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虐殺行脚 東京編(9):亀戸梅屋敷(16.10)

 東向島駅に戻り、東武スカイツリーラインで押上へ、半蔵門線に乗り換えて錦糸町へ、そして総武線に乗り換えて亀戸駅に着きました。めざすは浄心寺にある「亀戸事件犠牲者之碑」です。明治通りを北へ向かって歩いていくと、亀戸梅屋敷という商業施設がありました。
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 ん? てことはなにかいご隠居さん、歌川広重が江戸百(名所江戸百景)の一枚として描いたあの梅屋敷がここかい。説明板がありましたので、後学のために転記します。
 江戸時代、亀戸には呉服商伊勢屋彦右衛門の別荘があり、その庭には見事な梅の木が生えていました。立春の頃になると江戸中から人々がやってきて、この地はたいへん賑わったといいます。特に、「臥竜梅」と呼ばれた一株が名高く、水戸光圀や徳川吉宗も賞賛したそうです。
 また、歌川広重により描かれた浮世絵「亀戸梅屋敷」は、江戸の時代に海を越え、かのゴッホが模写するなど、日本のみならず世界から評価された傑作と言えるでしょう。
 フィンセント・ファン・ゴッホがパリにやってきた1886(明治19)年当時、浮世絵版画がヨーロッパで流行し、かつ安価で手に入ったそうです。(『週刊グレート・アーティスト ゴッホ』 同朋舎出版) その大胆な構図、装飾的色彩、力強い輪郭に魅せられて、熱心に収集した中の一枚、「亀戸梅屋敷」を漢字とともに模写したのですね。日本からもたらされた浮世絵がヨーロッパ美術に大きな影響を与えた、いわゆる「ジャポニズム」という動きがあったことは定説です。たとえば、美術批評家のI・E・シェスノーが、1878年にこうした言葉を残しています。
 その熱狂は、あたかも導火線の上を走る炎のような勢いであらゆるアトリエに拡がっていった。人々は、構図の思いがけなさ、形態の巧妙さ、色彩の豊かさ、絵画的効果の独創性、そしてさらに、そのような成果を得るために用いられている絵画的手段の単純さを嘆賞してやむことがなかった。
 ただその影響を過大視するのは慎んだ方がよいかと思います。画家のJ・ピサロは、1893年の手紙でこう書き記しています。
 日本の展覧会は驚嘆すべきものだった。広重は素晴らしい印象派画家だ…。これら日本の芸術家たちは、私たちの考え方が間違ってはいなかったということを改めて確認させてくれる。
 写真の登場によって、これまでの絵画に対する考え方を再考しなければならなかったヨーロッパの画家たちはさまざまな試行錯誤をはじめており、その動きの大きな触媒となったのが浮世絵だったと思います。素人考えですが。

 それはさておき、「名所江戸百景」は私の大好きな浮世絵連作です。大胆かつ斬新な構図はもとより、江戸という町に対する広重や庶民の愛着がびしびしと伝わってきて羨ましくなってしまいます。江戸ってこんなにも、人々に愛された町だったのですね。中でも一番好きな絵は…うーん…迷うところですが「深川洲崎十万坪」を挙げましょう。なお『謎解き 広重「江戸百」』(原信田実 集英社新書)という好著もあるので、お薦めします。
by sabasaba13 | 2017-03-19 07:53 | 東京 | Comments(0)

虐殺行脚 東京編(8):法泉寺(16.10)

 八広駅から京成押上線に乗って押上駅へ、そして東武スカイツリーラインに乗り換えて東向島駅に到着です。印刷して持参した地図を片手に十分ほど歩くと法泉寺に着きました。うろうろ探していると、本堂右手の一角に「感謝の碑」がありました。
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 建立したのは鄭宗碩(チョン・ジョンソク)さん。韓国の抵抗詩人・金芝河(キム・ジハ)とも親交があるそうです。彼の祖父一家は、関東大震災時に自警団によって殺されそうになりますが、働いていた工場長の真田千秋さんによって命を救われました。鄭さんは、2001年9月1日に、墨田区向島にある法泉寺(真田家の菩提寺)に、自費をなげうってこの「感謝の碑」を建立しました。

