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伊勢・美濃編(64):明治村(14.9)

 東京駅警備巡査派出所は、丸の内側駅前広場に建てられたもの。駅本屋との調和をはかるため、駅本屋のデザインを十二分に意識した設計がなされています。首府東京の表玄関であった東京駅では、天皇の地方巡幸や外国使節の従来など重要行事が多く、一時は12人もの巡査が詰めていたそうです。
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 金沢監獄中央看守所・監房は、八角形の看守所を中心に五つの監房棟が放射状にならぶ洋式の配置です。なお中央に置かれている看見室は、網走監獄で使用されたものです。
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 名鉄岩倉変電所は、名古屋電気鉄道(現名古屋鉄道)犬山線の変電所として岩倉駅構内に建てられたものです。内部に高価で大きな変電用機械を入れるため、背の高いレンガ造建物になっています。
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 さて、現在の時刻は午後12時半、さすがにお腹がへりました。途中にあった「明治の洋食屋 オムライス&グリル浪漫亭」で昼食をとろうとしたのですが、長蛇の列ができており断念。いたしかたない、眼前にあった「食道楽のコロツケー」という売店で挽肉のコロツケーと五福屋の串かつを食べて飢えをしのぐことにしました。なお前者は、明治時代にベストセラーになった小説「食道楽」で紹介している材料・調理法をもとに再現・アレンジしたもの、後者は知多半田の石川養豚場が誇るこだわりの豚肉「あいぽーく」を串かつにしたものだそうです。むしゃむしゃ。
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 隅田川新大橋は、隅田川に架けられた明治の五大橋(吾妻橋・厩橋・両国橋・新大橋・永代橋)の最後の。曲線を多用したアールヌーボー風の意匠が美しいですね。全長は180mありましたが、その8分の1が移築・保存されました。設計監理には東京市の技術陣が当たりましたが、鉄材は全てアメリカのカーネギー社の製品が使われています。これは、明治の末においても未だ我が国の鉄材の生産量が乏しかったためと考えられます。1923(大正12)年の関東大震災の折には、他の鉄橋が落ちる中で、この新大橋だけが残り、避難の道として多数の人命を救いました。多謝。
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by sabasaba13 | 2016-06-02 06:34 | 中部 | Comments(0)

伊勢・美濃編(63):明治村(14.9)

 おっ『となりのトトロ』に登場する猫バスだ、乗ってみたいですね。大阪池田チキチキ探検隊の「ふくまるちゃん」の顔はめ看板があったので、何者だかよくわかりませんがとりあえず撮影。
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 呉服(くれは)座は、大阪の池田市にあった芝居小屋。ここでは地方巡業の歌舞伎をはじめ、壮士芝居、新派、落語、浪曲、講談、漫才等様々なものが演じられましたが、特に興味を引くのは、尾崎行雄や幸徳秋水らが立憲政治や社会主義の演説会に使っていることで、当時の芝居小屋が大衆の遊び場、社交場であると同時に、マスコミの重要な役割も果たしていたことがうかがわれます。
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 半田東湯は、知多半島の先、三河湾に面する港町亀崎にあったもので、小さな町にふさわしく間口3間のこじんまりとした銭湯です。
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 聖ザビエル天主堂は、フランシスコ・ザビエルを記念して、1890(明治23)年、かつてザビエルがいたことのある京都の地に献堂されたゴシック様式のカトリック教会堂です。中に入ると、落着いた光沢を放つ欅の木造部分や、ステンドグラスの織りなす美しい光が印象的でした。
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 金沢監獄正門は、石の帯状装飾を入れた煉瓦造。中央のアーチ型出入口、左右の二階建ての看視塔が、まるでヨーロッパのお城のような素敵な門です。
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 小那沙美島燈台は、軍事的要衝である広島湾から瀬戸内海への出口、宮島の脇の小さな島である小那沙美島に1904(明治37)年に建造されました。瀬戸内海には大小の島々が浮かぶので、こうした小さな燈台が島ごとに建てられたそうです。
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 天童眼鏡橋は、将棋の駒で有名な山形県の天童につくられた石造アーチ。「多嘉橋」と呼ばれ、地元の山寺石を積んで造られています。
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 前橋監獄雑居房は、「監獄則並図式」(1872)に沿って1888(明治21)年につくられたものですが、江戸時代以来の日本の牢屋の形式をそのまま伝えています。
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by sabasaba13 | 2016-06-01 06:35 | 中部 | Comments(0)

