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伊勢・美濃編(74):明治村(14.9)

 私見では、この「原則」を達成したのが日露戦争後(1905~)でした。しかし日本は、これに代わる「原則」、あるいはより高次の「原則」を見つけることができませんでした。強い軍隊とほどほどの経済力はもてたけれども、それではそれを使って何をするのか? あるいはそれを使って日本をどういう国にするのか? もうそろそろ背伸びはやめて、身の丈に合ったやり方に変えてもいいのではないのか?
 この課題をペンディングとしたまま、「手続き」だけはずるずると保持されていきました。そして第一次世界大戦の勃発(1914)、この戦争は世界のあり方を激減させました。総力戦に勝ち抜くためのより一元的な国家体制の必要、ロシア革命に起因する民主化要求のうねり、そして独立を求める植民地の動きです。しかし日本はこうした変化に応じた新たな「原則」を打ち立てることなく、これまでの「手続き」を場当たり的に補修しながら、船長なきまま(元老はあらかた死んでいます)古い舵で荒海を漂っていきました。もっと強い軍隊を、もっとたくさんの植民地を、よおそろお! 世界恐慌(1929)、満州事変(1931)、日中戦争(1937)、第二次世界大戦(1939)、太平洋戦争(1941)といった状況の中で軍部が強権をふるうようになりますが、権力の分立・多元的構造は変わりません。"日本はどうあるべきなのか/世界はどうあるべきなのか"という「原則」(あるいは「理念」)なく、ファシズム体制(一元的な全体主義)も打ち立てられず、強いリーダーシップもなく、大衆を犠牲にしながら戦い続けました。そこにあるのは、日本の利益でも国民の利益でもなく、己の地位の保全および己の属する組織の利益のみを追求する姿勢だけでした。
 敗戦後、軍事力の強化という目標は廃棄させられましたが、その代替である日米安全保障条約に抱かれながら、"大衆を犠牲にした経済成長"という「手続き」だけがあいもかわらず続けられます。そこには"日本はどうあるべきなのか/世界はどうあるべきなのか"という「原則」「理念」は影も形もありません。先述の対談にあった久野収氏の卓抜な表現を借りれば、「自浄の制度や能力を意に介さずに"向上"的堕落」を、今に至るまで続けています。
 こうしてみると、日本において近代という時代はまだ終わっていないのかもしれません。他国に冷や飯を食わせて陽の当たる場所に出るための経済戦争の時代、大衆を総動員して犠牲にして背伸びをしてひたすら経済を成長させる時代、そういう意味での近代にそろそろ幕を引く時ではないのかな。片山杜秀氏は『未完のファシズム』(新潮選書)の中でこう述べられています。
 この国のいったんの滅亡がわれわれに与える教訓とは何でしょうか。背伸びは慎重に。イチかバチかはもうたくさんだ。身の程をわきまえよう。背伸びがうまく行ったときの喜びよりも、転んだときの痛さや悲しみを想像しよう。そしてそういう想像力がきちんと反映され行動に一貫する国家社会を作ろう。物の裏付け、数字の裏打ちがないのに心で下駄を履かせるのには限度がある。そんな当たり前のことも改めて噛み締めておこう。そういうことかと思います。(p.333)


 本日の一枚、聖ザビエル天主堂です。
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by sabasaba13 | 2016-06-17 06:36 | 中部 | Comments(0)

伊勢・美濃編(73):明治村(14.9)

