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焼津編(10):伊東(17.3)

 それでは伊東へと参りましょう。焼津市観光協会に自転車を返却して、焼津駅から東海道本線に乗って熱海駅へ。伊東線の列車が発車するまですこし時間があるので、コンビニエンス・ストアで珈琲を買って駅前で飲んでいると、小さな機関車が野外展示されていました。
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 後学のために解説文を転記します。
熱海軽便鉄道7機関車
 この機関車は明治40年から大正12年まで、熱海=小田原間の25キロメートルを2時間40分かかって走っていたものです。
 この鉄道は関東大震災により廃止されましたが、その後、各地の鉄道建設工事に活躍したのち神戸市の国鉄鷹取工場内に標本車として展示されていたものを熱海市が払い下げをうけ修復して、ゆかり深い故郷へ貴重な交通記念物としてかえってきたものです。
 なお芥川龍之介の小説「トロッコ」に、人車鉄道から軽便鉄道への転換のための道路改修工事の風景が描かれています。そして湯河原を通過するのですから、幸徳秋水が乗った客車を牽引していたかもしれません。1910(明治43)年、湯河原温泉の天野屋旅館に逗留して『基督抹殺論』を執筆していた秋水は、6月1日、東京の検事に拘引されました。大逆事件については何度か触れてきましたので、よろしければご一読ください。

 そして伊東線に乗って伊東駅に到着。以前に触れましたように、猪戸町のあたりが赤線跡でその名残りの物件がかなり残っているとのことです。駅前の観光案内所で地図をもらい、そうした建物がどのあたりにあるかとお訊ねしたところ、心当たりはないとのことでした。致し方ない、地図を頼りに彷徨しましょう。結論から言えば、取り壊しが進んだためか、はたまた私の目が節穴なのか、往時を彷彿とさせる物件はそれほどありませんでした。一つ目は、朽ち果てた鉄製のゲート。二つ目はタイルの貼ってある円柱。これは「一目でわかるよう、赤線の建物は壁や柱にタイルを張れ」という警察からのお達しがあったためだそうです。三つ目は、千鳥破風が取り付けられている三階建てのユニークな建物。ふらふら徘徊していると、夕空を物憂く見上げるに出会えました。

 それでは引き上げることにしましょう。伊東線で熱海駅に戻り、湯河原で途中下車。駅前にある「さかなや道場」で、ご当地B級グルメの担々焼きそばと、しめ鯖をいただいて帰郷しました。
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 本日の六枚です。
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by sabasaba13 | 2017-04-16 06:26 | 中部 | Comments(0)

焼津編(9):焼津(17.3)

 こちらでは、故久保山愛吉氏の家族への手紙、当時の写真や行政文書、新聞記事、実際に使用されたガイガーカウンターなどが展示されていました。目にとまったのが、マグロの売れ行き不振に悩んだ関係者が配布したビラです。後学のために転記します。
あなたにも放射能がある!!

 驚いてはいけません。あなたの身体にも帽子にも靴にも毎日食べているお米にも野菜にも豚肉にも二〇数/分(カウント・パー・ミニュツ)から一〇〇数/分の放射能があります。魚にだけ放射能があるのではありません。温泉も放射能があるから喜ばれているのです。こんな簡単なことを知らないで日本中がお魚におびえています。有害な放射能は一〇、〇〇〇数/分以上の時だけです。一番怖いのは―放射能よりも無智ではないでしょうか。さあ今日からは安心して毎日マグロで、魚で大いに栄養をとつて下さい。
 やれやれ、怖いのは"無智"よりも"嘘"だと思いますけれどね。もっと怖いのは、現在でも、福島原発事故による放射能の影響を過小評価しようとする専門家がおられることです。『DAYS JAPAN』(17.4)に、「専門家」の発言が収録されていたのでいくつか紹介します。(p.38~41)
山下俊一氏 (長崎県立医科大学副学長・福島県放射線健康リスク管理アドバザー)
「放射線の影響は、実はニコニコ笑ってる人には来ません。クヨクヨしている人に来ます」
「福島における健康の影響はない。放射線や放射能を恐れて恐怖症で心配しているということは、復興の大きな妨げになります」