伊勢・美濃編(62):明治村(14.9)

 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が、夏を焼津で過ごすようになり、その時身を寄せていたのが、この魚屋、山口乙吉の家です。解説がったので転記しておきます。
 八雲と焼津
 八雲が焼津へ避暑に行くようになったのは、東京に住んでからである。水泳が好きな八雲は、焼津の深くて荒い海を気に入ったのである。
 東京では寸暇を惜しんで執筆活動をしていた八雲だが、焼津では、長男一雄の勉強をみたり、東京に残る妻節子へ手紙を書いたり、何よりも散歩や水泳を好んだ。そして、滞在する山口家の当主山口乙吉をはじめとする焼津の人々に魅力を感じて、焼津を一層気に入り、毎年のように通ったのである。
 八雲には、焼津を舞台とした「乙吉の達磨」「焼津にて」「漂流」などの作品がある。

 小泉八雲と焼津
 焼津滞在中の八雲の服装は(これは私の母が語ってくれたのであるが、印象はあまりいい恰好ではなかったようだ)、木綿でできた縞模様の浴衣に、三尺の兵児帯を締めた、ごくさっぱりした姿であった。ところが帯の締め方が、腰より上の胴廻りに締めていたので、乙吉が腰廻りに締めるよう教えても、「この方が前割れしないから」と直そうとしなかった。散歩の時は、焼津独特の菅笠をかむり、藁草履で、緒には赤い布が巻いてあった。これは散歩好きの八雲のため、足指を傷めないよう乙吉の手製である。八雲は乙吉の心根に感じ、好んで履いて歩いた。散歩するには必ず乙吉が付添い、土地の伝説やら、由来やらを途々歩きながら話して聞かせた。「乙吉だるま」「漂流」「焼津にて」などの作品になっている。
 散歩のお伴には、乙吉の外に小学一年の乙吉の末娘さき(後小泉邸へ女中として行く)や、近所の腕白共が付いて歩いた。片方の目がなく、もう片方の目の大きい、どんぐり目の八雲の風体は決して優しい印象は与えなかったのに、子供達からは妙に慕われて、海水浴には毎日のように一緒に泳いだ。海に入る時は、浜の漁師達と同様、八雲もフリチンで泳いだ。勿論子供達も男女を問わず同様である。当時小学校高学年であった長男一雄さんが、恥かしいといって海に入らなかったところ、ひどく叱られたと思い出に記している。何の虚飾もない焼津の人々の人情が、若い時代から苦労して来た八雲にとっては、此の上ない好もしいものであったようである。
八雲顕彰会会長 北山宏明
 すごくいい話ですね。彼と焼津の人々の交流が目に浮かぶようです。彼に関する史跡も、けっこうまわってきました。ダブリン熊本新宿松江などなど。なお山ノ神が言うには、『日本の面影』(角川文庫)がすごく面白いそうです。今度読んでみようかな。
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by sabasaba13 | 2016-05-30 08:49 | 中部 | Comments(0)

伊勢・美濃編(61):明治村(14.9)

