堪能していると、三十分ほどで到着。おおおおお、びゅーてぃほー! 山の斜面を覆う緑なす幾層もの棚田に、眼も心も奪われてしまいます。タクシーには中腹にある駐車場で待機してもらうことにして、まずはここから眼下に広がる棚田を溜息とともに眺望。どれくらいの歳月と汗と知恵が費やされたのでしょう、貴くさえある景観です。ここに解説板があったので引用します。
この地区は「はしご田」と呼ばれる石積み棚田が点在する全国でも有数の美しい景観を有しており、平成11年7月に農林水産省の「日本の棚田百選」に認定され、石積みの美しい棚田が広がる独特の田園風景を見ることが出来ます。
坂折棚田の特徴として①ほとんどが石積みの棚田で、専門の石工によって積まれたと思われる石積みが多く見られる。②用水源は、河川や用水路から直接取水し、「アト口」と呼ばれる取り入れ口と落し口が一体となっている方式が多い。③石積みの一部や山際などに暗渠や清水口と呼ばれる鳥居形の石組みがあり、この間から流れ出る湧水も用水として利用している。
 それでは棚田の間を散策することにしましょう。とにかくその石積みの精緻さには驚かされます。もちろん石工が中心となって組み上げたのでしょうが、おそらく農民たちも手伝ったのでしょうね。暮らしのため、生きるため、家族のため、そして子孫のため、営々と石を積み上げる光景が眼に浮かぶようです。

 復元された水車小屋もありました。またいろいろな名前を記した立て札があるので、オーナー制度をとっているのでしょう。

 お米をつくるだけでなく、雨水を溜めてゆっくりと流すことで洪水・土砂崩れを防ぎ、地下水を貯め水を浄化し、多くの水生動物や昆虫の棲みかとして豊かな生態系もつくる棚田。われわれの暮らしを脅かす核(原子力発電所)やアメリカ軍、無駄な公共事業や自衛隊のために湯水のように注がれる税金の万分の一でもいいから、棚田維持のために使ってほしいものだと衷心から思います。もちろん、金さえ出せばいいってものではないことは重々承知の上ですが。農業をする人々が、誇りをもって、かつ労苦と将来への不安なしに、棚田を維持し未来へと受け継がせることができる手立てはないものでしょうか。こういうところに英知を結集してほしいものです。
 さあ名残りは尽きねどそろそろ駅に戻らねば。タクシーに乗り込み、三十分弱で恵那駅に到着しました。運転手さんに丁重にお礼を言い下車。列車の発車時刻まですこし時間があるので、駅前にある「スィング」という喫茶店で珈琲をいただくことにしました。さきほど入った明智の天久資料館でもそうでしたが、珈琲にお茶請けがつくのはギフ・ウェイなのでしょうか。

 そして恵那駅に行き快速列車に乗り込んで、一時間ほどで名古屋に到着。車内で食べる「純系名古屋コーチン弁当」と山ノ神に奉納する「赤福」を購入して新幹線に乗り換えました。そして新幹線のぞみは夜の闇を引き裂いて一路東京へ。


 本日の四枚です。



by sabasaba13 | 2011-08-17 14:52 | 中部 | Trackback | Comments(0)
天浜鉄道・中津川編(20):大井ダム(10.7)
 そしてふたたびタクシーに乗って岩村駅に戻りました。気がつくと軒にある駅名の表記が右書きでした、戦前の物件なのですね。ホームのベンチに座り、山と線路と古い駅舎が織り成す長閑な景観を写真に撮っていると、列車が入線してきました。

