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関東大震災と虐殺 26

 そしてこの4日、「猫ニ逐ワレル鼠ノ如ク」「竹槍、鳶口等ヲ以テ野犬撲滅同様」(『政府戒厳令史料』 p.250)といった迫害を受け、さらに検束された朝鮮人を習志野俘虜収容所などに移送・拘留する決定がなされました。朝鮮人を保護することによって、国際的な非難を避け、日本による朝鮮支配への悪影響を防ぐためです。9月4日午後4時、第一師団司令部の戒厳令第三号「朝鮮人は習志野旧捕虜収容所に収容す。詳細は別に指示す」です。さらに同日午後10時、第一師団長・石光真臣は騎兵第二旅団・三好一にこう指示しました。(①p.195~6)
一、東京附近の朝鮮人は、習志野俘虜収容所に収容することに定めらる。
二、各隊は、その警備地域附近の鮮人を適時収集し、国府台兵営に逓送す。
三、貴官は、習志野衛戍地残留部隊を以て、国府台にて鮮人を受領し、之を逓送して廠舎に収容し、之が取締りに任ずべし。
四、鮮人の給養は、主食、日量、米麦二合以内、賄料、日額十五銭以内とし、軍人に準じて取り扱ふべし。その細部に関しては、計理部長をして指示せしむ。(『現代史資料』六巻 p.121)
 習志野の収容所は、騎兵第二旅団指揮下の騎兵第十三、十四、十五、十六連隊の東にある高津廠舎に開設されましたが、そこはかつて日露戦争の時のロシア人捕虜収容所、第一次大戦の時のドイツ人捕虜収容所となったところです。なお収容所としてはこの千葉県習志野陸軍廠舎(旧捕虜収容所)の他に、那須金丸ヶ原練兵場内、目黒競馬場、横浜港内碇泊の華山丸にもありましたが、いずれも一般市民から隔離した場所でした。(①p.182) こうして朝鮮人の各収容所への移送が、翌9月5日より始まりますが、この措置には、「保護」のほかに「選別→殺害」というもう一つの目的がありました。特に習志野の収容所がその舞台となったようです。たとえば、警視庁管内63署は留置場・演武場などに拘束していた朝鮮人の多くを目黒競馬場の収容所に送りましたが、そのなかで世田ヶ谷署は120名の拘束者を目黒と習志野にわけ、「注意人物は軍隊に托して習志野に移し」ました。(①p.201~2) また戒厳司令官・福田雅太郎は習志野送りを「玉石混淆共に砕ることなからしむるため」と述べ、橘清は「保護すべきは保護し拘束すべきは拘束し、事毎に機宜の処置」であると述べています。(①p.197~9)
 というわけで、おそらく、独立運動・労働運動・社会主義運動に深く関わっている朝鮮人、あるいは軍・警察が犯した"不都合な真実"を知り過ぎた朝鮮人は、習志野の収容所に送られる。また収容されている人びとに対する捜査・尋問を行なって前記のような「不逞」(日本の国家権力にとって目障りな)朝鮮人をあぶり出す。そして「玉」と判断したら保護し、「石」と判断したら…

 もう一つ私たちが記憶に留めなくてはならないのは、官憲が、収容した朝鮮人を強制使役したことです。具体的には、焼跡整理、死体処理などです。その目的は三つありました。第一に「多数の鮮人は決して不逞ならずして献身的に世務公益に努力する者である事実を示して、国民の反感を緩和すること。二は上野、両国、品川、新宿は帝都の関門、交通運輸の要衝で殊に目下の如き鉄道不通の際、物資を市外より得んとする際に於ては最其通路の障害物を除去し、交通運輸の安全を期せねばならぬ、然るに路面破壊されたのみならず、廃物山積して歩行すら容易でない、故に速かに障害物を除去するは非常の功徳であったからである。三は鮮人をして義侠的又は社会奉仕的に労働に従事せしむれば一般労銀の低下を促す原因となる」と考えたからです。とくに第三の理由は注目すべきですね。官憲と財界の関係が、不即不離の利益共同体であったことがよくわかります。
 中でも苛酷だったのが、死体処理作業でした。集団焼死のあった本所の被服廠跡などは足の踏み場もないほどの死体が残暑にさらされ、蛆、蠅の大群がむらがっていました。腐臭のたちこめるなかで荼毘に付す作業は難事であり、「気味の悪い仕事」として作業員の応募がなかったそうです。「『日給五円日払イニシテ三食弁当ヲ給ス』破格の条件で募集した88名の作業員が半日の作業でわずか4名しか残らなかった」ほどで、その臭気で卒倒する人もいました。その「一般内地人の嫌忌する労働」に朝鮮人が強制的に動員されたのでした。(①p.188~90)
by sabasaba13 | 2017-10-21 05:51 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 25

 9月4日、火曜日。政府は千葉県・埼玉県にも戒厳令を施行します。

 既述のように、官憲は政策を大きく転換させました。すべての朝鮮人を検束して尋問・取調べを行ない、「順良」な朝鮮人は保護し、「不逞」な朝鮮人(独立運動家・労働運動家・社会主義者)は「適当処分」するという政策です。この日も大規模な朝鮮人検束が行われますが、その過程で命を落とした者も少なくありませんでした。前日9月3日付戒厳司令部の在郷軍人会宛の希望事項にこうあります。(①p.173~4)
一、不逞鮮人中放火ヲ企テシ形跡アリ然レドモ徒党ヲ組ミ暴行ヲ為スガ如キ噂盛ナルモ事実ト相違シ訛伝ニ過ギズ鮮人中ノ大部分ハ順良ナルモノニシテ之ニ対シ濫リニ暴行迫害ヲ加ウル等ノ行為ナキ様注意ヲ要ス。但シ真ノ不逞鮮人ト認メタルトキ又ハ彼等中抵抗シタル場合ニ在リテハ断乎タル処置ヲ取リ万違算ナキヲ期セザルベカラズ」 (『麻布支部臨時』第二号)
 「断乎タル処置」「万違算ナキヲ期セ」とは、"殺害差支えなし"を意味する軍隊用語です。そして検束の現場で、「順良」か「不逞」か、抵抗したかしないかの判断は、兵士、警察や自警団員が任意に委ねられていました。彼らの心証・胸先三寸・虫のいどころによって、「抵抗した」「不逞な」朝鮮人だと判断すれば、殺害してもよい、ということを意味します。朝鮮人の生命はあいかわらず、鴻毛の如く軽いものでした。
 また「検束し、抵抗したら"処置"する」という方針転換を、朝鮮人に広報していなかったことも問題でした。朝鮮語によるビラの配布やポスターの掲示、メガホンによるPRなどを、官憲はいっさいしていません。この方針転換を知らず、死の恐怖と極度の緊張とともに逃げ回る朝鮮人は、検束=虐殺ととらえています。そしてわが身を守るために逃亡または抵抗した者は、軍隊・警察・民衆によって殺されました。(①p.174~5)

