カテゴリ:関東大震災と虐殺( 49 )

関東大震災と虐殺 49

 折口信夫の『砂けぶり』です。
砂けぶり 一

夜になつた―。
また 蝋燭と流言の夜だ。
まつくらな町を 金棒ひいて
夜警に出るとしよう

かはゆい子どもが―
大道で ぴちやぴちやしばいて居た。
あの音―。
不逞帰順民の死骸の―。

おん身らは 誰をころしたと思ふ。
陛下のみ名において―。
おそろしい呪文だ。
陛下万歳 ばあんざあい

砂けぶり 二

焼け原に 芽を出した
ごふつくばりの力芝め
だが きさまが憎めない
たつた 一かたまりの 青々した草だもの

両国の上で、水の色を見よう。
せめてものやすらひに―。
身にしむ水の色だ。
死骸よ。この間、浮き出さずに居れ

水死の女の印象
黒くちゞかんだ藤の葉
よごれ朽つて静かな髪の毛
―あゝ そこにも こゝにも

横浜からあるいて来ました。
疲れきつたからだです―。
そんなに おどろかさないでください。
朝鮮人になつちまひたい気がします

深川だ。
あゝ まつさをな空だ―。
野菜でも作らう。
この青天井のするどさ。

夜になつた―。
また 蝋燭と流言の夜だ。
まつくらな町で金棒ひいて
夜警に出掛けようか

井戸のなかへ
毒を入れてまはると言ふ人々―。
われわれを叱つて下さる
神々のつかはしめだらう

かはゆい子どもが―
大道で しばつて居たつけ―。
あの音―。
帰順民のむくろの―。

命をもつて目賭した
一瞬の芸術
苦痛に陶酔した
涅槃の大恐怖

おん身らは誰をころしたと思ふ。
かの尊い御名において―。
おそろしい呪文だ。
万歳 ばんざあい

我らの死は、
涅槃を無視する―。
擾乱の歓喜と
飽満する痛苦と

by sabasaba13 | 2017-12-14 06:31 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 48

 芥川龍之介の『大震雑記』。[五]のみ引用します。
 僕は善良なる市民である。しかし僕の所見によれば、菊池寛はこの資格に乏しい。
 戒厳令の布かれた後のち、僕は巻煙草を啣へたまま、菊池と雑談を交換してゐた。尤も雑談とは云ふものの、地震以外の話の出た訣ではない。その内に僕は大火の原因は○○○○○○○○さうだと云つた。すると菊池は眉を挙げながら、嘘だよ、君」と一喝した。僕は勿論さう云はれて見れば、「ぢや嘘だらう」と云ふ外ほかはなかつた。しかし次手にもう一度、何でも○○○○はボルシエヴイツキの手先ださうだと云つた。菊池は今度は眉を挙げると、「嘘さ、君、そんなことは」と叱りつけた。僕は又「へええ、それも嘘か」と忽ち自説(?)を撤回した。
 再び僕の所見によれば、善良なる市民と云ふものはボルシエヴイツキと○○○○との陰謀の存在を信ずるものである。もし万一信じられぬ場合は、少くとも信じてゐるらしい顔つきを装はねばならぬものである。けれども野蛮なる菊池寛は信じもしなければ信じる真似まねもしない。これは完全に善良なる市民の資格を放棄したと見るべきである。善良なる市民たると同時に勇敢なる自警団の一員たる僕は菊池の為に惜をしまざるを得ない。
尤もつとも善良なる市民になることは、――兎に角苦心を要するものである。
 芥川龍之介の作品をもう一つ、「或自警団員の言葉」です。これは「侏儒の言葉」中の一編として、いったん雑誌に発表しましたが、単行本にまとめる際に筆者が削除したものです。なお最近入手した古本『或阿呆の一生・侏儒の言葉』(角川文庫 1969年)には収録されていました。
 さあ、自警の部署に就かう。今夜は星も木木の梢に涼しい光を放つてゐる。微風もそろそろ通ひ出したらしい。さあ、この籐の長椅子に寝ころび、この一本のマニラに火をつけ、夜もすがら気楽に警戒しよう。もし喉の渇いた時には水筒のウイスキイを傾ければ好い。幸ひまだポケツトにはチヨコレエトの棒も残つてゐる。
 聴き給へ、高い木木の梢に何か寝鳥の騒いでゐるのを。鳥は今度の大地震にも困ると云ふことを知らないであらう。しかし我我人間は衣食住の便宜を失つた為にあらゆる苦痛を味はつてゐる。いや、衣食住どころではない。一杯のシトロンの飲めぬ為にも少からぬ不自由を忍んでゐる。人間と云ふ二足の獣は何と云ふ情けない動物であらう。我我は文明を失つたが最後、それこそ風前の燈火のやうに覚束おぼつかない命を守らなければならぬ。見給へ。鳥はもう静かに寝入つてゐる。羽根蒲団や枕を知らぬ鳥は!
 鳥はもう静かに寝入つてゐる。夢も我我より安らかであらう。鳥は現在にのみ生きるものである。しかし我我人間は過去や未来にも生きなければならぬ。と云ふ意味は悔恨や憂慮の苦痛をも嘗めなければならぬ。殊に今度の大地震はどの位我我の未来の上へ寂しい暗黒を投げかけたであらう。東京を焼かれた我我は今日の餓に苦しみ乍ながら、明日の餓にも苦しんでゐる。鳥は幸ひにこの苦痛を知らぬ、いや、鳥に限つたことではない。三世の苦痛を知るものは我我人間のあるばかりである。
 小泉八雲は人間よりも蝶になりたいと云つたさうである。蝶――と云へばあの蟻を見給へ。もし幸福と云ふことを苦痛の少ないことのみとすれば、蟻も亦我我よりは幸福であらう。けれども我我人間は蟻の知らぬ快楽をも心得てゐる。蟻は破産や失恋の為に自殺をする患はないかも知れぬ。が、我我と同じやうに楽しい希望を持ち得るであらうか? 僕は未だに覚えてゐる。月明りの仄めいた洛陽の廃都に、李太白の詩の一行さへ知らぬ無数の蟻の群を憐んだことを!
 しかしシヨオペンハウエルは、――まあ、哲学はやめにし給へ。我我は兎に角あそこへ来た蟻と大差のないことだけは確かである。もしそれだけでも確かだとすれば、人間らしい感情の全部は一層大切にしなければならぬ。自然は唯冷然と我我の苦痛を眺めてゐる。我我は互に憐まなければならぬ。況や殺戮を喜ぶなどは、――尤も相手を絞め殺すことは議論に勝つよりも手軽である。
 我我は互に憐まなければならぬ。シヨオペンハウエルの厭世観の我我に与へた教訓もかう云ふことではなかつたであらうか?
 夜はもう十二時を過ぎたらしい。星も相不変頭の上に涼しい光を放つてゐる。さあ、君はウイスキイを傾け給へ。僕は長椅子に寝ころんだままチヨコレエトの棒でも囓ぢることにしよう。