 さっそく乗り込み、車窓からの眺めを楽しんでいると、噂の極楽駅がありました。

 そして三十分ほどで恵那駅に到着。さあ本日最後の訪問地、坂折の棚田へとタクシーで参りましょう。しかし時間はともなく、費用がどれほどかかるのか不明です。あまりに高額だったら撤収という選択肢もあるので、念のため駅前にあった観光案内所で訊ねてみました。係の女性はたいへん懇切丁寧に対応してくれて、「こういう企画があるのですが」とあるパンフレットを見せてくれました。なになに、「駅から観タクン」? 何でもここの観光案内所を通して申し込むと、二時間6500円で観光タクシーを利用できるという内容です。安い! おまけに既定のコースを見ると、大井ダムが入っているではありませんか。提示されているコースとはすこし違う大井ダム+恵那峡+坂折の棚田を見学するというルートは可能かと訊ねると、「大丈夫です…たぶん」という心強いお答え。乗った! さっそくタクシー会社に連絡をとってくれて、しばらくして一台のタクシーが到着、篤実そうな初老の運転手さんが案内所に入ってきました。希望のコースを提示すると、no problemというお返事。おお神に愛されし者よ、何たる僥倖、大井ダムを見ることができます。
 急流沿いの細い道を走ること十数分で、1931(昭和6)年につくられた東雲橋に到着、そして右手を見ると、おおっ、勢いよく木曽川の水を放流する大井ダムの巨躯が遠望できました。タクシーには橋のたもとで待っていてもらうことにして、下車してダムを撮影。

 発電所入口に行くと、左側に細い通路があり、見学が可能とのことでした。巨大な水圧鉄管の脇を通り過ぎ、階段をジグザグと上ると、ダムの天端の脇に到着。絶景絶景、本流を迸らせるダム、山並みを貫いて流れる木曽川と東雲橋を手に取るように眺めることができます。胸のすくような爽快な景観に大満足。なお天端部分は歩くことができますが、手摺の意匠にも神経を使っているのがよくわかります。

 また記念碑が二つありましたが、そのレリーフとして刻まれている肖像は福沢桃介でしょうか。恥ずかしながら碑文は、達筆のため読むことができませんでした。

 それでは、ウィキペディアから抜粋して引用します。
大井ダムは、…木曽川本川中流部に建設された発電専用ダムである。土木学会選奨土木遺産。木曽川水系で最初に造られたダムで、1924年(大正13年)に完成。ダムの形式は重力式コンクリートダムで高さは53.4メートル。日本では帝釈川ダム(高梁川水系帝釈川)に次ぐ、50メートル超級のダムである。ダムに付設する大井発電所はダム式発電所としては日本で初めての例である。
木曽川は急流である上に水量が豊富な事から、水力発電には絶好の適地であった。1911年(大正元年)には電気事業法が制定され、一挙に水力発電の開発機運は高まった。だが当時は氾濫を繰り返し木曽川本川のダム建設は困難極まりなかった。木曽川に目をつけたのは、後に「日本の電力王」と渾名された福澤桃介である。慶應義塾大学創設者・福澤諭吉の養子であった桃介は、木曽川の電源開発を企図しこの地にダムによる水力発電を計画した。建設は「半川締切工法」で行われたが、度重なる洪水による資材流出など困難を極めた。だが、日本初の女優・マダム貞奴の援助等もあり、苦難の末完成させた。この偉業は、当時世界のビッグ・プロジェクトの一つに数えられた。
 「男伊達ならあの木曽川の流れ来る水とめてみよ」と木曽節にも歌われた木曽川の激流をせきとめたその偉業に頭を垂れましょう。そしてタクシーに戻り、恵那峡へと向かいます。十分ほどで、大井ダムによってつくられた渓谷、恵那峡に到着。ダムの開発によって美しい景観が損なわれるケースが多いのですが、ここは全く逆なのですね。展望台からは、満々と水を湛える恵那峡、岸辺を飾る奇岩や恵那峡大橋を眺望することができます。なお地理学者・志賀重昂が「恵那峡」と命名したそうです。


 本日の五枚です。




by sabasaba13 | 2011-08-15 07:16 | 中部 | Trackback | Comments(0)
天浜鉄道・中津川編(19):岩村(10.7)
 さて一休みして汗も引いたので、駅へと戻しましょう、滑落しないよう慎重に足を運び、本通りへと下りていきました。途中にあった「鳥兵」で唐揚げ定食をいただき、1769(明和6)年に建立されたという、全国でも珍しい土蔵造りの浄光寺を拝見。たしかに私も喜多方の安勝寺でしか見たことがありません。