高村昇氏 (長崎大学原爆後障害医療研究所教授・福島県放射線健康リスク管理アドバザー)
「放射能は塵のようなものであり、取り除ける。基準値はあるが洗えばOK」
「(これまでも)この先も、この原子力発電所の事故による健康リスクというのは全く考えられない」

神谷研二氏 (広島大学副学長・福島県放射線健康リスク管理アドバザー)
「人間は、生まれながらにして身体に入った余計なものを外に出そうとする力があるので、身体に入った放射性物質がそのまま身体にとどまることはない」

丹羽太貫氏 (放影研理事長・京都大学名誉教授)
「このレベル(の放射性物質の濃度)で、福島県の人を『被曝者』というとおかしくなる。それをいうなら『日本国民が被曝者』『世界中が被曝者』といわなければならない」

鈴木元氏 (国際医療福祉大学クリニック院長)
「年間5ミリシーベルトの危険を恐れて、子どもたちが外で運動しない、家の中に閉じこもる、野菜も食べないというふうにしていくと、肥満によるリスクが上がってくるわけです」
 うーむ、どう見ても、原子力マフィアの責任を隠蔽し、その権益を守るためには、市民の健康や生命などどうでもいいという姿勢ですね。『DAYS JAPAN』が"専門家"に鍵括弧をつけた理由に得心します。専門家というよりは、ステークホルダーです。専門家あるいは科学者はどうあるべきか、故高木仁三郎氏の言に耳を傾けましょう。『高木仁三郎セレクション』(佐高信・中里英章編 岩波現代文庫)からの引用です。
 しかし、科学者が科学者たりうるのは、本来社会がその時代時代で科学という営みに託した期待に応えようとする努力によってであろう。高度に制度化された研究システムの下ではみえにくくなっているが、社会と科学者の間には本来このような暗黙の契約関係が成り立っているとみるべきだ。としたら、科学者たちは、まず、市民の不安を共有するところから始めるべきだ。(p.261)
 権益のために市民の不安をもみ消そうとする専門家・科学者の方々に、よく噛みしめていただきたい言葉です。

 なお第五福竜丸は1967年に廃船処分となって東京の夢の島に捨てられていたが、粘り強い運動の結果、76年6月同地に都立の第五福竜丸展示館が完成、保存されています。この事件に衝撃を受けたベン・シャーンが描いた連作「ラッキードラゴン・シリーズ」にアーサー・ビナード氏が詩をつけた『ここが家だ』も好著です。この事件をモチーフの一つとした岡本太郎の壁画『明日の神話』も一見の価値あり。また第五福竜丸乗組員の大石又七氏の講演会を聞きに行ったことがあります。よろしければご一読を。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-04-15 06:29 | 中部 | Comments(0)

焼津編(8):焼津(17.3)

