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伊勢・美濃編(54):明治村(14.9)

 芝川又右衛門邸は、西宮に大阪の商人芝川又右衛門の別荘として建てられたものです。設計者は武田五一、ヨーロッパに留学した彼は、芝川又右衛門より「洋館」の依頼を受け、ヨーロッパのグラスゴー派やウィーンのゼツェッションと数寄屋など日本建築の伝統とを融合したこの洋館を建てたとのことです。彼の作品とは、京都府立図書館と、熊本大学医学部山崎記念館で出会ったことがあります。
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 蝸牛庵は、幸田露伴が1897(明治30)年からの約10年間を過ごした家です。彼は、やどかりのように幾度となく住まいを変えているので、自分の家を「かたつむりの家(蝸牛庵)」と呼んでいました。なお次女の文はこの家で生まれたそうです。町屋と異なり、まわりの広い庭に自由に延び拡がった建物で、廊下を軸に玄関、和室、付書院のある座敷が千鳥に配されています。露伴に関する史跡では、東京善光寺坂の旧宅跡と、小説『五重塔』の題材となった天王寺五重塔跡を訪れたことがあります。
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by sabasaba13 | 2016-05-14 06:42 | 中部 | Comments(0)

伊勢・美濃編(53):明治村(14.9)

 八角尖塔が印象的なこの建物は、日本の細菌学の先駆者北里柴三郎が1915(大正4)年に芝白金三光町に建てた研究所の本館です。東大で医学を修めた北里柴三郎はドイツに留学、コッホのもとで、細菌学を研究し、破傷風菌の培養、破傷風の血清療法によって学界に認められました。帰国した翌年、1892(明治25)年に福沢諭吉の後援を得て日本初の伝染病研究所を設立、1914(大正3)年同研究所が東大に移管されると野に下り、辞表を提出した多くの所員と共にこの北里研究所を創立しました。いわゆる「伝研騒動」ですね。彼については、『栄光なき天才たち4』(作・伊藤智義 画・森田信吾 集英社文庫)というたいへん面白いマンガがあります。彼が師である緒方正規の学説を誤りであると指摘したため、帝大医科が猛反発したのですね。以後、帝大医科の重鎮、青山胤道による北里への執拗な嫌がらせが行われました。マンガの中にあった彼の科白です。
 わしは…ドイツで学問する事の素晴らしさを感じとって来たつもりだ… だが戻ってみた日本のありさまはどうだ!? ただただ西欧知識へ追従するのみで科学するという事を知らん! 同じ日本人の能力が信じられずくだらん勢力争いにうつつをぬかすこのありさま。疫病に苦しむ患者を横目に陣取り合戦か!? 泥試合だ! こんなのは…全く泥試合だ!! 知識の風を受けて志高く舞い上がるのが科学者ではなかったのか!? (p.81~2)
 そうそう、文部官僚の某がこんなことを言ったそうです。
 たとえ、孔子様であれ、孟子様であれ、帝国大学を出ていなければ教授にすることはできません。
 北里自身が学んだドイツの研究所に倣い、ドイツバロック風を基調に新時代の様式を加味した建物で、車寄上部には彼が発見した「破傷風菌」と平和のシンボル月桂樹をあしらった紋章が取り付けられています。これは現在も北里学園の校章とされているそうです。
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by sabasaba13 | 2016-05-13 06:37 | 中部 | Comments(0)

伊勢・美濃編(52):明治村(14.9)