by sabasaba13 | 2017-12-12 06:28 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 47

 寺田寅彦は、『流言蜚語』の中で科学的・論理的な批判を行なっています。
 長い管の中へ、水素と酸素とを適当な割合に混合したものを入れておく、そうしてその管の一端に近いところで、小さな電気の火花を瓦斯の中で飛ばせる、するとその火花のところで始まった燃焼が、次へ次へと伝播して行く、伝播の速度が急激に増加し、遂にいわゆる爆発の波となって、驚くべき速度で進行して行く。これはよく知られた事である。
 ところが水素の混合の割合があまり少な過ぎるか、あるいは多過ぎると、たとえ火花を飛ばせても燃焼が起らない。尤も火花のすぐそばでは、火花のために化学作用が起るが、そういう作用が、四方へ伝播しないで、そこ限りですんでしまう。
 流言蜚語の伝播の状況には、前記の燃焼の伝播の状況と、形式の上から見て幾分か類似した点がある。
 最初の火花に相当する流言の「源」がなければ、流言蜚語は成立しない事は勿論であるが、もしもそれを次へ次へと受け次ぎ取り次ぐべき媒質が存在しなければ「伝播」は起らない。従っていわゆる流言が流言として成立し得ないで、その場限りに立ち消えになってしまう事も明白である。
 それで、もし、ある機会に、東京市中に、ある流言蜚語の現象が行われたとすれば、その責任の少なくも半分は市民自身が負わなければならない。事によるとその九割以上も負わなければならないかもしれない。何とならば、ある特別な機会には、流言の源となり得べき小さな火花が、故意にも偶然にも到る処に発生するという事は、ほとんど必然な、不可抗的な自然現象であるとも考えられるから。そしてそういう場合にもし市民自身が伝播の媒質とならなければ流言は決して有効に成立し得ないのだから。
 「今夜の三時に大地震がある」という流言を発したものがあったと仮定する。もしもその町内の親爺株の人の例えば三割でもが、そんな精密な地震予知の不可能だという現在の事実を確実に知っていたなら、そのような流言の卵は孵化らないで腐ってしまうだろう。これに反して、もしそういう流言が、有効に伝播したとしたら、どうだろう。それは、このような明白な事実を確実に知っている人が如何に少数であるかという事を示す証拠と見られても仕方がない。

 大地震、大火事の最中に、暴徒が起って東京中の井戸に毒薬を投じ、主要な建物に爆弾を投じつつあるという流言が放たれたとする。その場合に、市民の大多数が、仮りに次のような事を考えてみたとしたら、どうだろう。
 例えば市中の井戸の一割に毒を投ずると仮定する。そうして、その井戸水を一人の人間が一度飲んだ時に、その人を殺すか、ひどい目に逢わせるに充分なだけの濃度にその毒を混ずるとする。そうした時に果してどれだけの分量の毒薬を要するだろうか。この問題に的確に答えるためには、勿論まず毒薬の種類を仮定した上で、その極量を推定し、また一人が一日に飲む水の量や、井戸水の平均全量や、市中の井戸の総数や、そういうものの概略な数値を知らなければならない。しかし、いわゆる科学的常識というものからくる漠然とした概念的の推算をしてみただけでも、それが如何に多大な分量を要するだろうかという想像ぐらいはつくだろうと思われる。いずれにしても、暴徒は、地震前からかなり大きな毒薬のストックをもっていたと考えなければならない。そういう事は有り得ない事ではないかもしれないが、少しおかしい事である。
 仮りにそれだけの用意があったと仮定したところで、それからさきがなかなか大変である。何百人、あるいは何千人の暴徒に一々部署を定めて、毒薬を渡して、各方面に派遣しなければならない。これがなかなか時間を要する仕事である。さてそれが出来たとする。そうして一人一人に授けられた缶を背負って出掛けた上で、自分の受持方面の井戸の在所を捜して歩かなければならない。井戸を見付けて、それから人の見ない機会をねらって、いよいよ投下する。しかし有効にやるためにはおおよその井戸水の分量を見積ってその上で投入の分量を加減しなければならない。そうして、それを投入した上で、よく溶解し混和するようにかき交ぜなければならない。考えてみるとこれはなかなか大変な仕事である。
 こんな事を考えてみれば、毒薬の流言を、全然信じないとまでは行かなくとも、少なくも銘々の自宅の井戸についての恐ろしさはいくらか減じはしないだろうか。
 爆弾の話にしても同様である。市中の目ぼしい建物に片ッぱしから投げ込んであるくために必要な爆弾の数量や人手を考えてみたら、少なくも山の手の貧しい屋敷町の人々の軒並に破裂しでもするような過度の恐慌を惹き起さなくてもすむ事である。
 尤も、非常な天災などの場合にそんな気楽な胸算用などをやる余裕があるものではないといわれるかもしれない。それはそうかもしれない。そうだとすれば、それはその市民に、本当の意味での活きた科学的常識が欠乏しているという事を示すものではあるまいか。

