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重森三玲の庭編(12):神戸へ(14.3)

 風情のある紺屋町筋には桜並木もありましたが、残念ながら三分咲き。
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 高梁基督教会堂や郷土資料館、備中松山の遠景を撮影しながら備中高梁駅へと歩きます。駅構内には「おちゃらか」のやり方を記した椅子がありましたが、ここ高梁が発祥の地なのでしょうか。
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 列車に乗り込み、岡山駅に着いたのが18:38、これから宿泊地の神戸へ移動しますがさすがにお腹がへったので、岡山駅ビル「さんすて岡山」で夕食をとることにしました。いろいろと物色した結果、「旬すけ」という郷土料理を出してくれる居酒屋に決定。たこ煮、ままかりの甘露煮、ままかりの酢漬け、がら海老の唐揚げ、黄にらおかか、穴子の白焼き、満願寺唐辛子の焼きもの、石もちの唐揚げ、黄にらの雑炊、焼きおにぎりを注文して、ひだる神を沈黙させました。
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 そして新幹線に乗って新神戸へ、地下鉄に乗り換えて三宮駅に到着。ここから送迎バスに乗って今夜の塒、神戸メリケンパークオリエンタルホテルに辿り着きました。震災の年に開業し、神戸のランドマークとなる、波の形をしたユニークなデザインの建物です。突堤の先端にあるホテルなので四方の眺望もよく、四タイプの部屋を選べます。東側が港町・神戸を一望できる「みなとまちビュー」、西側が観覧車や神戸ハーバーランドを眺められる「イルミネーションビュー」、南側が神戸の海を一望できる「オーシャンフロントビュー」、そして北側が神戸の夜景を眺められる「タワービュー」です。予約の際に私が選んだ部屋は「みなとまちビュー」、チェックインをして部屋に入りベランダに出ると…。函館山掬星台稲佐山と比べるのは酷ですが、まあそれなりにきれいな夜景でした。
 もう時刻は午後十時半をまわっています。ざっとシャワーを浴び寝酒を一杯飲み、明日に備えて寝ることにしました。

 本日の三枚、上から二枚目は「ままかりの酢漬け」です。
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by sabasaba13 | 2015-07-18 06:44 | 山陽 | Comments(0)

重森三玲の庭編(11):吹屋(14.3)

 次の見学場所はベンガラ館です。申し遅れましたが、ベンガラとは酸化鉄を主成分とする赤色酸化鉄顔料の一般名で、その名称は、最初に産出したインドのベンガル地方に由来するとされています。用途は、塗料、ゴム、製紙、セメント、インキ、陶磁器の釉などの着色、ガラス、金属の研磨などです。江戸中期に全国ではじめてここ吹屋で生産されて以来、昭和中期まで日本で唯一の産地として栄えました。このベンガラ館は、明治の頃の弁柄工場を当時の姿に復元したものです。作業場や水車、さまざまな道具が復元・展示されています。沈殿したベンガラの艶かしい色が印象的でした。
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 そして吹屋の町並みへ。駐車場にタクシーを停めて徒歩での散策となります。まずは古い学校マニア必見・垂涎の物件、旧吹屋小学校を拝見しましょう。1900(明治33)年に落成した木造校舎は、2012(平成24)まで111年間使用されました。残念ながら閉校となり内部の見学もできませんでしたが、その志村喬を髣髴とさせる古武士のような趣には頭を垂れましょう。「勝ったのはわしらではない、子どもたちだ」という呟きが聞こえてきそう。
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 ベンガラ色の外観と赤銅色の石州瓦とで統一された町屋がつらなる町並みを、のんびりと歩きながら堪能しました。観光協会のホームページによると、旦那衆が相談の上で石州(石見・島根県)から宮大工の棟梁たちを招いて、町全体が統一されたコンセプトの下に建てられたそうです。
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 公開されている郷土館と旧片山邸を見学。後者には、貴重品であった卵を保存するための涼しい「卵部屋」がありました。これは珍しい。奥にはいくつかの蔵が建てられていますが、その海鼠壁の意匠がなかなか素敵です。解説によると、これは「隠し釘」の「錺金(かざりかね)」というもので、各棟や場所ごとに多種多様のデザインとなっているそうです。焼き杉の壁が素敵な公衆便所で用を済ませて、吹屋とお別れです。
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 タクシーに揺られること四十分ほどで高梁に到着しました。五時間ほどの貸し切りでしたが、町の補助金のおかげで代金は16,060円ですみました。お支払いをして運転手さんに丁重にお礼を言って、紺屋町筋の近くでおろしてもらいました。時間があれば、備中松山城、石火矢町の武家屋敷、小堀遠州の作庭による禅院式枯山水蓬莱庭園「鶴亀の庭」がある頼久寺などを山ノ神に見せてあげたかったのですが、もう時刻は午後五時をまわっています。訪問は断念して、紺屋町筋界隈をぶらつきながら駅へと向かうことにしました。なお私が以前に訪問したときの旅行記がありますので、よろしければどうぞ。