 そして日本は見事に近代化に成功しました。強力な軍隊とそれを支える工業力、国家と天皇への忠誠心にあふれる国民と、かれらを管制する強権的な中央政府。ブラービ。
 しかしそれに伴う陰の部分にも着目しなければならないでしょう。最大の問題点は、この類稀なる近代化が、かなり無理をした/背伸びしたものであったということです。当時の日本が置かれていた状況(帝国主義時代の真っただ中!)からしてやむを得ないところですが、そこから派生した二つの問題があります。一つ目は、近代化の達成という喫緊の課題を、迅速かつ効率的に進めるために、中央政府が強力な権力を持ったということ。そして状況へプラグマティックに対処するために、伊藤博文を中心とする元老たちが主導権を握ったということです。そのために、政府の権力を支える権威として天皇を利用しました。大衆向けには天皇の絶対的な権力と権威を喧伝しながら(=顕教)、実際には官僚たちが"輔弼・翼賛"というかたちで実権を握る(=密教)。その上で伊藤たちは、ある機関や人物が強権的なリーダーシップをふるえないよう、権力を徹底的に分散化・多元化します。内閣総理大臣、各大臣、衆議院、貴族院、枢密院、陸軍、海軍と権力をまめまめしく分化して、国家を一枚岩にまとめあげる存在が出ないように制度設計をしたのですね。では強力なリーダーシップをふるって国をまとめるのは誰か? そう、自分をはじめとする、幕末・維新の功労者、元老です。動乱の嵐をかいくぐり、シビアな近代世界を体感したリアリスト・元老でなければ、この困難な課題を実現することはできない、という自負があったのでしょう。そのためには、他に強力なリーダーが出ては困る。
 二つ目は、近代化達成のために大衆を資源として酷使するため、あるいは何もわかっていない無知な大衆にガタガタ文句を言わせないために、基本的人権や民主化はできうる限り制限したこと。天皇と国家への忠誠、己の立身出世だけを考え、人権侵害や種々の差別構造や自己決定権には目もくれない人間が"期待される人間像"だったのですね。
 これが近代日本の「国のかたち」でした。先述した鶴見俊輔氏の言葉を借りれば、「原則」は、他国に冷や飯を食わせて陽の当たる場所に出るための近代化=富国強兵の達成。それを無理して/背伸びをして強行するための「手続き」が、天皇の強大な権威、分散化された権力、元老のリーダーシップ、そして民主化と人権の制限です。なお、過去の日本から切り離され、近代化という未来に駆り立てられた大衆の呻吟と焦慮を夏目漱石がみごとな筆致で述べています。奇しくも、彼が住んでいた家が明治村にありました。
 歴史は過去を振り返った時始めて生まれるものである。悲しいかな今のわれらは刻々に押し流されて、瞬時も一緒に低回して、われらが歩んできた道を顧みる暇を有たない。われらの過去は存在せざる過去のごとくに、未来のために蹂躙せられつつある。われらは歴史を有せざる成り上がり者のごとくに、ただ前へ前へ押されて行く。財力、脳力、体力、道徳力、の非常に懸け隔たった国民が、鼻と鼻を突き合わせた時、低い方は急に自己の過去を失ってしまう。過去などはどうでもよい、ただこの高いものと同程度にならなければ、わが現在の存在をも失うに至るべしとの恐ろしさが彼らを真向に圧迫するからである。
 われらはただ二つの眼を有っている。そうしてその二つの眼は二つながら、昼夜ともに前を望んでいる。そうして足の眼に及ばざるを恨みとして、焦慮に焦慮て、汗を流したり呼吸を切らしたりする。恐るべき神経衰弱はペストよりも劇しき病毒を社会に植付けつつある。夜番のために正宗の名刀と南蛮鉄の具足とを買うべく余儀なくせられたる家族は、沢庵の尻尾を噛って日夜齷齪するにもかかわらず、夜番のほうではしきりに刀と具足の不足を訴えている。われらは渾身の気力を挙げて、われらが過去を破壊しつつ、斃れるまで前進するのである。(『漱石文明論集』 岩波文庫 p.232)


 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2016-06-16 06:31 | 中部 | Comments(0)

伊勢・美濃編(72):明治村(14.9)

