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虐殺行脚 東京編(14):亀戸(16.10)

 それでは亀戸駅へと戻りましょう。ビルの狭間から見えるスカイツリーを撮影。近くのお店に「亀戸大根とあさり鍋」という看板がありました。転記します。
 亀戸大根(別名お多福大根) 江戸時代から大正まで當地で栽培された大根でこぶりできめ細かく葉も柔らかいのが特徴の江戸野菜です 當時は漬物として庶民に親しまれていましたが江戸前のあさり鍋に相性が良く當店のあさり鍋には使われています
 ここ「升本」というお店で食べられるようです。まだ開店しておりませんので再訪を期しましょう。虚飾に満ちた貧相な通りをしばらく歩くと、「コルドバ」というパチンコ屋がありました。
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 コルドバ…かつてウマイヤ朝の首都として栄えたスペインの町のことでしょうか。以前に訪れたことがあります。なぜそれを店名にしたかは分かりませんが。それにつけても気になるのは、パチンコ依存症の現状です。『なぜ韓国は、パチンコを全廃できたのか』(若宮健 祥伝社新書226)を読んでいただければわかるのですが、違法であるにもかかわらず換金行為が公然と横行し、ハイテク技術を駆使した賭博性の高い機械があふれ、店内にATMがあるのは当たり前、五万円の軍資金がなければ落着いて打てない状況になっているそうです。さらにコンピューターによる顔認証システムも導入されるケースもあり、入店した客の顔を検知してデータベース化して、出玉を調整するのだそうです。若宮氏の推定によると、パチンコ依存症の人は100万人を越え、巻き添えになっている家族を含めるとその被害者は300万人を越え、さらに年金生活者と主婦といった社会的弱者をターゲットにしていると氏は指摘されています。しかし一向に規制される様子が見えないのは、警察と政治家が利権がらみでずぶずぶの状態だからですね。
 それに対して、パチンコを全廃させた韓国。なぜ韓国ができて日本ができないのか。これは国民性の違いというよりも、歴史的経験の違いだと思います。「ハンギョレ新聞」の創刊時の編集局長だった成裕普(ソンユポ)氏の言葉を何度でもくりかえします。
 当たり前ですよ。われわれ韓国人は、あのひどい軍政時代に市民が血を流して闘い、自らの力で民主主義を獲得しました。だからわれわれは自信を持っています。日本の歴史で、市民が自分の力で政権を覆したことが一度でもありますか。
 桂太郎内閣と岸信介内閣を倒したのは、それに該当すると思いますが。ただ偉そうに付言すると、第二次大戦後の、アメリカと日本に支えられた軍事政権への命がけの抵抗だけが、民主化を求めるパワーとそれに対する自信を生んだのではないと思います。三十六年間の苛酷な植民地支配、独立運動・義兵運動への凄惨な弾圧、いま追いかけている関東大震災時の虐殺、強制連行、創氏改名をふくむ皇民化政策、従軍慰安婦など、われら日本によって行なわれた行為から、朝鮮の方々は人権と民主化の大切さを身に心に刻み込んだのではないでしょうか。そして戦後の軍部政権期においてもその炬火は燃え続け民主化を勝ち取り、そしてそれが脈々と若い世代に受け継がれている。朴槿恵(パク・クネ)大統領を辞任へとおいこんだ、パワフルな抗議行動を見ているとそう痛感します。なお『韓国現代史』(文京洙 岩波新書984)の書評を読んでいただけると幸甚です。
 なお北朝鮮の方々がこの炬火をどのようなかたちで受け継いだのかも、ぜひ知りたいところです。
by sabasaba13 | 2017-03-24 06:22 | 東京 | Comments(0)

虐殺行脚 東京編(13):亀戸事件(16.10)

 労働運動家たちが追い込まれた、緊迫した状況を、『女工哀史』を書いた細井和喜蔵の妻・高井としをが、『わたしの「女工哀史」』(岩波文庫)という自伝の中で、こう語っています。
 七日目ぐらいになると余震も少し間をあけるようになり、アパートへ帰ろうかと思っている時でした。細井の友人で、同人誌に詩を書いている山本忠平さんが、坊主頭で紺の印ばんてんに縄帯姿で現われました。「君たち、こんなところでなにしていたのか。早く逃げないと殺されるぞ。南葛労働組合の執行部は全員殺された。僕も今から田舎へ行く。とにかく早く逃げろ。アパートへ荷物をとりに行ったらつかまるぞ」といって、お別れしたのです。(p.81)
 なお亀戸事件および大杉栄虐殺事件と、朝鮮人虐殺をひとくくりにしてとらえる意識が私にはありましたが、下記の二書によってその蒙を啓かれました。まずは『関東大震災と朝鮮人虐殺 80年後の徹底検証』(山岸秀 早稲田出版)です。
 しかし自警団は、社会主義者からの自警をさほど意識していなかったようである。自警団による社会主義者襲撃は事件としてはあるが、数としては非常に少ない(公式記録の特別審査局資料では二件。この資料にはのっていないが、埼玉県熊谷町で自警団が社会主義者を襲ったとの聞き取りもある)。むしろ社会主義者は自警団に加わってさえいる。官憲によって虐殺されるアナーキストの大杉栄自身、九月九日以降、自警団に加わっていた。

 姜徳相は社会主義者が自警団に加わっていたこと(大杉だけではなかった)について、「社会主義者が朝鮮人を殺したという証拠はない。しかし、社会主義者を含む自警団が殺す側にあり、殺される側に朝鮮人がいたという事実は否めない事実である」(関東大震災70周年記念行事実行委員会編 『この歴史永遠に忘れず』 日本評論社 1994年)と述べている。
 神田文人は「関東大震災後の社会主義者の発言に亀戸事件・甘粕事件の批判・告発はあるが、朝鮮人虐殺の告発、中国人虐殺の批判はない」(同書)と述べている。(p.43)
 そして『関東大震災』(姜徳相 中公新書414)です。
 前二者(※亀戸事件・大杉事件)が官憲による官憲の完全な権力犯罪であり、自民族内の階級問題であるに反し、朝鮮人事件は日本官民一体の犯罪であり、民衆が動員され直接虐殺に加担した民族的犯罪であり、国際問題である。この相違を峻別しないということはない。(p.208)
 「関東大震災後の社会主義者の発言に亀戸事件・甘粕事件の批判・告発はあるが、朝鮮人虐殺の告発、中国人虐殺の批判はない」という言葉の重さを銘肝します。
by sabasaba13 | 2017-03-23 06:27 | 東京 | Comments(0)

虐殺行脚 東京編(12):亀戸事件(16.10)

