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江戸東京たてもの園編(3):(14.9)

 それにしても、"内務省都市計画課の「健康住宅地」プラン"というのがいたく気になります。あの官僚の牙城、内務省がなぜ健康住宅地をつくったのでしょうか。こういう時にはインターネットが便利ですね、「株式会社ジー・シー・エス」のホームページに関連する記事がありましたので、小生の文責でまとめてみます。もともと常盤台は東武鉄道によって宅地開発されました。関東大震災後、東京近郊地の住宅需要の急激な増加に対応して、1928(昭和 3 )年に買収した北豊島群上板橋村の土地を、武蔵常盤駅を中心に常盤台住宅地として宅地造成をはじめました。当初の設計は、従来型の碁盤目の区画割りだったそうです。理想的な街づくりをめざしていた根津嘉一郎社長は、住宅地全体のデザインを、従来とはまったく異なる思想でとらえ直すため白紙に戻し、内務省都市計画課の全面的な指導によることとしました。常盤台の設計者は、東京帝国大学建築学科を卒業して内務省官房都市計画課第二技術掛に配属されたばかりの 23 歳の青年、小宮賢一。常盤台のアーバンデザインの特徴は曲線を採用した街路パターンです。(1)駅前北口の大規模なロータリー。(2)中央に街路が植栽された、常盤台を一周する環状の散歩道プロムナード。(3)中央に植栽を持つ小さいロータリー状のクルドサック(cul-de-sac:袋小路)。(4)プロムナード沿いの 3 ヶ所の幼児公園-ロードベイ。というわけで、行政(国)と民間が一体によって開発した、唯一といってよいユニークな住宅地です。1936(昭和11)年から分譲を開始しましたが、日中全面戦争が勃発したのがその翌年。あと数年開発が遅れていたら、常盤台住宅地の開発構想は、大幅に縮小されたり、変更を余儀なくされたりしていたかもしれません。

 なるほどねえ、"土地に歴史あり"ですね。光華殿のところで触れたように、1937(昭和12)年勃発の日中戦争を機に、辛くて厳しい生活への覚悟を国民に求め、それを官僚の現実主義が支える時代が始まります。数年開発が遅れていたら、こんな素敵な住宅地は生まれていなかった可能性は高いですね。贅沢は敵だ、とばかりに。
 しかし、内務省がなぜこうした優美でユニークなアーバンデザインを立案したのかという疑問は氷解しません。これに関しては、『客分と国民のあいだ 近代民衆の政治意識』(吉川弘文館)の中で述べられている、牧原憲夫氏による以下の指摘がヒントになりそうです。
 とはいえ、社会政策や普通選挙制は米騒動や「社会主義」の力だけで実現したのではない。第一次世界大戦の経験は総力戦体制構築の必要性を政府・軍部に痛感させた。戦時における営業の自由・契約の自由を制限した軍需工業動員法が1918年に制定されたのはその反映だろう。長期にわたり国力のすべてを投入する消耗戦を勝ち抜くには、国家利益にもとづく経済活動の調整が不可欠であり、さらには国民が国家との一体感を持ち続けなければならない。そのためには国民の生活を安定させ、国民統合を一層進めるほかない。社会政策は総力戦の遂行にとって不可欠なのだ。(p.225)
 満州事変の勃発は1931(昭和6)年。『岩波ブックレット シリーズ昭和史 №2 二・二六事件』(須崎慎一 岩波書店)によると、1933年に入ると、既成政党側に、「憲政常道」への復帰をもとめる声が高まってきます。そこには、満州事変下の「非常時」といわれた緊張した状況の弱まりと、国民の排外主義的熱狂のおとろえがありました。軍部の真崎甚三郎参謀次長は、その日記に、「国民一般に今や平静に馴れ、人心弛緩し、稍もすれば軍を離反せんとしつつあり、特に政界、財界に於て然り」と記しています。そうした状況の中で、国民生活を安定させるためのテストケースとして、内務省が推進した計画なのかもしれません、憶測ですが。
 いずれにせよ、興味を引かれる街ですね。こんど是非訪れてみたいと思います。
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by sabasaba13 | 2016-07-01 06:30 | 東京 | Comments(0)