 そしてこちらも再会を待ち望んでいた物件、「喜之床」です。東京本郷にあった新井家経営の理髪店で、二階二間は、石川啄木が函館の友宮崎郁雨に預けていた母かつ、妻節子、長女京子を迎えて1909(明治42)年6月16日から東京ではじめて家族生活をした新居です。啄木はここで文学生活をしながら京橋滝山町の東京朝日新聞社校正部に勤めていました。そして翌年の12月に出版したのが処女歌集「一握の砂」であり、また啄木の思想にも影響した大逆事件が起きた年でもあります。その頃から母も妻も啄木も結核性の病気になり、二階の上り下りも苦しくなって、1911(明治44)年8月7日小石川久堅町の小さな平家建の家に移りました。翌年3月7日にはそこで母かつが死に、4月13日には啄木もまた母の後を追うように27歳の薄倖の生涯を閉じました。合掌。
 石川啄木は大好きな歌人であり思想家です。彼が『時代閉塞の現状』(1910)で述べた「我々青年を囲繞する空気は、今やもう少しも流動しなくなつた。強権の勢力は普く国内に行亘つてゐる。現代社会組織は其隅々まで発達してゐる。-さうして其発達が最早完成に近い程度まで進んでゐる事は、其制度の有する欠陥の日一日明白になつている事によつて知る事が出来る」という一節を、まるで百年以上も前の状況とは思えない昨今、あらためて読み返したい作家です。啄木関連の史跡はこれまでも、渋民村十和田湖盛岡函館札幌小樽旭川釧路本郷上野駅を訪れてきましたが、これからも追いかけ続けていきたいと思います。なお啄木がつくった、食べものをからめた歌が紹介されていました。
それとなく故郷のことなど
語り出でて
秋の夜に焼く餅の香かな

新しきサラドの皿の
酢のかをり
心にしみてかなしきゆふべ

ひとしきり静かになれる
ゆうぐれの
厨にのこるハムのにほひかな

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by sabasaba13 | 2016-05-29 09:03 | 中部 | Comments(0)

伊勢・美濃編(60):明治村(14.9)

 尾西鉄道蒸気機関車1号は、尾西鉄道が開業するにあたり、アメリカのブルックス社から購入した機関車です。
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 六郷川鉄橋は、新橋‐横浜間の鉄道を複線化するにあたり、日本ではじめてつくられた鉄橋です。なお日本に現存する鉄造人道橋の最古のものは、東京にある弾生橋です。
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 鉄道寮新橋工場は、新橋ステンショ(停車場)に併設された機関車修復所です。鋳鉄柱をはじめ外壁の鉄板、サッシ等、全ての材料をイギリスから輸入し、イギリス人技術者の指導の下に建設された鉄造プレハブ建築物です。なお、広い工場の内部は明治の機械類の展示場(機械館)として活用されており、日本の産業革命を支えたリング精紡機などが展示されていました。
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 その近くに野外展示されていたのが明治の水道管、1911(明治44)年に釜石鉄工所でつくられたものです。
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 工部省品川硝子製造所は、工部省がガラス製造のためにつくった工場です。工部省は、日本に近代工業を早急に根付かせるため、設備、技術者など必要なもの一切を導入する方針をとり、多数のお雇い外人が来日指導に当たりました。この硝子製造所でも、イギリスのガラス工ウォルトン、スピートなどが指導に当たり、フリントガラスの製造設備をもって、食器など日用ガラス器の製作をしました。なお1885(明治18)年にこの工場は民間に払い下げになり、明治末に三共合資会社製薬場となって、有名な高峰譲吉や鈴木梅太郎の創製により薬品も製造されたそうです。
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 そして私の大好きな宇治山田郵便局との再会です。正面中央のドーム屋根、その両脇に屹立する角塔、ハーフティンバー様式の外装、漆喰塗と下見板張の壁、なんとも魅力的な物件です。入口を入ると円形の「公衆溜」と呼ばれたホールがあり、その周囲にはカウンターが廻らされています。天井の高窓から光が入り、たいへん明るいホールとなっています。
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by sabasaba13 | 2016-05-20 07:03 | 中部 | Comments(0)

伊勢・美濃編(59):明治村(14.9)