 また『日本の百年6 震災にゆらぐ』(今井清一 ちくま学芸文庫)には、下記のような一文がありました。
 亀戸事件となると、真相の発表も責任者の追及も、ともに大杉事件に輪をかけたいいかげんなものだった。事件は九月五日の払暁に起こされていたのに、警視庁は、十月十日までじつに一ト月以上も、ひたかくしにかくしていたのである。
 「東京亀戸署が□余名を□殺した事実ついに暴露して発表さる (注、□印は削除を示す)
 大震災の起こった際、東京亀戸署に多数労働者殺戮の惨害が強行されたが、絶対に秘密を守ると同時に、警視庁は内務省警保局と打ち合わせ、一切掲載の禁止を命じて許さなかったところ、証拠として消すべからざる事実にたいし、秘密はとうてい保たれうべくもあらず、ついに十日警視庁はその事実を発表せざるを得ざるにいたった。
 事件の内容は、東京市外大島町三ノ二二三純労働者組合長平沢計七が震災三日夜十時ごろ、夜警から帰宅したところを張り込みの亀戸署に検束され、市外亀戸三五一九南葛飾労働組合本部理事川合義虎(二二)同山岸実司(二一)同北島吉蔵(二〇)同鈴木直一(二二)同近藤広造(二〇)同加藤高寿(二七)等が三日夜会合したところを亀戸署の多数刑事に踏み込まれ、書類・端書などことごとく押収検束され、さらに吾嬬町大字小村井南葛飾労働組合吾嬬支部を家宅捜索後、夜警中の同支部長吉村光治(二四)を九名が襲いかかって検束しさったが、その後家族知己が検束後の消息を案じ、亀戸署に照会するとことごとく放還の旨を回答した。
 しかるに事実は三日(ママ)午前三時から四時のあいだに同署演武場前広場において前記八名と他□名を整列させ、軍隊と協力して銃剣をもって刺殺し、惨死死体は連日夜陰に乗じて自動車で木下川、荒川放水路方面に運び、河中に投棄もしくは某所に埋葬したものである。氏名不明の□名は震災三日の混乱に乗じ、相生署管内における強盗掠奪団の一味三名その他七、八名の□□□等である。(東京電話)」 (大阪毎日新聞、一九二三年十月十一日)
 これでは、警察と軍隊(習志野の騎兵第十三連隊)による組織的な虐殺事件と思われても、弁解の余地はあるまい。それなのに、古森亀戸署長は、発表にさいして、事件の原因を、つぎのように語ることを忘れなかった。
 「平沢計七ら八名は、二日の晩に亀戸三ノ五一九南葛労働組合本部川合義虎方の屋根上で、火災を見ていて『おれたちの世がきた』と革命歌をうたい、不逞漢が毒薬を井戸に投入したなど流言をはなっていたことを川合の付近のものが密告してきたので、おどろいて引っぱってきた。そのうち佐藤欣治、中筋宇八の二人は、不逞漢とともに暴動したので本署に連行したのである。
 ところが四日夜、前述の自警団四名のさわぎに応じてさわぎたて、そのうえ同夜十二時から五日午前三時のあいだに、留置中の不逞漢一団が狂暴となり、すさまじい奇声をあげると、一同付和雷同し、全署にみちた留置人は足ぶみして革命歌を高唱し、『殺すなら殺せ、われらの世がきた』と狂暴いたらざるなきありさまとなり、これが成り行きはじつに恐るべき状態となったので、自分は死を覚悟し、署員一同にも同様覚悟を申しわたしました。到底手がつけられないので、やはり軍隊に制止方を依頼すると少尉が五、六名の兵士をひきいてきた。するといっそうさわぎが大きくなり暴れ狂うものを監房からひきだすと、またも薪雑棒をふりかざして抵抗したから、兵士はついに彼らを演武場まえ広場につれ行き、銃剣でさし殺したのである。
 死体はその場で一時菰をかぶせておいたが、臭気を発散するので、七日、四ツ木橋の荒川放水路における焼死体圧死者火葬の場所へ運び、火葬に付したのである。遺族が本人の消息を尋ねに来たが放還したと答えておいたのは、殺したといったら、騒ぎが大きくなるからと思ったのでいまさら考えれば、じつに申しわけないが、自分はあの場合やむをえない処置として悪いとは思っていない。警視庁へも報告したが何とも自分の進退に関して言ってこない。自分もまた辞表を提出しようとも考えていない。(東京電話)」 (大阪毎日新聞、十月十二日)
 しかし総同盟会長の鈴木文治は、当時いあわせた幾多の証人の言をひいて、亀戸署長の言を反駁している。第一に、平沢らは拘引前になんの不穏挙動もなく、かえって罹災者救済のために活動していた。第二に、平沢らがほうりこまれたその夜の警察ははなはだ静粛で、革命歌も聞こえなければ、さわがしくもなく、ただ終夜銃声のみが聞こえた。第三に平沢らは手錠をかけられていたらしく、殺されるときには抵抗をせず、また抵抗ができなかったという。(鈴木文治「亀戸事件の真相」、『改造』 一九二三年十一月)
 種蒔き社では「亀戸の殉難者を哀悼するために」翌一九二四年一月に事件関係者の記録を集めて『種蒔き雑記』を出し、とくに「この雑記の転載をゆるす」と断り書きを付した。これによっても、殺された平沢、川合らはいずれも夜警に出ており、自警団の朝鮮人迫害をおしとどめたことはあっても、なんら不穏な行動をとっていなかったことがわかる。
 平沢と川合について、土田杏村はこう書いている。
「ぼくが従前からその思想を知っていたのは、平沢計七、川合義虎の二人である。前者は『労働週報』の編輯者であり、後者は南葛労働組合の幹部であった。南葛労働組合の名をぼくが知ったのは、本年春、本所の汽車会社事件のときからであったが、この事件は労働者のうちの集中主義派と自由連合派の争いのもっとも露骨になったものとして有名であった。川合義虎らの南葛労働組合はそのなかの集中主義派にぞくしていた。川合の書いた論文は『労働新聞』などにのっているが、その趣旨は自由連合主義を攻撃したものであり、彼ら自身の立場については語るところがない。しかしボルシェヴィズムにかたむいた組合の集中主義を信奉していたことだけは疑うべくもない。
 平沢計七は『労働週報』の編輯者であったから、ぼくはもっともひんぱんに彼の思想をうかがうことができた。彼は労働組合の発達に力を注いでおり、社会主義やアナーキズムにたいしては、なるべく中立的態度を取ろうとしていたようである。これは編輯者たる彼の地位がそうさせたのでもあろうが、とにかく彼はつねにそのことを公言していた。一時『労働週報』は自由連合派にかたむくもののごとくみえ、その種の論文がたくさんにのった。しかるに平沢が編輯署名人になってからは、その態度がすっかりのぞかれ、両派の意見を公平に掲載し、平沢自身はそれに中立的の態度を持した。ぼくはひそかに彼の編輯ぶりに感心していたものである。
