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池袋モンパルナス編(2):自由学園明日館(06.3)

 勤労福祉センター一階にある食堂でランチをいただきながら、これからの行程を確認。まずはアトリエ村とは無関係なのですが、ここに来たら外せない自由学園明日館を表敬訪問しました。自由学園とは、1921年に羽仁吉一・もと子によって創設された私学です。その校舎として、アメリカの建築家フランク・ロイド・ライトに設計を依頼して建てられたのが明日館です。彼の作品は、北アメリカ以外では日本にしか残っていないそうです。(4つだったかな?) その一つである帝国ホテルを破壊するという愚劣な暴挙(玄関部分のみ明治村に移築)をしでかした日本人は、ライト設計のこの建築をも破壊しようとしたが、反対運動が起こり、結局保存されることになりました。よかよか。
 まったくもってライトのデザイン感覚には脱帽です。建物全体はもちろん、内装・照明・家具にいたるまで彼の息吹を感じることができます。この建物全体を貫くモチーフである“へ”という形が縦横無尽に組み合わされ、木と大谷石が巧みにハーモニーを奏で、暖かくて静かでリズミカルで、えーとえーとうまくいえませんが、とにかくずーっとこの部屋に包み込まれていたいといえばわかってもらえるかな。外観も水平方向を意識したもので、小ぶりな建物なのですが大地に根付いて広がるような気持ちの晴れ晴れする意匠です。
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 道をはさんで向かい側には遠藤新設計の講堂がありますが、こちらも明日館のデザインを踏襲したなかなかの逸品です。なお内部に展示されていた資料によると、彼は真岡小学校講堂も設計しているとのこと、現存しているのかな、要チェックです。この西池袋一帯は閑静な住宅街で、戦前の物件らしき住宅もところどころに残っています。ハーフ・チンバーもどきのモルタル住宅など、見所が多いですね。誰かこの附近の建築散策マップをつくってくれないかしら。
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 ●自由学園明日館 http://www.jiyu.jp/

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2006-05-19 06:09 | 東京 | Comments(2)

池袋モンパルナス編(1):(06.3)

 「池袋モンパルナス」って御存知ですか。大正末期から昭和20年代にかけて、東京の池袋近辺に若い芸術家を対象とした安価なアトリエ付き借家が多数あり、これらの集落は、「すずめが丘アトリエ村」、「つつじが丘アトリエ村」、「さくらが丘パルテノン」と名付けられ、当時100軒以上の貸アトリエが軒を連ねていたといいます。この一帯に、熊谷守一、吉井忠、峯孝、寺田政明、松本竣介丸木位里・俊夫妻などの芸術家たちが住み、昼夜作品づくりに励み、いつしかここは、パリの芸術地区、モンパルナスにちなみ「池袋モンパルナス」と呼ばれるようになりました。このあたり一帯を、散歩がてらふらっと歩いてきました。
 まずは池袋東武デパート6階の画廊で開かれている吉井忠展と熊谷守一書画展を拝見しました。自由闊達・融通無碍なモリさんの書画にはまいりますね、傑作なのは即売会で唯一売れ残った作品であるという「蒼蝿」という書。そりゃあ誰も買わないでしょう、でも多分彼にとっては蝿の動きや表情が魅力的だったのだと思います。あるいは純粋に字の形が好きだったのかもしれませんね次なるは勤労福祉センター7階にある豊島区立郷土資料館に行きました。敗戦直後の池袋駅前の闇市や、長崎アトリエ村の精緻なジオラマがすばらしい! これはミニチュア細工が本当に好きで好きでたまらない人が作ったのだという雰囲気がムンムンと漂ってきます。実は小生も昔はプラモデル大好き少年だったのでよく分かります。まだ見ぬ同志よ、いつか会いましょう。特設展を見ていると、要町のアトリエに住んでいた高山良策という画家の絵があり、解説を読むと「円谷プロの怪獣造型家としても有名」とあります。実は小生、怪獣大好き少年で、モスラやキングギドラの身長や体重の数値を一所懸命に覚えた記憶があります。この方の名は覚えておきましょう。

●豊島区立郷土資料館 http://www.museum.toshima.tokyo.jp/index.html
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by sabasaba13 | 2006-05-18 06:01 | 東京 | Comments(0)

東京錦秋編(6):小石川植物園(05.12)