江戸東京たてもの園編(2):(14.9)

 中に入ると午砲が野外展示されていました。江戸時代の「時の鐘」に替わり、正午を通報した空砲で、かつて皇居内旧本丸跡にあり、1871(明治4)年から1929 (昭和4)年4月まで時を告げていたそうです。
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 それでは東ゾーンを徘徊しましょう。まずは常盤台写真場です。解説を転記します。
 この写真場は、戦前からの代表的な郊外住宅地、常盤台に建てられた。常盤台は1935年(昭和10)東武東上線の開業により武蔵常盤駅(現在のときわ台駅)が設置され、これを契機に分譲住宅地として開発された。内務省都市計画課の「健康住宅地」プランにより、編み目状の道路網、公園、電気、ガス、水道、下水道などの設備を備えていた。
 常盤台写真場は分譲当初の1937年(昭和12)に建てられた。2階写真場北側の天上から壁面は全面がガラスである。これはスラントといい、照明設備の無かった頃の写真館の特徴をよく表している。
 まず、装飾を一切拒否するような断固とした意思を感じさせる、シンプルな外観に目を引かれます。看板もなく、最上部に「TOKIWADAI PHOTO STUDIO」と店名が掲げられているだけです。全体的に左右非対称の構成で、角の部分を搭状に高くしているのが印象的。調子を変えながらリズミカルに穿たれた、縦長の窓もいい味を出しています。中に入ることができ、二階にあがるとそこが写真スタジオで、北側にはムラのない自然光を取り入れるための大きな摺りガラス窓(スラント)をとってありました。この手法は画家のアトリエでもしばしば用いられるそうです。
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by sabasaba13 | 2016-06-29 06:35 | 東京 | Comments(0)

江戸東京たてもの園編(1):(14.9)

 近代の名建築を野外展示した「明治村」の記事は先日掲載しましたが、実は東京にも同様の博物館があるのですね。その名も「江戸東京たてもの園」。同園のホームページより、そのコンセプトを引用します。
 江戸東京たてもの園は、1993年(平成5年)3月28日に開園した野外博物館です。都立小金井公園の中に位置し、敷地面積は約7ヘクタール、園内には江戸時代から昭和初期までの、30棟の復元建造物が建ち並んでいます。当園では、現地保存が不可能な文化的価値の高い歴史的建造物を移築し、復元・保存・展示するとともに、貴重な文化遺産として次代に継承することを目指しています。
 なお私が私淑する建築史家の藤森照信氏が、野外収蔵委員として参画されています。
 以前に、山ノ神を同伴してお花見がてら訪れたことがあるのですが、今回はじっくりと拝見したいと思います。というわけで2014年の九月末、爽やかな秋晴れの某日、ふらりと小金井公園に行ってみました。JR中央線の武蔵小金井駅北口からバスに揺られて五分で公園に到着。緑の木々や芝生、紺碧の空を愛でながらすこし歩くと「江戸東京たてもの園」に到着です。付近にあった「エサやるな」「花火禁止」のピクトグラムと、宮崎駿氏制作のマスコットキャラクター「えどまる」を撮影して、ビジターセンターへ。
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 この建物は旧光華殿で、1940(昭和15)年に皇居前広場で行われた紀元2600年記念式典のために仮設された式殿です。「仮設」というのが気になりますが、そう言えば『夢と魅惑の全体主義』(文春新書526)で、井上章一氏が興味深い指摘をされていました。ファシズム体制がいだいていた意欲は建築や都市計画に投影されるという観点から、ドイツ・イタリア・ソ連・日本のファシズム期建築を比較・考察したのが本書です。ドイツ・イタリア・ソ連のファシズム体制は、権力の簒奪者が支配の正統性を補うために、明るく素晴らしい未来像を建築や都市計画という可視的な形で民衆に提示し大衆動員を行ったと分析されています。それに対して日本では、日中戦争開始直後の1937年10月に「鉄鋼工作物築造許可規則」が公布され、鉄材を50トン以上使う建築(※軍関係は例外)を禁止したそうです。その結果、建設中の鉄筋コンクリート建築は未完成のままほうりだされ、官庁を含めて首都中枢に木造のバラック群があらわれました。この光華殿もその一端を示すものかもしれません。未来への幻想を提供するのではなく辛くて厳しい生活への覚悟を国民に求めた、あるいは独裁者の夢想ではなく官僚の現実主義が支えたのが、日本のファシズムであったと著者は述べられています。『昭和ナショナリズムの諸相』(名古屋大学出版会)の中で、橋川文三氏は"結局日本ファシズムは、ファシズムに値するほどの異常性を表現したものではなく、近代日本の伝統的な官僚制の異常な戦時適応にすぎなかった…"(p.184)と指摘されていますが、官僚によって築き上げられた日本ファシズムの矮小性を語り継ぐ、歴史の証人なのかもしれません。
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by sabasaba13 | 2016-06-28 06:39 | 東京 | Comments(0)