 本日の四枚です。
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by sabasaba13 | 2015-07-17 06:35 | 山陽 | Comments(0)

重森三玲の庭編(10):吹屋(14.3)

 そして吹屋へと向かいます。運転手さんと四方山話をしているうちに、彼がブリティッシュ・ロックの大ファンであることがわかりました。お見掛けしたところ、お歳は五十代なかごろ、同世代の私もけっこう好きな方ですので、風馬牛の山ノ神をほったらかしにして話に花が咲きました。いや、というよりも、氏の該博かつトリビアな知識と、夜空に燃え立つ通天閣のような情熱に圧倒されました。エリック・クラプトン、ジェフ・ベック、ジミー・ペイジ… 先日は来日したエリック・クラプトンのコンサートにも行かれたとのこと。脱帽。今にして思えば、たぶん音源を車内にお持ちだったと思うので、「いとしのレイラ」や「ホワイト・ルーム」といった名曲をがんがん聴かせてもらえばよかったですね。
 そうこうしているうちに、一時間弱で吹屋に到着です。まずはスーパーニッポニカ(小学館)を参考にして、この町について紹介します。
 吉備高原上にあり、鉱山町として知られる。地名も金属を精錬・鋳造する意の吹屋に由来するものであろう。807年(大同2)銀山が発見され、戦国時代以降は銅山町として繁栄した。江戸時代には良質のべんがら(顔料)を生産し吹屋べんがらとして知られた。1931年(昭和6)休山、その後再開したが、72年(昭和47)閉山。かつては周辺の経済の中心として問屋が多く、江戸末から明治にかけての石州瓦、塗込造、べんがら格子からなる重厚な商家群が残り、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定、また県のふるさと村になっている。
 味のある町並みのことしか知りませんので、観光案内は運転手さんにお任せしました。まずは江戸時代後期に小泉銅山とローハ(硫酸鉄)の製造を営み、巨大な富を築いた大野呂の庄屋・広兼氏の邸宅の見学です。驚いたのは、その城郭に見紛うばかりの堂々たる石垣と楼門です。これは凄い。そして邸宅や鏝絵のある蔵を拝見。下女部屋が私の部屋よりも広いのにはまいりました。なおここは映画「八つ墓村」のロケ地となったそうです。
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 そして吹屋銅山笹畝坑道へ。江戸時代から大正時代まで操業した銅山を復元し、坑内を見学できるようにしたものです。戦国時代には尼子氏と毛利氏が奪い合い、江戸時代は幕府の直轄地、そして近代になると三菱金属の経営となった重要な銅山です。ヘルメットをかぶらされてひんやりとした坑道に入ると、採掘をしている坑夫たちの人形が設置してありました。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2015-07-13 06:27 | 山陽 | Comments(0)

重森三玲の庭編(9):友琳の庭(14.3)