 新居格が『週報』の立場を『解放』に書いて、『週報』は従来自由連合主義にかたむいていたが、最近にはふたたびボルシェヴィキの態度を復活させるそうだと書いたときには、平沢はすぐにそれを誤報だと取り消して、
『労働週報はアナーキーでもなければ、ボルシェビキーでもない。合同派でもなければ、自由連合派でもない。いま労働者共通の階級意識を訴えて、資本主義を倒す剣であり、その事実を報道する筆である。同時にまた、全労働者の友情に訴えて、意志の疎通、感情の融和を計る「暖き手」である。』 (『労働週報』 一九二二年十二月十二日)
 と書いた。
 ぼくはさらに平沢が、たんなる暴力主義者ではなく労働争議の場合には、つねに穏健の手段を取ることにつとめてきた人だということを、ここへとくに記載しておきたい。大島製鋼所の争議に平沢が加わっていたため、官憲は彼をその煽動者ともくし、あらゆる圧迫の手段をとったとき、彼が憤慨して書いた一文のなかにつぎの言葉はよく彼の態度を語っている。またその煽動は事実でなかった証拠には、平沢自身が書いているとおりに、彼は監獄へもどこへもぶち込まれずにすんだのである。
『おれはかつて労働争議に関係したことが、過去七、八年間にわたって、百件以上にのぼっている。しかしながら幸か不幸か、いまだ暴行事件をひき起こしたことはない。それは一面急進論者にたいして相すまんことであると思っているが一面、悲惨な谷底へ蹴落さるる労働者を見るにしのびなかったからである。』 (『労働週報』 一九二二年十一月二十一日)
 こうした態度の平沢が、いかに混乱をきたしたときとはいえ、古森警察署長のいうごとき事実をなしたとは、どうしても考えられない。」 (土田杏村 『流言』)
 川合義虎は、坑夫出身で渡辺政之輔とともに南葛労働会を組織した闘士で、共産青年同盟の委員長でもあった。吉村光治も南葛労働会の闘士だが、孝行息子で評判だった。震災のときには、病母を背負って避難し、しもの世話までしている。実兄の南喜一は弟を殺されたことに憤慨し、やがて共産党に入党して活躍した。(のちに水野成夫とともにもっとも早く転向し、一九六二年当時国策パルプの重役であった。)
 立花春吉も亀戸署に検束されたひとりだが、あやうく助かった。彼は亀戸署の凄惨な模様をこう供述している。
「身の危険を感じたので、私は九月三日亀戸署に保護を願い出た。自分のいた室は奥二階の広い室で、行った当日は二十人ぐらいを全部鮮人の人であったが、四日ぞくぞく増して、たちまち百十名以上の大人数になり足をのばすことさえできなくなった。
 四日の朝便所にいったら、入口のところに兵士が立番をしていてそこに七、八人の死骸や○○○○○○にムシロをかけてあった。また横手の演武場には血をあびた鮮人が三百人ぐらい縛られていたし、そのほかの軒下に五、六十人の支那人が悲しそうな顔をしてすわっていた。
 四日夜は凄惨と不安にみちていた。銃声がぽんぽん聞こえて翌朝までつづいた。しんとして物音ひとつ聞こえない。ただ一人の鮮人がかなしい声をあげて泣いていた。
『自分が殺されるのは、国に妻子をおいてきた罪だろうか、私の貯金はどうなるだろう』
 この怨言はさびしく、悲しく、聞くにしのびがたいものであった。
 翌朝立番の巡査が言った。
『昨夕は鮮人十六名、日本人七、八名殺された。鮮人ばかり殺すのでない。わるいことをすれば日本人も殺す。おとなしくしていてわるいこともなければ殺されないぞ』
 そのとき、ふと私は〈南葛労働組合の川合〉という言葉を聞きつけた。三人ばかりの巡査が立ち話をしているのだ。〈やられたな〉と私は急に自分の身がおそろしくなった。
 五日便所へいく道で、日本人らしい三十五、六歳の男が二人はだかにされて手を縛られているのを見た。一人は頭に傷があり、一人は半死半生の状態であった。
 その夜また数十人殺された。銃と剣で。
『いやな音だね。ズブウと言うよ』
 窓からのぞいてみた老巡査が妙なアクセントで、ほかの二人の巡査に話していた。」 (「地獄の亀戸署、『種蒔き雑記』)
 藤沼栄四郎にいたっては、はるかあとの九月十八日になって検束され、亀戸署で半死半生の目にあわされた。芝浦に荷揚げの仕事があることがわかったので、失業者救済のため、
「会員にして職を求むるものは三田四国町労働総同盟本部に来たれ、なるべく朝六時半まで、南葛労働会本部」
というビラを刑事の承諾をえてはったのに、軍隊から言いがかりをつけて留置されたのである。
 多数の警官のなかには、しぶしぶ手を下したものもいる。八島京一は平沢計七のグループの一人だったが、彼は、九月四日の朝、顔なじみの巡査から、ある告白を聞かされた。
「自分は三、四人の巡査が荷車に石油と薪をつんでひいていくのと出会った。そのうち友人の丸山君を通じて顔なじみの清一巡査がいたので二人は言葉をかわした。
『石油と薪をつんでどこへ行くのです』
『殺した人間を焼きに行くのだよ』
『殺した人間…』
『ゆうべ人殺しで徹夜までさせられちゃった。三百二十人も殺した。外国人が亀戸管内に視察にくるので、きょういそいで焼いてしまうのだよ』
『みな鮮人ですか』
『いや、なかには七、八人社会主義者もはいっているよ』
『主義者も…』
『つくづく巡査の商売がいやになった』
『そんなにおおぜいの人間をどこで殺したんです』
『小松川へ行くほうだ』 (「平沢君の靴」、『種蒔き雑記』)
 虐殺が組織的におこなわれたことは明らかであろう。
 虐殺をわずかに逃れた人びとで、現在なお社会運動に活躍している人も少なくない。
「南葛労組の指導者として(川合らと)起居をともにしていた黒田寿男は、…震災の日の前夜、腸チフスで入院したため、千葉騎兵連隊の刺殺からまぬがれた。浅沼稲次郎や稲村順三や北原竜雄や森崎源吉やなどは近衛騎兵連隊の営倉から移されて淀橋警察戸塚分署に拘留されていたので、これも命拾いをした。私は平沢計七の斬られた首を胴体の横に据えて写されたガラス板の写真の原板を持っておったが、いつとなく失ったことは残念でたまらない。」 (鈴木茂三郎 『ある社会主義者の半生』 一九五八年)
 川合らは、たんに兵士の銃剣で刺し殺されたのではなかった。おそらく鈴木が失くしたのと同じだと思われる写真が、志賀義雄の『日本革命運動の群像』(一九五六年)にかかげられている。(p.142~51)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-03-22 06:32 | 東京 | Comments(0)

