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沢田教一展

c0051620_6211113.jpg 先日、髙島屋日本橋店で開かれていた「写真家 沢田教一展 -その視線の先に」を、山ノ神と一緒に見てきました。到着したのは開店五分前、地下入口前に年配の方々がたくさんおられて待っているのには驚きました。そしてうら若き女性店員さんが、一本の赤い薔薇を手にして登場。さては一番乗りのお客さんに進呈するのかなと思ったのですが、なにやら前口上を述べて薔薇とともに立ち去りました。
 ま、それはさておき、8階ホールに行き、写真展を鑑賞しました。まずはチラシのサマリーから転記します。
 1965年からベトナム戦争で米軍に同行取材し、最前線で激しい戦闘や兵士の表情などを数多く写真に収めた写真家、沢田教一(1936-70)。輝かしい実績を残し、「安全への逃避」でピュリッツァー賞を獲得しています。沢田の写真に通底するのは、優しい眼差し。疲れ果てた名もなき兵士はうずくまり、家を追われた罪なき市民は荷物を抱え、故郷・青森の貧しい漁民には寒風が吹きすさぶ…、しかし皆、かすかな希望を頼りに強く懸命に日々を生きていました。その「希望」こそ、沢田が追い続けた被写体だったのではないでしょうか。妻・サタさんをはじめ関係者の証言を紡ぎながら、34歳で殉職した沢田の業績をたどります。
 ベトナム戦争を報道したカメラマンとして、沢田教一、石川文洋、岡村昭彦、一ノ瀬泰造の名を知っていましたが、中でも沢田による、水の中を逃げ惑うベトナム人母子を撮影した一枚「安全への逃避」が心に残っています。その彼の代表作が一堂に見られるということで、期待してやってきました。

 まずは彼の故郷である青森や、カメラマンとして勤務した三沢の米軍基地を題材とした写真がならびます。彼は常々「そこに生きる人々を、そして風土を撮りたいんだ」(図録以下同p.357)と言っていたそうですが、それがよくわかりました。青森の厳しい風土と、そこで精一杯暮らす市井の人びと、沢田のあたたかい視線を感じます。幼子を背負った母が、粗末な木橋を危なそうに渡る写真を印象的でしが。この母子のモチーフはベトナムにおいてもよく撮影されます。彼が愛したモチーフだったのですね。
 さて青森・三沢とくると、気になるのが同世代の異才・寺山修司(1935-83)との関係です。妻・サタさんの記憶によると、沢田は寺山を鋭く意識していたようです。彼女の証言です。
 上京しUPI東京支局に職を得てからだから、1961(昭和36)年以降のことだ。サタは思い出す。「『年賀状を出したけど、寺山から返事が来ないなあ』と、沢田がさびしそうにポツッと言ったことがあるの。ずいぶんしょげてたから『あっちがペンで頑張っているのなら、こっちはカメラで対抗しなさいよ』と言ったのよ。UPIに勤めてからは生活のめども立ったし、余裕が出てきたころ。寺山さんの名前がグングン出てきたから、自分から連絡したんじゃないのかな」(p.371)
 そして上京しUPI通信に入社、ベトナムへと旅立つわけですが、図録によると、戦場カメラマンとして活躍していた岡村昭彦の影響を受けたようです。岡村の言です。
 おれはまっしぐらに戦場へゆくのだ。戦争の内臓を世界中の人類のまえにさらけだし、地球上からそれをなくすためにはどうすればよいのかを、一人一人に問いつめてやるのだ。(p.359)
 世界的名声を手にするという野心とライカM2と共に、ベトナムの戦場にやってきた沢田は、みごとな写真を撮りつづけます。まず会場に展示されていたのは、アメリカ軍兵士とその戦闘を撮影した写真の数々です。そのおそろしいほどの緊迫感と臨場感に圧倒されました。遮蔽物や戦車に身を隠す兵士、草むらに身を伏せる兵士、砲撃の中突撃する兵士… 毎日新聞特派員・徳岡孝夫が驚いたのは、沢田が、兵士たちが伏せている時に立ち上がり、兵士たちが逃げている時に、ただ一人立ちどまって撮影したいたことです。(p.384)
 そしてひとりの人間としての兵士が抱く、さまざまな感情や思いを、沢田のカメラは掬いとるようにフィルムに記録します。恐怖、不安、怒り、憎悪、絶望、自失、安堵… 図録の中に、アンリ・カルティエ・ブレッソンの言葉がありました。
 ひとの写真を撮るのは恐ろしいことでもある。なにかしらの形で相手を侵害することになる。だから、心遣いを欠いては、(写真は)粗野なものになりかねない。(p.360)
 思うに、彼の兵士に対する心遣いが、彼らの心の被膜をとりさり心底を露わにさせたのでしょう。ただ煙草を吸いながら「なぜ俺を撮る」と言わんばかりにレンズを、あるいは沢田を見据える兵士の写真が忘れられません。

 そして彼の写真の真骨頂は、被害者であるベトナムの人びとを写した写真です。米軍に捕らえられた解放戦線の兵士たちの不屈の面構えに、「侵略者を追い出し独立を守る」という強い意志を感じました。この戦争の目的が理解できない米軍兵士とは大きな違いです。
 胸をしめつけられたのは、ベトナムの民衆を撮影した写真です。逃げ惑う母子、泣き崩れる老婆、命乞いをする女性、ナパーム弾で火傷を負った母親にしがみつく幼子、怯える子供。「この人たちにどんな罪があるんだ」という沢田の叫びが聞こえてきそうな写真の数々。その一方で、戦火の中でも、逞しく生きる人びとの姿も心に残ります。彼ら彼女ら、そして子供たちの素敵な笑顔! これもやはり彼の心遣いの賜物なのでしょう。

 会場には、愛用のライカとヘルメット、使用した食器など沢田教一の遺品も展示されていました。彼はクラシック音楽が好きだったそうで、プレーヤーと彼が愛聴したレコードもありました。彼を癒した曲は何だったのか、紹介します。ショスタコーヴィチ交響曲第7番「レニングラード」(バーンスタイン+ニューヨーク・フィル)、ベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲(ルドルフ・ゼルキン)、ブラームス交響曲全集(カラヤン+ベルリン・フィル)です。

 命を賭けて戦争のおぞましさを撮りつづけ、そして平和な暮らしの尊さを訴えた沢田教一。忘れられない、忘れてはいけない写真家の一人です。戦争大好きおじさん/おばさんがごろごろいる昨今の日本、彼の写真をときどき思い出すことにしましょう。彼の言葉です。
 平和になったら、ベトナムを北から南までゆっくり撮影旅行したいな。ベトナム人の笑顔って最高なんだよ。(p.365)

 人間は戦場にいたら感覚がまひしてしまう。それが恐ろしいんだ。(p.384)

 戦争を教えるにしても、私自身が戦争を知らない。その本当の姿をわからせるのは、戦場の写真だけなのだ。(p.395)
 ベトナム戦争に関する書籍では、『パクス・アメリカーナの五十年』(トマス・J・マコーミック 東京創元社)と『ヘゲモニー国家と世界システム』(松田武・秋田茂編 山川出版社)がお薦めです。アメリカは、日本のためにベトナム戦争を遂行したという衝撃の事実を明らかにしています。ベトナム帰還兵が告白した『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?』(アレン・ネルソン 講談社)も素晴らしい。兵士の眼から見た戦争をリアルに感じ取ることができます。今、読んでいるのが『ベスト&ブライテスト』(デイヴィッド・ハルバースタム 朝日文庫)。ケネディが集め、ジョンソンが受け継いだ「最良にしても最も聡明な」人材だと絶賛されたエリート達が、なぜ米国を非道なベトナム戦争という泥沼に引きずり込んでしまったのか。賢者たちの愚行を、綿密な取材で克明に綴るベトナム問題の記念碑的レポートです。またベトナム戦争に関するポップスやロックも数多つくられましたが、ボブ・ディランとレオン・ラッセルの「戦争の親玉」と、ビリー・ジョエルの「グッドナイト・サイゴン」が出色の出来ですね。

