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吉田博展

c0051620_6201255.jpg 先日、山ノ神から「吉田博の展覧会を見に行かない」と誘われました。よしだひろし? 日本全国で、20,998人ほどいそうな凡百な名前ですね。山ノ神の知人でしょうか。さにあらず、NHKの「日曜美術館」で知った彼女が言うには、素晴らしい版画家だそうです。さっそく展覧会が開催されている損保ジャパン日本興亜美術館のホームページを見てみると…おお見事な風景版画の数々。ぜひ見に行きましょう。その前に、美術館HPより彼についての紹介を引用します。
 明治から昭和にかけて風景画の第一人者として活躍した吉田博(1876‐1950)の生誕140年を記念する回顧展です。
 福岡県久留米市に生まれた吉田博は、10代半ばで画才を見込まれ、上京して小山正太郎の洋画塾不同舎に入門します。仲間から「絵の鬼」と呼ばれるほど鍛錬を積み、1899年アメリカに渡り数々の作品展を開催、水彩画の技術と質の高さが絶賛されます。その後も欧米を中心に渡航を重ね、国内はもとより世界各地の風景に取材した油彩画や木版画を発表、太平洋画会と官展を舞台に活動を続けました。
 自然美をうたい多彩な風景を描いた吉田博は、毎年のように日本アルプスの山々に登るなど、とりわけ高山を愛し題材とする山岳画家としても知られています。制作全体を貫く、自然への真摯な眼差しと確かな技量に支えられた叙情豊かな作品は、国内外の多くの人々を魅了し、日本近代絵画史に大きな足跡を残しました。
 本展では、水彩、油彩、木版へと媒体を展開させていった初期から晩年までの作品から200余点を厳選し、吉田博の全貌とその魅力に迫ります。
 山ノ神とは現地で待ち合わせ。老婆心ながら、待ち合わせ場所は42階の美術館入口よりも、1階ロビーがいいですね。ソファもあるし、吉田博の紹介ビデオも放映されていました。
 彼女と合流してエレベーターで42階へ。彼の人生に沿った「不同舎の時代」「外遊の時代」「画壇の頂へ」「木版画という新世界」「新たな画題を求めて」「戦中と戦後」という構成の展示です。風景を描いた水彩画・デッサンも素晴らしいのですが、やはり白眉は木版画でした。確かな描写力と構図、時には雄渾な時には詩情豊かな画風、そして色彩の微妙な陰影、透明感、グラデーションの見事さ。いや、こんな凡百な言葉では表現できません、ただ口を開けて「美しい…」と感じ入りながら佇むのみ。グランドキャニオンやマッターホルンヴェネチア、エジプトを画題とした「欧州シリーズ」も良いのですが、やはり「日本アルプス十二題」が傑作でした。神々しいフォルムの山塊、精緻な色彩で表現される山肌と空と雲。溜息が出るような作品群です。図録に、彼の言葉が紹介されていました。
 吾等がかゝる天景に接すると、自分等は人間の境を脱して神になった様な考ひに充たされた。而して人間が賞めたゝいる名勝等いふものは、全く凡景俗景である。人境を去ったこの間の風物は、たしかに山霊が吾等に画題を恵与してくれたのと信じ、都にありて、隅田川や綾瀬又は三河島島の風景を描て、満足し居る画家を気の毒の様に思ひ、又かゝる画家を凡画家として、語るに足らぬ等友と語った。
 この当時に於ては、画題を選むに人間の跋渉した所を選まず、探検的未開の境を探り、人間の未だ踏破せざる深山幽谷、又は四辺の寂寥を破る大瀑布、又は草樹鬱蒼として盛観を極むる無人の森林、とかいふ境地にあらざれば、真の美趣は無きものと信じ、こんな念慮より、吾等はかゝる境土のみ跋渉して居ったから、益々仙骨の観念は向上して、人間といふ念を脱して居ったのであった。(p.15)
 海と帆船と島を画題とした「瀬戸内海集」も素晴らしい。特に「光る海」の、陽光を反射する海の煌きは圧巻です。
 もう一枚、惚れた作品をあげるとすれば、「印度と東南アジア」の中の「フワテプールシクリ」です。建物の内部で座る二人の男、そしてアラベスク模様の透かし彫りを通して室内を照らす穏やかな光。その光の柔らかさと暖かさを、絶妙に、ほんとうに絶妙に表現しています。図録によると、47度摺りで仕上げたとのことです。絶句。

 川瀬巴水の版画も素晴らしかったのですが、色彩表現の絶妙さと画題の雄渾さで吉田博が一枚上かな。誰かが、美術作品の評価は、購入するためにいくら身銭を切るかだ、と言っていました。うーん、うん十万円だったら購入して部屋に飾り、朝昼晩夜、春夏秋冬、眺めて暮らしたいものです。念のためインターネットで調べてみると、20~50万円ほどで購入できそうですが、私の好きな作品はすべてsold outでした。まんざら実現不可能な夢ではなさそうです。

 というわけで、ほんとうに素晴らしい展覧会です。
 オペラ「ばらの騎士」、祇園祭、そして吉田博の木版画と、最近たてつづけに感興の時を楽しむことができました。あらためて、生きるってそう悪いことでもないし、人間もそう捨てたものではないと思います。「利」よりも「美」を求める人が増えれば、日本も世界ももう少し住みやすくなるのに。
by sabasaba13 | 2017-08-03 06:20 | 美術 | Comments(0)