小笠原伯爵邸編(5):(2016.1)

 さてそろそろ時間です。お待ちかねのランチをいただくことにしましょう。邸内に戻るとテラス席に案内されましたが、ここはかつてのベランダで、ごく身内だけの食事をする場所として使用されたそうです。
 前菜は「ソパ ・デ・アホ」(La Sopa de Ajo Morado)と「鮟肝のトースト」(La Tosta de Higado de Rape)。前者はにんにくの冷たいスープです。
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 パンにはオリーブ油をつけていただきます。
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 次は「菜の花とタコのハーモニー パセリクリーム 仏手柑の香り」(El Pulpo Asado con Flores de Colza, Mano de Buda y Crema de Perejil)。さまざまな味と香りが玄妙なハーモニーを奏でる逸品でした。
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 なお係の方が「仏手柑(ぶっしゅかん)」の現物を見せてくれましたが、まるで触手のような異形の柑橘でした。何でも千手観音に似ているところから命名されたとか。ここ山ノ神、はたと膝を打ち「これだったんだわ」とひと言。去年の夏、仁淀川に行ったときに高知で「ぶしゅ胡椒(ぶしゅかん果皮入り)」という調味料を買ったそうです。
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 「オマール海老 キャビア 赤米のアロスメロッソ」(El Arroz "Rojo" de Bogavante)も美味しかったですね。
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 「アイナメのプランチャ カボチャのピューレ カリフラワーのマリネ」(El Ainame a la Plancha, Pure de Calabaza y Coliflor Marinado)はその味もさることながら、まるでホアン・ミロの絵のような色彩も楽しめる一皿です。
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 そしてメイン・ディッシュは「イベリコ セクレト ソプラサーダのクレモソ レモンタイムのアクセント」(El Secreto Iberico,Cremoso de Sobrasada y Aceite de Tomillo Limonero)。こちらはスタンディング・オベーションものの逸品でした。これほど味わい深い豚肉を食べたのはじめて、これだけでも来た甲斐があったというものです。
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 そしてデザートは「セロリのソルベ パイナップルのアイレ モヒートのエスフェリコ」(Sorbete de Celery, Aire de Pina y Esferico de Mojito)。セロをシャーベット(ソルベ)にするなんて斬新なアイデアですね。イベリコ豚の濃厚な味を洗い流してくれる、一陣の涼風のようです。
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 もう一品のデザートは「柑橘のデグリネゾン」(Declinacion de Citricos)。なんと柑橘のゼリーと生クリームが、水飴で薄くかたどったレモンの中におさめられているという手の込んだ一皿です。これも美味しかったなあ。
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 そして「コーヒー、小菓子」(Cafe y Golosinas)をいただいて本日のランチは終了です。
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 いずれ劣らぬ逸品ぞろい、たいへん美味しい料理でした。なおランチコースは11:30~15:00で7,000円(税・サービス料10%別)、ディナーコースは18:00~23:00で10,000円または15,000円(税・サービス料10%別)です。10,000円のディナーには、ランチに「下仁田ネギの'カルソッツ' パパダ、ケッパーとヘーゼルナッツ」(La Cebolleta Cocida a modo de Calcots con Papada y Alcaparras)が追加されるだけだと思います、たぶん。よって個人的にはランチで充分だと思いますが、明かりに照らされた夕刻から夜の邸宅の素晴らしさも捨てがたいものがありました。
 さあそれでは、オーチャード・ホールにマーラーを聴きにいきましょう。