 そして検束されて警察署内などにいても安全とは限りませんでした。寺島警察署に検束された曺仁承(チョ・インスン)氏の証言です。(①p.178~9)
 ひどい騒ぎ声が、ワーワーと庭の中に聞えてきたので同胞達は、又殺しにくるのだという恐怖感でいっせいに逃げだしたのである。私もこの儘おとなしく殺されてなるものかという気持ちで、無我夢中、外へとび出そうと警察の塀にとび乗った。すると外には自警団の奴らが私を見つけて、喊声を上げてとびかかって来た。私はその儘、警察の庭の方に落ちて助かった。…三十分程して、私は…庭の中の方へ行ってみた。すると、その時、私の目の中に入った光景は巡査が刀を抜いて同胞たちの身体を足で踏みつけた儘、突き刺し無残にも虐殺しているのであった。只警察の命令に従わず逃げだしたからという事だけで、この時八人もの人が殺され、多数の人々が傷ついた。私は余りのむごさと恐ろしさの為に腰が抜けんばかりであったが、ようやくその場を離れた。そして、留置場の方へゆくと太い棒をもった巡査が私を殴ろうとしたが、私は拝むようにして必死で棒を避けた。そして、私は突きとばされるようにして留置場の中に入れられた (朝鮮大学校 『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』)
 塀の外の自警団も、塀の中の警察も、逃亡したら「適当処分」「断乎タル処置」すなわち「殺害差支えなし」の意識を持ち続けていたことがわかります。後ろ手にしばりあげ、逃亡したら殺害するような扱いですから、「保護」というよりは「捕虜」ですね。

 この9月4日には、暴走する自警団への対策も決定されました。臨時震災救護局警備部の打ち合わせにおいて、「人民自警団ノ取締ニ関スル」次の決定がなされます。
一、自警団ハ警官及軍隊ニ於テ相当ノ部署ヲ定メ之ヲ其ノ指揮監督ノ下ニ確実ニ掌握スルコト
二、自警団ノ行動ハ之ヲ自家付近ノ盗難火災ノ警防等ニ限リ通行人ノ検問抑止其他権力的行動ハ一切之ヲ禁止シ、勢ニ乗ジテ徒ニ軽挙妄動スルガ如キハ厳ニ之ヲ禁遏スルコト
三、自警団ノ武器携帯ハ之ヲ禁止シ、危険ナキ場所ニ領置シ置クコト、尚漸次棍棒其他ノ凶器携帯ヲ禁止スルコト
四、自警団ハ廃止セシムル様懇諭シ可也急速ニ廃止セシメ便宜町内ノ火災盗難警戒巡邏ヲ許スニ止ムルコト (『東京震災録』)
 朝鮮人に対する殺戮・暴行をくりかえす自警団の牙をいかにして抜くか。これは細心の注意をもって慎重に行なわなければなりません。言うまでもなく、流言を流布し、自警団結成を奨励し、軍・警察に協力させ、朝鮮人殺戮や暴行を勧奨あるいは容認したのは、官憲です。自警団の活動を即時に停止させれば、当然に自警団は反発し、事実を誤認して不祥事を惹起させた官憲の責任が問われます。自らの責任を隠蔽しつつ穏便に自警団の暴力を沈静化させる、官憲の努力はこの一点にかかっていました。例えば、自警団が設けた検問所に警官・兵士を投入し、自警団を任務から解放する。その一方で軍隊の威力を誇示し、なしくずしに自警団の縮小化し、夜警グループ化を推進する。また武器の携帯禁止も、銃砲刀剣取締令に違反する戎器の範囲にとどめ、民衆の自覚に訴えて押収するというように、自警団の反発をはばかって、可能なかぎり刺激を避けつつその牙を抜くようにしました。(①p.244)
by sabasaba13 | 2017-10-19 06:26 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 24

 この9月3日から5日にかけて、千葉県船橋近辺で、自警団によって引き起こされた虐殺事件が多発しました。その犠牲者のほとんどが、北総鉄道(現在の東武野田線)の敷設工事に従事していた朝鮮人動労者でした。
 松島(現在の東武野田線塚田駅近く)の飯場から船橋警察署に連れて行かれた朝鮮人労働者は、船橋警察署前で自警団に殺傷されました。また、鎌ヶ谷粟野の飯場から船橋送信所に連れて行かれた朝鮮人労働者は、船橋送信所で引き取りを拒否され、送信所の警備にあたっていた騎兵を同行させて、船橋警察署へと向かいますが、その途中の天沼近くで自警団に殺傷されました。その状況について渡辺良雄さんは、「警鐘を乱打して、約五百人位の人達が、手に竹槍や鳶口等を持って押し寄せて来た。私はほかの人達に保護を頼んで群衆を振り分けながら船橋警察署に飛んで戻った」「私が直ぐ引き返して行くと、途中で、『万歳! 万歳!』という声がしたのでもう駄目だと思った」「調べてみると、女三人を含め、五三人が殺され、山のようになっていた」と回想しています。
 また天沼での虐殺とは別に、鎌ヶ谷粟野にいた朝鮮人労働者が9月4日夜に、市川若宮の北方十字路で自警団に襲われ、13人が虐殺されました。この朝鮮人労働者は虐殺事件があった船橋を避けて、市川警察に向う途中でした。ここでは、翌5日にも朝鮮人の飴工場の職工数人も虐殺されています。
 北方十字路での虐殺事件については、旧法典村の自警団の一人であった高橋定五郎は、「無線の海軍所長が浦安、行徳に六〇〇人の「不逞鮮人」が来るから今夜警戒たのむと、銃を渡されて、二声かけて返事がなかったら、撃ってもいい」、「海軍無線の所長が命令するぐらいですから、ほうびをもらえると思ってやったのに」と、海軍の船橋送信所所長が朝鮮人の殺害を許可したと証言されています。当時、船橋送信所では、朝鮮人からの襲撃を恐れて、習志野の騎兵連隊へ出動を要請し、地域の自警団も動員して周辺を警備させていました。

