カテゴリ:京都( 217 )

京都錦秋編(32):平野屋(14.11)

 「田中鶏卵」で卵焼きを購入し、四条大橋を渡って円山公園の中にある「平野屋」へ。
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 山ノ神が大好きな「いもぼう」をいただきました。箸袋にはこう記されています。
元禄から享保の昔、当家の主人が御所勤めの傍ら宮様のお伴で訪れた九州から持ち帰り、京の地で育てた海老芋と献上品であった北海道産の棒鱈とを、工夫を凝らして炊き合わせたのが京名物いもぼうでございます。
十四代続いた一子相伝の技とほんまもんの味を頑なに守り今日に至っております。
 "ほんまもんの味"、堪能いたしました。なお店先には「祝 和食 伝統的な食文化 ユネスコ無形文化遺産登録」という提灯がさがっていました。御慶。
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 ふたたび四条大橋を渡り、河原町駅から阪急京都線に乗って烏丸駅へ、四条駅で地下鉄烏丸線に乗り換えて京都駅へ。志津屋のビーフサンドを買って、コインロッカーから荷物を取り出して新幹線に乗り込みました。
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 車中のトイレに行こうと通路を歩いていくと、向こうから中年男性と中年女性が来たので、先に通してあげようと脇にどきました。ところがこのお二人、お礼も言わずに私を無視して通り過ぎていきました。知的劣化に加えて倫理的劣化か… 気のせいか、最近よくこういう場面に出くわします。ま、いいや、"徳不孤 必有隣"という言葉を信じて、これからもできるだけ親切に振る舞うようにしましょう。カート・ヴォネガット曰く、「親切は世界を救う」。午後10時過ぎに東京駅に到着、東京駅の顔はめ看板を撮影して、今回の旅は終わりです。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2016-10-18 06:29 | 京都 | Comments(0)

京都錦秋編(31):錦市場(14.11)

 売店で「瓢鮎図」Tシャツを売っていたので即購入。見るべきほどの庭は見つ、自害はしないで錦市場へ行って卵焼きを買いましょう。妙心寺三門に、さらば」と別れを告げました。
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 そうそう、何気なく今妙心寺のHPを見たら、トップ・ページに"節電 節水 節油 知足 たるをしる 原子力に頼らない わたしたちにできる小さくて大きな支援"という法語(?)があり、「吾唯足知」と刻まれた竜安寺の蹲の写真が掲載されていました。その意気やよし。奈落の底に落ちる穴の徳俵に足をかけている世界と日本。とてつもない格差社会と、それを弥縫するための狂熱的ナショナリズム。相も変わらない資源と市場の暴力的な奪い合い。その結果生じる、大量の難民。またその際に行なわれる一般市民への国家テロと、それに対するカウンター・テロ。大量生産・大量消費・大量廃棄による資源の枯渇と環境破壊、地球温暖化。必要な電力を賄うための核(原子力)発電所の乱立。それもこれも、もう不可能な状況であるにもかかわらず、各国が経済成長を強行していることに起因していると考えます。充足することを知らず、ひたすら金と物を追い求める世界と日本… 「吾唯足知」という四文字こそが、人々に平和と安楽をもたらすという先哲の智恵を大切にしたいものですね。
 JR花園駅まで歩き、山陰本線に乗って京都駅へ。地下鉄烏丸線に乗り換えて四条駅で下車。錦市場の入口には「伊藤若冲生家跡」という看板がありました。そう、伊藤若冲は1716(正徳6)年、ここ錦小路にあった青物問屋「枡屋」の長男として生を受けたのですね。アーケードにも彼の絵がたくさん掲げられていましたが、わが敬愛する画家の一人です。
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 とにかく、彼の絵が好き、ただそれだけです。中野雄氏が『モーツァルト 天才の秘密』(文春新書487)の中で、こう書かれていました。
 …群百の音楽家に比して、百倍も千倍も努力した人であった。ただ、彼はその"努力"を「つらい」とか、「もういやだ」と思わなかっただけの話である。
 そう、天才とは、"努力"を"努力"だと思わない人のことなのですね。そういう意味で若冲も天才だと思います。大好きな絵を描ける喜悦が、びしびしと伝わってきて幸せになります。以前より、石峰寺伊藤若冲展プライス・コレクションなど彼の足跡と展覧会を追いかけてきたのですが、今年は生誕300年、とてつもない規模の充実した回顧展が東京都美術館で開かれました。もちろん行く気満々だったのですが…なんと平日で五時間待ち! やれやれ、これでは入場できたとしてもまともな鑑賞はできないな、と来館を断念しました。それにしてもなぜ、突然、若冲の人気がこれほど沸騰したのでしょう? その経緯は知りませんが、来館者の多くは若冲が好きで訪れたのではなく、話題になったから来たのでしょう。JR東海キャンペーン「そうだ京都、行こう」で取り上げられた紅葉を見に行く方々と同じ行動パターンですね。メディアに踊らされるのではなく、己の研鑽と感性で好きな絵師やお庭を選んでほしいものです。このブームが一過性のものではないことを望みます。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2016-10-16 07:30 | 京都 | Comments(0)