 碑文を転記します。
一九二三関東大震災の混乱のさ中 わが祖父鄭化九一家を虐殺の危機より救ってくださった故真田千秋先生のご恩を生前の父鄭斗満から常々聞かされ深く感銘をうけておりました 遥かな年月を経てしまいましたが先生の崇高な人間愛とその遺徳を讃えここに謹んで感謝の碑を建立させていただきます
二〇〇一年九月一日  迎日鄭氏家門一同
 しかし建立までには、ある経緯がありました。鄭さんの言に耳を傾けましょう。
 ただ、その間、碑を建てるまでには、一年半ほど間があったわけですが、碑を建てるというまでの考えはなかなか持ち合わせなかったというのが、本音のところなのです。こうした慰霊碑等はわれわれ在日の人間よりも日本人側で積極的に具体化させるべきではなかろうかという思いが強かったことがあります。
 しかしながら、先ほど話に出ました墨田区内での民間のボランティアの方々のその活動で2000年から2001年にかけて墨田区議会に陳情をして、碑を建てるために土地の提供ならびに管理の申し入れを正式にしたわけですね。ところが、それが継続審議になり、翌2001年の3月には否決されました。
 否決された具体的な理由、否決した側の立場からいいますと、関東大震災で虐殺されたという具体的な事実は墨田区内にはない。もうひとつはよしんばその事実があって慰霊碑を建てたとしても区民の利益にはなりえないということが理由だったわけですね。区議会、具体的には企画総務委員会というところで審議されていたのですけれども、私は傍聴していまして何とも気持ちのやり場がなかった。この委員は、本当に区民に選ばれた良心を持った方々なのであろうかと、憤懣やるかたないという心情でした。こうした、良識のかけらもない人たちが、墨田区の代表として選ばれた人たちなのであろうかという思いが強くて悶々としていました。そんな時に、知人の韓国の陶芸家金九漢(キムグハン)さん相談しましたところ非常に積極的で、ぜひこれを実現させようじゃないかと言ってくださいました。この方は、60年代の韓国の民主化で都合六年間牢獄に繋がれていた民主化運動の闘士でもあったのですね。そういう意味で、人権の抑圧ですとか、不条理に関しては正義感を人一倍燃やす人でした。(『世界史としての関東大震災』 関東大震災80周年記念行事実行委員会編 日本経済評論社 p.97~8)
 朝鮮人虐殺を忘却あるいは隠蔽しようとする日本人に対する怒りが、この碑に結実したことを銘肝しましょう。虐殺はたしかにあったのだ、そして少ないながらも朝鮮人を救った日本人もいたのだ、という事実を未来へ伝えようとされたのでしょう。
鄭さんと金さんは、犠牲になった人たちの霊を慰め、朝鮮民族の気概を日本や世界に示そうと、朝鮮文化の真髄のひとつ、陶磁器の焼き物で碑を作ることにしました。高さ約1メートル50センチ、重さ約450キログラム。それを韓国国内で製作し、土台の石は韓国全羅南道産の烏石という黒御影としました。そして一番上には民族の気概を表わす白頭山を配して、そこに金剛山もあわせる。それに、朝鮮では10の平和と長生きを象徴する日・月・鶴・松・不老草をあしらい、象嵌手法で仕上げたのが、この「感謝の碑」です。(同書 p.98)

 最後に、鄭さんの言葉をもう一つ引用します。
 最後に、ここ二、三年、少なくとも今年に入りまして、具体的には「創氏改名論」や、朝鮮植民地に対する「合法論」「国際的容認論」などといった発言が現役の閣僚の中から相次いで飛び出す事態は、昨日今日に始まったことではないのですが、歴代政権が誕生するたびにこうした暴言を吐いているということに関して、深い憤りを覚えるわけです。これは私だけでなく、民族全体からしてもとうてい我慢のならない憤激をかうという事態であります。
在日には、在日子弟の教育問題で大学受験の資格を認めない。欧米系の学校に関しては認めるけれども、朝鮮学校の卒業生に関しては認めない、教育の機会均等をうばう、こういう面でも差別をしている。ただ、この問題に関しては、非難轟々、世界から批判をされ撤回をしまして、いまは前進をしているという方向にあります。「私はこのごろ新聞ですとかテレビもつけたくない。テレビをつけると『北』の核だ、ミサイルだ、拉致だという問題が、報道されない日はない」そういうことをおっしゃる方がおりました。
私はいま冷静に判断しても、悪者扱いというこの流れが、偏見差別を助長する動きとして、具体的には「北」にまつわる問題だけではなくて、これがひいては在日朝鮮人に、アジアの民衆にいくのではないだろうか。これはもう韓国・朝鮮を問わず、国籍・所属団体を問わず、その矛先がやがてはどういう方向にいくのだろうかと思います。「草の根の右翼」という言葉もあるそうですけれども、こういう若い層の考えもかなりの広がりを持っているという話を私は聞くたびに、危惧をするわけなのです。昨日の報告の中でもあったのですけれども、世田谷区では自警団を組織したことに関して評価の声が上がったりしている。私がじかに目撃したものでは外国人犯罪に気をつけましょうという、いわゆる外国人排斥思想を煽りたてるであろう東京北区での町内会の各掲示板がありました。中国人の犯罪であるとか韓国人窃盗団であるとか、そういうニュースをエスカレートさせて、その矛先を結局どういう方向にむけていこうとしているのか。
私は80年前のその関東大震災のその異常事態といまの流れと本質的にどれだけの差があるんだろうかということを今も考えたりしているのですけれども、しかしながら時代は大きく変わっていくと思うのですね。逆風の中にあるとは思いますけれども、これは私がいつまでも長く続くとは思っておりません。(同書 p.101~2)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-03-18 08:53 | 東京 | Comments(0)

虐殺行脚 東京編(7):八広(16.10)