 自警団による事件が多かった一方で、同じ船橋でも朝鮮人労働者を助けた自警団もありました。朝鮮人労働者が船橋市丸山の「おこもり堂」(慈眼院)を飯場として生活していて、震災当時、二人の朝鮮人がそこに残っていました。他の地区の自警団が丸山に押し寄せ、朝鮮人の引き渡しを要求しましたが、丸山の自警団はそれに応じず、二人の朝鮮人を無事に船橋警察署に届けています。

 以上のような虐殺事件をふまえ、馬込霊園には、朝鮮人犠牲者を追悼する「法界無縁塔」と「関東大震災犠牲同胞慰霊碑」が建てられています。「法界無縁塔」は1924年9月1日に船橋仏教連合会により建立されました。「(朝鮮人が)たとえ悪いことをしたにしても殺されたのはかわいそうだ」と流言を否定しないまま建てられたこの碑には、「法界無縁塔」という文字と日付しか記されていません。一方、在日本朝鮮人聯盟によって1947年に建てられた「関東大震災犠牲同胞慰霊碑」には、日本政府が朝鮮人を虐殺させたとはっきり記されています。(⑭p.8~10)

 石橋大司氏が、横浜の久保山で、半裸体で電信柱に縛り付けられ血まみれになった朝鮮人の死体を見たのがこの9月3日でした。敗戦後、殺された朝鮮人を慰霊するために「少年の日に目撃した 一市民之建」と記した碑を自費で建立しますが、よろしければ拙ブログをご覧下さい。

 また、朝鮮人の暴動・放火という流言蜚語は、新聞などを通して全国に広められています。新聞社の判断なのか、官憲による指示・教唆があったのかはわかりませんが。例えば、宮城県の『河北新報』には、下記の記事が掲載されました。
 朝鮮人大暴動 食糧不足を口実に盛に掠奪 神奈川県知事よりは大阪、兵庫に向かひ食料の供給方を懇請せり。東京市内は全部食料不足を口実として全市に亘り朝鮮人は大暴動を起こしつつあり… (1923.9.3)

by sabasaba13 | 2017-10-17 06:21 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 23

 輜重兵第一大隊軍曹・鈴木曽男らが「不逞鮮人」を発見したのは9月3日夜のことでした。(①p.130~1)
 十二時頃○ヶ谷石川牧場東北側凹地森林内に鮮人三名居るを知り之を逮捕す…右鮮人の家屋(石川牧場凹地内にある豚小屋側の家宅にして、一般近隣の住民は怪しき家と一様に称す)を捜索してる結果左記物件を押収す。
  左記
 不逞鮮人舎(標札)、同舎発行雑誌(太い鮮人)、宣伝ビラ(日鮮大講演)、雑誌販売名簿一、雑誌(自由の人)、鮮人名簿其他若干。
 同家住人金子ふみ子(栃木県人にして二十四才位)は、「右押収物件と共に警察官に引渡せり」 (『現代史資料』 第6巻)
 そう、いわゆる「朴烈事件」のきっかけとなった逮捕です。この後、朝鮮人虐殺の責任を免れようとした官憲は、「不逞鮮人」というイメージを流布するために、朴烈・金子文子夫妻に対し、この秋挙行予定の皇太子婚儀に際して天皇と皇太子を要撃する計画であったという自白を強要しました。そして1926年3月25日、大審院は大逆罪として両名に死刑を宣告しますが、政府は政治的効果をねらい4月5日、大赦令をもって無期懲役に減刑しました。7月23日金子は獄中で縊死、朴は敗戦まで在獄しました。なおこれにからんで「怪写真事件」も起きましたが、詳細は省きます。
 なお金子文子については、『未来をひらく歴史 東アジア3国の近現代史』(日中韓3国共通歴史教材委員会 高文研)に、簡にして要を得た照会文がありましたので、引用します。
金子文子(1903~26)-朝鮮人と連帯し天皇制国家と闘った日本人

 金子文子という人を知っていますか。1923年の関東大震災の際、朝鮮人の朴烈(パクヨル)とともに検束され、皇太子(のちの昭和天皇)を爆弾で殺そうとしたとして「大逆罪」に問われて、死刑判決を受けた女性です。
 文子は横浜で生まれました。家柄を誇る父が「婚外子」(法的な結婚をへないで生まれた子)であった文子の出生届を出さなかったため、正式に小学校に入学できないなどの差別を受けたり、父に捨てられた母の再婚などのため文子の少女時代は不幸でした。9歳の時、朝鮮に住む父方の親戚の養女となりましたが、権威的なその家でひどくいじめられました。三・一独立運動を目撃した時、強者に抵抗する朝鮮の人たちに「他人事とは思えないほど感激した」といいます。
 16歳で養女を解消されると、実父が勝手に結婚を決めたため、その圧力を逃れて東京で苦学しているときに社会主義・無政府主義などに出会いました。そしてこれまでの体験から「一切の権力を否定し、人間は平等であり自分の意思で生きるべきだ」という思想に到達しました。さらに、さまざまな法律や忠君愛国・女の従順などの道徳は「不平等を人為的に作るもので、人々を支配権力に従属させるためのしかけである。その権力の代表が天皇である」と考えました。
 19歳の時、日本帝国主義を倒すことを志す朴烈と同志的な恋愛をして一緒に暮らすようになり、「不逞社」を結成します。朝鮮の独立と天皇制の打倒を志す二人は、爆弾の入手を計画はしますが、実現できないうちに検束されました。
 若い二人は生き延びることよりも、法廷を思想闘争の場にしようと考えて堂々と闘いました。死刑判決後、政府は「恩赦」で無期懲役にしましたが、文子はその書類を破り捨て、3カ月後、獄中で自殺しました。23歳でした。民族や国家を超えて同志として朴烈を愛し、被抑圧者と連帯し、自前の思想をつらぬいた一生でした。(朴烈は1945年に解放されました) (p.84~5)

by sabasaba13 | 2017-10-13 06:23 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 22