 そしてなまこ壁が美しい裏の路地を歩いていくと、おおっ本日二件目の「コバタ物件」をゲット。ここ岩村は「コバタ物件」のサンクチュアリ、ぜひともラムサール条約かワシントン条約で保護してほしいものです。その前には「今日の駐車側」という謎の看板を発見。日によって車を停めてよい場所が変わるということなのでしょうか。

 建物全体を埋め尽くすガラス窓が印象的な大きな商家、「ひとりでできる」消火栓を撮影して、岩村駅に到着。

 幸い駅前にタクシー会社の営業所があったので、農村景観日本一の富田地区を眺望できる展望台まで連れていってもらうことにしました。思ったよりも近く、十分ほどで展望台へと上る階段に到着。いそいそと駆け上がると…好事魔多し、なんとタイガーロープが張られ、修理中のため立入禁止でした。おうまいがっ。しかし昼休みのためか、きょろきょろ、工事関係者の人影はありません。わが内なる道徳律と相談して(以下24字欠)。おおっこれは素晴らしい景観です。山なみに囲まれたミクロコスモス、緑の絨毯のように大地を覆う水田、そして点在する家々と屋敷林。実際にここで暮らしを営まれている方々にはいろいろな労苦があるでしょうし、それについてコメントをする能力はないのですが、思わず見惚れてしまいます。

 「岐阜県恵那市情報サイト えーなーココ」によると、瓦と白壁の昔ながらの農家や土蔵も点在しているそうです。いつか機会を見つけて、この集落の中を散策してみたいものです。なお参考のため、上記サイトの紹介文を引用します。
この農村景観の特徴は、東から西に少し傾斜した穏やかな岩村盆地の中に、瓦と白壁の昔ながらの農家や土蔵が点在する農村景観が展開し、回りは盆地を形成する緑の低い丘や遠く三河・尾張と境を接する山々が二重・三重に連なって、この景観を一層引立てている点にあります。ここの眼下に広がる田園は、総面積約150haあり、岩村町の約半分を見ることが出来ます。「農村景観日本一」の称号は、平成元年に全国の環境問題を専門に研究している、京都教育大学・木村教授から頂き、マスコミが一斉に報道し一躍脚光を浴びたものです。ここに佇めば、春夏秋冬・朝な夕な・日本が戦後失ってしまった「心のふるさと」、そして古代・仁徳天皇が見た"カマドの煙"の景色をも彷彿と感じとることが出来ます。…美しい日本、この景観をぜひご覧下さい。
 「心のふるさと」ぐらい自分で選ぶ人様の指図は受けない、とか、史実かどうか不分明な仁徳天皇の逸話を何故持ち出すのか、そもそも彼が実在したとしてもその当時天皇号は存在していないはず、とか、いろいろな茶々を入れたくなりますが、ま、いいでしょう。ただ咽喉に突き刺さった平目の骨のように気になるのが"戦後失ってしまった"という、まるで自然現象として発生したような物言いです。薄学なため詳細な指摘はできないのですが、"戦後奪われて/破壊されてしまった"と言った方が正確なのではないでしょうか。誰が、何のために、どうやって? こうした景観を愛する者の一人として、学んでいきたいと思います。

 本日の三枚です。


by sabasaba13 | 2011-08-14 08:39 | 中部 | Trackback | Comments(0)
天浜鉄道・中津川編(18):岩村(10.7)
 そして温故の井、歴史民俗資料館、藩校知新館の正門、復元された太鼓楼を通り過ぎると、いよいよ岩村城跡への上り道となります。

 すこしのぼったところにあるのが花菖蒲園、花菖蒲はもうしぼみかかっていますが、紫陽花が満開でした。

 その前にあるのが下田歌子の銅像と勉学所、実践女子学院を創設した、近代日本における女子教育の第一人者はここ岩村の出身だったのですね。

 そして石畳がしかれた急峻な坂道が始まります。日本三大山城の一つというくらいですから、これは覚悟の上。なお他の二つは、大和高取城、備中松山城をさすとのことです。岩村城は日本一標高が高いところにある山城、松山城(岡山県高梁市)は天守閣が現存する唯一の山城、高取城(奈良県高取町)は日本一比高[※山頂と麓の高低差]の高い城と、それぞれが日本一の特徴を持っているそうな。かなりきつく、また滑りやすい石畳を二十分ほど歩くのですが、これまで訪れたきついルートを思い起こすとこの程度でへこたれるわけにはいきません。ケルンの大聖堂、三仏寺投入堂しまなみ海道屋久島熊野古道中辺路と、苦心惨憺した想い出が走馬灯のように脳裡をかけめぐり励ましてくれました。

