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江戸東京たてもの園編(7):(14.9) sanpo

 綱島家は、多摩川をのぞむ台地で穀物や野菜を作っていた古い農家です。
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 次は奄美の高倉、解説板を転記します。
 きのこに似たユニークな外観を持つこの建物は、奄美大島にあった高床式の倉庫である。屋根の部分が穀物などを入れる倉庫になっており、倉の中へはしごをかけて出入りする。
 建物の本体を柱で地面より高くあげているのは、湿気や鼠の害から穀物などを守るためである。4本の柱はアカモモ(奄美大島での俗称。一般にはツバキ科モッコク属)という堅い木材でできている。
 この高倉は1960年(昭和35)、現西東京市にあった「民族学博物館」に移築、展示された。「民族学博物館」は民族学者で実業家でもあった渋沢敬三(1896~1963)らが設立した私設博物館である。同博物館の閉館に伴い、江戸東京たてもの園の前身である武蔵野郷土館に再移築された。
 高倉は、高温多湿の地域に発達したもので、日本では南西諸島ほか東京都の八丈島などに見られる。
 おおっ、まさかわが敬愛する渋沢敬三にここで出会えるとは、盲亀の浮木、優曇華の花です。私設博物館とはおそらく「アチック・ミュージアム」のことなのでしょう、思わず頬ずりをしたくなりました。しませんでしたが。
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 吉野家は、江戸時代後期に建てられた農家で、三鷹市野崎にありました。このあたりは、幕府および尾張徳川家の鷹場になっており、江戸時代中頃から開発が進められた地域だそうです。
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 つぎは八王子千人同心組頭の家です。八王子千人同心は、甲斐との国境を警備するために八王子に配備された武士団です。関ヶ原の戦いの頃には1000人ほどの規模であったため、その名がつけられました。武士とはいえ、平常は農耕を営んでいたそうです。
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by sabasaba13 | 2016-07-08 06:45 | 東京 | Comments(0)

江戸東京たてもの園編(6):(14.9)

 デ・ラランデ邸は、スレート葺きの屋根と、白い下見板張りの外壁が印象的な、ドイツの山荘風の邸宅です。そういえば、神戸北野にある風見鶏の館も彼の設計でした。解説板を転記します。
 デ・ラランデ邸は、新宿区信濃町にあった西洋式住宅である。1階部分は明治時代の気象学者・物理学者である北尾次郎が自邸として設計したと伝えられる木造平屋建て・瓦葺き・寄棟屋根・下見板張りの洋館であった。1910年(明治43)ころ、ドイツ人建築家ゲオルグ・デ・ラランデにより、木造3階建ての住宅として大規模に増築された。その際、北尾次郎居住時の1階部分も大改造されている。スレート葺きのマンサード屋根と、下見板張りの外壁が特徴である。デ・ラランデは、この住宅で、妻と4女・1男の7人家族で生活していたが、1914年(大正3)に41歳で亡くなった。
 その後、この住宅の居住者は何度か変わったが、1956年(昭和31)から、乳酸菌飲料カルピスの発明者として知られる三島海雲氏が住んでいた。海雲氏の死後は、三島食品工業株式会社の事務所として、1999年(平成11)まで使用されていた。
 へーそうだったんだ。ちょいと気になるので、ウィキペディアで「カルピス」について調べてみました。創業者の三島海雲は、1902(明治35)年に内モンゴル(現在の中華人民共和国・内モンゴル自治区)を訪れ、そこで口にしたジョッヘという飲み物を参考にして1919(大正8)年にカルピスを開発・発売したそうです。「カルシウム」とサンスクリットの「サルピス」(漢訳:熟酥)を合わせた社名を決めるに際して、同社では重要なことを決める際には、その道の第一人者を訪ねる「日本一主義」があり、音楽の第一人者の山田耕筰に相談したところ最も響きが良いということで「カルピス」となりました。なお現在は使用されていませんが、あの懐かしい黒人男性の商標は、第一次世界大戦終戦後のドイツで苦しむ画家を救うために当時の社長の三島が開催した「国際懸賞ポスター展」で、3位を受賞したドイツ人デザイナーのオットー・デュンケルスビューラーの作品だそうです。
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 こちらでは昼食をとることができるので、豪華な室内でドライカレーをいただきました。外へ出ると「ハチにご注意ください」というピクトグラムがありました。鶴亀鶴亀。そういえば、旧士幌線アーチ橋ツァーのガイドさんが、「スズメバチはヒグマよりも怖い」とおっしゃってましたっけ。
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by sabasaba13 | 2016-07-06 06:41 | 東京 | Comments(0)