 なおベトナムで戦った米兵たちの証言を集めた『人間の崩壊』(マークレーン著 鈴木主税訳 鶴見良行解説 合同出版)という恐るべき書があるのですが、残念ながら絶版です。この本を読むと、この戦争が、人種主義にもとづいたアメリカ政府と軍、そして戦場の兵士ぐるみの犯罪であることがよくわかります。今なおアメリカ政府は、この国家犯罪を認めていません。その結果、アフガニスタンやイラクで同様の国家犯罪を繰り返しているのでしょう。過ちを認めず、隠蔽し、謝罪もしないし責任もとらない。何と品格に欠けた国であることか。同じく国家犯罪を認めない日本が、アメリカの属国として尻尾を振るのも宜なるかな。いくつかの証言を紹介します。
 まず訓練からはじめることにする。明らかな証拠にうながされる結論は、海兵隊の基礎訓練が野蛮で、非人間的だということである。その訓練の目標は、個人の思想を能うかぎり卑小なものにし、若者を殺人機械の有効な歯車に変えることである。(p.9)

 ベトナムにいる兵士たちへ
 壁にかける野蛮人(クーン)の皮膚を持って帰還せよ。
 -リンドン・B・ジョンソン合衆国大統領の訓戒 (p.35)

リチャード・ダウ
問 君は、自分がなぜそこにいたのか知っていたか?
答 正直言って、わからない。聞かされていたのは、共産主義者の手からベトナム人を救うのだということだった。われわれはだれも救いはしなかった。ただ殺しただけだ。われわれはなぜあそこに派遣されたのだろう? 正直なところ、自分にはわからない。(p.46)

ピーター・ノーマン・マーティンセン
 戦争の場にほうりこまれ、その非人間性、蛮行、そしてとりわけ自分が助けるとされている人びとから憎まれていることが明らかな戦争に加わっていることからくる挫折感に触れれば、だれだって化物に変えられてしまう。ありとあらゆる面で、文字通りの化物になってしまうのだ。(p.165)

ジェームズ・D・ヘンリー
 とにかく、それらの民間人を殺すについては、何の理由もなかった。殺されたすべての民間人は、必要もなく殺された者たちだ。つまり、彼らを殺したところで、まったく意味がなかった。彼らは戦争とは何の関係もなかった。なぜなら、彼らはどちらの側からも殺されていたからだ。ベトコンに殺され、北ベトナム軍に殺され、アメリカ軍に殺され、南ベトナム軍に殺されるのだ。彼らこそが、困難な目にあわされている者たちだ。彼らこそが、逃げ出すわけにはいかない者たちなのだ。(p.174)

 こうしたすべてのことについての重要なポイントは、民間人を殺した兵隊たちには責任があるが、彼らにそんなことをさせないような訓練をしなかったという点で軍隊に究極の責任があるということだ。(p.177)

 だれについても口実はまったく存在しない。人種主義がその大部分を占めている。つまり、そのほとんどは、人種主義のせいだと思うんだ。純粋かつ単純な人種主義だ。ベトナム人は敵ではないからして、グックなのだ。彼らは白人ではなく、ただのグックなのだ。だれでも彼らよりは偉く、二等兵さえもそれより階級が上なのだ。彼らはちっぽけで、遅れていると考えられているが、それでも彼らは私にはできない多くのことをやってのける能力を持っている。とにかく、その理由のおおかたは人種主義なのだ。(p.178)

ビル・コンウェイ
 その男が終わると、別の兵隊が彼女を犯した。娘は悲鳴をあげた。兵隊は彼女を殴り、おとなしくしろと言った。娘は「チェウホイ」と言いつづけた。つまり降伏したいという意味だ。五人全部がその娘を犯すと、あとの二人が彼女を犯し、その間二人の者が残りの二人の娘に銃を向けて見張りをした。それから、その二人の娘についても同じことがくりかえされた。それぞれの娘が何度も強姦されたのだ。彼女らはその間ずっと泣き叫んでいた。強姦がすむと、GIたちの三人が投擲照明弾を取り出し、娘たちの性器につっこんだ。彼女らはその時には意識を失っていた。どの一人ももはや押さえつけておく必要がなかった。娘たちは口や鼻や顔、そして性器から血を流していた。そのあと、彼らは照明弾の外の部分をたたき、それは娘たちの身体の中に入っていった。胃袋が急にふくれあがったかと思うと、弾は身体の中で爆発した。胃袋が破裂し、内臓が身体の外に垂れ下がった。(p.182)

ジョセフ・グラント
問 ベトナム人の子どもを戦争から保護するために特別な配慮がはらわれていたか?
答 それは不可能だ。彼らは戦争の一部なのだから。(p.193)

ピート・シューラー
 圧倒的に、黒人がていよく利用されているという感情だったと思う。彼らは、戦場にいる自分たちの割合が、国にいる時よりもずっと高いということを知っていたし、自分たちが従軍しているたいていの白人よりも危険の大きい任務につかされているということを知っていた。あるいは少なくともそういう感情を抱いていたと思う。(p.202)

ゲイリー・ジャンニノート
 彼らは来る日も来る日もどこかへ出動させられ、何をしていいかわからぬままに、ベトナム人に矛先を向けるのだ。なぜなら彼らは、それらの人びとは劣っている、自分たちよりも遅れている、つまりただの東洋人だと教えられているからだ。(p.212)

ロバート・H・バウアー
 そのことで裁判にかけられるべき人間は、ニクソンであり、レアードであり、ジョンソンなのだ。それらの犯罪について告発されるべきは、わが国の政府の権力の座についている人びとであって、それを実際に遂行した人間ではないのだ。(p.233)

by sabasaba13 | 2017-09-01 06:22 | 美術 | Comments(0)

不染鉄展

c0051620_6205432.jpg 先日、吉田博展を見て、いたく感銘を受けたことは拙ブログで報告しましたが、その際にこれから開かれる展覧会のチラシを何枚かいただきました。食指を動かされたのが、「鈴木春信展」(千葉市美術館)、「長沢芦雪展」(愛知県美術館)、そして「不染鉄展」(東京ステーションギャラリー)です。ふ・せんてつ? ふせん・てつ? 恥ずかしながらはじめてその名を聞きました。ただチラシに載っていた絵に眼を引き付けられました。威厳ある富士とそれを取りまく村々を鳥瞰して描いた「山海図絵」、陸に打ち上げられた巨大な廃船を描いた「廃船」、一台の古ぼけた自転車を描いた「古い自転車」。心がざわつくような不思議な、そして魅力的な絵です。いったいどういう方なのでしょう、興味をひかれて先日東京ステーションギャラリーに行ってきました。