虐殺行脚 東京編(11):亀戸事件(16.10)

 『九月、東京の路上で 1923年関東大震災 ジェノサイドの残響』(加藤直樹 ころから)から引用します。
警察署の中で 1923年9月4日 火曜日 朝 亀戸署

 朝になって立番していた巡査達の会話で、南葛労働組合の幹部を全員逮捕してきてまず2名を銃殺した、ところが民家が近くにあり銃声が聞こえてはまずいので、残りは銃剣で突き殺したということを聞きました。私は同志の殺されたことをここで始めて知り、明け方に聞いた銃声の意味も判りました。
 朝になって我慢できなくなり便所に行かせてもらいました。便所への通路の両側にはすでに3、40名の死体が積んでありました。この虐殺について、私は2階だったので直接は見て居ませんが、階下に収容された人は皆見ているはずです。虐殺のことが判って収容された人は目だけギョロギョロしながら極度の不安に陥りました。誰一人声をたてず、身じろぎもせず、死人のようにしていました。
 虐殺は4日も一日中続きました。目かくしされ、裸にされた同胞を立たせ、拳銃をもった兵隊の号令のもとに銃剣で突き殺しました。倒れた死体は側にいた別の兵隊が積み重ねてゆくのを、この目ではっきり見ました。4日の夜は雨が降りましたが、虐殺は依然として行われ5日の夜まで続きました。(中略)
 亀戸署で虐殺されたのは私が実際にみただけでも5、60人に達したと思います。虐殺された総数は大変な数にのぼったと思われます。(全虎巌)

 労働組合の活動家たちが殺された事件はその後、「亀戸事件」と呼ばれるようになる。平沢計七や河合義虎など10人が、9月3日夜、亀戸署に検束され、警察の要請を受けた軍(騎兵13連隊)によって殺害されたのである。平沢らが殺された日については、3日夜という説と4日夜という説があるようだ。殺された10人のうち、平沢以外の多くは20歳そこそこの若さだった。
 しかし、このとき殺されたのは彼らだけではない。自警団4人と、そして人数もわからない多くの朝鮮人たちがいた。
 …亀戸署は管内に工場が密集し、労働運動が盛んに行なわれていたため、これに対する取締り、監視を重要な任務とする公安色の強い警察署であった。震災当時の署長の古森繁高も、もとは警視庁特高課労働係長であった。ようするに左翼や外国人を敵視する雰囲気がほかの警察署以上に強かった。
 さらに震災直後、亀戸署の管内は混乱が激しかった(四ツ木橋、大島、亀戸駅周辺も管内)。「闘争、殺傷在所に行はれて騒擾の巷と化したれども、遂に鮮人暴行の形跡を認めず」と同署が記録している。
 警官隊は、軍とともに騒擾の現場に出向いては朝鮮人を検束。1000人を超える朝鮮人、中国人で署内はすし詰め状態だった(これに対して、署員の数は230人程度)。これは決して朝鮮人を保護することへの積極性の表れではなく、むしろ「不逞鮮人」検束への積極性の結果である。
 警視庁は前日の3日以降、勝手にリンチを行うなといった内容のビラをまくなど、権力のコントロールのきかない自警団の活動を抑え込み始めた。朝鮮人暴動の実在に否定的になってきた現われでもあるが、この時点ではまだあいまいだった。
 亀戸署では拘留中の日本人自警団4人も殺害されている。自警団の4人は彼らの行動をとがめた警官に日本刀で切りかかったとして逮捕されていた。房内で「殺すなら殺せ」と騒ぎ続けたという彼らに対して、亀戸署は軍に要請して殺害させたのである。そこから、活動家や朝鮮人の虐殺が始まる。
 証言者の全虎巌(チョン・ホオム)は、共産主義者の河合義虎などが指導する南葛労働組合のメンバーだった。学校に通うため2年前に来日した全は、朝鮮独立への思いから社会変革の必要を考えるようになり、この頃、ヤスリ工場の労働者として労組の活動を熱心に行っていた。
 2日以降、街中で自警団が朝鮮人を襲うのを目にして、全は身の危険を感じる。警察で朝鮮人を収容し始めていると聞き、その方が安全だと判断。2日昼ごろ、工場の日本人の友人たち10数人に取り囲んでもらいつつ、亀戸警察署に向かったのである。道すがら、竹やりが刺さった朝鮮人の死体をあちこちで見た。
 亀戸署に収容されていた朝鮮人には、自警団の襲撃を逃げのびて自らやって来た人も多かったことを、全の証言は伝えている。だが、亀戸署内は外よりも危険な場所であった。
 全は7日まで亀戸署に置かれ、その後、習志野の旧捕虜収容所に送られた。4日午後4時に戒厳司令部が東京付近の朝鮮人を習志野の収容所などに保護収容することの命令を出したのだ。この収容は10月末まで続いた。解放されたあと、全はいったんは帰国を考えるが、やはり亀戸に戻ることにする。組合の仲間たちの安否を確かめたかったのだ。
 亀戸事件-亀戸署における10人の活動家殺害は大々的に報じられて問題となり、政府も10月、事実を認めたが、軍の適正な行動であったとして誰も罪に問われることはなかった。一方、同じときに同じ署でおきた朝鮮人虐殺については、真相の一端さえ明らかにされないままである。(p.72~5)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-03-21 06:30 | 東京 | Comments(0)

虐殺行脚 東京編(10):浄心寺(16.10)

 梅屋敷を右に曲がって路地にはいり、すこし歩くとお目当ての浄心寺に到着。本堂のすぐとなりに「亀戸事件犠牲者之碑」がありました。

 合掌

 碑の下部には犠牲者の氏名と年令が刻まれていました。
川合義虎 22 加藤高春 27 北島吉蔵 20 近藤慶造 20 佐藤欣司 22 鈴木直一 24 平澤計七 34 山岸実司 20 吉村光治 24
 碑文を転記しておきます。
 1923年(大正12年)9月1日関東一帯を襲った大震災の混乱に乗して天皇制警察国家権力は特高警察の手によって被災者救護に献身していた南葛飾の革命的労働者9名を逮捕、亀戸署に監禁し戒厳司令部直轄軍隊に命じて虐殺した。惨殺の日時場所ならびに遺骸の所在は今なお不明である。労働者の勝利を確信しつつ権力の蛮行に斃れた表記革命戦士が心血をそそいで解放の旗をひるがえしたこの地に建碑して犠牲者の南葛魂を永遠に記念する。
 1970年9月4日 亀戸虐殺事件建碑実行委員会