京都錦秋編(30):妙心寺退蔵院(14.11)

 方丈の隣りにあるのが「元信の庭」、室町時代の絵師・狩野元信の手による枯山水庭園です。元信が画家としてもっとも円熟した70歳頃の築庭と推測され、自分の描いた絵をもう一度立体的に表現しなおしたもので、しかも彼の最後の作品だそうです。『一度は行ってみたい京都「絶景庭園」』(烏賀谷百合 光文社知恵の森文庫)によると、中根金作はこう評しています。
 …その雄渾なるうちに優雅豊麗さのある手法で石組し、作庭された構成の見事さには驚くべきものがある。そしてそれはあくまでも絵画的である。庭全体の構成や石組の一つ一つにも、画家でなくしてはなし得ない感覚がみられ、この庭の作庭者がただ者でないことを容易にうなずかしめるのである。(p.232)
 それでは余香苑へと向かいましょう。途中にあった瓦には、瓢箪と鯰が刻まれていました。
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 「陰陽の庭」を過ぎると、眼前に紅枝垂れ桜が現れました。平安神宮にある紅枝垂れ桜の孫桜で樹齢約50年。2013年春の「そうだ、京都いこう」キャンペーンに使用されたそうです。これはぜひ満開の頃に見てみたいものです。
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 楓の数はそれほど多くはないのですが、見事に色づいた紅葉をいくつか見られたのは僥倖でした。これは経験則なのですが、便所の近くの楓が特に綺麗なようです。"桜の樹の下には屍体が埋まっている"と書いたのは梶井基次郎ですが、"モミジの樹の下には…" 尾籠な話で御免なさい。お茶席「大休庵」の窓も瓢箪でした。
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 そして余香苑(よこうえん)へ。小さな塔頭かと思いきや、これほど宏大なお庭が広がっていることに驚かされます。サツキの大刈り込みの間から三段落の滝が、大きな池へと流れ落ちてきます。石組、石橋、灯籠、東屋などがバランスよく配置され、まるで一幅の絵を見るよう。観光客も少ないので、閑寂とした雰囲気の中で堪能することができました。視線の快楽… 心がどんどん広がって石や木々や水と一体になっていくような見事なお庭です。最上部に先ほどの紅枝垂れ桜が見えますが、満開の頃は絶景でしょうね。
 作庭したのは"昭和の小堀遠州"こと中根金作(1917~95)。静岡県磐田郡に生まれ、浜松工業学校図案科を卒業後、日本形染株式会社に入社。捺染図案の作成を行ないますが、二年後に退社し、現在の東京農業大学造園学科に入学しました。その後京都に移り、文化財保護課で働いた後、1966年に中根庭園研究所を開設し、作庭と庭園研究に専念します。代表作は、足立美術館、昭南宮などです。これからも追いかけ続けていきたい庭師です。
 なおこのお庭は、米国の庭園専門誌「ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング」(JOJG)が発表する2015年の「日本庭園ランキング」の第31位に選定されています。"So what"と(以下略)

 本日の五枚、一番上が「元信の庭」、真ん中三枚が余香苑、一番下が「陰陽の庭」です。
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by sabasaba13 | 2016-10-15 06:29 | 京都 | Comments(0)

京都錦秋編(29):妙心寺退蔵院(14.11)