 浜通りは、堀川にかかる新川橋のところで終わりますが、ここには「小泉八雲風詠之碑」がありました。朽ち果てた姿で屹立する商店街のゲートに、哀感をもよおします。
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 橋のたもとにあった「松永帆屋」を撮影して二十分ほどペダルをこぐと、焼津文化センターに到着です。まずは「焼津小泉八雲記念館」を見学しましょう。
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 こちらでは、煙管・望遠鏡・コップなど八雲の遺品や、セツ夫人に宛てたカタカナ書きの書簡や作品の原稿などが展示されていました。また彼を紹介する映像を二本見ましたが、なかなか要領よくまとめてあって一見の価値はあります。
 そして隣にある焼津市歴史民俗資料館へ行き、「第五福竜丸コーナー」をじっくりと見学しました。
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 第五福竜丸事件について、スーパーニッポニカ(小学館)から引用します。
 1954年(昭和29)3月1日、南太平洋ビキニ環礁でアメリカが水爆実験を行い、同環礁東方160キロの海上で操業中の日本のマグロ漁船第五福竜丸が「死の灰」を浴びた事件。同船は3月14日静岡県焼津に帰港したが、乗組員23名が「急性放射能症」と診断され、東大病院と国立第一病院に入院、治療を受けた(9月23日には無線長久保山愛吉が死亡)。同船が積んできたマグロからは強い放射能が検出され、5月には日本各地に放射能雨が降り始めた。この事件は国民に強い衝撃を与え、核兵器禁止の世論が急速に盛り上がり、翌55年8月、広島での第1回原水爆禁止世界大会開催へとつながっていく。
 実は、この事件の背後には、アメリカ政府および日本政府の、非人間的かつ悪魔的かつ犯罪的な数々の行為が隠れされています。よろしければ、『放射能を浴びたX年後』の映画評と、『核の海の証言』の書評をご覧ください。
by sabasaba13 | 2017-04-14 06:29 | 中部 | Comments(0)

焼津編(7):浜通り(17.3)

 再び浜通りに戻ると、「小泉八雲滞在の家跡」という記念碑がありました。焼津小泉八雲記念館のHPに、彼が焼津に滞在した経緯や、その様子についての一文があったので引用します。
 小泉八雲とその家族が焼津を最初に訪れたのは1897(明治30)年8月4日のことです。
 水泳が得意だった八雲は、夏休みを海で過ごそうと、家族を連れてよい海岸を探していたのです。
 まず八雲一行は舞阪の海を訪れたのですが、海が遠浅で海水浴には適しているが水泳には適さないと気に入りませんでした。
 その後、海の見える駅で降り、順番に見て行こうということになり、降りた最初の駅が焼津だったのです。焼津の深くて荒い海が気に入った八雲は、海岸通りの魚商人・山口乙吉の家の2階を借り、以後、1899(明治32)年、1900(明治33)年、1901(明治34)年、1902(明治35)年、1904(明治37)年と、亡くなるまでほとんどの夏を焼津で過ごしました。

 八雲が焼津を訪れるようになったのは、焼津の海が気に入ったことのほか、八雲が夏の間滞在していた家の魚商人、山口乙吉との出会いがあったことも大きな理由でありました。純粋で、開けっ広げで、正直者、そんな焼津の気質を象徴するような乙吉を八雲は"神様のような人"と語っていました。
 乙吉は八雲を"先生様"と呼び、八雲は乙吉を"乙吉サーマ"と心から親しく呼んでいました。