 言葉もありません。日本という国家は、そして日本国民は、なんて下劣で卑劣で愚劣で低劣なのでしょう。こうした過ちはもちろん弁護の余地はありませんが、どこの国家でも国民でも軽重の差はあれ過ちを犯すものです。問題はそれを過ちとして認め、真相を究明し、責任の所在を明らかにして該当の者に責任をとらせ、被害者・遺族・関係者に謝罪・賠償をすることです。それを隠蔽し、誤魔化し、責任もとらず謝罪もしなかった。そして政府や公的機関がいまだにしていない。国民もそうした政府の姿勢を批判もせずに、無知・無関心をきめこむ。そういう国家や国民は…恥知らずとしか言えません。共犯者の一人として、この歴史を調べて考えて、すこしでも多くの人に伝える努力をしていきたいと思います。

 碑の右どなりのお宅には「ほうせんかの家」という看板がかかっていました。こちらが「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」の本部なのですね。「ヘイトスピーチ、許さない。」というポスターが貼ってありました。社会的な少数者や弱者をいじめて快感を得るという卑劣なメンタリティはいまだに根強くのこっているのですね、やれやれ。

 それでは八広駅へと戻りましょう。途中に、「不審な人を見たらすぐ110番 ちかんに注意」という看板がありました。痴漢を弁護する気は毛頭ありませんが、こういう体感治安を悪化させるような看板やポスターが増えているような気がします。ほんとうに治安は悪化しているのでしょうか。深読みかもしれませんが、みんなが治安に不安を感じると利益を得る輩が陰で蠢いているのではないかと思ったりします。警備会社とか、監視カメラ業界とか、セイフティグッズ業界とか、そこへの天下りをねらっている警察官僚とかね。また私たちが相互監視の網を張り巡らすと、ほくそ笑む方々がいそうです。ちょっと心にとめておいた方がよい動きですね。そうそう、以前に長崎県の大村で「あの人は何か変だぞ110番」という強烈なポスターを見かけました。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2017-03-17 06:33 | 東京 | Comments(0)

虐殺行脚 東京編(6):八広(16.10)

