カテゴリ:東京( 201 )

江戸東京たてもの園編(17):(14.9)

 そして本日の見納めは鍵屋です。解説板を転記します。
 鍵屋は、下谷坂本町(現、台東区下谷)にあった居酒屋である。1856年(安政3)酒問屋として創業したと言い伝えられ、酒の小売店を経て1949年(昭和24)から居酒屋の営業を始めた。手頃な値段で旨く静かに飲むことのできる鍵屋は地域の人びと、職人、サラリーマン、芸人などに支持されていった。また雰囲気と主人の人柄を愛して小説家の内田百閒などの多くの著名人も通っていた。
 鍵屋は当初平屋だったが、大正期頃に2階部分を増築した。震災・戦災をまぬがれ今なお江戸時代末期の面影をとどめている。
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 へえ、内田百閒が常連客だったんだ。彼の名を聞くとすぐに思い出すのが、『餓鬼道肴蔬目録』(ちくま日本文学全集所収 筑摩書房)です。食べる物がなくなってきた1944(昭和19)年、記憶の中から美味しいもの、食べたいものを列挙した目録。その執念には脱帽です。ちなみに「オクスタン」とは牛タンのこと、橄欖とはオリーブのことです。
註 昭和十九年ノ夏初メ段段食ベルモノガ無クナッタノデセメテ記憶ノ中カラウマイ物食ベタイ物ノ名前ダケデモ出シテ見ヨウト思イツイテコノ目録ヲ作ッタ
昭和十九年六月一日昼日本郵船ノ自室ニテ記

さわら刺身 生姜醤油
たい刺身
かじき刺身
まぐろ 霜降りとろノぶつ切
ふな刺身 芥子味噌
べらたノ芥子味噌
こちノ洗い
こいノ洗い
あわび水貝
小鯛焼物
塩ぶり
まながつお味噌漬
あじ一塩
小はぜ佃煮
くさや
さらしくじら
いいだこ
べか
白魚ゆがし
蟹ノ卵ノ酢の物
いかノちち
いなノうす
寒雀だんご
鴨だんご
オクスタン潮漬
牛肉網焼
ポークカツレツ
ベーコン
ばん小鴨等ノ洋風料理
にがうるか
カビヤ
ちさ酢味噌
孫芋 柚子
くわい
竹の子ノバタイタメ
松茸
うど
防風
馬鈴薯ノマッシュコロッケ
ふきノ薹
土筆
すぎな
ふこノ芽ノいり葉
油揚げノ焼キタテ
揚げ玉入りノ味噌汁
青紫蘇ノキャベツ巻ノ糠味噌漬
西瓜ノ子ノ奈良漬
西条柿
水蜜桃
二十世紀梨
大崎葡萄 註 備前児島ノ大崎ノ産
ゆすら
なつめ
橄欖ノ実
胡桃
椎ノ実
南京豆
揚げ餅
三門ノよもぎ団子
かのこ餅
鶴屋ノ羊羹
大手饅頭
広栄堂ノ串刺吉備団子 註 広栄堂ハ吉備団子ノ本舗ナリ
日米堂ノヌガー
パイノ皮
シュークリーム
上方風ミルクセーキ
やぶ蕎麦ノもり
すうどん 註 ナンニモ具ノ這入ッテイナイ上方風ノ饂飩ナリ
雀鮨 註 当歳ノ小鯛ノ鮨ナリ
山北駅ノ鮎ノ押鮨
富山ノますノ早鮨
岡山ノお祭鮨 魚島鮨
こちめし
汽車弁当
駅売リノ鯛めし
押麦デナイ本当ノ麦飯

by sabasaba13 | 2016-07-30 07:55 | 東京 | Comments(0)

江戸東京たてもの園編(16):(14.9)

 小寺醤油店は、大正期から現在の港区白金で営業していた酒屋で、味噌や醤油を販売していました。看板で醤油店と掲げているのは、創業者が醤油醸造の蔵元で修行したためと伝えられています。当時、酒屋で味噌や醤油を売ることは珍しいことではありませんでした。張り出した腕木とその上に桁がのった重厚な出桁造りと、在庫の商品や生活用具を収納する袖蔵のマリアージュがいいですね。
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 万徳旅館は青梅市西分町に幕末に建設され、明治初期に増築された旅館(旅籠)です。青梅街道に面して建っていたこの旅館は、富山の薬売りなどの行商人や、御嶽講の参拝者が利用していたそうです。こちらも出桁造りですね。
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 仕立屋は、現在の文京区向丘に建てられた出桁造りの町屋です。正面の格子や上げ下ろし式の摺上げ戸などに、江戸からの町屋の造りをうかがうことができるそうです。仕立屋は、特に店構えなどはせずに自宅を仕事場としており、親方のもとに弟子が住み込みで働くのが普通でした。なお『東京たてもの伝説』によりますと、藤森氏の見立てでは建てられたのは少なくとも明治12年より前とのこと。するとすかさず森氏が「明治12年というと、ちょうど本郷六丁目の法真寺の隣りに七歳の樋口一葉がいたころ建った建物ですね」と鋭いつっこみ。それほど離れていないし、縫い子をしていた一葉がここから仕事をもらった可能性もあるとのことです。
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 子宝湯は足立区千住で営業していた銭湯で、開業は1929 (昭和4)年です。建物は施主が出身地の石川県から気に入った職人をつれてきて造らせたということです。玄関には神社仏閣を思わせる大型の唐破風がのっており、船に乗る七福神の精巧な彫刻が取り付けられています。また鷹と雀の彫り物がありますが、よく見ると雀をつかんではいません。これは「平和な世」という意味だそうです。
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by sabasaba13 | 2016-07-28 06:32 | 東京 | Comments(0)