 普段はひたすら机に向って物書きに専念していた八雲は、焼津では一緒に来ていた長男・一雄に水泳を教えたり、乙吉たちと散歩に出かけてトンボを捕まえたり、お祭りを眺めて大喜びしたりとのんびりと楽しい一時を過ごしました。作家・小泉八雲ではなく、家族を持つ父親としての小泉八雲が焼津にはいたのです。
 なおこの山口乙吉宅は、現在は明治村に移築・保存されています。そちらには八雲顕彰会会長・北山宏明氏が書かれた「小泉八雲と焼津」という解説がありましたのでこれも引用します。
 焼津滞在中の八雲の服装は(これは私の母が語ってくれたのであるが、印象はあまりいい恰好ではなかったようだ)、木綿でできた縞模様の浴衣に、三尺の兵児帯を締めた、ごくさっぱりした姿であった。ところが帯の締め方が、腰より上の胴廻りに締めていたので、乙吉が腰廻りに締めるよう教えても、「この方が前割れしないから」と直そうとしなかった。散歩の時は、焼津独特の菅笠をかむり、藁草履で、緒には赤い布が巻いてあった。これは散歩好きの八雲のため、足指を傷めないよう乙吉の手製である。八雲は乙吉の心根に感じ、好んで履いて歩いた。散歩するには必ず乙吉が付添い、土地の伝説やら、由来やらを途々歩きながら話して聞かせた。「乙吉だるま」「漂流」「焼津にて」などの作品になっている。
 散歩のお伴には、乙吉の外に小学一年の乙吉の末娘さき(後小泉邸へ女中として行く)や、近所の腕白共が付いて歩いた。片方の目がなく、もう片方の目の大きい、どんぐり目の八雲の風体は決して優しい印象は与えなかったのに、子供達からは妙に慕われて、海水浴には毎日のように一緒に泳いだ。海に入る時は、浜の漁師達と同様、八雲もフリチンで泳いだ。勿論子供達も男女を問わず同様である。当時小学校高学年であった長男一雄さんが、恥かしいといって海に入らなかったところ、ひどく叱られたと思い出に記している。何の虚飾もない焼津の人々の人情が、若い時代から苦労して来た八雲にとっては、此の上ない好もしいものであったようである。
 八雲と焼津の人びととの心温まる交流に頬が緩みます。最近読み終えた『言葉と戦車を見すえて』(ちくま学芸文庫)の中で、加藤周一氏はロベール・ギラン氏から"日本の民衆の中には、幸福に暮らすことの一種のすばらしい技術がある"と言われたそうです。(p.152) 焼津の人びとにはそうした技術が脈々と受け継がれていたのでしょう。なお幸福に暮らす技術が、焼津だけではなく日本の津々浦々に満ちていたことが、名著『逝きし世の面影』(渡辺京二 平凡社ライブラリー)を読むとよくわかります。というよりも、近代化が始まる前は、世界のどこの地域でも人びとはそうした技術を持っていたのではないかと思います。近代とは、他人を蹴落として自分だけが幸福になるべく競い合う時代と定義できるのではないかな。

 なお気がついたら、小泉八雲関連の史跡をけっこう訪れてきますた。ダブリン熊本新宿松江などですが、よろしければご笑覧ください。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2017-04-13 06:26 | 中部 | Comments(0)

焼津編(6):浜通り(17.3)

 くるくる回るレトロな換気扇を屋根に乗せた町屋がありましたが、おそらく燻製関係の作業場でしょうか。近づいてみると正解、「なまり節 天野商店」さんでした。
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 ふと左手からそこはかとなく華やいだ雰囲気が漂ってくるので行ってみると、堀川沿いに満開の桜が何本かありました。河津桜でしょうか。また浜通りに戻ると、「一平」というお店に「焼津の塩鯖」というポスターが貼ってありました。後学のために転記します。
 塩さばの主な用途といえば、なによりも関西地方の押し寿司が有名です。焼津加工の塩さばは、国内産の鯖を選りすぐり伝統の技でとりわけ品質に厳しい関西地区の老舗料理店で高い評価を得ています。
 好きのパラダイスですね、ここ焼津は。
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 その先にあった、あたりを睥睨する仙人のような異形の像は庚申さま。解説板によると、道教の庚申信仰と、神道の猿田彦命信仰が、同じ猿ということで結びついたそうです。よってこれは猿田彦命の像でもあります。作者は下村声峰で、伊豆の長八の弟子であるとのことでした。
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 あるお宅の入口には、溝のついた石柱がありましたが、これは波除け堰です。解説文を転記します。
 昭和60年代までの浜通りは東側が駿河湾に接していたため、暴風雨による荒波が堤防を越えて家々に襲いかかることがしばしばありました。高潮・高波を避けるための波除け堰、東から押し寄せた高潮を海岸や西の堀川に逃がすための小路など、他地区には見られない独特の建築様式と様々な工夫が見られます。この家の入口両側にある溝のついた石柱は堤防を越えた海水の侵入を防ぐ波除け堰の名残りです。写真のように波除け板をはめこんで堰をつくり家に波が流入するのを防ぎました。
 恵みや幸をもたらしてくれるとともに、時には禍をおよぼす海と共存するための智慧なのですね。
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 左に曲がってふたたび堀川に出ると、浜通りの蔵群が対岸に見えます。石蔵・土蔵・レンガ蔵などが点在しています。浜通りに戻ってオーシャンロードに行くと、小泉八雲の逸話が伝わる波除地蔵がありました。解説板を転記します。
 明治初頭漁村城之腰村の磯浜に延々と連なる土堤上南中北の三個所に浪除けの願いを込めて安置された夫々のお地蔵さんも激しい風雪と嵐に耐えた百年近い歳月にいつのまにかこの一体だけとなり、或る時は大浪にさらわれて損傷し詩人小泉八雲によって補修されたとか。
 別に咳止め地蔵とも呼ばれいまだに病気平癒の祈願を果された方々も見られる等数々の語り草に人々に慕われ親しまれて参りましたが、あまりに守り疲れたお姿を見るにつけここに町内一同相計り相協力して初代は小川光心寺に動座し新たに地蔵尊を建立以て先祖の遺風を次代に伝え永劫変らぬ御守護を祈念致します。