悼む人々 「四ツ木橋」のたもとに建った碑

 1970年代。足立区の小学校で教鞭をとっていた絹田幸恵は、研究熱心な先生だった。近くを流れる荒川放水路が人工の川であることを子どもたちに教えるために、自分の足で放水路の歴史を調べ始めたのである。土木工事について基礎から勉強し、関連部署に通って資料を集め、話を聞く。さらに絹田は、土地の老人たちに開削当時のことを聞いて歩くようになった。
 77年ごろのある日、一人の老人を訪ねた絹田は、その話に衝撃を受ける。関東大震災のとき、荒川にかかっていた旧四ツ木橋周辺で大勢の朝鮮人が殺され、その遺体が河川敷に埋められたというのだ。老人は「お経でも上げてくれれば供養にもなるのだが」とつぶやいた。
 「大変なことを聞いてしまった」。絹田はそう思った。その後も、何人もの老人たちから同様の話を聞いた。絹田は、いまだ埋もれているであろう朝鮮人たちの遺骨を発掘し、老人の言う「供養」を実現したいという思いをふくらませていく。
 どうしたら発掘が実現するのか、どうすれば「供養」になるのか。分からないまま、たった一人で模索を始めた彼女だったが、次第に志を共有する仲間たちが集ってきた。こうして82年、「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し慰霊する会」(後に「慰霊」から「追悼」に改名)が発足する。この年、行政との交渉の結果、ごく短期的な試掘が許され、遺体が埋まっている可能性が高い堤防と河川敷のうち、発掘が可能な河川敷3ヵ所を試掘することができた。
 だが遺体は出てこなかった。その後、1923年11月半ばに、警察が2度にわたってこの一帯を掘り返して遺体を持ち去っていたことが、当時の新聞資料でわかった。「追悼する会」は、その後も地域での聞き取りを続けた。証言者の数は10年間で100人を超える。1923年9月の旧四ツ木橋の惨劇は、こうした努力によって明らかにされてきたのである。
 遺骨の収集が果たせなかった「追悼する会」は、「供養」を追悼碑の建立によって行うことを決める。絹田と仲間たちの、新しい目標だった。
 「朝鮮人の殺された到る処に鮮人塚を建て、永久に悔悟と謝罪の意を表し、以て日鮮融和の道を開くこと。しからざる限り日鮮親和は到底見込みなし」
 震災の1年後、「民衆の弁護士」と呼ばれた山崎今朝弥が書いた一文である。植民地支配を美化するスローガンとして当時、「内鮮融和」という言葉が使われており、山崎の「日鮮融和」もそれを連想させる表現だが、彼の思想性を考えれば、ここでは「日朝両民族の和解」といった意味で使っているのだろう。
 震災後、朝鮮人虐殺の事実が広く明らかになったにもかかわらず、政府や行政はその責任をまったく認めず、もちろん政府としての謝罪もなされなかった。わずかな数の自警団員が、非常に軽い刑に服しただけであった。
 追悼の動きはないわけではなかったが、やはり不十分なものだった。山崎の言うような「塚」は、埼玉、群馬、千葉など、ひどい虐殺があった場所で民間の手によって確かに建てられたが、その碑文には朝鮮人たちが虐殺によって命を落としたという事実を明記したものはひとつもなかった。約100人が殺されたと見られる埼玉県本庄市でも、震災の翌年、慰霊碑が建立されたが、そこにはただ「鮮人之碑」とだけ彫られていたのである。朝鮮人の理不尽な死を悼む思いがあるからこそ、彼らは慰霊碑を建てたのだろうが、その一方で、地域の人々こそが彼らを殺したのだという重い現実を直視できなかったのであろう。
 もちろん、当局がそれを望まなかったことも大きい。朝鮮人団体や労働組合、キリスト教徒などは震災直後から抗議集会、あるいは追悼集会を開いたが、それらは警察の強硬な取締りを受けた。集会で朝鮮人が抗議の声をあげると、たちまち集会への解散命令が下り、警官隊がなだれ込んでくるのが常であった。政府は、虐殺の事実を忘れさせたかったのである。
 とはいうものの、首都周辺でこれだけの虐殺があったのに政府として追悼のポーズを見せないわけにはいかず、政府に近い立場の人々が集まり、震災の翌々月、10月28日に芝増上寺で「朝鮮同胞追悼法要」が開かれた。これは、死者を追悼してみせつつ、虐殺への怒りも責任も不問にする性格のものだった。まさに先に書いた「内鮮融和」を狙ったものである。東京府知事や国会議員たちが、神妙な顔つきで列席した。
 このとき、ひとつのトラブルが起きたことが記録されている。法要の発起人にも名を連ねた朝鮮人の作家、鄭然圭(チェン・ヨンギュ)の弔辞朗読を認めずに式を進めようとして、主催者が鄭の抗議を受けたのである。鄭はその数日前、新聞の取材に対して、司法省の発表した朝鮮人被殺者数(233人)は桁がひとつ違っているのではないか、罪は自警団のみで警察や軍の落ち度はなかったのか、とコメントしていた。そのため、主催者は鄭の弔辞を恐れていた。
 予定されていた鄭の弔辞朗読を無視して、司会が焼香に移ろうとしたとき、彼は立ち上がって霊前に進み、列席者に向かってこう叫んだ。
 「諸君は何故に私の弔辞を阻止するのだ。人類同愛の精神によって敢て主催者の一人に加わり今日の美しき法要に加わった私の立場が斯くも虐げられるとは、諸君の或る者が強いて行ったことに相違あるまい。思わざる不幸である。今日の此醜態は一生忘れることが出来ぬ」
 鄭然圭は自らも自警団に襲われ、警察に収監された経験を持つ。また惨劇後の亀戸署を取材し、ゴミ捨て場に投げ捨てられた白骨も目撃している。現実に目を背ける者たちへの怒りと無念が「美しき法要」という反語的表現に表れている。司会はこのとき、弔辞朗読を飛ばして焼香に移ったのは「多忙の際の手落ちである」と言い訳したという。
 彼は霊前に立ったまま、弔辞を読み始めた。
 「1923年10月28日 小弟鄭然圭。血涙に咽び悲嘆にくれ、燃え猛ける焔の胸を抱いて、遥々故国数千里を隔て、風俗水土異り思い冷たく瞑する能はざる異郷の空に、昼は日もすがら哭く。夜は夜な夜な夜もすがら迷い泣き廻る。故なく惨殺されてなほ訴ふるところもなき我同胞が三千の亡き霊に、腹ちぎられる思ひの追悼の辞を、同じ運命が未だ生き残りたるけふ(今日)の命ある半島二千万同胞の一人として、謹み悲しみに涙をのんで捧げまつる。願はくば諸霊よ、あまり働することなく哀しみうけ給へ」
 戦後、行政の妨害を受けずにすむようになると、在日朝鮮人による追悼碑の建立が各地で行なわれた。また日本人が主導する碑の建立もあらためて行われるようになった。それまで碑がひとつも存在しなかった東京でも、震災50年の節日となる1973年、超党派の国会・地方議員にも協力を得て、「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会」が横網町公園内に追悼碑を建立した。
 しかし、朝鮮人虐殺を研究する山田昭次は、戦後に日本人主導で建立された慰霊碑にも依然として問題が残されていたと指摘する。関東大震災時に朝鮮人が「殺された」ことをしっかり書くようになったのは前進としても、では「誰が殺したのか」を明確にしたものがないというのである。
 その状況を変えたのが、旧四ツ木橋で殺された人々の追悼を続けていた「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」だった。2009年8月、彼らはようやく碑の建立を実現する。それは、震災から80数年を経て初めて、「誰が殺したのか」をはっきりと直視する内容だった。

「関東大震災時 韓国・朝鮮人殉難者追悼之碑」
 (碑文)
 1923年 関東大震災の時、日本の軍隊・警察・流言蜚語を信じた民衆によって、多くの韓国・朝鮮人が殺害された。
 東京の下町一帯でも、殖民地下の故郷を離れ日本に来ていた人々が、名も知られぬまま尊い命を奪われた。
 この歴史を心に刻み、犠牲者を追悼し、人権の回復と両民族の和解を願ってこの碑を建立する。
 2009年9月
関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会/グループ ほうせんか