江戸東京たてもの園編(15):(14.9)

 花市生花店は1927 (昭和2)年に、千代田区神田淡路町に建てられた花屋です。この建物も典型的な看板建築ですが、銅板にあしらわれた花屋らしいラブリーな模様に緩頬。二階の窓の下には、梅、桜、菊、牡丹などの花が飾られ、三階には蝶と菊が対角線上に配置されています。これらの銅板の模様は、墨で下絵を描いたカシの木を大工が彫り、その型に銅板をのせて木槌などを使って打ち出すという手法で作られたものだそうです。匠の技に乾杯。
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 なお最近読んだ『茶の本』(岡倉覚三 岩波文庫)の中に、花に関する素敵な一文があったので紹介します。
 喜びにも悲しみにも、花はわれらの不断の友である。花とともに飲み、共に食らい、共に歌い、共に踊り、共に戯れる。花を飾って結婚の式をあげ、花をもって命名の式を行なう。花がなくては死んでも行けぬ。百合の花をもって礼拝し、蓮の花をもって瞑想に入り、ばらや菊花をつけ、戦列を作って突撃した。さらに花言葉で話そうとまで企てた。花なくしてどうして生きて行かれよう。花を奪われた世界を考えてみても恐ろしい。病める人の枕べに非常な慰安をもたらし、疲れた人々の闇の世界に喜悦の光りをもたらすものではないか。その澄みきった淡い色は、ちょうど美しい子供をしみじみながめていると失われた希望が思い起こされるように、失われようとしている宇宙に対する信念を回復してくれる。われらが土に葬られる時、われらの墓辺を、悲しみに沈んで低徊するものは花である。
 悲しいかな、われわれは花を不断の友としながらも、いまだ禽獣の域を脱することあまり遠くないという事実をおおうことはできぬ。(p.77~8)
 武居三省堂は、明治初期に創業した文具店。当初は、筆・墨・硯の書道用品の卸を中心に商売していましたが、のちに絵筆や文具も扱う小売店に変わりました。茶色のタイルを前面に貼ったファサードがいぶし銀の逸品です。
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 川野商店(和傘問屋)は大正15 (1926)年に、現在の江戸川区南小岩に建てられた出桁造りの建物です。重厚な屋根の造りや格子戸に、江戸の残り香を感じます。小岩は、東京の傘の産地として当時有名で、川野商店では、職人を抱え傘を生産し、また完成品の傘を仕入れ問屋仲間や小売店へ卸す仕事をしていたそうです。
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by sabasaba13 | 2016-07-27 06:28 | 東京 | Comments(0)

江戸東京たてもの園編(14):(14.9)

 大和屋本店は乾物屋です。解説板を転記します。
 大和屋本店は、港区白金台の通称目黒通り沿いにあった木造3階建ての商店である。3階の軒下は何本もの腕木が壁に取り付き出桁と呼ばれる長い横材を支える出桁造りという形式をもつ一方、間口に対して背が非常に高く、2階のバルコニーや3階窓下に銅板を用いるなど、看板建築の特徴を備えたユニークな建物である。建物は創建当初の1928年(昭和3)に復元している。
 大和屋本店は創建当初から乾物類の販売を手がけ、海産物の仕入れが困難になった昭和10年代後半以降はお茶と海苔などを販売していた。復元にあたり店舗部分は鰹節や昆布、豆、スルメ、海苔、鶏卵などを販売する戦前の乾物屋の様子を再現している。大和屋本店では煙草も販売しており、店舗前面に煙草屋の造作が取り付けられていた。今回取り付けられている煙草屋の造作は昭和20年代のもので、青梅市二俣尾一丁目、武田清氏よりご寄贈いただいたものである。
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 植村邸は昭和初期に建てられた建物で、全体を銅板で覆われています。まるでジャイアント・ロボ(古いなあ)のような強面で周囲を睥睨しています。ま。二階の窓の上にあるアーチ部分の装飾は手が込んでいて、中央には六芒星とローマ字の「U」と「S」を重ねた模様が見られますが、これはこの建物を建てた植村三郎氏のイニシャルからとったものだそうです。なお一階部分の銅板に多数の傷が残っていますが、これは戦時中の空襲による爆弾等の破片が突き刺さってできたものです。歴史の証人としても貴重な物件です。
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 荒物屋の丸二商店は、昭和初期に現在の千代田区神田神保町に建てられた店舗併用住宅です。外連味にあふれたキッチュな看板建築ですね、私大好き。ファサード上部のわけのわからない意匠や柱と、江戸小紋の網代や青海波をあしらった銅板のミスマッチ。
 また裏手には、丸二商店に隣接していた創建年を同じくする長屋を復元し、路地の情景が再現されています。
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by sabasaba13 | 2016-07-25 06:31 | 東京 | Comments(0)