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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-04-12 06:34 | 中部 | Comments(0)

焼津編(5):浜通り(17.3)

 それでは自転車にまたがって、浜通りを徘徊しますか。観光案内所でいただいたパンフレットから転記します。
 「浜通り」は駿河湾沿岸に沿って南北に伸びるほぼまっすぐな街道と、その街道を中心に形成された南北約1.5km、東西約0.6kmの細長い集落を指す名称です。浜通りは、北から北浜通、城之腰、鰯ケ島の3地区に分かれています。集落内には、江戸時代かに掘られ、かつては運河としても機能した堀川(黒石川)が北へ流れています。
 焼津漁港築港前は浜通りの砂利浜が河岸(湊)で、古くは廻船業でにぎわいました。徳川家康から船足の早い八丁櫓を許されて以降、カツオ漁業が大きく発展したと伝わります。交通の要所でもあり、江戸時代の地誌には、「漁家商家相交りて繁華なる土地なり、焼津湊云々」(『駿河記』)と当時の繁栄ぶりが記されています。
 その後、明治時代の東海道線焼津駅の開業、静岡での全国初の石油発動機付漁船の開発、漁船建造に必要な有力資本が焼津に成立したことなどにより、浜通りを中核として、焼津は遠洋カツオ漁業の先進地になりました。また、漁業の発展に伴って、鰹節に代表される水産加工業も一大飛躍を遂げました。焼津の名が全国に知られるようになったのは、浜通りで焼津漁業を盛り上げた先人たちの努力によるものといえます。
 明治時代の文豪、小泉八雲はこの地を愛し、夏になると浜通りの山口乙吉宅に泊まり、焼津にまつわる作品を残しました。浜通りが「八雲通り」とも呼ばれる由縁です。
 浜通りには沿岸部特有の伝統的家屋や小路、信仰の場所などが今も残っており、焼津の歴史と文化が息づいています。
 小川港魚河岸食堂からペダルをこぐこと数分で浜通りに着きました。まず目に入ったのが「波除堤防モニュメント」で、高波の害から町を守るために、明治30年代から築造された総延長1,320mの石積み防潮堤の一部を模造したものです。
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 すぐ近くには昭和天皇の巡幸記念碑がありました。昭和5年5月30日ということは、そろそろ昭和恐慌が始まった頃ですね。彼はいったいどんな気持ちでこの地に立っていたのでしょうか。それでは浜通りをゆっくりと走りましょう。残念ながら古い建物はほとんど残っていませんが、正面に山を眺められる気持ちの良い路地です。両側に小路がたくさんありますが、高潮の際に、西の堀川へ水を逃がすための工夫だそうです。土地自体も海側から陸側へと傾斜しているとのこと。それぞれ関係した名前が付けられていて、この写真は御休小路です。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-04-11 06:28 | 中部 | Comments(0)

焼津編(4):小川港魚河岸食堂(17.3)

