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東京散歩(水門・教会)編(5):日本基督教団戸山教会(15.1)

 本日最後の訪問先は戸山です。十条から埼京線で池袋に行き、地下鉄副都心線に乗り換えて西早稲田駅へ。ここから十分ほど歩くと戸山公園に到着です。こちらには、尾張藩徳川家の下屋敷だった頃、庭園の池を掘った残土でつくった築山である箱根山がありました。標高44.6メートルで、山手線内最高峰とも言われるそうな。頂上までのぼってあたりを睥睨しようとしましたが…それほど高くなく木々も生い茂っているので眺望はよくありません。なお戸山公園サービスセンターに行くと、「登頂証明書」がもらえるそうです。
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 下山してすこし歩くとお目当ての日本基督教団戸山教会に着きました。堅牢な石組建造物の上に普通の教会が乗っかっているという摩訶不思議な建物です。
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 これはなにか曰くがありそうですね。『大軍都・東京を歩く』(黒田涼 朝日新書492)から引用します。
 ここには(※戸山公園)、1874(明治7)年から陸軍戸山学校などが広がっていました。射撃、銃剣術、体操などを主に士官や下士官に教授し、1891年には軍楽学校も移転してきます。1912年に陸軍歩兵学校が千葉にできたため、その後戸山学校では体育と軍楽を担当しましたが、1939(昭和14)年から再び射撃術の教育研究を行うようになります。(中略)
碑から箱根山をはさんで反対側には戸山幼稚園と戸山教会があります。これは敗戦後間もなく、空襲で焼けてしまった都内の教会の再建場所としてGHQの斡旋で建てられたものです。建物の地下部分は戸山学校時代の将校集会施設だったといいます。石造りの重厚さが時代を感じさせます。(p.133~5)
 余談ですが、近くにある国立感染症研究所のあたりには、かつて陸軍軍医学校がありました。1989年、研究所を建設する際に、大量の人骨が発見されるという事件がありました。『保存版ガイド 日本の戦争遺跡』(戦争遺跡保存全国ネットワーク編著 平凡社新書240)から引用します。
 1989年7月、新宿区戸山の厚生省(当時)戸山研究庁舎(現・国立感染研究所、国立健康・栄養研究所)の建設現場で少なくとも62体の人骨が発見された。ここは、陸軍の軍医養成機関であった陸軍軍医学校の跡地であり、人骨の発見地点が軍医学校の防疫研究室(室長石井四郎)だった建物の北側にあたることから、これらの人骨を鑑定することになった。
その結果、頭骨に銃創やドリルで穿孔された痕があるなど人為的に加工された可能性があると判明した。
 厚生省は、人骨の由来調査を実施し、関係文章の調査と軍医学校関係者に対する聞き取りやアンケート調査により、これらの人骨が軍医学校の標本類または標本作製用あるいは医学教育用に集められた死体の一部であり、敗戦による軍医学校の活動終了に際して処分され、埋められたものとの報告をまとめた。軍医学校保有の標本類には、戦死者などから作製されたものが含まれていた可能性もあるが、鑑定で人類学的には「少なくとも一般日本人集団からの無作為標本ではない可能性が大きい」とされたものの、生前の国籍までは特定できなかった。
 調査では、死体または標本が関東防疫給水部(満州第731部隊)など海外から送られたことを示唆する回答もあったが、第731部隊との関連などを明確にはできなかった。発見された人骨は、戸山研究庁舎敷地内の納骨施設に保管されている。(p.124~5)
 "悪魔に鏡を突きつける"ためにも、これからもこうした戦争遺跡や戦争史跡を訪ね歩いていきたいと思います。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-07-03 06:26 | 東京 | Comments(0)

東京散歩(水門・教会)編(4):北区立中央図書館(15.1)