江戸東京たてもの園編(13):(14.9)

 そして東ゾーンへ、ここは昔の商家・銭湯・居酒屋などが建ち並び、下町の風情を復元しています。まずは村上精華堂、解説板を転記します。
 村上精華堂は、台東区池之端、不忍通りに面して建っていた化粧品屋である。奥の土間で化粧品の製造を行い、卸売りや、時には小売りを行っていた。創業者の村上直三郎氏は、アメリカの文献を研究して化粧品を作ったと言われている。そのせいか、建物はイオニア式の柱を並べたファサードをもち、西洋風のつくりとなっている。この建物は関東大震災後、東京市内に多く建てられた「看板建築」の一種であり人造石洗い出し仕上げである。
 1942年(昭和17)頃、村上精華堂の本店が浅草向柳原に移り、この建物は支店となった。
 1955年(昭和30)頃には化粧品屋としては使われなくなり、1967年(昭和42)、二代目の村上専次郎氏により、寄贈者の増渕忠男氏に譲渡された。
 おうっ、これぞ看板建築。イオニア式柱が無秩序にアナーキーに乱立するファサードに、「寄らんかい」という店主の魂の叫びを感じます。ところで「看板建築」とは何ぞや? 実は前出の藤森照信氏が提起された建築様式で、『東京たてもの伝説』(藤森照信・森まゆみ 岩波書店)の中で、御自らこう語られています。
 《看板建築》は関東大震災のあとの東京の商店に、防火対策として登場した建築様式です。関東とその近辺の東日本に分布していますが、関西にはほとんど見られません。タイル貼りのもの、銅板貼りのもの、モルタル塗りのもの。仕上げ材はいろいろありますが、すべてに一致している特徴は、建物の正面が平板で、全体が看板となっているような外観にあります。(p.203~4)
 なお『看板建築』(三省堂)の中で、藤森氏は次のような鋭い分析をされています。
 近代の建築の歩みの中で工場建築や産業施設の果たした決定的影響についてはすでに語られている。大きなスケール、無装飾な壁、鉄の駆使、合理性や機能性や力動性、こうした工場建築の性質は近代の機能主義建築の本質を形づくることになる。
 しかし、ここで改めて考えてほしいのは、近代の工場が大量の商品を製造したということは、実は、その大量の商品を売るための商店が発達したことを意味する、ということ。
 つまり、工場と商店は実は二人三脚をしながら近代という時代を作りあげてきた。
 にもかかわらず、皮肉なことに、工場と商店は建築的表現としては全く反対の方向をめざさざるを得なかったし、実際そうなった。
 工場の建物に求められたのは、均質で大量の生産力の確保ということであり、そこから自ずと合理的で機能的な表現が生まれてくる。一方、そうした工場からトラックで送り出された商品はどのように人々に手渡されるかというと〈商品経済の発達〉という環境の中で手渡されることになる。具体的に言うと、大量の商品を大量の人々に手渡す場としての商店は、いかに多くの客の目を引くかが勝負となり、そこから自ずと、過剰に飾り立てられた個性的な表現が生まれてくる。工場とは正反対な建築にならざるをえない。
 過剰で個性的な表現-これが前近代と近代の商店の二つを分けるポイントになる。
 蔵造や出桁造といった前近代に成立した商店があそこまで似た姿をしていたのに、近代になってから誕生した洋風商店、バラック商店、そして看板建築がなぜあそこまで派手でメチャクチャで乱暴なまでに変化に富んでいるかというと、その過剰で個性的な表現こそが近代の商店の生命だったからである。
 当然のように、近代商店は、精神の深みにうったえるような表現は愚の骨頂で、街ゆく人々の目玉の表面をヒッパタイテ刺激を与えるような消費的デザインに傾くし、また、とにかくまず人目をうばわなくては何もはじまらないからファサードを重視するようになる。
 消費的なデザインとファサードの重視-これはもうそのまま看板建築の性質である。
 逆にいうと、東京は、看板建築の誕生によって、近代という名の〈消費の時代〉へ、街ぐるみ突入したのだった。
 そして、二度と、蔵造や出桁造の落ち着いた街に戻ることはない。(p.209~10)