 まずはチラシにあった展覧会の概要を転記します。
 不染鉄(ふせん てつ)を、ご存じですか。
 不染鉄(本名哲治、のち哲爾。鐵二とも号する)は、稀有な経歴の日本画家です。日本画を学んでいたのが、写生旅行先の伊豆大島・式根島で、なぜか漁師暮らしを始めたかと思うと、今度は京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)に入学。才能を高く評価されながら、戦後は画壇を離れ、晩年まで飄々と作画を続けました。これまで美術館で開かれた回顧展は、21年前の唯一回だけ。画業の多くは、謎に包まれてきました。
 その作品も、一風変わっています。富士山や海といった日本画としては、ありふれた画題を描きながら、不染ならではの画力と何ものにもとらわれない精神によって表現された作品は、他のどの画家の絵とも異なり、鳥瞰図と細密画の要素をあわせ持った独創的な世界を作り上げています。不染は「芸術はすべて心である。芸術修行とは心をみがく事である」とし、潔白な心の持ち主にこそ、美しい絵が描けると信じて、ひたすら己の求める絵に向きあい続けました。
 東京初公開となる本展では、代表作や新たに発見された作品を中心に、絵はがき、焼物など約120点を展示し、日本画家としての足跡を、改めて検証するとともに、知られざる不染鉄作品の魅力を探ります。
 8月某日、東京駅北口にあるステーションギャラリーへ。初期の作品群から、魅了されてしまいました。山のふところに、海辺に、林の合間に、雪の中に、静かに佇む数件の家々。ときどき部屋の中にいる人影が見えるだけで、人の営みはほとんど描かれていません。しかし何と静謐で満ち足りた絵なのでしょう。人間は一人の個人としては生きていけない、家々=共同体に包まれながら自然に生かされているのだ、という作者のメッセージを感じます。
 そして画業が円熟するにつれて、彼の想像力の翼は大きくはばたいていきます。前述した「山海図絵」、「廃船」、波間にただよう一艘の船を描いた「孤帆」、薬師寺東塔や奈良の古寺をモチーフにした連作。中でも、私が大好きになった絵が二つあります。
 まず「海」(1975)。上部には岩場の海岸が描かれますが、絵の大半は紺碧の海です。深さを増すにしたがって色濃くなる海の中を、楽し気に遊弋する大小さまざまの魚たち。そして魚たちと戯れるかのように、海の中に茅葺きの家々が数軒建ち並んでいます。海と魚と共存する人間の共同体、何とも幻想的であたたかい絵です。
 もう一つは「古い自転車」(1968)。何の変哲もない、古びた自転車が描かれているだけの不思議な一枚です。なお申し遅れましたが、彼自身の朴訥な字で、絵にコメントがつけられている絵があるのも彼の特徴ですが、これもその一枚。こう記されています。
長いあいだ苦労したんだろうねえ。雨の日風の日色々の事があったんだろうねえ。此頃はピカピカの自転車の走るあいだをふらふら心細そうに走るのかねえ。こいつ何だか私に似てるよ。私は七十八だよ、いくらかふらふらだよ。君も少しさびてところどころはげているが私もはだかになれば君と同じさ。友達だねえ。これをかいていると色々思ひ出すねえ。春の櫻や夏の月やそれからそれとつきないねえ。今は冬の枯野かなあ。淋しいけれどこれもいいぜ。身にしみるなあ。仲よくしようよ。

文化館の展覧にお前をだしてやる 色々な人がお前を見るぞ。恥しくはない、恥しいのはきれいに見えるうそだ。お前よく知ってるだろう。眞實こそ天人ともに美しい。これをかいてるうちに信念のようなものが燃えてくる。うれしいなあ。何だかお前と俺とは一つものか自轉車と俺は同一人か。
 そして額縁にも、絵が描かれ、自らの一生をふりかえるコメントが記されています。
明治廿四年六月十六日東京市小石川区光円寺に生れる いてふ寺とも言はれる 秋になると黄色い落葉が雪吹のようになる 小學三年の時生れてはじめての船に乗せられ、房州富浦の漁村 西光寺へ行く 途中風雨はげしくとても恐ろしかった。
東京から来た児だと大事にされ あばれるので少しあきれられる
ようやく中學を卒業する。田端の山田敬中先生の門下生になる 父死ぬ。勉強する気になる。小さい展覧會に賞をもらふ。
廿四の時美術院研究生となる。女を知り身を持ちくずす。人間の淋しさを深く知り、一切のうそをやめようと思うようになる。中々できない。画がわかり始める。
廿七の春伊豆大島に渡る。三年を夢のようにくらす 画かきになりたいと思ひながら漁師の手つだいとなる 楽しい。
廿九の春花の京都へ来る。帝展入選。丗の時美校へ入學。潮風荒い大島の漁師から美しい美術學生となる
首席卒業となる 答辞を讀む 夢ではない。心配をかけたよ父よ母よ先生よ ほんとに一番だよ。これだけで生れた甲斐があったねえ。

戦後正強高校の校長を七年余やる。
校舎より生徒が大事だと思った。

西之京に住む
雪の北国
春の信州
南の国 みかんの丘の港
楽しい思出はつきない。こんな年?生きる。
美しい心のいい人にならなければねえ
七十四の時ここに住むようになる。まあ門番だねえ 役に立たない。とても静かでいい家だ。何不自由なくとても倖せだ。相野様では何の役にたたぬ私をとても大事にしてくれる この画は今ここでかいている 七十八の暮である 人生終りに近い。我まま一パイにくらしてきたのにこんなに倖せになる そこで此の作品は相野様に保存していただく。

昭和四十三年十二月二十九日 不染鉄
 文中にある"人間の淋しさ"という言葉が、彼の作品を理解するキーワードだと思いました。人間は淋しい、一人では生きていけない。だから縁者や知人と寄り添って村や町をつくり、自然や動物や植物と心を通い合わせながら生きていくものだ。あるいは、自分たちが精魂込めてつくった物、例えば古い自転車とも交感しながら。それが人間の幸せだ。彼の絵から、そうした懐かしくあたたかい思いを感じました。
 もう後戻りはできませんが、かつてこうした暮らしがあったのだと、素晴らしい絵として残してくれた不染鉄氏に感謝します。
by sabasaba13 | 2017-08-30 06:21 | 美術 | Comments(0)

パリ・マグナム写真展

c0051620_6242651.jpg 先日、山ノ神と京都文化博物館で「パリ・マグナム写真展」を見てきました。「なぜ京都で?」と思われる方のために、話せば長いことながら説明いたします。先日、はじめて祇園祭を見てきたのですが、その際に参考としたのが『祇園祭の愉しみ』(芳賀直子 PHP)です。その中で紹介されていたのが大極殿本舗六角店の甘味処「栖園」の提供する美味しそうなスイーツ「琥珀流し」。宵山の日に寄ったところ、やはり長蛇の列でした。しかし名簿に名前を書いておけば順番が過ぎても優先して案内されるというでした。さあどこで時間をつぶすか、その時にすぐ近くに京都文化博物館があり「パリ・マグナム写真展」が開催されていました。しかし船岡温泉でひとっ風呂浴びて彫り物とマジョリカ・タイルを拝見することに決していたので、こちらはカット。そして銭湯で汗を流して「栖園」へ戻ると、長い行列にも拘らずすぐ席に通されて「琥珀流し」を楽しめた次第です。上質の寒天ゼリーにペパーミントのシロップ、舌をくすぐる官能的な触感と爽やかな香り、これは病みつきになりそう。なおこのシロップは月替り、八月には生姜味の冷やし飴。実は、五山送り火にも行く予定でしたので、ぜひ再訪しようと二人で誓い合いました。
 そして五山送り火の当日、午後四時半ごろに「栖園」に行くとやはり長蛇の列、しかも午後五時まで入店ということでした。うーむ、三十分か… とりあえず名簿に名前を書いて、「パリ・マグナム写真展」を鑑賞、三十分弱で鑑賞が終われば「栖園」へ、展覧会が面白ければキャンセルしてそのまま鑑賞を続行、という結論に達しました。結局、写真にひきこまれて「琥珀流し」はキャンセル、再訪を期すことになったわけです。
 長口舌で申し訳ない、何が言いたいかというと、この展覧会がおもしろかったということと、「琥珀流し」は美味しいということです。

