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虐殺行脚 東京編(4):八広(16.10)

体に残った無数の傷 1923年9月4日 火曜日 午前2時 京成線・荒川鉄橋上

 一緒にいた私達20人位のうち自警団の来る方向に一番近かったのが林善一という荒川の堤防工事で働いていた人でした。日本語は殆んど聞き取ることができません。自警団が彼の側まで来て何か云うと、彼は私の名を大声で叫び『何か言っているが、さっぱり分からんから通訳してくれ』と、声を張り上げました。その言葉が終わるやいなや自警団の手から、日本刀が降り降ろされ彼は虐殺されました。次に坐っていた男も殺されました。この儘坐っていれば、私も殺されることは間違いありません。私は横にいる弟勲範と義兄(姉の夫)に合図し、鉄橋から無我夢中の思いでとびおりました。(慎昌範)

 慎昌範(シン・チャンボム)が日本に来たのは震災直前の8月20日。親戚など15人の仲間とともに日本に旅行に来たのだという。関西を回り、30日に東京に着いた。
 9月1日午前11時58分には、彼は上野の旅館で昼食の最中だった。朝鮮半島には地震がほとんどない。
 「生まれて初めての経験なので、階段から転げ落ちるやら、わなわなふるえている者やら、様々でした。私は二階から外へ飛び降りました」
 その後、燃えさかる街を逃げまどい、朝鮮人の知人を頼りながら転々と避難。東京で暮らす同胞も合流していた。荒川の堤防にたどり着いたのは3日の夜。堤防の上は歩くのも困難なほど避難民であふれ、押し寄せる人波のために、気がつくと京成線鉄橋の半ばまで押し出されていった。この鉄橋は今も同じ位置にある。当時の荒川駅、今の八広駅の目の前だ。当時はすぐ横に平行して旧四ツ木橋がかかっていた。
 深夜2時ごろ、うとうとしていると、「朝鮮人をつまみ出せ」「朝鮮人を殺せ」という声が聞こえてくる。気がつくと、武装した一団が群がる避難民を一人一人起こしては朝鮮人かどうか確かめているようだった。そして、鉄橋に上がってきた彼らが、冒頭の惨劇を引き起こしたのである。
 林善一(イム・ソンイル)が日本刀で一刀の下に切り捨てられ、横にいた男も殺害されるのを目の当たりにした慎は、弟や義兄とともに鉄橋の上から荒川に飛び込んだ。
 だが彼は、小船で追ってきた自警団にすぐつかまってしまう。岸に引き上げられた彼はすぐに日本刀で切りつけられ、よけようとして小指を切断される。
 慎は飛びかかって抵抗するが、次の瞬間に、周りの日本人たちに襲いかかられて失神した。慎にその後の記憶はない。気がつくと、全身に傷を負って寺島警察署の死体置き場に転がされていた。同じく寺島署に収容されていた弟が、死体のなかに埋もれている彼を見つけて介抱してくれたことで、奇跡的に一命を取りとめたのだ。
 10月末に重傷者が寺島警察署から日赤病院に移される際、彼は朝鮮総督府の役人に「この度の事は、天災と思ってあきらめるように」と念を押されている。重傷者のなかで唯一、日本語が理解できた彼は、その言葉を翻訳して仲間たちに伝えなくてはならなかった。日赤病院でもまともな治療は受けられず、同じ病室の16人中、生き残ったのは9人だけだった。
 慎の体には、終生、無数の傷跡が残った。小指に加えて、頭に4ヵ所、右ほほ、左肩、右脇。両足の内側にある傷は、死んだと思われた慎を運ぶ際、鳶口をそこに刺して引きずったためだと彼は考えている。ちょうど魚河岸で大きな魚を引っかけて引きずるのと同じだと。(p.69~71)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-03-11 06:28 | 東京 | Comments(0)

虐殺行脚 東京編(3):八広(16.10)