 そして日本は、この弱肉強食の近代世界に、むりやり放り込まれたわけですね。江戸時代のヴィジョンは、技術力によってアジア依存型経済から自立し、国内市場を活性化し、侵略や植民地化という事態をかぶることのない、世界の中で立ちゆく力をつけることでした。また、野望を縮小することで節度を手に入れ、内戦や暴力をできうる限り防ごうとした時代でもありました。生産性や効率を重視せず、齷齪働かなくても、みんなが貧しいけれどほどほどの暮らしを満喫できる。もちろん手放しで美化するつもりはありませんが、それなりに安定し秩序立った社会であったと思います。住みたいような天国ではないけれど、行きたくない地獄でもない。今の日本もそうですけれどね。
 さて、1853(嘉永6)年のペリー来航以後、世界経済という生き馬の眼を抜くような厳しいピッチにひきずりだされた日本。幕末・維新をリードした下級武士たちは、その状況についてある程度は分かっていたようです。懐手してぼんやりしていれば尻の毛まで抜かれてしまう、この弱肉強食のジャングルで冷飯を喰わされずに生き残るには、どういう制度設計をしてどんな国家にすればよいのか。徳俵に足をかけたままの試行錯誤がはじまります。留学生や岩倉使節団の派遣、お雇い外国人の雇用によってある程度の青写真を得た維新官僚たちは、国際社会の成功者・勝ち組になるべく、西洋の軍事と産業に関する制度・技術・インフラストラクチャーや、それに随伴する西洋的な法・教育・文化・風俗・思想を導入していきました。国家のため/己のために精力的・自発的に働き努力する国民をつくりだすための教育制度も整備されます。そして大衆を指揮・管制し、社会を効率的に動かして生産性を最大限にあげさせるために、強力な司令塔としての中央政府およびその爪牙となる地方行政制度もつくられていきました。明治村に展示されている建造物は、そうした歴史の生き証人なのですね。
 まずは歩兵第六聯隊兵舎、名古屋衛戍病院といった軍事施設。近代社会組織のもっとも完璧なモデルは軍隊組織であると理解していた明治政府は、国民教育の場としても軍隊を重視しました。産業に関する近代化遺産としては鉄道局新橋工場、鉄道寮新橋工場、工部省品川硝子製造所、名鉄岩倉変電所。産業を支える交通インフラとしての品川燈台、菅島燈台附属官舎、六郷川鉄橋、尾西鉄道蒸気機関車1号、隅田川新大橋、通信インフラとしての札幌電話交換局・宇治山田郵便局舎といった物件も興味深く拝見しました。近代産業に欠かせない金融機関では安田銀行会津支店と川崎銀行本店。
 知識や技術を身につけ、より効率的で生産性が高く、かつ利益があがる機械・技術・システムをつくれるエリートを育成するための高等教育施設としての第八高等学校正門、学習院長官舎、第四高等学校物理化学教室、第四高等学校武術道場「無声堂」。こうした高等教育機関には、下の英才をすいあげ、彼らがカウンター・エリートに走るのを防止する社会的煙突の役割を果たしていました。建前とはいえ、"天皇以外であれば、いかなる有力者の位置にものぼりうる"という「一君万民」思想は、近代化を進めるうえできわめて有効だったと思います。分相応の範囲で近代的な機械・技術・システムに習熟し、従順・愚直・真面目に働く大衆を教育するための一般的教育施設が三重県尋常師範学校・蔵持小学校、千早赤阪小学校講堂。
 社会を効率的に管制する行政機関としては、三重県庁舎と東山梨郡役所。それを支える司法・警察に関する建造物、京都七条巡査派出所、金沢監獄正門、東京駅警備巡査派出所、前橋監獄雑居房、金沢監獄中央看守所・監房、宮津裁判所法廷が保存されているのには見識を感じます。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2016-06-14 06:37 | 中部 | Comments(0)

伊勢・美濃編(71):明治村(14.9)

 というわけで、近代化遺産の宝庫、明治村の見学を終えました。ここであらためて、近代とは何なのか、そして日本の近代化とは何なのかについて考えてみるのも悪くないでしょう。

 まず近代とは何か。その起点は、18世紀中頃のイギリスで起こった産業革命(=機械化による大量生産システム)でしょう。その結果、自分たちが必要とする以上の物を作り出し、大量に作った物を売って莫大な利益を得るようになります。ではどうすれば、効率よく良質な商品を大量につくれるのか? これには二つの側面があると思います。
 第一に、個人がエネルギッシュかつ自発的に働き努力すること。個人は一部の選良(エリート)と、大多数の大衆に分けられます。エリートは一所懸命に勉強して知識や技術を身につけ、より効率的で生産性が高く、かつ利益があがる機械・技術・システムをつくる。大衆は、分相応の範囲でそうした機械・技術・システムに習熟し、従順・愚直・真面目に働く。そのエートスを支えるのが、国家への忠誠心と競争原理です。誰の助けも当てにせずに懸命に働き、他人を蹴落とせば富や社会的地位が入るし、それが国威発揚につながる。
 第二に、強力な司令塔としての中央政府がエリートや大衆を指揮・管制し、社会を効率的に動かして生産性を最大限にあげること。そのために、人びとのエネルギーを結集し、教育を通じて国家意識を高揚させること。
 さらに19世紀になると、より多くの原材料を確保し、市場を拡大するために、植民地が必要となります。強力な軍事力を持っていれば、植民地を広げることができるし、恫喝により有利な貿易条件(不平等条約)を獲得できるし、ライバル諸国を屈服させることもできる。また治安を維持するための暴力装置としても有用です。
 というわけで、近代とは生き馬の眼を抜くような厳しい競争の時代です。その結果、少数の成功者と多数の失敗者からなる世界でもあります。要領がよければ、エネルギッシュかつ自発的に働き努力する国民をつくりだし、彼らを管制する中央政府が強権を握り、莫大な利益を生む経済力を手中にし、この三者をもとにした強力な軍隊を持てれば、陽の当る場所を占有できる。それができない要領の悪い国は、植民地にされ、あるいは不平等条約を押しつけられ、舞台の隅っこに蹴りやられて冷飯を喰わされる。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2016-06-13 08:51 | 中部 | Comments(0)