 そして歩いてJR赤羽駅へ。昭和の雰囲気を色濃く残す駅前の飲み屋街を歩いていると、なんとOK横丁に「ミルクホール」という看板をかかげたお店がありました。もうこの看板だけでも歴史遺産ですね、その名は「三珍亭」。無機的かつ金太郎飴的な昨今のチェーン店とは違い、ディープで胡散臭そうな店構えに思わず見惚れてしまいました。貼り紙には「昭和の味 食材 ほぼ国内産 安全 安心食」とありましたが、"ほぼ"という副詞がいい味を醸し出していますね。
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 そして赤羽駅から埼京線に乗って十条駅へ。以前にも報告しましたが、このあたりにはかつて東京砲兵工廠銃包製造所があり、周辺には軍関係の施設が点在していました。今回のお目当ては、砲兵工廠の赤煉瓦建築を再活用した北区立中央図書館です。
 図書館の方へ歩いていくと、工廠の煉瓦塀が一部保存されていました。解説板を転記します。
煉瓦(れんが)塀の由来
 十条台1丁目一帯には旧陸軍の東京砲兵工廠銃包製造所が所在していました。この製造所は、日露戦争の行われていた明治38年、小銃弾薬の増産を図るために現在の東京ドーム周辺から移転してきた工場施設で、約10万坪の敷地に煉瓦造の工場等が建てられていました。
 本校とJR埼京線の境界に現存する煉瓦塀は、その製造所西側の敷地境界にあたり、煉瓦に残されている刻印から、葛飾区の金町煉瓦製造所の煉瓦が使われていることが判りました。
 近くには、旧十条中学校の校舎を解体した時に出土した煉瓦を利用したベンチもありました。
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 陸上自衛隊十条駐屯地の前を通り過ぎて、十分ほどで北区立中央図書館に着きました。『大軍都・東京を歩く』(黒田涼 朝日新書492)から引用します。
 さて公園の南には北区立中央図書館がありますが、たいへん素晴らしい建物で必見です。図書館を公園側から見ると、レトロなレンガ造りの屋根が二つ並んで見えます。これは一造(※東京第一陸軍造兵廠)にあった275号棟という建物を再利用して図書館にしているのです。275棟は1919(大正8)年に建てられた小銃の弾丸を作る建物でした。南北54メートル、東西27メートルで、高さは5.45メートル。北区内で作られた可能性のあるレンガと九州の八幡製鉄所で作られた鉄骨を使った完成期のレンガ建築です。関東大震災でもびくともせず敗戦まで使われ、他の建物が次々取り壊されるなか、1989(平成元)年まで自衛隊が利用しました。
 建物は土地とともに北区が購入し図書館に生まれ変わったのですが、よくある外観保存ではなく、外観はもちろん内部もきちんと保存して生かしているのがこの図書館の特徴です。全体は、275号棟内側に新しい鉄筋コンクリート3階建ての建物を建てているのですが、新築3階部分はレンガ建物の壁からかなり内側なので、公園側からはあまり見えず、レンガ建物だけが残っているようにも見えます。
 開館は2008年。閲覧室や書庫は元の建物の天井の高さを生かした開放的な空間で、大きくレトロな窓辺での読書は落ち着きます。天井の鉄骨組は美しく、外壁や基礎も室内で間近に見ることができます。一部の鉄骨は保存されており「ヤワタ」の文字が読めます。さらにはレンガの雰囲気を生かしたおしゃれなカフェがあり、豊かな気分にひたれます。(p.164~5)
 なるほど、二棟の風格のある赤煉瓦倉庫と、現代的な建築をうまくマッチさせた図書館です、お見事。中に入って天井を見上げると、三角トラス構造も保存されていました。喫茶室も明るくて良い雰囲気、思わず珈琲をいただいてしまいました。ここで人を殺すための道具が数多つくられたという歴史を、末永く語り継いでほしいものです。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-07-02 13:35 | 東京 | Comments(0)

東京散歩(水門・教会)編(3):聖路加国際病院(15.1)