江戸東京たてもの園編(5):(14.9)

 三井八郎右衛門邸は、四大財閥のひとつ、三井同族十一家の総領家(北家)、三井八郎右衛門高公氏の第二次大戦後の住宅です。今井町(現、港区)にあった邸宅が戦災で焼けたため、財閥解体を経た1952年(昭和27)に麻布笄町(現、港区西麻布)に本邸を建築して、移り住んだとのことです。日本各地にあった三井家に関連する施設より部材などを集めて建てられており、その財力をしのばせます。
 そうそう、ちょっと調べものがあって、『國史大辞典 第4巻』(吉川弘文館)を読んでいたら、「臨時軍事費特別会計」について下記の記述がありました。
 同12年9月に臨時軍事費特別会計が設置され(21年2月まで)、総額1553億9700万円が支出された。臨時軍事費特別会計においては予算科目はほとんど区別されず、費目間の流用、予算外契約、予算の超過、予備金の大幅の計上によって予算の意味そのものが失われてしまった。そのうち民間への支払い額は約1400億円と推計された。同17年までの支払い先別内訳をみると、総額279億円中、62%が三菱重工業・中島飛行機などの機械工業会社、14%が三井物産・三菱商事などの商事会社であった。支払い方法として前払金制度が広く用いられ、総資本中に占める政府前払金の割合が六割以上に上る会社も現れた。このような軍事支出により軍需生産は19年まで増大を続けたが、軍需品は再生産過程外で消耗されるため、繊維部門などの消費手段生産部門は縮小に向かった。軍事費調達のために何度も増税が行われたが、公債・借入金が八割から九割を占めていた。その結果国債残高は11年度末の106億円から20年度末の1408億円と膨張した。政府は国債の民間消化を強制的に進め、物価統制を強化したが、インフレーションが激化した。かくして明治以来敗戦までの軍事費を中心とする日本資本主義財政は、国民生活を破壊して終了したのである。(p.1011)
 この立派な邸宅にも、血税が流用されていたのかもしれませんね。財閥や大企業が戦争によって、どうやって、どれくらいの膨大な利潤を手にしたのか、きちんと知りたいものだし、是非学校でも教えてほしいものです。戦争の悲惨さを若者や子どもに伝えるのも勿論重要ですが、戦争によって甘い汁を吸った方々のことを知れば、抑止力はより高まると愚考します。
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by sabasaba13 | 2016-07-05 06:46 | 東京 | Comments(0)

江戸東京たてもの園編(4):(14.9)

 写真館の近くにはボンネットバスが野外展示されていました。解説を転記します。
 展示しているバスについて
 展示しているボンネットバスは、戦後、いすゞ自動車が開発した4輪駆動車「TS11型」を改良したものです。
 TS11型のバスは1952年(昭和27)から製造され、富士山麓鉄道株式会社(現在の富士急行)で止揚されました。4輪駆動の特性を活かし、山間部や降雪地帯など全国各地で活躍しました。1957年には同型車が天皇皇后両陛下の富士登山の際に、お召しバスとしても利用されました。
 この車輌は都営バスのような仕様になっていますが、映画撮影用に塗り替えられたものです。グレーとグリーンのボディカラーは1951年から1959年まで都営バスに使われていました。
 ボンネットバスとは、エンジンを車輌の前部に置き、ちょうど女性や幼児が被る帽子(ボンネット)のように、機関部を覆っている形をしているところから、そう呼ばれるようになったという説があります。現在のようなエンジンを車輌の後部に置いた箱形のバスは、戦後になってから開発されました。

 都(市)営バスについて
 1923年(大正12)に発生した関東大震災で、路面軌道は大打撃を受けました。東京市営バスの運行は、市民の足を確保するため、臨時の措置として始まったものでした。1924年1月18日から、巣鴨-東京駅間、中渋谷-東京駅間の2系統の運行が開始され、人々の好評を博し、その後、順次系統を増やしていきました。戦時体制下にあっては、物資不足によりガソリンの供給も止められるなかで、物資の輸送や都民の足として、木炭バスが活躍しました。
 戦後は荒廃の中で、アメリカからの余剰トラックの払い下げも受け、徐々に輸送能力を盛り返し、路線網も拡充され、リアエンジンの大型国産バス、ディーゼルカーも登場し、事業を復興させていきました。
 なるほど、「バスに歴史あり」ですね。"剛毅木訥仁に近し"という言葉を思わせる、古武士のようなバスでした。
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by sabasaba13 | 2016-07-02 06:28 | 東京 | Comments(0)

