さてそれでは東京駅へと戻りましょう。途中で坂下門が見えました。そう、坂下門外の変の舞台ですね。桜田門外の変の後、幕威を取り戻すため和宮降嫁など公武合体政策を推進した老中・安藤信正に反発した尊皇攘夷派の水戸志士らが彼を襲撃した事件ですね(1862)。安藤は背中に軽傷を負いましたが、城内に逃げ込んだため、襲撃は失敗。相次ぐ幕閣の襲撃事件は幕府権威の失墜を加速することになります。彼らも、天皇の尊厳を利用しようとした方々なのでしょう。外苑をとりまく歩道の足下には、各都道府県の県花を描いたプレートがはめこんでありました。北海道はまなす(※正確には"はまなし"、武田泰淳の『ひかりごけ』で知りました)、青森りんごの花、岩手キリ… もしや48都道府県すべての県花が皇居のまわりに跪いているのでしょうか。現代版国見ですね、これも天皇に尊厳を保持させるための装置の一つかな。
![]() そして外苑の注意書きの膨大なこと、驚き桃の木山椒の木でした。中でも目を引かれたのが「一 許可を必要とする行為 …2 集会を催し、又は示威行動をすること」という一節。 ![]() 天皇制の利用者、支配者、権力者、管理者(ウォルフレン氏曰く"administrator")、何と呼べばいいのかわかりませんが、彼らが私たち人民の集会と示威行動を心胆寒くなるほど恐れていることがわかります。江戸幕府も、明治政府も(五傍の掲示に"何事ニ由ラス宣ラシカラサル事ニ大勢申合セ候ヲ徒党ト唱ヘ徒党トシテ強テ願ヒ事企ルヲ強訴トイヒ…堅ク御法度"とあります)そうでしたけれどね。「徒党を組む」「示威行動」、人々がたくさん集まってある意思を表現する行為を示す言葉にマイナス・イメージが附せられるのも宜なるかな。だとすると、"自分が一番したいことはするな。敵がもっとも嫌がることをせよ"という古代中国の言葉の通り、これを利用しない手はありません。そう、『書を捨てよ、町へ出よう』です。選挙と同じくらい、いやそれよりも有効かもしれない、政治をより良い方向へ変える重要な武器が非暴力的なデモと集会だと思います。ブラジル最大の社会運動「土地なき労働者運動(MST)」の指導者ジョアン・ペドロ・ステディレもこう言っています。「人民の行進は力の表現である…モーゼ以来」 ただ多くの人々の共感を集め、輪を広げていくためには、これまでの動員によるやり方を改める必要はあるでしょう。『一人の声が世界を変えた!』(新日本出版社)という素晴らしい本の中で、伊藤千尋氏はこう述べられています。 デモは自己満足のためにあるのではない。周りの人に訴えが届かなければ意味がない。単に「政策に怒っている人々がいるのだ」ということだけを訴えたいなら、日本型のデモでもいいかもしれない。しかし、今の時代、他の市民に主張を理解してもらい世論作りをすることが重要だろう。さらにデモに参加している人は、周りの人々が無関心だと自分たちが孤立しているように思えて、これから運動をしていこうと思わなくなるのではないか。これでは次のデモの参加者が減り、組織する側も士気にかかわる。(p.31~32)愉快で分かりやすくかつ強烈なメッセージを放つ手製のプラカードや仮装や演劇や音楽、誰でもその場で加われるような自由で楽しい雰囲気、あちこちで繰り広げられる議論、欧米で行われているようなそうしたデモができるといいのにな。学校の授業で「楽しいデモを組織する方法」「人目を引くプラカードの作り方」「よくアピールするパフォーマンス」といったカリキュラムがあればいいのですが、この国では未来永劫絶対にありえませんね。いや、やり方によっては変えられるかもしれません。
そして二連アーチの二重橋に到着、♪ひさしぶりに手を引いて♪と歌いながら写真におさめました。ところが、何気なく今インターネットで調べたところ、この橋は二重橋ではないのですね。この奥にある「正門鉄橋」がほんとうの二重橋、かつて橋桁が上下二段に架けられていたためそう呼ばれたそうです。よく誤認される手前の橋の正式名称は「正門石橋」だそうです。ま、いずれにしても哀しいことに、日常的には渡ることはできません。それにしてもこの間、胃の腑に重く黒い異物感をずっと感じ続けていました。まばらな人影、あちらこちらで眼を光らせる皇宮警察。