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by sabasaba13 | 2016-07-24 08:39 | 東京 | Comments(0)

江戸東京たてもの園編(12):(14.9)

 西川家別邸は、西川伊左衛門により、接客用兼隠居所として建てられた別邸です。西川伊左衛門は、1893 (明治26)年、現在の昭島市中神で北多摩屈指の製糸会社を設立した実業家で、多摩地域の養蚕・製糸業は、大正期から昭和初期にかけて、技術改良や生糸価格の上昇にともない最盛期を迎えたとのことです。
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 伊達家の門は、旧宇和島藩伊達家が、明治以降華族に列せられ、東京に居住するため新たに建てられた屋敷の表門です。大正時代に建てられたもので、総欅造り。起(むく)り屋根を持つ片番所を付けるなど、大名屋敷の門を再現したような形をしています。なお起り屋根って何となく愛くるしくて好きです。山ノ神の腹部に似ているからかな。熊本ルーテル学園神水幼稚園、美濃市の小坂家住宅、明治村の京都中井酒造などなど、プリティな物件ぞろいでした。
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 皇居正門石橋飾電燈は、皇居前広場から皇居へ向かって左手前に見える石橋に設置されていた飾電燈。橋の欄干両側にある男柱石に計6基設置されていたもののひとつでした。
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 万世橋交番は、神田の万世橋のたもと、万世橋駅のそばにあったものです。1923 (大正12)年の関東大震災により、駅とともに大きな被害を受けましたが、のちに以前のとおりのデザインに修復されました。
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 その近くにあるのが、上野消防署(旧下谷消防署)望楼の上部です。町のランドマークとも言うべき建造物ですが、建造物の高層化や電話の普及とともに、昭和30年代後半から次第に役目を終え、1973 (昭和48)年には、都内における望楼の利用はほぼ取り止めとなったそうです。火の見櫓・望楼マニアとしては悲しいなあ。
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 天明家は、代々、鵜ノ木村(現在の大田区)で村役人の年寄役を勤めたと伝えられる旧家です。正面の千鳥破風や長屋門など、農家としての高い格式がうかがえます。
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by sabasaba13 | 2016-07-18 07:39 | 東京 | Comments(0)

江戸東京たてもの園編(11):(14.9)

 大きな車寄から玄関に入り、彼が殺害された二階へとあがってしばし物思いにふけりました。まず彼はなぜ殺されたのか。今読んでいる『血と涙で綴った証言 戦争』(朝日新聞テーマ談話室・編 朝日ソノラマ)の中に、下記の一文がありました。
 二・二六事件で惨殺された髙橋是清蔵相は、反乱軍に最も憎まれていた。「説が正しいのみならず、言うとき非常な激語を放つ。12年度予算を組む最中に、陸軍をもっとも強硬に抑えたのみならず、いまアメリカと戦争できるなんてそんなことを考えるばか者が陸軍におるのかとか、荒木貞夫陸軍大臣が中将から大将になると、こんど大将になったのか。はじめから大将だとばかり思っていたよ、と子供みたいな扱い方で…」(大蔵省編『大蔵大臣回顧録』から、斎藤虎五郎氏の証言)  (下p.103)
 うーむ、やはり陸軍の逆恨みが最大の原因だったようです。そういえば彼は参謀本部の廃止も主張していました。
そして時代の大きな転換点となった二・二六事件とは何だったのか。いくつかの分析を列挙しておきます。
『日本近代史』 (坂野潤治 ちくま新書948)
 戦後の後発国でたびたび見られた軍事クー・デターの多くは、何らかの形で国民的、民衆的支持を得ていた。しかし、二・二六事件はそういう国民的支持を欠いた、陸軍青年将校の宮中革命であった。彼らは、軍事クー・デター決行の後に国民に訴えたのではなく、「君側の奸」を倒して天皇個人に訴えたのである。(p.416)

『講座 日本歴史10 近代4』 (東京大学出版会)
『「大日本帝国」の崩壊』 (木坂順一郎)
1932年の五・一五事件後に成立した斎藤実内閣から鈴木貫太郎内閣にいたる十三代の挙国一致内閣の実態は、宮中グループ・軍部・官僚・独占資本家・寄生地主・政党という権力ブロックを構成する六つの集団(各集団内部に多くの派閥やグループが結成され、それらが複雑に結びついていた)の不安定な同盟関係を基礎とする寄合世帯にすぎなかった。そして二・二六事件後に軍部が主導権を握ったと安易に主張する論者が多いが、十五年戦争期に一貫して国家権力の核心をにぎり、政治の主導権をにぎっていたのは天皇と宮中グループであり、軍部の主導権も天皇と宮中グループの暗黙または明示の同意と支持なしには確保できなかった。したがって二・二六事件以後の事態は、天皇・宮中グループと軍部との主導権分有という不安定な状態にあり、天皇と宮中グループは軍部が落ち目になった場合には、軍部から主導権をとりかえしうるだけの主体的力量を保持していたとみるべきであろう。この主導権分有という不安定な状態こそ、権力ブロック内部の主導権争いを激化させ、一元的戦争指導体制の確立を不可能にした大きな要因であり、敗戦直前に天皇と宮中グループが本土決戦を叫ぶ軍部主戦派を押えて「終戦」を実現することを可能にしたのである。(p.306)