「何もしていない」と泣いていた 1923年9月 荒川・旧四ツ木橋付近

 曺仁承(チョ・インスン)は、1923年9月2日午前5時、旧四ツ木橋の周辺で薪の山のように積まれた死体を目撃したが、この付近ではその後も数日間に、朝鮮人虐殺が繰り返された。『風よ鳳仙花の歌をはこべ』には、80年代にこの付近で地元のお年寄りから聞き取った証言が数多く紹介されている。「追悼する会」が、毎週日曜日に手分けして地域のお年寄りの家をまわり、100人以上に聞き取りを行った成果であった。調査の時点で震災から60年が経っていることを思えば、最後の機会を捉えた本当に貴重なものだ。
 ただ、60年という歳月のため、日にちや時間などははっきりしないものが多い。また、実名で証言をすることに二の足を踏む人は、仮名の証言になっている。同書から、9月1日から数日間の旧四ツ木橋周辺の凄惨な状況を伝えるものとして貴重な証言をいくつか紹介する。

 「四ツ木の橋のむこう(葛飾側)から血だらけの人を結わえて連れてきた。それを横から切って下に落とした。旧四ツ木橋の少し下手に穴を掘って投げ込むんだ。(中略) 雨が降っているときだった。四ツ木の連中がこっちの方に捨てにきた。連れてきて切りつけ、土手下に細長く掘った穴に蹴とばして入れて埋めた」 (永井仁三郎)

 「京成荒川駅(現・八広駅)の南側に温泉池という大きな池がありました。泳いだりできる池でした。追い出された朝鮮人7、8人がそこへ逃げこんだので、自警団の人は猟銃をもち出して撃ったんですよ。むこうへ行けばむこうから、こっちに来ればこっちから撃ちして、とうとう撃ち殺してしまいましたよ」 (井伊〈仮名〉)

 「たしか三日の昼だったね。荒川の四ツ木橋の下手に、朝鮮人を何人もしばってつれて来て、自警団の人たちが殺したのは。なんとも残忍な殺し方だったね。日本刀で切ったり、竹槍で突いたり、鉄の棒で突き刺したりして殺したんです。女の人、なかにはお腹の大きい人もいましたが、突き刺して殺しました。私が見たのでは、30人ぐらい殺していたね」 (青木〈仮名〉)

 「(殺された朝鮮人の数は)上平井橋の下が2、3人でいまの木根川橋近くでは10人くらいだった。朝鮮人が殺されはじめたのは9月2日ぐらいからだった。そのときは『朝鮮人が井戸に毒を投げた』『婦女暴行をしている』という流言がとんだが、人心が右往左往しているときでデッチ上げかもしれないが…、わからない。気の毒なことをした。善良な朝鮮人も殺されて。その人は『何もしていない』と泣いて嘆願していた」 (池田〈仮名〉)

 「警察が毒物が入っているから井戸の水は飲んでいけないと言ってきた」という証言も出てくる。
 北区の岩淵水門から南に流れている現在の荒川は、治水のために掘削された放水路、人工の川である。1911年に着工し、1930年に完成したものだ。1923年の震災当時には水路は完成し、すでに通水していたが、周囲はまだ工事中で、土砂を運ぶトロッコが河川敷を走っていた。建設作業には多くの朝鮮人労働者が従事していた。彼らは、日本人の2分の1から3分の2の賃金で働いていたのだが、まさにその場所で殺されたのである。(p.52~4)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-03-10 06:30 | 東京 | Comments(0)

虐殺行脚 東京編(2):八広(16.10)

 なおこの事件については、『九月、東京の路上で 1923年関東大震災 ジェノサイドの残響』(加藤直樹 ころから)に詳細な叙述があります。長文なのですが、とても大事なことですので引用します。
薪の山のように 1923年9月2日 日曜日 午前5時 荒川・旧四ツ木橋付近

 (9月1日)午前10時ごろすごい雨が降って、あと2分で12時になるというとき、グラグラときた。「これ何だ、これ何だ」と騒いだ。くに(故国)には地震がないからわからないんだよ。それで家は危ないからと荒川土手に行くと、もう人はいっぱいいた。火が燃えてくるから四ツ木橋を渡って1日の晩は同胞14人でかたまっておった。女の人も2人いた。
 そこへ消防団が4人来て、縄で俺たちをじゅずつなぎに結わえて言うのよ。「俺たちは行くけど縄を切ったら殺す」って。じっとしていたら夜8時ごろ、向かいの荒川駅(現・八広駅)のほうの土手が騒がしい。まさかそれが朝鮮人を殺しているのだとは思いもしなかった。
 翌朝の5時ごろ、また消防が4人来て、寺島警察に行くために四ツ木橋を渡った。そこへ3人連れてこられて、その3人が普通の人に袋だたきにされて殺されているのを、私たちは横目にして橋を渡ったのよ。そのとき、俺の足にもトビが打ちこまれたのよ。
 橋は死体でいっぱいだった。土手にも、薪の山があるようにあちこち死体が積んであった。