![]() 皇居に準ずる聖なる空間、よって天皇制を肯定しない者は実力をもって芟除するという、誰かの(誰?)強烈な意思を身に沁みるように感じます。かつて「人民広場」と呼ばれた俤は毫もありません。やれやれ、なんでまたこんなに厳重に警備をする必要があるのでしょうか、日本には皇室を害せんとする人がそれほど多いのでしょうか。いや、これは皇室の尊厳を日々人為的に再生産するための装置ではないでしょうか。厳重な警備をすることによって、中にいる方々はその警備に値する存在だと思わせる。つまりその尊厳は私たちが自然に感じるものではなくて、さまざまな装置や集団によって人為的につくりだされたものである。仮説ですけれどね。私が畏敬する坂口安吾は「続堕落論」の中でこう喝破されています。(『堕落論・日本文化私観』 岩波文庫) 長文ですが、今でも刺激的な内容なので引用しましょう。 いまだに代議士諸公は天皇制について皇室の尊厳などと馬鹿げきったことを言い、大騒ぎをしている。天皇制というものは日本歴史を貫く一つの制度ではあったけれども、天皇の尊厳というものは常に利用者の道具にすぎず、真に実在したためしはなかった。"天皇は知らないのだ。命令をしてはいないのだ"という点に関しては留保しますが、鋭い考察だと思います。先ほど述べた"誰か"とは、天皇の尊厳を利用して己の権力を振るおうとする方々でした。もちろん戦前のような露骨なかたちでの利用は今のところなさそうですが、いつかその日が来るまで大切に大切に温存しておこうとしているのかもしれません。なにせ、彼らが利用できる尊厳は、天皇制しかないのですから。かつてロラン・バルトが『表徴の帝国』(ちくま学芸文庫)の中で、皇居を"東京の空虚なる中心"と述べたそうですが、いやいや、この空間にはいろいろな意味がみっちりとつまっています。 本日の一枚です。 ![]()
さあそれでは旧安田庭園へと移動しましょう。JR浜松町駅から山手線に乗って秋葉原で中央線に乗り換え、両国駅で下車しました。さすがは国技館の最寄り駅、構内には三重ノ海や長谷川など力士の大きな写真が飾られています。八百長問題や新入りへのいじめなど大きな問題を抱える相撲、いっそのこと"国技"という大看板をはずして一から出直したほうがいいのではないかな。ま、別に興味はないのでどうでもいいのですが。1929(昭和4)年竣工のこの駅舎もなかなかいいですね、大きな三つのアーチ窓と時計がいいアクセントになっています。
![]() 国技館の前を通り過ぎると、その屋根を模したご当地電話ボックスがありました。 ![]() そして歩いて数分で旧安田庭園に到着、嬉しいことに入園は無料でした。ここは江戸時代においては、本庄氏(常陸笠間藩)の下屋敷で、安政年間に、隅田川の水を引いた潮入回遊庭園として整備されました。1889(明治22)年に、安田財閥の祖である安田善次郎の所有となり、1922(大正11)年、彼の遺志にもとづき東京市に寄贈され、現在に至ります。今はポンプにて人工的に潮入が再現されているとのこと。それでは散策を始めましょう。変化に富んだ形の心字池を中心とした池泉回遊式庭園で、移動するにつれて眺望がさまざまに移り変わる、それほど大きくはないのですが歩いて楽しい庭園です。心字池の向こうにそびえる、ドームが印象的な円形の建物は両国公会堂(現在は閉館)。1926(大正15)年に、安田財閥の寄付により、森山松之助の設計によって建てられました。森山松之助…聞いたことがある建築家だな。ウィキペディアで調べてみると、日本統治時代の台湾で活躍した建築家で、台湾の多くの官庁建築を手がけたことで知られるそうです。代表作は、台湾では旧総督府・専売局、国内ではここ両国公会堂・旧蜂須賀邸(現存せず)・片倉館・東京歯科医学専門学校(現存せず)。片倉館といえば、以前に訪れたことがありますが、知る人ぞ知る銭湯建築の傑作ではありませんか。へえ、彼の設計だったんだ。また建設中のスカイツリーの凡庸な姿も眺めることができました。完成したら、東京で一番好きな場所はスカイツリー一階のレストランだという方が増えるのではないでしょうか。 ![]() 途中には大きな三尊石組がありますが、池が迫っているので正面から眺めることはできません。前掲書では、昔はここに滝があり、舟で蓬莱島(中島)に渡った殿さまが、池越しに滝とその背後にあるこの石組を見るという構図だったのではないかと推測されています。