 そして退蔵院へ。以前に訪れた時にマイケル・ムーア監督に出会えたお寺さんです。お目当ては、"昭和の小堀遠州"中根金作作庭の傑作、「余香苑」です。まずは方丈の縁側に置いてある如拙作の「瓢鮎図」のレプリカを表敬訪問。
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 このお寺さんのシンボルですね。瓢箪で鯰をつかまえようとする男を描いた摩訶不思議な絵、どういう意味があるのかいろいろな説がありますが、『瓢鮎図 ひょうたんなまずのイコノロジー』(平凡社)で述べられていた島尾新氏の所説を紹介しておきましょう。
 しかし、私たちが分析するような「構造」によって、絵を作った人々の営為を理解できたと思うのは早計である。目の前にあるのは「出来上がった」ものにすぎない。「瓢鮎図」の作られた場で、どんな会話がなされたのか知るよしもない。ひとつ想像を逞しくしてみよう。

 「このあいだ、上様(※足利義持)と話をしていたら、瓢箪で鯰を捕まえる、ということを言ったやつがいて、それを新邸の屏風に、という話になった」「ひょうたんでなまずおさえる? 誰が考えたんだ、そんなこと」「でも面白いじゃないか」「そんな諺があったような気もする」「しかし、何といっても将軍の屋敷の屏風だ。そう妙竹林なものも出来ないだろう」「上様は、なにか新しいものをお作りになりたいようだ」「新しいお屋敷だからな」「先代の義満公のときには無かったようなもの?」「どんな風に描けばよいのでしょう」「とにかく上様のお屋敷に置くのだから、立派なものじゃなきゃいけないな」「ひょうたんなまずを?」「大丈夫。清涼殿にも『手長足長』なんていう妙なものがある。これだって、もともとは『山海経』だ。中国の古典だよ。それに対抗して、ちがったのを作ればいいじゃないか」「しかし公家風はまずい」「もちろん唐絵だよ」「義満公の集められた中国絵画があるな」「瓢箪で鯰は捕らえられるものでしょうか?」「そんなことできるわけがない。だからこそ面白いんだ」「瓢箪を持って鯰と格闘するところでも描けばよいのでしょうか?」「それでは何の趣もない」「鯰が竹に上るっていうはあったよな」「そうだ、竹を入れよう」「鯰はこの大地を支えているって話もある。ついでだから男は鯰の上に乗せてしまえ」「瓢箪が手につかないっていうのはどうだ」… (p.104~6)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2016-10-13 06:23 | 京都 | Comments(0)

京都錦秋編(28):妙心寺大法院(14.11)