 タクシーの運転手さんにお願いして、すぐ隣にある吉川八幡宮に寄ってもらいました。三玲の生家から数百メートルのところにあり、幼い頃から何度も足を運び、影響を受けたと言われている神社です。縦に長い拝殿が印象的な、素朴ですが凛とした雰囲気の本殿でした。門前にある石組も重森三玲の手によるものだそうです。なおこの近辺には、三玲の手による小倉邸の「曲嶌庭」および西谷邸の「旭楽庭」という庭、大村寺には「功徳庵」という茶室があるそうですが、見学の可否や所在地等、事前に充分に調べられませんでした。再訪を期しましょう。
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 そしてタクシーで十数分走ると、吉備中央町役場賀陽庁舎にある「友琳の庭」に到着です。もともとは京都友禅工業協同組合「友琳会館」の中庭だったのですが、会館の建て替えにともない、三玲の出身地である吉備中央町が新庁舎の中庭として譲り受けました。作庭は1969(昭和44)年、73歳のときの作品です。
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 このお庭も素晴らしい。水が浅くはられた池にさまざまな色合いと大きさの石を敷き詰め、抽象的でモダンな意匠を描いています。水をとおして見る石の色合いの美しさには、驚きました。三玲はそれを計算して、浅い池としたのでしょう。後日、桂離宮を訪れたときに、係りの方が梅雨の頃がお薦めだと言われました。混雑していないこと、そして雨に濡れた石が美しいこと。納得です。そして細長い石によって描かれた、蝶の触角のような大胆な文様にも目を奪われます。これは、宮崎友禅による振袖の傑作、「束ね熨斗」の文様を模したものだそうです。そして諸所に置かれた立石を中心とした石組、それを囲む緑の苔、遊び心にあふれた沢渡り石、奥にある枯山水など、しっかりと伝統的をふまえています。このお庭も、彼の美学と伝統がスパークして誕生したものでしょう。類稀なる装飾性には、琳派の影を感じました。尾形光琳が作庭したら、このような庭をつくったかもしれませんね。なお六日の菖蒲、十日の菊ですが、役場なので建物の内部に入れたはず。ということは、上階からこのお庭を鳥瞰して全体像を見ることが(たぶん)できるのでしょう。ああ惜しいことをした。ま、いいや、ぜひ再訪を期しましょう。

 本日の五枚です。
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by sabasaba13 | 2015-07-12 08:00 | 山陽 | Comments(0)

重森三玲の庭編(8):天籟庵(14.3)

 それでは天籟庵とその露地庭を拝見しましょう。まず『重森三玲Ⅱ』(京都通信社)をもとに、この茶室について紹介します。前述のように、15歳で不昧流の茶の湯の稽古をはじめた三玲は、自宅でも稽古をしたいとの思いが募り、18歳の時、生家内に自ら茶室を設計しました。これがこの「天籟庵」です。父の元治郎がおもに施工を担当しました。重森家は農家でしたが、元治郎は手先の器用な人物で、大工仕事や家具づくりも得意としていました。その後、三玲は京都住まいになり、生家は無人となったことから茶室を縁の深い吉川八幡宮の敷地内に移築・寄贈、これにあわせて露地庭をつくったのが73歳の時です。
 一見してぶっとびました… 何だこれは… 開いた口はふさがらず目は点となり、呆然と立ち尽くすのみ… 前代未聞、空前絶後、奇想天外、破天荒、どう表現しても足りません。一木一草もない茫漠とした空間を、白と海老茶の二色に塗り分けられたモルタルが埋めつくします。これは、神社敷地内にあって樹木が繁茂し落葉も多いことから、庭を管理・清掃しやすいように三玲が考案したそうです。そのモルタルも微妙な起伏がほどこされ、まるで大地が息づきうねり、今にも動き出しそうです。白いモルタルの奇抜な意匠は海波で、これは隣にある吉川八幡宮はもともと海の神であるという説にしたがっているとのことです。しかし見方によっては波というよりも、台風の目、渦巻く大気にも思えます。「天籟庵」の籟という字は"響き"という意味なので(ex.松籟)、天の響きという含意があったのかもしれません。庭を囲む竹垣の意匠も斬新ですね。
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 その一方で、外露地に設けられた腰掛待合、リズミカルに打たれた飛び石、鎌倉期の灯籠の基礎を利用した蹲踞など、伝統をしっかりと踏まえているところも見逃せません。彼の美学と伝統がスパークして誕生した稀有なる庭、とても73歳の手によるものとは思えません。
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 残念ながら茶室・天籟庵は中に入れず、半分開けられた雨戸から内部を覗くだけです。前掲書によると、「真・行・草」の様式をとる三つの床の間が設けられています。インターネットで調べたところ、茶の湯の世界でよく使われる言葉だそうです。もともとは、書道の筆法である「楷書(真に相当)・行書・草書」という三種の筆法からきたもので、本来の形である「真」から、それを少しくずした形が「行」、そして最もくずした形が「草」となるとのことです。例えば、中国伝来の道具類は「真」、それをモデルとした国産の道具類は「行」、本来の形をくずして思い切って簡素化し和風化した道具類は「草」。これは茶の湯に限らず、日本における外来文化の受容にあてはまる特徴(「まねる・くずす・やつす」)だという指摘は鋭いですね。
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 なおこの茶室を寄付して露地庭をつくった重森三玲は、ここを使う人たちがさまざまに趣向を凝らし、自由な創作茶会を催すことを念願していたということです。"茶の湯とはただ湯をわかし茶を点ててのむばかりなることと知るべし"、私のような凡百の人間でも、この庭と茶室で自由に茶会を開くとしたらどんな趣向を凝らすか、考えただけでもいたく想像力を刺激されます。