 まずは「マグナム」について、博物館HPに掲載されていたサマリーを転記します。
 1947年、ロバート・キャパ、アンリ・カルティエ=ブレッソン、ジョージ・ロジャー、デビッド・シーモアによって「写真家自身によってその権利と自由を守り、主張すること」を目的として写真家集団・マグナムは結成されました。以後、マグナムは20世紀写真史に大きな足跡を残す多くの写真家を輩出し、世界最高の写真家集団として今も常に地球規模で新しい写真表現を発信し続けています。
 本展は、2014年12月から翌年4月までパリ市庁舎で開催され、大きな反響を呼んだ展覧会の海外巡回展として企画。マグナム・フォト設立70周年にあたり、60万点に及ぶ所属写真家の作品の中から、パリをテーマにした作品131点を選び展観するものです。
 芸術の都・パリは多くの歴史的事件の舞台でもあり、かつ、写真術発明以来、常に「写真の首都」でもありました。20世紀の激動を最前線で見つめ続け、現代においても現在進行形の歴史をとらえ続けるマグナムの写真家たちが提示する豊穣なイメージは、都市とそこに生きる人々の歴史にとどまらず、写真表現の豊かさをも我々に提示してくれると同時に、世界を発見する驚きに満ちた写真家たちの視線を追体験させてくれます。
 第一部は「マグナム・ビフォア・マグナム 1932-1944」。マグナム設立以前に撮影されたロバート・キャパやアンリ・カルティエ=ブレッソンの写真が中心です。水たまりを跳び越す男とその影、ブレッソンの有名な作品「サン・ラザール駅」(1932)を見ることができました。そしてナチス・ドイツによるパリ占領と傀儡政権の樹立、それに対するレジスタンスとパリ解放を記録した数々の写真も印象的でした。
 第二部は「復興の時代 1945-1959」。戦争は終結しましたが、荒廃したパリで、明るくたくましく、あるいは苦難に打ちひしがれて生きる人びとの姿がカメラにとらえられています。ポスターに採用された写真は、ロバート・キャパの「凱旋門」(1952)です。
 第三部は「スウィンギング・シックスティーズ 1960-1969」。社会に対する若者たちの怒りが爆発した「五月革命」をとらえた写真が心に残りました。投石やバリケードのためにはがされた歩道の敷石、壁をうめつくす政治的主張をこめたポスターやビラ、そして若者たちの怒りと不安に満ちた、しかし真摯な表情。この出来事を歴史にとどめようとするマグナムの写真家たちの気持ちあが、ビシビシと伝わってきます。
 第四部は「多様化の時代へ 1970-1989」。社会秩序の回復を求める声が高まる一方、慣習からの脱却を求める動きも活性化します。常識や慣習を疑い、人間についての考究を続けた思想家たち、ジャン・ポール・サルトル、シモーヌ・ド・ボーヴォワール、ミシェル・フーコーたちのポートレートが印象的でした。
 第五部は「解体の時代 1990-2014」。マグナムの写真家たちは、現在のフランスが抱える諸問題を四角いフレームに切り取り記録として残すことを継続します。移民・難民問題、あいつぐテロリズム、そして極右勢力の台頭とマクロン候補の勝利。とくに目を引き付けられたのが、パリ郊外の集合住宅に押し込められた移民たちの様子や暮らしを撮った写真です。絶望、諦め、怒り、不安、微かな希望、その表情やしぐさからさまざまな感情が伝わってきますが、テロリズムが蔓延する理由の一端を雄弁に物語っているように思えました。

 というわけで、たいへん充実した、心に残る写真展でした。写真家たちが切り取った現実の一部を、それにきちんと向き合い力を尽くして読み解くのが私たちの仕事なのだと思います。そして、過去に世界で何が起こって、現在の世界で何が起きているのか、人間がどういう状況に置かれているのかに思いを馳せる。そうすれば「DAYS JAPAN」の表紙に掲げられた言葉のように、「1枚の写真が国家を動かすこともある」かもしれません。あらためてフォト・ジャーナリズムに期待します。
 また錚々たる手練れのさまざまな写真を見て、構図の重要性をあらためて痛感しました。ちょっとした工夫で、安定感・緊迫感・スピード感などを表現できるのですね。アマチュア・カメラマンのはしくれとして、たいへん参考になりました。お土産のポストカードとして、ロバート・キャパの「崩れ落ちる兵士」、チェ・ゲバラ、チャールズ・ミンガス、マイルス・デイヴィスのポートレートを購入。

 マグナムの詳細な歴史と現状、所属した写真家のプロフィールと作品などについて知りたい方は、マグナム・フォト東京のサイトがたいへん参考になります。

 追記。以前に拙ブログで紹介したジョセフ・クーデルカの写真もありました。彼もマグナムの一員だったのですね。
by sabasaba13 | 2017-08-28 06:25 | 美術 | Comments(0)

吉田博展

c0051620_6201255.jpg 先日、山ノ神から「吉田博の展覧会を見に行かない」と誘われました。よしだひろし? 日本全国で、20,998人ほどいそうな凡百な名前ですね。山ノ神の知人でしょうか。さにあらず、NHKの「日曜美術館」で知った彼女が言うには、素晴らしい版画家だそうです。さっそく展覧会が開催されている損保ジャパン日本興亜美術館のホームページを見てみると…おお見事な風景版画の数々。ぜひ見に行きましょう。その前に、美術館HPより彼についての紹介を引用します。
 明治から昭和にかけて風景画の第一人者として活躍した吉田博(1876‐1950)の生誕140年を記念する回顧展です。
 福岡県久留米市に生まれた吉田博は、10代半ばで画才を見込まれ、上京して小山正太郎の洋画塾不同舎に入門します。仲間から「絵の鬼」と呼ばれるほど鍛錬を積み、1899年アメリカに渡り数々の作品展を開催、水彩画の技術と質の高さが絶賛されます。その後も欧米を中心に渡航を重ね、国内はもとより世界各地の風景に取材した油彩画や木版画を発表、太平洋画会と官展を舞台に活動を続けました。
 自然美をうたい多彩な風景を描いた吉田博は、毎年のように日本アルプスの山々に登るなど、とりわけ高山を愛し題材とする山岳画家としても知られています。制作全体を貫く、自然への真摯な眼差しと確かな技量に支えられた叙情豊かな作品は、国内外の多くの人々を魅了し、日本近代絵画史に大きな足跡を残しました。
 本展では、水彩、油彩、木版へと媒体を展開させていった初期から晩年までの作品から200余点を厳選し、吉田博の全貌とその魅力に迫ります。
 山ノ神とは現地で待ち合わせ。老婆心ながら、待ち合わせ場所は42階の美術館入口よりも、1階ロビーがいいですね。ソファもあるし、吉田博の紹介ビデオも放映されていました。
 彼女と合流してエレベーターで42階へ。彼の人生に沿った「不同舎の時代」「外遊の時代」「画壇の頂へ」「木版画という新世界」「新たな画題を求めて」「戦中と戦後」という構成の展示です。風景を描いた水彩画・デッサンも素晴らしいのですが、やはり白眉は木版画でした。確かな描写力と構図、時には雄渾な時には詩情豊かな画風、そして色彩の微妙な陰影、透明感、グラデーションの見事さ。いや、こんな凡百な言葉では表現できません、ただ口を開けて「美しい…」と感じ入りながら佇むのみ。グランドキャニオンやマッターホルンヴェネチア、エジプトを画題とした「欧州シリーズ」も良いのですが、やはり「日本アルプス十二題」が傑作でした。神々しいフォルムの山塊、精緻な色彩で表現される山肌と空と雲。溜息が出るような作品群です。図録に、彼の言葉が紹介されていました。
 吾等がかゝる天景に接すると、自分等は人間の境を脱して神になった様な考ひに充たされた。而して人間が賞めたゝいる名勝等いふものは、全く凡景俗景である。人境を去ったこの間の風物は、たしかに山霊が吾等に画題を恵与してくれたのと信じ、都にありて、隅田川や綾瀬又は三河島島の風景を描て、満足し居る画家を気の毒の様に思ひ、又かゝる画家を凡画家として、語るに足らぬ等友と語った。
 この当時に於ては、画題を選むに人間の跋渉した所を選まず、探検的未開の境を探り、人間の未だ踏破せざる深山幽谷、又は四辺の寂寥を破る大瀑布、又は草樹鬱蒼として盛観を極むる無人の森林、とかいふ境地にあらざれば、真の美趣は無きものと信じ、こんな念慮より、吾等はかゝる境土のみ跋渉して居ったから、益々仙骨の観念は向上して、人間といふ念を脱して居ったのであった。(p.15)
 海と帆船と島を画題とした「瀬戸内海集」も素晴らしい。特に「光る海」の、陽光を反射する海の煌きは圧巻です。
 もう一枚、惚れた作品をあげるとすれば、「印度と東南アジア」の中の「フワテプールシクリ」です。建物の内部で座る二人の男、そしてアラベスク模様の透かし彫りを通して室内を照らす穏やかな光。その光の柔らかさと暖かさを、絶妙に、ほんとうに絶妙に表現しています。図録によると、47度摺りで仕上げたとのことです。絶句。