 次は、大島事件に深く関わる亀戸署の動きです。(⑩p.51~6) 亀戸署が異常な雰囲気に包まれたのは、前日の9月2日午後7時以降です。それまでは管内に火災も少なく、比較的平穏でしたが、午後7時過ぎ、小松川町方面に「朝鮮人が暴動を起こしている」との流言が流れ、警鐘を鳴らす者がありました。 このとき、古森繁高署長(もと警視庁特高課労働係長)は自らサイドカーにまたがって陣頭指揮をとり、朝鮮人の検束を命じたのでした。この日には軍隊と協力して約760人、翌9月3日には500人以上の朝鮮人を検束しました。(『朝日新聞』 1923.10.11)
 しかし二夜で1300余人を検束するという状況は、深刻な恐慌心理を管内・署内にまきちらしました。署員数わずか230余人、おまけに1日正午の地震発生以来、警察官も兵士も不眠不休の緊張状態を強いられています。9月3日朝からの管内各所での中国人・朝鮮人虐殺は、こうした背景があって暴発しました。「大島事件」も亀戸署管内で起きた事件でしたが、既述のように計画性が感じられるものでした。しかしそれ以外の虐殺事件は、流言を盲信し、戒厳という状況下で、朝鮮人を敵と見なして殺戮するケースが多かったようです。若い兵士や警官が完全に興奮して「鮮支人は見つけ次第殺してもいいんだ」と口走る姿が、後に報告されています(「事件つづり」)。
 署内に検束された朝鮮人の中からも、数十人が殺されたという全虎巌(チョン・ホオム)氏の証言があります。これは尋問の結果、独立運動・労働運動・社会主義運動に関わった「不逞」な朝鮮人と認定された人たちかもしれません。
 朝になって我慢できなくなり便所に行かせてもらいました。便所への通路の両側にはすでに3、40名の死体が積んでありました。この虐殺について、私は2階だったので直接は見て居ませんが、階下に収容された人は皆見ているはずです。虐殺のことが判って収容された人は目だけギョロギョロしながら極度の不安に陥りました。誰一人声をたてず、身じろぎもせず、死人のようにしていました。
 虐殺は4日も一日中続きました。目かくしされ、裸にされた同胞を立たせ、拳銃をもった兵隊の号令のもとに銃剣で突き殺しました。倒れた死体は側にいた別の兵隊が積み重ねてゆくのを、この目ではっきり見ました。4日の夜は雨が降りましたが、虐殺は依然として行われ5日の夜まで続きました。(中略)
 亀戸署で虐殺されたのは私が実際にみただけでも5、60人に達したと思います。虐殺された総数は大変な数にのぼったと思われます。(⑨p.72~5)
 さらに3日午後4時、前述のように、第一師団司令官・石光真臣は「隷下各団体に対する訓示」を各部隊に通達しました。再掲します。
 (※朝鮮人が)計画的ニ不逞ノ行為ヲナサントスルガ如キ形勢ヲ認メズ、鮮人ハ必ズシモ不逞者ノミニアラズ之ヲ悪用セントスル日本人アルヲ忘ルベカラズ宜シク此両者ヲ判断シ適宜ノ指導ヲ必要トス
 "之ヲ悪用セントスル日本人"、つまり社会主義者や労働運動家を「適宜」「指導」してよいというお墨付きを与えられた古森署長は、3日午後10時頃、川合義虎(南葛労働会)、平沢計七(純労働者組合)ら10人の労働運動家を、狙い打ちで検束しました。南葛労働会や純労働者組合は、悪法反対運動やメーデー、1922(大正11)年の大島製鋼所争議などをめぐって亀戸署と激しく対立していたのですね。また既述の証言者・全虎巌は、南葛労働組合のメンバーでした。学校に通うため2年前に来日した全は、朝鮮独立への思いから社会変革の必要を考えるようになり、この頃、ヤスリ工場の労働者として労組の活動を熱心に行っていました。警察と対立し、朝鮮人労働者との連帯を模索する労働運動のリーダーたちが、1300余人もの無実の人々が留置されているところへ送り込まれたわけです。留置場内の興奮と署内の緊張は、いよいよ高まったことでしょう。
by sabasaba13 | 2017-10-11 06:19 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 21

 それではこの9月3日に起きた、さまざまな虐殺事件を見ておきましょう。

 まず、午後3時ごろ、南葛飾郡大島町(現・江東区)周辺で、大規模な中国人虐殺事件(大島事件)が発生しています。(⑨p.61~4) このあたりは大戦景気のなか来日し、工場などで働く中国人労働者千数百人が、60数軒の宿舎に集住していました。9月3日の昼頃、中国人宿舎に軍・警察・青年団があらわれ、大島8丁目の空き地まで多くの中国人を連れ出します。付近に住んでいた木戸四郎の証言です。
 5、6名の兵士と数名の警官と多数の民衆とは、200人ばかりの支那人を包囲し、民衆は手に手に薪割り、とび口、竹やり、日本刀等をもって、片はしから支那人を虐殺し、中川水上署の巡査の如きも民衆と共に狂人の如くなってこの虐殺に加わっていた。
 さらに午後3時頃、習志野騎兵連隊の岩波少尉以下69名、三浦少尉以下11人の部隊も虐殺に加わります。この虐殺を最大として、この日、大島の各地で同様の事件が起こり、殺された中国人の数は300人以上と見られます。言うまでもありませんが、当時の中国は中華民国という独立国、よって多数の中国人を日本の軍・警察・民衆が虐殺したということは、たいへんな国際問題です。
 8丁目の虐殺の唯一の生存者である黄子連が10月に帰国し、この事実を中国のメディアに語ったため、それまで日本救援ムードが強かった中国の世論は一変、日本への抗議の声が沸騰しました。郷里に帰った黄は、虐殺時に負傷した傷が化膿し、吐血するようになり、しだいに体を壊して2、3年後に亡くなりました。
 それでは何故このような大量殺人が行われたのでしょうか。震災時、朝鮮人が放火や爆弾といった流言のターゲットにされていたのに対して、中国人については流言が広がっていたという事実はありません。大島町の虐殺は、朝鮮人虐殺に見られるように混乱の中で衝動的に行われた様子もなく、むしろ明らかに計画性が伺えます。
 関東大震災時の中国人虐殺の研究を続けた仁木ふみ子氏は、その背景に人夫請負人(労働ブローカー)の意図があったと推理しています。第一次世界大戦に伴う好況も終わり、数年前から不況が始まっていました。日本人より2割も安い賃金で働く中国人労働者の存在は、日本人労働者にとっても、彼らを手配し、賃金をピンハネする労働ブローカーにとっても目障りであり、排斥の動きが起こっていました。一方、中国人を安く使っていた日本人ブローカーにとっても、僑日共済会の指導によって未払い賃金の支払い要求などを起こすようになった中国人は、もはや使いにくい存在になっていました。なお僑日共済会とは、社会事業家・王希天(ワン・シテイエン)によって1922年12月に結成された中国人救済組織です。この王希天という名前は記憶に留めておいてください。
 警察も中国人労働者を好ましく思っていませんでした。当時の大島町を管轄する亀戸署(署長・古森繁高)は、管内に労働争議の多発する工場を多く抱えていることから、公安的な任務を強く負った署でした。そのうえ中国人にまで労働運動を起されてはたまらない。行政レベルでも、日本人労働者保護のためとして、中国人労働者の入国制限・国外退去などを進めつつありました。
 労働ブローカーと警察が、朝鮮人虐殺で騒然としている状況に便乗して、日本人労働者をけしかけ、さらに「朝鮮人暴徒鎮圧」の功を焦る軍部隊を引き込み、中国人追い出しというかねての悲願を実行に移したのだ-というのが仁木氏の見立てです。そうであるとすれば、ほかの朝鮮人虐殺とはかなり様相の異なる事件です。いずれにしても、ディスプレイから腐臭がただよってくるような、悪辣かつ没義道な事件です。