 本日の四枚は、以前に訪れたときに撮影した夕刻の小笠原伯爵邸です。
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by sabasaba13 | 2016-03-01 06:40 | 東京 | Comments(0)

小笠原伯爵邸編(4):(2016.1)

 ガイド・ツァーはここで終わりです。それでは外へ出て、外観を拝見いたしましょう。入口の上にあるキャノピー(外ひさし)は葡萄の蔦・葉・実を一面にちりばめた葡萄畑をモチーフにしたみごとな意匠です。左側にまわりこむと、御幣をかついだ猿の陶板がありました。ちょっととぼけたお猿さんなのですが、実は彼は魔除けです。『建築探偵 東奔西走』(藤森照信 朝日新聞社)によると、これは東北(艮)=鬼門の方角から鬼が入ってくるのを防ぐためで、江戸~東京では鎮守である山王社の神使である猿がその役目を果たすとのことです。ニワトリを模したユニークな物件は焼き窯で、これは新たに造られたものだそうです。ガーデンには恰幅のよいオリーブがありましたが、これは交流400年を祝してスペイン・アンダルシアから贈られた推定樹齢500年の古木だそうです。
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 そしてもう一つの見せ場、シガー・ルームの外壁を飾るタイル装飾です。輝く太陽、その光りを浴びて植物の花が咲き実がなり、小鳥やトンボが遊ぶ。生命の賛歌とも言うべき、華やかで明るいすばらしい意匠です。なお赤いハートめがけて上方から飛んでくる矢があるのですが、前掲書の教示では、建物のどこかに取り付けられたキューピッド像から放たれた愛の矢であるという言い伝えが小笠原家にあるそうです。先ほどこの件についてガイドの方に訊ねたのですが、思い当たらないとのことでした。またこれは今パンフレットを読んでいてわかったのですが、外壁左下に「Sone & Chujo, architects. 1926.A.D.」と刻まれた定礎銘板があったのでした。同パンフレットによると、コンドルの四人の弟子(辰野金吾片山東熊・佐立七次郎)の一人である曽禰達蔵は、政府や国家を建築で飾ることに一切興味を示さず、在野の建築家として活躍しました。自分の作品に名を刻むことをほとんどしない彼が、内装外装ともに最も力を込めたシガー・ルームの外壁にこの陶板を入れ込んだのは、それだけの思いがこの住宅に込められていたのでしょう。
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 というわけで素晴らしい建物でした。一度こんな邸宅に住んでみたいものだと誰もが思うでしょうが、現実はかなり辛かったそうです。『建築探偵 東奔西走』(藤森照信 朝日新聞社)に、当主の息子、小笠原忠統(ただむね)氏の談話が載っていたので引用します。
 この家は忠統氏の父の長幹氏が昭和二年に建てたもので、できた時は敷地面積二万坪以上で、家の中にはトイレが十六カ所以上あったという。
 こういう家に生れて育つということは、それはそれでなかなか大変らしい。
 たとえば学校の友達が遊びにきても、家令(元小倉藩主の小笠原家では江戸時代の家老職を明治になってからこう言いかえた)がいちいち人品骨柄をチェックして自由には会えない。もちろん一人で外出したり買い物したりはなし。お金に触れてはいけない。(中略)
 とにかく、家の中と外の世間は完璧に分離されていて、中から外が見えるのは塀の下のほうの通気用の穴だけ。子供の頃、塀の穴から外を歩く人のいろいろな足が見えると、なんだかせつない気持ちになったという。(p.80)
 うーむ、まさしく「籠の鳥」。こんな暮らしはちょっと勘弁してほしいですね。

 本日の四枚です。
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by sabasaba13 | 2016-02-29 06:29 | 東京 | Comments(0)

小笠原伯爵邸編(3):(2016.1)