江戸東京たてもの園編(3):(14.9)

 それにしても、"内務省都市計画課の「健康住宅地」プラン"というのがいたく気になります。あの官僚の牙城、内務省がなぜ健康住宅地をつくったのでしょうか。こういう時にはインターネットが便利ですね、「株式会社ジー・シー・エス」のホームページに関連する記事がありましたので、小生の文責でまとめてみます。もともと常盤台は東武鉄道によって宅地開発されました。関東大震災後、東京近郊地の住宅需要の急激な増加に対応して、1928(昭和 3 )年に買収した北豊島群上板橋村の土地を、武蔵常盤駅を中心に常盤台住宅地として宅地造成をはじめました。当初の設計は、従来型の碁盤目の区画割りだったそうです。理想的な街づくりをめざしていた根津嘉一郎社長は、住宅地全体のデザインを、従来とはまったく異なる思想でとらえ直すため白紙に戻し、内務省都市計画課の全面的な指導によることとしました。常盤台の設計者は、東京帝国大学建築学科を卒業して内務省官房都市計画課第二技術掛に配属されたばかりの 23 歳の青年、小宮賢一。常盤台のアーバンデザインの特徴は曲線を採用した街路パターンです。(1)駅前北口の大規模なロータリー。(2)中央に街路が植栽された、常盤台を一周する環状の散歩道プロムナード。(3)中央に植栽を持つ小さいロータリー状のクルドサック(cul-de-sac:袋小路)。(4)プロムナード沿いの 3 ヶ所の幼児公園-ロードベイ。というわけで、行政(国)と民間が一体によって開発した、唯一といってよいユニークな住宅地です。1936(昭和11)年から分譲を開始しましたが、日中全面戦争が勃発したのがその翌年。あと数年開発が遅れていたら、常盤台住宅地の開発構想は、大幅に縮小されたり、変更を余儀なくされたりしていたかもしれません。

 なるほどねえ、"土地に歴史あり"ですね。光華殿のところで触れたように、1937(昭和12)年勃発の日中戦争を機に、辛くて厳しい生活への覚悟を国民に求め、それを官僚の現実主義が支える時代が始まります。数年開発が遅れていたら、こんな素敵な住宅地は生まれていなかった可能性は高いですね。贅沢は敵だ、とばかりに。
 しかし、内務省がなぜこうした優美でユニークなアーバンデザインを立案したのかという疑問は氷解しません。これに関しては、『客分と国民のあいだ 近代民衆の政治意識』(吉川弘文館)の中で述べられている、牧原憲夫氏による以下の指摘がヒントになりそうです。
 とはいえ、社会政策や普通選挙制は米騒動や「社会主義」の力だけで実現したのではない。第一次世界大戦の経験は総力戦体制構築の必要性を政府・軍部に痛感させた。戦時における営業の自由・契約の自由を制限した軍需工業動員法が1918年に制定されたのはその反映だろう。長期にわたり国力のすべてを投入する消耗戦を勝ち抜くには、国家利益にもとづく経済活動の調整が不可欠であり、さらには国民が国家との一体感を持ち続けなければならない。そのためには国民の生活を安定させ、国民統合を一層進めるほかない。社会政策は総力戦の遂行にとって不可欠なのだ。(p.225)
 満州事変の勃発は1931(昭和6)年。『岩波ブックレット シリーズ昭和史 №2 二・二六事件』(須崎慎一 岩波書店)によると、1933年に入ると、既成政党側に、「憲政常道」への復帰をもとめる声が高まってきます。そこには、満州事変下の「非常時」といわれた緊張した状況の弱まりと、国民の排外主義的熱狂のおとろえがありました。軍部の真崎甚三郎参謀次長は、その日記に、「国民一般に今や平静に馴れ、人心弛緩し、稍もすれば軍を離反せんとしつつあり、特に政界、財界に於て然り」と記しています。そうした状況の中で、国民生活を安定させるためのテストケースとして、内務省が推進した計画なのかもしれません、憶測ですが。
 いずれにせよ、興味を引かれる街ですね。こんど是非訪れてみたいと思います。
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by sabasaba13 | 2016-07-01 06:30 | 東京 | Comments(0)

江戸東京たてもの園編(2):(14.9)