 本日の五枚です。
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by sabasaba13 | 2015-07-11 08:34 | 山陽 | Comments(0)

重森三玲の庭編(7):重森三玲とイサム・ノグチ(14.3)

 なお『重森三玲』(京都通信社)に掲載されていた座談会で、面白いエピソードが語られているので紹介します。重森げいて氏は三玲の三男、佐藤昭夫氏は数寄屋建築家、野村勘治氏と小埜雅章氏は作庭家です。
重森 イサム・ノグチがパリのユネスコの庭をつくるときに相談してきたことを三玲は日記に書いているんですよ。イサム・ノグチは、パリでつくる前に四国で三玲の指導のもとで石を仮組するんですが、三玲は「自分の作品じゃないから、どこまで手を出してよいか難しかった」と。
佐藤昭夫 職人さんも、フランスに手伝いに行かせたんでしょう。
重森 だけど、逃げて帰ってきた。
野村 変更、変更で、せっかく組んでも翌日にはまた変更する。「こんな仕事につきあってられるか」と帰ってきた。(笑)
小埜 わかるな。三玲先生と仕事をしていた職人にはむり。(笑)
重森 イサム・ノグチは、そのお礼に茶釜をプレゼントしてくれたが、彼は「こんなに重くて使いにくい茶釜があるか」って。(笑) でも、オブジェとして見れば、イサム・ノグチらしいし、茶釜と思わなければおもしろい。
野村 イサム・ノグチさんが裏の茶室で話して帰られたあとに先生は、「やっぱり、彼はアメリカ人だった」と。どうしてかというと、「重森くんは寺社でずいぶん庭をつくっただろう。その収入の何パーセントかでももらっているか」って言ったそうです。「ぼくだったら、そういう契約をする、君はバカだ」って。先生は、「やっぱり、彼はアメリカ人だよ」って。(笑)
佐藤 そうか、観光客の拝観料のね。
野村 「君はそんなに苦労しなくたって儲かったのに」っていうわけです。
小埜 それはええ考えやな。(笑) (p.98~99)
 言動や風貌から、イサム・ノグチはもっと恬淡あるいはストイックな方かと思っていました。イメージが崩れてちょっとがっかりですが、作品の価値と金銭欲とは関係ないのでよしとしましょう。スコット・ラファロだって、ビル・エバンスに対して演奏中に「ギャラよこせ」と毒づきながらも、あんな素晴らしい演奏をしたわけだし。
by sabasaba13 | 2015-07-10 06:20 | 山陽 | Comments(0)

重森三玲の庭編(6):重森三玲記念館(14.3)