 川瀬巴水の版画も素晴らしかったのですが、色彩表現の絶妙さと画題の雄渾さで吉田博が一枚上かな。誰かが、美術作品の評価は、購入するためにいくら身銭を切るかだ、と言っていました。うーん、うん十万円だったら購入して部屋に飾り、朝昼晩夜、春夏秋冬、眺めて暮らしたいものです。念のためインターネットで調べてみると、20~50万円ほどで購入できそうですが、私の好きな作品はすべてsold outでした。まんざら実現不可能な夢ではなさそうです。

 というわけで、ほんとうに素晴らしい展覧会です。
 オペラ「ばらの騎士」、祇園祭、そして吉田博の木版画と、最近たてつづけに感興の時を楽しむことができました。あらためて、生きるってそう悪いことでもないし、人間もそう捨てたものではないと思います。「利」よりも「美」を求める人が増えれば、日本も世界ももう少し住みやすくなるのに。
by sabasaba13 | 2017-08-03 06:20 | 美術 | Comments(0)

カマゲイ

c0051620_844738.jpg それでは「大岡信ことば館」に入館いたしましょう。ん? 企画展として開催されていたのが「釜芸がやってきた! 釜ヶ崎芸術大学・わしが美なんか語ってもええんか?」です。カマゲイ? なんじゃそりゃ?
 はい、お待たせしました。こちらで偶然に出会えたのが「カマゲイ」です。それでは釜ヶ崎芸術大学の概要について、展覧会のサイトから転記しましょう。
 釜ヶ崎は大阪市西成区のなかのさほど広くない地域の呼び名で、日本最大の日雇い労働者の街として知られています。かつてここに日本の高度経済成長を支えるべく、全国から若い労働力が集められました。現在の彼らは高齢化し、また様々な理由で他の地域から弾き出されることになった人々もここへ身を寄せ、今の釜ヶ崎は形作られています。その釜ケ崎で詩人・上田假奈代さん率いるNPO法人こえとことばとこころの部屋(ココルーム)が、「学びたい人が集まればそこが大学になる」という旗印のもと、市民大学釜ケ崎芸術大学を立ち上げます。大学講師や様々なプロフェッショナルを招いて、各種講座・ワークショップを開催し、アートを通して常に彼らと共に考え、共に成長していこうとする姿勢を見せています。
 というわけで、講座やワークショップに参加した釜ヶ崎に住むおっちゃんたちのつくった絵、書、詩、オブジェを紹介する展覧会です。稚拙で未熟ですが、粗雑な作品はひとつとしてありません。学ぶこと、知ること、表現することの喜びが炸裂する、素晴らしい作品群です。
 感銘を受けたので、「釜ヶ崎芸術大学2013報告書」を購入して、帰宅後に熟読しました。報告書によると、講座は表現、音楽、詩、天文学、書道、感情、ガムラン、哲学、お笑い、狂言、絵画、写真、合唱、ダンス、地理といった多様な内容です。その雰囲気を伝えてくれる釜芸大「天文学」講師の尾久土正己氏のコメントを紹介します。
 最初の観望会は12/29、2台の望遠鏡を三角公園に持ち込んだ。「お前はどこのもんで、何をしに来たんや?」と怖そうな顔で話しかけてきたおじさんは、望遠鏡を覗いた瞬間、「これ本物か?」「うさぎおるんか?」と目が少年のようになっていた。また、病気で視力が落ちていて、なかなか見ることができずにいたおじさんの顔を手で持って、接眼部が目の正面にくるようにサポートしてあげると、「ええもん見させてもろったわ」と喜んでくれた。そのうち、見終えたはずのおじさんが別のおじさんを連れて戻ってきて、「おい、これを見てみ! デコボコがたくさん見えるやろ?」と解説をしてくれたり、列を整理してくれたりと、あっと言う間に公共の天文台で行われているような観望会が出来上がってしまった。
 学ぶこと・知ることの喜びと驚き、それらを人と分かち合うことによってさらに増加されるということ。おっちゃんたちの生き生きとした姿が、「学ぶ」ということの本質を十全に語ってくれます。もうひとつは、釜芸大「哲学」講師の西川勝氏のコメントです。
 釜ヶ崎芸術大学の良いところは、入学試験も落第もないところだ。学びたいという気持ちだけが大切にされる。学ぼうとする姿勢が何よりも難しい。試験に受かって自分の能力を誇示し、授業料を払って対価としての知識を要求するのでは、学ぶという姿勢は生まれてこない。成績や学歴という頼りないもののために、自分の人生を手段にしているかに見える若者たちを見ると気の毒になってしまう。生きることと学ぶことが、目的手段としてばらばらにならないような学びの場を、もっと広げていく必要があるだろう。
 進学・進級・卒業・学歴のための手段としての「学び」、それが学校教育をいかにスポイルしていることか。「学びたい人が集まれば、そこが大学になる」という、第一期釜芸パンフレットの言葉をかみしめたいと思います。
 補助金欲しさに文部科学省官僚の天下りを受け入れる早稲田大学関係者諸氏、補助金をちらつかせて再就職先の獲得に血眼となっている文部科学省官僚諸氏、穴を掘ってさしあげましょうか。
 なお2016-2017年に開催される釜ヶ崎芸術大学講座がすでに決定されています。

 常設展「大岡信の部屋」では、「アノニマス!折々のうた」が展示されていました。朝日新聞に掲載し続けた人気コラム「折々のうた」の中から、「よみ人しらず」や「東歌」など、無名の人々の作品が紹介されていました。私の大好きな『閑吟集』からひとつ紹介しましょう。
梅花は雨に
柳絮は風に
世はただ虚(うそ)に、揉まるる

 室町歌謡。梅の花も柳のわたも、春の雨風に翻弄されて舞う。世の中も同じく、ウソで揉みくちゃ。ウソを「虚」と書き記してある。直接には「嘘」の意味もあろうが、それだけでなく、根本にはこの世の虚しさへの諦観があろう。戦乱の世を生きる人々の処世観でもあったと感じられるが、ひるがえって思えば、二十世紀の終幕を生きる現代日本社会でも、同じように「虚」に揉まれて大忙し。

 午後四時を過ぎたので「てっちゃん」に行ったところ、材料が入手できず今日は「長泉あしたかつ丼」は提供できないとのこと、無念。ま、いいや、今回の旅はカマゲイに出会えただけでも満足です。「学ぶ」ことに迷いが生じたら、釜ヶ崎のおっちゃんたちのことを思い出しましょう。
by sabasaba13 | 2017-02-26 08:05 | 美術 | Comments(0)