なるほどねえ、往時の庭を空想で復元するという楽しみ方もあるのですね。そして太鼓橋へ、このあたりは真赤に色づいた紅葉が綺麗です。 ![]() その先にあるイチョウは眩いほどに色づいていました。州浜に出ると、大きな飛び石と雪見灯籠、そして水鳥が群れ遊ぶ心字池とそれをとりまく木々があいまって、なかなか絵になる光景です。 ![]() 苑路の分岐点にある灯籠も、それぞれ個性があり、見ていて飽きません。このあたりに現代彫刻のような異形の庭石がありました。 ![]() そして両国公会堂の前を通り過ぎ、人の身丈を越える巨大な石灯籠の近くには、推定に沈む飛び石がありました。浜離宮とは違い、人工的に水位を上下させているので、時間帯によっては水面に顔を出して歩けるのかもしれません。そして両国駅から家路につきました。 ![]() というわけで鮮烈な紅葉に出会えなかったのは残念ですが、三者三様それぞれに面白うございました。あらためて江戸の庭園文化の素晴らしさと、その多くを破壊して一顧だにしない近現代東京人の識見のなさに感じ入った次第です。田中氏曰く、「大名屋敷の一割でも残っていれば世界遺産に値する」、異論はありません。これからもその残欠を落ち穂拾いしていきたいと思います。次は、新江戸川公園、甘泉園公園、椿山荘、有栖川宮記念公園、池田山公園、戸越公園かな。金がかからず、人に迷惑をかけず、環境を破壊せず、楽しく健康にも良い最強の暇潰し、それは、さ、ん、ぽ。石川や浜の真砂は尽きるとも世に徘徊のネタは尽きまじ。 本日の四枚です。 ![]() ![]() ![]() ![]()
さて次は徒歩で旧芝離宮恩賜庭園へと移動です。途中にイタリア公園という不思議な公園がありました。幾何学的な植え込み、噴水、大理石製の柱や彫像、なるほどいかにもイタリア風庭園ですが、その由緒は? インターネットで調べたところ、「日本におけるイタリア2001年」を記念し同国から寄贈された公園だそうです。
![]() そして十数分で芝離宮に到着。小田原藩主・大久保忠朝上屋敷の庭園楽寿園が始まりで、幕末には紀州徳川家の芝御屋敷、そして宮内庁管理の離宮を経て、1924(大正13)年東京市に下賜されました。中央にドンとある大きな池とその周囲をめぐる遊歩道、シンプルなつくりですが、前掲書によると"プロ好みの手法を凝らした潮入り庭園の傑作"だそうです。それでは入園料150円を支払って中へ入りましょう。ん? 150円? 浜離宮は300円だったのに、なぜこちらは半額なのでしょう。面積に応じて入園料を決めているのでしょうか。 入口を入ると視界が一気に開け、池を中心として庭園の全貌をほぼ一望できます。ただ残念ながら見事な紅葉には出会えませんでした。前掲書によると、この庭園のモチーフは西湖だそうです。西湖とは、中国の杭州(現在の浙江省)にある、白居易や蘇軾などの詩にも詠まれた風光明媚な湖ですね。この西湖を写すことが、江戸時代の大名庭園でひときわ流行したそうです。(嚆矢は小石川後楽園) それでは池を眺めながら左回りに歩いていきましょう。やはり背後の高層ビルが目障りですが、緑なす木々や雪吊りをほどこされた松が鏡のような広々とした水面に映って綺麗です。池の中にちりばめられた石の上では、亀さんたちが気持ちよさそうに甲羅干しをしていました。 ![]() 池中にある小さな石灯籠は、西湖にある三譚印月という石灯籠を模したものではないかと、田中氏は推測されています。三譚印月はもともとは蘇軾がつくった三つの標識で、その範囲内での蓮根などの養殖を禁止したそうです。その後石灯籠に変わり、西湖のランドマークになったとのこと。その先には、水面下に飛び石が並んでいるのが見えますが、これこそ潮入り庭園の名残り、潮位が下がれば顔を出すわけですね。残念ながら今では海水の取り入れはしていないので、水位は変化しません。 ![]() そして橋を渡って蓬莱島(中島)へ、ここには中国で仙人が住むと言われる「蓬莱山」を表した石組があります。その先にある、中央部がアーチになった石橋が西湖堤、西湖の蘇堤を模した石造りの堤です。この橋も蘇軾によってつくられた西湖のランドマークで、水の流通や船舶の往来を確保するために、堤の途中につくられた六つのアーチ状の石橋です。