 そして聖路加国際病院へ。十字架をかかげた塔屋を中心に、鳥が翼をひろげたようなシャープな造型は、このあたりのランドマークですね。1902(明治35)年、ルドルフ・トイスラー博士(1876~1934)が、当時荒廃していたキリスト教系の病院である「築地病院」を買い取り、「聖路加病院」を設立したことに始まります。1923(大正12)年の関東大震災での被災を経て、皇室からの下賜金を始め米国聖公会・米赤十字などの寄付金などにより新築されたのが、現在残る建物です。設計の当初原案は当時日本で活動していた外国人建築家の一人であるアントニン・レーモンド(1888~1976)によるものでいたが、無装飾のモダニズムデザインが病院側の不評を買い、ジョン・バン・ウィ・バーガミニー(1888~1975)に実施設計が委ねられたとされています。なお『建築探偵 神出鬼没』(藤森照信 朝日新聞社)によりますと、素晴らしいチャペルがあるそうなので再訪を期したいと思います。(p.126)
 敷地内には、1933(昭和8)年、トイスラー院長が、宣教師会館および迎賓館として建てた建物が、「トイスラー記念館」として保存されていました。
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 築地駅に戻り、地下鉄日比谷線に乗って茅場町へ、地下鉄東西線に乗り換えて飯田橋へ、そして地下鉄南北線に乗り換えて赤羽岩淵へ。ここから十五分ほど歩くと旧岩淵水門に到着です。解説板を転記します。
旧岩淵水門のあらまし
 昔、荒川下流部分は現在の隅田川の部分を流れていましたが、川幅がせまく、堤防も低かったので大雨や台風の洪水被害をたびたび受けていました。そのため、明治44年から昭和5年にかけて新しく河口までの約22kmの区間に人工的に掘られた川(放水路)を造り、洪水をこの幅の広い放水路(現在の荒川)から流すことにしました。
 現在の荒川と隅田川の分かれる地点に、大正5年から大正13年にかけて造られたのがこの旧岩淵水門(赤水門)です。その後旧岩淵水門の老朽化などにともない、昭和50年から新しい水門(旧岩淵水門の下流に造られた青い水門)の工事が進められ、昭和57年に完成し、旧岩淵水門の役割は新しい岩淵水門(青水門)に引き継がれました。
 長年、流域の人々を洪水から守り、地元の人たちに親しまれた旧岩淵水門は現在子どもたちの学習の場や、人々の憩いの場として保存されています。
 時代を感じさせないモダンな水門ですね。現在稼働中の青水門も遠望することができました。
 なお小耳にはさんだところでは、ここは有数の心霊スポットだそうです。「宜保鑑定事務所」によると、かつて荒川で入水自殺をすると、その死体はこの水門付近で堰き止められて発見されるということが多かったそうです。私にはそうした霊感とやらはありませんので、何も感じませんでしたが。このサイトで紹介されていた、首をすげかえられたお地蔵もいらっしゃいました。
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 本日の二枚です。
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 追記です。先日読み終えた『夕陽妄語 2』(加藤周一 ちくま文庫)に次のような一文がありました。

 不思議な、-ほとんど奇蹟に近いようなことがおこった。それは1991年11月、ロス・アンジェレスの客舎でのことで、私は1945年の秋以来、一度も会ったことのなかったL博士に再会した。
 L博士は、45年当時のL中尉である。私たちは広島の日米合同医学調査団に加わっていて、それぞれ日米両側でのいちばん若い参加者であった。私は彼と二人で、広島近郊の山村を回り、被爆患者のその後の経過を追跡調査したこともある。はるか後になってから、私はそのことを回想録『続羊の歌』のなかで書いた。
 広島から東京へ帰ったL中尉はしばらく占領軍の病院(接収した聖路加病院)で働いていた。その病院の図書室の医学雑誌を私が読めたのは、彼のおかげである。そこには太平洋戦争の間に米国で進歩した血液学の新しい情報があった。その情報を東大の内科教室へ、さらには日本の医学界へ、私はもち帰った。かくして戦後の日本医学会の復興のために、L中尉は小さいが確かな貢献をしたのである。再会したL博士に、私はそのことをいった。すると彼は、骨髄標本をつくるために中尾博士と私が広島で行っていた脊椎穿刺の技術を、米国へもち帰って紹介したといった。医学上のささやかな日米交流は、そのときすでに始まっていた。(p.18~9)
by sabasaba13 | 2017-06-30 06:26 | 東京 | Comments(0)