 やがて見事に積み上げられた石垣が現れ、秘蔵の蛇骨を投げ込むと霧がたちこめ城を覆い隠すという伝説の霧ヶ井を通り過ぎると、急峻な地形に石積をする為に工夫された石垣・六段壁に到着。

 ここの階段を上ると、天守閣跡です。ここ岩村城は、江戸諸藩の府城の中でも最も高い所(標高717m)に築かれ、高低差180mの天嶮の地形を巧みに利用した要害堅固な山城で、霧の湧き易い気象までも城造りに活かされており、別名「霧ケ城」ともよばれているそうです。その歴史も古く、1185(文治元)年に源頼朝の重臣・加藤景廉がこの地の地頭に補せられ創築されてから、鎌倉・室町の約300年間、戦国の約100年間、さらに江戸期の約300年間にわたり城と城主が連綿と続きました。これだけ長い間、現役を務めた城も稀有でしょうね。汗をふき、水分を摂取し、紫煙をくゆらし、さあ見事な眺望を楽…木々が高く生い茂ってよく見えないじゃないか! そう無暗に木を切り倒してはいけないのは重々承知の上ですが、やはりもうすこし見晴らしがよくなるようにしてほしいものです。


 本日の三枚です。


by sabasaba13 | 2011-08-13 07:42 | 中部 | Trackback | Comments(0)
天浜鉄道・中津川編(17):岩村(10.7)
 路地を折れると、岩村藩お抱えの鉄砲鍛冶、加納家があります。軒裏まで塗込められ外へ傾いた漆喰壁は珍しいですね。狛犬の飾り瓦にも注目。

 そして高札場が復元してある枡形を過ぎると、古い商家が目白押し。まずは、幕末、窮乏した藩財政を支えた商家の一つ勝川家があり、内部が公開されています。その向かいにある何の変哲もないお宅の二階中央に大きな時計があり、しかも正確な時刻を示しているのには驚愕。どう見ても時計屋さんには見えないのですが…

 そして見事な格子のある浅見家、庄屋でありながら御用達職を命じられた家だそうです。その先には看板の跡が風化して素性がわからない、古いビルがありました。

 「ふれあいの館」は、旧十六銀行を再利用した観光案内所です。木村家も藩の財政困窮のたびに御用金を調達してその危機を救った問屋で、藩主自身が幾度となくこの木村邸を訪れたと言われています。そのためなのでしょうか、見張りのための立派な武者窓が印象的です。

 厨子二階造りの浅井屋では、ひさしぶりに「コバタ物件」をゲット。御手洗西舞鶴小幡に続いて五例目の貴重な発見です。

 水野薬局は、軒先に並ぶレトロな木製看板が度肝を抜きます。なお岐阜事件前夜に板垣退助が宿泊したのがこちらだそうです。

 その先には「昭」の字の浮き彫りがある洋風商店がありました。「女城主」という酒をつくっている岩村醸造には、店内に運搬用トロッコのレールが残されています。このあたりになると、岩村城のある山が眼前に迫ってきました。深萱商店は「肥料・飼料・プロパンガス・金物・米穀・農薬・セメント・食塩」という豊富な品ぞろえ。「おしゃれの店 うめしょう」は先ほどと同じタイプの洋風商店です。なおこのあたりであまり見かけないお札を発見、日蓮宗関係のものだと思われます。