『日本の百年7 アジア解放の夢』 (橋川文三編著 ちくま学芸文庫)
 当時、獄中にあった河上肇は、思想検事とのあいだにつぎのような問答をかわした。…
 問 ヨーロッパではファシズムがだんだん強くなって来ているが、それをあなたはどうみているのですか。日本におけるファシズムの勢力というような問題についてもどう考えていますか。
 答 日本ではファシズムを抑えるという形でファシズムを進展させてゆくことができる現状だと思います。たとえば最近の二・二六事件に対する弾圧-関係者に対する比較的重い処罰等々-はいまの政権がファシズムに対立するものであるかのごとき幻想を民衆に与える。いずくんぞ知らんいまの政権自体がすでにファシズム的傾向を十二分に備えているのです。(略) 急進派に属するファシストの連中はとうとう二・二六事件ほどの大騒ぎを演じてみせました。ところがあれほどの大騒ぎが演出されたにもかかわらず、ブルジョアジーが少しも驚かないのは、私どもから見るとよほど特徴的なことです。」(河上肇 『自叙伝・四』 1952) (p.215~6)

『日本人の「戦争」 古典と死生の間で』 (河原宏 講談社学術文庫)
 当面、この暴挙(※二・二六事件)に国民からの鋭い非難を真っ向から浴びた軍部が考えたことはなんだったか。とりうる方策は、その批判の視線を外に転化すること、外戦を起こして手柄をたて、非難を称賛に変えること以外にない。事実、事件から僅か一年四ヵ月後の37年7月、盧溝橋事件に端を発した戦いは日中の全面戦争へと発展した。軍は二・二六事件の記憶だけからも、引くにひけないものとなっていた。なぜなら、その根因をなす社会構造の改革にはなんら手がつけられていなかったからである。
 日中戦争は二・二六事件の後遺症を引きずりながら、なお国内改革に着手することなくそれを解消し、その記憶を抹殺しようとして起こされたといってよい。時の首相近衛文麿が「国内における反乱や革命にくらべれば、中国との戦争の方がまだましだと考えた」というヒュー・バイアスの指摘は的確だった。
 このような観点からすれば、日本の戦争は日中・太平洋戦争共に、その根本の動機は土地獲得衝動に突きうごかされたものと見ることができる。あるいは日本の帝国主義は、後に述べる如く空腹の帝国主義だったといえるかもしれない。それは"革命よりは戦争がまし"という選択から導きだされる当然の性格だった。(p.109~10)

『体系・日本現代史1 日本ファシズムの形成』 (日本評論社)
 こうして二・二六事件は、軍部主流が、皇道派グループによるクーデターの威圧効果を利用し、対英米協調路線を圧服し去り、あわせて皇道派の急進的異端分子を一掃することによって、発言力を圧倒的に強化し、華北分離工作の進行とあいまって、対外膨張とそのための「高度国防国家」建設をさらに大きく前進させる画期となった。日本ファシズムは、上述の対外路線の分裂・対抗・転換との関連づけでいえば、アジアモンロー主義的路線の漸進派的な主流が中軸となり、一方で急進ファシズム運動をこの路線の尖兵ないし走狗として活用・利用し、他方で対英米協調路線を屈服させたうえで同調させることによって、形成されたのである。(p.31)
 二・二六事件とは、宮中グループを排除するために陸軍皇道派が決行したクーデター、というのが定説のようです。統制派もこのクーデターを支持していましたが、昭和天皇の激怒により鎮圧側に豹変。そしてクーデターの再発をちらつかせながら、宮中グループを沈黙させ、革新官僚たちと協力しながら総力戦体制を構築していく端緒となった事件、と私は考えています。『血と涙で綴った証言 戦争』(朝日新聞テーマ談話室・編 朝日ソノラマ)によると、東条英機が"戦さというものはね、山の上から大石を転すようなものだ。最初の50センチかせいぜい1メートルぐらいならとめることもできるが、2メートル、5メートルともなればもう何百人かでなければとめることはできない"と言ったそうです。(上p.196) もしかするとこの時点ではまだ大石は1メートルぐらいしか転がっていなかったかもしれませんね。今は何メートルぐらいなんだろう。それを見極めるのが知性だと思います。
 なお『昭和史発掘』(松本清張 文春文庫)にこんな記述がありました。
 歩一、歩三の青年将校たちが相沢公判の対策協議場としていた竜土軒は、日本文学史上にゆかりのある店だった。明治三十七、八年ごろ、麻布新竜土町にできたこのフランス料理店は、田山花袋、島崎藤村、小栗風葉、柳田国男、近松秋江、それに詩人の蒲原有明などが集まった。店の名にちなんでその会合を「竜土会」と称した。近松秋江は、「自然主義は竜土会の灰皿から生れた」といっていたくらい、当時の若い文学者の巣であった。そのほか、国木田独歩、岩野泡鳴なども来たし、平塚雷鳥も紅一点として顔を見せた。またのちには、北原白秋、木下杢太郎、上田敏、小山内薫などが集まり、彼らの「パンの会」の屯ろ場所でもあった。明治末から大正の初めにかけての竜土軒は、こうしたヨーロッパ自由主義にめざめた近代日本の精神を生んだのが、昭和のこの頃になると、その近代的な自由主義に反逆する若き軍人の集まり場所になり、秋江の言葉をもじれば「竜土軒の灰皿から二・二六事件の謀議が生れた」のは皮肉である。(⑤p.370)