東京散歩(水門・教会)編(2):カトリック築地教会(15.1)

 京急雑色駅から平和島まで行き、都営地下鉄浅草線直通の列車に乗って東銀座へ。日比谷線に乗り換えて築地駅に到着。このあたりはかつて居留地があったところですね。幸い解説板があったので転記しておきます。
築地外国人居留地跡
 安政5年(1858)6月、江戸幕府はアメリカと修好通商条約・貿易章程に調印し、これを原型として同年にオランダ・ロシア・イギリス・フランスともそれぞれ締結しました(安政五カ国条約)。
 この条約に基づき、箱館(函館)・神奈川(横浜)・長崎新潟兵庫(神戸)の五港を開港し、江戸・大坂(大阪)の開市を取り決めました。日本における外国人居留地は、条約締結国の外国人の居住や通商のための専用特別区として開港場・開市場の土地に設けられました。
 江戸(東京)の開市は、明治元年11月19日、明治新政府のもとで実現し、現在の明石町地区に築地外国人居留地が設定されました。
 築地外国人居留地は、商館の多かった横浜や神戸などとは異なり、外国公使館や領事館をはじめ、海外からの宣教師・医師・教師などの知識人が居住し、教会や学校などを数多く開いて教育を行っていました。
 このため、築地外国人居留地で発祥・開設されたキリスト教系の学校も多く、現在も校名や所在地を変えながら発展を続けており、当地区内には発祥を記念した石碑が数多く建てられています。
 文教地区として大きな特徴を持っていた築地外国人居留地は、条約の改正によって明治32年に廃止されるまで、日本の近代化に多大な影響を与えた一地区を形成していました。
 明石町と聞くと、鏑木清方の名作「築地明石町」を思い起こしますね。ああいう女性とすれ違えるような町の風情はもうありませんが。余談ですが、「清方の女はいずこ春の宵」という戯れ句をつくったら、同僚の女性に「清方の女はここよ春の宵」と切り返されました。
 まずは、まるで神殿のようなカトリック築地教会へ。解説文を転記します。
 カトリック築地教会は、明治4年(1871)にパリ外国宣教会のマラン神父が、鉄砲洲の稲荷橋付近の商家を借りて開いた「稲荷橋教会」がその前身とされます。明治7年(1874)、神父は宣教会の名義で築地居留地35・36番を借り受け、ここに司祭館と聖堂を建てました。明治11年(1878)には、ここにゴシック様式の聖堂が献堂されますが、この聖堂は関東大震災で焼失し、現在の聖堂が昭和2年に再建されました。聖堂は石造りに見えますが、実は木造建築で、壁面をモルタル塗りとしています。
 また、旧聖堂で使用された鐘は、1876年(明治9年)にフランスのレンヌで製作され、当時の司祭であるルマレシャル神父から「江戸のジャンヌ・ルイーズ」と名付けられたもので、現在も教会に保管されています。
 教会聖堂と鐘は、かつて外国人居留地のあった明石町に残された貴重な文化財として、中央区民文化財に登録されています。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-06-28 06:27 | 東京 | Comments(0)

東京散歩(水門・教会)編(1):六郷水門(15.1)