 なお震災下で、虐殺された中国人の総数は、いぜん明らかになっていません。この大島町事件に加えて、横浜地区でも約150人の中国人が虐殺されという史料があります(ねずまさし 『日本現代史』4)。また神奈川県足柄郡土肥村で熱海線の工事に従事していた中国人労働者が被害に遭いました。(⑪p.ⅶ) 少なくみても、400人以上の中国人が軍隊・警察・民衆に虐殺されたといえそうです。(⑩p.57)
by sabasaba13 | 2017-10-09 07:22 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 20

 さてこの9月3日に第二次山本権兵衛内閣が成立し、内務大臣は水野錬太郎から後藤新平に代わりました。そして政府は東京府全域と神奈川県にも戒厳令を施行しました。
 関東戒厳司令官は、この日、その職権によって、戒厳令第14条の適用について次のように定めました。(②p.125~6)
一 警視総監及関係地方長官竝ニ警察官ノ施行スベキ諸勤務。…
  四 各要所ニ検問所ヲ設ケ通行人ノ時勢ニ妨害アリト認ムルモノノ出入禁止又ハ時機ニ依リ水陸ノ通路停止。
  五 昼夜ノ別ナク人民ノ家屋建造物、船舶中ニ立入検察。
  六 本令施行地域内ニ寄宿スル者ニ対シ時機ニ依リ地境外退去。…
 さらに同時に発せられた関東戒厳司令官告諭に「此際地方諸団体及一般人士モ亦極力自衛協同ノ実ヲ発シテ災害ノ防止ニ努メラレンコトヲ望ム」とあります。
 既述のように、9月2日午後6時頃に政府は戒厳令を布告し、戒厳執行の職についた森岡東京衛戌司令官は、「警備に関する訓令」を発して軍隊の兵器使用を解禁しました。そしてこの決定によって、軍隊が検問を直接行ない、検問体制の下部機構に自警団をとりこみ、検察権のない軍人による令状なしの捜索と逮捕が可能になったわけです。大江志乃夫氏によると、これは合囲令の発動です。行政戒厳であるにもかかわらず、戦時における真正戒厳の、しかも臨戦令ではなく合囲令を発動するとは、本来の趣旨を逸脱したものです。臨戦令は、戦時にあって警備を要する地域で施行され、軍事に関する事件に限り、地方行政・司法事務が当該地域軍司令官の管掌となります。合囲令は、より緊迫した状況の時に施行され、敵に包囲されている、または攻撃を受けている地域で施行され、一切の地方行政・司法事務が当該地域軍司令官の管掌となります。戒厳軍が警察・自警団を指揮して、検問・捜索・逮捕を行ない、また拡大解釈の可能な抽象的規定によって武器の使用を認めたわけですから、あまりにも過剰な対応ですね。大江志乃夫氏曰く、"戦場にある軍隊に匹敵するほどの広範な権限を有するに至"りました。

 そして9月3日午前9時に開かれた臨時震災救護事務局警備部の打ち合わせでは、「第三、市街及び一般民衆の保護取締に関する件」について、次のように決定しました。(①p.147~8)
一、検問所の設置、市の周辺並市内枢要の場所に検問所を設け、軍隊及警察官を配置し、容疑人物の尋問を行ひ、容疑すべき人物は、之を警察官に引渡し取調を為さしむべし。
  二、検問所又は巡邏兵の他警備に配置せられ居る者に於て、容疑人物を尋問する際には、携帯品に就て検索を行ひ危険物件を所持せる場合は之を領置すること
 そして、戒厳軍の区署を受ける警察は、各検問所に次のような指示を出しました。
一、巡査五名、監督者一名ヲ配置シ、軍隊ト協力シテ検問ニ従事セシムヘキコト
一、検問ハ軍隊ノ援助ヲ得テ警察官之ヲ行フヘキコト
一、検問ニ際シテハ通行人ノ服装携帯品ニ注意シ、夜間ハ一切ノ通行人ニ対シ、昼間ハ不審ト認ムル者ニ対シテ其住所、氏名、出発地、目的地通行ノ要件其他ニ付キ充分ナル取調を行ヒ容疑ノ者アラハ直ニ検束ヲ加ヘ所属署ニ送致スヘキコト (『東京震災録』中巻 p.196)
 関東戒厳司令官の決定と符合します。警察は軍の補完機関として位置づけられ、幹線の枢要検問所に鉄壁の封鎖体制が敷かれることになりました。そして朝鮮人が「非行」をはたらき、「治安秩序を紊る」と判断したら武器を使用できる。この打ち合わせ会議では、次のような決定もなされました。
 朝鮮人ニシテ容疑ノ点ナキ者ニ対シテハ之ヲ保護スルノ方針ヲ採リ来ルヘク適当ナル場所集合セシメ苟モ容疑ノ点アル鮮人は悉ク之ヲ警察官又ハ憲兵ニ引渡し適当処置スルコト