 この「追悼之碑」は、虐殺現場となった旧四ツ木橋(今は存在しない)のたもと付近にあたる土手下に置かれた。会では当初、河川敷への建立を目指していたが行政の協力を得られなかった。そのとき、この場所をゆずりたいという人が現れたのである。追悼碑の周りには、朝鮮の故郷を象徴する鳳仙花が植えられている。毎日のように掃除に来てくれる地元の人もいて、碑は常に美しく保たれている。追悼碑に手を合わせた後で、追悼する会のメンバーに「私の父は当時、朝鮮人を殺しました」と打ち明けた人もいたという。
 旧四ツ木橋の虐殺の事実を知って衝撃を受け、「供養」をしたいと願い続けた絹田幸恵は、08年2月、追悼碑の完成を見ることなく、肺炎のためこの世を去った。77歳だった。もうひとつのライフワークとなった荒川放水路の研究は、小学校教員を退職した2年後に「荒川放水路物語」にまとめられた。彼女のただ1冊の著書である同書は、91年に土木学会・出版文化賞を受賞している。
 「追悼する会」は、試掘を行った82年以来、毎年9月に「韓国・朝鮮人犠牲者追悼式」を旧四ツ木橋に近い木の根橋付近の河川敷で今も続けている。90年前、多くの朝鮮人が虐殺されたその場所である。
 2013年9月8日には、中国人犠牲者の追悼集会も行われた。「関東大震災で虐殺された中国人労働者を追悼する集い」と題されたこの会には、大島で虐殺された人々の遺族が来日して参加。そのなかには、逆井橋で軍人に殺された活動家、王希天の孫の姿もあった。(p.175~81)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-03-13 06:56 | 東京 | Comments(0)

虐殺行脚 東京編(5):八広(16.10)

兵隊の機関銃で殺された 1923年9月 旧四ツ木橋

 『風よ鳳仙花の歌をはこべ』には、自警団など一般の人々による朝鮮人虐殺だけでなく、軍による朝鮮人虐殺についての証言もいくつも掲載されている。
 一般的に、関東大震災時の朝鮮人虐殺というと、自警団が朝鮮人を殺した事件というイメージで固まっている。もちろん、それは誤りではない。しかし、それだけでは行政が果たした役割が抜け落ちてしまう。正力松太郎などの警視庁幹部、そして内務省警保局などが、流言を事実ととらえて誤った情報を拡散していたことについてはすでに触れた。正力は、2日の時点では軍も朝鮮人暴動を信じていたと語っている。
 実際、軍の記録を見ると「目黒、世田ヶ谷、丸子方面に出動して鮮人を鎮圧」「暴動鮮人沈(鎮)圧の為、一中隊を行徳に派遣す」などの文字が出てくる。
 近衛師団とともに戒厳の主力を担った第1師団の司令部は、3日には「徒党せる鮮人の暴行は之を認めざる」という判断に落ち着いたものの、各地に進撃した部隊は、多くの朝鮮人を殺害していた。
 前掲書によれば、旧四ツ木橋周辺に軍が来たのは2日か3日ごろという以上はわからないという。ここでは日付は区切らず、旧四ツ木橋周辺での軍による虐殺の証言をいくつか紹介する。

 「四ツ木橋は習志野の騎兵(連隊)でした。習志野の兵隊は馬で来たので早く来ました。なんでも朝鮮人がデマを飛ばしたそうで…。それから朝鮮人殺しが始まりました。兵隊が殺したとき、みんな万歳、万歳をやりましたよ。殺されたところでは草が血でまっ黒くなっていました」 (高田〈仮名〉)

 「一個小隊くらい、つまり2、30人くらいいたね。二列に並ばせて、歩兵が背中から、つまり後ろから銃で撃つんだよ。二列横隊だから24人だね。その虐殺は2、3日続いたね。住民はそんなもの手をつけない、まったく関知していない。朝鮮人の死体は河原で焼き捨てちゃったよ。憲兵隊の立ち合いのもとに石油と薪で焼いてしまったんだよ」 (田中〈仮名〉)

 「四ツ木橋の下手の墨田区側の河原では、10人くらいずつ朝鮮人をしばって並べ、軍隊が機関銃でうち殺したんです。まだ死んでいない人間を、トロッコの線路の上に並べて石油をかけて焼いたですね」 (浅岡重蔵)

 「9月5日、18歳の兄といっしょに二人して、本所の焼けあとに行こうと思い、旧四ツ木橋を渡り、西詰めまで来たとき、大勢の人が橋の下を見ているので、私たち二人も下を見たら、朝鮮人
10人以上、そのうち女の人が1名いました。兵隊さんの機関銃で殺されていたのを見て驚いてしまいました」 (篠塚行吉) (p.76~8)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-03-12 06:29 | 東京 | Comments(0)

虐殺行脚 東京編(4):八広(16.10)