 それでは本日最後の訪問先、妙心寺へ参りましょう。ふたたび地下鉄東西線に乗り、太秦天神川駅へ、ここで嵐電天神川駅から京福電車に乗り換え、帷子ノ辻駅で嵐電北野線に乗り換えて妙心寺駅に到着です。駅構内に「特別公開 木島櫻谷旧邸」というポスターが掲示してありました。このしまおうこく? 不学にして知りませんでしたが、どのような方なのでしょう。いまインターネットで調べてみました。木島櫻谷(1877~1938)は京都で活躍をした円山四条派の日本画家です。大正元年頃、室町御池から衣笠等持院の地に転居、それを契機に、土田麦僊、村上華岳、堂本印象ら京都画壇の画家たちが衣笠周辺の地に移り住むようになりました。その時に建てられた母屋(和館)と収蔵庫および展示室(洋館)、それにアトリエ(画室)が登録有形文化財に指定されているそうです。はい、勉強になりました。今度、訪問してみたいと思います。
 妙心寺北門に向かう途中に、入口脇の電気メーターボックスに福助が鎮座している「ワンダアカフェ」というけったいなお店がありました。色物系なのでしょうか、おそらく店内にはレトロなグッズが充満しているのでしょうが、味の方はいかがなのでしょう。
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 そして妙心寺に着きました。口さがない京雀は「建仁寺の学問面、大徳寺の茶面、妙心寺の算盤面」と言ったそうですが、拝観料が高いのかな、少し心配です。たくさんの塔頭があるのですが、公開されているのはその一部です。天球院も非公開ですが、門からは見事に色付いた楓の古木が見えました。眼福、眼福。同じく非公開の大通院にも真っ赤な紅葉がありました。
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 今回のお目当ては、特別公開されている大法院です。以前に訪れたことがあり、きれいなお庭がありながらも観光客が少なく、心静かに鑑賞できた記憶があります。ぜひ山ノ神にも見せてあげたいと思って寄ったのですが…けっこう参拝客がつめかけています。インターネットで情報が拡散したのでしょうか。抹茶をいただいたのですが、庭を眺められる場所はすべて人でうまっていました。
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 それでも、草木が生い茂る侘びた雰囲気、美しい紅葉、よいアクセントとして景観をひきしめる茅葺の待合、蔀戸、石灯籠、蹲踞、飛石、延段など、素敵な景観に山ノ神も喜んでくれました。よかった。♪When you're smilin' When you're smilin' The whole world smiles with you♪ レスター・ヤングのそれはそれは素晴らしいソロが脳裡を流れました。客殿をとりかこむこのお庭は、茶室「有隣軒」の露地庭となっています。"有隣"とは、『論語』の「徳不孤 必有隣」に拠るという解説がありました。「徳は孤ならず、必ず隣有り」か、いいお言葉ですね。最近読んだ『論語』(ちくま文庫)の中で、桑原武夫氏はこう述べられています。
 「徳」とは、道徳であり、また同時に道徳を信じ行なう人の意味を不可分にもつものと考えられる。道徳とは特定の社会の風習をふまえて、その法則的理念化として生れるものである。したがって道徳が個人的特殊性の中に限界づけられるということは、矛盾であり、ありえないはずである。しかし、現実社会では道徳は個人を媒介にしてしか発現されることはなく、そのさい個人のもつ内外の諸条件によって、変容を生じることもまた明らかである。
 孔子は乱れた世の中で道徳の理想を貫くことは、一見孤立無援のたたかいのようだが、もともと普遍的なものである道徳には必ず同行者、理解者つまり友があるという確信を表明したのである。儒教に独特な健康なオプチミズムがここにはっきりあらわれている。「隣」という具体的な人間関係を示す言葉が用いられていることも、この章を力強くしている。(p.88~9)
 これは個人の人間関係だけではなく、国際関係にも敷衍できる言葉だと思います。不徳な外交を続けると、孤立し近隣に友邦がいなくなることを身に沁みて感じているだけに、よけい心に響きます。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2016-10-12 08:08 | 京都 | Comments(0)

京都錦秋編(27):二条城(14.11)

 なお江戸初期における、徳川氏と天皇の間で行われた丁々発止の駆け引きは面白いものです。1615年に「禁中並公家諸法度」を公布して朝廷への統制を強化した家康。さらに1620年には、秀忠の娘・和子を後水尾天皇に入内させ天皇との融和を図ります。天皇の屈辱感と反発が想像できますね。1616年に家康が死ぬと、1626年に懐柔策として後水尾天皇の二条城行幸を挙行、秀忠と家光は上洛して天皇を迎えます。その際に、幕府の威信をかけて御殿を新築し、庭を改修。それを担当したのが小堀遠州でした。しかし翌年の1627年、後水尾天皇は、幕府の許可なく高僧に"紫の僧衣"を与えてしまいます。家光は、紫衣を取り上げ、抗議した沢庵らを処罰します。これが紫衣事件。幕府に反発していた後水尾天皇はこれで怒髪天を衝き、幕府の制止も聞かずに、和子が産んだ明正天皇に譲位してしまいました。859年ぶりの女帝ですね。天皇に対する統制の難しさを痛感した幕府は以後、強引な統制をやめソフトな融和策をとることになります。例えば、修学院離宮造営に対する援助もその一環です。その結果、可哀相に東福門院和子は朝廷内において孤立を余儀なくされ、やがて"衣装狂い"にのめりこんでいきました。半年間に、約一億五千万円相当の着物を購入したというのですから、これはもう狂気に犯されていたのかもしれません。そしてその注文先が「雁金屋」、そう、尾形光琳の生家です。彼女が亡くなったのは1678年、その時光琳は二十歳です。薄幸の狂気が、一人の天才芸術家を育んだ…などと想像するのも歴史を知る喜びの一つです。
 流刑にされた沢庵が居住した春雨庵、後水尾天皇の山荘(幡枝御殿)跡である円通寺修学院離宮侵入顛末記などの記事もありますので、よろしければご笑覧ください。