 そして二階へ。一階廊下脇の小部屋の壁にある照明は、破損せずに残っていた唯一の照明器具だそうです。ランプシェードには、小笠原家の表紋である「三階菱」が刻まれています。二階にあがると女中頭の部屋がありますが、現在では結婚式・披露宴の控室として利用されているそうです。山ノ神曰く、「あたしの部屋より広い」。あのお…僕の部屋でもあるのですが… それはさておき、屋上に出ると庭や中庭(パティオ)を一望できます。パーゴラと呼ばれる藤棚は、当時の設計図と写真をもとに復元したもの。
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 床面のタイルは、ボランティアの方々によって丁寧に磨きなおされた当時のものだそうです。屋上の片隅にある小部屋は何に使われていたのか不明ですが、鳥小屋ではないかと思われます。なお屋上からは、さきほど拝見したシガー・ルームの半円形の外壁と青いスペイン瓦を見下ろせます。壁面を飾る愉しいタイルは、後ほどゆっくりと鑑賞しましょう。
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 そしてふたたび階下へ。スペイン建築の特徴である中庭(パティオ)が建物の中心に位置し、屋上庭園につながる階段が配置されており、変化のある景観をかたちづくっています。なお噴水の彫刻は、彫刻家・浅倉文夫に師事していた当主の作品だそうです。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2016-02-28 10:32 | 東京 | Comments(0)

小笠原伯爵邸編(2):(2016.1)

 それでは中に入りましょう。なお事前に連絡をしておけば、係の方に館内を案内していただけます。荷物とコートをクロークに預けて、さあ館内探検のはじまりはじまり。まず、エントランス上部にある鉄製ファンライト(明かり取り)は、鳥籠に入った小鳥と葡萄がデザインされています。小笠原長幹は鳥が大好きで、館の各処に鳥がモチーフとしてちりばめられています。人呼んで「小鳥の館」、ウェザー・リポートの「バードランド」をウォークマンで聴きながら(古いなあ)見学するのも一興かもしれません。クローク上部にある唐草模様の鉄細工を見ると、ライトの上に小鳥がちょこんととまっていました。
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 エントランスの天井には小川三知作のステンドグラス(復元)がありますが、舞い飛ぶ鳥たちを遠近法を用いて表現しています。なお小川三知は日本初のステンドグラス作家といえる方、ウィキぺディアから引用します。
小川三知 (おがわさんち、1867-1928)は大正から昭和初めに活躍したステンドグラスの工芸家。橋本雅邦に学んだ高い日本画の素養と、アメリカで修行して身に付けた複雑な色調を生み出すガラス技法で、アール・ヌーヴォー、アール・デコ風でありながらどこか日本情緒を感じさせる作品を生み出し、日本初のステンドグラス作家といえる存在である。
 まずはディナー・ルームへ、こちらは小笠原伯爵家の正餐用食堂です。チークの壁が重厚な印象で、かつて5男6女の子どもたちと伯爵夫妻が囲んだ大テーブルが置かれていますが、これは邸内で現存する唯一の家具だそうです。エリザベシアンの影響を受けた意匠で、「メロンレッグ」と呼ばれる脚部には細かい装飾が施されています。
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 その隣が、柱頭装飾が可憐な応接間で、白壁が清楚な雰囲気をただよわせています。中央の窓には小花を吹き寄せた愛らしいデザインのステンドグラスがありますが、これも小川三知の作品でオリジナルのものです。
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 そしてこの館の最大の見せ場が、一番奥にある半円形のシガー・ルーム。煙草や葉巻がトルコやエジプトから入ったことから、西洋館の喫煙室はイスラム風につくることが当時の慣わしでした。大理石の柱と床、内壁、窓枠、扉などをうめつくす濃密華麗なイスラム風装飾に圧倒されます。なおここは紫煙が漂うなかで、男性のみが語らう場所だったそうです。女性の談話室は現在女性用トイレになっているそうなので、さっそく山ノ神を斥候として派遣しました。…彼女曰く、華麗なシャンデリアのある、白壁の瀟洒な広い部屋だそうです。
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 本日の四枚です。
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by sabasaba13 | 2016-02-27 07:21 | 東京 | Comments(0)