体に残った無数の傷 1923年9月4日 火曜日 午前2時 京成線・荒川鉄橋上

 一緒にいた私達20人位のうち自警団の来る方向に一番近かったのが林善一という荒川の堤防工事で働いていた人でした。日本語は殆んど聞き取ることができません。自警団が彼の側まで来て何か云うと、彼は私の名を大声で叫び『何か言っているが、さっぱり分からんから通訳してくれ』と、声を張り上げました。その言葉が終わるやいなや自警団の手から、日本刀が降り降ろされ彼は虐殺されました。次に坐っていた男も殺されました。この儘坐っていれば、私も殺されることは間違いありません。私は横にいる弟勲範と義兄(姉の夫)に合図し、鉄橋から無我夢中の思いでとびおりました。(慎昌範)

 慎昌範(シン・チャンボム)が日本に来たのは震災直前の8月20日。親戚など15人の仲間とともに日本に旅行に来たのだという。関西を回り、30日に東京に着いた。
 9月1日午前11時58分には、彼は上野の旅館で昼食の最中だった。朝鮮半島には地震がほとんどない。
 「生まれて初めての経験なので、階段から転げ落ちるやら、わなわなふるえている者やら、様々でした。私は二階から外へ飛び降りました」
 その後、燃えさかる街を逃げまどい、朝鮮人の知人を頼りながら転々と避難。東京で暮らす同胞も合流していた。荒川の堤防にたどり着いたのは3日の夜。堤防の上は歩くのも困難なほど避難民であふれ、押し寄せる人波のために、気がつくと京成線鉄橋の半ばまで押し出されていった。この鉄橋は今も同じ位置にある。当時の荒川駅、今の八広駅の目の前だ。当時はすぐ横に平行して旧四ツ木橋がかかっていた。
 深夜2時ごろ、うとうとしていると、「朝鮮人をつまみ出せ」「朝鮮人を殺せ」という声が聞こえてくる。気がつくと、武装した一団が群がる避難民を一人一人起こしては朝鮮人かどうか確かめているようだった。そして、鉄橋に上がってきた彼らが、冒頭の惨劇を引き起こしたのである。
 林善一(イム・ソンイル)が日本刀で一刀の下に切り捨てられ、横にいた男も殺害されるのを目の当たりにした慎は、弟や義兄とともに鉄橋の上から荒川に飛び込んだ。
 だが彼は、小船で追ってきた自警団にすぐつかまってしまう。岸に引き上げられた彼はすぐに日本刀で切りつけられ、よけようとして小指を切断される。
 慎は飛びかかって抵抗するが、次の瞬間に、周りの日本人たちに襲いかかられて失神した。慎にその後の記憶はない。気がつくと、全身に傷を負って寺島警察署の死体置き場に転がされていた。同じく寺島署に収容されていた弟が、死体のなかに埋もれている彼を見つけて介抱してくれたことで、奇跡的に一命を取りとめたのだ。
 10月末に重傷者が寺島警察署から日赤病院に移される際、彼は朝鮮総督府の役人に「この度の事は、天災と思ってあきらめるように」と念を押されている。重傷者のなかで唯一、日本語が理解できた彼は、その言葉を翻訳して仲間たちに伝えなくてはならなかった。日赤病院でもまともな治療は受けられず、同じ病室の16人中、生き残ったのは9人だけだった。
 慎の体には、終生、無数の傷跡が残った。小指に加えて、頭に4ヵ所、右ほほ、左肩、右脇。両足の内側にある傷は、死んだと思われた慎を運ぶ際、鳶口をそこに刺して引きずったためだと彼は考えている。ちょうど魚河岸で大きな魚を引っかけて引きずるのと同じだと。(p.69~71)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-03-11 06:28 | 東京 | Comments(0)

虐殺行脚 東京編(3):八広(16.10)

「何もしていない」と泣いていた 1923年9月 荒川・旧四ツ木橋付近

 曺仁承(チョ・インスン)は、1923年9月2日午前5時、旧四ツ木橋の周辺で薪の山のように積まれた死体を目撃したが、この付近ではその後も数日間に、朝鮮人虐殺が繰り返された。『風よ鳳仙花の歌をはこべ』には、80年代にこの付近で地元のお年寄りから聞き取った証言が数多く紹介されている。「追悼する会」が、毎週日曜日に手分けして地域のお年寄りの家をまわり、100人以上に聞き取りを行った成果であった。調査の時点で震災から60年が経っていることを思えば、最後の機会を捉えた本当に貴重なものだ。
 ただ、60年という歳月のため、日にちや時間などははっきりしないものが多い。また、実名で証言をすることに二の足を踏む人は、仮名の証言になっている。同書から、9月1日から数日間の旧四ツ木橋周辺の凄惨な状況を伝えるものとして貴重な証言をいくつか紹介する。

 「四ツ木の橋のむこう(葛飾側)から血だらけの人を結わえて連れてきた。それを横から切って下に落とした。旧四ツ木橋の少し下手に穴を掘って投げ込むんだ。(中略) 雨が降っているときだった。四ツ木の連中がこっちの方に捨てにきた。連れてきて切りつけ、土手下に細長く掘った穴に蹴とばして入れて埋めた」 (永井仁三郎)

 「京成荒川駅(現・八広駅)の南側に温泉池という大きな池がありました。泳いだりできる池でした。追い出された朝鮮人7、8人がそこへ逃げこんだので、自警団の人は猟銃をもち出して撃ったんですよ。むこうへ行けばむこうから、こっちに来ればこっちから撃ちして、とうとう撃ち殺してしまいましたよ」 (井伊〈仮名〉)