 科学的常識というのは、何も、天王星の距離を暗記していたり、ヴィタミンの色々な種類を心得ていたりするだけではないだろうと思う。もう少し手近なところに活きて働くべき、判断の標準になるべきものでなければなるまいと思う。
 勿論、常識の判断はあてにはならない事が多い。科学的常識は猶更である。しかし適当な科学的常識は、事に臨んで吾々に「科学的な省察の機会と余裕」を与える。そういう省察の行われるところにはいわゆる流言蜚語のごときものは著しくその熟度と伝播能力を弱められなければならない。たとえ省察の結果が誤っていて、そのために流言が実現されるような事があっても、少なくも文化的市民としての甚だしい恥辱を曝す事なくて済みはしないかと思われるのである。(大正13[1924]年9月) 『天災と国防』(講談社学術文庫) p.125~129

by sabasaba13 | 2017-12-10 07:42 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 46

 次に、『女工哀史』を書いた細井和喜蔵の妻・高井としをの自伝です。『わたしの「女工哀史」』(岩波文庫)から引用します。
 二日目の夕方にアパートへ帰り、お米も残っていたのでご飯を炊き、塩をつけておにぎりをつくり、夜は元のハス池のところへもどり、野宿をしました。三、四日目ころから、朝鮮の人をつかまえて小松川の方へ連れて行くのを見ました。朝鮮人が井戸へ毒を入れたなぞといっているのをききました。在郷軍人だか右翼だか警官だか、その時はわかりませんでした。多い時には朝鮮の人を二十人、三十人ぐらいずつ麻のひもでじゅずつなぎにして、木刀や竹刀でなぐりながら、小松川の方へ連れて行くのを見ました。池のなかへ逃げ込んだ朝鮮の人が、大きなハスの葉の下へもぐっているのを見て、ほんとうにお気の毒で言葉もでませんでした。見かねてにぎりめしと水を少しあげたら、手をあわせておがんでおられましたが、恐ろしいことでした。(p.80)

 七日目ぐらいになると余震も少し間をあけるようになり、アパートへ帰ろうかと思っている時でした。細井の友人で、同人誌に詩を書いている山本忠平さんが、坊主頭で紺の印ばんてんに縄帯姿で現われました。「君たち、こんなところでなにしていたのか。早く逃げないと殺されるぞ。南葛労働組合の執行部は全員殺された。僕も今から田舎へ行く。とにかく早く逃げろ。アパートへ荷物をとりに行ったらつかまるぞ」といって、お別れしたのです。(p.81)
 映画監督の黒澤明も、自伝『蝦蟇の油』(岩波現代文庫)の中でこう回想しています。
 町内の家から一人ずつ、夜番が出ることになったが、兄は鼻の先で笑って、出ようとしない。
 仕方がないから、私が木刀を持って出ていったら、やっと猫が通れるほどの下水の鉄管の傍へ連れていかれて、立たされた。
 ここから朝鮮人が忍びこむかも知れない、と云うのである。
 もっと馬鹿馬鹿しい話がある。
 町内のある井戸水を、飲んではいけないと云うのだ。
 何故なら、その井戸の外の塀に、白墨で書いた変な記号があるが、あれは朝鮮人が井戸へ毒を入れたという目印だと云うのである。
 私は惘れ返った。
 何をかくそう、その変な記号というのは、私が書いた落書だったからである。
 私は、こういう大人達を見て、人間というものについて、首をひねらないわけにはいかなかった。(p.94~5)
 萩原朔太郎は「近日所感」という詩をのこしました。
 朝鮮人あまた殺され
 その血百里の間に連なれり
 われ怒りて視る、何の惨虐ぞ (『現代』1924(大正13)年2月号)

by sabasaba13 | 2017-12-08 06:25 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 45

 非戦・平和・信仰の自由を訴え続けたキリスト教思想家・柏木義円の舌鋒は鋭いです。
 …流言蜚語の馬鹿らしさ苟くも健全なる頭脳の持主の信ず可き事柄にては無之… (④p.114)

 …早晩其真相を明かにして此妄想を一掃不致し永く何時迄も臭い物に蓋致し、有耶無耶に致置候ては後に大害を貽(のこ)すことゝ存候。流言蜚語の出所に想到候時は戦慄を禁じ兼候。(④p.114)

◎殺す勿れ
 今回の大震災秩序混乱の際に乗じ幾多の乱暴が行はれたが世に火事場泥棒と云ふこともあれば、其間に強盗窃盗強迫放火等が行はれても浜の真砂の数多き横着者の絶へない間は亦止むを得ないことであろう。併し亀戸事件や甘粕事件其他どさくさ紛れに世に知られずして闇から闇に葬り去られたる此種類似の事や、鮮人虐殺事件等に至つては国家の為め社会の為めと云ふ名を以て官憲や良民が之を為し、一部社会が之を是認し少くとも之に共鳴同情するのだからこれ実に由々敷一大事で軽々に看過す可きではない。此は軍隊教育の余毒、偏狭なる国家主義教育の余弊、軍国主義の悪影響であることは勿論であらうが、去るにても今回虐殺事件の被告が、私の為に殺したのではなく国の為めとか世の為めとか思つて殺したのだから寧ろ褒められさうなもの、さうでなくともドサクサ紛れにやつたのだから大目に見て置かれさうなものを意外にも検挙されたのは馬鹿を見た、こんなことなら無駄骨折な、せねばよかつた位の後悔で無辜の人を殺して済まなかつたとの、良心に由れる本当の悔改らしきものゝ見へないのは、日本人は本当に人の生命の貴いことを知らないのであるが、これは国民教育=国民性の大欠陥と謂はねばなるまい一派の徒は自警団の殺人暴行を剛健の気象の発露とか、尚武の精神とか云ふて喜んで居る。此れ吾人が今特に此題を掲げて論ずる所以である。(『上毛教界月報』 1923.12.15) (④p.115~6)
 そして布施辰治とともに国家権力と闘った弁護士、山崎今朝弥の文章です。『地震・憲兵・火事・巡査』(岩波文庫)から引用します。
 僕のここで是非言って見たい事は、あの地震と火事は、どうして何処から起ったものか、それはどうしても防げなかったものか。その時の流言蜚語はどこから降って何処から湧いたか。戒厳令は果して当を得た処置であったか、その功罪は果してどうであったか。鮮人問題と支那人問題、附たり過激派と社会主義者。大災に発露した無産者の人情美、それに付けても有産者には人情があるものか。知識階級とは無識者の謂か。新聞社の見識のない事と意気地のない事。国士どころか豆粕にも到らぬ軍人の粕、人間の粕。(p.220)