カマゲイ

c0051620_844738.jpg それでは「大岡信ことば館」に入館いたしましょう。ん? 企画展として開催されていたのが「釜芸がやってきた! 釜ヶ崎芸術大学・わしが美なんか語ってもええんか?」です。カマゲイ? なんじゃそりゃ?
 はい、お待たせしました。こちらで偶然に出会えたのが「カマゲイ」です。それでは釜ヶ崎芸術大学の概要について、展覧会のサイトから転記しましょう。
 釜ヶ崎は大阪市西成区のなかのさほど広くない地域の呼び名で、日本最大の日雇い労働者の街として知られています。かつてここに日本の高度経済成長を支えるべく、全国から若い労働力が集められました。現在の彼らは高齢化し、また様々な理由で他の地域から弾き出されることになった人々もここへ身を寄せ、今の釜ヶ崎は形作られています。その釜ケ崎で詩人・上田假奈代さん率いるNPO法人こえとことばとこころの部屋(ココルーム)が、「学びたい人が集まればそこが大学になる」という旗印のもと、市民大学釜ケ崎芸術大学を立ち上げます。大学講師や様々なプロフェッショナルを招いて、各種講座・ワークショップを開催し、アートを通して常に彼らと共に考え、共に成長していこうとする姿勢を見せています。
 というわけで、講座やワークショップに参加した釜ヶ崎に住むおっちゃんたちのつくった絵、書、詩、オブジェを紹介する展覧会です。稚拙で未熟ですが、粗雑な作品はひとつとしてありません。学ぶこと、知ること、表現することの喜びが炸裂する、素晴らしい作品群です。
 感銘を受けたので、「釜ヶ崎芸術大学2013報告書」を購入して、帰宅後に熟読しました。報告書によると、講座は表現、音楽、詩、天文学、書道、感情、ガムラン、哲学、お笑い、狂言、絵画、写真、合唱、ダンス、地理といった多様な内容です。その雰囲気を伝えてくれる釜芸大「天文学」講師の尾久土正己氏のコメントを紹介します。
 最初の観望会は12/29、2台の望遠鏡を三角公園に持ち込んだ。「お前はどこのもんで、何をしに来たんや?」と怖そうな顔で話しかけてきたおじさんは、望遠鏡を覗いた瞬間、「これ本物か?」「うさぎおるんか?」と目が少年のようになっていた。また、病気で視力が落ちていて、なかなか見ることができずにいたおじさんの顔を手で持って、接眼部が目の正面にくるようにサポートしてあげると、「ええもん見させてもろったわ」と喜んでくれた。そのうち、見終えたはずのおじさんが別のおじさんを連れて戻ってきて、「おい、これを見てみ! デコボコがたくさん見えるやろ?」と解説をしてくれたり、列を整理してくれたりと、あっと言う間に公共の天文台で行われているような観望会が出来上がってしまった。
 学ぶこと・知ることの喜びと驚き、それらを人と分かち合うことによってさらに増加されるということ。おっちゃんたちの生き生きとした姿が、「学ぶ」ということの本質を十全に語ってくれます。もうひとつは、釜芸大「哲学」講師の西川勝氏のコメントです。
 釜ヶ崎芸術大学の良いところは、入学試験も落第もないところだ。学びたいという気持ちだけが大切にされる。学ぼうとする姿勢が何よりも難しい。試験に受かって自分の能力を誇示し、授業料を払って対価としての知識を要求するのでは、学ぶという姿勢は生まれてこない。成績や学歴という頼りないもののために、自分の人生を手段にしているかに見える若者たちを見ると気の毒になってしまう。生きることと学ぶことが、目的手段としてばらばらにならないような学びの場を、もっと広げていく必要があるだろう。
 進学・進級・卒業・学歴のための手段としての「学び」、それが学校教育をいかにスポイルしていることか。「学びたい人が集まれば、そこが大学になる」という、第一期釜芸パンフレットの言葉をかみしめたいと思います。
 補助金欲しさに文部科学省官僚の天下りを受け入れる早稲田大学関係者諸氏、補助金をちらつかせて再就職先の獲得に血眼となっている文部科学省官僚諸氏、穴を掘ってさしあげましょうか。
 なお2016-2017年に開催される釜ヶ崎芸術大学講座がすでに決定されています。

 常設展「大岡信の部屋」では、「アノニマス!折々のうた」が展示されていました。朝日新聞に掲載し続けた人気コラム「折々のうた」の中から、「よみ人しらず」や「東歌」など、無名の人々の作品が紹介されていました。私の大好きな『閑吟集』からひとつ紹介しましょう。
梅花は雨に
柳絮は風に
世はただ虚(うそ)に、揉まるる

 室町歌謡。梅の花も柳のわたも、春の雨風に翻弄されて舞う。世の中も同じく、ウソで揉みくちゃ。ウソを「虚」と書き記してある。直接には「嘘」の意味もあろうが、それだけでなく、根本にはこの世の虚しさへの諦観があろう。戦乱の世を生きる人々の処世観でもあったと感じられるが、ひるがえって思えば、二十世紀の終幕を生きる現代日本社会でも、同じように「虚」に揉まれて大忙し。

 午後四時を過ぎたので「てっちゃん」に行ったところ、材料が入手できず今日は「長泉あしたかつ丼」は提供できないとのこと、無念。ま、いいや、今回の旅はカマゲイに出会えただけでも満足です。「学ぶ」ことに迷いが生じたら、釜ヶ崎のおっちゃんたちのことを思い出しましょう。
by sabasaba13 | 2017-02-26 08:05 | 美術 | Comments(0)

円山応挙展

c0051620_6352562.jpg NHKの「日曜美術館」で、円山応挙展が根津美術館で開催されていることを知りました。円山応挙(1733‐95)、伊藤若冲(1716‐1800)とほぼ同時代人ですが、彼の奇想と華麗に比してやや影が薄い存在です。私も「写生」の絵師という単純なイメージしか持っていませんでした。しかし番組を見て、そう一筋縄ではいかない絵師であることを知り、一日休暇がとれた先日の土曜日に行ってきました。なお山ノ神は仕事のために同行できず、臍を噛んでおりました。ほぞほぞ。夜、渋谷に映画を見にいこうと誘って慰めましたが。
 まずは『カラー版 日本美術史』(監修:辻惟雄 美術出版社)から、応挙についての解説を引用します。
 江戸中期の絵画様式のなかでいまひとつ特筆すべきものに、写生画がある。この写生画の場合、京坂と江戸では様相を異にしている。京坂の場合、どちらかといえば中国的写生画の傾向を多くもり、江戸は洋風写生画の影響をより多く受けた。
 京坂の写生画は円山応挙が基礎を形づくった。応挙は丹波国で生まれ、京に出て、初め眼鏡絵制作にたずさわり、石田幽汀に就いて狩野派を学んだりもするが、滋賀の円満院門主祐常の知遇を得る頃から、新しい写生画風に目ざめた。応挙の絵画は単に事物を写実的に描くというのではなく、いったんそれを我身に引き入れて、堅固な構図のなかに構成し直すのである。雪松図屏風や、藤花図屏風を見れば、そのことは明らかであろう。応挙のこの画風は表面上は平明に見えることもあって、京都中の様々の階層から圧倒的な支持を受けることとなり、狩野家や土佐家を上回る勢力を有するようにもなった。円山派はかくして一大画派となるのだが、その運命は皮肉にも狩野派の場合と酷似しており、弟子たちは応挙の祖述にいそしむばかりで、応挙を越えようとする意志は初めからなかったといってよい。(p.141~2)
 半蔵門線の表参道駅でおりて、十分ほど歩くと根津美術館に到着。思えば、大学生の時に光琳の「燕子花図屏風」を見にきて以来の来館です。竹をあしらった洒落たプロムナードを抜け入口に着くと、それほどの混雑ではないので一安心。
 まず眼を魅かれたのが「藤花図屏風」です。華麗かつ精緻に描かれた藤の花房、「付立て」という技法で一気に筆で引かれた幹、その密と粗の対照が面白いですね。そして背景は何も描かれていない総金地。装飾的な幹と背景、写生的な花房、それらをまとめあげる絶妙の構図。しばし見惚れてしまいました。
 一転、「雲龍図屏風」では、朦朧とした大気をダイナミックに引き裂いてのたうちまわる二匹の龍が描かれています。空想の聖獣を見事に描きあげたその迫力ある筆致に、「応挙=写生」という私の先入観は木っ端微塵に打ち砕かれました。特に右隻の龍は、胴の太さを微妙に描き分けることによって奥行きと動きを表現しています。
 「藤花狗子図」は愛らしい小品です。単なる"写実"でしたら猫好き犬嫌いの小生としては鼻もひっかけないでしょうが、その私が思わず頬ずりをして肉球を瞼に触れさせたくなるような可愛さです。これが"写生"ということなのかもしれません。
 「三井春暁図」は霞にかすむ三井寺を描いた風景画。とは言っても肝心のお寺さんはほとんど見えず、奇妙な言い方ですが、春霞がまるで生きているように蠢き風景をつつみこんでいます。そう、この絵の主人公は霞なのですね。空気を生きているかのように描く、これも応挙の"写生"なのかもしれません。
 圧巻は「写生図巻」、実物写生を清書した作品ですが、これぞ応挙の真骨頂。鳥、昆虫、植物などを精緻に生き生きと描いたスケッチ群です。中でも、何の変哲もない一枚の細長い草の葉をくりかえしくりかえし描いたスケッチが心に残りました。実はこの後に見に行った『シーモアさんと、大人のための人生入門』という映画の中で、このような科白がありました。
 自分も、その美に感化されるままにする。禅の思想家は言った。"菊を描く者がすべきことは、自身が菊になるまで10年間、菊を眺めることだ"
 きっと応挙は、その10年間を何分かに濃密に凝縮して眺め、対象の美を見出し、その美に感化されたのではないかと想像します。
 上階にあがると『七難七福図巻』が展示されていました。経典に説かれる七難と七福をリアルに描くことで、仏神への信仰心と善行をうながす目的で制作された絵巻だそうです。牛を使った股裂きの刑など正視に耐えないグロテスクな絵も多いのですが、荒れ狂う自然の猛威と逃げ惑う人々の恐怖を冷徹に描いた作品は印象的でした。