犠牲者之碑誌
 この犠牲者之碑を建立して23年の歳月を経た。この間研究の努力によって、中筋宇八 24も亀戸事件の犠牲者であることが立証された。当実行委員会は事件70周年記念事業のひとつとして、このことを確認し、碑にとどめる。なお、碑の改修にあたり、碑文等一部を書き改めたことを付記する。
1993年9月5日 亀戸事件追悼会実行委員会
 共産党員渡辺政之輔を指導者とする南葛労働会は川合義虎などの若い組合活動家を擁し、大正末期から悪法反対運動やメーデーの示威運動、亀戸での工場ストライキを指導するなど、果敢な運動を展開していました。亀戸警察署は同会をつねに敵視しており、それがこの虐殺につながったのですね。(『日本の歴史29 労働者と農民』 中村政則 小学館 p.309)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-03-20 07:23 | 東京 | Comments(0)

虐殺行脚 東京編(9):亀戸梅屋敷(16.10)

 東向島駅に戻り、東武スカイツリーラインで押上へ、半蔵門線に乗り換えて錦糸町へ、そして総武線に乗り換えて亀戸駅に着きました。めざすは浄心寺にある「亀戸事件犠牲者之碑」です。明治通りを北へ向かって歩いていくと、亀戸梅屋敷という商業施設がありました。
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 ん? てことはなにかいご隠居さん、歌川広重が江戸百(名所江戸百景)の一枚として描いたあの梅屋敷がここかい。説明板がありましたので、後学のために転記します。
 江戸時代、亀戸には呉服商伊勢屋彦右衛門の別荘があり、その庭には見事な梅の木が生えていました。立春の頃になると江戸中から人々がやってきて、この地はたいへん賑わったといいます。特に、「臥竜梅」と呼ばれた一株が名高く、水戸光圀や徳川吉宗も賞賛したそうです。
 また、歌川広重により描かれた浮世絵「亀戸梅屋敷」は、江戸の時代に海を越え、かのゴッホが模写するなど、日本のみならず世界から評価された傑作と言えるでしょう。
 フィンセント・ファン・ゴッホがパリにやってきた1886(明治19)年当時、浮世絵版画がヨーロッパで流行し、かつ安価で手に入ったそうです。(『週刊グレート・アーティスト ゴッホ』 同朋舎出版) その大胆な構図、装飾的色彩、力強い輪郭に魅せられて、熱心に収集した中の一枚、「亀戸梅屋敷」を漢字とともに模写したのですね。日本からもたらされた浮世絵がヨーロッパ美術に大きな影響を与えた、いわゆる「ジャポニズム」という動きがあったことは定説です。たとえば、美術批評家のI・E・シェスノーが、1878年にこうした言葉を残しています。
 その熱狂は、あたかも導火線の上を走る炎のような勢いであらゆるアトリエに拡がっていった。人々は、構図の思いがけなさ、形態の巧妙さ、色彩の豊かさ、絵画的効果の独創性、そしてさらに、そのような成果を得るために用いられている絵画的手段の単純さを嘆賞してやむことがなかった。
 ただその影響を過大視するのは慎んだ方がよいかと思います。画家のJ・ピサロは、1893年の手紙でこう書き記しています。
 日本の展覧会は驚嘆すべきものだった。広重は素晴らしい印象派画家だ…。これら日本の芸術家たちは、私たちの考え方が間違ってはいなかったということを改めて確認させてくれる。
 写真の登場によって、これまでの絵画に対する考え方を再考しなければならなかったヨーロッパの画家たちはさまざまな試行錯誤をはじめており、その動きの大きな触媒となったのが浮世絵だったと思います。素人考えですが。

 それはさておき、「名所江戸百景」は私の大好きな浮世絵連作です。大胆かつ斬新な構図はもとより、江戸という町に対する広重や庶民の愛着がびしびしと伝わってきて羨ましくなってしまいます。江戸ってこんなにも、人々に愛された町だったのですね。中でも一番好きな絵は…うーん…迷うところですが「深川洲崎十万坪」を挙げましょう。なお『謎解き 広重「江戸百」』(原信田実 集英社新書)という好著もあるので、お薦めします。
by sabasaba13 | 2017-03-19 07:53 | 東京 | Comments(0)

虐殺行脚 東京編(8):法泉寺(16.10)

 八広駅から京成押上線に乗って押上駅へ、そして東武スカイツリーラインに乗り換えて東向島駅に到着です。印刷して持参した地図を片手に十分ほど歩くと法泉寺に着きました。うろうろ探していると、本堂右手の一角に「感謝の碑」がありました。
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 建立したのは鄭宗碩(チョン・ジョンソク)さん。韓国の抵抗詩人・金芝河(キム・ジハ)とも親交があるそうです。彼の祖父一家は、関東大震災時に自警団によって殺されそうになりますが、働いていた工場長の真田千秋さんによって命を救われました。鄭さんは、2001年9月1日に、墨田区向島にある法泉寺(真田家の菩提寺)に、自費をなげうってこの「感謝の碑」を建立しました。