 ただでさえ気が荒み殺気が立って困っている処へ、剣突鉄砲肩にしてのピカピカ軍隊に、市中を横行闊歩されたでは溜ったものでない。戒厳令と聞けば人は皆ホントの戒厳と思う。ホントの戒厳令は当然戦時を想像する。無秩序を連想する、切捨て御免を観念する。当時一人でも、戒厳令中人命の保証があるなど信じた者があったろうか。何人といえども戒厳中は、何事も止むを得ないと諦めたではないか。(p.223)

 実に当時の戒厳令は、真に火に油を注いだものであった。何時までも、戦々恟々たる民心を不安にし、市民をことごとく敵前勤務の心理状態に置いたのは慥かに軍隊唯一の功績であった。(p.223)

 軍閥者流は折角失墜した、その信用と威光を再び回復するため軍略的に仮想敵国を設けて人心を緊張せしめ、変乱を未発に防いだ功を独擅し、以て民心を収攬し、気を軍閥に傾けしめんと企んだのである。(p.225~6)

 日本人にはナゼ愛国心のある奴が一人もないか、ナゼ目先の見える者がないか、ナゼ遠大の勘定を知らないか、ナゼ早く悪い事は悪いと陳謝ってしまわないか。当時の詔勅を読むがよい、日韓併合は日本ばかりのためではなかった。単なる領土拡張のためにする帝国主義から来たものでもなかった。民法でも府県制でも、果たまた市町村制でも読んで見るがよい、自治も独立も意味は同じで異なる事はない。鮮人問題解決の唯一の方法は、早く個人には充分損害を払い、民族には直ちに自治なり独立なりを許し、以て誠心誠意、低頭平心、慰藉謝罪の意を表するより外はない。(p.234~5)

 一つの悪事を隠蔽するためには幾つも悪事を犯さねばなりません。(p.241)

 今、日本が米国に併呑され、米国人が日本及び日本人を軽蔑しまたは虐待するなら、僕はキットその時、日本の独立運動に狂奔するに相違ない。印度や愛蘭以上の深刻激烈なものであるに相違ない。そうして、先ず第一に独立運動を愛国主義だのと嘲笑する日本人に向かって、生命がけの戦争を開始するに相違ない。解放運動があらゆる桎梏から逃れることが目的である以上民族的隷属に基づく軽蔑や虐待からも解放さるべく、先ず独立運動を捲き起すのは当然だ。僕は今朝鮮問題を考えて真に「自分を抓って人の痛さを知れ」ということをシミジミ日本人として感ずる。(p.276)

 過般の震火災に際し行われたる鮮人に関する流言蜚語については、実に日本人という人種はドコの成り下りか知らないが、実に馬鹿で臆病で人でなしで、爪のアカほどの大和魂もない呆れた奴だと思いました。その後のことは切歯痛憤身震いがします。(p.277)

 吾々は昨年九月の震災を、この一周年に当り如何に記念すべきか、という『読売新聞』の課題に対し、選外壱等に当選さるべきものとして大正十三年八月一日書いた原稿。
(一) 朝鮮人の殺された到る処に鮮人塚を建て、永久に悔悟と謝罪の意を表し、以て日鮮融和の道を開くこと。しからざる限り日鮮親和は到底見込みなし。
(二) 司令官本部に宗一地蔵を建立し、永遠に無智と無謀と幼児の冥福とを祈り、以て排日問題の根本口実を除去すること。米国排日新聞の日本に対する悪口はことごとくこれに原因すればなり。
(三) セッテンデーもしくは亀戸労働祭を挙行し、亀戸警察で軍隊の手に殺された若い労働者の魂を猛烈に祭ること。日本の労働者だからよいようなものの、噴火口を密閉したのみで安泰だと思ってるは馬鹿の骨頂だ。何時か一時に奮然として爆裂するは当然過ぎるほど当然である。(p.278)

by sabasaba13 | 2017-12-06 06:29 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 44