 シアトル日系福音教会は、もともとアメリカ人の住まいでしたが、その後日系移民の住居となり、第二次大戦後には日系一世が礼拝や移住当時の苦難を語り合う福音教会として使われました。そういえば家具職人のジョージ・ナカシマは、シアトル出身の日系二世でしたっけ。彼もここを訪れたことがあるのかな。
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 次はブラジル移民住宅。1908(明治41)年の日米紳士協約により、アメリカへの新規移民が大きな制約を受けるようになると、代わって南米への移民が開始され、同年には781名の日本人が契約労働者として笠戸丸ではじめてブラジルへと渡航、サンパウロ周辺でコーヒー栽培に従事しました。その後、ブラジルへの移民は年々増加し、昭和初年の最盛期にはその数は年間二万数千人にも及びましだ。この建物は、ある日本人移民が、慣れないコーヒー栽培に苦闘を重ねながら、密林を拓いて造った家の一つです。
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 ハワイ移民集会所は、ハワイ島の町ヒロのワイルック川のほとりに、日本人牧師岡部次郎氏によって日本人のために建てられた教会でした。その後教会の役目を終えると、周辺の日本人の集会所となり、さらにヒロの英字新聞社の倉庫として使われました。床が高いのは、未だ開発の進まない土地で治水も不完全で、出水や湿気の心配があったと考えられます。入口に取り付けられた太鼓橋もそのためでしょう。
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 建物左手の鐘は「ペペケオ耕地の鐘」といい、移民たちは毎朝4時半にこの鐘で起床し、朝6時の開始の鐘から昼の30分の休憩をはさみ夕方4時半の終了の鐘まで10時間の肉体労働に従事した辛い記憶の鐘です。
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 なおハワイ移民は明治元年、新政府に無許可のまま在日ハワイ総領事ヴァン・リードによって送り出された「元年者」にはじまります。彼らは労働者不足の砂糖工業に就いたが、炎天下での長時間の作業のため苦労を重ねました。明治4年日布修好条約締結、明治14年ハワイ王朝カラカウア王来日などさらに移民交渉が進められ、明治18年からは26回にわたり官約移民が送られました。しかし不遇のなか契約期間の3年を迎えても貯蓄ができず残留するものがほとんどでした。

 以上三軒、日本人移民の歴史を語る、物言わぬ貴重な証言者です。こうした物件まで保存してあるのが明治村の懐の深さ、その見識に敬意を表します。
by sabasaba13 | 2016-05-19 06:35 | 中部 | Comments(0)

伊勢・美濃編(58):明治村(14.9)

 歩兵第六聯隊兵舎は、名古屋に置かれたものです。明治政府は軍隊に関してはフランスに教えを受けたので、こうした軍用建造物も、フランスの建築書を基に造られました。
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 なおこの後、政府はドイツを手本とするようになりますが、最近読み終えた『未完のファシズム 「持たざる国」日本の運命』(片山杜秀 新潮選書)に興味深い記述があったので紹介します。
 明治維新によって誕生した日本陸軍は、旧幕府陸軍が万事フランス式に訓練されていた電燈を継承し、かの国を模範とします。当時のフランス陸軍も防御一辺倒。したがって創成期の日本陸軍も攻めより守りを重視したのです。よく防ぐ側が勝つ。それが明治初期の日本陸軍の中心的哲学でした。
 ところが、この1860年代的常識を1870(明治3)年から翌71年にかけての普仏戦争が揺り動かします。防戦を旨とするフランス陸軍に、旧式とも言える正面突破を第一義に掲げて吶喊攻撃をくりかえすプロイセン陸軍が勝ってしまった。フランス陸軍も攻撃の意義を見直しはじめ、新教義が日本にも伝来します。防御より攻撃が重要なら、後追いのフランスよりも本家のドイツに習った方が手っ取り早いだろう。普仏戦争以来、ドイツ贔屓となっていった山県有朋、大山巌、桂太郎、川上操六らによって、1880年代のうちに陸軍の準拠国はフランスからドイツに切り替わってゆき、1890年頃には軍楽隊教育などの限られた領分を除いてフランス色はついに一掃されます。よく攻める側が勝つ。哲学は改まったのです。(p.112)
 へえーなるほど、普仏戦争が転機となって日本の戦争哲学が変わったんだ。この後、第一次世界大戦を経てさらにどのように変化をし、それが十五年戦争という結果にいたるか、たいへん鋭い分析がなされている好著です。お薦め。