 さらに歩いて、徳永直のプロレタリア小説「太陽のない街」の舞台となった共同印刷の前を通り、漱石が下宿していた新福寺を右に折れると、小石川植物園に到着です。
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 1684年(貞享元)に江戸幕府が設けた薬草園が嚆矢で、東京大学の創設(1877)とともにその附属となり、理学部の管理するところとなって今日に至っています。青木昆陽の甘藷栽培や享保の改革時の養生所設置でも有名ですね。京都でも思い知りましたが、植物園というのはもみじ狩の穴場です。何といっても人が少ない、そして様々な植物の紅葉が見られ、植物名やその特徴も学ぶことができます。もみじの並木や、落葉が敷き詰められた桜の園も結構なのですが、一番気に入ったのが正門から入って左奥にある雑木林。舗装された道がなく、色づいた様々な木々の間を自由気儘にそぞろ歩きすることができます。落ち葉を踏む音だけが聴こえる静寂さと、夕陽が地面に描き出す木々の影や紅葉の輝きを堪能できました。まるで小菅刑務所のような斬新なフォルムをした本館の由緒も気になるところ。池越しに見る旧東京医学校本館もいいですね。中国風・和風のテイストを細部に漂わせる洋館です。園内には旧養生所の井戸や、甘藷試作の記念碑もあります。ニュートンの生家から接ぎ木されたというリンゴの木、メンデルが実験に使ったものを分株したブドウの木もあります。
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 実は植物園と帝国主義は深い関係にあります。イギリスのキュー植物園が典型例なのですが、宗主国が必要とする作物等を植民地で栽培するための研究を行うのが近代の植物園です。小石川植物園がどれくらい植民地政策に関与していたのか寡聞にして知りませんが、気になります。ま、それはさておきここは一推しの場所です。ここから千石界隈に向かい、千石本町商店街を抜けて地下鉄千石駅に到着。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2006-02-27 06:08 | 東京 | Comments(0)

東京錦秋編(5):沢蔵司稲荷・伝通院(05.12)

 さてゆるやかにカーブする善光寺坂をのぼりきった右側にあるのが沢蔵司稲荷。見事な彫り物の数々には圧倒されます。中でも水屋の蟇股(かえるまた)の部分に彫られた太田道灌山吹の里の故事はお見事。道灌が鷹狩にでかけ雨にふられてあるあばら家で雨具を求めたところ、少女が山吹の花一輪をさしだしたそうです。後で家臣から、兼明親王が詠んだ「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞかなしき」という歌の「実の」を「蓑」にかけて、その貧しさを風雅に恥じたのではと指摘され、以後歌道に精進するようになったそうです。その場面が立体的に見事に彫り上げられています。
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 なお坂の上にある大榎の脇に幸田露伴の家があったそうです。「幸田」という表札があるので、ご子孫がまだ住んでいるのかな。少し歩くと伝通院、徳川家康の生母お大の方の墓所です。なお清河八郎、杉浦重剛、佐藤春夫の墓もあるとのこと。境内には日本指圧協会(浪越徳治郎会長)建立の「指塚」、門前には新撰組の前身「浪士隊」発会の地、処静院の石柱がありました。
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 本日の一枚は沢蔵司稲荷、「山吹の里」の彫り物です。
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by sabasaba13 | 2006-02-26 18:32 | 東京 | Comments(0)

東京錦秋編(4):日中友好会館・源覚寺(05.12)