 本日の五枚です。




by sabasaba13 | 2011-08-12 08:42 | 中部 | Trackback | Comments(0)
天浜鉄道・中津川編(16):岩村(10.7)
 そして二十分ほどで岩村に到着、それでは岩村を散策することにしましょう。見どころは伝統的建造物保存地区に認定された本通りと、日本三大山城に数えられる岩村城跡。ウィキペディアによると、鎌倉時代、1185年に加藤景廉が鎌倉幕府より地頭を命ぜられ、岩村城を築城。安土桃山時代には城主を亡くし未亡人となっていた妻・修理が女城主を務めていたことがありますが、戦乱の中、1576年に織田信長の手によって処刑されました。岩村藩と城下は廃藩置県まで三万石の城下町として栄えたとのことです。駅前にあったのが伝鴨長明塚、彼がこの地で入寂したという言い伝えがあるそうです。たぶん消火器を納めてあるのでしょう、「火消道具」と記された茶色の木箱を見かけました。景観にはかなり気を使っているようです。

 そして本通りへ、おおっこれはお見事。二階部分の低い厨子二階造りの商家・町屋が建ち並ぶ、歴史を感じさせてくれる景観です。まずはオーソドックスな飛び出し小僧に挨拶をして、本通りを城跡の方へ進みます。手書きの「クリーニング 三宅」というほのぼのとした看板が眼を引くお宅は、一種の看板建築ですが、二階部分がせり出しています。

 そしてそこいらじゅうに記されている佐藤一斎のお言葉。江戸後期の岩村藩儒官で、佐久間象山・渡辺崋山も師事したことがある郷土の偉人です。

 さまざまな意匠の持送り板があるのは、ちょっと飛騨古川の"雲"を彷彿とさせますね。飛騨の匠の心意気でしょうか。

 またまた飛び出し小僧をゲット、こちらは手書き100%のしみじみとした味わいのものでした。家々の軒先に鉄の風鈴が吊り下げられ、涼しげな音色を奏でているのは風趣があります。「岐阜縣 計量器登録店」という古いホーロー看板のある商店では、常滑焼の壺を大量に販売していました。近づいてみると、「らっきょう3kg用」と箱に表記してあります。へえー、自宅でらっきょうを漬けるんだ。

 名物岩村カステーラの前を通り過ぎると、衝撃の新事実が判明しました。私が勝手に「飛び出し小僧」と名付けた人形に、「安全坊や」と記されているではありませんか。この呼称問題については、学会で真剣に討議する必要があるでしょうね。その先にはアンパンマンの「飛び出し小僧」または「安全坊や」がありました。


 本日の二枚です。

by sabasaba13 | 2011-08-11 07:09 | 中部 | Trackback | Comments(0)
天浜鉄道・中津川編(15):明智(10.7)
 さてそれでは「浪漫亭」で、大正村名物のコロッケカレーをいただいて岩村へと移動することにしましょう。途中にあった大正路地は、往時の雰囲気を漂わせる米倉と呉服問屋の蔵が並ぶ昔ながらの路地です。数個の桟を外して外壁の黒い羽目板を取り外すと、たちまち一面の土壁となって防火壁の役目を果たし、窓を閉ざせば外からの延焼を防ぐ仕組みになっているそうです。漆喰の白と黒板のコントラストが、素敵な景観をつくりだしていました。

 その先にある橋を渡ろうとすると、たもとに「嗚呼!哀史 糸曳き乙女地蔵」が寂しげに佇んでいました。製糸女工を祀ったものなのでしょうか、解説が欲しいところです。

 煉瓦造りの煙突のあたりを左に行くと、浪漫亭にたどりつきます。♪お腹と背中が…くっつくぞ!♪とハミングをしながら、二階へ駈け上ろうとすると、食事は午前11時からというつれない表示。やれやれ、しかたがない。大正モダンを意匠した男女表示のあるトイレで小用を済ませ、浪漫亭の前にある小さな店で五平餅をいただくことにしました。

 焼き立ての香ばしい五平餅をはふはふとたいらげ、明智駅へ。駅前にあった地図を何気なく見ていると、「上田良子」「下田良子」という地名がありました。「それがどうした」と言われると「なんくるないさあ」としか答えられませんが、ちょっとそそられる地名です。この手の調査はやはりインターネットが向いています。さっそく調べてみたところ、何と「かみたらご」「しもたらご」と読むそうです。合点合点合点。