 徳富蘇峰が『国民新聞』(1923.9.29)に掲載した「流言飛語」です。
 流言飛語は、専制政治の遺物。支那、朝鮮に従来有り触れたる事也。蝙蝠は暗黒界に縦横す。吾人は青天白日に、蝙蝠の飛翔するを見ず。
 公明正大なる政治の下には所謂る処士横議はあり、所謂る街頭の輿論はあり。然も決して流言飛語を逞ふせんとするも、四囲の情態が、之を相手とする者なければ也。
 今次の震災火災に際して、それと匹す可き一災は、流言飛語災であつた。天災は如何ともす可らず。然も流言飛語は、決して天災と云ふ可らず。吾人は如上の二災に、更らに後の一災を加へ来りたるを、我が帝国の為めに遺憾とす。
 吾人は震災火災の最中に出て来りたる山本内閣に向て、直接に流言飛語の責任を問はんとする者でない。併し斯る流言飛語―即ち朝鮮人大陰謀―の社会の人心をかく乱したる結果の激甚なるを見れば残念ながら我が政治の公明正大と云ふ点に於て、未だ不完全であるを立証したるものとして、また赤面せざらんとするも能はず。
 既往は咎めても詮なし。せめて今後は我が政治の一切を硝子板の中に措く如く、明々白々たらしめよ。陰謀や、秘策にて、仕事をするは、旧式の政治たるを知らずや。
 蘇峰の弟・徳冨蘆花は、烏山での虐殺を聞き、随筆のなかでこう語っています。
 鮮人騒ぎは如何でした? 私共の村でもやはり騒ぎました。けたたましく警鐘が鳴り、「来たぞゥ」と壮丁の呼ぶ声も胸を轟かします。隣字の烏山では到頭労働に行く途中の鮮人を三名殺してしまいました。済まぬ事羞かしい事です。(『みみずのたはこと(下)』  岩波文庫 p.143)
 フランス駐日大使にして詩人でもあったポール・クローデルは、こう述べています。ちなみに彼は、彫刻家カミーユ・クローデルの弟ですね。
 災害後の何日かのあいだ、日本国民をとらえた奇妙なパニックのことを指摘しなければなりません。いたるところで耳にしたことですが、朝鮮人が火災をあおり、殺人や略奪をしているというのです。こうして人々は不幸な朝鮮人たちを追跡しはじめ、見つけしだい、犬のように殺しています。私は目の前で一人が殺されるのを見、別のもう一人が警官に虐待されているのを目にしました。宇都宮では16人が殺されました。日本政府はこの暴力をやめさせました。しかしながら、コミュニケのなかで、明らかに朝鮮人が革命家や無政府主義者と同調して起こした犯罪の事例があると、へたな説明をしています。(『孤独な帝国 日本の1920年代』 草思社)
 神楽坂における虐殺を目撃して衝撃を受けた中島健蔵(文芸評論家)は、『昭和時代』(岩波新書275)の中でこう述べています。
 現に知れわたっている関東大震災の悲劇は、大正、昭和にかけての日本残虐史の絵巻の中でも、ひときわ目立つ。わたくしは、ここに、もっとも大きな悲劇の出発点があったと認めるのである。法秩序を無視する残虐が公然とおこなわれ、甘粕一人をのぞいて、たれ一人直接の責任を問われなかったというような事態は、まさに、現代では大震災のときにはじまったと考えているからだ。
 わたくしは、警察署の板塀に張り出された布告を自分の目で見た。あんな布告が国家権力の末端の名において張り出されさえしなかったら、そしてむしろ逆に彼らがはじめから流言をおさえる方にまわっていたら、明らかに事態はちがったものになっていたはずである。(p.21)

 ここに、あのときの雰囲気の基盤があった。そして、その基盤は、さらに、国民大衆の中にあった雰囲気によって支えられていた。国家権力に対する盲従、新しいものに対する嫌悪、そして、「邪魔者は殺せ」という感情。これはもちろん、日本特有のものではない。しかし、もしも、もう少し大きな声で、もう少し大勢の人数で、この雰囲気をつぶすことができたら、日本の現代史は別のものになっていたはずである。(p.24)

by sabasaba13 | 2017-12-04 06:30 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 43

 この虐殺について、同時代人はどう見てどう考えたのでしょう。管見の限りですが、いくつか紹介したいと思います。

 まず内村鑑三です。9月22日の日記に、「民に平安を与ふる為の軍隊であると思へば、敬せざるべからず、愛せざるべからず」とあります。戒厳令と軍隊出動に感謝するとともに、自身も自警団に入って夜警を勤めています。(④p.113)

 田山花袋は、朝鮮人が追われて、花袋家の縁の下に逃げ込んだのを「引きずり出してなぐってやった」と語ったのを『中央公論』の編集者・木佐木勝氏が日記に記録しています。(④p.117)

 微妙なのが宮沢賢治です。当時賢治は、日蓮宗の立場から様々な改革を唱える田中智学に傾倒し、智学が主宰する国柱会の会員でした。ちなみに石原莞爾も会員でしたね。田中智学は、朝鮮人排撃を主張し「鮮人暴動」など無根の報道を流布する『天業民報』を発行していますが、賢治はそれを町の辻々に張りまわっています。彼自身が朝鮮人への排撃を主張した文章は発見されていませんが、不可解なことがあります。筑摩書房の全集(1995年)書簡の部で、1922(大正11)年から丸三年間の分が、そっくり抜けているそうです。この書簡の中に、謎を解く鍵があるのかもしれません。(④p.120~2)

 作家の志賀直哉は、「震災見舞」の中でこう書いています。
 軽井沢、日の暮れ。駅では乗客に氷の接待をしていた。東京では朝鮮人が暴れ廻っているというような噂を聞く。が自分は信じなかった。
松井田で、警官二三人に弥次馬十人余りで一人の朝鮮人を追いかけるのを見た。
「殺した」すぐ引き返して来た一人が車窓の下でこんなにいったが、あまりに簡単過ぎた。今もそれは半信半疑だ。
 高崎では一体の空気がひどく険しく、朝鮮人を七八人連れて行くのを見る。
 ………………………
 そして大手町で積まれた電車のレールに腰かけ休んでいる時だった。ちょうど自分の前で、自転車で来た若者と刺子を着た若者が落ち合い、二人は友達らしく立ち話を始めた。
 「―叔父の家で、俺が必死の働きをして焼かなかったのがある―」刺子の若者が得意気にいった。「―鮮人が裏へ廻ったてんで、すぐ日本刀を持って追いかけると、それが鮮人でねえんだ」刺子の若者は自分に気を兼ねちょっとこっちを見、言葉を切ったが、すぐ続けた。「しかしこういう時でもなけりゃあ、人間は殺せねえと思ったから、とうとうやっちゃったよ」二人は笑っている。ひどい奴だとは思ったが、平時(ふだん)そう思うよりは自分も気楽な気持ちでいた。
 ………………………
 鮮人騒ぎの噂なかなか烈しく、この騒ぎ関西にも伝染されては困ると思った。なるべく早く帰洛することにする。一般市民が朝鮮人の噂を恐れながら、一方同情もしていること、戒厳司令部や警察の掲示が朝鮮人に対して不穏な行いをするなという風に出ていることなどを知らせ、幾分でも起るべき不快(いや)なことを未然に避けることができれば幸いだと考えた。そういうことを柳(※宗悦)にも書いてもらうため、Kさんに柳のところにいってもらう。
 反骨のジャーナリスト・宮武外骨が書いた「日鮮不融和の結果」です。(『震災画報』より ちくま学芸文庫)
 今度の震災当時、最も痛恨事とすべきは鮮人に対する虐遇行為であった。
その誤解の出所は不明としても、不逞漢外の鮮人を殺傷したのは、一般国民に種族根性の失せない人道上の大問題である。
 要は官僚が朝鮮統治政策を誤っている余弊であるにしても、我国民にも少し落ちついた人道思想があったならば、かほどまでには到らなかったであろう。
 根も葉もない鮮人襲来の脅しに愕いて、自警団が執りし対策は実に極端であった。誰何して答えない者を鮮人と認め、へんな姓名であると鮮人と認め、姓名は普通でも地方訛りがあると鮮人と認め、訛りがなくても骨相が変っていると鮮人と認め、骨相は普通でも髪が長いから鮮人だろうと責め、はなはだしいのは手にビール瓶か箱をもっていると毒薬か爆弾を携帯する朝鮮人だろうとして糾問精査するなど、一時は全く気狂沙汰であった。
 北海道から来た人の話によると、東京から同地へ逃げた避難者は警察署の証明を貰いそれを背に張って歩かねば危険であったという。