 青山一丁目駅から地下鉄で飯田橋駅へ。小石川後楽園となりにある日中友好会館地下の中華料理店「豫園」が気になっていたので、ここで昼食をとりました。どう考えても美味くないわけはないでしょう。五目炒飯をいただきましたが、予想通りいい線いっています。油っぽくなくパラリと仕上がったご飯に卵がほどよくからみ、具とのバランスもよし。Good job. 地下ホールに二体の銅像がありました。国交がなかった時期に日中民間貿易(LT貿易)を進めた寥承志と、日中友好に尽力した古井喜實です。こうした先人たちの想いや努力を薄ら笑いをしながら平然と踏みにじる首相、そして「他の人より良さそうだから」などという理由で彼を支持している人々。暗澹たる気持ちになりました。
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 そして礫川公園の脇を進み、小石川の方へと歩いていきましょう。裏道の路地に入ると、家の前や壁面を鉢植えが埋め尽くしているお宅をよく見かけます。また「堀坂を守れ!」というマンション建設反対のポスターを発見。景観や住み心地をみんなで協力して守っていこうという気概をひしひしと感じます。
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 そして源覚寺(こんにゃくえんま)に到着。信心深い老婆に閻魔が己の右目を与え、それに感謝してこんにゃくを供えたのが縁起です。眼病治癒とこんにゃく… どういう関係があるのだろう? 他にも健康を祈願して塩を塗りつける塩地蔵や、毘沙門などもあり、「みなはんの願いをまとめて叶えてあげまっせえ」という雰囲気。千本ゑんま堂(引接寺)や釘抜きさん(石像寺)といった京都のお寺さんを思い起こしました。最近、こうした都市民衆の信仰を集める寺社に興味がありまして、見落とさぬよう気をつけて徘徊したいと考えています。新春の谷中七福神めぐりで見つけた田端の赤紙仁王も逸品でした。なお「南洋群島協会」が奉納した灰皿を発見。キョロキョロするとサイパン島にある慰霊像を模した像がありました。解説には「南洋群島とゆかりが深いこの源覚寺…」とありますが、どんなゆかりなんだろう? 謎が謎を呼びます、だから人生は面白い。
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 本日の一枚は、源覚寺の塩地蔵です。塩をなすりつけると、ディスプレイが傷つくおそれがあるので、注意してください。
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by sabasaba13 | 2006-02-25 06:10 | 東京 | Comments(0)

東京錦秋編(3):絵画館・イチョウ並木(05.12)

 そして歩くこと数分で、絵画館に到着。あのドームを頂いた不気味・無骨な建物です。ドイツ表現主義の影響なのかな。ここには明治天皇の事跡を中村不折や五姓田芳柳らに描かせた絵を展示してあります。ここも初見。岩倉使節団出発のシーンや、日清戦争における大山巌などの絵はよく歴史書で見かけますが、ここにあったんだ。それにしても、明治天皇の顔がことごとくキヨソーネが修正したものをモデルにしていますね。時代の制約とは言っても画家にとっては忸怩たるものがあったのではないかな。参考までにキヨソーネが描いた肖像と、明治天皇の写真です。絵画館向かって左手には、樺太国境画定標石のレプリカがありました。日露戦争後のポーツマス条約で北緯50度以南の樺太を獲得した際に、現地に敷設されたものです。片面には菊の紋章、片面にはロマノフ王朝の鷲の紋章が刻まれているのですが、立入禁止のため後者は見られません。複製なんだから近くに寄ってもいいじゃないかあ、吝嗇。
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 わが愛すべきスワローズのホーム・グラウンド神宮球場の脇を通り、イチョウ並木へ到着。四列に並んだイチョウがそれはそれは見事に黄色に輝いていました。著名な場所だけにけっこう人も多く、皆さんの幸せそうな微笑みが印象的でした。ある年配の女性が「ヨーロッパみたい!」と言っておられましたが、「第三の男」ラスト・シーンで使われたウィーン公営墓地の並木道に似ていないこともなくはないような気がしないでもありませんね。
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 本日の二枚。外苑イチョウ並木と、ウィーン公営墓地の並木道です。
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by sabasaba13 | 2006-02-24 06:10 | 東京 | Comments(2)

東京錦秋編(2):秩父宮記念スポーツ博物館(05.12)