 黒猫と白い紫陽花と苔生す岩を撮影し、駅舎に入ると恵那地区に関する行政の情報誌が置いてありました。何気なく手にして紐解くと、恵那の近くに1924(大正13)に完成した日本最初の発電用ダム、大井ダムの紹介文がありました。建設したのは福沢桃介、以前に南木曽にある桃介橋や彼の記念館、彼と川上貞奴が暮していた二葉館を訪れたことがあるので、これはそそられます。ましてダムの追っかけを自称する私としては、なおさらです。時間と財政に余裕がないので、悔しいけれど再訪を期すことにしましょう。入線してきた明知鉄道の列車に乗り込むと、車内に自衛官募集のポスターが貼ってありました。就職難につけこんで兵士を掻き集める、日本はどんどんアメリカ化していきますね。


 本日の二枚です。

by sabasaba13 | 2011-08-10 07:36 | 中部 | Trackback | Comments(0)
天浜鉄道・中津川編(14):明智(10.7)
 それではこの路を折り返して北へと向かいましょう。「後藤桶店」は元気に商いをされているようです、店先には「用水」と書かれた桶が積み重ねられていました。あるお宅には、「此門をよけて通れよ風の神」という文句と弘法大師を描いたお札が貼ってありました。流行り神除けのお札なのでしょうか。

 「桃太郎」というお店は、木造三階建て。笹乃屋という古い旅館は、焼杉が印象的な恰幅のよい建物です。

 旧保母歯科医院は、三角形のペディメント、アンシンメトリックなファサードとベランダが印象的な瀟洒な洋館。このあたりで「飛び出し小僧」をゲット。

 路地に入ると、右手にはアーチ型の入口庇が心憎い大正村展示館、左手には1906(明治39)年に町役場庁舎として建てられたモダンな大正村役場があります。そして突き当り正面には小学校校舎を利用した絵画館がありました。このあたりはやや高台になっており、大正村役場を見下ろせる格好の撮影ポイントでした。

 そして坂道をすこしのぼると、大正のモダンなイメージを再現した洋風建築「大正モダン館」があり、明智出身の画家・山本芳翠直筆画の展示室や大正時代に関する資料など展示しています。その前にある銅像は、初代日本大正村村長高峰三枝子氏と同村議会議長春日野清隆氏。このあたりはより高台となっており、明智の街を一望できます。その奥には、明智陣屋の屋敷と土蔵が、静かに佇んでいました。


 本日の六枚です。





by sabasaba13 | 2011-08-09 06:23 | 中部 | Trackback | Comments(0)
天浜鉄道・中津川編(13):明智(10.7)
 駅から数分歩くと、洋館風の施設「浪漫亭」があり、土産屋・食堂・観光案内所を兼ねています。その近くには「新首都は東京から東濃へ 日本まん真ん中岐阜県」というすこしくすんだ看板がありました。うん、それもいいかもしれない。日本中の富を吸い上げて、傲岸不遜傍若無人に振舞うような首都のあり方を見直す時機だと思います。

 その隣には、原初的な火の見櫓がありましたが、これはおそらく復元したものでしょう。写真の店「ささき」は、二階部分を覆う採光用の窓が印象的。

 その前には「あっせん所」と書かれた仕舞た屋、何を斡旋したのでしょう、まさか人身? 逓信資料館は1875(明治8)年に開局したこの地方で最も古い郵便局。大正時代になって、モダンな出庇に欄間風の彫り物を加えた建築となったそうです。

 大正資料館は、明治末期の建物で木造百畳敷き一部4階建て、手動のエレベーター付きの当時としては巨大で貴重な建築物です。農家から預かったり、買い取ったりした繭を収納するための銀行の繭倉で、生糸の町の名残だそうです。黒板の壁と瑞々しい柳の新緑が、ピクチャレスクでした。精緻な格子窓のあるお宅や、「スク房薬キタ」とガラスに書かれた商家を通り過ぎ、小路に入るとそこは「うかれ横丁」。