 待っていてもらったタクシーに乗り、数分ほど走ると吉備中央町吉川公民館に着きました。まずは館内にある展示室で、三玲の代表的な庭の写真を見学。岸和田城天守から見下ろした「八陣の庭」は凄い迫力です。
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 おっ、重森三玲とイサム・ノグチのツー・ショットだ。胡坐をかいて余裕綽々の三玲、正座をして緊張気味のイサム・ノグチ、その対比が面白いですね。パリにあるユネスコ本部の作庭をイサム・ノグチが設計するにあたり、三玲にアドバイスを求めたときの様子なのでしょうか。
 係の方に「天籟庵」を見せていただきたいと申し出で、案内してもらいました。まずは重森三玲記念館で、彼の書などを拝見。
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 こちらに二人の関係についての解説があったので、転記します。
 重森三玲とイサムノグチが活躍した第二次大戦直後。世界は戦後復興の象徴となりうるべき芸術の様式を模索する一方、科学技術の進歩による都市空間や建築空間の創造が新たな台頭を見せていたとも言えます。
 伝統と近代合理主義の邂逅を無視することなく、新たな創造へと向かっていった異なるジャンルの芸術家は、太平洋を超え、日本の庭園文化の上で出会うこととなりました。
 自らのルーツに関わる日本文化への傾倒は1950年代にピークを迎えます。
 パリ、ユネスコ本部の作庭をイサム・ノグチが設計指導するにあたり、当時日本庭園の作庭家として、最も石組造形力のある三玲にアドバイスを請いたいという希望により、二人の出会いが実現致しました。
 1957年その素材を探すために来日した彼は、すぐさま重森三玲の門戸を叩いています。
 当時の三玲は、古庭園の全国実測調査、様式による庭園史の確立、またそれらによって得られた造形美の把握から、近代における庭園意匠の改革をおこなうなど、創作活動においても先進的な活動を見せていました。このことから、分野は違えども二人のような進歩的な芸術感性を持った人からの庭園観は、近代の外部空間を作る上において、魅力的な価値観であったと思われるのです。


 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2015-07-09 06:30 | 山陽 | Comments(0)

重森三玲の庭編(5):重森生家跡(松籟園庭園)(14.3)

 それではお庭を拝見しましょう。立石を中心とした枯滝石組は、大地のエネルギーが盛り上がって天へと向かうような躍動感と力強さを感じます。そこから滔々と溢れだした想像上の水は、枯れた奔流となり緩やかな弧を描き、その流れの中に奔放に置かれた沢渡石は四方へと伸びていきます。舟石は、作庭家としての船出を宣言しているのでしょうか。29歳の三玲、その気迫と気負いがびしびしと伝わってくるような庭です。これ以降、彼のつくった庭がどう変貌していくのか、これからの旅が楽しみになってきました。

 本日の四枚です。
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by sabasaba13 | 2015-07-08 06:36 | 山陽 | Comments(0)

重森三玲の庭編(4):重森生家跡(松籟園庭園)(14.3)

 さてタクシーは見つかるか。おっ駅前にタクシー営業所がありましたが…車は見当たりません。係の方にお訊ねすると、いまで払っているのですこし待っていてほしいとのこと。いたしかたない、♪私待ーつーわ、いつまでも待ーつーわ♪と歌いながら紫煙をくゆらしていると、思いのほか早く一台のタクシーが戻ってきました。さっそく運転手さんに時間貸し切りで重森三玲の庭をまわってほしいと依頼、すると町の補助金が一時間につき2000円もらえると教えてくれました。へえ、粋なはからいですね。すると運転手さんから、せっかくなので吹屋まで行きませんかというお誘いがありました。吹屋かあ、『小さな町小さな旅』(山と渓谷社)で読んだことがあるなあ、たしかベンガラが塗られた家々の建ち並ぶ古い鉱山町だったと記憶します。時間はすべて含めて4~5時間、料金は補助金を引くと16000円程度になるとのことです。うーん、これは魅力的なオファーだなあ、と山ノ神に相談すると「よきにはからえ」「御意」。というわけで契約成立。それでは出発です。
 まず向かったのは重森生家跡(松籟園庭園)、運転手さんもしょうしょう迷ったようですが、何とか辿り着きました。畠の中にある広い空間に、石組が点在していました。
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 解説板を転記します。
重森生家跡(松籟園庭園)
 1925年1月完成 重森三玲処女作
この地にあった茶室「天籟庵」の茶庭として作庭されたもので、庭園最奥部に枯滝石組を組み、大仙院庭園の不動観音石を思わせるような立石を主体として構成されている。
 そして、その下部に橋石をかけ、そこから大きな曲線を持った枯流れが建物の方向へと流れ、川下りと川上りの二つの舟石が据えられ入船と出船の表現とした。
 また、このような枯山水庭園の形式でありながら、天籟庵に面した庭園であったために枯流れの中に飛び石を据えている。
 『重森三玲Ⅱ』(京都通信社)を参考にして補足しますと、15歳で不昧流の茶の湯の稽古をはじめた三玲は、自宅でも稽古をしたいとの思いが募り、18歳の時、生家内に自ら茶室を設計しました。これが「天籟庵」で、現在は重森三玲記念館に移築されています。なお不昧とは、江戸後期に松江藩主であった松平不昧(ふまい)のことで、流派にとらわれず「諸流皆我が流」を標榜した大名茶人だったそうです
 その後上京して日本美術学校に入学、卒業後は諸分野を総合的に学ぶ「文化大学院」創立をめざしますが、関東大震災のために挫折。故郷であるここ吉川に戻り、農業に従事する一方で村の青年団に哲学を講義したり、いけばな関係の論文を発表したりするなどの活動をしました。1925年、29歳の時に、東京帝大教授の関野貞博士宿泊・接待のための生家改造が完成。その時に作られた庭が、ここ松籟園です。よってこの庭園が彼の処女作ですね。ちなみにこの年に、彼は戸籍上の名を計夫(かずお)から、雅号の三玲に改めています。何か期するところがあったのでしょう。ちなみに「みれい」とはバルビゾン派の画家ジャン・フランソワ・ミレーにちなんだもの。大都市への人口集中と幾度かの革命による市街の荒廃などにより自然や田園への憧れがわきおこった19世紀、作業や仕事に没頭し専心する農民や人々の姿をひたすら描いた画家ですね。改名に込めた三玲の思いが奈辺にあるか、わかるような気がします。"芸術は気晴しではない。それは争闘である。人間を粉砕する車輪の錯綜である"、ミレーの言葉です。
by sabasaba13 | 2015-07-07 06:37 | 山陽 | Comments(0)