 さてここから歩いて神宮外苑まで行きましょう。途中にある国立競技場の脇を通り過ぎると、秩父宮記念スポーツ博物館がありました。そういえばここも未見です、よし入ってみよう。日本人初のオリンピック・メダリストをご存知ですか。実はテニス選手の熊谷一弥(いちや)なのです。彼が1920年のアントワープ大会で獲得した銀メダルが展示してありました。テニス好きの方なら必見。そして東京大会マラソン銅メダルの円谷幸吉の足型! 確かゴール直前で、ヒートリーに抜き去られたのを憶えています。子どもの頃の運動会徒競走で後ろを振り返ったことを父に激しく叱責され、「絶対に後ろを振り向くな」という教えを愚直に守り続けた結果だそうです。彼は自衛隊員で、その後メキシコでの活躍を期待されて周囲から強い圧力をかけられ、足の故障とあいまって自ら頚動脈を切り自殺してしまいます(1968)。沢木耕太郎著『敗れざる者たち』(文春文庫)所収の「長距離ランナーの遺書」によると、意中の女性がいたのですが、練習の障害になると上官に結婚を止められたことも一因かもしれません。「父上様母上様 幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません」という血染めの遺書を残しますが、これほど哀切な文章は少ないでしょう。「~美味しうございました」と幾度も繰り返す生への執着に息を呑んでしまいます。なおこの遺書は『芸術新潮』の「世紀の遺書」(2000.12)で見ることができます。国家権力というリヴァイアサンは己の光輝のために、スポーツ・芸術・戦争などあらゆる営為を利用しつくすのですね。そして国家のために尽力した人々の血と汗を呑み込みながら肥え太っていく… 円谷幸吉を殺したのは誰か? When after all, it was you and me… (『悪魔を憐れむ歌』より) 彼の郷里福島県須賀川市には円谷幸吉記念館があり、遺書はここで保管されているそうです。なお国家によって自殺に追い込まれたもう一人のスポーツマン、佐藤次郎(テニス)も忘れるべきではないでしょう。本人は全英選手権出場を希望していたのにデビスカップ(国別対抗戦)出場を強要され、そして婚約を非難された結果、マラッカ海峡にて投身自殺をとげます(1934)。この二人は氷山の一角でしょう、国家の栄誉と国民の期待によってミンチにされた数多のスポーツマンがいるのだと思います。トリノ・オリンピックはほとんど見ていませんが、報道の様子を見ると日本のスポーツ界の体質は佐藤・円谷両氏の時代と変化はないようです。国家の栄誉と国民の鬱憤ばらしに翻弄される選手たち… あんなにメダルメダルメダルメダルメダルメダルメダルメダルと騒いだら、強烈なプレッシャーになっていい結果はでないのにね。私は、メダルを100個とる国よりも、みんなが一生スポーツを楽しめる時間と環境が保障されている国の方がいいな。何とあのリビアのカダフィ大佐がこう言っています。
 スポーツとは、体を動かすという意味でも、また民主主義という考え方からいっても、他人に代わってやってもらうべきではない。
 そして極めつけは、東京オリンピック女子体操金メダリストのベラ・チャスラフスカが着ていた赤いレオタード!!! 変な意味ではなく、垂涎しました。女性の肉体の美しさ・優美さを教えてくれた、忘れられない選手です。角兵衛獅子の如き軽業に堕してしまった昨今の体操競技から思うと、昔日の感があります。ビロード革命の後、チェコ政府の要職についたという話を聞きましたが、今どうしているのでしょう。なお番外として、ナディア・コマネチがモントリオール大会で着ていた白いレオタードもありました。女子体操の軽業化は彼女あたりから始まったような気がします。
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 本日の一枚は、円谷幸吉の足型です。
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 追記。東京都議会議員が連盟をつくり、石原都知事とともに東京へのオリンピック招致をめざしはじめたようです。やれやれ、「民には、パンとサーカスを与えておけ」というわけですか。
by sabasaba13 | 2006-02-23 06:04 | 東京 | Comments(0)

東京錦秋編(1):新宿御苑(05.12)

 12月のはじめに、都内で紅葉狩りをしてきました。新宿御苑、神宮外苑、小石川植物園あたりをふらつき、時間があれば自然教育園、庭園美術館、関口芭蕉庵に寄ってみましょう。
 まずは新宿御苑へ。お恥ずかしい話、ここには初めて入ります。入園料200円というのは納得できないし許せないし弾劾したいですね。入るのに金をふんだくるなんて、公園の風上にも置けねえ、叩き切ってくれる! と桃太郎侍のように憤慨してしまいます。公園の維持管理費にまわるのであれば、喜んで税金は払いますよ、是非無料にしていただきたい。自衛隊のイージス艦か、原子力発電所一基分の値段で十二分にまかなえると思いますが。
 それはともかく思ったより広い公園ですね。かつて信州高遠(たかとお)藩主内藤家の下屋敷のあった所で、1879(明治12)年に内省管轄の新宿植物御苑となったそうです。その窮乏ぶりを「銭は内藤豊後守、袖からぼろが下り藤」と江戸庶民にからかわれた内藤家なのかな。フランス式整形庭園・イギリス風景式庭園・日本庭園が雑然と並び、これといった見所もなく、庭園の眺めも凡百ですが、とにかく広い。もうそれだけで十分ですね、そろそろ見頃の紅葉を楽しめました。日本最古の擬木の橋と、皇族のための洋風休憩所が残されています。日本最古の温室もあったと聞きましたが、これは取り壊されたとのことです。惜しい、識見を疑います。古い温室というものは、鉄とガラスという産業革命の精華を駆使した歴史の貴重な証言者なのに。これで戦前に作られた温室で残されているのは、名古屋東山植物園の物件ぐらいなのかな。イギリスのキュー植物園の温室も、機会があれば是非見てみたい。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2006-02-22 06:14 | 東京 | Comments(0)