小笠原伯爵邸編(1):(2016.1)

 一月末日、オーチャード・ホールに、マーラーの交響曲第四番を聴きにいくことになりました。以前にも書きましたが、山田和樹という若い指揮者が、日本フィルハーモニーとともに三年をかけてマーラーの交響曲九作を年代順に振るという「マーラー・ツィクルス」第二期の一回目。開演は午後三時、聴く前に昼食か、聴いた後に夕食か、迷うところです。山ノ神と相談したところ、あのガチャガチャした虚飾の街・渋谷では食事をとりたくないということで意見は一致。新宿のあたりで昼食をとろうかなと思案した瞬間、脳内に閃光が走りました。小笠原伯爵邸! 『建築探偵 東奔西走』(藤森照信 朝日新聞社)を読んでその魅力にとりつかれ、以前に職場の送別会でディナーを食べたことがあるのですが、建物の素晴らしさとスペイン料理の美味しさにいたく感銘を受けました。今度はぜひ山ノ神にランチをご馳走してあげたいと常々考えていたのですが、絶好のチャンスです。破顔一笑して彼女も賛同、予約も入れることができました。小笠原伯爵邸で食事をして、マーラーを聴いて、家で「ブラタモリ」を見る、うわお、なんてゴージャスな一日なんだあ。

 コンサート当日、都営12号線(筆者注:あの極右・レイシストの御仁がつけた名称はわが家では使いません)「若松河田」駅で下車すると、徒歩1分で小笠原伯爵邸に到着です。まずは同邸のHPをもとに、その建物の沿革について紹介しましょう。ここは、礼法の宗家で有名な小笠原家第30代当主、小笠原長幹(ながよし)伯爵[旧小倉藩主]の本邸で、設計は曾根中條建築事務所。1927(昭和2)年に竣工しました。掻き落とし仕上げと呼ばれるクリーム色の外壁にエメラルドグリーンのスペイン瓦。窓には鉄格子の飾りが施され、中庭を囲むロの字型のプランは、日本に希少な完成度の高いスパニッシュ建築と言われています。後ほど紹介しますが、内部の意匠や装飾もみごとなものです。
 このような、当時の芸術の粋が結集した邸宅ができたのは、施主である小笠原伯爵の豊富な海外経験からくるモダンな生活や、朝倉文夫に師事し彫塑に堪能だった芸術に対する造詣の深さによるものでしょう。そして、それに応えることのできる建築家の手腕も見逃せません。建築家の曾根達蔵にとって小笠原家は建築家になる前、武士だった頃の主君につながる一族であり、中條精一郎は長幹伯爵と同じケンブリッジの留学経験を持つなど、施主と建築家の深い信頼関係が、かかわった人々の力を充分に発揮させていると思われます。
 なお曽禰中條建築事務所は、曽禰達蔵(1852-1937)と中條精一郎(1868-1936 作家・中條[宮本]百合子の父)によって1908 (明治 41)年に創設された日本初、かつ戦前最大の民間建築事務所です。作品は慶応義塾大学図書館、東京海上ビル、如水会館、日本郵船ビルなどがあり、いずれも大正・昭和戦前期の折衷様式の主流となる建造物です。
 なお旅をしていると、中條精一郎設計の建築とよく出会います。リデル・ライト両女史記念館旧山形県会議事堂吉池医院旧上杉伯爵邸北大植物園事務所北大旧昆虫学及養蚕学教室などですが、よろしければ拙ブログをご照覧ください。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2016-02-26 06:32 | 東京 | Comments(0)

京都・奈良錦秋編(3):皇居外苑(10.12)