 東松家住宅は名古屋の中心部堀川沿いにあった商家で、油屋・貯蓄銀行を営んでいました。三階建ての塗屋造というのが珍しいですね。江戸時代にはいかに富裕でも武家以外のものが三階建ての建物を造ることは許されず、1867(慶応3)年に なってはじめてこの禁令が解かれました。しかし、1919(大正8)年に市街地建築物法により木造高層住宅が禁止されたので、三階建て以上の木造住宅はわずか50年ほどの間しか造られませんでした。貴重な作例ですね。
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 京都中井酒造は、1864(元治元)年に起きた蛤御門の変で焼失した後に再建されたもの。狭い間口に比べ奥に長い町屋造りで、屋根に緩いカーブを持たせた「起(むく)り屋根」や虫篭窓(むしこまど)がチャーミングです。なお一階正面の目の粗い格子は酒屋格子といって、内側に薄い格子板が添わされていて左右にずらすだけで遮蔽ができるようになっているそうです。
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 安田銀行会津支店は重厚な土蔵造で、お金を守ってくれるという雰囲気を醸し出しています。側面のなまこ壁がいい味です。また入口の柱や石積の腰壁など、洋風テイストももりこまれています。
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 札幌電話交換局は、高価な交換機を火災から守るための石造りです。胴蛇腹に連続して並ぶ円形花紋や、一階と二階の窓の意匠を変えるなど、外観が単調にならぬよう考えられています。
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 京都市電は、1895(明治28)年に開業した日本初の市電。琵琶湖からひかれる疏水の有効的な利用法として日本最初の水力発電がはじまり、その電力を利用したものですね。
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 京都七条巡査派出所は京都駅の近く、西本願寺・龍谷大学の入口角に建てられたもの。木造の建物ですが、当時流行していたレンガ造洋風建築に似せて化粧レンガを張りあげています。ハイカラな雰囲気で、当時は多くの人目をひいたでしょうね。
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by sabasaba13 | 2016-05-12 06:37 | 中部 | Comments(0)

伊勢・美濃編(51):明治村(14.9)

 三重県庁舎は、間口が54mに及ぶ巨躯で、玄関を軸に左右対称になっており、正面側には二層のベランダが廻されています。竣工は1879(明治12)年、中央政府から任命された県令たちは先を争うようにこうした洋風の新庁舎を建設したそうです。ちなみにこうした様式は当時の官庁建築に典型的なもので、地方行政を仕切っていた内務省庁舎にならったものとのことです。
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 二重橋飾電燈は、1888(明治21)年に設置されたドイツ製ネオ・バロック様式の電燈です。ちなみにエジソンが石清水八幡の竹のフィラメントを使って白熱燈の実用化に成功したのが1879(明治12)年、日本でもいち早く開発・研究に着手され、1887年には東京電燈会社による送電が始められました。当時は、その需要に応じて近くに発電所を設置し、送電していたのですね。
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 鉄道局新橋工場は1889(明治22)年に建てられたもので、国産鉄道建築物の初期例です。中には明治天皇・昭憲皇太后の御料車が展示してありました。
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 千早赤阪小学校講堂は、一階が雨天体操場、二階が講堂となっています。明治中頃から学校教育の中で体操が重視されはじめ、明治後期には体育教育が盛んに行われるようになりました。その際に体操の内容も亜鈴式からスウェーデン式へと変わり、広い体操場が求められるようになったため、こうした建物が各地につくられるようになりました。なお二階には奉安殿があるのですが、建築法規の関係で公開されていません。無念。
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 第四高等学校物理化学教室は金沢にあったもの。近代化を進める明治政府は自然科学を重視し、このような実験ができる教卓を備えた階段教室をつくらせたのですね。なお山田洋次監督の映画『母と暮せば』の冒頭で、長崎医科大学学生である主人公・浩二が被爆死した時に講義を聞いていたシーンはここで撮影されたそうです。明治村の生みの親、谷口吉郎のレリーフもありました。
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 東山梨郡役所の竣工は1885(明治18)年、正面側にベランダを廻らせ、中央棟と左右翼屋で構成する形式は、先の三重県庁舎と同様、当時の官庁建築の特徴です。なお当時の山梨県令藤村紫朗は大変開明的な人物で、地元に多くの洋風建築を建てさせており、それら「藤村式」と呼ばれています。山梨県を漫歩していると、けっこう出会えます。私も、旧睦沢小学校旧舂米(つきよね)学校旧津金学校などを見たことがあります。
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 清水医院は、中山道木曽の須原に生まれた清水半治郎が東京で医学を学んで帰郷し建てた病院。土蔵造りにアーチ型の入口や窓を組み合わせたユニークな建物です。なおこの清水医院には島崎藤村の姉園子も入院しており、彼女をモデルにした藤村の小説「ある女の生涯」では、須原の蜂谷医院とされて当時の様子が記されているそうです。
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by sabasaba13 | 2016-05-11 06:40 | 中部 | Comments(0)