 2015年の1月のとある日曜日、あまりに暇だったので、以前に計画を立ててあった東京の水門教会めぐりをしてきました。水門と教会? なぜ? ふふ、月がとっても青いからさ。
 まずはめざすは六郷水門です。練馬から都営地下鉄12号線に乗って大門へ、都営地下鉄浅草線の快速特急に乗り換えて京急蒲田へ、京急本線の普通列車に乗り換えて京急雑色駅に着きました。街歩きの楽しみのひとつに、地元の方が経営するお店で食事をすることがあります。時刻は午前10時、モーニング・サービスを食べられる地元資本の喫茶店はないかと見まわすと…あった。いきなり駅前に「リベルテ」というお店がありました。名前もいいですね、フランス語で「自由」か。二階にあがると一昔前の喫茶店の雰囲気で、喫煙も可能、近所の方々が会話を楽しんでいたり、スポーツ新聞を読んでいたりと、思い思いの時を過ごされています。モーニング・メニューでピザトーストをいただきましたが、ま、それなりの味。でも530円と安いので大満足です。紫煙をくゆらしながら珈琲を飲み、今日の行程を確認しました。
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 そして水門通り商店街を十数分てくてくと歩いていくと、六郷水門に着きました。現地にあった解説板を転記します。
六郷水門
 この水門は、地元六郷町が国と東京府の補助金を受けて1931(昭和6)年に設けたものです。下水道が普及するまで六郷用水の末流をはじめ、六郷や池上、矢口、羽田の一部地域の雨水、汚水を排除していました。水門にかかる橋の高欄は、「郷」の字を「口」の字がかこむ六郷町の町章を用いたデザインです。堤内地の舟だまりは、かつて舟運にも利用され、雑色運河と呼ばれた水路下流の様子を今に伝えています。
 武骨ですが、丸みをおびた愛嬌のある意匠です。いいですね、一見の価値あり。
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 舟だまりには小さな漁船が繋留されていました。近くにあった公衆便所はこの水門を模したものでした。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-06-26 07:57 | 東京 | Comments(0)

虐殺行脚 東京編(24):鎌倉橋(16.10)

 そして十数分歩くと、無粋な首都高速道路の下にうずくまる鎌倉橋に到着です。
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 解説板があったので転記します。
 日本橋川に架かり、大手町一・二丁目から内神田一・二丁目に通じる橋で、外堀通りにあります。関東大震災の復興橋の一つで、昭和4年(1929)4月25日の架橋で、長さ30.1m、幅22.0mのコンクリ-ト橋です。名前の由来は、江戸城を築くときに鎌倉から石材をここの河岸(内神田寄り)に陸揚げしたので、この河岸を鎌倉河岸と呼んだことによります。
 また、この鎌倉橋には、日本本土土市街地への空襲が始まった痕跡が残っています。欄干には、昭和19年(1944)年11月の米軍による爆撃と機銃掃射の際に受けた銃弾の跡が大小30個ほどあり、戦争の恐ろしさを今に伝えています。
 へえー、これも関東大震災の復興橋なんだ。復興橋と言えば隅田川にかかる相生、永代、清洲、両国、蔵前、厩、吾妻、言問が有名ですけれど、こんなところで人知れず佇み暮らしを支える復興橋もあるのですね。
 欄干を見ると、多数の弾痕を視認することができました。窪みをなでて、飛来した戦闘機から機銃掃射を受ける恐怖をすこし体感。対抗措置のない、非対称的な戦闘ですね。ただ逃げまどい、殺戮されるのみ。もし自分の大切な人がこうした理不尽な攻撃によって殺され、しかも"付随的被害"として片づけられたとしたら…"やや遠き ものに思ひしテロリストの 悲しき心も 近づく日のあり"です。
 それにしても、景観を粉微塵に破壊する、この無様な首都高速道路は何とかならんものですかねえ。最近読んだ『東京都市計画の遺産 -防災・復興・オリンピック』(越澤明 ちくま新書1094)の中に、次の一文がありました。
 オリンピック開催に間に合うよう、整備されたインフラの一つが首都高速道路である。今日では、景観破壊の代名詞となったのが、日本橋の上を通過する首都高である。しかし、オリンピック組織委員会の会報では、誇らしげに、首都高の完成予想図を表紙に使用している。数十年経過すると価値観が変わるという良い実例が、首都高と日本橋である。
 東京に首都高速道路が必要であったことは疑いの余地がない。しかし、東京オリンピック時に実行された首都高の建設方式は、江戸以来の掘割や河川を無造作に転用し、隅田公園や神宮外苑連絡道路など貴重な緑を潰した。そのやり方があまりに粗雑であり、水や緑を軽視したのは、紛れもない事実である。(p.209~10)
 越澤氏は、無差別爆撃で焼跡となった東京を復興する事業(戦災復興事業)に、当時の都知事・安井誠一郎が不熱心であったと指摘されています。同書によると、道路の拡張などを盛り込んだしっかりとした計画はあったそうです。しかし安井都知事の判断で、計画実現のための財政支出は大幅にカット。もしこの時に計画を実行していれば、交通量の増加に対して充分に対応できたのではないでしょうか。そしてオリンピックに向けて、美しい掘割や公園を台無しにするような、粗雑な高速道路網を手っ取り早くつくってしまう。やるべき時にやらず、やるとなったら手を抜く、そういう都知事でした。広島市の平和通りや仙台市の定禅寺通りは、戦災復興事業として知事の判断でつくられたそうです。東京でも充分に可能だったはずなんですが。
 そして安井誠一郎は公選による初めての都知事ですから、これは都民の意思でもあります。その後も、都民はあの石原慎太郎を三選させてしまうのですね。やれやれ、と溜息をつきながら帰途につきました。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2017-04-06 06:26 | 東京 | Comments(0)