 というわけで、「リアルに描く」だけの画家・応挙という先入観を、心地よく打ち砕かれた展覧会でいた。さまざまな対象を(藤、子犬、龍、亀、空気…)を、さまざまな技法を駆使して、生き生きと描き、見る者の心を動かす。それが円山応挙の目指していたものかと思いました。これからも末永くおつきあいしていきたい絵師ですね。いつの日にか、ロンドンの大英博物館に行って「氷図屏風」を見たいものです。
 なお帰宅後に『新潮日本美術文庫13 円山応挙』(新潮社)を読むと、円山応挙と与謝蕪村に親交があったことを知りました。例えば、次のような蕪村の句。
筆灌ぐ応挙が鉢に氷哉
 また応挙が描いた黒い子犬に、蕪村が賛の俳句をつけるというコラボレーションもあるのですね。
己が身の闇より吠えて夜半の秋
 この時期の京都は、この二人をはじめ、伊藤若冲、池大雅、曾我蕭白、長沢芦雪らが活躍していた、とてつもなく豊饒な美の都でした。

 根津美術館には、茶室が点在する池泉回遊式の広いお庭があります。展覧会を見終えた後、名残の紅葉を愛で、鳥の声・葉擦れの音に耳を傾けながらしばし散策をしました。
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by sabasaba13 | 2016-12-21 06:37 | 美術 | Comments(0)

村上春樹とイラストレーター

c0051620_6315991.jpg そして、ちひろ美術館の企画展、「村上春樹とイラストレーター」を見にいきました。拙ブログで以前にも書きましたが、兄貴の本棚からたまたま『風の歌を聴け』を見つけて何気なく読んで以来、洒脱なレトリックと魅力的な物語世界に惹かれて彼の作品のファンです。以後、氏の初版本を全て購入したはずです、かなり散逸しておりますが。汗顔。
 その『風の歌を聴け』の表紙が、佐々木マキ氏の印象的なイラストでした。倉庫の建ち並ぶ波止場に座り、煙草を手にする顔のない男。空には土星、海には空き瓶。この佐々木氏をはじめとして、村上氏とコラボレイトをした四人のイラストレーター、大橋歩氏、和田誠氏、故安西水丸氏の原画を展示した企画展です。
 『風の歌を聴け』、『1973年のピンボール』、『羊をめぐる冒険』の初期3 部作の表紙を飾った佐々木マキ氏の謎めいた闊達さ。エッセイ『村上ラヂオ』を飾った大橋歩氏の銅版画のシンプルで寡黙な線の魅力。"村上朝日堂"シリーズをはじめ、最も多くコンビを組んだ故安西水丸氏の軽妙洒脱な遊び心。そして『村上ソングズ』や『ポートレート・イン・ジャズ』などで、音楽への愛情を共有しながら素晴らしいデュエットを奏でた和田誠氏。いずれも劣らぬ魅力的な絵に見入って時を忘れました。関連する文章の掲示や制作技法の紹介、すぐそばに実際の本を置かれて手に取れるなどといった展示の工夫もいいですね。
 中でも私が好きだったのは『ポートレート・イン・ジャズ』を飾った三枚の絵、ジミー・ラッシングとアート・ペッパーとギル・エバンスです。彼らの音楽が聴こえてくるような滋味にあふれた和田氏の絵と、リズムに乗った村上氏の文章の見事なコラボレーション。また読み返したくなりました。
 というわけで、ちひろ美術館と本展、一粒で二度美味しい幸せな時間を過ごせました。なお会期中に、絵本カフェにて『風の歌を聴け』に登場する鼠の好物「ホットケーキのコカコーラがけ」がいただけるそうですが、うむむ、これはパスしました。

 蛇足ですが、拙ブログで紹介した『小澤征爾さんと、音楽について話をする』、『雑文集』、『1Q84』、『走ることについて語るときに僕の語ること』、『村上ソングズ』、『意味がなければスイングはない』の書評も、よろしければご笑覧ください。
by sabasaba13 | 2016-07-21 06:32 | 美術 | Comments(0)