円山応挙展

c0051620_6352562.jpg NHKの「日曜美術館」で、円山応挙展が根津美術館で開催されていることを知りました。円山応挙(1733‐95)、伊藤若冲(1716‐1800)とほぼ同時代人ですが、彼の奇想と華麗に比してやや影が薄い存在です。私も「写生」の絵師という単純なイメージしか持っていませんでした。しかし番組を見て、そう一筋縄ではいかない絵師であることを知り、一日休暇がとれた先日の土曜日に行ってきました。なお山ノ神は仕事のために同行できず、臍を噛んでおりました。ほぞほぞ。夜、渋谷に映画を見にいこうと誘って慰めましたが。
 まずは『カラー版 日本美術史』(監修:辻惟雄 美術出版社)から、応挙についての解説を引用します。
 江戸中期の絵画様式のなかでいまひとつ特筆すべきものに、写生画がある。この写生画の場合、京坂と江戸では様相を異にしている。京坂の場合、どちらかといえば中国的写生画の傾向を多くもり、江戸は洋風写生画の影響をより多く受けた。
 京坂の写生画は円山応挙が基礎を形づくった。応挙は丹波国で生まれ、京に出て、初め眼鏡絵制作にたずさわり、石田幽汀に就いて狩野派を学んだりもするが、滋賀の円満院門主祐常の知遇を得る頃から、新しい写生画風に目ざめた。応挙の絵画は単に事物を写実的に描くというのではなく、いったんそれを我身に引き入れて、堅固な構図のなかに構成し直すのである。雪松図屏風や、藤花図屏風を見れば、そのことは明らかであろう。応挙のこの画風は表面上は平明に見えることもあって、京都中の様々の階層から圧倒的な支持を受けることとなり、狩野家や土佐家を上回る勢力を有するようにもなった。円山派はかくして一大画派となるのだが、その運命は皮肉にも狩野派の場合と酷似しており、弟子たちは応挙の祖述にいそしむばかりで、応挙を越えようとする意志は初めからなかったといってよい。(p.141~2)
 半蔵門線の表参道駅でおりて、十分ほど歩くと根津美術館に到着。思えば、大学生の時に光琳の「燕子花図屏風」を見にきて以来の来館です。竹をあしらった洒落たプロムナードを抜け入口に着くと、それほどの混雑ではないので一安心。
 まず眼を魅かれたのが「藤花図屏風」です。華麗かつ精緻に描かれた藤の花房、「付立て」という技法で一気に筆で引かれた幹、その密と粗の対照が面白いですね。そして背景は何も描かれていない総金地。装飾的な幹と背景、写生的な花房、それらをまとめあげる絶妙の構図。しばし見惚れてしまいました。
 一転、「雲龍図屏風」では、朦朧とした大気をダイナミックに引き裂いてのたうちまわる二匹の龍が描かれています。空想の聖獣を見事に描きあげたその迫力ある筆致に、「応挙=写生」という私の先入観は木っ端微塵に打ち砕かれました。特に右隻の龍は、胴の太さを微妙に描き分けることによって奥行きと動きを表現しています。
 「藤花狗子図」は愛らしい小品です。単なる"写実"でしたら猫好き犬嫌いの小生としては鼻もひっかけないでしょうが、その私が思わず頬ずりをして肉球を瞼に触れさせたくなるような可愛さです。これが"写生"ということなのかもしれません。
 「三井春暁図」は霞にかすむ三井寺を描いた風景画。とは言っても肝心のお寺さんはほとんど見えず、奇妙な言い方ですが、春霞がまるで生きているように蠢き風景をつつみこんでいます。そう、この絵の主人公は霞なのですね。空気を生きているかのように描く、これも応挙の"写生"なのかもしれません。
 圧巻は「写生図巻」、実物写生を清書した作品ですが、これぞ応挙の真骨頂。鳥、昆虫、植物などを精緻に生き生きと描いたスケッチ群です。中でも、何の変哲もない一枚の細長い草の葉をくりかえしくりかえし描いたスケッチが心に残りました。実はこの後に見に行った『シーモアさんと、大人のための人生入門』という映画の中で、このような科白がありました。
 自分も、その美に感化されるままにする。禅の思想家は言った。"菊を描く者がすべきことは、自身が菊になるまで10年間、菊を眺めることだ"
 きっと応挙は、その10年間を何分かに濃密に凝縮して眺め、対象の美を見出し、その美に感化されたのではないかと想像します。
 上階にあがると『七難七福図巻』が展示されていました。経典に説かれる七難と七福をリアルに描くことで、仏神への信仰心と善行をうながす目的で制作された絵巻だそうです。牛を使った股裂きの刑など正視に耐えないグロテスクな絵も多いのですが、荒れ狂う自然の猛威と逃げ惑う人々の恐怖を冷徹に描いた作品は印象的でした。

 というわけで、「リアルに描く」だけの画家・応挙という先入観を、心地よく打ち砕かれた展覧会でいた。さまざまな対象を(藤、子犬、龍、亀、空気…)を、さまざまな技法を駆使して、生き生きと描き、見る者の心を動かす。それが円山応挙の目指していたものかと思いました。これからも末永くおつきあいしていきたい絵師ですね。いつの日にか、ロンドンの大英博物館に行って「氷図屏風」を見たいものです。
 なお帰宅後に『新潮日本美術文庫13 円山応挙』(新潮社)を読むと、円山応挙と与謝蕪村に親交があったことを知りました。例えば、次のような蕪村の句。
筆灌ぐ応挙が鉢に氷哉
 また応挙が描いた黒い子犬に、蕪村が賛の俳句をつけるというコラボレーションもあるのですね。
己が身の闇より吠えて夜半の秋
 この時期の京都は、この二人をはじめ、伊藤若冲、池大雅、曾我蕭白、長沢芦雪らが活躍していた、とてつもなく豊饒な美の都でした。

 根津美術館には、茶室が点在する池泉回遊式の広いお庭があります。展覧会を見終えた後、名残の紅葉を愛で、鳥の声・葉擦れの音に耳を傾けながらしばし散策をしました。
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by sabasaba13 | 2016-12-21 06:37 | 美術 | Comments(0)

村上春樹とイラストレーター

c0051620_6315991.jpg そして、ちひろ美術館の企画展、「村上春樹とイラストレーター」を見にいきました。拙ブログで以前にも書きましたが、兄貴の本棚からたまたま『風の歌を聴け』を見つけて何気なく読んで以来、洒脱なレトリックと魅力的な物語世界に惹かれて彼の作品のファンです。以後、氏の初版本を全て購入したはずです、かなり散逸しておりますが。汗顔。
 その『風の歌を聴け』の表紙が、佐々木マキ氏の印象的なイラストでした。倉庫の建ち並ぶ波止場に座り、煙草を手にする顔のない男。空には土星、海には空き瓶。この佐々木氏をはじめとして、村上氏とコラボレイトをした四人のイラストレーター、大橋歩氏、和田誠氏、故安西水丸氏の原画を展示した企画展です。
 『風の歌を聴け』、『1973年のピンボール』、『羊をめぐる冒険』の初期3 部作の表紙を飾った佐々木マキ氏の謎めいた闊達さ。エッセイ『村上ラヂオ』を飾った大橋歩氏の銅版画のシンプルで寡黙な線の魅力。"村上朝日堂"シリーズをはじめ、最も多くコンビを組んだ故安西水丸氏の軽妙洒脱な遊び心。そして『村上ソングズ』や『ポートレート・イン・ジャズ』などで、音楽への愛情を共有しながら素晴らしいデュエットを奏でた和田誠氏。いずれも劣らぬ魅力的な絵に見入って時を忘れました。関連する文章の掲示や制作技法の紹介、すぐそばに実際の本を置かれて手に取れるなどといった展示の工夫もいいですね。
 中でも私が好きだったのは『ポートレート・イン・ジャズ』を飾った三枚の絵、ジミー・ラッシングとアート・ペッパーとギル・エバンスです。彼らの音楽が聴こえてくるような滋味にあふれた和田氏の絵と、リズムに乗った村上氏の文章の見事なコラボレーション。また読み返したくなりました。
 というわけで、ちひろ美術館と本展、一粒で二度美味しい幸せな時間を過ごせました。なお会期中に、絵本カフェにて『風の歌を聴け』に登場する鼠の好物「ホットケーキのコカコーラがけ」がいただけるそうですが、うむむ、これはパスしました。