伊勢・美濃編(70):明治村(14.9)

 そうそう、ある部屋に「ポーツマス条約調印のテーブル」がありました。ニューヨーク州トロイ市のレンスシア工科大学に保管されていましたが、奨学資金提供を機縁にここ明治村に寄贈されたとのことです。なおこうした旅行記を書いていると、関連した事物にふれた本によく出会います。これも旅をする喜び、本を読む楽しみの一つなのですが、今回は『思想の折り返し点で』(久野収/鶴見俊輔 岩波現代文庫)でした。以下、引用します。
[鶴見] 司馬遼太郎さんの『このくにのかたち』という、月刊『文藝春秋』の巻頭論文を集めた本の第一冊が出たんですが、私はとても感心しました。司馬さんは現代に対して単純な感情を持っている。先の戦争中に戦車隊の小隊長で(埼玉県)熊谷にいた。アメリカ軍が東京へ上陸してきたらどうなるか、ということを中隊長に聞いた。難民が東京からどんどんこちらにやってくる。戦車が動かない。どうするのかと聞いたら、「難民を踏みにじって東京へ進軍する」と中隊長がいった。その時、司馬さんは「もうダメだ。終わりだ。人民を敵として踏みにじって何を守るのか」と思った。
 この時の国家の指導体制に対する不信の感情。それが45年間ずっと司馬さんのライトモチーフになっている。自分は日露戦争の終わりまでで筆をとどめる。日露戦争の終わりから違う日本になった、という考えですね。
[久野] 日露戦争の勝利で、日本国家は自浄の制度や能力を意に介さずに"向上"的堕落を始めたんです。
[鶴見] 司馬さんはそこまでしかいわない。高度成長以来、似たような図式になっているように私には思えます。私の言葉で言えばどこが似ているかというと、原理原則を考えないで、手続きに埋もれてしまう考え方になっていると思うんです。
 これは、日露戦争後もそうなんで、どうすれば陸軍大学に行って少将、中将、大将になれるかという"手続き"の問題があって、どうすれば日本が負けないですむとか、そういうことは考えない。軍人の任務は、そのことを考えることなのに、そういうことを考えなくなっちゃう。軍人は凶器を持っているわけだから、どうすれば暴れ回らないようにできるかという自己統制の問題も落っこっちゃう。凶器を持っている人間の集団が、いったいどうすれば凶器を使わないですむかというのが軍の原理問題でしょう。そのことがわからなくなってしまうから、二・二六事件が起こっても、これに対しても無統制になっていく。ノモンハンでさんざん負けたにもかかわらず、その負けをひた隠しに隠すことに追われる。全部、「手続き」です。つまり少将が中将になりたい。中将が大将になりたいから、ノモンハンの敗北を国民にかくす。国民は軍の力を信頼して大東亜戦争に入ってゆく。それは「手続き」の問題。
 その状態に、いまは似ている。いまの「手続き」問題は、いい小学校へ入るためにいい幼稚園、いい中学校に入るために私立のいい小学校、いい高校へ入るために私立のいい中学校、そしていい大学へ入るためにいい高校。そこで終わっちゃうわけで、これは全部、「手続き」の問題です。
 どのようにしたら学問をやれるか。弾力性のある人間をつくれるかという「原理」の問題が落ちている。これは「手続き」であって、社会学の言葉でいえば、「原理」ではない「中間原理」なんです。マンハイムのいうプリンシピア・ミーディアということ。中間原理を「原理」に代行させるということですね。どうしたら代議士になれるかとか、それは親の看板を継ぐのが一番いいとか、そういうのはみんな「手続き」なんです。
[久野] あたかもそれがベストで、それしかないかのようにね。
[鶴見] 注意をそこに集中すると、いまの社会の中では成功は得やすい。能率なんですよ。それがおそろしい。能率に心を奪われるというのはそれなんです。だけど、「原理」の問題は能率とちょっと違う。基礎科学みたいなもので、すぐにカネを生まない。売れる自動車。これは「手続き」の問題ですが、それと自動車をつくる「原理」とは違うでしょう。能率を追いかけていくと大体「手続き」になっちゃう。
[久野] 原理と技術の違いです。(p.176~9)
 欧米列強と対等な国になろうという「原則」が達成されたのが日露戦争、その後日本は新たな「原則」を見出せず、能率をひたすら追求する「手続き」に埋没してしまう、ということでしょうか。久野氏が言われた「向上的堕落」という言葉が心に残ります。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2016-06-11 06:50 | 中部 | Comments(0)