 それでは出発。商店街を走っていると、「紺豊の大漁旗」という看板がありましたがさすがは漁師町。焼津港からオーシャンロードをしばらく南下すると、十五分ほどで小川港に着きました。まことに残念ながら靄でかすんでしまいましたが、漁港から見る富士もなかなかいいものです。これは再訪を期したいですね。
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 そしてすこし戻って、小川港魚河岸食堂に到着。パンフレットに載っていた一文を転記します。
 小川港魚河岸食堂は、日頃魚市場で働いている仲買人さんに利用されている食堂です。もちろん、そうでない一般の方々も大歓迎です。地元魚仲買人組合が直営する食堂だから魚が自慢。まぐろ・かつおのお刺身定食や焼き魚、どんぶり、天ぷら、かき揚げ等、地元に水揚げされる新鮮な素材を使ったメニューをお値打ち価格で沢山ご用意しています。ぜひご賞味ください。
 逸る心を抑えて中に入ると…なんて豊富なメニューなんだ。オーソレミオ! 思わず生唾を飲んだ品を列挙すると、生桜えびしらす定食、まぐろハラモステーキ、まぐろホホ肉焼定食、桜えびかき揚丼、かつおカツ丼、お子様ランチ…えっ…ごしごし…目を疑いましたがさば照焼丼とさば天丼があるではありませんか。フロイデシェーネルゲッテルフンケン! 自他共に認める稀代の好きの小生としては食べないわけにはいきません。
 なお帰宅後にインターネットで調べて分かったのですが、焼津漁港は、焼津港と小川(こがわ)港の二つからなっているのですね。焼津港は全国トップの遠洋漁業(冷凍カツオ・冷凍マグロ)水揚げ地で、小川港は沿岸・沖合漁業(さば・いわし・あじ等の多獲性魚)の水揚げ地です。もう一つの大井川魚港は、駿河湾名物の桜エビやシラスの水揚げ地です。よって小川魚河岸食堂でサバを食べるというのは最良の選択だったのですね。
 ま、それはさておき、さば照焼丼とさば天丼のどちらにしましょうか。ここで瞼の裏にアリアドネの糸の如く山ノ神の面影が浮かび、カロリーを考えて照焼丼を選択しました。でもマグロの刺身も食べたいしなあ、ああどうしよう迷った、ビュリダンの驢馬のような気持ちでした。はた。そうか、両方食べればいいんだ、ゴルディアスの結び目でした。というわけで、さば照焼丼と単品で南まぐろの刺身を食べることにしました。自動販売機で食券二枚を購入して食堂の中に入るとほぼ満席で、観光客や地元の方たちで一杯でした。配膳口に行って食券を渡すと、番号札をくれます。ちらと調理場をのぞくと、(たぶん)地元のおかみさんたちが元気よく働いておられます。地元魚仲買人組合が直営する食堂だし、ここで使ったお金が中央の資本に吸い上げられるのではなく地元に落ちるということですね。味も良くなろうというものです。そして場内放送で番号が呼ばれると配膳口まで取りに行く、つまりセルフサービスです。
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 おお待ちかねたぞ、ちこう寄れ。南マグロの刺身とサバ照焼丼の乱れ食い、舌鼓がエルヴィン・ジョーンズのようなポリリズムを叩き出します。こいつは美味い! ラリホーラリホーラリルレロ! 掛け値なくお薦めのお店です。食器を洗い場へ返して外へ出ると、自動販売機の前には長い長い行列ができていました。さもありなん。なおさきほどインターネットで調べたところ、10月には「さば祭り」が開かれるとのこと、また来ちゃおうかな。

 本日の四枚です。
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by sabasaba13 | 2017-04-10 06:27 | 中部 | Comments(0)

焼津編(3):焼津(17.3)

 東海道本線の列車に乗り、三十分ほどで焼津に到着です。駅構内ではさっそくマグロとカツオの広告が出迎えてくれました。駅前には、小泉八雲の記念碑がありました。
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 後ほど触れますが、彼は焼津の海が気に入って、夏にはよく避暑に来ていたのですね。碑文を転記します。
焼津にて 小泉八雲