 要視察人危険ナル朝鮮人其他危険人物ノ取締ニ付テハ警察官及憲兵ニ於テ充分ノ視察警戒ヲ行フコト (「関東戒厳司令部詳報」第三巻、田崎公司他『関東大震災陸海軍関係史料』)
 「要視察人」とは既述のように、独立運動や労働運動に関わる朝鮮人を意味するカテゴリーで、官憲の警戒・監視の対象とされた人びとです。甲号視察人には五人、乙号視察人には三人の尾行をつけて日常生活を監視していました。文中にある「適当処置」とは、暗黙のうちに「殺害差支えなし」という意味を含んでいるのではないでしょうか。
そしてなにより重要なのは、この会議で、容疑のない朝鮮人は保護し、容疑のある朝鮮人は警官・憲兵が「適当処置」する方針が決定されたことです。戒厳行動を展開しているうちに、戒厳司令部は、流言は無根で朝鮮人暴動は起きていないのではないかという疑問をいだきはじめたのでしょう。また内外に対する体面上、自警団の熱狂的な暴走を抑制する必要を感じたのかもしれません。つまりこれまでの無差別敵視策を撤回して、大部分の朝鮮人は保護し、一部の「容疑ノ点アル」朝鮮人を「適当処分」する方策に変更しました。いうまでもなく、"容疑の点ある朝鮮人"とは、独立運動や労働運動・社会主義運動・無政府主義運動に関わっていた方々です。

 これは推測ですが、戒厳司令部としては、今さら朝鮮人暴動は事実無根であったと認めることは絶対にできません。これまで見てきたように、組織的に流言蜚語を流布し、朝鮮人虐殺を実行してきたのは軍隊・警察なのですから、これを認めたら重大な過失であり責任を問われます。かといって朝鮮人の虐殺を放置しておくこともできない。そこで数は少ないが朝鮮人による放火や暴動はあったと嘘をついて責任を免れ、同時に流言蜚語を取り締まり、朝鮮人の保護を命じる。またその嘘に真実性をもたせるために、疑わしい朝鮮人をあぶりだして「適当処分」する。朝鮮人による独立運動・労働運動・社会主義運動の萌芽を、先手を打って潰すためにも有効ですね。
 この決定をうけて、戒厳司令部が9月3日に発表した一般国民宛の訓示を見ると、そのことがわかります。(①p.168~70)
 不逞鮮人ニ就テハ三々伍々群ヲナシテ放火ヲ遂行又ハ未遂ノ事実ハナキニアラザルモ既ニ軍隊ノ警備力完成ニ近ヅキツツアレバ最早決シテ恐レル所ハナイ数百数千ノ不逞鮮人ガ襲撃シ来ルナド動モスレバ出所不明ノ無頼ノ流言蜚語ニ迷ワサレ徒ニ軽挙妄動ヲナスガ如キハ今後大ニ考慮スルコト肝要デアロウ。
 "事実ハナキニアラザルモ"という表現に、この作文をつくった軍部官僚の苦心がにじみでています。官僚が要求される重要な能力は、責任を免れるための技術なのだと痛感します。

 そして9月3日午後4時、第一師団司令官・石光真臣による「隷下各団体に対する訓示」には、注目すべき表現がまぎれこんでいます。
 (※朝鮮人が)計画的ニ不逞ノ行為ヲナサントスルガ如キ形勢ヲ認メズ、鮮人ハ必ズシモ不逞者ノミニアラズ之ヲ悪用セントスル日本人アルヲ忘ルベカラズ宜シク此両者ヲ判断シ適宜ノ指導ヲ必要トス
 ここにも軍部や官憲の責任を免れようとする苦心の跡が見られます。"鮮人ハ必ズシモ不逞者ノミニアラズ"と、不逞な=日本の国家権力に逆らう朝鮮人がいることを公認し、"之ヲ悪用セントスル日本人"の存在をほのめかす。この日本人とは、もちろん社会主義者や労働運動家です。一部の朝鮮人と社会主義・労働運動に関わる日本人が暴動や放火を起こした、あるいは起こす可能性があるとして厳しい取り締まりを命じたのですね。あくまでも自らの責任に対してしらを切りとおそうとする官僚たちの厚顔無恥さ、恐れ入谷の鬼子母神です。

 さて、それでは大部分の順良なる朝鮮人と、一部の「不逞」なる朝鮮人をどうやって見分けるか。自警団の暴虐から保護するためにすべての朝鮮人を一斉検束し、そのうえで軍・警察が捜査・尋問を行ない、後者を炙り出す。こうして軍・警察による朝鮮人狩りが始まりました。
by sabasaba13 | 2017-10-07 07:04 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 19

 9月3日、月曜日。雨。深夜。野重砲第一連隊第六中隊の兵士、久保野茂次は、日記にこう書いています。(①p.109~10)
 九月三日、雨、午前一時頃、呼集にて、また東京に不逞鮮人がこの機に際し非常なる悪い行動をしつつあるので(井戸に毒薬投入、火災の先だって爆弾投下、及強姦)等やるので、それを制動せしめるため、三八騎銃携行、拳銃等も実弾携行し、乗馬でゆくもの徒歩でゆくもの、東京府下大島にゆく。小松川方面より地方人も戦々きおきお(兢々)とて、眠りもとれず、各々の日本刀、竹やり等を以て、鮮人殺さんと血眼になって騒でる。軍隊が到着するや在郷軍人等非常(非情か)なものだ。鮮人と見るや者(物)も云わず、大道であろうが何処であろうが斬殺してしまふた。そして川に投げこみてしまう。余等見たの許りで二十人一かたまり、四人、八人、皆地方人に斬殺されてしまふていた。余等は初めは身の毛もよだつ許りだが段々なれて死体を見ても今では何とも思わなくなった。午後砂村より消防隊が、鮮人百名も一団でいて夜間になると不安で寝られず、爆弾等で放火等やるので、我々等の応元(援)をあをいできたので余の分(隊)等、野中上等兵以下拾二、三名で着剣して、消防隊の自動車で鮮人のいる長屋につき、すぐ包囲をし、逃ぐるものがあれば一発のもとに撃ち殺さんとためていたが、彼等一人として抵抗するものもなかったので、一発せずして一団をつづ(数珠)つなぎにして暗の中を在郷軍人等とともに警戒厳にして小松川につれゆき集(収)容し、余等分隊は東亜製粉会社に帰ったその夜は会社のコンクリート上に寝た。
 戒厳軍の進駐下に自警団の暴力が発生したことが、よくわかります。「不逞鮮人の討伐」という作戦下、戒厳軍が主導の地位にたち、警察・自警団・一般市民をその統率下において敵=朝鮮人の殺戮を行なったのですね。そう、これは市街を舞台とした「戦争」です。姜徳相氏の言を引用します。(④p.54~6)
 近代日本史上、沖縄を除いて日本本土が戦場になったのは関東大震災以外にない。下谷高等小学校の罹災児童がいちばん恐ろしかったことは反撃なき市街戦であった。