余談ですが、錦川にかける橋作りに難儀していた岩国藩藩主・吉川広嘉が、その絵を見てアーチ状の橋を橋台で連結させるというアイデアを思いついたそうです。そう錦帯橋ですね。そして「大山」という小さい築山にのぼれば園内を一望できました。 ![]() 池をめぐるように歩いていくと、屹立する四本の石柱に遭遇。用途は不明で、茶屋の跡ではないかと推測されています。そして「根府川山」という力強く豪壮な石組に到着。小田原藩の根府川でとれる著名な庭石で、近年産出量が減り貴重なものとなったそうです。 ![]() そしてふたたび西湖堤を渡り対岸へ、州浜にある巨大な雪見燈籠からの眺望もなかなか素敵ですね。 本日の三枚です。 ![]() ![]() ![]()
小さな築山である御亭山(おちんやま)に上って、潮入りの池を一望、ちょっと将軍の小姓になった気分です。
![]() その隣にあるのが庚申堂鴨場、さきほど見たような細長い水路とその奥に土を盛り上げてつくった小屋(小覗)がいくつもありました。前掲書によると、これは引堀と小覗という鴨場の施設です。この小覗でカタカタと板木の音を出して飼育してあるアヒルをおびきよせると、いっしょに鴨が引堀に入ってくる。土手に待機していた人間の姿を見て驚いた鴨が一斉に飛び立つと、鷹匠が鷹を放ち鴨を捕えるというもの。つまり田園で行う放鷹を疑似体験して楽しんだのですね。なお見張り小屋(大覗)も近くにありました。 ![]() そして江戸湾を見渡せる土手にのぼり、すこし歩くと海水の取水口や将軍の御上り場がありました。将軍専用の船着き場ですね。 ![]() 第二次長州征討の途上、大坂城で病死した十四代将軍家茂の遺体が、官に入れられて到着したのがここです。また、1868(慶応4)年1月12日、鳥羽伏見の戦いに敗れた将兵を大坂城に置き去りにして、その真意を誰にも明かさないまま軍艦開陽丸に乗って江戸に戻った十五代将軍慶喜が上陸したのもここです。 「天皇の世紀 10」(大佛次郎 文春文庫)に下記のような記述がありました。 正月六日夜、大坂を離脱した徳川慶喜は、七日に開陽丸に乗込み、途中海上の風波に難儀しながら十日の夕、浦賀港に入り、十一日に品川沖に着いて翌る日の未明を待って、御浜御殿(今の浜離宮)に上陸した。うーん、歴史の現場ですね。この風景をみながら慶喜の胸にはどういう思いが去来したのでしょう。恭順、抵抗、尊皇の思い、徳川家存続への執念、薩長への憎悪… ただそこにこの列島に暮らす人民の影がすこしでも脳裡によぎったかどうかはわかりません。そして梅林を抜けて、入口へと戻りました。広々とした素晴らしい庭園でしたが、すぐそばにある高架道路を走る車の騒音が五月蝿いのには閉口しました。 本日の三枚です。 ![]() ![]() ![]()
「江戸東京の庭園散歩」(田中昭三 JTBパブリッシング)というたいへん面白い本に出会えました。キャッチコピーは"江戸三〇〇余藩の大名が造り上げた回遊式庭園の数々。その面影を辿りながら江戸に花開いた庭園文化を探る" そう、東京に残る大名庭園の由緒を語るとともに、その庭園がどのような意図のもとにつくられたのかを文献や現在の姿から読み解こうという、志の高い本です。園内地図や見どころ・ビューポイントの紹介もあり、コンパクトなので持ち運びにも便利。つきあいは長くなりそうです。今回は紅葉の名所という噂がないこともないような気がする浜離宮・芝離宮・旧安田庭園を歩いてみることにしました。
都営地下鉄12号線汐留駅から歩いて数分ほどで浜離宮恩賜庭園に到着です。でも"恩賜"などという恩着せがましい形容詞は即刻とりのぞいてほしいですね。もとはと言えば、民衆から絞り取った税で造園したのですから。ま、それはさておき、ここは「西之丸御用屋敷」「浜御殿」と呼ばれた将軍家直々の別邸、言わば将軍一族の遊び場にして迎賓館、そして海軍基地でもあったという庭園です。最大の特徴は、江戸湾の海水を引き入れた「潮入りの庭」。さあそれでは徘徊をはじめましょう。「"恩賜"だったら入園料をとるんじゃねーよ」とぶつぶつ呟きながら300円を支払って園内へ。うーん、期待していたのですが、あまり紅葉は見当たりません、無念。右手の方へ歩いていくと「鴨塚の碑」がありました。