ちひろ美術館

 山ノ神から、上井草にあるちひろ美術館で開催されている「村上春樹とイラストレーター」展を見にいこうと誘われました。インターネットで調べてみると、氏の本を装丁した和田誠、安西水丸、佐々木マキ、大橋歩の原画が展示されているとのこと。これは面白そうですね。ちひろ美術館自体も私は行ったことがないので、土曜日に訪れました。
 西武新宿線の上井草駅から歩いて七分ほどで、美術館に到着です。まずは、いわさきちひろについて、同美術館のHPより紹介します。
いわさきちひろ(1918~1974)
 福井県武生市(現・越前市)に生まれ、東京で育つ。東京府立第六高等女学校卒。藤原行成流の書を学び、絵は岡田三郎助、中谷泰、丸木俊に師事。1946年日本共産党に入党。1950年松本善明と結婚。同年、紙芝居『お母さんの話』を出版、文部大臣賞受賞。1951年長男猛を出産。翌年、下石神井(東京・練馬)に自宅兼アトリエを建てる。1956年小学館絵画賞(現在の小学館児童出版文化賞)、1961年産経児童出版文化賞、1973年『ことりのくるひ』(至光社)でボロー ニャ国際児童図書展グラフィック賞等を受賞。1974年肝ガンのため死去。享年55歳。その他の代表作に『おふろでちゃぷちゃぷ』(童心社)、『あめのひのおるすばん』(至光社)、『戦火のなかの子どもたち』(岩崎書店)などがある。
 この美術館は、いわさきちひろの遺族から、全作品、資料ならびに美術館建設用地等の寄贈を受け、ちひろの業績を記念し、絵本等の文化の発展に寄与する活動等をおこなうことを目的として、ちひろの自宅兼アトリエ跡に設立されたそうです。
 まずは「―絵のなかのわたし― ちひろの自画像展」を拝見しました。敗戦直後から1950年代半ばまでに描かれた24点の自画像が、一堂に展示されています。特に敗戦直後に描かれた二枚の自画像が印象的でした。敗戦という衝撃に見舞われながらも、新しい時代を生き抜こうとする決意がみなぎる固く厳しい表情が印象的でした。また後年の淡く優しいタッチからは想像もできないような、さまざまなタッチで自画像を描いていたのも興味深いですね。自分の絵を確立するための試行錯誤の時代だったのでしょうか。しかし結婚と出産を契機に、あのなじみの深い「ちひろの絵」へと劇的に変化していきます。そして自画像がほとんど描かれなくなり、自分の分身とも言うベき少女像・母親像が画業の中心となっていきます。もっとも心惹かれたのが、ベトナム戦争に脅かされた子と母たちを描いた『戦火のなかの子どもたち』です。中でも不安に脅える幼子を、断固たる決意で守ろうとする母親を描いた一枚には目が釘付けとなりました。彼女が一生をかけて伝えようとしたメッセージがここに凝集されているようです。子供を、そして末来を守れ。低劣な教育行政、貧困、しのびよる戦争。子どもたちと末来を脅かしている現今の日本に生きる私たちが、目を凝らして見つめなければいけない一枚だと思います。
 再現されたちひろのアトリエ、約3000冊の絵本がある図書室、様々な遊具のあるこどものへや、カフェ、ミュージアムショップ、ちひろが愛した草花を植えたちひろの庭など、設備も充実しています。入館料は800円と少々高いのですが、高校生以下は無料ということなので、寛恕しましょう。
 また彼女の第二の故郷、安曇野にもちひろ美術館ができたので、いつの日にか訪れてみるつもりです。そうそう、今年の三月に福井・富山を旅したのですが、武生に「ちひろの生まれた家記念館」がありました。残念ながら閉館で見学できませんでしたが。
 それでは「村上春樹とイラストレーター」展を拝見いたしましょう。

 本日の三枚、上から美術館全景、ちひろの庭、ちひろの生まれた家記念館です。
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by sabasaba13 | 2016-07-20 06:42 | 美術 | Comments(0)

立石鐵臣展

 先日、たまたま野暮用があって東府中に行き、たまたま小一時間ほど暇ができました。東府中と言えば、武蔵野の俤を残す府中の森公園と府中市立美術館ですね。どんな展示会が開かれているが知りませんが、ぶらりと訪れてみました。立石鐵臣? 初耳ですね、でも未知の画家との出会い、わくわくします。美術館のホームページから転記します。
 日本統治時代の台湾で活躍した油彩画家立石鐵臣(たていしてつおみ)(1905年-1980年)の展覧会を開催いたします。立石鐵臣は台北に生まれ、少年期に帰国し、日野尋常小学校、明治学院中学校に学びます。幼少期は病身がちでしだいに絵画に関心を深め、鎌倉で岸田劉生から、さらに東京で梅原龍三郎と、大正と昭和を代表する二人の巨匠から指導を受け、日本絵画の将来を嘱望されました。幼少期の台湾経験もあり、再び台湾にわたり絵画、民俗研究、装丁、批評活動などに幅広く活躍。台湾近代油画の重要画家、楊三郎、陳澄波、陳清汾、李梅樹、李石樵、廖繼春、顔水龍らが、台湾最大の在野油絵団体「台陽美術協会」を創立するにあたり、ただひとりの日本人として立石鐵臣おみが迎え入れられるなど、まさしく台湾を愛し、そして台湾から愛された画家でした。

 1945年日本の敗戦により、2年間の留用期間を経て、作品も資産も全て失っての日本への引き揚げとなり、戦後はまさにゼロからのスタートでした。台湾時代に得た細密画技法は冴え渡り、日本の細密画の最高峰に至りました。台湾での様々な出会いが、戦後日本の子供たちへ昆虫図鑑や児童書の挿絵などを通して伝えられました。再び訪れることのなかった麗しきふるさと台湾へのあふれんばかりの郷愁の念が、彼の代表作「春」にこめられました。
 またこの度の展覧会では、立石鐵臣が大コレクター福島繁太郎に贈った「台湾画冊」を日本初公開いたします。ここには立石の台湾への想いが凝縮されているばかりでなく、日本統治期の台湾の世相のぬくもりさえもが濃厚に感じられます。
 台湾で活躍した立石鐵臣の回顧展は、新たな日本近代絵画の幅を広げ、今後のさらなる台湾と日本との友好と互いの文化風土の特性を認め合う相互文化の豊かさにつながるものと確信し、展覧会を開催いたします。ぜひご覧下さい。
 展示会場に入ると、来訪者は…ひとり、向うにひとり…いやはや伊藤若冲展とはえらい違いですね。おかげさまで心静かにのんびりと堪能することができました。
 やはり白眉は、トンボ、蝶、甲虫といった昆虫の細密画です。1ミリ四方に点を10打てるという超絶技巧を駆使して描かれた、それはそれはリアルな虫たちの姿には感嘆しました。小さい命に対する、作者の畏敬と愛情の念がびしびしと伝わってきます。己のできうる限り対照に迫り、その真なる姿を描き切ろうとする姿勢は、デューラーの自画像を思い起こさせます。害虫たちですら、虚心な目で見つめると、その姿はこんなにも美しいのですね。
 『台湾画冊』は、台湾への望郷の念をつのらせた立石が、台湾時代に見聞きした楽しい台湾風物を墨と水彩で描いた画帖です。絵画コレクターの福島繁太郎に献呈されたものです。自由奔放、軽快なタッチの絵と、愛情に満ちた洒脱な文章のマリアージュ。じっくりと拝見したかったのですが、時間がないのでカタログを購入することにしました。なお最後の「吾愛台湾!」では台湾から離れる別れの場面が描かれ、「ランチ二そう、わが船を追い、波止場をかなり離れるや、日章旗を出して振る。日人への愛惜と大陸渡来の同族へのレジスタンスでもあろう」と記されています。"大陸渡来の同族"とは、1949年の中華人民共和国の成立によって、台湾へ逃れてきた蒋介石政権(国民党)の関係者たちをさしているのでしょう。この時に、150万ないし200万ともいわれる官吏、軍人、商工業者とそれらの家族が大陸から台湾に流入しました。彼らは外省人と呼ばれ、すでに台湾に居住していた漢民族の本省人、そして先住民族である原住民とは区別されます。この外省人によって台湾の政治・経済は牛耳られ、1947年に役人の腐敗に端を発して本省人の大規模な抵抗がはじまります。(二・二八事件) これに対して、国民党政権は徹底的な殺戮を行い、その犠牲者は約二万八千人といわれます。以後、戒厳令がしかれ国民党による強権的な独裁政治が続き、アメリカの援助による「反共の砦」化が進められました。
 贅言ですが、台湾において反日感情が弱く、親日家が多いことから、台湾の植民地支配を正当化し、ひいては戦前の植民地支配は全面的に悪い点ばかりではなかったとする説も聞かれます。俗耳に入りやすい論ですが、台湾と朝鮮の相違点にはきちっと留意すべきでしょう。朝鮮の場合は、ナショナル・アイデンティティが生れつつあった独立国家を併合するという類例を見ない植民地化であったため、ナショナリズムにより触発された激しい抵抗を生みます。また満州・中国・ロシアに近接するという戦略上重要な位置にあるため、抗日運動を鎮圧するために日本による支配は酸鼻を極める過酷なものとなりました。以上二つの条件が台湾には欠けていたために、その支配も緩やかなものとなりました。創氏改名をした/させられた割合も台湾では約20%だったそうです。同時に、戦後の国民党による強権支配との比較で、日本による統治をまだましであったとする思いもあるのではないでしょうか。戦争に動員した台湾人への補償措置もなされていない以上、この問題は安易に考えるべきではないと思います。
 そして晩年の幻想画も素敵ですね。ポスターにもなった「春」がやはり心に残ります。上半分を青で、下半分を黒でベタに塗られた画面構成。上部では、薄い雲がたなびき、白い蝶が群れ飛びます。下部には、作者の想いを託されたモノたちの細密画が、規則ただしく並べられています。ネコヤナギ、熱帯の花々、木蓮、孔雀の羽根、蕨、麦の穂、虫たち、貝殻。そして四枚のタロットカードは、カタログによると「愚者:全てを捨てた自由人」「つるし人:どんな困難も喜んで受け入れる、あるいは両極に引き裂かれた人」「空想好きな陰の努力家」「感受性豊かな画家」をあらわしているとのことです。中央には「ベリー公のいとも華麗なる時祷書」の三月の図。台湾への望郷の念とともに、これまでの人生をふりかえりキャンバスに描いた珠玉の作品。静謐で美しい世界に見惚れてしまいました。台湾とヨーロッパ文化、そしてなによりも自然へのオマージュとも言うべき逸品です。