 さてそれでは東京駅へと戻りましょう。途中で坂下門が見えました。そう、坂下門外の変の舞台ですね。桜田門外の変の後、幕威を取り戻すため和宮降嫁など公武合体政策を推進した老中・安藤信正に反発した尊皇攘夷派の水戸志士らが彼を襲撃した事件ですね(1862)。安藤は背中に軽傷を負いましたが、城内に逃げ込んだため、襲撃は失敗。相次ぐ幕閣の襲撃事件は幕府権威の失墜を加速することになります。彼らも、天皇の尊厳を利用しようとした方々なのでしょう。外苑をとりまく歩道の足下には、各都道府県の県花を描いたプレートがはめこんでありました。北海道はまなす(※正確には"はまなし"、武田泰淳の『ひかりごけ』で知りました)、青森りんごの花、岩手キリ… もしや48都道府県すべての県花が皇居のまわりに跪いているのでしょうか。現代版国見ですね、これも天皇に尊厳を保持させるための装置の一つかな。
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 そして外苑の注意書きの膨大なこと、驚き桃の木山椒の木でした。中でも目を引かれたのが「一 許可を必要とする行為 …2 集会を催し、又は示威行動をすること」という一節。
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 天皇制の利用者、支配者、権力者、管理者(ウォルフレン氏曰く"administrator")、何と呼べばいいのかわかりませんが、彼らが私たち人民の集会と示威行動を心胆寒くなるほど恐れていることがわかります。江戸幕府も、明治政府も(五傍の掲示に"何事ニ由ラス宣ラシカラサル事ニ大勢申合セ候ヲ徒党ト唱ヘ徒党トシテ強テ願ヒ事企ルヲ強訴トイヒ…堅ク御法度"とあります)そうでしたけれどね。「徒党を組む」「示威行動」、人々がたくさん集まってある意思を表現する行為を示す言葉にマイナス・イメージが附せられるのも宜なるかな。だとすると、"自分が一番したいことはするな。敵がもっとも嫌がることをせよ"という古代中国の言葉の通り、これを利用しない手はありません。そう、『書を捨てよ、町へ出よう』です。選挙と同じくらい、いやそれよりも有効かもしれない、政治をより良い方向へ変える重要な武器が非暴力的なデモと集会だと思います。ブラジル最大の社会運動「土地なき労働者運動(MST)」の指導者ジョアン・ペドロ・ステディレもこう言っています。「人民の行進は力の表現である…モーゼ以来」 ただ多くの人々の共感を集め、輪を広げていくためには、これまでの動員によるやり方を改める必要はあるでしょう。『一人の声が世界を変えた!』(新日本出版社)という素晴らしい本の中で、伊藤千尋氏はこう述べられています。
 デモは自己満足のためにあるのではない。周りの人に訴えが届かなければ意味がない。単に「政策に怒っている人々がいるのだ」ということだけを訴えたいなら、日本型のデモでもいいかもしれない。しかし、今の時代、他の市民に主張を理解してもらい世論作りをすることが重要だろう。さらにデモに参加している人は、周りの人々が無関心だと自分たちが孤立しているように思えて、これから運動をしていこうと思わなくなるのではないか。これでは次のデモの参加者が減り、組織する側も士気にかかわる。(p.31~32)
 愉快で分かりやすくかつ強烈なメッセージを放つ手製のプラカードや仮装や演劇や音楽、誰でもその場で加われるような自由で楽しい雰囲気、あちこちで繰り広げられる議論、欧米で行われているようなそうしたデモができるといいのにな。学校の授業で「楽しいデモを組織する方法」「人目を引くプラカードの作り方」「よくアピールするパフォーマンス」といったカリキュラムがあればいいのですが、この国では未来永劫絶対にありえませんね。いや、やり方によっては変えられるかもしれません。
by sabasaba13 | 2012-04-12 06:23 | 東京 | Comments(0)

京都・奈良錦秋編(2):皇居(10.12)