by sabasaba13 | 2017-12-02 06:47 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 42

 そして周知のヘイトスピーチ。「ヘイトスピーチ 言葉の凶器」(朝日新聞 2014.12.14)という記事を紹介します。
 各地で繰り返されるヘイトスピーチ(差別的憎悪表現)で、中傷の対象にされている在日コリアンはどう感じているのだろう。東京のNPO法人が関西在住の16人から聞き取り調査したところ、在日の人々が心の傷を受けている実態が浮かび上がった。「日本社会が変わってしまった」と戸惑う人も少なくない。
 調査したのは弁護士や研究者ら700人超でつくるNPO「ヒューマンライツ・ナウ」。メンバー7人が4~7月、個別に面談して体験を聞き、11月にまとめた。
 10代の女性は、ネットでヘイトスピーチの動画を見ても「別世界のこと」と感じていた。街頭で初めて目にした時、衝撃を受けた。話し合おうと参加者に声をかけると、「あなたはこの国に必要ない。帰ってください」と言われた。
 50代の男性は、大阪・鶴橋で昨年2月にあった街頭宣伝を動画サイトで見た。中学生くらいの少女が拡声機で「鶴橋大虐殺を実行しますよ」「いい加減帰れー」と叫んでいた。「吐き気がした」。この街宣を現場で見た別の50代男性は「存在が否定されたと思い、心臓がドキドキした」「(朝鮮人虐殺が起きた)関東大震災が頭をよぎった」と振り返った。社会の空気の変化を感じ取る人もいた。30代女性は、飲食店で隣のテーブルから「ヘイト的言動」が聞こえてきて、ビクッとすることがある、と語った。「目撃しているのに(市議会)議員は何も言わず、笑っていた」(別の30代女性)など、社会が黙認していると不信感を抱く人もいた。
 子どもへの影響を心配する声も目立った。50代女性は、帰宅した中学生の息子が「早く大人になって帰化する」と話した体験を明かした。コンビニ店に買い物に出かけた際、デモを目にして衝撃を受けた様子だったという。調査に協力したNPO「コリアNGOセンター」(大阪市生野区)にも「小学生の子どもから『朝鮮人ってあかんことなん』と聞かれた」という母親からの相談などが寄せられている。在日3世の金光敏事務局長(43)は「世情が変わったと感じている人は多い。特に子どもを持つ親は『社会は助けてくれず、自分たちで守るしかない』と悲壮な覚悟を迫られている」と話す。
 街宣によるヘイトスピーチは関西にとどまらない。横浜市在住の在日3世の徐史晃さん(34)は5年前、東京・銀座で永住外国人の地方参政権を求めるデモ行進をしていた時、200人ほどの集団からヘイトスピーチを浴びせられた。顔のすぐそばで「朝鮮人は帰れ」「死ね、殺せ」と繰り返された。「ここまで言われるものか。もうやめてくれ」と思ったが、目をそむけて反論できなかった。「日本社会でどうやって生きていけばいいか、深い絶望感にとらわれた」
 また朝日新聞デジタル(2016.9.9)に、下記のような記事がありました。
 横浜市教育委員会が、独自に発行する中学生向けの副読本から、関東大震災直後に起きた朝鮮人虐殺についての記述をなくす方向で検討していることがわかった。研究者らは「史実をないがしろにしている」などとして9日、市教委に内容の変更を申し入れた。
 市民団体「歴史を学ぶ市民の会・神奈川」が、今年度中に発行予定の副読本の原稿案を情報公開請求したところ、関東大震災の説明のうち、朝鮮人虐殺に関する記述がなかったという。
 横浜市の副読本をめぐっては、2012年度版の「わかるヨコハマ」で、関東大震災時に自警団以外に軍隊や警察も「朝鮮人に対する迫害と虐殺を行い」と盛り込まれたことについて、一部の市議が反発。市教委は「表現などに誤解を招く部分があった」として12年度版を回収した。13年度版からは「虐殺」の表現が「殺害」に変更され、軍隊や警察の関与についての記述も削除された。
 朝鮮人虐殺を研究する山田昭次・立教大名誉教授ら約70人の研究者は9日、連名で要望書を市教委に提出した。山田名誉教授は「虐殺は学問的にも証明されている。子どもたちに歴史からの教訓をきちんと伝えるべきだ」と話した。
 市教委は朝日新聞の取材に対し、「副読本の内容については編集中であり、答えられない」としている。
 現在にいたるまで、歴史的事実を隠蔽しようという動きがあるのですね。とくに、"自警団以外に軍隊や警察も「朝鮮人に対する迫害と虐殺を行い」と盛り込まれたことについて、一部の市議が反発"という点が興味深いところです。国家権力の犯罪や卑劣さを隠蔽し、その権威を擁護しようということでしょうか。その市議たちにしてみれば、自分たちの権威の支えとなる「国家」のオーラに瑕疵がついてはまずいという意識があるのだと思います。