谷中七福神編(3):(06.1)

 不忍池にある弁天堂は予想以上の混雑でした。朱印を押すための七福神が刷られた版画の値段を見ると、1,200円! おまけに300円払わないと朱印を押してもらえないようです。縁起物だからいいじゃん、と許容する気にならず、信心深くもないので、朱印は一切カットすることにしました。
 このあたりにはたくさんの石碑が建ち並び、これを見ているだけでも楽しいですね。弁財天を祀っていることから、まずは音楽関係のものとして八橋検校や杵屋六三郎の碑がありました。それからどういうわけか調理関係の碑も多く、ふぐ供養や包丁塚。後者はあの名作「包丁人味平」の中で、味平が元五条流仲代圭介と包丁試しを行った伝説の場所です。それからめがねの碑、そして「放浪の画家・日本のゴッホ」と呼ばれる長谷川利行を顕彰した利行碑(揮毫は熊谷守一)などがありました。
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 ここから次の護国院に向かう途中に森鴎外旧居跡の碑があり、すこし行くと上田邸(旧忍旅館)がありました。ここにあったのか! これは嬉しい偶然です、マンサール屋根にイオニア式列柱を組み合わせた奇抜なデザインです。以前ある本で見かけていつか見たいと思っていたのですが、ここにあったんだ、眼福眼福。国鉄の下山総裁が轢死体で発見される直前に泊まっていた旅館だったような気がするなあ。記憶違いかもしれません。
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 そして大黒天がある護国院に到着、ここの庫裏一階部分は、歌舞伎座などを手がけた岡田信一郎の設計によるものです。少し先に行くと、こんな掲示がありました。労働者を大事にする姿勢がいいですね寺田商事さん、機会があったら(ないと思いますが)贔屓にさせていただきます。
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 昔の雰囲気をそこはかとなく残す味わい深い街並みを歩いていると「愛玉子(オーギョーチイ)」という摩訶不思議なお店を見つけました。今調べてみたところ、「愛玉子とは台湾でしか取れない果実。その果汁を寒天状に固め、シロップやかき氷をかけたり、あんみつに入れたりして食べる。大正初期からあるオリジナルの名物で、とうとう店名にまでなった伝説のデザート。藤山一郎、サトウハチロー、橋本明治、東山魁夷ら、愛玉子を愛した芸術家は数知れず、高名な作家の作品が飾られている。」ということでした。再来を期しましょう。すぐ近くの大雄寺にある高橋泥舟の墓を参を訪ね、珍々亭で炒飯をいただきました。TVで柳家小三治が「小言念仏」を噺しておりましたが、飄々とした味わいがいいですね、油がのっています。さて次は長安寺の寿老人、この寺には狩野芳崖の墓や板碑があります。
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 そして谷中霊園に向かい、幸田露伴の小説のモデルとなった五重塔跡を拝見して、毘沙門天のある天王寺へ。
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 そして下町情緒溢れる商店街「谷中ぎんざ」に向かいました。きれいな夕焼けが見える「夕焼けだんだん」という石段のある商店街です。
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 次なるは布袋のある修性院。この布袋さんはインパクトのある像ですね、夢にでてきそう。こちらには滝沢馬琴筆塚があります。その先が青雲寺の恵比寿。ダイエットの必要がありますが、苦みばしったいい男です。
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 ここから西日暮里界隈をぬけて田端にある東覚寺まで歩いて約15分です。門前に何やら赤い物体が二体並んでいます。何だ何だ何だと思い近寄ると、体中に赤い紙を貼り付けられた仁王、赤紙仁王でした。疾患のある部分に赤い紙を張って祈願すると治癒するという伝承で、もともとは江戸期に疫病鎮めのために建立されたようです。なるほど、赤の持つ呪力が疫病を鎮めるという民間信仰はよくみられますね、お地蔵さんの赤いよだれかけや、還暦の際に着る赤い羽織や、「赤ちゃん」という言い方もこれと関連があるのでは。それにしても人々の切なる祈りを具現化したようなその迫力には圧倒されました。京都の千本ゑんま堂や釘抜きさんを思い出しますね。
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 さて最後の七福神、福禄寿を拝見すると社務所に朱印乾燥用ドライヤーがありました。気が利いているというか、即物的というか… 二宮金次郎像があったのも驚きです。何が何でもおめーらの願いをかなえてやるぜ、べらんめえ、というその意気やよし。 なお裏手の庭園にはプチ七福神が配置されており、時間と体力のない方にはお勧めです。そしてJR田端駅まで歩いて、帰宅。
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 というわけでちょうどいい距離の散歩ができました。途中にある見所の多さと落ち着いた街の雰囲気という点では隅田川七福神より面白いのではないかな。朝倉文夫彫塑館(猫好きにはたまりません)、大名時計博物館、三遊亭円朝の幽霊画コレクションがある全生庵、岡倉天心記念公園など、面白い物件が目白押し。