 「たしか三日の昼だったね。荒川の四ツ木橋の下手に、朝鮮人を何人もしばってつれて来て、自警団の人たちが殺したのは。なんとも残忍な殺し方だったね。日本刀で切ったり、竹槍で突いたり、鉄の棒で突き刺したりして殺したんです。女の人、なかにはお腹の大きい人もいましたが、突き刺して殺しました。私が見たのでは、30人ぐらい殺していたね」 (青木〈仮名〉)

 「(殺された朝鮮人の数は)上平井橋の下が2、3人でいまの木根川橋近くでは10人くらいだった。朝鮮人が殺されはじめたのは9月2日ぐらいからだった。そのときは『朝鮮人が井戸に毒を投げた』『婦女暴行をしている』という流言がとんだが、人心が右往左往しているときでデッチ上げかもしれないが…、わからない。気の毒なことをした。善良な朝鮮人も殺されて。その人は『何もしていない』と泣いて嘆願していた」 (池田〈仮名〉)

 「警察が毒物が入っているから井戸の水は飲んでいけないと言ってきた」という証言も出てくる。
 北区の岩淵水門から南に流れている現在の荒川は、治水のために掘削された放水路、人工の川である。1911年に着工し、1930年に完成したものだ。1923年の震災当時には水路は完成し、すでに通水していたが、周囲はまだ工事中で、土砂を運ぶトロッコが河川敷を走っていた。建設作業には多くの朝鮮人労働者が従事していた。彼らは、日本人の2分の1から3分の2の賃金で働いていたのだが、まさにその場所で殺されたのである。(p.52~4)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-03-10 06:30 | 東京 | Comments(0)

虐殺行脚 東京編(2):八広(16.10)

 なおこの事件については、『九月、東京の路上で 1923年関東大震災 ジェノサイドの残響』(加藤直樹 ころから)に詳細な叙述があります。長文なのですが、とても大事なことですので引用します。
薪の山のように 1923年9月2日 日曜日 午前5時 荒川・旧四ツ木橋付近

 (9月1日)午前10時ごろすごい雨が降って、あと2分で12時になるというとき、グラグラときた。「これ何だ、これ何だ」と騒いだ。くに(故国)には地震がないからわからないんだよ。それで家は危ないからと荒川土手に行くと、もう人はいっぱいいた。火が燃えてくるから四ツ木橋を渡って1日の晩は同胞14人でかたまっておった。女の人も2人いた。
 そこへ消防団が4人来て、縄で俺たちをじゅずつなぎに結わえて言うのよ。「俺たちは行くけど縄を切ったら殺す」って。じっとしていたら夜8時ごろ、向かいの荒川駅(現・八広駅)のほうの土手が騒がしい。まさかそれが朝鮮人を殺しているのだとは思いもしなかった。
 翌朝の5時ごろ、また消防が4人来て、寺島警察に行くために四ツ木橋を渡った。そこへ3人連れてこられて、その3人が普通の人に袋だたきにされて殺されているのを、私たちは横目にして橋を渡ったのよ。そのとき、俺の足にもトビが打ちこまれたのよ。
 橋は死体でいっぱいだった。土手にも、薪の山があるようにあちこち死体が積んであった。

 曺仁承(チョ・インスン)は当時22、3歳。この年の正月に釜山から来日し、大阪などを経て東京に来てから一カ月も経っていなかった。
 9月1日の夕方以降、大火に見舞われた都心方面から多くの人が続々と荒川放水路の土手に押し寄せた。小松川警察署はその数を「約15万人」と伝えている。土手は人でいっぱいだった。曺と知人たちもまた、「家のないところなら火事の心配もないだろう」と、釜や米を抱えて荒川まで来たのである。闇の中でも、都心方向の空は不気味な赤い炎に照らされていた。
 曺らが消防団に取り囲まれたのは夜10時ごろ。消防団のほか、青年団や中学生までが加わって彼らの身体検査を始め、「小刀ひとつでも出てきたら殺すぞ」と脅かされていた。何も出てこなかったので、消防団は彼らを縄で縛り、朝になってから寺島警察署に連行したのである。
 同胞たちが殺されているのを横目で見ながら曺は警察署にたどり付くが、そこでも自警団の襲撃や警官による朝鮮人の殺害を目撃し、自らも再び殺されかけた。
 証言のなかで四ツ木橋とあるのは、現在の四ツ木橋や新四ツ木橋ではなく、京成電鉄押上線の鉄橋と木根川橋の間にあった旧四ツ木橋のことである。…この橋は、震災直後の被災地域と外とを結ぶ重要なルートとなった。
 曺の証言が収められた『風よ鳳仙花の歌をはこべ』は、「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」がまとめた本で、下町を中心に、朝鮮人虐殺の証言を数多く掲載している。
 そのなかには、避難民でごった返した旧四ツ木橋周辺を中心に、1日の夜、早くも多くの朝鮮人が殺害されていたとする住民の証言もある。鉄砲や木刀で2、30人は殺されたという。旧四ツ木橋ではその後の数日間、朝鮮人虐殺がくり返されることとなる。(p.30~2)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-03-09 06:27 | 東京 | Comments(0)