伊勢・美濃編(69):明治村(14.9)

 玄関にボランティア・ガイドの女性がいらしたので、移築に関するエピソードなどを伺っていると、この建物の特徴であるスクラッチ・タイル(すだれ煉瓦)は解体時にほとんどが壊れてしまい現在のものはレプリだと教えてくれました。しかしオリジナルのタイルが入口の柱のところに残っているとのこと、さっそく案内していただきました。おおっ、なるほど、レプリカとの違いは一目瞭然。表部分のスクラッチ(引っ掻き)模様が機械によって整然かつ無機的に刻まれたレプリカに対して、オリジナルのものは職人が手仕事で刻んだのでしょう。不揃いで微妙に曲がっていて所々にダマがある、味のある風情です。ガイドさんによると、愛知県常滑市で作られた国産品で、250万個使われたそうです。なるほど、工期と工費が大幅にオーバーしてライトが解雇されたのも納得です。
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 なおインターネットで調べてみると、面白いことがわかりました。ライトの要求した煉瓦をアメリカの会社から取り寄せると莫大な金額になってしまうと、支配人・林愛作を中心とする帝国ホテル重役陣は頭を抱えてしまいました。その重役の中にいたのが村井吉兵衛、そう、岩谷松平と覇を競った煙草王です。京都では彼が作った日本初の洋式工場「村井機械館」を、熱海では彼が建立した「金色夜叉の碑」を見たことがあります。その彼が、京都に建てた別荘・長楽館に同じような黄色い煉瓦が使われているのを思い出し、出所の調査を約束します。数日後、林愛作のもとへ村井吉兵衛より連絡が入り、常滑の久田吉之助が作った煉瓦であると言うことが分かりました。早速、林愛作とフランク・ロイド・ライトは常滑へ向かい、ライトは久田が焼いた煉瓦の色に惹かれた様で、林は常滑に「帝国ホテル煉瓦製作所」を直営で建てる決意をしました。しかし、この久田吉之助は、関係者から「詐欺師」と言われた人物で、一個のスダレ煉瓦も焼かずに死んでしまうのです。久田は小さい頃から放蕩の限りをつくした荒くれ者でしたが、持ち前のエネルギーをプラスに働かせ、地元の地場産業である窯業に取り組み、新しい煉瓦や平瓦の製作に精を出します。その矢先に帝国ホテルの話が舞い込んだのですが、その仕事ぶりに林は呆れ果ててしまいます。嘘をつく、約束を守らない、提供した石炭を勝手に転売してしまう… たまりかねた林は、帝国ホテルクリーニング部主任の牧口銀司郎を常滑に送り込み、技術顧問として有田焼窯元の寺内信一の協力を得て、もう一つの煉瓦工場を開設しました。しかし久田吉之助は夢のような大仕事をとられた腹いせに、牧口の工場を壊すは暴力を振るうは、挙句の果てに警察まで巻き込む大騒動を起こしてしまいます。結局、久田吉之助は夢の大仕事を失い、自身が病気であったことにも気づかず、その年の年末に1個のスダレ煉瓦も焼かないまま病死してしまいました。そして再スタートした帝国ホテル煉瓦製作所は順調に製作し始め、技術指導は地元常滑で土管製造をしていた伊奈初之烝、長三郎親子に引き継がれ、予定より2年遅れで煉瓦を完納します。その後、役目を終えた帝国ホテル煉瓦製作所は伊奈家が居抜きで引き継ぐ形となり、タイル、陶管、テラコッタを製造する会社として伊奈製陶株式会社(現在の株式会社INAX)が設立されました。おしまい。
 スクラッチ・タイルひとつをとっても、これだけのドラマと歴史があるのですね。そして久田吉之助というハチャメチャな人物、ちょっと興味がありますね。記憶の引き出しに入れておきましょう。