後ほど触れますが、ここには二つの鴨場があり、捕獲された鴨を供養するための碑です。 ![]() まずは小さな池のような新銭座鴨場に到着。細長い水路とその奥に土を盛り上げてつくった小屋がありましたが、これが鴨場ですね。 ![]() そして馬場跡を横切ると、広大な潮入りの池に到着です。 ![]() やはり紅葉は少ないのですが、鏡のような水面に中島の御茶屋や雪吊りをした松が映って見事な景観でした。ただ背後に建ち並ぶバブリーな高層ビルが目障りですけれど。"人間の正当な要求を超えた富の蓄積はすべて盗みである"(ガンディー) ま、その姿が揺らぎながら水面に映るシュール・レアリスティックな光景は楽しめますが。 ![]() なおこの池には淡水魚と海水魚が入り混じり、ボラやウナギ、キス、コノシロなどが釣れ、十一代将軍家斉はお気に入りだったそうです。ちなみに浜離宮に将軍が御成りした回数は338回、その中でも稀代の遊び人・家斉が群を抜いて248回だったそうです。家斉と言えば在位五十年、十六人の妻妾を持ち男子26人女子27人の子をもうけ(精力増強のためオットセイのペニスを粉末にしたものを飲んでいたそうな)、政治を顧みず、遊興に精を出して幕府財政を傾けた無能にして度し難い将軍というイメージが流布されています。それは確かなのでしょうが、よく考えてみれば、そうした散財は結局民間の利益となったのですよね。言わば一種の公共事業と言っていいのではないか。そのお陰で江戸の経済が潤い、豪商たちによって化政文化が生み出され育まれたと考えます。家斉がいなかったら、春信も歌麿も写楽も登場しなかった…というのは極論かな。ひたすら権力財としてお金を増やし続ける昨今のブルジョワジーよりはましかな、という気がします。 本日の二枚です。 ![]() ![]()
ここから善福寺川に出ると、両岸に車が通れない歩道があり、和田堀公園まで続きます。途中から善福寺緑地となり、カエデは少ないのですが、綺麗に色づいた雑木を愛でることができます。コンクリートで固められた護岸なので情緒はありませんが、川面に映る紅葉がなかなかいいですね。
![]() 少年少女をデザインしたトイレ男女表示を撮影し、さらに歩くと和田堀公園に到着。 ![]() 荻外荘からここまで一時間弱かかりました。残念ながらここでは綺麗な紅葉には出会えませんでした。大宮八幡宮の大イチョウは眩いほどに色づいていましたが。 ![]() そして永福町駅に行き、京王井の頭線で渋谷へ。岡本太郎の「明日の神話」の前を通り過ぎ、山手線に乗り換えて目黒駅に到着。本日最後の訪問先、東京都庭園美術館へは駅から歩いて十分ほどです。 ![]() 入園料を払って中へ入り、まずは日本庭園を見にいきましょう。小さな池の周囲をぐるりとまわれる回遊式庭園ですが、真赤に色づいたカエデを堪能することができました。石橋や石灯籠や茶室も景観にいいアクセントを与えていますね。 ![]() そして美術館へ、こちらは朝香宮鳩彦王の邸宅で、建築史家の藤森照信氏が「アール・デコ世界一」と絶賛し、某フランス人研究家が「これほど純度の高いアール・デコはこことインドの某マハラジャの家だけ」と驚嘆した建築です。ひさしぶりだなあ、わくわく。ただ「香水瓶の世界」という展覧会が開かれており、内部は芋を洗うような雑踏です。しかもほとんどの人が夢見るような目線で香水瓶をうっとりと眺め、建物自体を食い入るように眺めているのは私だけ。みなさん、もう建物は見飽きているのかなあ。ま、いいや、人混みをかき分けかき分け純度100%のアール・デコを堪能致しましょう。 ![]() さてアール・デコとは何ぞや、スーパーニッポニカ(小学館)から引用します。 アール・デコラティフ(装飾美術)の略称。ただし1925年にパリで開かれた「現代装飾美術・産業美術国際展」を特色づける装飾のスタイルをさしていう。…流れるような曲線を愛好したアール・ヌーボーとは対照的に、基本形態の反復、同心円、ジグザグなど、幾何学への好みが顕著にみられる。機械の時代に入った新生活との関連が当然指摘されるのだが、幾何学形態はかならずしも合理的かつ機能的な解決によって処理されず、むしろ優雅な趣味に裏づけされている。アール・デコの源泉の一つが異国情緒にあふれたロシア・バレエ団にあったことからも明らかなように、あるときは華麗な色彩を得て幾何学形態が繰り広げられた。