伊勢・美濃編(50):明治村(14.9)

 東京盲学校車寄は、アールヌーボー風の装飾が施されたハーフティンバー(※柱・筋違いを表にあらわした構法)の洒落た物件です。本館も同様の意匠だったのですが、取壊しに際して車寄だけを移築し四阿として利用しているそうです。
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 次は何の変哲もないありふれた日本家屋ですが、これぞ森鴎外・夏目漱石住宅です。1887(明治20)年頃、医学士中島襄吉の新居として建てられましたが、空家のままであったのを、明治23年森鴎外が借家、一年余りを過ごしました。この家で「文づかひ」等の小説を執筆したそうです。そして1903(明治36)年から1906年までは夏目漱石が借りて住んでいました。漱石は、ここで『吾輩は猫である』を発表、文壇にその名を高めました。文中に描写された猫のためのくぐり戸もちゃんとありました。
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 この小説は時々無性に読み返したくなります。「少し人間より強いものが出て来ていじめてやらなくてはこの先どこまで増長するか分からない」「理はこっちにあるが権力は向うにあるという場合に、理を曲げて一も二もなく屈従するか、または権力の目を掠めて我理を貫くかといえば、吾輩は無論後者を択ぶのである」といった辛辣なる批判精神には脱帽です。なお詩人・川崎洋が『悪態採録控』(ちくま文庫)の中で紹介していますが、漱石の悪態もなかなか魅力的です。
 植木屋の楓見たような小人
 煮え切らない愚図
 腑抜けの呆助
 ハイカラ野郎のペテン師のイカサマ師の猫被りの香具師のモモンガーの岡っ引きのわんわん鳴けば犬も同然な奴
 夏分の水飴のようにだらしがない
 吹い子の向う面め
 正月野郎
 高慢ちきな唐変木
 オタンチン、パレオロガス
 最後の悪態をめぐる苦沙弥夫妻のやりとりは傑作です。「パレオロガス」で検索をかけてみてください。なお『坊つちやん』と『二百十日』に出てくる悪態は、熨斗をつけてクール宅急便で安倍伍長を筆頭とする1%のお歴々に、われわれ99%から進呈したいですね。
 こんな奴は沢庵石をつけて海の底へ沈めちまふ方が日本の為だ。

 やっぱり、金があり過ぎて、退屈だと、そんな真似まねがしたくなるんだね。馬鹿に金を持たせると大概桀紂になりたがるんだろう。僕のような有徳の君子は貧乏だし、彼らのような愚劣な輩は、人を苦しめるために金銭を使っているし、困った世の中だなあ。いっそ、どうだい、そう云う、ももんがあを十把一ぱひとからげにして、阿蘇の噴火口から真逆様まっさかさまに地獄の下へ落しちまったら。

by sabasaba13 | 2016-05-10 06:31 | 中部 | Comments(0)

伊勢・美濃編(49):明治村(14.9)