 本日の六枚、帝国ホテルの光と影です。
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by sabasaba13 | 2016-06-10 06:41 | 中部 | Comments(0)

伊勢・美濃編(68):明治村(14.9)

 そしてこんな素晴らしい建築を壊して建て替えるという暴挙・愚行を何故したのかと常々思っていたのですが、本書を読んでその理由が分かりました。意匠としては見事なこの建物には、さまざまな欠陥があったのですね。帝国ホテルの敷地には軟らかいヘドロ状の粘土層があり、ライトはこの軟らかい地盤が地震に際してはクッションになると考え、海の上に船を浮かべるように、建物を粘土層に浮かべたのですね。これを「浮き基礎(フローティング・ファンデーション)」と言うそうですが、実際には部分的に沈下したり傾いたりして営業に耐えられないほど老朽化してしまいました。熱源が電気であるため、暖まるのに時間がかかり、火傷をする危険性があり、費用がかさんだこと。また、建物にあわせて家具や備品をデザインしたため、見た目は美しいが、宿泊客にとっては窮屈で余裕がなかったそうです。さらに意外なことに雨漏りがひどかったこと。柔らかく彫刻のしやすいことから、ライトは大谷石を多用したのですが、この石は雨に弱かったのですね。客室係の竹谷年子は著書『客室係がみた帝国ホテルの昭和史』の中でこう語っています。
 こんなことをいうと、あの帝国ホテルが、と驚く方がいらっしゃるかもしれませんが、そのころ、ライト館は雨漏りがひどかったんです。どこからということはなく、雨が漏ってくるんですね。ですから私たちは、雨が降ると、バケツとモップを持って、雨漏りの場所にとんでいったものです。(p.175)
 なお、このライト館の落成披露宴が行われる二分前、1923(大正12)年9月1日午前11時58分に関東大震災が起きました。その揺れに耐えたという「ライト神話」がありますが、基礎部分こそ無事だったものの、柱が折れ壁に亀裂が走るなど無傷でなかったとのことです。記憶にとどめておきたいのは、ライト館が大震災の中で生き残ったのは、帝国ホテルの従業員が身を挺してライト館を火災から守ったからだということです。類焼しそうになる危機が四回ありましたが、そのたびに、従業員が壁や屋根によじ登り、宿泊客も加わったバケツリレーで、降りかかる火の粉を防いだそうです。
 というわけで、手放しで礼賛するわけにはいかないのですが、下記のように考えればいいのかもしれません。
 林七郎は、ライトについて辛辣な言葉を重ねながらも、ライトのことを称して「彼はデザイナーであって、建築家ではない」という言い方をしていた。この言葉は、ある意味で、的を得ている。建築家としての彼を否定するのではない。ライトの才能の本質は、建築の技術的な部分ではなく、その独創的なデザイン性にこそあると思うからだ。(p.190~1)
 日本で見学できるライトの作品は、自由学園明日館山邑邸、いずれも逸品です。なおフランク・ロイド・ライトを描いたマンガ、『ギャラリー・フェイク』(細野不二彦 小学館)第7巻所収の「落水荘異聞」も面白いですよ。

 本日の八枚、神が宿り給う細部です。
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by sabasaba13 | 2016-06-08 06:41 | 中部 | Comments(0)

伊勢・美濃編(67):明治村(14.9)