 焼津というこの古い漁師町は、日がカッとさすと、妙に中間色のおもしろ味が出てくる町だ。この町が臨んでいる小さな入江、その入江に沿う白茶けた荒磯の色が、まるでトカゲのような色をおびてくるから妙だ。町は、丸いゴロタ石を積み上げた異様な石垣で、荒い海から守られている。この石垣のてっぺんから陸の方を眺めると、小さな町の全景がひと目で見渡される。灰色の瓦屋根の広いひろがり、風雨にさらされて白茶けかえった家並。そのあいだに、ところどころ松の木の茂っているのは、寺のある場所を示している。目を転じて、海の方を眺めると、これはまた紺波碧濤数マイル、いかにも雄大な眺めである。
 はるかかなたの水平線とくっきりと劃っている、峨々たる青い連峰はさながら紫水晶を置いたようで、そのむこうには、左の方に高く、四囲の山々を圧して、富士の麗容が嶄然とそびえ立っている。
 まずは駅前にある焼津市観光協会に寄りました。電動式の自転車を借り、観光地図と資料を所望。また「探しにいこう!浜通り」という、八雲が滞在した山口乙吉宅があった界隈の観光地図もいただきましたが、これはあとで重宝しました。はい、ここで質問が二つあります。一つ目、富士山をよく眺めることができる場所はどこでしょう。すると「YAIZU富士山ビュー」という資料を出して、ディスカバリーパーク焼津屋上からの眺望がよいとのお答えでした。しかし気温が上昇したためか、今では靄がかかってあまりよく見えない模様です。係りの方曰く、小川(こがわ)港から漁船ごしに富士山を眺めるのもおつなもの。よろしい、そちらに行きましょう。二つ目、安くて美味しいマグロが食べられるお店を教えてください。すると彼女は「小川港魚河岸食堂」と即答、なんでも仲買人向けの食堂ですが一般客もOK、メニューが豊富で安くて美味しいそうです。ん? 小川港、渡りに船、一挙両得、一石二鳥、富士山とマグロの両方が堪能できそうです。なおいただいた観光地図には焼津市マスコットキャラクターの「やいちゃん」が載っていました。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-04-09 09:04 | 中部 | Comments(0)

焼津編(2):薩た峠(17.3)

 熱海駅から列車に乗り、さらに西をめざします。三島のあたりから、富士山がくっきりクリアに見えました。ここでふと思いついたのが薩た(「た」は土へんに垂という難字)峠です。JR由比駅から歩いて一時間ほどのところにある、切り立った断崖と海の向こうに富士山を眺望できる格好のビュー・ポイント。以前に訪れたときは、あいにく霞がかかっていて、富士も雪をかぶっていませんでした。今日でしたらおそらく素晴らしい眺めでしょう、よろしい、由比で途中下車をして寄ってみましょう。これからの旅程を考えて、泣いて馬謖を斬る、タクシーを利用することにしました。幸い由比駅前で客待ちをしているタクシーが一台あったので、こちらに乗り込み薩た峠へと連れていってもらいました。余談ですが、もし時間の余裕があれば歩いていくことをお薦めします。以前に訪れた時には歩いたのですが、旧東海道の宿場町の面影を堪能できました。おまけに「あかりの博物館」や、昭和五年につくられたけったいなコンクリート製の掲示板+時計台や、玄関にかけられた蜂の巣や、「殉国の家」のプレートなど、見所満載です。
 十分ほどで薩た峠に到着、タクシーには駐車場で待っていてもらうことにしました。みかんの無人販売を横目に、階段をおりて遊歩道をすこし歩くと展望所に到着です。
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 …絶景。…素晴らしい。…眼福。海越しに、雪を戴く富士山をくっきりと見ることができました。これは英断でしたね、誰も褒めてくれませんが。展望所にあった解説板を転記します。
 この地は、富士山が望める景勝地として昔から知られており、歌川広重は、浮世絵「東海道五十三次」の作品の中で、当時と同じ景色が望める唯一残された場所とも言われています。
 しかし、見事な景色とは裏腹に、急斜面と海に挟まれた地形から道を造ることが困難で、交通の難所として知られていました。
 現在は、日本の大動脈である、国道1号・東名高速道路・JR東海道本線といった重要な交通網が集中しており、大規模な地すべりが発生した場合、東西の重要交通網が寸断されることによって生じる経済被害・人的被害は計り知れないものがあります。このため、平成17年度より国土交通省富士砂防事務所が、地すべり対策事業を行っています。
 タクシーに戻り、由比駅に戻ってもらいました。そうそう、富士山をバックに赤い桜えびを干している風景を写真で見たことがありますが、運転手さんに尋ねると富士川の河口とのことでした。これもいつか訪れてみたいですね。