虐殺行脚 東京編(1):八広(16.10)

 関東大震災虐殺行脚の旅、いよいよ地元の東京で大団円をむかえます。『ヨーロッパ退屈日記』(伊丹十三 新潮文庫)をバッグに入れて、いざ出発。

 練馬駅から都営地下鉄十二号線に乗って新宿へ、都営新宿線に乗り換えて馬喰横山へ、そして都営浅草線に乗り換えて八広駅で下車。墨田区八広6-31-8にある追悼碑を訪れました。印刷して持参した地図を片手に、かつて惨劇が起きたことなど想像もできない静謐な町のなかをすこし歩くと、すぐに見つかりました。家と家に挟まれた小空間に、無骨ながらも力強く「悼」と刻まれた小さな碑でした。

 合掌

 裏に刻まれていた碑文を転記します。
 一九二三年関東大震災の時、日本の軍隊・警察・流言飛語を信じた民衆によって、多くの韓国・朝鮮人が殺害された。
 東京の下町一帯でも、植民地下の故郷を離れ日本に来ていた人々が、名も知られぬまま尊い命を奪われた。
 この歴史を心に刻み、犠牲者を追悼し、人権の回復と両民族の和解を願ってこの碑を建立する。
二〇〇九年九月
関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会
グループ ほうせんか
 またそのとなりには、建立した由来についての説明がありました。
 関東大震災時 韓国・朝鮮人殉難追悼碑 建立にあたって

 一九一〇年、日本は朝鮮(大韓民国)を植民地にした。独立運動は続いたが、そのたび武力弾圧された。過酷な植民地政策の下で生活の困窮がすすみ、一九二〇年代にはいると仕事や勉学の機会を求め、朝鮮から日本に渡る人が増えていた。
 一九二三年九月一日 関東大震災の時、墨田区では本所地域を中心に大火災となり、荒川土手は避難する人であふれた。「朝鮮人が放火した」「朝鮮人が攻めてくる」等の流言蜚語がとび、旧四ツ木橋では軍隊が機関銃で韓国・朝鮮人を撃ち、民衆も殺害した。
 六〇年近くたって荒川放水路開削の歴史を調べていた一小学校教員は、地元のお年寄り方から事件の話を聞いた。また当時、犠牲者に花を手向ける人もいたと聞いて、調査と追悼を呼びかけた。震災後の十一月の新聞記事によると、憲兵警察が警戒する中、河川敷の犠牲者の遺体が少なくとも二度掘り起こされ、どこかに運び去られていた。犠牲者のその後の行方は、調べることができなかった。
 韓国・朝鮮人であることを理由に殺害され、遺骨も墓もなく、真相も究明されず公的責任も取られずに八六年が過ぎた。この犠牲者を悼み、歴史を省み、民族の違いで排斥する心を戒めたい。多民族が共に幸せに生きていける日本社会の創造を願う、民間の多くの人々によってこの碑は建立された。

二〇〇九年九月
関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会
グループ ほうせんか

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-03-08 06:29 | 東京 | Comments(0)

江戸東京たてもの園編(18):(14.9)

 先日読み終えた『名作うしろ読み』(斎藤美奈子 中公文庫)では、"猫文学史に燦然と輝く一冊"として『ノラや』(中公文庫)が紹介されていました。猫文学…T.S.エリオットの『キャッツ』、夏目漱石の『吾輩は猫である』の他になにがありますかね。
 ノラや、お前は三月二十七日の昼間、木賊の繁みを抜けてどこかへ行つてしまつたのだ。それから後は風の音がしても雨垂れが落ちてもお前が帰つたかと思ひ、今日は帰るか、今帰るかと待つたが、ノラやノラや、お前はもう帰つて来ないのか。
 そして内田百閒と聞くと思い出すのが谷中安規です。1897(明治30)年、奈良長谷寺の門前町に生まれ、25歳で版画を志し、以後放浪と貧窮のなかで生米とニンニクとカボチャを食べながら独自の版画をつくりつづけます。1946(昭和21)年、栄養失調によって餓死。彼の言葉、「ぼくに就職をすすめることは、間接殺人です」が心に残ります。内田百閒が彼を敬愛し、「風船画伯」と名づけ、装丁と挿絵を彼に依頼してつくった絵本が『王様の背中』。これはぜひ読んで/眺めてみたいものです。この二人が鍵屋で一献傾けたこともあるのかな、なんて想像すると胸がざわめきます。もちろん百閒のおごりで。

 というわけで江戸東京たてもの園編、一巻の終わり。ひろびろ伸び伸びとした雰囲気のなか、名建築を探訪できる素敵な野外博物館です。桜の時期にはとくにお薦めですね。これからもどしどし収蔵建築を増やしていってほしいと期待します。東洋キネマと同潤会アパートがないのが一抹の心残りですが。
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by sabasaba13 | 2016-07-31 07:27 | 東京 | Comments(0)