 余談ですが、厠上本の『寒村自伝』(荒畑寒村 岩波文庫)を読了したので、『高橋是清自伝』(中公文庫)を読み始めました。闊達な語り口と波乱万丈の人生、これは面白い。
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by sabasaba13 | 2016-07-17 06:44 | 東京 | Comments(0)

江戸東京たてもの園編(10):(14.9)

 田園調布の家(大川邸)は、大田区田園調布に1925 (大正14)年に建てられた住宅です。趣味のよい洒落た外観が素敵ですね。なお田園調布は、渋沢栄一によって設立された「田園都市株式会社」が開発した郊外住宅地の一つで、関東大震災から一か月後の1923 (大正12)年10月より分譲が開始されました。
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 旧自証院霊屋は江戸幕府三代将軍徳川家光の側室であったお振(ふり)の方を祀った霊廟で、1652 (慶安5)年に市ヶ谷の自証寺の中に建てられました。禅宗様と和様の折衷様式で建築され、随所に極彩色の木彫や細かな金具が施された荘厳な建造物です。
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 そして惨劇の舞台となった高橋是清です。岩波日本史辞典と解説板から引用します。
高橋是清 1854‐1936 官僚、銀行家、大蔵大臣。江戸生れ。渡米後、大学南校に入学。農商務省特許局長を経て、1892年日本銀行に入行、99年副総裁、日露戦争の外債募集に成功し、1906年から横浜正金銀行頭取を兼任、11年日銀総裁。13年山本内閣蔵相となり政友会に入る。18年原内閣蔵相、21年に首相兼蔵相、政友会総裁となるが22年辞職。24年に加藤護憲三派内閣の農商務相、25年辞職。27年の金融恐慌時に田中義一内閣の蔵相となり恐慌の処理を経て直ちに辞職した。満州事変後の31年犬養内閣の蔵相となり金輸出再禁止、財政支出の増大を行ない、次の斎藤実内閣にも留任し、日銀の国債引受等による財源措置により景気刺激策を続けた。しかし軍部の軍事費増額要求の中で34年に岡田内閣の蔵相として軍事費要求を厳しく抑制する予算編成方針をとり、36年2・26事件で暗殺された。

 経済通の政治家として、明治から昭和の初めにかけて日本の政治を担った高橋是清の住まいの主屋部分である。是清は、赤坂の丹波篠山藩青山家の中屋敷跡約6、600平方メートルを購入し、1902年(明治35)に屋敷を建てた。総栂普請の主屋は、複雑な屋根構成をもっており、また当時としては高価な硝子障子を、縁回りに多量に使用している。赤坂にあったころは、主屋のほか3階建ての土蔵や、離れ座敷がある大きな屋敷だった。
 1936年(昭和11)、是清はこの建物の2階で青年将校の凶弾に倒れた(2.26事件)。敷地と屋敷はまもなく東京市に寄付され、記念公園となった。是清の眠る多磨霊園に移築され、休憩所として利用されていた主屋部分が、この場所に移築された。

 是清はこの二間を寝室と書斎に使っていた。寝室の床の間の前には文机が置いてあって、寝る前にはその机で習字をするのが習慣であった。書斎には大きな洋机が置かれ、仕事をしたり暇があると読書にふけっていたという。
 是清は1936年(昭和11)2月26日早朝、青年将校によって殺害された(2・26事件)。兵士十数名が寝室になだれ込み、白の寝巻姿で布団に座っていた是清に銃弾を浴びせ、軍刀で切りつけた。即死であった。
 是清は市民から「ダルマさん」と呼ばれ、親しみをもたれていたため、葬儀には別れを告げる人びとが多数参列した。
 波瀾に満ちた83年の生涯であった。

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by sabasaba13 | 2016-07-15 06:41 | 東京 | Comments(0)

江戸東京たてもの園編(9):(14.9)