 本格的な洋式大病院の建設は軍隊によって行われ、名古屋衛戍病院はその初期例です。造りは質素ですが、清潔感にあふれたいかにも病院という雰囲気です。
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by sabasaba13 | 2016-05-18 06:54 | 中部 | Comments(0)

伊勢・美濃編(57):明治村(14.9)

 宗教大学車寄は、バロック風の大屋根を頂く壮大な本館が解体されるのを惜しみ、その俤を残すこの車寄部分を移築したそうです。
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 「無声堂」は、金沢にあった第四高等学校の武術道場です。古来、武士のたしなみとして剣術、柔術、水術等様々な武道が伝えられてきましたが、明治初年の新しい学校体育では体操が中心で、武道はとりあげられませんでした。1882(明治15)年に嘉納治五郎が柔道を創始して古武道の改革をはかりますが、これが下地となって、日清戦争後、15歳以上の強壮者に対し武道を正課外で習わせることが認められました。明治後期になると、国内全般に尚武的気風が高まり、それまで欧米式体育に対する反省もあって、学校体育に武道が加えられるようになったそうです。この「無声堂」は、柔道、剣道、弓道三つの道場を兼ね備えた大きな洋風建築物です。柔道場では床の弾力を増すため床下にスプリングを入れ、剣道場では音の反響を良くするため床下に共鳴用の溝を掘ってあります。
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 次は、日本赤十字社中央病院病棟。西南戦争の際に、敵味方の区別なく傷病兵の救護に当たった博愛社が、1886(明治19)年のジュネーブ条約に加盟によって、日本赤十字社と改名。その際に皇室から渋谷の御料地の一部と建設資金10万円が下賜され、この病院が建設されました。設計は、赤坂離宮と同じ片山東熊です。防湿・採光・換気のための大きなガラス窓が印象的ですね。患者の気鬱をはらすためでしょうか、棟上の換気塔など遊び心にあふれた意匠です。
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by sabasaba13 | 2016-05-17 06:55 | 中部 | Comments(0)

伊勢・美濃編(56):明治村(14.9)

 亦楽(えきらく)庵は、京都の医家、漢学者であった福井恒斎が、1877(明治10)年頃に裏千家の茶室「又隠(ゆういん)」を模して自宅の庭に建てたものと伝えられています。そういえば、笠間にある北大路魯山人の山荘「春風萬里荘」にも、又隠を模した茶室「春風庵」がありましたっけ。茶人の憧れの的なのかな。
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 品川燈台は現存最古の洋式燈台です。1858(安政5)年に欧米の列強5ヶ国と結ばれた通商条約に従って各地に港が開かれましたが、その後に結ばれた改税約書で、外国船のために燈台や航路標識を設けることが取り決められました。江戸幕府ついで明治政府は燈台建設のための技術援助をフランス、イギリスに依頼、東京湾沿岸の観音崎野島崎、城ヶ島、品川の4つの洋式燈台がヴェルニーを首長とするフランス人技術者の手によって建設されました。レンズや金属部はフランスから輸入したため、風見の"西"はW(WEST)ではなくO(OUEST)になっています。
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 彼の後、灯台建設はイギリス人のブラントンに引き継がれ、彼が建てた菅島燈台の附属官舎が移築保存されています。そうそう、先日訪れたあの菅島です。明治初期の洋式燈台では、燈火の管理も外国人によって行われたため、付属の官舎も煉瓦造の洋式住宅が建てられています。正面にベランダを配置してあるのはコロニアル風ですね。
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 霧砲は、濃霧時には灯台の光が届きにくいため、火薬を爆発させ大きな音で船舶に陸地があることを知らせた大砲です。音達距離は2~3海里しかなく操作も不便だったそうです。
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 台場鼻潮流信号機は、潮流が急な関門海峡で、潮流の方向や速さを予測し船舶に伝えるために、竹子島に設置されたものです。
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 長崎居留地二十五番館は、明治期日本の造船業の発展に寄与したスコットランド出身のコルダーの住宅です。三方にベランダを廻らし、各室に暖炉を設けるなど典型的な居留地建築です。
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 神戸山手西洋人住居は、長崎居留地二十五番館と同じ頃の外人住居であるが、雰囲気にはかなり違います。平家建でゆったりとした長崎二十五番館が明治初期の植民地住宅的な雰囲気を残すのに対し、この神戸の建物はより本格的な西洋館になっています。これは、当時神戸が横浜と並んで貿易港として発展をみせており、建物にも洗練されたものが求められたためと考えられます。この住宅では、敷地が狭いという悪条件の中で建物をより良く見せるため、工夫がこらされています。ベランダの柱を整然とは建てず、場所によって二本、三本と並べ、その間隔もまちまちにすることにより、建物に変化を持たせ実際以上に大きく見せています。
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by sabasaba13 | 2016-05-16 07:38 | 中部 | Comments(0)