 これが日本だ、わたしの国だ… 絶望から始めるしかありませんね。

 追記。しかし幸いなことに、同年10月7日に、虐殺の史実を記載する方針が決定されました。『神奈川新聞』(2016.10.7)から引用します。
 横浜市教育委員会が作成中の中学生向け副読本の原案で関東大震災時の朝鮮人虐殺の記載がなかった問題で、同市教委は7日、虐殺の史実を記載する方針を明らかにした。同日の市教委定例会で報告した。
 新副読本作成を担当している指導企画課の三宅一彦課長は「横浜で起きた痛ましい出来事を学ぶことで歴史の理解を深め、防災教育の面からも多面的・多角的に考えることのできる記載になるよう検討している」とし、記載を前提に編集作業を行っていると説明した。
 教育委員からは「人間は過去を正当化したがるものだが、(虐殺という)悲惨な事件を起こす可能性があるということを教訓として刻まなければいけない」と積極的に理解を示す意見も出された。
 新副読本を巡っては市民団体「歴史を学ぶ市民の会・神奈川」(北宏一朗代表)が原案を情報公開制度で入手したところ、従来の副読本にあった朝鮮人虐殺の記述がないことが判明。歴史研究者や市民団体から虐殺の史実と背景を記載するよう求める要望書が市教委に寄せられていた。

by sabasaba13 | 2017-11-30 06:23 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 41

 そして敗戦後から現在に至るまで、朝鮮人への差別意識は大きな変化がないようです。『在日外国人 第三版 -法の壁、心の溝』(田中宏 岩波新書1429)から引用します。
 まずは1949年8月末から9月初旬に書かれたと推定される、吉田茂首相によるマッカーサー宛ての手紙です。
 朝鮮人居住者の問題に関しては、早急に解決をはからなければなりません。彼らは、総数100万人に近く、その約半数は不法入国であります。私としては、これらすべての朝鮮人がその母国たる半島に帰還するよう期待するものであります。その理由は、次の通りであります。
 (1)現在および将来の日本の食糧事情からみて、余分な人口の維持は不可能であります。米国の好意により、日本は大量の食糧を輸入しており、その一部を在日朝鮮人を養うために使用しております。このような輸入は、将来の世代に負担を課すことになります。朝鮮人のために負っている対米負債のこの部分を、将来の世代に負わせることは不公平であると思われます。
 (2)大多数の朝鮮人は、日本経済の復興にまったく貢献しておりません。
 (3)さらに悪いことには、朝鮮人の中で犯罪分子が大きな割合を占めております。彼らは、日本の経済法令の常習的違反者であります。彼らの多くは共産主義者並びにそのシンパで、最も悪辣な種類の政治犯罪を犯す傾向が強く、常時七〇〇〇名以上が獄中にいるという状態であります。
 戦後の朝鮮人による起訴犯罪事件数は次の通りです〔詳細省略。1948年5月末までで、91,235名の朝鮮人が犯罪に関与したという数字をあげている〕
 さて、朝鮮人の本国送還に関する私の見解は次の通りであります。
 (1)原則として、すべての朝鮮人を日本政府の費用で本国に送還すべきである。
 (2)日本への残留を希望する朝鮮人は、日本政府の許可を受けなければならない。許可は、日本の経済復興に貢献する能力を有すると思われる朝鮮人に与えられる。
 上述のような見解を、原則的に閣下が御承認くださるならば、私は、朝鮮人の本国帰還に関する予算並びに他の具体的措置を提出するものであります。
敬具
吉田茂
連合国最高司令官
 ダグラス・マッカーサー元帥
 (原文は英文で、アメリカのマッカーサー文書館蔵…)
 1960年10月、日本に国民年金制度が実施された時、在日韓国人の金鉉鈞(キムヒョンジョ)さんは、荒川区役所の国民年金勧奨員から加入を勧められました。「韓国人だから」と断ったのですが、説得されて加入しました。支給される歳となった1976年に、妻の李奉花(イボンファ)さんが請求手続きをとろうとすると、「韓国籍だから資格なし」と断られてしまいます。そして今まで納めた保険料を返されておしまいです。李奉花さんが抗議すると、年金課係長は「他人の国に来ていて、ゴチャゴチャ言わないほうがよい」、「なぜ戦争が終わったとき、すぐ韓国へ帰らなかったのか」と言い放ったそうです。(p.163)

 そして朝鮮高校には、授業料無償化を実施しないと日本政府は決定しました。金明俊(キムミョンジュン)監督は、2011年6月、東京での朝鮮学校支援市民集会に、韓国からかけつけ、挨拶をされましたが、その一節です。
 朝鮮高校無償化を実施しない理由が、朝鮮半島で起きた天安号沈没事件や延坪島砲撃などの政治的事件だとすれば、率直にいってあきれて笑うしかありません。また、地震〔東日本大震災〕の前後に、東京、大阪、千葉、宮城などの自治体が朝鮮学校への教育補助金を凍結した問題に至っては、なぜ、こんなに卑怯になれるのだろうか、と絶望感さえ感じました。そんな失笑と絶望を感じる理由は、これらすべてがほかでもない『子どもたち』を相手におこなわれているからです。(p.214)
 著者の田中宏氏はある日、「子どもの人権を守ろう…日朝首脳会議で、拉致事件問題が伝えられたことなどを契機として、朝鮮学校や在日朝鮮人などに対するいやがらせ、脅迫、暴行などの事案の発生が報じられていますが、これは人権擁護上見過せない行為です」という、法務省人権擁護局の下部機関、東京法務局などが作成したチラシを見かけました。氏は、東京法務局を訪れ、高校無償化除外や補助金カットは、「人権擁護上見過せない行為」では、と問うてみると、差別を受けた当事者ではないとして、人権侵害事件としての申し立てはできないとされました。(p.215~6)
 結局、安倍晋三内閣の誕生によって、2013年2月、朝鮮高校は最終的に高校無償化から除外されて現在に及んでいます。(p.263~4)
by sabasaba13 | 2017-11-28 06:29 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 40