 そして内堀を渡って本丸へ。天守閣跡にのぼると、真っ黄色に染まった公孫樹が見えました。紅葉の盛りは終わったようですね。
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 本丸御殿を撮影してふたたび内堀を渡り、清流園へと向かいます。内堀のほとりでは鴨たちが仲良く並んで日向ぼっこをしていました。
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 途中に「加茂七石」と記されて、畚下(ふごおろしいし)石・紫貴船石・紅加茂石・糸掛石・畑石・鞍馬石・八瀬真黒石という七つの石が置いてありました。これは鴨川で産し、庭石・水石として用いられてきた銘石のことですね。
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 そして清流園に到着。この庭園は河原町二条にあった旧角倉了以の屋敷の一部、庭石、庭木等を無償で譲りうけ、さらに全国から集めた銘石を用い、1965(昭和40)年に完成しました。東半分が芝生を敷き詰めた洋風庭園、西半分は和楽庵・香雲亭という二棟の茶室を含めた池泉回遊式山水園からなる和洋折衷庭園です。小ぶりですが、バランスのとれたなかなか良い庭園です。なおこのお庭は、米国の庭園専門誌「ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング」(JOJG)が発表する2015年の「日本庭園ランキング」の第40位に選定されています。"So what"と(以下略)

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2016-10-10 07:09 | 京都 | Comments(0)

京都錦秋編(26):二条城(14.11)

 七条駅から京阪電車に乗って三条京阪駅へ、地下鉄東西線に乗り換えて二条城前駅で下車、すぐ目の前が二条城です。東大手門、唐門、二の丸御殿など見所はたくさんありますが、本日は時間の関係で二の丸庭園のみを拝見しました。
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 まずは解説板を転記します。
 池を中心とした書院造庭園であり、池には三つの島を築き、四つの橋を架け、西北隅に滝を落とし、池の汀に多くの岩石を配した景観は、変化に富んで秀麗であり、豪壮な趣がある。
 庭園は、大広間の西、黒書院の南に位置し、主として大広間からの鑑賞を想定して造られているが、寛永三年の後水尾天皇行幸の際、行幸御殿が庭園の南側に建造されたことから、南方からの鑑賞も配慮して、庭園南部の石組に変更を加えた形跡が見られる。
 作庭年代については、記録や作風から推察して、1603年(慶長8年)の二条城築城の際にその建築に調和させて造営されたもので、後水尾天皇の行幸の際に、数多くの名園を手がけた小堀遠洲によって一部改修が加えられ、今日に至ったものと考えられる。
 桃山末期から江戸初期に大成された書院造りの大建築に伴う庭園の特徴をよく示しており、現存する歴史的庭園の中でも最も優れた作品の一つに数えられている。
 広大な池に浮かぶ蓬莱島・鶴島・亀島、そして青石を主とした豪壮な石組が随所に配されています。なおこの青石は、結晶片岩という石で、紀伊半島や四国で多く産出する石だそうです。雨が降って濡れると一段と鮮やかな色合いになるため、多くの庭園で使われていますが、ここまでの数を据えているところはそうはないとのこと。徳川氏の権勢を目の当たりにするようです。そういえば先日訪れた桂離宮で、係の方が梅雨の時期が狙い目だと教えてくれました。来訪者が少ないことと、雨に濡れた石が美しいからとおっしゃっていましたっけ。また菰を巻かれた蘇鉄がありましたが、寛永年間当初には60本あまりのソテツが植えられていたそうです。そのほとんどは自生地の琉球か薩摩から運んで来たものと考えられますが、これは関ヶ原で西軍に属していた薩摩島津氏も徳川家の威に伏していることを示したのですね。
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 ちなみにこのお庭は、米国の庭園専門誌「ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング」(JOJG)が発表する2015年の「日本庭園ランキング」の第15位に選定されています。"So what"と(以下略)

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2016-10-09 06:37 | 京都 | Comments(0)

京都錦秋編(25):智積院・養源院(14.11)