 そしていよいよ本園の白眉、前川國男邸です。解説板を転記します。
 前川國男邸は、品川区上大崎に1942年(昭和17)に建てられた住宅である。この建物は前川國男建築事務所によって設計され、戦時体制下、建築資材の入手が困難な時期に竣工した。
 前川國男(1905~1986)は、東京文化会館(1961)、東京都美術館(1975)をはじめ、公共建築を中心に多くの作品を残し、日本の近代建築の発展に大きく貢献した。
 大きな三角屋根、広い大きな開口部と窓、中心を貫く棟持柱、ほれぼれするような外観です。内部もまた素晴らしい。外観からは想像もできないような広々とした居間には、大きな窓と開口部から光が燦々とそそがれています。その開口部は、上半分がガラスと格子、下半分が障子というシャープで洒落た意匠です。ここから階段で中二階に上がることができ、空間構成に変化を与えています。陶磁器などを展示するガラスケースや、厨房と居間をつなぐ配膳のための小窓など、細やかな心遣いが感じられました。戦時下という厳しい状況の中でも、これほどの素晴らしい建築ができるのですね。前川氏の手腕には脱帽です。
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 なお、この建物に関する藤森照信氏の委細をつくした解説があったので転記します。
 南側(庭側)を見てから玄関側(北側)に回ると、中2階が少し迫り出し、棟持柱の上にのっているように見える。こちら側は棟持柱というよりピロティの印象のほうがずっと強い。丸い独立柱とその上にのるシャープな水平連続窓、これはやはり棟持柱ではなくて、ル・コルビュジエのピロティのコンクリートの円柱の木造化、というべきだろう。
 中に入る。よい。外もよかったがもっとよい。平面と断面に精力を注ぐということはインテリアの空間をよくする結果につながる。これは自分自身への教訓。
 庭側と玄関側のガラス戸を開けると、南からの風は柱をこすってそのまま北側に吹き抜けていく。その気になれば視線はむろん人の動きもそのようにできる。まさしくコルの主張したピロティの醍醐味。
 庭に面して大きな開口部のデザインはどうだろうか。上半分はガラスだけだが、下半分には障子を入れている。障子については、実見するまで不安があった。
 障子と、もうひとつ加えて畳はマモノ。このふたつは日本の伝統に住む魔物です。とにかく近寄るときは慎重に慎重を重ね、自分の足許をしっかりさせてからにしてほしい。茶室は、どんなに下手な人がやっても茶室になり、安藤や磯崎がやっても茶室にしかならないが、それと同じ魔力が障子と畳には潜んでいて、このふたつは設計者の原理と腕の欠乏をうまく繕ってくれる代わりに、凡庸へと引きずり込む。桂もどきへと引きずり込む。
 前川の障子はどうか。大きな開口部をすっぱりふたつに分け、上半分を格子、下半分を障子としたことで、力強いコントラストが生まれ、障子のたおやかさ、繊細さから脱れることができた。と書くと、なんでたおやかさ、繊細さが脱れる対象なのか、日本の伝統の美質ではないか、と不満に思う読者もおられるかもしれない。そのとおり、美質です。
 ではあるが、ではあるが、それを素直に美質と認めがたい気持ちをもっている人がいないわけではない。その美質が、マニエリスティックな洗練で何で悪い、といわれると、21世紀の日本はそうかもしれないナア、と私の首の上は思わないわけでもないが、首から下、とりわけ下半身がついていかない。
 昭和の初期にいわゆるモダニズム(近代主義)建築が日本で成立してから、日本の伝統という明治このかたのテーマは新しい局面を迎える。一言でいうなら、スタイル(様式)としての伝統から、空間としての伝統へ、と建築家たちは関心を転換させ、モダニズム原理と伝統の間に連通管を敷設していくのだが、最初の敷設者は堀口捨己で、まず大正期にオランダのモダンデザインと茶室の間をつなぎ(紫烟荘、大正15年)、昭和に入ってから、バウハウスと桂離宮をつないでみせる(岡田邸、昭和3年)。その年、タウトがきて、あれこれいう。
 この時期、日本の伝統は桂を代表とし、それと連通管でつながる相手はバウハウスのデザインである、というのが日本のモダニズム建築界の基本的な方向であった。しかし、下半身がついていかない者はいつの建築界にもいて、その代表のレーモンドは、桂&バウハウスの強力コンビの陰で、シコシコと牙をといでいた。そして、昭和8年コルのエラズリス邸をパクリ、レーモンド夏の家をつくった。今から考えると昭和8年は日本のモダニズム史上のちょっとした年で、桂&バウハウスに非桂&コルが鋭く突っかかったのである。
 ここに、鉄筋コンクリートや鉄骨造りの本筋のモダニズム建築を舞台に開始されはじめていたバウハウス派とコルビュジエ派のデザイン闘争は、木造の伝統建築まで巻き込むことになった。
 前川は、エラズリス邸計画が練られているときにコルの事務所にいて、帰国してレーモンド事務所に入所すると、あにはからんやエラズリス邸をパクッた夏の家が設計され、実施され、完成後は所員として夏前後の2、3カ月をそこで過ごすことになる。
 であるから前川が時代の困窮の中で木造に取り組まざるを得なくなったとき、唯一の足がかりとしてあったのはレーモンドの夏の家だった。レーモンド夏の家と前川邸を比べると長くなるから止めるが、前川邸はコル派の木造の系譜の正嫡なのである。
 "コル派の木造の系譜"の本性は先に述べた"非桂&コル"のことだが、さてここで問題となるのは"非桂"つまり桂的でない木造の伝統とは具体的に何を指すのだろう。レーモンドの場合、それは農場やバンガローなどのアメリカの簡便な木造と日本の民家のふたつであった。では、前川の場合はどうか。ひとつとして、レーモンド夏の家から血を継ぐ日本の民家がある。そしてもうひとつ、これは前川が意識していたかどうかわからないが、棟持柱に象徴される伊勢。いずれも、木太さと丸太の独立柱好み、という点では似ている。
 文の冒頭、"木造でモダニズムをやることの困難と栄光"と書いたとき、前川邸は"困難"の実例になるんじゃないかと懸念していたが、完成した実物を見るとそれは"栄光"であった。
 前川邸を外から眺め、中を巡り、もう一度外から眺めたとき、サヴォア邸が思い浮かんだ。意外だし、バウハウスとは違うコルらしさが発揮される前の作を連想しては"桂&バウ"対"非桂&コル"の論旨からは困るのだが、それでも、
〈前川邸は木造のサヴォア邸である〉
という印象は深い。
 なお、青森県弘前市には、自転車で3時間ほどの距離に前川國男氏の建物が、処女作(木村産業研究所)から最晩年(斎場)まで8棟現存しているそうです。氏の御母堂が弘前出身であるという縁からですが、弘前城石垣修理が完了した後、桜の頃にぜひ訪れてみたいものです。
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by sabasaba13 | 2016-07-14 08:11 | 東京 | Comments(0)