 こうして国家権力が主導し、それに民衆が便乗し、「関東大虐殺」の実態を矮小化し、その責任を免れたのでした。その後も、そして現在に至るまで、日本政府はその責任を隠蔽し続け、朝鮮人・中国人虐殺事件についての日本政府による公的な調査、謝罪と補償はまだなされていません。
 1925年に、警視庁編・刊『大正震災誌』と神奈川県警察部編・刊『大正大震火災誌』が発行されましたが、流言流布の責任を民衆のみに押し付けあります。敗戦後(!)の1949年に発行された『関東大震災の治安回顧』(吉河光貞 法務府特別審査局)においてすらも、官憲の責任を全く隠蔽してあります。(④p.91)
 軍隊が虐殺に直接かかわったことを示す決定的な史料(「震災警備ノ為兵器ヲ使用セル事件調査表」)を東京都史料館所蔵の『陸軍震災資料』の中から発見し、『関東大震災政府陸海軍関係史料』(日本経済評論社 1997年)におさめた松尾章一氏によると、その直後からこの史料は一般閲覧できなくなったそうです。(⑦p.5) いやはや、その卑劣さ・下劣さの深淵は測り難いものがあります。

 しかし研究者・弁護士・市民による真相解明の努力が粘り強く続けられていることは、忘れないようにしましょう。例えば、2003年8月25日、日本弁護士連合会は、在日朝鮮人文戊仙さんの人権救済申し立てに応えて同会の人権委員会が作成した「関東大震災救済申立事件調査報告書」を添えて、朝鮮人・中国人被害者とその遺族に対する謝罪、および事件の真相調査の勧告書を小泉純一郎首相に提出しました。しかし小泉首相の応答は全くなかったとのことです。もちろん今でも。

 そして朝鮮人に対する差別・蔑視・敵視意識は、払拭されることはありませんでした。その例は枚挙に暇がないのですが、いくつか紹介します。『昭和時代』(岩波新書275)の中で、文芸評論家の中島健蔵氏は次のように回想されています。
 その年(※1925年)の十月十五日に、小樽高等商業学校の軍事教官が野外演習の想定として大体つぎのような情況を学生たちに与えた。第一に「大地震があって、札幌や小樽が大損害を受けた、」というのはいいとしても、第二項は「無政府主義団は不逞鮮人を煽動し、この時期において札幌および小樽公園において画策しつつあるを知れる小樽在郷軍人団は、たちまち奮起してこれと格闘の後、東方に撃退したるが、…云々」というのである。しかも反抗が強いので、小樽高商の生徒隊に応急準備令が下って、「敵を絶滅」するために出動する、という情況が与えられたのである。
 関東大震災の思い出が、まだなまなましく人々の心に残っていたころだ。ことに学生生徒の演習として、これは、なんともひどい想定だ。これに対して、たちまちはげしい非難が起り、事実上、記録によれば、小樽港の三千の朝鮮人の人夫が関東大震災のときの生々しい記憶を思い出して騒ぎ出した。学校の外の労働組合も学生たちの政治研究会とともに軍事教育を攻撃して一応軍事教官にあやまらせたことになっている。(p.33~4)
 永井荷風は、『断腸亭日乗』に、朝鮮人差別の様相を記録しています。(③p.64)
 昏黒三番丁に往かむとて谷町通にて電車の来るのを待つ。悪戯盛りの子供二三十人ばかり群れ集り、鬼婆~鬼婆~と叫ぶが中には棒ちぎれを持ちたる悪太郎もあり、何事やと様子を見るに頭髪雪の如く腰曲りたる朝鮮人の老婆、人家の戸口に立ち飴を売りて銭を乞ふを悪童ら押取巻棒にて叩きて叫び合へるなり、余は日頃日本の小童の暴虐なるを憎むこと甚し、この寒き夜に遠国よりさまよひ来れる老婆のさま余りに哀れに見えたれば半圓の銀貨一片を与えて立ち去りぬ。(1930.1.8)

 此日の東京日日の夕刊を見るに大阪の或波止場にて児童預所に集まりいたる日本人の小児、朝鮮人の小児が物を盗みたりとてこれを縛り、逆さに吊して打ち叩きし後布団に包み其の上より大勢にて踏殺したる記事あり、小児はいずれも十才に至らざるものなり、然るに彼等は警察署にて刑事が為す如き拷問の方法を知りて、之を実行するは如何なる故にや、又布団に包みて踏殺する事は江戸時代伝馬町の牢屋にて囚徒の間に行われたる事なり、之を今、昭和の小児の知り居るは如何なる故なるや、人間自然の残忍なる性情は古今ともにおのずから符合するものにや、怖るべし、怖るべし、嗚呼怖るべきなり。(1936.4.13)
 アジア・太平洋戦争時、アメリカ軍による本土空襲が開始される前に、内務省はその混乱の中で、関東大震災の惨劇がくりかえされるのではないかと懸念しています。
 「殊に注意を要する傾向は段々空襲の危険性が増大するに連れまして、内鮮人双方共に関東大震災の際に於けるが如き事態を想起しまして善良なる朝鮮人迄内地人の為に危険視せられて迫害を加へられるのではないかとの杞憂を抱き又内地人の方面にありましては空襲等の混乱時にありまして朝鮮人が強窃盗或は婦女子に対し暴行等を加へるのではないかとの危惧の念を抱き双方に可成り不安の空気を醸成し果ては流言飛語となり其れは亦疑心暗鬼を生むという傾向のある事実であります。現に内地人の方面にありましては非常事態発生の場合の自衛処置として日本刀を用意し或は朝鮮人に対する警察取締の強化を要請する向があり就中一部事業主等にありましては杞憂の余り之が取締を警察の手より軍隊に移して貰い度いと公然と要望するに至って居る者もある様な状況であります。一方朝鮮人の側にありましては再び斯かる迫害を受くるに非ずやとの危惧の念より警察に保護を陳情する者がある様な状況にありますので一旦非常事態発生の際には細心の注意を万全の処置を講じて置くことがなければ不祥事件の惹起する危険性が充分にあるのであります」(警察部長会議に於ける保安課長説明要旨[1944.1.14]、内務省警保局保安課[治安状況に就て] 『集成』第五巻、p.15~7) (③p.66)

by sabasaba13 | 2017-11-25 06:30 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)