 九条通りまで出てタクシーをつかまえ、智積院へ向かってもらいました。途中の今熊野商店街でわれわれが足繁くかよったパン屋「ゲベッケン」が営業しているのを視認して二人で喜んでいると、タクシーの運転手さん曰く「このあたりにお住まいだったのですか」。いえいえ、実はかつて近くにあった京都パークホテルが定宿でしたと説明。ハイアット・リージェンシーに変わってからは、宿泊料が高額なため宿泊しておらず、このあたりはとんと御無沙汰しています。良いホテルだったんですけどねえ、と溜息をつくと、しばしこの話題で盛り上がりました。運転手さんがおっしゃるには、ハイアットになってサービスに日本的なきめこまやかさがなくなったそうです。そして智積院に着きました。収蔵庫にある長谷川等伯一派によって描かれた襖絵、中でも等伯描く「楓図」と、彼の息子・久蔵描く「桜図」を見るために何度も訪れましたが、数年前にやたらと楓を植えたのでその成長を見るのも楽しみです。そこいらじゅうに闇雲に植えただけなのであまり風情はないのですが、それなりに色づいた紅葉を堪能することができました。
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 それではわれわれ御用達の養源院に参りましょう。ハイアット・リージェンシーを横目に京都パークホテルを偲び、片山東熊設計の京都国立博物館を撮影し、赤十字ビルを曲がるとそこが養源院です。
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 何度も訪れていますが、それなりに綺麗な紅葉と桜をロハで見ることができ、お金を払えば俵屋宗達の杉戸絵と伏見城の血天井も拝見でき、おまけにいつ行っても閑古鳥が大合唱をしているという稀有なるお寺さんです。あれ? 観光客がいる… 窒息するほどではありませんが、ちらほらと人影が見えます。テレビで取り上げられたのかなあ。2015年は琳派400年(本阿弥光悦が鷹峯に芸術村を開いたのが1615年)なので、ブレイクしそう。幸い紅葉の盛りも終わっておらず、参道を覆う楓の並木が真っ赤に染まっていました。
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 それでは小堀遠州のお庭を見に、二条城へ行きましょう。京阪電車の七条駅に向かって歩いていると「プリンセス・ライン」と記された真っ赤なバス停がありました。そしてやってきた真っ赤なバス。そうか、京都女子大学と京都駅を結ぶバスなのですね。あの…男性は乗れるのでしょうか?
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 「わらじや」もご健在、久しぶりに「うぞうすい」を食べたいなあ。
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 本日の四枚、上一枚が智積院、下三枚が養源院です。
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by sabasaba13 | 2016-10-04 06:39 | 京都 | Comments(0)

京都錦秋編(24):光明院(14.11)

 日本三大門の一つかもしれない東福寺三門を撮影して、すぐ近くにある塔頭の光明院へ。
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 こちらにも重森三玲作庭の素晴らしいお庭、「波心庭」があります。こちらは以前に一度訪れたことがあるのですが、その時に門前で見かけた「多勢入山者は好みません。庭の自尊心も傷つけますので是非にと思われる方以外どうでも良いと思われます方は自問の上入山しないで下さい。尚皆様方を信じて居ります故諸作法をお守り下さいますようお願い申し上げます。右よろしく」という味な立て看板は撤去されていました。マナーが向上したということなのでしょうか。だとしたら御慶です。パンフレットの解説を転記します。
 明徳2(1391)年、金山明昶(きんざんみんしょう)の創建による東福寺の塔頭。別名「苔の虹寺」とも称され、とくに苔の美しい新緑や紅葉時には、ひそやかな禅寺も華やぎを増す。
 方丈の前に広がる池泉式の枯山水庭園は、昭和14年、東福寺庭園と同時期に設計されたもので、三玲の初期の名作。方丈庭園とはうってかわって、平安式の洲浜型の枯池に多数の石組みを配している。寺号にちなんで光明をテーマに作庭されており、大海を表す白砂に構成された三ヵ所の三尊石組から仏の光のごとく斜線状に立石が並ぶ。
 背後にはサツキやツツジの大刈り込みでダイナミックに雲紋をデザインし、その雲の上には茶亭「蘿月庵」が佇む。これは禅語の『雲ハ嶺上ニ生ズルコトナク、月ハ波心ニ落ツルコト有リ』によるもので、昭和32年(寄付きは昭和38年)建築の蘿月庵は窓、壁、障子を含めて月を象徴し、「波心の庭」と命名された庭から眺めれば、東の空に月が昇る姿を楽しみという仕掛けになっている。
 それでは拝見いたしましょう。うねるように地を覆うきれいな苔と白砂の枯池、その随所に屹立する数多の立石。まるで大地から湧き出で、喜びとともに輪舞しているようです。今回はまだ見頃の紅葉も多く、お庭に色を添えていました。丸い吉野窓を通しての眺めも、障子・鴨居・縁側でトリミングされた眺めも、申し分なし。至福のひと時を過ごすことができました。
 なお東福寺塔頭の霊雲院には、重森三玲が復元した庭がありますが、残念ながら非公開です。