 ホテルに戻って荷物をとり、チェックアウトをして明治村へと向かいます。犬山駅東口からバスに乗って約二十分で明治村に到着。敗戦後の高度経済成長による開発事業で姿を消していく明治建築を保存するため、谷口吉郎博士(博物館明治村初代館長)と土川元夫氏(元名古屋鉄道株式会社会長)が協力して創設したのが、ここ明治村です。開村は1965(昭和40)年、保存している建物は67件、敷地は100万平方メートルだそうです。実は二十数年前の夏に訪れたことがあるのですが、その時は凄まじい酷暑で、喪家の狗のようにうろつくだけで落ち着いて見学することができませんでした。今回はお日柄もよく、じっくりと拝見できそうです。
 入場券を購入すると、「花子とアン」のロケ地マップが貼ってありました。NHK朝の連続ドラマには風馬牛、まったく興味がないのでこれは黙殺。欠かさず見ていた山ノ神だったら垂涎だろうなあ。
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 まずはネオ・ルネッサンス様式・煉瓦造の第八高等学校正門が出迎えてくれました。
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 大井牛肉店は二階ベランダとコリント式の柱が印象的な瀟洒な洋館です。でも玄関はむくり破風の庇に鶴の意匠という和のテイストもからめています。なお屋号の「大井」をあしらった腰石は、明治商家建築の特色だそうです。
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 三重県尋常師範学校は1888(明治21)年竣工、のちに移築されて蔵持小学校の校舎として使用されました。玄関の三連アーチとベランダが印象的です。
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 近衛局本部付属舎は、連続するアーチで構成されたアーケードが見どころ。宮城の守護と儀仗にあたる近衛局(後の近衛師団)の付属舎でしたが、後に皇宮警察の護衛所として使用されたそうです。
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 ぽつねんと佇む赤坂離宮正門哨舎は、赤坂離宮の門番が立哨していた建物。
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 おお、私の大好きな教会が現れたぞ。京都下京区にあった聖ヨハネ教会堂で、竣工は1907(明治40)年、設計はアメリカ人宣教師で建築家のガーディナーです。京都にある日本聖公会聖アグネス教会聖堂を設計したのも彼でしたね。一階が煉瓦造、二階が木造で白く塗られているため、重厚な意匠にもかかわらず軽やかな印象を受けます。なおこれは耐震性を考慮したためだそうです。
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 学習院長官舎は、黒塗り木造の無愛想な建物ですが、連続する縦長の大きな窓と玄関に対して斜めに設置されたポーチがチャームポイントになっています。なお乃木希典は赤坂の私宅から通ったので、ここには住まなかったそうです。
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 西郷従道邸は、隆盛の弟・従道が接客用に設けた洋館で、竣工は明治十年代と推定されています。彼は、度々海外視察に出掛け、国内では陸・海軍、農商務、内務等の大臣を歴任、在日外交官との接触も多かったために接客の場として建てたのですね。半円形にせりだしたベランダと手摺の意匠がチャーミングですね。部屋の天井には、整形した鉄板が貼られていました。
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by sabasaba13 | 2016-05-09 16:21 | 中部 | Comments(0)

伊勢・美濃編(48):犬山(14.9)

 さてそろそろホテルに戻ってチェックアウトをいたしましょう。店の近くに内藤丈草の詩碑がありました。
閑歩逍遥登瑞泉  (逍遥の途 瑞泉寺の門をたゝき)
宿龍池上得詩禅  (青竜池のほとりで詩や禅を学んだ)
青松緑竹紅塵絶  (松や竹は浮世ばなれのたゞずまい)
又訪高僧入扣玄  (今日も扣玄の室に老師を訪ねて心を洗うのだ)
 内藤丈草…どこかで聞いたことがあります。己の不学蒙昧が恨めしい、さっそく今、スーパーニッポニカ(小学館)で調べてみました。
丈草 (1662‐1704) 江戸前期の俳人。内藤氏。…尾張犬山藩士で、青年時には漢詩を学び禅にも通じた。1688年(元禄1)病弱のため致仕、ついで遁世した。中村史邦を頼り上洛し、彼の紹介で芭蕉に入門。数年で『猿蓑』(1691)に発句12句が入集し、跋を書くほどの実力を発揮した。93年には近江に移り、無名庵に住し、翌年芭蕉の終焉の枕頭で「うづくまる薬の下の寒さ哉」の秀吟を詠んだことは著名である。師逝去後は3年の喪に服すことを決意し、『寝ころび草』を書き、ついで96年には義仲寺の近く竜ヶ岡に仏幻庵を結び、清閑と孤独を愛した。1700年(元禄13)には郷里に帰省。帰庵後は病がちで閉関の誓いをたて、師追福の法華経千部の読誦、一字一石の経塚を発願し、これを果たして翌元禄17年春2月24日に没した。篤実な性格で、清閑な境地を愛したが、一面洒脱でたくまざるユーモアがあった。…
 そうか、蕉門の俳人だったんだ。勉強不足でした。それにしても、篤実、清閑、洒脱、お手本にしたい徳目ですね、記憶にとどめておきたい方です。