…「建築探偵 神出鬼没」(藤森照信 朝日新聞社)から補足すると、朝香宮はアール・デコ発祥のきっかけとなった1925年の国際展に日本代表として参加し、すっかりその魅力の虜になってしまったそうです。帰国して自邸の新築にとりかかった彼は、パリの国際展会場のデザインを仕切ったラパンに設計を依頼。ラパンは、装飾の各部分を、国際展会場を飾ったメンバーであるルネ・ラリックやセーブル国立陶磁器製作所に受け持たせ、全体をまとめあげました。つまり、アール・デコの誕生を目撃した人物が建て主、そのデザイナーがアール・デコの張本人という、世界的にも稀有な建築なのですね、うん。ただ残念なことに内部は撮影禁止、絵葉書販売促進のためか、皇族の権威を高めるためか、たんなる嫌がらせが、判然としませんが納得できない措置です。正面玄関のガラス・レリーフ扉を飾る女神たち(ルネ・ラリック作)に挨拶をして、中に入るともうそこはアール・デコの満艦飾。セーブルの高雅な香水塔、軽快なシャンデリア、扉や壁を飾る素晴らしい意匠とレリーフ、もう夢のようなひと時を満喫できること請け合いです。眼福眼福。外観の一部にそうした意匠が施されているので、こちらを見てご想像ください。いや、ぜひ訪れて間近で見ていただきたいと思います。 ![]() そして西洋庭園にある安田侃(かん)とオシップ・ザツキンの彫刻を拝見して、家路につきました。 ![]() 本日の三枚です。 ![]() ![]() ![]()
それでは近衛文麿の邸宅・荻外(てきがい)荘を探しにいきましょう。途中にイルカをデザインした愛くるしい「交通安全足型」がありました。少々迷いましたが、「近衛」という表札のある、荘重な門構えのある邸宅を発見。ここか… 近くの電信柱にある「荻外荘」という表記だけが、往時の面影をとどめます。住所は荻窪2丁目43番地のあたりです。もちろん内部は非公開。
![]() ウィキペディアから引用します。 近衛家には目白(現在の新宿区下落合)に本邸があり、荻窪の方はあくまでも別邸なのだが、近衞はこの荻外荘がことのほか気に入った様子で、一度ここに住み始めると本邸の方へは二度と戻らなかった。郊外にあるものの、青梅街道に程近い上に国鉄中央本線の駅にも近いという便利な立地にある上、官邸の喧噪とはうってかわって静寂な荻外荘のたたずまいを、近衞は政治の場としても活用した。「東亜新秩序」の建設を確認した昭和15年7月19日の「荻窪会談」や、対米戦争の是非とその対応について協議した昭和16年10月15日の「荻外荘会談」などの特別な協議はもとより、時には定例会合の五相会議までをも荻外荘で開いており、大戦前夜の重要な国策の多くがここで決定されている。昭和16年9月末に近衞から対米戦に対する海軍の見通しを訊かれた連合艦隊司令長官の山本五十六が、「是非やれと言われれば初めの半年や1年は随分と暴れてご覧に入れます。しかし、2年、3年となれば、全く確信は持てません」という有名な回答で近衞を悩ませたのも、この荻外荘においてであった。彼が服毒自殺をしたのもここ荻外荘です。なお命名したのは最後の元老・西園寺公望なので、何か由来のある名称なのかもしれません。さて近衛文麿とは何者か、「岩波日本史辞典」から引用します。 1891.10.12‐1945.12.16 政治家。公爵。東京生れ。京大卒。篤麿の長男。五摂家筆頭の家柄で、早くから西園寺公望に政治的将来を嘱望されたが、満州事変前後から親軍的な姿勢を強め、<革新派>の期待を集める。36年の2・26事件後首相に推されたが固辞し、37年6月再び推され組閣。盧溝橋事件後、日中全面戦争化を推進したが、戦争終結の見通しを失い辞職。40年7月以降,第2次・第3次近衛内閣を組閣、対英米開戦を決定的としながら41年10月に内閣を投げだした。45年敗戦後は憲法改正に携わったが、戦犯容疑者に指名され、服毒自殺。首相として日中戦争を開始し戦争が泥沼化すると職を投げ出し、対米戦争への道を推し進めながらも日米交渉を続けにっちもさっちもいかなくなると土壇場で職を投げ出した、事態を悪化させておきながら責任から逃避する無責任・無節操な人物という印象をもっています。なお最近読んだハーバート・ノーマンの著作の中で、近衛について触れた一文があるので紹介しておきます。 