虐殺行脚 東京編(23):日本工業倶楽部(16.10)

 そして麻布十番駅から都営地下鉄12号線に乗って大門へ、山手線の浜松町駅へと歩き山手線に乗り換えて東京駅へ。東京駅から北に向かって歩きます。ここに来るとついつい足が向いてしまう日本工業倶楽部へ行き、上部に設置されている工夫と女工に最敬礼。
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 『日本の歴史28 ブルジョワジーの群像』(安藤良雄 小学館)から引用します。
 明治30年代以降、工業の発展にともなって工業経営者、とくに大工業の経営者の団結の必要が説かれ、33年に「工業倶楽部」(のちに日本工業協会)が設立されたが、この段階ではまだ政府にたいする民間の連絡機関的性格が強かった。しかしながら大正6年、三井・三菱等の大財閥のバックアップのもとに、大橋新太郎(出版社博文館・共同印刷の前身であった博文館印刷所を創設)、和田豊治(富士瓦斯紡社長)、植村澄三郎(札幌麦酒の創設者)、諸井恒平(秩父セメントの創設者)、藤原銀次郎(三井の重鎮で王子製紙社長・のち商工大臣)らによって「日本工業倶楽部」が設立され、その初代理事長には三井財閥の最高指導者(合名理事長)団琢磨が就任した。なおこの日本工業?楽部は「製鉄業保護意見書」の提出ほか、税制・労働問題について活発な行動をおこなった。いまも東京丸の内にある日本工業?楽部の建物にかかげられている炭鉱夫と紡績女工の像は、日本工業倶楽部の象徴として有名であるが、これは石炭業と紡績業が日本の工業を代表していた時期のなごりである。(p.232)
 途中で、竹中工務店が工事をしているビルがありました。「想いをかたちに 未来へつなぐ」というスローガンがかかげられていましたが、たしか竹中工務店は朝鮮人強制労働に関係していたような気がします。今、インターネットで調べると、歴史研究家の竹内康人氏が作成された「朝鮮人強制労働現場一覧」がありました。どれどれ、検索をかけてみたら四つの事例がわかりました。
鏡石飛行場建設 竹中工務店 飛行場建設 福島 鏡石町
日本光学南工場(竹中工務店) 土木建設 神奈川 横浜市戸塚
三菱重工静岡工場・竹中工務店 土木建設 静岡 静岡市
竹中工務店大村 軍工事 長崎 大村市
 朝鮮人・中国人強制連行によって、日本企業がどれくらいの利益を得たのか。またこの問題に対する綿密な調査、被害者への謝罪や補償はどうなされたのか、あるいはどうなされなかったのか。関東大震災時における虐殺と同様、これも"語られなかった歴史"です。私も勉強しなければと一念発起、てはじめに『日本企業の戦争犯罪』(古庄正・田中宏・佐藤健生他著 創史社)を購入しました。その近くにあった、立派な時計塔のあるビルを撮影。今インターネットで調べてみたら、大手町野村ビルでした。
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 佐藤功一設計によって1932年に竣工されたビルのファサードと時計塔を保存しつつ、1994年に高層ビルが建設されたそうです。佐藤功一といえば、早稲田大学に建築科を創設した建築家ですね。代表作は、大隈記念講堂、鶴舞公園普選壇群馬県庁舎日比谷公会堂群馬会館などです。
by sabasaba13 | 2017-04-05 06:27 | 東京 | Comments(0)