 碑文を転記します。
一九二三関東大震災の混乱のさ中 わが祖父鄭化九一家を虐殺の危機より救ってくださった故真田千秋先生のご恩を生前の父鄭斗満から常々聞かされ深く感銘をうけておりました 遥かな年月を経てしまいましたが先生の崇高な人間愛とその遺徳を讃えここに謹んで感謝の碑を建立させていただきます
二〇〇一年九月一日  迎日鄭氏家門一同
 しかし建立までには、ある経緯がありました。鄭さんの言に耳を傾けましょう。
 ただ、その間、碑を建てるまでには、一年半ほど間があったわけですが、碑を建てるというまでの考えはなかなか持ち合わせなかったというのが、本音のところなのです。こうした慰霊碑等はわれわれ在日の人間よりも日本人側で積極的に具体化させるべきではなかろうかという思いが強かったことがあります。
 しかしながら、先ほど話に出ました墨田区内での民間のボランティアの方々のその活動で2000年から2001年にかけて墨田区議会に陳情をして、碑を建てるために土地の提供ならびに管理の申し入れを正式にしたわけですね。ところが、それが継続審議になり、翌2001年の3月には否決されました。
 否決された具体的な理由、否決した側の立場からいいますと、関東大震災で虐殺されたという具体的な事実は墨田区内にはない。もうひとつはよしんばその事実があって慰霊碑を建てたとしても区民の利益にはなりえないということが理由だったわけですね。区議会、具体的には企画総務委員会というところで審議されていたのですけれども、私は傍聴していまして何とも気持ちのやり場がなかった。この委員は、本当に区民に選ばれた良心を持った方々なのであろうかと、憤懣やるかたないという心情でした。こうした、良識のかけらもない人たちが、墨田区の代表として選ばれた人たちなのであろうかという思いが強くて悶々としていました。そんな時に、知人の韓国の陶芸家金九漢(キムグハン)さん相談しましたところ非常に積極的で、ぜひこれを実現させようじゃないかと言ってくださいました。この方は、60年代の韓国の民主化で都合六年間牢獄に繋がれていた民主化運動の闘士でもあったのですね。そういう意味で、人権の抑圧ですとか、不条理に関しては正義感を人一倍燃やす人でした。(『世界史としての関東大震災』 関東大震災80周年記念行事実行委員会編 日本経済評論社 p.97~8)
 朝鮮人虐殺を忘却あるいは隠蔽しようとする日本人に対する怒りが、この碑に結実したことを銘肝しましょう。虐殺はたしかにあったのだ、そして少ないながらも朝鮮人を救った日本人もいたのだ、という事実を未来へ伝えようとされたのでしょう。
鄭さんと金さんは、犠牲になった人たちの霊を慰め、朝鮮民族の気概を日本や世界に示そうと、朝鮮文化の真髄のひとつ、陶磁器の焼き物で碑を作ることにしました。高さ約1メートル50センチ、重さ約450キログラム。それを韓国国内で製作し、土台の石は韓国全羅南道産の烏石という黒御影としました。そして一番上には民族の気概を表わす白頭山を配して、そこに金剛山もあわせる。それに、朝鮮では10の平和と長生きを象徴する日・月・鶴・松・不老草をあしらい、象嵌手法で仕上げたのが、この「感謝の碑」です。(同書 p.98)

 最後に、鄭さんの言葉をもう一つ引用します。
 最後に、ここ二、三年、少なくとも今年に入りまして、具体的には「創氏改名論」や、朝鮮植民地に対する「合法論」「国際的容認論」などといった発言が現役の閣僚の中から相次いで飛び出す事態は、昨日今日に始まったことではないのですが、歴代政権が誕生するたびにこうした暴言を吐いているということに関して、深い憤りを覚えるわけです。これは私だけでなく、民族全体からしてもとうてい我慢のならない憤激をかうという事態であります。
在日には、在日子弟の教育問題で大学受験の資格を認めない。欧米系の学校に関しては認めるけれども、朝鮮学校の卒業生に関しては認めない、教育の機会均等をうばう、こういう面でも差別をしている。ただ、この問題に関しては、非難轟々、世界から批判をされ撤回をしまして、いまは前進をしているという方向にあります。「私はこのごろ新聞ですとかテレビもつけたくない。テレビをつけると『北』の核だ、ミサイルだ、拉致だという問題が、報道されない日はない」そういうことをおっしゃる方がおりました。
私はいま冷静に判断しても、悪者扱いというこの流れが、偏見差別を助長する動きとして、具体的には「北」にまつわる問題だけではなくて、これがひいては在日朝鮮人に、アジアの民衆にいくのではないだろうか。これはもう韓国・朝鮮を問わず、国籍・所属団体を問わず、その矛先がやがてはどういう方向にいくのだろうかと思います。「草の根の右翼」という言葉もあるそうですけれども、こういう若い層の考えもかなりの広がりを持っているという話を私は聞くたびに、危惧をするわけなのです。昨日の報告の中でもあったのですけれども、世田谷区では自警団を組織したことに関して評価の声が上がったりしている。私がじかに目撃したものでは外国人犯罪に気をつけましょうという、いわゆる外国人排斥思想を煽りたてるであろう東京北区での町内会の各掲示板がありました。中国人の犯罪であるとか韓国人窃盗団であるとか、そういうニュースをエスカレートさせて、その矛先を結局どういう方向にむけていこうとしているのか。
私は80年前のその関東大震災のその異常事態といまの流れと本質的にどれだけの差があるんだろうかということを今も考えたりしているのですけれども、しかしながら時代は大きく変わっていくと思うのですね。逆風の中にあるとは思いますけれども、これは私がいつまでも長く続くとは思っておりません。(同書 p.101~2)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-03-18 08:53 | 東京 | Comments(0)

虐殺行脚 東京編(7):八広(16.10)

 言葉もありません。日本という国家は、そして日本国民は、なんて下劣で卑劣で愚劣で低劣なのでしょう。こうした過ちはもちろん弁護の余地はありませんが、どこの国家でも国民でも軽重の差はあれ過ちを犯すものです。問題はそれを過ちとして認め、真相を究明し、責任の所在を明らかにして該当の者に責任をとらせ、被害者・遺族・関係者に謝罪・賠償をすることです。それを隠蔽し、誤魔化し、責任もとらず謝罪もしなかった。そして政府や公的機関がいまだにしていない。国民もそうした政府の姿勢を批判もせずに、無知・無関心をきめこむ。そういう国家や国民は…恥知らずとしか言えません。共犯者の一人として、この歴史を調べて考えて、すこしでも多くの人に伝える努力をしていきたいと思います。

 碑の右どなりのお宅には「ほうせんかの家」という看板がかかっていました。こちらが「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」の本部なのですね。「ヘイトスピーチ、許さない。」というポスターが貼ってありました。社会的な少数者や弱者をいじめて快感を得るという卑劣なメンタリティはいまだに根強くのこっているのですね、やれやれ。

 それでは八広駅へと戻りましょう。途中に、「不審な人を見たらすぐ110番 ちかんに注意」という看板がありました。痴漢を弁護する気は毛頭ありませんが、こういう体感治安を悪化させるような看板やポスターが増えているような気がします。ほんとうに治安は悪化しているのでしょうか。深読みかもしれませんが、みんなが治安に不安を感じると利益を得る輩が陰で蠢いているのではないかと思ったりします。警備会社とか、監視カメラ業界とか、セイフティグッズ業界とか、そこへの天下りをねらっている警察官僚とかね。また私たちが相互監視の網を張り巡らすと、ほくそ笑む方々がいそうです。ちょっと心にとめておいた方がよい動きですね。そうそう、以前に長崎県の大村で「あの人は何か変だぞ110番」という強烈なポスターを見かけました。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2017-03-17 06:33 | 東京 | Comments(0)