迷路のような陸軍の政略のなかで、軍首脳部と高級官僚の間の変転する関係をいく分か述べることが順序であろう。たとえばすでに1933年、近衛公爵の後援のもとに、高級官僚(後藤文夫、広田弘毅、松本学)と軍首脳(荒木貞夫大将、建川美次中将)、金鶏学院の創立者でシュペングラーの翻訳者で軍パンフレットの一部執筆者と信じられている安岡正篤などのファシスト・イデオローグが私的会議や研究会を開催し始め、官、軍、財の中枢指導者が最終的に近衛内閣に融合したとき、これが大きな影響を及ぼすことになった。近衛はこのようにして政治的仲介人、衝突勢力の平衡器、一般的に日本の太平洋戦争準備のための反動派閥集団の安定剤の役割を演じた。(全集第4巻 「日本国家の軍国主義者」 p.420)なるほど、戦争を推進しようとした勢力が結集する際の核となったのが、近衛文麿であったという指摘は興味深いですね。なおそのノーマンが「戦争責任に関する覚書」(全集第2巻)の中で、近衛文麿をこう評しています。 かれは、弱く、動揺する、結局のところ卑劣な性格であった。かれの憂鬱症でさえ、病床に逃げこんで不愉快な決定や相談ごとなどを避けるために使う子供じみた手法である。それはまた一種のずるさをまじえたものであることを過去にさかのぼって証明している。なぜなら、その場合、かれが「政治病」にかかっている時に行なわれた何かの決定については責任を広く同僚に分散できるからである。淫蕩なくせに陰気くさく、人民を恐れ軽蔑さえしながら世間からやんやの喝采を浴びることをむやみに欲しがる近衛は、病的に自己中心で虚栄心が強い。かれが一貫して仕えてきた大義は己れ自身の野心にほかならない。もちろん、その野心は、かれがそれに長じた宮廷風のあいまいな言葉で上品にぼかされているとしても。このような記録に照してみれば、自由主義であるとか民主主義であるとか、はなはだしくは信念の人であるとかいうかれの主張は空ろにまた皮肉にきこえる。(p.344~5)きついけれども、これほど冷徹かつ舌鋒鋭い人物評にはなかなかお目にかかれません。近衛文麿の人となりが手に取るようによくわかります。この覚書は、ノーマンがGHQに勤めていた時に、戦争犯罪人に関する調査結果として、1945年11月5日GHQ政治顧問のジョージ・アチソンに提出したものです。実はこの頃、近衛は戦犯として訴追されておらずしかも憲法改正事業に関わろうとしており、日本の民主化に真摯に取り組んでいたノーマンはそれを真剣に憂慮したようです。政治責任を取ろうともしない近衛のような人物が、憲法改正事業を牛耳るようでは日本の民主主義の将来はない、その思いがこうしたきわめて強い提言となったのではないかと、解説の中で大窪愿二氏は推測されています。この覚書がGHQを近衛逮捕へと動かした、そして"弱く、動揺"した彼が自殺を選んだ可能性は高いですね。 本日の一枚です。 ![]()
それでは大田黒公園へと向かいましょう。途中にワニをデザインした愛くるしい「交通安全足型」がありました。石井桃子記念「かつら文庫」の前を通り過ぎ、すこし歩くと公園に到着です。
![]() いきなり真っ黄色に色づいたイチョウ並木がお出迎え。飛び石を踏んで進み桧皮葺の渋い門をくぐると、池と遊歩道がある美しい池泉回遊式庭園がありました。 ![]() 紅葉の盛りにはすこし早かったのですが、何本かのカエデは綺麗に色づき眼を楽しませてくれます。池、石橋、庭石なども景観を彩り、落ち着いた雰囲気をかもしだしていました。いいですねえここは、都内の紅葉の名所としてお薦めです。なおこちらは音楽評論家・大田黒元雄氏の屋敷跡地につくられた公園とのことです。寡聞にして知らなかったのですが、ドビュッシーやストラヴィンスキーを初めて日本に紹介し、同時代の欧米音楽の普及に努めた方だそうです。広々とした芝生の奥に、彼が住んでいた洋館が記念館として保存されていました。なお入園無料というのも嬉しいですね。 ![]() そして地図を頼りに、お屋敷が建ち並ぶ一帯をすこし歩いていくと、角川庭園・幻戯山房すぎなみ詩歌館に到着。ここは、角川書店の創立者である角川源義氏の旧邸宅を公開したもので、なかなか立派な和風の近代数寄屋造りです。茶室と句会などを催すための詩歌室があり、貸室として利用できるようになっています。 ![]() 本日の三枚です。 ![]() ![]() ![]()