 本日の一枚は、東覚寺庭園のプチ七福神です。あれっ一人多いな…
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by sabasaba13 | 2006-01-12 06:12 | 東京 | Comments(0)

谷中七福神編(2):上野公園(06.1)

 まずは両大師堂にある黒門を見学。彰義隊を中心に旧幕府武士が明治新政府に対して徹底抗戦した上野戦争の弾痕が生々しく残る当時の門は南千住円通寺に移築されており、これは1964年に復元された門だということです。門扉に数ヶ所残る弾痕は当時のものなのでしょうか。なおこれを鎮圧した、新政府軍司令官が大村益次郎ですね。
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 科学博物館の前に行くと、バスガイドのみなさんが熱心に研修をしておりました。野口英世の銅像に挨拶をして、国際こども図書館へ。
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 日本初の国会図書館としてつくられた、堂々とした風格ある煉瓦建築です(1906年築)。法務省や慶應大学図書館とならぶ、都内でも屈指の近代建築ですね、一見の価値あり。その前には、土井晩翠が長男の遺志をくんでつくった小泉八雲の記念碑があります。隣りは黒田清輝記念館。
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 そしてここの交差点にあるのが、旧京成博物館動物園駅の駅舎です。現在は使用されていないのですが、たいへん凝った意匠のギリシア神殿風建築です。よかった、取り壊されていなかった。周囲の景観を配慮したデザインだと思いますが、ぜひ保存し続けてほしいな。日本初の音楽ホール奏楽堂の前を通り過ぎると「文晁碑」がありました。揮毫は徳川家達で、側面の碑文が削り取られています。何か謂れがありそうですね。
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 上野公園生みの親ボードワン博士像・小松宮像・グラント将軍夫妻植樹碑を拝見して、お化け灯篭へ。1631年に佐久間大膳が寄進した、高さ7mの巨大灯篭です。同型のものを南禅寺・熱田神宮にも寄進したそうです、昨年両所に行ってきたのですが気づきませんでした。
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 さて空腹となったので、精養軒で昼食をとろうかと思い立ち寄ったところ、長蛇の列です。やめやめ、我慢して谷中あたりで昼飯としましょう。すぐ近くの大仏山パゴダには、かつてここにあったが焼失した大仏の顔面部分のみが飾られています。芭蕉が「花の雲鐘は上野か浅草か」と歌った時の鐘を見上げながら、清水観音堂へ。途中で最近つくられたらしい「時忘れじの塔」がありました。碑文には、関東大震災や東京大空襲といった悲しい出来事を思い起こしてもらいたいとありますが、天災と人災を一緒くたにしないでほしい。
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 人形供養で有名な清水観音堂を拝見して、少し先に行くと彰義隊士の墓碑があります。新政府をはばかって、正面には「戦死之墓」としか刻まれていません(揮毫は山岡鉄舟)。なおその遺体は見せしめのため長期間放置され、それを憐れんだ円通寺住仏摩により同寺に葬られたそうです。函館にある碧血碑を見た時も感じたのですが、敵や敗者に対する新政府の冷酷さを見るにつけ、靖国の精神につながっていますね。かつては、敗者を御霊として手厚く祀り、あるいは戦さが終わると敵味方区別なく弔うという伝統もあったはずなのですが、近現代の日本政府はここから逸脱しています。供えられたわずかの花と十数枚の一円玉が悲しい。置かれた立場は似ているのに、新撰組に人気が集中するのは不思議です。その墓碑に尻を向けて屹立する西郷隆盛像をひさびさに拝見。
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 ふと気づくとその脇に昭和天皇が皇太子の時に、この高台から大震災の被害状況を展望したという記念碑がありました。国見ですかね。階段を不忍池へと降り、いよいよ谷中七福神めぐりの開始です。
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 本日の一枚は、彰義隊士の墓碑です。
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by sabasaba13 | 2006-01-11 06:17 | 東京 | Comments(0)