 往きとは違う道を帰ると、米清旧宅など、登録有形文化財に認定された古い商家が二軒ありました。こうしてみると、ここ犬山には貴重な建築がかなりあるのですね。ただ解説がない物件もあるので、ぜひ完備して観光地図にも載せていただきたいものです。善処を期待しましょう。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2016-05-07 08:11 | 中部 | Comments(0)

伊勢・美濃編(47):犬山(14.9)

 朝、目覚めてカーテンを開けると、御天道さまが微笑んでおられます。天気は良さそうですね。本日の予定は、犬山城下町を散策した後、明治村を見物、もしも元気と時間があったら四日市で末広橋梁・臨港橋・潮吹き堤防・コンビナート夜景を見て「とんてき」を食べて帰郷となります。
 犬山城下町は総構えと呼ばれる、城と城下町の外周を堀で囲い込んだ城郭構造をそのまま残した町です。犬山城と有楽苑の茶室「如庵」という二つの国宝は、以前に訪れたので省略します。まずは本町通りへ。途中にあったクレヨンしんちゃんの「飛び出し小僧」を撮影。お寺さんが櫛比する寺内町を抜けると、高木邸・椿屋商店という国登録有形文化財の建築が二つありました。
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 「どんでん館」という施設がありましたが、今調べてみると、犬山祭で曳かれている高さ8mの車山が4輌展示してあるそうです。車山が城下町の辻で豪壮に方向転換する様が「どんでん」と呼ばれており、そこから名づけられたそうな。
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 本町通りを歩いていると犬山城の天守閣が見えてきました。このあたりにも「洋品のワタギン」と犬山祭の車山を収納する本町車山蔵という二つの国登録有形文化財がありました。ん? ♪たけや、さおだけ♪という呼び声が聞こえてきました。雰囲気を出すためのBGMかと思ったら、ほんとに軽トラックで売りにきました。お城の近くには巨大で無粋な箱物・犬山市福祉会館があり、せっかくの風景を台無しにしているのが残念。
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 バスに貼ってあったゆるキャラ「わん丸君」を撮影して、お城入口のところにある喫茶「まみず」へ入りました。
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 「るるぶ」によると、こちらではご当地B級グルメの"鉄板スパゲティ"が食べられるそうです。さっそくお店に入って注文すると、無念、食事は午前11時からでした。ところが、捨てる神あれば拾う神あり、珈琲を注文すると、無料のモーニング・サービスがついてきました。さすがはモーニング・サービスの激戦区・愛知県。なお店内は地元の民でにぎわい、となりの席では、犬山城ガイドの寸評とか、徳川宗春の話とか、ディープな話題で盛り上がっていました。モーニング・サービスはロハだし、灰皿は三つあるし、メニューにウィンナーコーヒー(ほんとにウィンナーが入っているのかも)もあるし、素晴らしい喫茶店ですね、「まみず」、お薦めです。でも店名の由来が気になりますね。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2016-05-06 06:37 | 中部 | Comments(0)

伊勢・美濃編(46):八百津(14.9)