江戸東京たてもの園編(8):(14.9)

 そして小出邸へ。解説板を転記します。
 小出邸は、現在の文京区西片に1925年(大正14)に建てられた住宅である。外観は、瓦葺き・急勾配の宝形屋根と水平に張り出した軒に特徴がある。また、建物は、当初から敷地の境界線に平行ではなく、ほぼ東西南北に合わせて配置されている。
 内部は、水回り、建具の改築以外に大規模な増改築は行われず、ほぼ創建当時の姿をとどめている。特に、応接間の家具は建物に合わせて設計されている。
 小出邸は、施主である小出収氏(1865~1945)から後も、家族によって大切に住み続けられ、1996年(平成8)まで使われていた。
 この住宅は、大正から昭和に渡って活躍した建築家堀口捨己(1895~1984)の30歳の作品であり、1921年(大正10)に開催された平和記念東京博覧会の作品を除くと、本作品が処女作になる。

 小出邸は、建築家・堀口捨己の現存する数少ない住宅作品であり、彼の実質的な処女作品である。建物の外観では、まずピラミッドのような大屋根が印象的である。このような、屋根の四面が一つの頂点に集まるものを宝形造りといい、仏堂や仏塔などに用いられる。小出邸の場合、宝形屋根が建物全体の高さの半分以上を占めており、この大屋根と軒のシャープな水平線との対比が、建物の外観を特徴づける。このような外観構成は、明らかに小出邸の翌年1926年に竣工した「紫烟荘」に連続するものであり、これら2作は、堀口がヨーロッパを訪問した際に強く影響を受けたオランダの住宅のデザインを、日本の素材で試みた連作としてとらえることができる。なお、宝形屋根は、仏堂などの場合、雨仕舞として頂上に露盤宝珠をのせるのが通例であるが、小出邸も当初は屋根の頂上に宝珠をのせる計画があったらしい。
 建物の随所にみられる水平線と垂直線、そして色彩による空間構成には、デ・ステイルの影響を強く感じることができる。とくに応接間は、壁に取り付く縦材(明らかに構造材としての柱ではない)がそのまま天井へと連なり、格子状に分割された天井面と壁面、3段の吊り棚、そして銀や赤、鶯色といった色彩が抽象的な空間美を実現している。
 玄関まわりの幾何学的構成と円形開口の組み合わせ、1階寝室収納のユニークな寸法割り、2階和室における伝統的な書院造りと大胆な色彩の対照、屋根裏から垣間みえる宝形屋根のダイナミックな小屋組などもみどころである。
 中央に開かれた大きな窓が印象的です。中に入ると、解説にあるような水平線・垂直線・色彩による空間構成や、幾何学的構成を堪能することができました。
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by sabasaba13 | 2016-07-09 06:46 | 東京 | Comments(0)