伊勢・美濃編(55):明治村(14.9)

 坐漁荘は、最後の元老・西園寺公望が政治の第一線から退いた後、1920(大正9)年に興津の海岸に建てた別邸です。「坐漁荘」の名には"なにもせず、のんびり坐って魚をとって過ごす"という意味がこめられていたが、実際には事あるごとに政治家の訪問を受けざるを得ませんでした。いわゆる"興津詣で"ですね。日本近代史における重要人物ですので、岩波日本史辞典より引用します。
西園寺公望(1849‐1940)、公家出身の政治家。最後の元老。京都生れ。徳大寺公純次男で、西園寺家養子となる。戊辰戦争では会津を攻略。木戸孝允らと交流を深め、邸内に家塾立命館を創設。フランス留学中、パリ・コミューン事件に遭遇、帰国後、中江兆民らと「東洋自由新聞」を創刊。のち文相、枢密院議長を歴任し、伊藤博文の後継者として立憲政友会総裁となる。1906年、第1次西園寺内閣を組織、鉄道国有化など日露戦争後の政情に対応。桂太郎と交互に組閣し、桂園時代とよばれたが、第2次内閣で2個師団増設問題が起り陸軍と対立して退陣、元老となる。19年、パリ講和会議全権を務め、牧野伸顕とともに対米英協調路線をとり、近衛文麿ら革新貴族と見解を異にした。昭和天皇の摂政時代から後継首相の奏薦にあたり、ロンドン軍縮問題後は米英との乖離を危惧、牧野内大臣や一木喜徳郎宮内大臣らとともに軍部や右翼の冒険主義に対抗。しかし満州事変や5.15事件など,相次ぐ謀略やテロにより政党内閣の慣行を維持しえず、高齢を理由に任を辞した。陶庵と号し、興津坐漁荘に引退。
 彼の事跡についてコメントをする力量はとてもありませんが、肝心なところで軍国主義・ファシズムへの動きを抑えられず、その背景には天皇に累が及ばぬようにするという配慮があったのではないかと思っています。徳富蘇峰が彼を評して「彼には三つの"in"がある。intelligence(聡明)、indolence(無精)、indifference(無頓着)」と言ったそうですか、むべなるかな。辞世の言葉は「いったいどこへ国をもってゆくのや」、近衛文麿を首相として推挙したことを最後まで悔やんでいたようです。なおもともとあった興津にこの坐漁荘が復元されたので、興味のある方はぜひ訪れてみてください。
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by sabasaba13 | 2016-05-15 07:07 | 中部 | Comments(0)