男子 朝鮮人109 火事51 地震49 旋風19
女子 朝鮮人140 火事68 旋風35 道路の雑踏17

 数字は天災より人災、つまりデマに狂った人殺し戦争が最大の恐怖であったことを示している。
 「若い朝鮮人の死骸が転がっていた。素裸にされて大の字に仰向けになって腹から腸がはみ出て血まみれになった手足には蝿と蟻がたかっていた。局部まで切断されていた。その側にはこういう制札が立っていた。『いやしくも日本人たるもの必ずこの憎むべき朝鮮人に一撃を加えてください』」(江島修 『血の九月』)
 これは戦争だ…そういう人びとの意識を如実に物語る会話が記録されています。9月3日、横浜市中村町(現横浜市南区)での民衆の会話です。(③p.26)
「旦那、朝鮮人は何ぅですい。俺ァ今日までに六人やりました。」
「そいつは凄いな。」
「何てっても身が護れね、天下晴れての人殺しだから、豪気なものでサァ。」
 "天下晴れての人殺し"、つまり相手が敵なら殺しても罪に問われない。まさしく戦争です。
by sabasaba13 | 2017-10-05 06:22 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 18

 こうして軍隊・警察・自警団が一体となった治安体制がつくられ、自警団も朝鮮人虐殺に加担していくことになります。それに関する証言は多々ありますが、一つだけ紹介しておきます。
 もっとも衝撃的なのは、本所かくら橋付近で「薪でおこした火の上に四人か五人の男の人が朝鮮人の手と足が大の字になるように、動かないようにもって下から燃やしているんですよ。火あぶりですよね。焼かれると皮が茶かっ色になるんです。だから焼かれている朝鮮の人は悲鳴をあげるんですが、もう弱っている状態でした。そして、殺した朝鮮の人が次々に川に放りこまれているのです」 (篠原京子の証言 『民族の棘』) (①p.156)
 また横浜の根岸で2日に起きた虐殺の様子は、以前に拙ブログで紹介しました。

 なお朝鮮人を識別するために、「十五円五十銭」などと言わせたという証言も数多く残っています。姜徳相氏は、この識別法は1912年、内務省秘第1542号、警保局長より各庁府県長宛てに出された「朝鮮人識別法」というテキストをもとに、官憲から教示されたものだと推測されています。(①p.149)

 さて、治安中枢の動きです。既述のように閣議の反対によって正式な戒厳令は出されていませんが、水野錬太郎内相が内田康哉臨時首相とともに、浜尾新枢密院副議長、伊藤巳代治顧問官の私邸を訪問し、「枢密院に諮る暇がないから内閣の責任で勅令を発布したい」と了解を求めました。こうして9月2日午後6時頃に、政府は東京市と周辺五郡に戒厳令を布告します。既述のように、戒厳令には「真正戒厳」と「行政戒厳」があり、前者は戦時、後者は内乱やクーデターなど平時の緊急事態で布告されます。よってこれは「行政戒厳」で、緊急勅令によって施行されるため枢密院の諮詢が必要です。その手続きを欠いているため、この戒厳令は違法であるという指摘もあります。そして言うまでもなく、水野・赤池・後藤のトリオが「朝鮮人の暴動」が起きたと誤認して緊急事態と捉え、過剰に反応し、なりふりかまわず施行した戒厳令です。
 そして森岡東京衛戌司令官が戒厳執行の職につくと、森岡東京衛戌司令官は、「警備に関する訓令」を発し、「万一、此の災害に乗じ、非行を敢てし、治安秩序を紊るが如きものあるときは、之を制止し、若し之に応ぜざるものあるときは、警告を与へたる後、兵器を用ふることを得」と、兵器の使用を許可しました。軍隊が兵器を使用することができる場合について規定した衛戌勤務令第12が具体的な規定をしているのにたいし、この訓令は、「非行」、「治安秩序を紊る」という抽象的な規定をしているだけに、どのような拡大解釈も可能である、問題の多いものでした。でも実際には、戒厳宣告前に、衛戌条令にもとづいて出動した軍隊は、無差別に列車を検察し、朝鮮人を拘引し、兵器を使用して大量の虐殺を開始していたのですが。(②p.132) いずれにせよ、朝鮮人が「非行」をし、「治安秩序を紊る」と軍隊が判断したら、殺害してよいというお墨付きが与えられました。

 なおこの2日の夕刻、鶴見署長・大川常吉は、身を挺して鮮人220人・中国人70人らを自警団の襲撃から救って保護しました。横浜市鶴見区の東漸寺に、彼の顕彰碑がありますので、よろしければ拙ブログの記事をご覧ください。

 このように朝鮮人を救った日本人が少ないけれどもいたことに、安堵の念を覚えます。他にも、鄭宗碩(チョン・ジョンソク)さんの祖父一家は、工場長の真田千秋さんによって命を救われました。鄭さんは、真田さんへの「感謝の碑」を建てようと、墨田区議会に陳情をして、碑を建てるために土地の提供ならびに管理の申し入れを正式にしました。ところが、その陳情は2001年3月に否決されました。その理由が、関東大震災で虐殺されたという具体的な事実は墨田区内にはないということ。もう一つは仮にその事実があって慰霊碑を建てたとしても区民の利益にはなりえないということでした。「良心と良識に欠けた決定」であると憤った鄭さんは、2001年9月1日に、墨田区向島にある法泉寺(真田家の菩提寺)に、自費をなげうって「感謝の碑」を建立しました。(⑬p.97~8)