 それでは棚田に連れていってもらいましょう。途中で通った橋が新旅足橋、運転手さんがわざわざ車を停めてくれました。事前に入手した資料では、国内で最大規模のPC橋で河床から200mの高さがあるそうです。ちなみにPC橋とはプレストレスト・コンクリート(Prestressed Concrete)橋のことで、あらかじめ応力を加えたコンクリート材(PC)を使用した橋梁のことをいうそうです。と書いていてもよくわかりませんが。「おめえコンクリートに暗いな」と…あーしつこい。
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 発電所から三十分弱で上代田(かみだいだ)の棚田に着きました。杉原千畝の生家は、この棚田を見下ろす農家で、出産のため母・やつが実家へ帰っていた1900年1月1日、千畝はこの世に産声をあげました。千畝という珍しい名前も、家の前に大小幾枚もの田で築かれた棚田が広がっていたことからきているのかも知れないですね。その近くにある赤薙の棚田にも寄ってもらいました。
 見るべきほどのことは見つ、それではバス停へと戻ってもらいましょう。丁重にお礼を言って料金を支払い、タクシーと別れました。バスの発車時刻まで二十分ほどあるので、八百津の町を散策しましょう。八百津小学校には「大人が変われば子供も変わる」という標語が掲示してありました。同感、異議なし、議事進行。大人たちが平然といじめをしている社会では、学校からいじめがなくなるわけはありません。
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 酒蔵やうだつのあがる町屋など、ところどころに古色を残す街並みを歩いていると…若松屋というお店に「こばた」と記されたタイルがありました。ひさかたぶりのコバタ物件、慎重にカメラにおさめました。
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 そしてバスに乗り込み、途中で旧上古井郵便局を車窓から撮影して、三十分ほどで美濃太田駅前に到着。美濃太田駅からJR太多線に乗り、新可児駅で名鉄広見線に乗り換えて犬山駅に着きました。夕食は、犬山駅でもらった観光パンフを見て、駅近くで味噌煮込みうどんを食べることに決定。ん? そういえばホテルでも飲食店の地図をもらったっけ。念のため確認すると、すこし駅から離れたところに台湾料理「真味」がありました。一か八か、ご当地B級グルメ・台湾ラーメンを求めて行ってみると、ありました。しかも安くて美味、サイドオーダーの鶏唐揚げにも大満足です。なお台湾ラーメンとは、名古屋市千種区の台湾料理店「味仙」の主人・郭明優さんが台湾で小皿に盛って食べる「台仔(たんつー)麺」を、激辛にアレンジして出したのが最初だと言われているそうです。さあ明日は最終日、犬山と明治村の徘徊です。
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 本日の六枚です。
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by sabasaba13 | 2016-05-03 06:54 | 中部 | Comments(0)

伊勢・美濃編(45):旧八百津発電所(14.9)

 次の見学先は旧八百津発電所、数分ほどで到着です。現地にあった解説板を転記します。
 明治44年(1911)、火力から水力へと発電の主力が移る中、木曽川水系最初の本格的発電所として建設された八百津発電所。その水力は7500キロワットを誇り、当時としては我が国有数の発電所として、明治・大正・昭和の三代にかけて、日本の近代化への道のりを支えてきました。
 しかし昭和29年に丸山ダムの竣工により主力を丸山発電所に譲り、昭和46年には新丸山発電所も完成したことから、同49年(1974)に閉鎖となり、63年に渡る発電の歴史に終止符を打ちました。
 ただ、この発電所の設計施工の水準は決して高い物ではなく、発電所の立地や機器の選定を誤ったために、難工事の連続であったり水車の破裂事故を招いたりして、大幅な歳月と建設費の増を余儀なくされました。
 しかし、これらの困難を解決することによって、外国技術の吸収と改良が行われ、国産技術の向上、自立への基礎が固められました。
 また、大正6年(1917)には本発電所の放水を再利用した放水口発電所が完成。この発電施設とその技術が、他には類例のないものであることが八百津発電所の大きな特徴であり、我が国の自立期の技術水準と欧米との格差を示す例として貴重な施設となっています。
 その後、技術者たちの熱意とたゆまぬ努力の結果、日本の技術は、ほぼ完全に外国製品を駆逐するまでになりました。こうした意味でもこの発電所は、日本を代表する歴史的な遺産であるといえます。
 平成10年(1998)には日本の産業発展の一役を担った貴重な産業遺産として、国の重要文化財に指定されました。
 木曽川のほとりに屹立する放水口発電所と、その上に鎮座する発電所本館の古武士然とした寡黙な姿を撮影。なお資料館として内部が公開されていますが、こちらも月曜日は休館です。
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 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2016-05-02 06:46 | 中部 | Comments(0)