虐殺行脚 東京編(22):安藤記念教会会堂(16.10)

 そして韓国大使館のある坂をすこしのぼると、日本基督教団安藤記念教会会堂に着きました。竣工は1917(大正6)年、設計は吉武長一、蔦のからまる塔屋とステンドグラスが印象的です。解説板を転記します。
 この教会堂は、関東大震災前に竣工してその姿を留めている貴重な教会建築である。大谷石(一部小松石)の組積造で、南西の角に出入口の塔屋を設けている。建物の北と南の壁画には小川三知が製作したステンドグラスが嵌め込まれている。この教会の創立者安藤太郎がハワイ総領事であったことから、南面のアーチ窓のステンドグラスには、布哇(ハワイ)初回受洗者を記念する文字が日本語と英語で表わされている。
 へー、小川三知が製作したステンドグラスがあるのか。これも偶然の出会いです。しかし残念なことに礼拝のため入ることができませんでした。無念、再訪を期しましょう。

 そして麻布十番駅へと戻りますが、途中に老舗の和菓子屋が点在していました。山ノ神へのお土産に、「豆源」で「豆好み」を購入。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2017-04-04 07:56 | 東京 | Comments(0)

虐殺行脚 東京編(21):善福寺(16.10)

 そして竹橋駅へと戻り、地下鉄東西線に乗って飯田橋へ、地下鉄南北線に乗り換えて麻布十番駅に到着です。めざすは港区元麻布2-14-16にある日本基督教団安藤記念教会会堂。印刷して持参した地図を片手にてくてくと歩いていると善福寺の門前に着きましたが、こちらに「柳の井戸」がありました。解説板によると、東京の市街地では珍しい地下から湧き出る清水で、関東大震災や東京空襲の時に区民の困苦を救ったということです。境内に行くと、「東京都指定旧跡 最初のアメリカ公使館宿館跡」という解説板がありました。
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 後学のために転記します。
 安政5年(1858)6月に締結された日米修好通商条約により、それまで下田にいた総領事ハリスを公使に昇格させ、安政6年(1859)善福寺をアメリカ公使館として8月に赴任します。当時の宿館としては、奥書院や客殿の一部を使用していましたが、文久3年(1863)の水戸浪士の焼き討ちで書院などを消失したため、本堂、開山堂なども使用しました。明治8年(1875)に築地の外国人居留地へ移転します。当時の建物は戦災で焼失しています。
 寺には「亜墨利加ミニストル旅宿記」(港区指定文化財)が残されており、外国公使館に使用された寺の実態がよく伝えられています。
 そのそばには、タウンゼント・ハリスのモニュメントが置かれています。こういう予想外の物件に偶然出会えるのが散歩の楽しみのひとつですね。また樹齢750年以上と推定されるイチョウの巨樹もありました。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2017-04-03 06:31 | 東京 | Comments(0)

虐殺行脚 東京編(20):北の丸公園(16.10)

 この銅像のとなりにあるのが国立近代美術館工芸館、かつての近衛師団司令部庁舎を保存活用したものです。なお関東大震災が発生した直後の午後1時10分、軍事当局は独自の判断から非常警戒令を発し、衛戌常例衛戌勤務令により、東京衛戌司令官がすでに東京地域の警備についていました。東京をおおむね南北に二分して、北を近衛師団、南を第一師団の担当区域として軍事力を展開し、秩序維持に介入していたそうです。
 ここからすこし歩くと、堀に沿ったすこし小高い土手がありますが、こちらには帝都防衛のために1944(昭和19)年に設置された高射砲の台座が七つ残っています。貴重な戦争遺跡ですね。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2017-04-01 05:51 | 東京 | Comments(0)