 蛇足ですが、拙ブログで紹介した『小澤征爾さんと、音楽について話をする』、『雑文集』、『1Q84』、『走ることについて語るときに僕の語ること』、『村上ソングズ』、『意味がなければスイングはない』の書評も、よろしければご笑覧ください。
by sabasaba13 | 2016-07-21 06:32 | 美術 | Comments(0)

ちひろ美術館

 山ノ神から、上井草にあるちひろ美術館で開催されている「村上春樹とイラストレーター」展を見にいこうと誘われました。インターネットで調べてみると、氏の本を装丁した和田誠、安西水丸、佐々木マキ、大橋歩の原画が展示されているとのこと。これは面白そうですね。ちひろ美術館自体も私は行ったことがないので、土曜日に訪れました。
 西武新宿線の上井草駅から歩いて七分ほどで、美術館に到着です。まずは、いわさきちひろについて、同美術館のHPより紹介します。
いわさきちひろ(1918~1974)
 福井県武生市(現・越前市)に生まれ、東京で育つ。東京府立第六高等女学校卒。藤原行成流の書を学び、絵は岡田三郎助、中谷泰、丸木俊に師事。1946年日本共産党に入党。1950年松本善明と結婚。同年、紙芝居『お母さんの話』を出版、文部大臣賞受賞。1951年長男猛を出産。翌年、下石神井(東京・練馬)に自宅兼アトリエを建てる。1956年小学館絵画賞(現在の小学館児童出版文化賞)、1961年産経児童出版文化賞、1973年『ことりのくるひ』(至光社)でボロー ニャ国際児童図書展グラフィック賞等を受賞。1974年肝ガンのため死去。享年55歳。その他の代表作に『おふろでちゃぷちゃぷ』(童心社)、『あめのひのおるすばん』(至光社)、『戦火のなかの子どもたち』(岩崎書店)などがある。
 この美術館は、いわさきちひろの遺族から、全作品、資料ならびに美術館建設用地等の寄贈を受け、ちひろの業績を記念し、絵本等の文化の発展に寄与する活動等をおこなうことを目的として、ちひろの自宅兼アトリエ跡に設立されたそうです。
 まずは「―絵のなかのわたし― ちひろの自画像展」を拝見しました。敗戦直後から1950年代半ばまでに描かれた24点の自画像が、一堂に展示されています。特に敗戦直後に描かれた二枚の自画像が印象的でした。敗戦という衝撃に見舞われながらも、新しい時代を生き抜こうとする決意がみなぎる固く厳しい表情が印象的でした。また後年の淡く優しいタッチからは想像もできないような、さまざまなタッチで自画像を描いていたのも興味深いですね。自分の絵を確立するための試行錯誤の時代だったのでしょうか。しかし結婚と出産を契機に、あのなじみの深い「ちひろの絵」へと劇的に変化していきます。そして自画像がほとんど描かれなくなり、自分の分身とも言うベき少女像・母親像が画業の中心となっていきます。もっとも心惹かれたのが、ベトナム戦争に脅かされた子と母たちを描いた『戦火のなかの子どもたち』です。中でも不安に脅える幼子を、断固たる決意で守ろうとする母親を描いた一枚には目が釘付けとなりました。彼女が一生をかけて伝えようとしたメッセージがここに凝集されているようです。子供を、そして末来を守れ。低劣な教育行政、貧困、しのびよる戦争。子どもたちと末来を脅かしている現今の日本に生きる私たちが、目を凝らして見つめなければいけない一枚だと思います。
 再現されたちひろのアトリエ、約3000冊の絵本がある図書室、様々な遊具のあるこどものへや、カフェ、ミュージアムショップ、ちひろが愛した草花を植えたちひろの庭など、設備も充実しています。入館料は800円と少々高いのですが、高校生以下は無料ということなので、寛恕しましょう。
 また彼女の第二の故郷、安曇野にもちひろ美術館ができたので、いつの日にか訪れてみるつもりです。そうそう、今年の三月に福井・富山を旅したのですが、武生に「ちひろの生まれた家記念館」がありました。残念ながら閉館で見学できませんでしたが。
 それでは「村上春樹とイラストレーター」展を拝見いたしましょう。

 本日の三枚、上から美術館全景、ちひろの庭、ちひろの生まれた家記念館です。
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by sabasaba13 | 2016-07-20 06:42 | 美術 | Comments(0)

立石鐵臣展

 先日、たまたま野暮用があって東府中に行き、たまたま小一時間ほど暇ができました。東府中と言えば、武蔵野の俤を残す府中の森公園と府中市立美術館ですね。どんな展示会が開かれているが知りませんが、ぶらりと訪れてみました。立石鐵臣? 初耳ですね、でも未知の画家との出会い、わくわくします。美術館のホームページから転記します。
 日本統治時代の台湾で活躍した油彩画家立石鐵臣(たていしてつおみ)(1905年-1980年)の展覧会を開催いたします。立石鐵臣は台北に生まれ、少年期に帰国し、日野尋常小学校、明治学院中学校に学びます。幼少期は病身がちでしだいに絵画に関心を深め、鎌倉で岸田劉生から、さらに東京で梅原龍三郎と、大正と昭和を代表する二人の巨匠から指導を受け、日本絵画の将来を嘱望されました。幼少期の台湾経験もあり、再び台湾にわたり絵画、民俗研究、装丁、批評活動などに幅広く活躍。台湾近代油画の重要画家、楊三郎、陳澄波、陳清汾、李梅樹、李石樵、廖繼春、顔水龍らが、台湾最大の在野油絵団体「台陽美術協会」を創立するにあたり、ただひとりの日本人として立石鐵臣おみが迎え入れられるなど、まさしく台湾を愛し、そして台湾から愛された画家でした。