 本日の九枚です。
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by sabasaba13 | 2016-10-03 08:31 | 京都 | Comments(0)

京都錦秋編(23):東福寺本坊庭園(14.11)

 それでは拝見することにしましょう。庫裡から方丈へと進む渡り廊下を歩いていくと、右手に東庭が見えてきます。北斗七星をあらわす石の円柱、白川砂、苔、背後の二重生垣で構成された小さなお庭です。円柱は、山内にある東司(とんす:便所)で使用されていた礎石で、東司の解体修理をした際に、余材として出てきた廃材です。円柱形の石材を使うという手法は、すでに小川治兵衛(植治)によって行われています。彼は、三条大橋や五条大橋で使われていた橋脚を使って、龍の姿に見える沢飛石「臥龍橋」を平安神宮の神苑につくりました。三玲は「日本庭園史図鑑 全26巻」を執筆するに際して、神苑の詳細な実測調査をしているので、この手法は熟知していたことでしょう。七石の高さは、高・中・低のバランスを考えたリズミカルな構成となっています。背後の二重生垣も、大徳寺本坊庭園、孤篷庵方丈前庭などに用いられている手法が取り入れられ、古典的な庭園に学んでいることがわかります。波紋のように広がる砂紋も洒落ていますね。
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 そして南庭へ。ここでは日本庭園の定型的な表現方法である、蓬莱神仙思想を中心とした意匠となっています。神仙島を構成する、寝かせた長石と、鋭く屹立する立石のバランスが絶妙ですね。このような石の扱い方は、古庭園ではほとんど例がないとのこと。重森三玲の面目躍如です。一切石を使用していない築山は、京都五山を表現しています。ぽこぽこぽこぽこぽこと、苔に覆われた緑の築山がリズミカルに並ぶ造形の面白さ。斬新です。この築山の部分は、斜線上に苔と白川砂の仕切りが設けられています。こうした直線を使ったシャープな意匠は、小堀遠州の表現方法からヒントを得ているそうです。この仕切りに呼応するような、直線と同心円の砂紋もモダンな意匠で素晴らしいですね。
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 西庭の大市松模様「井田の庭」は、日本古来から伝えられてきた伝統的な市松模様を、サツキの刈込と葛(かずら)石の使用によって表現してあります。葛石とは、社寺・宮殿などの基壇の上端の縁にある、縁石(へりいし)を兼ねる長方形の石のことです。この本坊内に使われていた、廃材である長方形の葛石を再使用してできあがった意匠です。こうした長方形の石は通常の作庭では使われませんが、それでも廃材利用という東福寺からの要求にそって使用しなくてはならなかったことから考え抜いた末に辿り着いた答えが「市松」だったのですね。市松は、桂離宮内の松琴亭の襖や床に、また修学院離宮の茶席の腰張りに使用されるなど、日本の伝統的な紋様です。また東福寺山内においても、先ほど見た開山堂の市松の砂紋を三玲は昭和13年2月に実測してその美にも引かれていたことが、彼の記述したものに残されているそうです。また南西の角には、自然石による三尊石組がありますが、これは東庭の北斗七星による七石、南庭の京都五山の五つの山と組み合わせると「七五三」になっているのですね。なお「井田(せいでん)」とは、井の字に等分した古代中国の田制にちなんでいます。
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 北庭へ行く途中には「通天台」とう舞台が設けられ、通天橋と洗玉澗を一望することができました。
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 そして最後の北庭です。廃材の切石を再利用した市松模様と、それをうずめるような緑の苔の対比が美しいですね。しかも西庭の大きな市松から、小さい市松へと変化し、しかも徐々に崩れてまばらとなり、最後は消えてしまうというドラマチックな構成となっています。このお庭を見たイサム・ノグチが「モンドリアン風の新しい角度の庭」と評したのも頷けます。
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 というわけで、何度見ても素晴らしいお庭です。また再訪しそうな♪恋の予感♪

 本日の五枚です。
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by sabasaba13 | 2016-10-01 06:34 | 京都 | Comments(0)