 そして二連アーチの二重に到着、♪ひさしぶりに手を引いて♪と歌いながら写真におさめました。ところが、何気なく今インターネットで調べたところ、この橋は二重橋ではないのですね。この奥にある「正門鉄橋」がほんとうの二重橋、かつて橋桁が上下二段に架けられていたためそう呼ばれたそうです。よく誤認される手前の橋の正式名称は「正門石橋」だそうです。ま、いずれにしても哀しいことに、日常的には渡ることはできません。それにしてもこの間、胃の腑に重く黒い異物感をずっと感じ続けていました。まばらな人影、あちらこちらで眼を光らせる皇宮警察。
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 皇居に準ずる聖なる空間、よって天皇制を肯定しない者は実力をもって芟除するという、誰かの(誰?)強烈な意思を身に沁みるように感じます。かつて「人民広場」と呼ばれた俤は毫もありません。やれやれ、なんでまたこんなに厳重に警備をする必要があるのでしょうか、日本には皇室を害せんとする人がそれほど多いのでしょうか。いや、これは皇室の尊厳を日々人為的に再生産するための装置ではないでしょうか。厳重な警備をすることによって、中にいる方々はその警備に値する存在だと思わせる。つまりその尊厳は私たちが自然に感じるものではなくて、さまざまな装置や集団によって人為的につくりだされたものである。仮説ですけれどね。私が畏敬する坂口安吾は「続堕落論」の中でこう喝破されています。(『堕落論・日本文化私観』 岩波文庫) 長文ですが、今でも刺激的な内容なので引用しましょう。
 いまだに代議士諸公は天皇制について皇室の尊厳などと馬鹿げきったことを言い、大騒ぎをしている。天皇制というものは日本歴史を貫く一つの制度ではあったけれども、天皇の尊厳というものは常に利用者の道具にすぎず、真に実在したためしはなかった。
 藤原氏や将軍家にとって何がために天皇制が必要であったか。何が故に彼等自身が最高の主権を握らなかったか。それは彼等が自ら主権を握るよりも、天皇制が都合がよかったからで、彼らは自分自身が天下に号令するよりも、天皇に号令させ、自分が先ずまっさきにその号令に服従してみせることによって号令が更によく行きわたることを心得ていた。その天皇の号令とは天皇自身の意志ではなく、実は彼等の号令であり、彼等は自分の欲するところを天皇の名に於て行い、自分が先ずまっさきにその号令に服してみせる、自分が天皇に服す範を人民に押しつけることによって、自分の号令を押しつけるのである。
 自分自らを神と称し絶対の尊厳を人民に要求することは不可能だ。だが、自分が天皇にぬかずくことによって天皇を神たらしめ、それを人民に押しつけることは可能なのである。そこで彼等は天皇の擁立を自分勝手にやりながら、天皇の前にぬかずき、自分がぬかずくことによって天皇の尊厳を人民に強要し、その尊厳を利用して号令していた。
 それは遠い歴史の藤原氏や武家のみの物語ではないのだ。見給え。この戦争がそうではないか。実際天皇は知らないのだ。命令してはいないのだ。ただ軍人の意志である。満洲の一角で事変の火の手があがったという。華北の一角で火の手が切られたという。甚しい哉、総理大臣までその実相を告げ知らされていない。何たる軍部の専断横行であるか。しかもその軍人たるや、かくの如くに天皇をないがしろにし、根柢的に天皇を冒涜しながら、盲目的に天皇を崇拝しているのである。ナンセンス! ああナンセンス極まれり。しかもこれが日本歴史を一貫する天皇制の真実の相であり、日本史の偽らざる実体なのである。
 藤原氏の昔から、最も天皇を冒涜する者が最も天皇を崇拝していた。彼等は真に骨の髄から盲目的に崇拝し、同時に天皇をもてあそび、我が身の便利の道具とし、冒涜の限りをつくしていた。現代に至るまで、そして、現在も尚、代議士諸公は天皇の尊厳を云々し、国民は又、概ねそれを支持している。(p.235~6)
 "天皇は知らないのだ。命令をしてはいないのだ"という点に関しては留保しますが、鋭い考察だと思います。先ほど述べた"誰か"とは、天皇の尊厳を利用して己の権力を振るおうとする方々でした。もちろん戦前のような露骨なかたちでの利用は今のところなさそうですが、いつかその日が来るまで大切に大切に温存しておこうとしているのかもしれません。なにせ、彼らが利用できる尊厳は、天皇制しかないのですから。かつてロラン・バルトが『表徴の帝国』(ちくま学芸文庫)の中で、皇居を"東京の空虚なる中心"と述べたそうですが、いやいや、この空間にはいろいろな意味がみっちりとつまっています。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2012-04-11 06:17 | 東京 | Comments(0)