 そして由比駅に到着。駅前には、名物の桜えびを載せたゲートがあり、富士山の山頂も見ることができます。
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 由比も以前に散策したことがありますが、せがい造りに下り懸魚、旧庚午銀行本店、明治時代の洋風郵便局舎、由井正雪の生家といわれる正雪紺屋、東海道広重美術館と御幸亭、おもしろ宿場館、そして何といっても桜えびと、なかなか楽しめる町です。桜えびには思いっきり後ろ髪を引かれましたが、昼食は焼津でマグロを食べようと固く決意していた関係上、すぐに焼津に移動しました。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-04-08 06:28 | 中部 | Comments(0)

焼津編(1):前口上(17.3)

 先日上梓した富士宮編で、伊東の「猪戸町」および西小学校付近の「新天地」は赤線跡で、往事を偲ばせる建物がたくさん残っているぞなもし、という情報に触れました。詳細は当該の一編を見ていただきたいのですが、掉尾を"本当に再訪を期す"と力拳を握り力瘤をつくってしめました。はい、この前の日曜日に再訪しちゃいました。天気情報によれば午前中は快晴、よろしい、以前から狙っていた焼津と組み合わせましょう。お目当ては、小泉八雲資料館と彼が避暑によく訪れた浜通り(八雲通り)、第五福竜丸展示室のある歴史民俗資料館、そしてマグロです。インターネットで調べると、ディスカバリーパーク屋上から富士山を眺望できるとのことなので、こちらも寄ってみましょう。晴れているうちに焼津を散策し、おそらく曇りとなる午後に伊東を徘徊する計画です。湯河原で「担々焼きそば」というご当地B級グルメを食べて帰郷、また素晴らしき日曜日になるといいなあ。持参した本は『高木仁三郎セレクション』(佐高信・中里英章編 岩波現代文庫)です。

 早起きは三文の得、朝六時に家を出発し、池袋から山手線で品川へ、東海道本線に乗り換えてまずは熱海をめざします。空は雲ひとつない快晴、これは期待できそうです。さっそくコンビニエンス・ストアで買ったサンドウィッチを頬張りながら、読書に勤しみました。
 熱海駅で下車して乗り継ぎとなったので、駅のトイレで用をすませると途中に「大人の休日倶楽部」のポスターを見かけました。吉永小百合氏が一面の桜と遥かなる山なみを眺めながら微笑んでおられます。きれいな所だなあ、どこにあるのだろう? 説明文を転記します。
 東日本最古ともいわれる長野県松本市の弘法山古墳。春には前方後円墳の山全体が約四千本の桜でピンク色に染まります。山頂からの景色は北アルプスをバックに桜が溢れる、まさにこの土地、この時期にしか観られない絶景。人気の観光地もいいですが、せっかく旅するなら「この季節を選んでよかった」と思えるのが一番。旅の目的はきっと桜が教えてくれます。

 弘法山古墳/JR篠ノ井線南松本駅より徒歩約25分または松本駅よりタクシー
 弘法山古墳か、はじめて知りました。桜の季節に訪れてみようかな。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-04-07 06:31 | 中部 | Comments(0)