 中に入ると午砲が野外展示されていました。江戸時代の「時の鐘」に替わり、正午を通報した空砲で、かつて皇居内旧本丸跡にあり、1871(明治4)年から1929 (昭和4)年4月まで時を告げていたそうです。
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 それでは東ゾーンを徘徊しましょう。まずは常盤台写真場です。解説を転記します。
 この写真場は、戦前からの代表的な郊外住宅地、常盤台に建てられた。常盤台は1935年(昭和10)東武東上線の開業により武蔵常盤駅(現在のときわ台駅)が設置され、これを契機に分譲住宅地として開発された。内務省都市計画課の「健康住宅地」プランにより、編み目状の道路網、公園、電気、ガス、水道、下水道などの設備を備えていた。
 常盤台写真場は分譲当初の1937年(昭和12)に建てられた。2階写真場北側の天上から壁面は全面がガラスである。これはスラントといい、照明設備の無かった頃の写真館の特徴をよく表している。
 まず、装飾を一切拒否するような断固とした意思を感じさせる、シンプルな外観に目を引かれます。看板もなく、最上部に「TOKIWADAI PHOTO STUDIO」と店名が掲げられているだけです。全体的に左右非対称の構成で、角の部分を搭状に高くしているのが印象的。調子を変えながらリズミカルに穿たれた、縦長の窓もいい味を出しています。中に入ることができ、二階にあがるとそこが写真スタジオで、北側にはムラのない自然光を取り入れるための大きな摺りガラス窓(スラント)をとってありました。この手法は画家のアトリエでもしばしば用いられるそうです。
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by sabasaba13 | 2016-06-29 06:35 | 東京 | Comments(0)

江戸東京たてもの園編(1):(14.9)

 近代の名建築を野外展示した「明治村」の記事は先日掲載しましたが、実は東京にも同様の博物館があるのですね。その名も「江戸東京たてもの園」。同園のホームページより、そのコンセプトを引用します。
 江戸東京たてもの園は、1993年(平成5年)3月28日に開園した野外博物館です。都立小金井公園の中に位置し、敷地面積は約7ヘクタール、園内には江戸時代から昭和初期までの、30棟の復元建造物が建ち並んでいます。当園では、現地保存が不可能な文化的価値の高い歴史的建造物を移築し、復元・保存・展示するとともに、貴重な文化遺産として次代に継承することを目指しています。
 なお私が私淑する建築史家の藤森照信氏が、野外収蔵委員として参画されています。
 以前に、山ノ神を同伴してお花見がてら訪れたことがあるのですが、今回はじっくりと拝見したいと思います。というわけで2014年の九月末、爽やかな秋晴れの某日、ふらりと小金井公園に行ってみました。JR中央線の武蔵小金井駅北口からバスに揺られて五分で公園に到着。緑の木々や芝生、紺碧の空を愛でながらすこし歩くと「江戸東京たてもの園」に到着です。付近にあった「エサやるな」「花火禁止」のピクトグラムと、宮崎駿氏制作のマスコットキャラクター「えどまる」を撮影して、ビジターセンターへ。
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 この建物は旧光華殿で、1940(昭和15)年に皇居前広場で行われた紀元2600年記念式典のために仮設された式殿です。「仮設」というのが気になりますが、そう言えば『夢と魅惑の全体主義』(文春新書526)で、井上章一氏が興味深い指摘をされていました。ファシズム体制がいだいていた意欲は建築や都市計画に投影されるという観点から、ドイツ・イタリア・ソ連・日本のファシズム期建築を比較・考察したのが本書です。ドイツ・イタリア・ソ連のファシズム体制は、権力の簒奪者が支配の正統性を補うために、明るく素晴らしい未来像を建築や都市計画という可視的な形で民衆に提示し大衆動員を行ったと分析されています。それに対して日本では、日中戦争開始直後の1937年10月に「鉄鋼工作物築造許可規則」が公布され、鉄材を50トン以上使う建築(※軍関係は例外)を禁止したそうです。その結果、建設中の鉄筋コンクリート建築は未完成のままほうりだされ、官庁を含めて首都中枢に木造のバラック群があらわれました。この光華殿もその一端を示すものかもしれません。未来への幻想を提供するのではなく辛くて厳しい生活への覚悟を国民に求めた、あるいは独裁者の夢想ではなく官僚の現実主義が支えたのが、日本のファシズムであったと著者は述べられています。『昭和ナショナリズムの諸相』(名古屋大学出版会)の中で、橋川文三氏は"結局日本ファシズムは、ファシズムに値するほどの異常性を表現したものではなく、近代日本の伝統的な官僚制の異常な戦時適応にすぎなかった…"(p.184)と指摘されていますが、官僚によって築き上げられた日本ファシズムの矮小性を語り継ぐ、歴史の証人なのかもしれません。
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by sabasaba13 | 2016-06-28 06:39 | 東京 | Comments(0)