虐殺行脚 東京編(6):八広(16.10)

悼む人々 「四ツ木橋」のたもとに建った碑

 1970年代。足立区の小学校で教鞭をとっていた絹田幸恵は、研究熱心な先生だった。近くを流れる荒川放水路が人工の川であることを子どもたちに教えるために、自分の足で放水路の歴史を調べ始めたのである。土木工事について基礎から勉強し、関連部署に通って資料を集め、話を聞く。さらに絹田は、土地の老人たちに開削当時のことを聞いて歩くようになった。
 77年ごろのある日、一人の老人を訪ねた絹田は、その話に衝撃を受ける。関東大震災のとき、荒川にかかっていた旧四ツ木橋周辺で大勢の朝鮮人が殺され、その遺体が河川敷に埋められたというのだ。老人は「お経でも上げてくれれば供養にもなるのだが」とつぶやいた。
 「大変なことを聞いてしまった」。絹田はそう思った。その後も、何人もの老人たちから同様の話を聞いた。絹田は、いまだ埋もれているであろう朝鮮人たちの遺骨を発掘し、老人の言う「供養」を実現したいという思いをふくらませていく。
 どうしたら発掘が実現するのか、どうすれば「供養」になるのか。分からないまま、たった一人で模索を始めた彼女だったが、次第に志を共有する仲間たちが集ってきた。こうして82年、「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し慰霊する会」(後に「慰霊」から「追悼」に改名)が発足する。この年、行政との交渉の結果、ごく短期的な試掘が許され、遺体が埋まっている可能性が高い堤防と河川敷のうち、発掘が可能な河川敷3ヵ所を試掘することができた。
 だが遺体は出てこなかった。その後、1923年11月半ばに、警察が2度にわたってこの一帯を掘り返して遺体を持ち去っていたことが、当時の新聞資料でわかった。「追悼する会」は、その後も地域での聞き取りを続けた。証言者の数は10年間で100人を超える。1923年9月の旧四ツ木橋の惨劇は、こうした努力によって明らかにされてきたのである。
 遺骨の収集が果たせなかった「追悼する会」は、「供養」を追悼碑の建立によって行うことを決める。絹田と仲間たちの、新しい目標だった。
 「朝鮮人の殺された到る処に鮮人塚を建て、永久に悔悟と謝罪の意を表し、以て日鮮融和の道を開くこと。しからざる限り日鮮親和は到底見込みなし」
 震災の1年後、「民衆の弁護士」と呼ばれた山崎今朝弥が書いた一文である。植民地支配を美化するスローガンとして当時、「内鮮融和」という言葉が使われており、山崎の「日鮮融和」もそれを連想させる表現だが、彼の思想性を考えれば、ここでは「日朝両民族の和解」といった意味で使っているのだろう。
 震災後、朝鮮人虐殺の事実が広く明らかになったにもかかわらず、政府や行政はその責任をまったく認めず、もちろん政府としての謝罪もなされなかった。わずかな数の自警団員が、非常に軽い刑に服しただけであった。
 追悼の動きはないわけではなかったが、やはり不十分なものだった。山崎の言うような「塚」は、埼玉、群馬、千葉など、ひどい虐殺があった場所で民間の手によって確かに建てられたが、その碑文には朝鮮人たちが虐殺によって命を落としたという事実を明記したものはひとつもなかった。約100人が殺されたと見られる埼玉県本庄市でも、震災の翌年、慰霊碑が建立されたが、そこにはただ「鮮人之碑」とだけ彫られていたのである。朝鮮人の理不尽な死を悼む思いがあるからこそ、彼らは慰霊碑を建てたのだろうが、その一方で、地域の人々こそが彼らを殺したのだという重い現実を直視できなかったのであろう。
 もちろん、当局がそれを望まなかったことも大きい。朝鮮人団体や労働組合、キリスト教徒などは震災直後から抗議集会、あるいは追悼集会を開いたが、それらは警察の強硬な取締りを受けた。集会で朝鮮人が抗議の声をあげると、たちまち集会への解散命令が下り、警官隊がなだれ込んでくるのが常であった。政府は、虐殺の事実を忘れさせたかったのである。
 とはいうものの、首都周辺でこれだけの虐殺があったのに政府として追悼のポーズを見せないわけにはいかず、政府に近い立場の人々が集まり、震災の翌々月、10月28日に芝増上寺で「朝鮮同胞追悼法要」が開かれた。これは、死者を追悼してみせつつ、虐殺への怒りも責任も不問にする性格のものだった。まさに先に書いた「内鮮融和」を狙ったものである。東京府知事や国会議員たちが、神妙な顔つきで列席した。
 このとき、ひとつのトラブルが起きたことが記録されている。法要の発起人にも名を連ねた朝鮮人の作家、鄭然圭(チェン・ヨンギュ)の弔辞朗読を認めずに式を進めようとして、主催者が鄭の抗議を受けたのである。鄭はその数日前、新聞の取材に対して、司法省の発表した朝鮮人被殺者数(233人)は桁がひとつ違っているのではないか、罪は自警団のみで警察や軍の落ち度はなかったのか、とコメントしていた。そのため、主催者は鄭の弔辞を恐れていた。
 予定されていた鄭の弔辞朗読を無視して、司会が焼香に移ろうとしたとき、彼は立ち上がって霊前に進み、列席者に向かってこう叫んだ。
 「諸君は何故に私の弔辞を阻止するのだ。人類同愛の精神によって敢て主催者の一人に加わり今日の美しき法要に加わった私の立場が斯くも虐げられるとは、諸君の或る者が強いて行ったことに相違あるまい。思わざる不幸である。今日の此醜態は一生忘れることが出来ぬ」
 鄭然圭は自らも自警団に襲われ、警察に収監された経験を持つ。また惨劇後の亀戸署を取材し、ゴミ捨て場に投げ捨てられた白骨も目撃している。現実に目を背ける者たちへの怒りと無念が「美しき法要」という反語的表現に表れている。司会はこのとき、弔辞朗読を飛ばして焼香に移ったのは「多忙の際の手落ちである」と言い訳したという。
 彼は霊前に立ったまま、弔辞を読み始めた。
 「1923年10月28日 小弟鄭然圭。血涙に咽び悲嘆にくれ、燃え猛ける焔の胸を抱いて、遥々故国数千里を隔て、風俗水土異り思い冷たく瞑する能はざる異郷の空に、昼は日もすがら哭く。夜は夜な夜な夜もすがら迷い泣き廻る。故なく惨殺されてなほ訴ふるところもなき我同胞が三千の亡き霊に、腹ちぎられる思ひの追悼の辞を、同じ運命が未だ生き残りたるけふ(今日)の命ある半島二千万同胞の一人として、謹み悲しみに涙をのんで捧げまつる。願はくば諸霊よ、あまり働することなく哀しみうけ給へ」
 戦後、行政の妨害を受けずにすむようになると、在日朝鮮人による追悼碑の建立が各地で行なわれた。また日本人が主導する碑の建立もあらためて行われるようになった。それまで碑がひとつも存在しなかった東京でも、震災50年の節日となる1973年、超党派の国会・地方議員にも協力を得て、「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会」が横網町公園内に追悼碑を建立した。
 しかし、朝鮮人虐殺を研究する山田昭次は、戦後に日本人主導で建立された慰霊碑にも依然として問題が残されていたと指摘する。関東大震災時に朝鮮人が「殺された」ことをしっかり書くようになったのは前進としても、では「誰が殺したのか」を明確にしたものがないというのである。
 その状況を変えたのが、旧四ツ木橋で殺された人々の追悼を続けていた「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」だった。2009年8月、彼らはようやく碑の建立を実現する。それは、震災から80数年を経て初めて、「誰が殺したのか」をはっきりと直視する内容だった。