 曺仁承(チョ・インスン)は当時22、3歳。この年の正月に釜山から来日し、大阪などを経て東京に来てから一カ月も経っていなかった。
 9月1日の夕方以降、大火に見舞われた都心方面から多くの人が続々と荒川放水路の土手に押し寄せた。小松川警察署はその数を「約15万人」と伝えている。土手は人でいっぱいだった。曺と知人たちもまた、「家のないところなら火事の心配もないだろう」と、釜や米を抱えて荒川まで来たのである。闇の中でも、都心方向の空は不気味な赤い炎に照らされていた。
 曺らが消防団に取り囲まれたのは夜10時ごろ。消防団のほか、青年団や中学生までが加わって彼らの身体検査を始め、「小刀ひとつでも出てきたら殺すぞ」と脅かされていた。何も出てこなかったので、消防団は彼らを縄で縛り、朝になってから寺島警察署に連行したのである。
 同胞たちが殺されているのを横目で見ながら曺は警察署にたどり付くが、そこでも自警団の襲撃や警官による朝鮮人の殺害を目撃し、自らも再び殺されかけた。
 証言のなかで四ツ木橋とあるのは、現在の四ツ木橋や新四ツ木橋ではなく、京成電鉄押上線の鉄橋と木根川橋の間にあった旧四ツ木橋のことである。…この橋は、震災直後の被災地域と外とを結ぶ重要なルートとなった。
 曺の証言が収められた『風よ鳳仙花の歌をはこべ』は、「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」がまとめた本で、下町を中心に、朝鮮人虐殺の証言を数多く掲載している。
 そのなかには、避難民でごった返した旧四ツ木橋周辺を中心に、1日の夜、早くも多くの朝鮮人が殺害されていたとする住民の証言もある。鉄砲や木刀で2、30人は殺されたという。旧四ツ木橋ではその後の数日間、朝鮮人虐殺がくり返されることとなる。(p.30~2)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-03-09 06:27 | 東京 | Comments(0)

虐殺行脚 東京編(1):八広(16.10)

 関東大震災虐殺行脚の旅、いよいよ地元の東京で大団円をむかえます。『ヨーロッパ退屈日記』(伊丹十三 新潮文庫)をバッグに入れて、いざ出発。

 練馬駅から都営地下鉄十二号線に乗って新宿へ、都営新宿線に乗り換えて馬喰横山へ、そして都営浅草線に乗り換えて八広駅で下車。墨田区八広6-31-8にある追悼碑を訪れました。印刷して持参した地図を片手に、かつて惨劇が起きたことなど想像もできない静謐な町のなかをすこし歩くと、すぐに見つかりました。家と家に挟まれた小空間に、無骨ながらも力強く「悼」と刻まれた小さな碑でした。

 合掌

 裏に刻まれていた碑文を転記します。
 一九二三年関東大震災の時、日本の軍隊・警察・流言飛語を信じた民衆によって、多くの韓国・朝鮮人が殺害された。
 東京の下町一帯でも、植民地下の故郷を離れ日本に来ていた人々が、名も知られぬまま尊い命を奪われた。
 この歴史を心に刻み、犠牲者を追悼し、人権の回復と両民族の和解を願ってこの碑を建立する。
二〇〇九年九月
関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会
グループ ほうせんか
 またそのとなりには、建立した由来についての説明がありました。
 関東大震災時 韓国・朝鮮人殉難追悼碑 建立にあたって

 一九一〇年、日本は朝鮮(大韓民国)を植民地にした。独立運動は続いたが、そのたび武力弾圧された。過酷な植民地政策の下で生活の困窮がすすみ、一九二〇年代にはいると仕事や勉学の機会を求め、朝鮮から日本に渡る人が増えていた。
 一九二三年九月一日 関東大震災の時、墨田区では本所地域を中心に大火災となり、荒川土手は避難する人であふれた。「朝鮮人が放火した」「朝鮮人が攻めてくる」等の流言蜚語がとび、旧四ツ木橋では軍隊が機関銃で韓国・朝鮮人を撃ち、民衆も殺害した。
 六〇年近くたって荒川放水路開削の歴史を調べていた一小学校教員は、地元のお年寄り方から事件の話を聞いた。また当時、犠牲者に花を手向ける人もいたと聞いて、調査と追悼を呼びかけた。震災後の十一月の新聞記事によると、憲兵警察が警戒する中、河川敷の犠牲者の遺体が少なくとも二度掘り起こされ、どこかに運び去られていた。犠牲者のその後の行方は、調べることができなかった。
 韓国・朝鮮人であることを理由に殺害され、遺骨も墓もなく、真相も究明されず公的責任も取られずに八六年が過ぎた。この犠牲者を悼み、歴史を省み、民族の違いで排斥する心を戒めたい。多民族が共に幸せに生きていける日本社会の創造を願う、民間の多くの人々によってこの碑は建立された。