 1945年日本の敗戦により、2年間の留用期間を経て、作品も資産も全て失っての日本への引き揚げとなり、戦後はまさにゼロからのスタートでした。台湾時代に得た細密画技法は冴え渡り、日本の細密画の最高峰に至りました。台湾での様々な出会いが、戦後日本の子供たちへ昆虫図鑑や児童書の挿絵などを通して伝えられました。再び訪れることのなかった麗しきふるさと台湾へのあふれんばかりの郷愁の念が、彼の代表作「春」にこめられました。
 またこの度の展覧会では、立石鐵臣が大コレクター福島繁太郎に贈った「台湾画冊」を日本初公開いたします。ここには立石の台湾への想いが凝縮されているばかりでなく、日本統治期の台湾の世相のぬくもりさえもが濃厚に感じられます。
 台湾で活躍した立石鐵臣の回顧展は、新たな日本近代絵画の幅を広げ、今後のさらなる台湾と日本との友好と互いの文化風土の特性を認め合う相互文化の豊かさにつながるものと確信し、展覧会を開催いたします。ぜひご覧下さい。
 展示会場に入ると、来訪者は…ひとり、向うにひとり…いやはや伊藤若冲展とはえらい違いですね。おかげさまで心静かにのんびりと堪能することができました。
 やはり白眉は、トンボ、蝶、甲虫といった昆虫の細密画です。1ミリ四方に点を10打てるという超絶技巧を駆使して描かれた、それはそれはリアルな虫たちの姿には感嘆しました。小さい命に対する、作者の畏敬と愛情の念がびしびしと伝わってきます。己のできうる限り対照に迫り、その真なる姿を描き切ろうとする姿勢は、デューラーの自画像を思い起こさせます。害虫たちですら、虚心な目で見つめると、その姿はこんなにも美しいのですね。
 『台湾画冊』は、台湾への望郷の念をつのらせた立石が、台湾時代に見聞きした楽しい台湾風物を墨と水彩で描いた画帖です。絵画コレクターの福島繁太郎に献呈されたものです。自由奔放、軽快なタッチの絵と、愛情に満ちた洒脱な文章のマリアージュ。じっくりと拝見したかったのですが、時間がないのでカタログを購入することにしました。なお最後の「吾愛台湾!」では台湾から離れる別れの場面が描かれ、「ランチ二そう、わが船を追い、波止場をかなり離れるや、日章旗を出して振る。日人への愛惜と大陸渡来の同族へのレジスタンスでもあろう」と記されています。"大陸渡来の同族"とは、1949年の中華人民共和国の成立によって、台湾へ逃れてきた蒋介石政権(国民党)の関係者たちをさしているのでしょう。この時に、150万ないし200万ともいわれる官吏、軍人、商工業者とそれらの家族が大陸から台湾に流入しました。彼らは外省人と呼ばれ、すでに台湾に居住していた漢民族の本省人、そして先住民族である原住民とは区別されます。この外省人によって台湾の政治・経済は牛耳られ、1947年に役人の腐敗に端を発して本省人の大規模な抵抗がはじまります。(二・二八事件) これに対して、国民党政権は徹底的な殺戮を行い、その犠牲者は約二万八千人といわれます。以後、戒厳令がしかれ国民党による強権的な独裁政治が続き、アメリカの援助による「反共の砦」化が進められました。
 贅言ですが、台湾において反日感情が弱く、親日家が多いことから、台湾の植民地支配を正当化し、ひいては戦前の植民地支配は全面的に悪い点ばかりではなかったとする説も聞かれます。俗耳に入りやすい論ですが、台湾と朝鮮の相違点にはきちっと留意すべきでしょう。朝鮮の場合は、ナショナル・アイデンティティが生れつつあった独立国家を併合するという類例を見ない植民地化であったため、ナショナリズムにより触発された激しい抵抗を生みます。また満州・中国・ロシアに近接するという戦略上重要な位置にあるため、抗日運動を鎮圧するために日本による支配は酸鼻を極める過酷なものとなりました。以上二つの条件が台湾には欠けていたために、その支配も緩やかなものとなりました。創氏改名をした/させられた割合も台湾では約20%だったそうです。同時に、戦後の国民党による強権支配との比較で、日本による統治をまだましであったとする思いもあるのではないでしょうか。戦争に動員した台湾人への補償措置もなされていない以上、この問題は安易に考えるべきではないと思います。
 そして晩年の幻想画も素敵ですね。ポスターにもなった「春」がやはり心に残ります。上半分を青で、下半分を黒でベタに塗られた画面構成。上部では、薄い雲がたなびき、白い蝶が群れ飛びます。下部には、作者の想いを託されたモノたちの細密画が、規則ただしく並べられています。ネコヤナギ、熱帯の花々、木蓮、孔雀の羽根、蕨、麦の穂、虫たち、貝殻。そして四枚のタロットカードは、カタログによると「愚者:全てを捨てた自由人」「つるし人:どんな困難も喜んで受け入れる、あるいは両極に引き裂かれた人」「空想好きな陰の努力家」「感受性豊かな画家」をあらわしているとのことです。中央には「ベリー公のいとも華麗なる時祷書」の三月の図。台湾への望郷の念とともに、これまでの人生をふりかえりキャンバスに描いた珠玉の作品。静謐で美しい世界に見惚れてしまいました。台湾とヨーロッパ文化、そしてなによりも自然へのオマージュとも言うべき逸品です。

 というわけで、水無月の典雅なひとときを楽しむことができました。こういう未知の素晴らしい画家に出会え、そして静かにゆっくりとその絵を鑑賞できるのは、ほんとうに喜ばしいことです。伊藤若冲展も見たかったのですが、320分も待たされたうえに、芋を洗うように押し合いへしあいしながらあわただしく絵を見るのは堪えられそうもないのでやめました。やはりこうでなくてはいけません。

 なお台湾旅行記を以前に上梓しましたので、よろしければご笑覧ください。

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by sabasaba13 | 2016-06-20 14:33 | 美術 | Comments(2)

国芳イズム

c0051620_6354453.jpg 練馬の桜を愛でながら、練馬区立美術館に寄り、「国芳イズム―歌川国芳とその系脈 武蔵野の洋画家 悳俊彦コレクション」を見てきました。以前に府中市美術館で国芳展を見たことはあるのですが、かれの浮世絵は何度でも見たいものです。また山ノ神は彼の絵は未見とのことなので、ぜひ見せてあげたく思います。
 まずは同美術館のHPから、展覧会の趣旨を転記します。
 歌川国芳(寛政9~文久元・1797~1861)は今や言わずと知れた幕末浮世絵の大スターです。ヒーローやアウトローはカッコよく、戯画は大ウケ、動物は愛らしく、江戸の市中の話題は持ち前の反骨精神と洒落っ気でものの見事に描いてみせます。
 そうした国芳が切り拓いた幕末浮世絵の奇抜さ斬新さは数多くの弟子達はもとより、幕末・明治に活躍した浮世絵師、風俗画を描く市井の絵師たちに脈々と受け継がれていきました。
 この展覧会は武蔵野の自然を描く洋画家、悳俊彦(いさおとしひこ)(1935生)氏の数百点にも及ぶ国芳コレクションの中から、彼の代表作、そして世に1点、数点しか確認されていない稀少作を選りすぐり、また、河鍋暁斎、月岡芳年を含む国芳一門の作品を余すところなく紹介します。加えて、"国芳イズム"を継承する尾形月耕、山本昇雲、そして近年大注目の小林永濯らの初公開の作品を数多く含む約230点で、幕末・明治期の浮世絵・風俗画の粋を紹介するものです。
 悳氏は幕末・明治期の浮世絵の革新性、楽しさに早くから着目し、長年に亘りコレクションしてきた蒐集家・研究者として国内はもちろん、海外でも高い評価を受けています。
 そうした一面と共に、本業である洋画家としては風土会に所属し、四季折々に木々や空や水がその彩りを変化させる武蔵野の風景を長年に亘って描いてきました。未だ武蔵野の面影を残す練馬ともなじみの深い悳氏の作品も併せて展示し、コレクターの素顔を紹介します。
 自由奔放・エネルギッシュで、遊び心に満ち、しかも精緻な彼の浮世絵を堪能できました。はじめて見るという山ノ神もおおはしゃぎ、誘ってよかった。府中市美術館では展示されていなかった傑作「相馬の古内裏」と「源頼光公館土蜘作妖怪図」を見られたのも眼福です。ポスターにもなっている、歯をくいしばって滝を浴びる文覚上人の力強さ・派手さ・くどさにはもう開いた口がふさがりません。なお国芳が愛した、そしてわれわれも大好きな、猫をテーマとしたコーナーがあったのも嬉しい企画です。浄瑠璃で口上を述べる猫の裃には小判の紋様、そして家紋は肉球、二人でにやっと笑ってしまいました。
 武者絵を「ヤンキー文化」と評したり、いちゃつく猫を「ラブラブ」と表現したりするなど、ちょっとくだけた、親しみやすい解説にも好感がもてました。学芸員の方の見識に敬意を表します。多くの人に美術館に足を運んでほしいという思いを感じますね。
 またあまり紹介されない、尾形月耕、山本昇雲、小林永濯といった絵師の作品を見られたのも僥倖でした。コレクターである悳氏の、武蔵野の風景を描いた静謐な絵にも心惹かれます。

 ミュージアム・ショップで絵葉書・クリアファイル・カタログを購入、国芳ワールドを楽しむ縁としましょう。穏やかな春の一日、桜と国芳に元気をもらいました。
by sabasaba13 | 2016-04-04 06:36 | 美術 | Comments(0)