「関東大震災時 韓国・朝鮮人殉難者追悼之碑」
 (碑文)
 1923年 関東大震災の時、日本の軍隊・警察・流言蜚語を信じた民衆によって、多くの韓国・朝鮮人が殺害された。
 東京の下町一帯でも、殖民地下の故郷を離れ日本に来ていた人々が、名も知られぬまま尊い命を奪われた。
 この歴史を心に刻み、犠牲者を追悼し、人権の回復と両民族の和解を願ってこの碑を建立する。
 2009年9月
関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会/グループ ほうせんか

 この「追悼之碑」は、虐殺現場となった旧四ツ木橋(今は存在しない)のたもと付近にあたる土手下に置かれた。会では当初、河川敷への建立を目指していたが行政の協力を得られなかった。そのとき、この場所をゆずりたいという人が現れたのである。追悼碑の周りには、朝鮮の故郷を象徴する鳳仙花が植えられている。毎日のように掃除に来てくれる地元の人もいて、碑は常に美しく保たれている。追悼碑に手を合わせた後で、追悼する会のメンバーに「私の父は当時、朝鮮人を殺しました」と打ち明けた人もいたという。
 旧四ツ木橋の虐殺の事実を知って衝撃を受け、「供養」をしたいと願い続けた絹田幸恵は、08年2月、追悼碑の完成を見ることなく、肺炎のためこの世を去った。77歳だった。もうひとつのライフワークとなった荒川放水路の研究は、小学校教員を退職した2年後に「荒川放水路物語」にまとめられた。彼女のただ1冊の著書である同書は、91年に土木学会・出版文化賞を受賞している。
 「追悼する会」は、試掘を行った82年以来、毎年9月に「韓国・朝鮮人犠牲者追悼式」を旧四ツ木橋に近い木の根橋付近の河川敷で今も続けている。90年前、多くの朝鮮人が虐殺されたその場所である。
 2013年9月8日には、中国人犠牲者の追悼集会も行われた。「関東大震災で虐殺された中国人労働者を追悼する集い」と題されたこの会には、大島で虐殺された人々の遺族が来日して参加。そのなかには、逆井橋で軍人に殺された活動家、王希天の孫の姿もあった。(p.175~81)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-03-13 06:56 | 東京 | Comments(0)

虐殺行脚 東京編(5):八広(16.10)

兵隊の機関銃で殺された 1923年9月 旧四ツ木橋

 『風よ鳳仙花の歌をはこべ』には、自警団など一般の人々による朝鮮人虐殺だけでなく、軍による朝鮮人虐殺についての証言もいくつも掲載されている。
 一般的に、関東大震災時の朝鮮人虐殺というと、自警団が朝鮮人を殺した事件というイメージで固まっている。もちろん、それは誤りではない。しかし、それだけでは行政が果たした役割が抜け落ちてしまう。正力松太郎などの警視庁幹部、そして内務省警保局などが、流言を事実ととらえて誤った情報を拡散していたことについてはすでに触れた。正力は、2日の時点では軍も朝鮮人暴動を信じていたと語っている。
 実際、軍の記録を見ると「目黒、世田ヶ谷、丸子方面に出動して鮮人を鎮圧」「暴動鮮人沈(鎮)圧の為、一中隊を行徳に派遣す」などの文字が出てくる。
 近衛師団とともに戒厳の主力を担った第1師団の司令部は、3日には「徒党せる鮮人の暴行は之を認めざる」という判断に落ち着いたものの、各地に進撃した部隊は、多くの朝鮮人を殺害していた。
 前掲書によれば、旧四ツ木橋周辺に軍が来たのは2日か3日ごろという以上はわからないという。ここでは日付は区切らず、旧四ツ木橋周辺での軍による虐殺の証言をいくつか紹介する。

 「四ツ木橋は習志野の騎兵(連隊)でした。習志野の兵隊は馬で来たので早く来ました。なんでも朝鮮人がデマを飛ばしたそうで…。それから朝鮮人殺しが始まりました。兵隊が殺したとき、みんな万歳、万歳をやりましたよ。殺されたところでは草が血でまっ黒くなっていました」 (高田〈仮名〉)

 「一個小隊くらい、つまり2、30人くらいいたね。二列に並ばせて、歩兵が背中から、つまり後ろから銃で撃つんだよ。二列横隊だから24人だね。その虐殺は2、3日続いたね。住民はそんなもの手をつけない、まったく関知していない。朝鮮人の死体は河原で焼き捨てちゃったよ。憲兵隊の立ち合いのもとに石油と薪で焼いてしまったんだよ」 (田中〈仮名〉)

 「四ツ木橋の下手の墨田区側の河原では、10人くらいずつ朝鮮人をしばって並べ、軍隊が機関銃でうち殺したんです。まだ死んでいない人間を、トロッコの線路の上に並べて石油をかけて焼いたですね」 (浅岡重蔵)

 「9月5日、18歳の兄といっしょに二人して、本所の焼けあとに行こうと思い、旧四ツ木橋を渡り、西詰めまで来たとき、大勢の人が橋の下を見ているので、私たち二人も下を見たら、朝鮮人
10人以上、そのうち女の人が1名いました。兵隊さんの機関銃で殺されていたのを見て驚いてしまいました」 (篠塚行吉) (p.76~8)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-03-12 06:29 | 東京 | Comments(0)