二〇〇九年九月
関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会
グループ ほうせんか

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-03-08 06:29 | 東京 | Comments(0)

江戸東京たてもの園編(18):(14.9)

 先日読み終えた『名作うしろ読み』(斎藤美奈子 中公文庫)では、"猫文学史に燦然と輝く一冊"として『ノラや』(中公文庫)が紹介されていました。猫文学…T.S.エリオットの『キャッツ』、夏目漱石の『吾輩は猫である』の他になにがありますかね。
 ノラや、お前は三月二十七日の昼間、木賊の繁みを抜けてどこかへ行つてしまつたのだ。それから後は風の音がしても雨垂れが落ちてもお前が帰つたかと思ひ、今日は帰るか、今帰るかと待つたが、ノラやノラや、お前はもう帰つて来ないのか。
 そして内田百閒と聞くと思い出すのが谷中安規です。1897(明治30)年、奈良長谷寺の門前町に生まれ、25歳で版画を志し、以後放浪と貧窮のなかで生米とニンニクとカボチャを食べながら独自の版画をつくりつづけます。1946(昭和21)年、栄養失調によって餓死。彼の言葉、「ぼくに就職をすすめることは、間接殺人です」が心に残ります。内田百閒が彼を敬愛し、「風船画伯」と名づけ、装丁と挿絵を彼に依頼してつくった絵本が『王様の背中』。これはぜひ読んで/眺めてみたいものです。この二人が鍵屋で一献傾けたこともあるのかな、なんて想像すると胸がざわめきます。もちろん百閒のおごりで。

 というわけで江戸東京たてもの園編、一巻の終わり。ひろびろ伸び伸びとした雰囲気のなか、名建築を探訪できる素敵な野外博物館です。桜の時期にはとくにお薦めですね。これからもどしどし収蔵建築を増やしていってほしいと期待します。東洋キネマと同潤会アパートがないのが一抹の心残りですが。
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by sabasaba13 | 2016-07-31 07:27 | 東京 | Comments(0)

江戸東京たてもの園編(17):(14.9)

 そして本日の見納めは鍵屋です。解説板を転記します。
 鍵屋は、下谷坂本町(現、台東区下谷)にあった居酒屋である。1856年(安政3)酒問屋として創業したと言い伝えられ、酒の小売店を経て1949年(昭和24)から居酒屋の営業を始めた。手頃な値段で旨く静かに飲むことのできる鍵屋は地域の人びと、職人、サラリーマン、芸人などに支持されていった。また雰囲気と主人の人柄を愛して小説家の内田百閒などの多くの著名人も通っていた。
 鍵屋は当初平屋だったが、大正期頃に2階部分を増築した。震災・戦災をまぬがれ今なお江戸時代末期の面影をとどめている。
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 へえ、内田百閒が常連客だったんだ。彼の名を聞くとすぐに思い出すのが、『餓鬼道肴蔬目録』(ちくま日本文学全集所収 筑摩書房)です。食べる物がなくなってきた1944(昭和19)年、記憶の中から美味しいもの、食べたいものを列挙した目録。その執念には脱帽です。ちなみに「オクスタン」とは牛タンのこと、橄欖とはオリーブのことです。
註 昭和十九年ノ夏初メ段段食ベルモノガ無クナッタノデセメテ記憶ノ中カラウマイ物食ベタイ物ノ名前ダケデモ出シテ見ヨウト思イツイテコノ目録ヲ作ッタ
昭和十九年六月一日昼日本郵船ノ自室ニテ記