 というわけで、水無月の典雅なひとときを楽しむことができました。こういう未知の素晴らしい画家に出会え、そして静かにゆっくりとその絵を鑑賞できるのは、ほんとうに喜ばしいことです。伊藤若冲展も見たかったのですが、320分も待たされたうえに、芋を洗うように押し合いへしあいしながらあわただしく絵を見るのは堪えられそうもないのでやめました。やはりこうでなくてはいけません。

 なお台湾旅行記を以前に上梓しましたので、よろしければご笑覧ください。

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by sabasaba13 | 2016-06-20 14:33 | 美術 | Comments(2)

国芳イズム

c0051620_6354453.jpg 練馬の桜を愛でながら、練馬区立美術館に寄り、「国芳イズム―歌川国芳とその系脈 武蔵野の洋画家 悳俊彦コレクション」を見てきました。以前に府中市美術館で国芳展を見たことはあるのですが、かれの浮世絵は何度でも見たいものです。また山ノ神は彼の絵は未見とのことなので、ぜひ見せてあげたく思います。
 まずは同美術館のHPから、展覧会の趣旨を転記します。
 歌川国芳(寛政9~文久元・1797~1861)は今や言わずと知れた幕末浮世絵の大スターです。ヒーローやアウトローはカッコよく、戯画は大ウケ、動物は愛らしく、江戸の市中の話題は持ち前の反骨精神と洒落っ気でものの見事に描いてみせます。
 そうした国芳が切り拓いた幕末浮世絵の奇抜さ斬新さは数多くの弟子達はもとより、幕末・明治に活躍した浮世絵師、風俗画を描く市井の絵師たちに脈々と受け継がれていきました。
 この展覧会は武蔵野の自然を描く洋画家、悳俊彦(いさおとしひこ)(1935生)氏の数百点にも及ぶ国芳コレクションの中から、彼の代表作、そして世に1点、数点しか確認されていない稀少作を選りすぐり、また、河鍋暁斎、月岡芳年を含む国芳一門の作品を余すところなく紹介します。加えて、"国芳イズム"を継承する尾形月耕、山本昇雲、そして近年大注目の小林永濯らの初公開の作品を数多く含む約230点で、幕末・明治期の浮世絵・風俗画の粋を紹介するものです。
 悳氏は幕末・明治期の浮世絵の革新性、楽しさに早くから着目し、長年に亘りコレクションしてきた蒐集家・研究者として国内はもちろん、海外でも高い評価を受けています。
 そうした一面と共に、本業である洋画家としては風土会に所属し、四季折々に木々や空や水がその彩りを変化させる武蔵野の風景を長年に亘って描いてきました。未だ武蔵野の面影を残す練馬ともなじみの深い悳氏の作品も併せて展示し、コレクターの素顔を紹介します。
 自由奔放・エネルギッシュで、遊び心に満ち、しかも精緻な彼の浮世絵を堪能できました。はじめて見るという山ノ神もおおはしゃぎ、誘ってよかった。府中市美術館では展示されていなかった傑作「相馬の古内裏」と「源頼光公館土蜘作妖怪図」を見られたのも眼福です。ポスターにもなっている、歯をくいしばって滝を浴びる文覚上人の力強さ・派手さ・くどさにはもう開いた口がふさがりません。なお国芳が愛した、そしてわれわれも大好きな、猫をテーマとしたコーナーがあったのも嬉しい企画です。浄瑠璃で口上を述べる猫の裃には小判の紋様、そして家紋は肉球、二人でにやっと笑ってしまいました。
 武者絵を「ヤンキー文化」と評したり、いちゃつく猫を「ラブラブ」と表現したりするなど、ちょっとくだけた、親しみやすい解説にも好感がもてました。学芸員の方の見識に敬意を表します。多くの人に美術館に足を運んでほしいという思いを感じますね。
 またあまり紹介されない、尾形月耕、山本昇雲、小林永濯といった絵師の作品を見られたのも僥倖でした。コレクターである悳氏の、武蔵野の風景を描いた静謐な絵にも心惹かれます。

 ミュージアム・ショップで絵葉書・クリアファイル・カタログを購入、国芳ワールドを楽しむ縁としましょう。穏やかな春の一日、桜と国芳に元気をもらいました。
by sabasaba13 | 2016-04-04 06:36 | 美術 | Comments(0)