重森三玲の庭編(3):備中高梁へ(14.3)

 眼下に富士山が拝めるのではと期待したのですが、厚い雲海に覆われて所在すらわかりません。今日の天気はあまりよろしくないようですね、まあ雨が降らなければ諒としましょう。機内サービスのオレンジジュースをいただくと、紙コップには「3.11 ありがとう、全世界 日本赤十字社」と記されていました。全世界が協力して、人為的な災厄(戦争・テロ・環境破壊…)を食い止め、非人為的な災厄(地震・津波…)に際しては助け合う、ほんとうにそういう世界であってほしいと思います。しかし暴力をふるいながら世界を意のままに操ろうとするアメリカ合州国に、腰巾着・コバンザメ・ツネオのようにへばりつく日本。挙句の果ては、その暴力のお手伝いをさせてくださいと懇願する安倍伍長。無関心な国民に、腰砕けのメディア。来るところまで来た、という感じですね。
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 そして定刻通り9:10に岡山空港に着陸しました。これから備中高梁まで行き、重森三玲のお庭をまわる予定です。事前に調べたところ、タクシーを使えば、重森生家跡(松籟園庭園)・友琳の庭・重森三玲記念館(天籟庵)の三つを余裕の横山大観でまわれますが、路線バスだと生家跡には行けそうもありません。とりあえず備中高梁駅まで行って、タクシーが見つかれば僥倖、見つからなければ諦めてバス、ということにしましょう。ちなみにバスだと、備中高梁駅(11:42)→新町(12:13)→吉備中央町役場賀陽庁舎「友琳の庭」→新町(14:06)→吉川(14:34)→天籟庵・重森三玲記念館→吉川(15:20)→備中高梁駅(16:19)という行程になります。空港から三十分ほどバスに乗って岡山駅に到着、構内では岡本太郎の大きな陶壁画「躍進」とひさしぶりに再会。駅構内に置いてあった観光パンフレットをふと見ると、「一般公開 旧津山扇形機関車庫」というチラシがありました。電話で予約をすれば津山駅にある扇形機関車庫を土日に見学できるのですね。転車台・扇形機関車庫マニアとしては見逃せない物件、脳裡にしっかりと入力しました。
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 今回の旅は列車による移動が多いので、売店で時刻表を購入。そしてコインロッカーに荷物を預けて伯備線に乗り込みました。かなりガタがきている、ちょっと親近感も湧く鈍行列車に揺られていると、山ノ神が座席の隙間を指差します。覗いて見ると、円柱型の小さなプラスチック容器が二つ、隙間に押し込められていましたが、山ノ神曰く「ゴキブリ用殺虫剤じゃないの?」 うーん、結論は留保しますがその可能性は大ですね。
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 高梁川に沿って列車は走り三十分ほどで美中高梁駅に到着、私は六年ぶりの、山ノ神ははじめての来訪です。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2015-07-06 06:34 | 山陽 | Comments(0)