さわら刺身 生姜醤油
たい刺身
かじき刺身
まぐろ 霜降りとろノぶつ切
ふな刺身 芥子味噌
べらたノ芥子味噌
こちノ洗い
こいノ洗い
あわび水貝
小鯛焼物
塩ぶり
まながつお味噌漬
あじ一塩
小はぜ佃煮
くさや
さらしくじら
いいだこ
べか
白魚ゆがし
蟹ノ卵ノ酢の物
いかノちち
いなノうす
寒雀だんご
鴨だんご
オクスタン潮漬
牛肉網焼
ポークカツレツ
ベーコン
ばん小鴨等ノ洋風料理
にがうるか
カビヤ
ちさ酢味噌
孫芋 柚子
くわい
竹の子ノバタイタメ
松茸
うど
防風
馬鈴薯ノマッシュコロッケ
ふきノ薹
土筆
すぎな
ふこノ芽ノいり葉
油揚げノ焼キタテ
揚げ玉入りノ味噌汁
青紫蘇ノキャベツ巻ノ糠味噌漬
西瓜ノ子ノ奈良漬
西条柿
水蜜桃
二十世紀梨
大崎葡萄 註 備前児島ノ大崎ノ産
ゆすら
なつめ
橄欖ノ実
胡桃
椎ノ実
南京豆
揚げ餅
三門ノよもぎ団子
かのこ餅
鶴屋ノ羊羹
大手饅頭
広栄堂ノ串刺吉備団子 註 広栄堂ハ吉備団子ノ本舗ナリ
日米堂ノヌガー
パイノ皮
シュークリーム
上方風ミルクセーキ
やぶ蕎麦ノもり
すうどん 註 ナンニモ具ノ這入ッテイナイ上方風ノ饂飩ナリ
雀鮨 註 当歳ノ小鯛ノ鮨ナリ
山北駅ノ鮎ノ押鮨
富山ノますノ早鮨
岡山ノお祭鮨 魚島鮨
こちめし
汽車弁当
駅売リノ鯛めし
押麦デナイ本当ノ麦飯

by sabasaba13 | 2016-07-30 07:55 | 東京 | Comments(0)

江戸東京たてもの園編(16):(14.9)

 小寺醤油店は、大正期から現在の港区白金で営業していた酒屋で、味噌や醤油を販売していました。看板で醤油店と掲げているのは、創業者が醤油醸造の蔵元で修行したためと伝えられています。当時、酒屋で味噌や醤油を売ることは珍しいことではありませんでした。張り出した腕木とその上に桁がのった重厚な出桁造りと、在庫の商品や生活用具を収納する袖蔵のマリアージュがいいですね。
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 万徳旅館は青梅市西分町に幕末に建設され、明治初期に増築された旅館(旅籠)です。青梅街道に面して建っていたこの旅館は、富山の薬売りなどの行商人や、御嶽講の参拝者が利用していたそうです。こちらも出桁造りですね。
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 仕立屋は、現在の文京区向丘に建てられた出桁造りの町屋です。正面の格子や上げ下ろし式の摺上げ戸などに、江戸からの町屋の造りをうかがうことができるそうです。仕立屋は、特に店構えなどはせずに自宅を仕事場としており、親方のもとに弟子が住み込みで働くのが普通でした。なお『東京たてもの伝説』によりますと、藤森氏の見立てでは建てられたのは少なくとも明治12年より前とのこと。するとすかさず森氏が「明治12年というと、ちょうど本郷六丁目の法真寺の隣りに七歳の樋口一葉がいたころ建った建物ですね」と鋭いつっこみ。それほど離れていないし、縫い子をしていた一葉がここから仕事をもらった可能性もあるとのことです。
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 子宝湯は足立区千住で営業していた銭湯で、開業は1929 (昭和4)年です。建物は施主が出身地の石川県から気に入った職人をつれてきて造らせたということです。玄関には神社仏閣を思わせる大型の唐破風がのっており、船に乗る七福神の精巧な彫刻が取り付けられています。また鷹と雀の彫り物がありますが、よく見ると雀をつかんではいません。これは「平和な世」という意味だそうです。
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by sabasaba13 | 2016-07-28 06:32 | 東京 | Comments(0)

江戸東京たてもの園編(15):(14.9)