 そして最大のお目当て、フランク・ロイド・ライトによって設計され1923(大正12)年に完成した帝国ホテル中央玄関に到着です。まずは正面から写真撮影。まるで神殿のような荘厳な佇まいが、池の水面にきれに映しだされています。さまざまな装飾を施した大谷石と透しテラコッタ(立体焼き物)、味のあるスクラッチ・タイル、随所を飾るオブジェ、水平線と垂直線を幾重にも組み合わせた構成、建物というよりはもうアートです。
 それでは中に入りましょう。中央には三階までの広大な吹き抜きがあり、各部屋や施設はこの廻りに展開されています。内部も、大谷石と透しテラコッタとスクラッチ・タイルが縦横無尽・天衣無縫に組み合わされ、装飾性にあふれた空間になっています。奥まで歩いて振り返ると…そこには劇的な光景が。さまざまな箇所から取り入れられた外光が陰影の多い装飾を浮かび上がらせ、光と影の饗宴をくりひろげています。窓枠、照明、家具にもライトの美意識が行き届き、見飽きることがありません。せっかくなので、ティー・ルームで珈琲をいただきましたが、こちらの椅子もライトのデザインですね。
 なおこの建築に関しては、ライトの人生と帝国ホテルとの関わり、帝国ホテルをめぐるさまざまなドラマや確執を綴った『帝国ホテル・ライト館の謎 -天才建築家と日本人たち』(山口由美 集英社新書)という好著があります。その中に次のような一節がありました。
 ライトは建築に関して、哲学めいた言葉をそれこそ山ほど残している。ひとつひとつを取りあげていたら、きりがないのだが、これだけは避けて通れないというのが「有機的建築(オーガニック・アーキテクチャー)」という概念である。
 これは自然界における造形物がすべてそうであるように、それぞれの部分が関わり合いながら、ひとつの完全なものを形づくっているという意味だ。たとえば、ライトはサボテンのことを、どんな建築家もかなわない完璧な造形だと絶賛したが、砂漠にあっては、サボテンのあの造形こそが、その姿でなければ生きられないぎりぎりの姿であり、そういうものこそが「有機的建築」であるという。サボテンに限らず、自然の中にこそ理想的な「有機的建築」は存在するとライトは考えていた。だから、建築は、何よりも自然から学ばなければならないのだ。(中略)
 帝国ホテルのライト館には、外観はもちろん内装にまで、過剰とも思える装飾が施されていた。だが、それは、ほかに絵画だの置物だの余分な装飾品を置かなくても、それだけで完成した建物にするためなのだと、ライトは、後に支配人となる犬丸徹三の著作『ホテルと共に七十年』の中で語っている。皮肉な見方をすれば、予定の工費をはるかに超過していた状況にあって、自分の建築の経済性を主張したエクスキューズと取れなくもないが、それぞれの部分が関わり合って、ひとつの完全なものを形づくっているというのは、確かに「有機的建築」そのものである。
 そう言えば、今回の取材の過程でライトの助手だった遠藤新の次男、建築家でもある遠藤陶に会ったとき、ライト館に関して彼が面白いことを言っていた。
「ライト館では迷うということがないんですよ。たとえば、トイレに行きたいと思ってなんとなく歩いていると、ちゃんとトイレの前に出る。行きたいと思うところに、自然に行けるんです。その点、最近のホテルは、迷っていけません」 (p.29~31)


 本日の九枚です。
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by sabasaba13 | 2016-06-07 06:46 | 中部 | Comments(0)

伊勢・美濃編(66):明治村(14.9)

 川崎銀行本店は、ルネッサンス様式を基調とした本格的銀行建築で、竣工は1927(昭和2)年。設計者の矢部又吉は、ドイツのベルリン工科大学に学び、帰国後多くの銀行建築を設計しましたが、この建物はその代表作です。東京の中心地、日本橋のシンボルとして永く人々に親しまれてきたこの建物は、1986(昭和61)年にビル立て替えのため惜しくも取り壊され、正面左側角の外壁部分が明治村へ移築されました。なお最上階からの眺望はなかなかいいですよ。
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 内閣文庫は、1873(明治6)年に赤坂離宮内に太政官文庫という名で開設された明治政府の中央図書館です。その後内閣文庫と改称され、1971(昭和46)年に国立公文書館が設立されるまで、内外の古文書研究家に広く利用されました。この建物は本格的なルネッサンス様式のデザインで、明治のレンガ・石造建築の教科書的作品です。
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 宮津裁判所法廷は、京都府宮津にあった地方裁判所の刑事法廷棟です。明治初期において、上級審は洋風煉瓦造が多いのに対して、宮津裁判所は和洋折衷で建てられています。内部では、蝋人形によって裁判風景が復元されていました。高い壇上に裁判官と検事、書記が座を占め、弁護士、被告人は下段に置かれていますね。「人民は弱し、官吏と国家は強し」と、肉体に直截的に刻み込むための仕掛けなのでしょう。
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 高田小熊写真館は、昔から豪雪地として知られ、日本のスキー発祥の地である越後高田の街なかに、1908(明治41)年頃に建てられた洋風木造二階建ての写真館です。あっ、ちょっとここで半畳を入れましょう。お気づきのように明治村HPの解説をもとに(というかほとんどコピー)書いておりますが、「日本のスキー発祥の地である越後高田」という一文には留保をつけましょう。おそらくテオドール・フォン・レルヒ少佐のことを念頭においているのだと思いますが、実はそれをさかのぼること七年前、1904(明治37)年に、野辺地の豪商野村治三郎が外国の雑誌でスキーのことを知り、東京の丸善を通じてスキーを試作させ、自らも滑っているのですね。というわけでスキー発祥の地は野辺地です。
 閑話休題。外観は愛らしい瀟洒な洋館で、きっと写真を撮りに来た人たちはわくわくしたでしょう。屋根に大きなガラス窓がありますが、これはやわらかい北からの外光を写場(スタジオ)に取り入れるためですね。階下には応接間、暗室、作業室兼用の居室があり、二階に写場が設けられています。光景を調節するための白黒天幕や、「書割」と呼ばれる背景もありました。
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 菊の世酒蔵は、和風瓦葺の蔵。もともとは穀物蔵として造られたものを、1895(明治28)年に移設されて菊廣瀬酒造の仕込み蔵として利用したそうです。吹き放ちの庇が重厚な雰囲気です。
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by sabasaba13 | 2016-06-05 06:38 | 中部 | Comments(0)