 中馬街道の一部で、往時は繭や塩の荷駄がさかんに往来したところで、馬子や旅人相手の酒やうどんを売る店、カフェーも建ち並んでいたそうです。現存するカフェーの建物は一軒だけで今では寂れていますが、道路を跨ぐ渡り廊下がかつての殷賑を語る生き証人です。なんでも、置屋から料亭へ芸妓が移動するためにつくられたとのこと。

 その先にあるのが、京都の老舗元カフェーを復元した天久資料館、一階が喫茶店になっているので入店し珈琲を所望しました。中の調度は昔のカフェーをイメージして復元されています。

 なんてことはないのだけれども趣のある町屋が建ち並ぶ中馬街道をすこし歩くと、南北街道との交差点に出ました。南北街道のあたりも、どことなく懐かしい落ち着いた雰囲気の景観です。

 交差点から南の方へ歩いていくと、「オリエンタル即席カレー」という張り紙をゲット。その先には二階建て・下見板張りの洒落た洋館「おもちゃ資料館」がありました。係の方に訊ねると、酒屋が従業員のために建てた宿舎だそうです。

 風鈴の音が懐古の情をさそう路を歩いていくと、旧大塩医院があります。解説板によると、母や兄の死に直面して生きる姿のはかなさを思い知った大塩金弥氏が医業を志し、この地の人々のために建てた産婦人科だそうです。奥にある建物は、古い町並みや大正村にある懐かしい道具を題材にコミュニケーションをすることで、お年寄りの脳の活性化を図る「回想法」という療法を行うための「想い出学校」として利用されています。この付近で「B&G財団海洋センター」を発見。


 本日の四枚です。



by sabasaba13 | 2011-08-08 07:28 | 中部 | Trackback | Comments(0)
天浜鉄道・中津川編(12):明智(10.7)
 カーテンを開けると、お天道様が呵々大笑されておりました。どうやら今日は暑くなりそう、でも雨が降るよりはましですね。部屋の鍵をフロントにある郵便ポストに投げ込んで、いざ出発。まずは中津川駅から中央本線に乗ること十分ほどで恵那駅に到着です。隣接した明知鉄道恵那駅に行くと、「長寿のお守りと事故防止に幸せを招く極楽切符を!」というわけで、極楽という名の駅行きの切符(硬券)を売っていました。お値段は420円、つまりシニゼロ。座布団は…うーんあげない。あと半回転ほどひねりがほしいですね。それでは二両編成のディーゼルカーに乗って、明智へと出発進行。

 気持ち良さそうにすくすくとのびる稲、遥かなる山なみ、緑なす世界の中をローカル列車はがたたんがたたんと疾駆していきます。

 三十分ほどで岩村駅に到着、明智を訪れたら帰りにここで下車する予定です。映画のロケ地に使いたいような長閑な田舎の駅で、跨線橋もなく降りた乗客は停車している列車の前をとことこと横断していきました。もう使用されてはいない腕木式信号機が、乗降客を見守るようにして老後の日々を送っています。

 そして恵那から五十分ほどで終点の明智駅に到着。ホーム脇に並ぶ線路を切り替えるための大きなレバーがいい風情です。壁面には、高知でお目にかかって以来ご無沙汰していた「人KENまもる君」とひさしぶりにご対面。レトロな雰囲気の出札口には、白熱電球のしぶい灯りが設置されていました。窓口では、使用済みの乗車券(硬券)を一枚二十円で販売しています。せっかくなので噂の「極楽駅」乗車券を購入しました。

 さてそれでは明智を徘徊することにしましょう。ここ明智町は、三河と飛騨を結ぶ南北街道と、尾張から伊那方面へと通じる中馬街道の交わる宿場町として栄えてきました。明智光秀はここの出身であるという言い伝えもあるそうです。明治末期から大正時代には製糸工場が建ち並び、生糸を買い付けに来る仲買人たちで賑わい、町は殷賑を極めていたそうです。その後近代化に乗り遅れ、活気は失われてしまいましたが、この古い家並みを町おこしとして活かそうと、1984(昭和59)年に町全体をテーマパークとした「大正村」として立村されました。

 本日の二枚です。

by sabasaba13 | 2011-08-07 06:19 | 中部 | Trackback | Comments(0)