 花市生花店は1927 (昭和2)年に、千代田区神田淡路町に建てられた花屋です。この建物も典型的な看板建築ですが、銅板にあしらわれた花屋らしいラブリーな模様に緩頬。二階の窓の下には、梅、桜、菊、牡丹などの花が飾られ、三階には蝶と菊が対角線上に配置されています。これらの銅板の模様は、墨で下絵を描いたカシの木を大工が彫り、その型に銅板をのせて木槌などを使って打ち出すという手法で作られたものだそうです。匠の技に乾杯。
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 なお最近読んだ『茶の本』(岡倉覚三 岩波文庫)の中に、花に関する素敵な一文があったので紹介します。
 喜びにも悲しみにも、花はわれらの不断の友である。花とともに飲み、共に食らい、共に歌い、共に踊り、共に戯れる。花を飾って結婚の式をあげ、花をもって命名の式を行なう。花がなくては死んでも行けぬ。百合の花をもって礼拝し、蓮の花をもって瞑想に入り、ばらや菊花をつけ、戦列を作って突撃した。さらに花言葉で話そうとまで企てた。花なくしてどうして生きて行かれよう。花を奪われた世界を考えてみても恐ろしい。病める人の枕べに非常な慰安をもたらし、疲れた人々の闇の世界に喜悦の光りをもたらすものではないか。その澄みきった淡い色は、ちょうど美しい子供をしみじみながめていると失われた希望が思い起こされるように、失われようとしている宇宙に対する信念を回復してくれる。われらが土に葬られる時、われらの墓辺を、悲しみに沈んで低徊するものは花である。
 悲しいかな、われわれは花を不断の友としながらも、いまだ禽獣の域を脱することあまり遠くないという事実をおおうことはできぬ。(p.77~8)
 武居三省堂は、明治初期に創業した文具店。当初は、筆・墨・硯の書道用品の卸を中心に商売していましたが、のちに絵筆や文具も扱う小売店に変わりました。茶色のタイルを前面に貼ったファサードがいぶし銀の逸品です。
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 川野商店(和傘問屋)は大正15 (1926)年に、現在の江戸川区南小岩に建てられた出桁造りの建物です。重厚な屋根の造りや格子戸に、江戸の残り香を感じます。小岩は、東京の傘の産地として当時有名で、川野商店では、職人を抱え傘を生産し、また完成品の傘を仕入れ問屋仲間や小売店へ卸す仕事をしていたそうです。
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by sabasaba13 | 2016-07-27 06:28 | 東京 | Comments(0)

江戸東京たてもの園編(14):(14.9)

 大和屋本店は乾物屋です。解説板を転記します。
 大和屋本店は、港区白金台の通称目黒通り沿いにあった木造3階建ての商店である。3階の軒下は何本もの腕木が壁に取り付き出桁と呼ばれる長い横材を支える出桁造りという形式をもつ一方、間口に対して背が非常に高く、2階のバルコニーや3階窓下に銅板を用いるなど、看板建築の特徴を備えたユニークな建物である。建物は創建当初の1928年(昭和3)に復元している。
 大和屋本店は創建当初から乾物類の販売を手がけ、海産物の仕入れが困難になった昭和10年代後半以降はお茶と海苔などを販売していた。復元にあたり店舗部分は鰹節や昆布、豆、スルメ、海苔、鶏卵などを販売する戦前の乾物屋の様子を再現している。大和屋本店では煙草も販売しており、店舗前面に煙草屋の造作が取り付けられていた。今回取り付けられている煙草屋の造作は昭和20年代のもので、青梅市二俣尾一丁目、武田清氏よりご寄贈いただいたものである。
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 植村邸は昭和初期に建てられた建物で、全体を銅板で覆われています。まるでジャイアント・ロボ(古いなあ)のような強面で周囲を睥睨しています。ま。二階の窓の上にあるアーチ部分の装飾は手が込んでいて、中央には六芒星とローマ字の「U」と「S」を重ねた模様が見られますが、これはこの建物を建てた植村三郎氏のイニシャルからとったものだそうです。なお一階部分の銅板に多数の傷が残っていますが、これは戦時中の空襲による爆弾等の破片が突き刺さってできたものです。歴史の証人としても貴重な物件です。
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 荒物屋の丸二商店は、昭和初期に現在の千代田区神田神保町に建てられた店舗併用住宅です。外連味にあふれたキッチュな看板建築ですね、私大好き。ファサード上部のわけのわからない意匠や柱と、江戸小紋の網代や青海波をあしらった銅板のミスマッチ。
 また裏手には、丸二商店に隣接していた創建年を同じくする長屋を復元し、路地の情景が再現されています。
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by sabasaba13 | 2016-07-25 06:31 | 東京 | Comments(0)