小笠原伯爵邸編(5):(2016.1)

 さてそろそろ時間です。お待ちかねのランチをいただくことにしましょう。邸内に戻るとテラス席に案内されましたが、ここはかつてのベランダで、ごく身内だけの食事をする場所として使用されたそうです。
 前菜は「ソパ ・デ・アホ」(La Sopa de Ajo Morado)と「鮟肝のトースト」(La Tosta de Higado de Rape)。前者はにんにくの冷たいスープです。
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 パンにはオリーブ油をつけていただきます。
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 次は「菜の花とタコのハーモニー パセリクリーム 仏手柑の香り」(El Pulpo Asado con Flores de Colza, Mano de Buda y Crema de Perejil)。さまざまな味と香りが玄妙なハーモニーを奏でる逸品でした。
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 なお係の方が「仏手柑(ぶっしゅかん)」の現物を見せてくれましたが、まるで触手のような異形の柑橘でした。何でも千手観音に似ているところから命名されたとか。ここ山ノ神、はたと膝を打ち「これだったんだわ」とひと言。去年の夏、仁淀川に行ったときに高知で「ぶしゅ胡椒(ぶしゅかん果皮入り)」という調味料を買ったそうです。
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 「オマール海老 キャビア 赤米のアロスメロッソ」(El Arroz "Rojo" de Bogavante)も美味しかったですね。
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 「アイナメのプランチャ カボチャのピューレ カリフラワーのマリネ」(El Ainame a la Plancha, Pure de Calabaza y Coliflor Marinado)はその味もさることながら、まるでホアン・ミロの絵のような色彩も楽しめる一皿です。
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 そしてメイン・ディッシュは「イベリコ セクレト ソプラサーダのクレモソ レモンタイムのアクセント」(El Secreto Iberico,Cremoso de Sobrasada y Aceite de Tomillo Limonero)。こちらはスタンディング・オベーションものの逸品でした。これほど味わい深い豚肉を食べたのはじめて、これだけでも来た甲斐があったというものです。
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 そしてデザートは「セロリのソルベ パイナップルのアイレ モヒートのエスフェリコ」(Sorbete de Celery, Aire de Pina y Esferico de Mojito)。セロをシャーベット(ソルベ)にするなんて斬新なアイデアですね。イベリコ豚の濃厚な味を洗い流してくれる、一陣の涼風のようです。
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 もう一品のデザートは「柑橘のデグリネゾン」(Declinacion de Citricos)。なんと柑橘のゼリーと生クリームが、水飴で薄くかたどったレモンの中におさめられているという手の込んだ一皿です。これも美味しかったなあ。
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 そして「コーヒー、小菓子」(Cafe y Golosinas)をいただいて本日のランチは終了です。
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 いずれ劣らぬ逸品ぞろい、たいへん美味しい料理でした。なおランチコースは11:30~15:00で7,000円(税・サービス料10%別)、ディナーコースは18:00~23:00で10,000円または15,000円(税・サービス料10%別)です。10,000円のディナーには、ランチに「下仁田ネギの'カルソッツ' パパダ、ケッパーとヘーゼルナッツ」(La Cebolleta Cocida a modo de Calcots con Papada y Alcaparras)が追加されるだけだと思います、たぶん。よって個人的にはランチで充分だと思いますが、明かりに照らされた夕刻から夜の邸宅の素晴らしさも捨てがたいものがありました。
 さあそれでは、オーチャード・ホールにマーラーを聴きにいきましょう。

 本日の四枚は、以前に訪れたときに撮影した夕刻の小笠原伯爵邸です。
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by sabasaba13 | 2016-03-01 06:40 | 東京 | Comments(0)

小笠原伯爵邸編(4):(2016.1)