そして角を右に曲がると、杉並中央図書館に到着。ここにはガンディーの銅像があるそうです。裏手にまわると、おお、紅葉に包まれる中、サリーを着て、毅然とした表情で力強い一歩を踏み出すガンディーの銅像がありました。"汝が声、誰も聞かずば、ひとり歩め、ひとり歩め"というタゴールの詩を思い起こさせる一歩です。
![]() 「ガンディー 反近代の実験」(長崎暢子 岩波書店)という素晴らしい本を読んで以来、深く深く畏敬する人物です。暴力の否定、融和と寛容、最近「エラスムスの勝利と悲劇」(シュテファン・ツヴァイク みすず書房)を読んでこうした精神の源流がデジデリウス・エラスムスにあることを知りましたが、その精神を受け継ぐとともにこれに(エラスムスにはない)行動力としたたかさを加えてインドを独立へと導いた稀有なる人物です。彼の事蹟や言葉を思い起こしながら、暴力と対立と不寛容が渦巻くこの世界の片隅でしばらく佇みました。 しかしまたなぜここに彼の銅像が? 解説板にはこうありました。「東京都杉並区にこのガンジー翁の銅像を、2008年11月6日にガンジー・アシュラム(修養所)再建財団創立者・インド国会議員・故ニルマラ・デシュパンデ女史の遺志により、ガンジー翁の精神に基づいて、世界平和と相互理解が強められることを祈念して、贈る」 うーん、いまひとつわかりません。中に入れば何か手掛かりがあるでしょう。まずは地下にある洒落たティールーム「Leaf&Leaf」でサンドウィッチと珈琲をいただき、その前にある谷川俊太郎と石井桃子の自筆原稿や写真、プロフィールなどが展示されているコーナーを拝見。"この地上で木とともに生きることの恵み"(谷川俊太郎)、"子どもたちよ 子ども時代をしっかりとたのしんでください。おとなになってから老人になってから あなたを支えてくれるのは子ども時代の「あなた」です"(石井桃子)、いい言葉だなあ、胸に刻みましょう。 ![]() そして一階にあがると、「常設展示 ガンディー チャンドラ・ボース」というコーナーが一角にあり、二人に関する写真や書物が展示されています。その解説によると、日印交流年の前年である2006年に杉並区長を団長とする「日本・インド地方議員友好親善訪問団」が訪印した際、ガンディー修養所再建トラストから杉並区に対し図書が寄贈され、平和と友好への思いが託されたそうです。なおこの団体はガンディー主義(非暴力・不服従運動)に基づき、国際社会の平和をめざす慈善団体で、国際平和センターの設立、社会的弱者や貧困層を救うガンディー主義諸機関への支援、書籍・資料の発行、人材の育成活動などを目的とするとのこと。どうやらこの団体からあの銅像も寄贈されたようです。 ![]() 図書館から出てふたたびガンディー像の前へ。彼がアジア・太平洋戦争の最中、日本人に贈ったメッセージ「すべての日本人に」の全文が読みたくて「わたしの非暴力2」(マハトマ・ガンディー みすず書房)を購入したのですが、次のような一節がありました。 わたしがこうしてあなたがたに訴えかけているのは、わたしたちの運動が、あなたがたやその同盟国を正しい方向に導くよう影響を与えるかもしれない、またそれが、あなたがたの道徳的崩壊と人間ロボットへの転落に終わるにちがいない軌道から、あなたがたと同盟国を救出することができるかもしれないという希望をもっているからです。(p.37~38)道徳的崩壊と人間ロボットへの転落…嗚呼、マハトマ、私たちは今その崖っぷちにいるのです。どうすればいいのでしょうか。「人間の正当な要求を超えた富の蓄積はすべて盗みである」というガンディーの言葉がアリアドネの糸になるのかもしれません。 本日の二枚です。 ![]() ![]() < 前のページ次のページ >
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自己紹介
東京在住。旅行と本と音楽とテニスと古い学校と灯台と近代化遺産と棚田と鯖と猫と火の見櫓と巨木を愛す。俳号は邪想庵。 カテゴリ
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