江戸東京たてもの園編(13):(14.9)

 そして東ゾーンへ、ここは昔の商家・銭湯・居酒屋などが建ち並び、下町の風情を復元しています。まずは村上精華堂、解説板を転記します。
 村上精華堂は、台東区池之端、不忍通りに面して建っていた化粧品屋である。奥の土間で化粧品の製造を行い、卸売りや、時には小売りを行っていた。創業者の村上直三郎氏は、アメリカの文献を研究して化粧品を作ったと言われている。そのせいか、建物はイオニア式の柱を並べたファサードをもち、西洋風のつくりとなっている。この建物は関東大震災後、東京市内に多く建てられた「看板建築」の一種であり人造石洗い出し仕上げである。
 1942年(昭和17)頃、村上精華堂の本店が浅草向柳原に移り、この建物は支店となった。
 1955年(昭和30)頃には化粧品屋としては使われなくなり、1967年(昭和42)、二代目の村上専次郎氏により、寄贈者の増渕忠男氏に譲渡された。
 おうっ、これぞ看板建築。イオニア式柱が無秩序にアナーキーに乱立するファサードに、「寄らんかい」という店主の魂の叫びを感じます。ところで「看板建築」とは何ぞや? 実は前出の藤森照信氏が提起された建築様式で、『東京たてもの伝説』(藤森照信・森まゆみ 岩波書店)の中で、御自らこう語られています。
 《看板建築》は関東大震災のあとの東京の商店に、防火対策として登場した建築様式です。関東とその近辺の東日本に分布していますが、関西にはほとんど見られません。タイル貼りのもの、銅板貼りのもの、モルタル塗りのもの。仕上げ材はいろいろありますが、すべてに一致している特徴は、建物の正面が平板で、全体が看板となっているような外観にあります。(p.203~4)
 なお『看板建築』(三省堂)の中で、藤森氏は次のような鋭い分析をされています。
 近代の建築の歩みの中で工場建築や産業施設の果たした決定的影響についてはすでに語られている。大きなスケール、無装飾な壁、鉄の駆使、合理性や機能性や力動性、こうした工場建築の性質は近代の機能主義建築の本質を形づくることになる。
 しかし、ここで改めて考えてほしいのは、近代の工場が大量の商品を製造したということは、実は、その大量の商品を売るための商店が発達したことを意味する、ということ。
 つまり、工場と商店は実は二人三脚をしながら近代という時代を作りあげてきた。
 にもかかわらず、皮肉なことに、工場と商店は建築的表現としては全く反対の方向をめざさざるを得なかったし、実際そうなった。
 工場の建物に求められたのは、均質で大量の生産力の確保ということであり、そこから自ずと合理的で機能的な表現が生まれてくる。一方、そうした工場からトラックで送り出された商品はどのように人々に手渡されるかというと〈商品経済の発達〉という環境の中で手渡されることになる。具体的に言うと、大量の商品を大量の人々に手渡す場としての商店は、いかに多くの客の目を引くかが勝負となり、そこから自ずと、過剰に飾り立てられた個性的な表現が生まれてくる。工場とは正反対な建築にならざるをえない。
 過剰で個性的な表現-これが前近代と近代の商店の二つを分けるポイントになる。
 蔵造や出桁造といった前近代に成立した商店があそこまで似た姿をしていたのに、近代になってから誕生した洋風商店、バラック商店、そして看板建築がなぜあそこまで派手でメチャクチャで乱暴なまでに変化に富んでいるかというと、その過剰で個性的な表現こそが近代の商店の生命だったからである。
 当然のように、近代商店は、精神の深みにうったえるような表現は愚の骨頂で、街ゆく人々の目玉の表面をヒッパタイテ刺激を与えるような消費的デザインに傾くし、また、とにかくまず人目をうばわなくては何もはじまらないからファサードを重視するようになる。
 消費的なデザインとファサードの重視-これはもうそのまま看板建築の性質である。
 逆にいうと、東京は、看板建築の誕生によって、近代という名の〈消費の時代〉へ、街ぐるみ突入したのだった。
 そして、二度と、蔵造や出桁造の落ち着いた街に戻ることはない。(p.209~10)

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by sabasaba13 | 2016-07-24 08:39 | 東京 | Comments(0)