伊勢・美濃編(65):明治村(14.9)

 大明寺聖パウロ教会堂は1873(明治6)年に禁教が解かれた後、1879(明治12)年頃、長崎湾の伊王島に創建された教会堂です。フランス人宣教師ブレル神父の指導のもと、地元伊王島に住んでいた大渡伊勢吉によって建てられました。若い頃、大浦天主堂の建設にも携わった伊勢吉は、当時の知識をこの教会堂に注ぎ込んだのですね。内部こそゴシック様式ですが、外観は普通の農家の姿に過ぎず、いまだキリスト教禁制の影響を色濃く残しています。なお珍しいのは、「ルルドの洞窟」が室内に設けられていることです。1858年、フランス、ピレネー山麓の町ルルドのとある洞窟で聖母マリアが出現するという奇跡が起こり、 それにあやかって世界各地の教会で「ルルドの洞窟」の再現が行われました。通常、「ルルドの洞窟」を設ける時には、教会敷地の一部に岩山を作り、洞窟を掘るのですが、この大明寺教会堂では室内の押入れのような凹みに小さな鳥籠状の竹小舞を編み上げ、岩の様に泥を塗りつけて仕上げてあります。ちなみにこうした明治期の教会を見るのでしたら、五島がお薦めです。
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 なお本を読んでいると、旅をした場所に関連する内容にでくわすことがままあるのですが、今回は『ハンナ・アーレント 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』(矢野久美子 中公新書2257)の中にルルドが登場しました。ユダヤ人である彼女がフランスにあったギュルス収容所から脱走した後、ルルドに立ち寄りますが、そこで偶然に友人のヴァルター・ベンヤミンに再会し、それからの数週間を一緒に過ごしたのですね。1941年10月17日付のゲルショーム・ショーレム宛ての長文の手紙のなかで、アーレントはそのときのことを次のように書いています。
 六月半ばにギュルスから脱出したとき、私も偶然ルルドに行ったのですが、彼がいたので数週間そこにとどまりました。敗戦の直後で、数日後にはもう列車は動いていませんでした。家族や夫や子供や友人がどこにいるのか、誰も分かりませんでした。ベンジ〔ベンヤミン〕と私は朝から晩までチェスをして、新聞があるときには休憩時間に読んだものです。かの有名な引き渡し条項をふくむ休戦協定が公示される瞬間までは、何もかもそこそこうまくいっていました。それ以後はもちろん私たち二人にとって状況は厳しくなってきましたが、ベンジが実際にパニックに陥ったとは言えません。でも、ドイツ人を恐れて逃亡していた捕虜の最初の自殺の知らせが届きます。そしてベンヤミンは私に自殺について口にしはじめたのでした、この抜け道があるじゃないか、と。それにはまだ早い、という私の猛烈な説得にたいして、彼はいつも決まって、そんなことはけっして分からない、けっして手遅れになってはいけない、とくりかえしました。(p.70~1)
 フランスの出国ヴィザを持っていなかったベンヤミン(※彼もユダヤ人)は、非合法にピレネー山脈を越えて亡命しようとします。心臓に持病のあった彼は、時計を見ながら10分歩いては1分休むというペースを守りながら苦痛に耐え、どうにかスペイン側に辿り着くことができました。ところが、そこではすでに無国籍者が国境を通過できないというルールに変わっており、絶望したベンヤミンはその日のうちに大量のモルヒネを飲みました。時は1940年9月27日、享年48歳。(なお最近、暗殺説もあらわれたそうです)
by sabasaba13 | 2016-06-04 07:56 | 中部 | Comments(0)