 ガイド・ツァーはここで終わりです。それでは外へ出て、外観を拝見いたしましょう。入口の上にあるキャノピー(外ひさし)は葡萄の蔦・葉・実を一面にちりばめた葡萄畑をモチーフにしたみごとな意匠です。左側にまわりこむと、御幣をかついだ猿の陶板がありました。ちょっととぼけたお猿さんなのですが、実は彼は魔除けです。『建築探偵 東奔西走』(藤森照信 朝日新聞社)によると、これは東北(艮)=鬼門の方角から鬼が入ってくるのを防ぐためで、江戸~東京では鎮守である山王社の神使である猿がその役目を果たすとのことです。ニワトリを模したユニークな物件は焼き窯で、これは新たに造られたものだそうです。ガーデンには恰幅のよいオリーブがありましたが、これは交流400年を祝してスペイン・アンダルシアから贈られた推定樹齢500年の古木だそうです。
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 そしてもう一つの見せ場、シガー・ルームの外壁を飾るタイル装飾です。輝く太陽、その光りを浴びて植物の花が咲き実がなり、小鳥やトンボが遊ぶ。生命の賛歌とも言うべき、華やかで明るいすばらしい意匠です。なお赤いハートめがけて上方から飛んでくる矢があるのですが、前掲書の教示では、建物のどこかに取り付けられたキューピッド像から放たれた愛の矢であるという言い伝えが小笠原家にあるそうです。先ほどこの件についてガイドの方に訊ねたのですが、思い当たらないとのことでした。またこれは今パンフレットを読んでいてわかったのですが、外壁左下に「Sone & Chujo, architects. 1926.A.D.」と刻まれた定礎銘板があったのでした。同パンフレットによると、コンドルの四人の弟子(辰野金吾片山東熊・佐立七次郎)の一人である曽禰達蔵は、政府や国家を建築で飾ることに一切興味を示さず、在野の建築家として活躍しました。自分の作品に名を刻むことをほとんどしない彼が、内装外装ともに最も力を込めたシガー・ルームの外壁にこの陶板を入れ込んだのは、それだけの思いがこの住宅に込められていたのでしょう。
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 というわけで素晴らしい建物でした。一度こんな邸宅に住んでみたいものだと誰もが思うでしょうが、現実はかなり辛かったそうです。『建築探偵 東奔西走』(藤森照信 朝日新聞社)に、当主の息子、小笠原忠統(ただむね)氏の談話が載っていたので引用します。
 この家は忠統氏の父の長幹氏が昭和二年に建てたもので、できた時は敷地面積二万坪以上で、家の中にはトイレが十六カ所以上あったという。
 こういう家に生れて育つということは、それはそれでなかなか大変らしい。
 たとえば学校の友達が遊びにきても、家令(元小倉藩主の小笠原家では江戸時代の家老職を明治になってからこう言いかえた)がいちいち人品骨柄をチェックして自由には会えない。もちろん一人で外出したり買い物したりはなし。お金に触れてはいけない。(中略)
 とにかく、家の中と外の世間は完璧に分離されていて、中から外が見えるのは塀の下のほうの通気用の穴だけ。子供の頃、塀の穴から外を歩く人のいろいろな足が見えると、なんだかせつない気持ちになったという。(p.80)
 うーむ、まさしく「籠の鳥」。こんな暮らしはちょっと勘弁してほしいですね。

 本日の四枚です。
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by sabasaba13 | 2016-02-29 06:29 | 東京 | Comments(0)

小笠原伯爵邸編(3):(2016.1)

 そして二階へ。一階廊下脇の小部屋の壁にある照明は、破損せずに残っていた唯一の照明器具だそうです。ランプシェードには、小笠原家の表紋である「三階菱」が刻まれています。二階にあがると女中頭の部屋がありますが、現在では結婚式・披露宴の控室として利用されているそうです。山ノ神曰く、「あたしの部屋より広い」。あのお…僕の部屋でもあるのですが… それはさておき、屋上に出ると庭や中庭(パティオ)を一望できます。パーゴラと呼ばれる藤棚は、当時の設計図と写真をもとに復元したもの。
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 床面のタイルは、ボランティアの方々によって丁寧に磨きなおされた当時のものだそうです。屋上の片隅にある小部屋は何に使われていたのか不明ですが、鳥小屋ではないかと思われます。なお屋上からは、さきほど拝見したシガー・ルームの半円形の外壁と青いスペイン瓦を見下ろせます。壁面を飾る愉しいタイルは、後ほどゆっくりと鑑賞しましょう。
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 そしてふたたび階下へ。スペイン建築の特徴である中庭(パティオ)が建物の中心に位置し、屋上庭園につながる階段が配置されており、変化のある景観をかたちづくっています。なお噴水の彫刻は、彫刻家・浅倉文夫に師事していた当主の作品だそうです。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2016-02-28 10:32 | 東京 | Comments(0)