さらば、カマキン

 先日、鎌倉で紅葉狩りをしてきましたが、その際に観光案内所でいただいた資料から神奈川県立近代美術館鎌倉で最後の展覧会が行われていることを偶然知りました。敗戦後のアートを牽引した前衛、ル・コルビュジエの弟子・坂倉準三によるモダニズム建築の傑作、そして老朽化のために閉館せざるを得ない、といった話は何となく知っていたのですがもう最後の展覧会になろうとは。"つひに行く道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを"、ちょっと西行の心境です。よろしい、手向けの花でも添えに訪れてみることにしましょう。
 川喜多映画記念館からペダルをこぐこと数分で美術館に到着、まずは正面外観を撮影しました。主要な二階部分をピロティが支えるというコルお得意の技法でつくられています。正面中央の大きな階段と、吹き抜けが軽やかな印象をかもしだしています。平家池越しに見る姿も素敵ですね、まるで池に浮かんでいるようです。へえー、"カマキン(鎌倉近代美術館)"と呼ばれていたのか、素敵な愛称ですね。
 それでは最後の展覧会「鎌倉からはじまった。PART3 1951-1965」を拝見しましょう。この建物が今度どうなるのか気になったので、チケット売り場の方に訊ねてみました。すると、保存することについては決まっているが、この敷地は鶴岡八幡宮に返還しなければならないので美術館は閉館。これからは、鎌倉別館と葉山館の二館体制となるそうです。これで一安心、でもうまく活用してくれるよう、八幡宮には期待します。さて展覧会ですが、戦前・戦中の文化的空白を埋めるべく1951(昭和26)年に開館した本美術館が草創期に取り上げた作家・作品を、収蔵品から選んで展示してありました。古賀春江萬鉄五郎福沢一郎といった、私の好きな画家たちの作品を堪能。なかでもその名前を聞いただけで心がふるえてしまう松本竣介の作品を数点見ることができたのは眼福でした。
 もう一つの企画は坂倉準三設計による鎌倉館の変遷を、図面や写真等で紹介するものです。昼食をいただいてから、建物をじっくりと拝見することにしましょう。喫茶室「ピナコテカ(PINACOTECA)」は、ギリシャ語源で「絵画館」という意味だそうです。片側すべてが大きなガラス窓で、陽光にあふれた明るい空間でした。洒落た壁画は田中岑の『女の一生』という作品。アサリと野菜のピラフをいただき、食後の珈琲はオープン・テラスで池と紅葉を眺めながらいただきました。なお先日放映された「日曜美術館」では、かつて若者に人気のデート・スポットだったと紹介されていました。
 まずは一階の彫刻室へ、こちらは彫刻作品が展示されていますが、中庭とテラスと通じているオープンな空間構成となっています。テラスは平家池に面していて、天上に反射してゆらぐ水面の光が素敵です。これは日本庭園の伝統的な手法を応用したのではと愚考します。修学院離宮の窮邃亭がそうだったし、テレビで放映された小川治兵衛の庭にも同じような仕掛けがありました。
 テラスから彫刻室を抜けるとすぐそこは中庭、吹き抜けになっており見上げると四角い青空がありました。中央には愛らしい彫刻が二体ならんで微笑んでいます。これはイサム・ノグチ作の「コケシ」という作品。
 そして彫刻を見ながら彫刻室を漫歩。壁に穿たれた四角い穴からは光がさしこみ、ちょっとロンシャン教会を思わせます。階段と手すりの意匠も秀逸ですね。テラス、中庭、彫刻室とぶらつきながら、写真を撮りまくりました。どこを切り取っても絵になるデザインです。
 同館のホームページによると、設計者の坂倉準三(1901-69)は、岐阜県に生まれ、東京帝国大学文学部美術史学科を卒業後、建築家を志してフランスに渡り、1931年から1939年まで、現代建築の巨匠ル・コルビュジエの事務所で修業しました。戦前の作品としては、1937年のパリ万国博覧会日本館がとくに有名で、博覧会建築部門でグランプリを獲得。日本人の建築家が国際的な舞台で認められた初めての仕事となりました。この栄光をたずさえて、1939年、フランスから帰国した坂倉は東京に事務所を開設。戦争の時代を経て、1951年11月に竣工したこの鎌倉館によって日本国内における活動を本格的に開始していきます。
 坂倉は、パリ万博日本館の設計思想を要約して、1.平面構成の明快さ、2.構造の明快さ、3.素材の自然美の尊重、4.建物を囲む自然(環境)との調和、という特徴を挙げていますが、それがこの建物にも活かされているのですね。明快で軽やかな構成・構造・意匠、外の自然と内の空間との連続と調和、見応えのある建築でした。
 なお「日曜美術館」によると、美術館の運営にも目を見張るものがあります。あまり知られていない海外のアーティストを紹介するとともに、日本の若手アーティストを育てていく。そして鎌倉の人びとのインタビューを見ても、市民に愛されてきた美術館であることがよくわかります。みなさんほんとうにいい表情で、思い出を語り、爽やかに別れを告げていました。

 今の公立美術館がどういう状況におかれているのか、よくわかりません。ただ断片的な情報と素人の勘では、"お役所仕事"になっているのではないでしょうか。重要視されるのは来館者数のみ、その多寡で予算や人事が決められてしまう。そして来館者を増やすための企画が優先され、独創的な企画、リスクの高い企画はつぶされてしまう。だとしたら日本のアート・シーンの将来は暗いものと思わざるを得ません。数値にこだわらずに斬新な企画を実行し、それを市民が支えていく。また若手のアーティストを積極的に育てていく。カマキンはそういう美術館だったのかなと思います。いま、この灯が消えつつありますが、この炬火を多くの美術館が受けついでいくことを念じてやみません。
 そしてアメリカ軍と自衛隊と大企業にガバガバ金を注ぎ込み、芸術や福祉や教育を一顧だにしない自民党・公明党政府、およびそれを支持する方々にひと言申し添えたい。私たち、そして将来の世代が人間的で幸せな暮らしができるように、税金を使いなさい。

 本日の九枚です。
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by sabasaba13 | 2015-12-14 06:32 | 美術 | Comments(0)