 また2日の午後9時頃に、甲州街道沿いの東京府千歳村烏山でも虐殺が起こりました。ある土木請負人が、京王電鉄の依頼で朝鮮人労働者18名と共にトラックに乗って、地震で半壊した車庫を修理するために、笹塚方面に向かっていました。しかし、烏山附近まで来た時、竹槍を携えていた7、80名の青年団員に停車を命じられ、全員路上に立たされました。彼らは襲撃してきた朝鮮人集団と解釈し、鳶口、棍棒、竹槍等によって激しい暴行を加えて一人を刺殺し他の者にも重軽傷を負わせました。(⑧p.173~4)
 付近に住んでいた徳冨蘆花が、随筆のなかでこの事件にふれています。
 鮮人騒ぎは如何でした? 私共の村でもやはり騒ぎました。けたたましく警鐘が鳴り、「来たぞゥ」と壮丁の呼ぶ声も胸を轟かします。隣字の烏山では到頭労働に行く途中の鮮人を三名殺してしまいました。済まぬ事羞かしい事です。(『みみずのたはこと(下)』  岩波文庫 p.143)
 この事件で12人が起訴された時、千歳村連合議会は、この事件はひとり烏山村の不幸ではなく、千歳連合村全体の不幸だ、として彼らにあたたかい援助の手をさしのべます。ある人物曰く、「千歳村連合地域とはこのように郷土愛が強く美しく優さしい人々の集合体なのである。私は至上の喜びを禁じ得ない。そして12人は晴れて郷土にもどり関係者一同で烏山神社の境内に椎の木12本を記念として植樹した。今なお数本が現存しまもなく70年をむかえようとしている」「日本刀が、竹槍が、どこの誰がどうしたなど絶対に問うてはならない。すべては未曽有の大震災と行政の不行届と情報の不十分さが大きく作用したことは厳粛な事実だ」
 なお烏山神社には、当時植えられた椎の木のうち4本が残り、参道の両側に高くそびえているそうです。(⑨p.50)

 こうして虐殺の嵐が吹き荒れた9月2日は過ぎていきました。
by sabasaba13 | 2017-10-03 06:23 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 17

 そして9月2日から3日にかけて、各地に在郷軍人会・消防団・青年団を基体とした自警団がつくられていきました。これにはさまざまなケースがあると思われます。自発的に結成されたもの、警察・役所などから推奨、あるいは要請されてつくられたものなどです。姜徳相氏は、権力側の主導を重視されています。以下、引用します。
 戒厳司令部は軍事行動を独自におしすすめる一方、積極的に一般市民を組織して一定の自衛力を創設しようと画策した。すなわち自警団設立の勧奨である。官憲は自警団を「不逞鮮人」の暴行、または流言の脅威に対処した自然発生的な民衆の自衛組織である、と主張してきた。
 しかし実際は、家財を焼失し飢餓に瀕した民衆の不平不満を恐れた官憲が、民衆の排外心から復讐心を引きずり出すべく組織した団体であった。民衆の不満をすりかえ愛国心に転化して、権力への風圧をそらし、一方で警視庁管下の六十余署の「巡査一万の中より四千余人の罹災者を出し、神奈川警察部も同じく多大の人手を失って殆どサーベルの影さえ見られぬ状態」となった(「関東自警同盟決議」『報知新聞』1923.10.23)警察権力の補完材料に利用しようとしたのが、自警団である。官憲が朝鮮人暴動などのあらゆる流言をとばし、一般市民の憤怒の感情を激発したことはくりかえしのべてきたとおりであるが、その憤怒を朝鮮人への憎悪と防遏の両面に誘導し、体現したのが、日本刀、竹槍、斧などで武装した自警団である。(①p.135)
 史料が残されていないため確言はできませんが、その可能性は充分にあり得ると思います。猟銃、日本刀、金剛杖、竹槍、鳶口などで武装した人びとが町の要所を固めだし、こうして9月2日から3日にかけて軍隊、警察と民兵の三位一体の戒厳体制が成立していきました。

 なお、姜氏は自警団成立の情景をなまなましく描写する史料を紹介されています。(①p.138~9)
 二日午後三時-四時と覚しきころ、小石川は…観樹将軍三浦梧楼子の上富坂観樹庵の広庭、驚愕と飢えと疲れとは日ごろの見えも外聞も何のそのどうとその身を叢の上、土の上に臥し構え、昏々死せる如く眠るもの、呻くもの、叫ぶもの、或ものは失いし財貨の事を話して、かえらぬ事に執着し、或ものは離散せし肉親の甲乙の身の上を気遣う…今はもう上空を廻旋せし午前の飛行機の事も夢幻の如く忘れ果てて、狂おしき許りの焦心であり、焦燥であった。併し乍ら、五尺の身を起して積極進取、自ら食をあさり歩き、とり出し得ざりし財物を持ち来り、失いし人を索める気力とては勿論有る筈は無かった。焦慮焦心は却て飢えと疲れとを強めゆく許り、やがて誰もぐったりと失望、絶望の淵に陥った如く、だんまり込んでしまう…。そうしたその時! 広庭の小高い所に立った、武装甲斐甲斐しい一在郷軍人らしい中年の男があった。突如破れ鐘のような蛮声が鮨づめの人の上にひびき渡った。その俄作りの馬糞紙のメガホーンは或る事を語った。死せる如く横たわっていた人々は忽ち別人の如くすっくと立ち上がった。その蒼白の顔面に凹ませて持つ瞳の輝きの如何に異様なりしよ、極度の緊張! その時、人々の口は死人の如くこわばり黙する。
 おそろしく引きしまった広庭のその時の空気!
 その空気をうちふるわして、メガホーンの蛮声は尚もつづけられた。
 在郷軍人は、云い終ると飛鳥の如く彼方へと駆け出していった。その後姿を瞬きもせざる注意に見送った人々は、其姿の彼方に消えると共に、漸く我にかえった様に、ホッと太息をついた。
 と忽ち怒涛の如きうなりが、どっと広庭一帯に起った。…呪いと恐怖と絶望とを一度に音に表した様なそのさざめきが…。
 しばらくすると、その雑音のすべてをかき消す『生命がけなる魂の絶叫』が起った。
 又してもざーっと魂のうなり-その雑音がひろがって来た。
 町内では忽ち、在郷軍人、青年団員、町内有志の連合になる自警団が組織せられる。避難民中の壮年の男も、今までの疲れと飢えとを打ち忘れたかの如く、進んでこれに参加する。殺気は暮近き敗残の町のすみずみにみなぎり、人々の神経は針の如く鋭く作用(はたら)きだした。この世を滅亡せしめる悪魔の劫火は、東の天をあかあかと彩ってゆく。余震尚やまざる裡に、恐怖の第二夜は近づいてくるのだ。
 自警団の人々は、町名しるしたる白布を右肩より左脇へ、頭は後鉢巻を甲斐甲斐しく、町の入口、町内の要所要所を、水ももらさぬ堅固さに固めていった (田淵厳 『大地は壊れたり』)

by sabasaba13 | 2017-10-01 08:30 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)