夷酋列像

 9月の五連休に、山ノ神と函館・札幌を旅してきました。函館に一泊して、函館ははじめてという山ノ神を案内して市内と夜景の見物、大沼公園に寄って札幌に移動して二泊。余市のニッカ工場とモエレ沼公園「海の噴水」のライトアップを拝見、という旅程です。さすがに大型連休、往復の航空券も満席寸前でしたが、かろうじておさえることができました。なお往路はエア・ドゥに初搭乗です。わくわく。座席にすわり、機内誌『ラポラ』を紐解くと、「北海道人物伝」という特集記事に"秀作「夷酋列像(いしゅうれつぞう)」を描き、人々を圧倒した松前藩家老 蠣崎波響(かきざきはきょう)"という見出しがありました。後学のため、転記しておきます。
 北海道南西部の桜の名所、松前町にある法源寺に眠る画人・蠣崎波響が、12人のアイヌの有力者を描いた「夷酋列像」。この原画は長く行方不明だったが、1980年代にフランスのブザンソン美術考古博物館で11点が見つかり、今月北海道博物館で公開される。海を渡った経緯は今も謎のままだ。
 「夷酋列像」は「絹本着色」という、絹地に濃淡の彩色を施す技法が使われていて、1枚のサイズはおよそ縦40cm×横30cm。モデルの人物は一人一人が強い個性を放っている。描かれているのは1789(寛政1)年、アイヌの人びとが幕府や商人たちの圧制に堪えかねて蜂起した「クナシリ・メナシの戦い」の際に、松前藩が鎮圧のため武力などを背景に協力させたアイヌの有力者たち。この戦いの翌年、松前藩主・道廣は、波響に命じて彼らを描かせた。
 波響は松前家の生まれだが、家老の蠣崎家に跡継ぎがなかったため養子となり、生涯家臣として藩を支えた。藩主の道廣は異母兄に当たる。幼少のころから画才が認められ、叔父の勧めで浮世絵や漢詩など、さまざまな文化が花開く江戸へ出て、絵師の建部綾足(あやたり)や宋紫石(そうしせき)、後に大原呑響からも絵を学んだ。また、詩人としても優れた作品を残している。
 「夷酋列像」を完成して以降、他藩の絵師によって模写されるほど、波響の名声は京都や江戸の文化人に瞬く間に広まった。一方松前家は、北方の警備体制について幕府から疑念を抱かれ、1807(文化4)年に奥州梁川(やながわ)へ領地替えとなってしまう。この時波響は大名などからの注文に応じて大量の絵を描いてはその代金で藩の財政を支え、1821(文政4)年、松前家は奥州梁川から旧領松前への復領を果たした。
 晩年の波響は60歳で職を退き、花鳥風月を愛し、好きな絵を描き続けた。かつて京都では円山応挙に学び、酒井抱一、松村呉春、村上東洲らと交遊した波響は、豊かな画風を確立していた。人柄は温かく、野菜を届けてくれた農家へのお礼に、扇面に絵を描いて感謝の気持ちを伝えたという。
 そして一番下に「夷酋列像」が小さな写真で紹介されていたのですが…どこかで見たことがあるぞ。そうだ! 「週刊朝日百科 日本の歴史」で見た覚えがある。不敵な面構えをしたアイヌの長の全身像、今でも網膜に焼きついて忘れられない絵です。ちなみに今、確認したところ、中世Ⅱ‐④「海 環シナ海と環日本海」(p.5-125)に掲載されています。ただし「市立函館図書館蔵」と記してあるので、模写のようですね。その「夷酋列像」のオリジナルが里がえりして今年の4月にオープンした北海道博物館で展示されているとのことです。へえー、見てみたいなあ、でもマニアックな絵だしなあ、山ノ神が同意してくれるかなあ、と二の足を踏んでしまいました。
 ところが天は私を見離さず、札幌のホテルで、朝に放映された「日曜美術館」(だったと思いますが)でこの絵が紹介されたのです。「すごい絵ねえ」と感心する山ノ神、やった、さっそく機内誌で仕込んだ知識を伝授、彼女もいたく興味をもったようで、本日の午後に余市から戻った後に北海道博物館を訪れることになりました。すぐにフロントに行ってインターネットで所在地とアクセスを確認、「北海道開拓の村」の近くなので何とかなりそうです。
 午前中にニッカウヰスキー余市蒸留所を見物。そして様々な悲劇や喜劇やすったもんだがあったのですが、それは後日に上梓するとして、北海道博物館に辿り着けました。予想以上の混雑でしたが入場制限もなく、じっくりと拝見することができました。前述のように、「クナシリ・メナシの戦い」の際に、松前藩が鎮圧のため武力などを背景に協力させたアイヌの有力者たちの肖像です。威風堂々とした風貌、頑強な体躯、鋭い眼光、豪華な蝦夷錦、思い思いのポーズをとる十二人の長たちとのご対面です。弓をひくシモチ、槍をもつイコトイ、鹿を背負うノチクサ、犬を連れたポロヤ、子熊を連れたイニンカリ、巨躯のツキノエ… その圧倒的な存在感を、あますところなく活写した波響の筆の冴えにも脱帽。そして何よりも胸を打たれたのは、アイヌに対する畏敬の念が絵にほとばしっていることです。未開な民族として侮蔑し見下す視線は、片鱗も感じられません。彼らを頤使した松前藩の威光を世に知らしめるために、実見以上に立派に描いた可能性もあるでしょうが、絵を見ているととてもそうは思えません。アイヌたちを対等な人間として描ききった波響に敬意を表したいと思います。ほんとに見にきてよかった。

 なお気になる点がひとつあります。実は2013年に納沙布岬を訪れたときに、「寛政の蜂起和人殉難墓碑」という碑に出会いました。碑文を転記します。
 寛政元(1789)年5月、国後島とメナシ(現在の標津町付近)のアイヌの人々が、当時この地域の場所請負人であった飛騨屋久兵衛の支配人らに脅かされて、僅かな報酬で労働を強いられ、やむなく蜂起し和人七十一人を殺害した。
 松前藩は、ノッカマップ(根室半島オホーツク海側)にアイヌの人々を集め蜂起の指導者三十七人を処刑した。このできごとは、"寛政クナシリ・メナシアイヌ蜂起"と称されている。
 この墓碑は、死亡した和人七十一人の供養のために文化9(1812)年に造られたと刻まれているが、誰がどこで造り、どこに建立しようとしたか、なぜ浜に打ちあげられていたかは、明らかではない。おそらく海上輸送の途中で船が難破し海中に没していたものと推定される。
 それが、造られてから丁度百年後の明治45年、納沙布岬に近い珸瑤琩の港で発見され、現地墓地入口に建立されていたが、昭和43年、国後島を望むこの地に移設したもので、当時の歴史を物語る重要な史跡である。
 この「クナシリ・メナシの戦い」については、観光案内所でもらったパンフレットに詳しい説明がありましたので、こちらも紹介します。
 蜂起直前のクナシリ・メナシ地方のアイヌたちは、過酷で強制的に働かされ続け、さらに番人の暴力、脅迫が続き、いつ何が起こっても不思議ではないという状況となっていました。そんな中、1789年(寛政元年)に国後島のサンキチが病気になり、和人から酒をもらって飲んだところ死んでしまいました。その後サンキチの弟マメキリの妻が和人から食べ物をもらい食べたら死亡し、アイヌの人々は毒殺されたと思い、国後や対岸の目梨(標津付近)にいた飛騨屋の家人や松前藩の役人達を次々に殺しました。蜂起したアイヌの人々は130人、殺された和人は71人にのぼりました。
 これを知った松前藩は260人の侍をノサップ岬に近いノツカマップに派遣しました。ノツカマップの大首長シヨンコやクナシリの大首長ツキノエ、アッケシの大首長イコトイらが松前藩に協力的であったため、松前藩との前面衝突は避けられましたが、戦いに関わった指導者ら37人がノツカマップで処刑されました。
 そう、どう見ても非は和人のほうにあります。しかしツキノエ、イコトイら大首長たちは松前藩に協力して仲間を見殺しにしてしまった。犠牲を最小限にするための苦渋の選択だったのか、松前藩による狡知なdivide et impera(分割統治)策によるものなのか、あるいは自己の利益のためにすすんで走狗となったのか。絵に描かれた、一抹の翳りのない威風堂々とした姿の内には、どのような思いがあったのでしょうか。気になるところです。
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by sabasaba13 | 2015-11-08 06:24 | 美術 | Comments(0)

尾形乾山展

c0051620_1871161.jpg ある日ある時、どこからともなく山ノ神が「着想のマエストロ 乾山見参!」という展覧会の招待状をもらってきました。"倒るる所に土を掴め"を座右の銘とする山ノ神に強力に誘われ、サントリー美術館に参ることにしました。尾形乾山か、光琳の弟、ユニークな意匠の器をつくった陶工、晩年は江戸の入谷に住んだ、くらいのことしか思い浮かばない無学な私。乾山の器を見たことがないので楽しみです。さて尾形乾山とは何者か、スーパーニッポニカ(小学館)から引用します。
尾形乾山 (1663‐1743) 江戸中期の陶芸家、画師。
 京都屈指の呉服商雁金屋(かりがねや)尾形家の三男として生まれる。名は深省。権平、惟允とも称した。尾形光琳は彼の次兄である。富裕な商家に育ちながら2人とも商人にはならず、もっぱら文化的な素養を身につけ、自由な生活を楽しんだ。1689年(元禄2)27歳のとき乾山は洛西双ヶ岡に習静堂という一書屋を構えて文人生活に入っている。近くに高名な野々村仁清が活躍する御室焼があり、この窯に遊ぶうちに陶工になる決意を固め、99年に2代仁清より陶法の秘伝を受け、近くの鳴滝泉谷に窯を築いて本格的な製陶生活に入った。この窯が京都の乾(いぬい)の方角にあたるため「乾山」を窯の名につけ、その製品の商標、さらに彼自身も雅号に用いている。
 乾山は仁清に技術を学びながら、その様式を継承することをせず、兄光琳の創始した琳派とよばれる復興大和絵の画風をみごとに意匠化することに成功し、一家をなすことができた。白化粧地に鉄絵や染付を使って表す装飾画風はまことに雅趣に満ち、瀟洒な作風は個性に輝いており、製品には師のかわりに「乾山」と筆で自署するのも画師と同じ芸術家意識を表している。
 1712年(正徳2)に鳴滝から市中の二条丁字尾町に窯を移した時期から、彼の作陶は第二期に入るが、16年(享保1)に絵付に参画した光琳が死亡したころは、陶業は不振をきたしたといえる。しかし彼の遺品をみると、得意とする白化粧地鉄絵、染付のほか、色絵にも新機軸を生み出し、中国、朝鮮、オランダの陶芸を模倣し、京都では初めて磁器を焼出するなど、彼ほど新技術の進取に取り組んだ陶工も少ない。その意欲的な精神は75歳の37年(元文2)に著した『陶工必用』に横溢している。享保(1716~36)の中ごろに江戸に赴き、晩年はこの地で送り、寛保3年6月2日、81歳で没したが、晩境にあっては絵画に名作を多く残し、「京兆」「平安城」を冠称して「紫翠深省」と自署し、自ら京都文化の保持者であることを誇示した。
 都営12号線の六本木駅からとことこ歩いて「東京ミッドタウン」とやらに到着。こんなに物をつくって売って買って捨てまた売って買わなければ経済は発展しないのかと絶望するくらい、わけのわからない虚飾に満ちたお店が乱立する中を息を止めて足早に通り過ぎ、三階のサントリー美術館に辿り着きました。年配のご婦人を中心にけっこう混雑していますが、忍耐できないほどではありません。いざ拝見いたしましょう(ロハだし)。
 まずは"乾山への道-京焼の源流と17世紀の京都"というコーナーでは、乾山を育んだ17世紀京都における町衆の美意識が紹介されていました。本阿弥光悦の「赤樂茶碗 銘 熟柿」の高台を呑み込むようなもっこりとしたふくよかな佇まいには思わず緩頬。俵屋宗達の料紙に光悦の書という豪華なコラボレーションにも目を奪われました。いやあいきなり眼福ですね。
 そして"乾山颯爽登場-和・漢ふたつの柱と大平面時代"、いよいよ乾山の登場です。鳴滝窯で作られた角皿は、まるで器という四角いキャンバスに描かれた絵画。着想の妙ですね。兄・光琳との合作にもお目にかかれましたが、文人画を思わせる軽妙洒脱な絵はなかなか魅力的です。私が気に入ったのは「色絵桔梗盃台」、盃を並べて置くための台ですが、綺麗な桔梗の花弁をあしらった鍔が裾広がりの円筒につけられており、その配色と形状のユニークさには脱帽です。
 "「写し」-乾山を支えた異国趣味"コーナーでは、海外陶磁の「写し」を展示していました。解説によると、中国・東南アジア・ヨーロッパなどの舶来品を珍重する文化人向けに売るための器で、乾山窯を経済的に支えた主力商品だそうです。中国、安南、はてはオランダのデルフト焼(「染付阿蘭陀草花文向付」)まで摸 した、実利を兼ねた旺盛な好奇心と探求心を感じました。
そして本展覧会の白眉、"蓋物の宇宙-うつわの中の異世界"です。紹介文を引用しましょう。
 鳴滝の窯では角皿類や写し物をはじめ、多種多様のうつわが作られていましたが、その中でも特に個性的なのが「蓋物」です。丸みを帯びた柔らかな造形は、籠や漆器に着想を得たと言われています。
 この蓋物に共通して表されるのが、外側の装飾的な世界と対照をなす内側のモノトーン空間です。それはさながら蓋を開けて初めて明らかとなる「異世界」。この世ならざる世界の扉を開けてしまうこのうつわは、未知の体験へ誘う一大イベントを演出したことでしょう。そう、乾山はこの蓋物でひとつの「宇宙」を作り出してしまったのです。
 いやはや、「銹絵染付金銀白彩松波文蓋物」には参りました。蓋には、白・金・銀で松が描かれていますが、思い切りデフォルメされ、まるで生きているかのように蠢いています。その銹色の余白とのバランスの妙も素晴らしいですね。そして内側はモノトーンに描かれた、静かにたゆたう波文。「白泥染付金彩芒文蓋物」も凄い。蓋には、白泥・マンガン呉須に金彩を施した芒が自由闊達・天衣無縫に描かれ、まるでジャクソン・ポロックの絵のようです。そして内側には肉太の筆致で描かれた花入四方襷文、外と内の対比の妙が素晴らしい。
 次の"彩りの懐石具-「うつわ」からの解放"コーナーも劣らずに見事でした。紹介文を引用します。
 乾山は正徳2年(1712)、鳴滝から京都市中の二条丁子屋町に移転し、懐石具を多く手掛けるようになります。懐石具自体は鳴滝時代から作られていましたが、時はまさに京焼全体が飲食器の量産に向かっていた時代。乾山も競合ひしめくこの分野で、果敢に勝負に出たのでした。
 ここで乾山最大の武器となったのは琳派風の文様や文学意匠に基づく斬新なデザインです。文様の輪郭に縁取られた向付、内側・外側の境界を超えて、水流が駆け巡る一瞬を取り出したかのような反鉢など、立体と平面の交叉するその着想は、現代の私たちが見ても遊び心にあふれ、新しく見えるものばかりです。
 こうして乾山は「うつわ」の枠にとらわれない彩り豊かな懐石具で成功を収めたのです。
 菊や楓を大胆にあしらった五客ワンセットの「色絵菊図向付」や「色絵龍田川図向付」は、乾山の遊び心に満ちた向付です。山ノ神のご教示によると、向付(むこうづけ)とは、膾(なます)や酒の肴を盛りつける小皿だそうです。中でも私が気に入った一品は「夕顔図黒茶碗」。深みのある漆黒に浮かび上がる二輪の夕顔。その愛らしさとあたたかさに、しばし時を忘れて見惚れてしまいました。

 というわけで、尾形乾山の魅力を堪能できた、素晴らしい展覧会でした。安倍伍長を筆頭に、「今だけ」「金だけ」「自分だけ」のことしか考えない恥知らず・嘘つき・人でなしが各界で跳梁跋扈する日本。絶望する気は毛頭ありませんがちょっと気が滅入っていたこの頃、一服の清涼剤を味わえて幸せです。
by sabasaba13 | 2015-07-26 18:08 | 美術 | Comments(0)