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『タコ社会の中から』

 昨日、アメリカはサイバー攻撃や原発攻撃などで日本を壊滅させるオプションを持っていると書きました。どこかでそれに関する随筆を読んだことがあるなあと感じたのですが、思いだしました。『タコ社会の中から 英語で考え、日本語で考える』(晶文社)所収の「赤(と白と青?)の脅威」という随筆で、筆者はC・ダグラス・ラミス氏でした。
 世界中の国々のなかでいちばん、日本の国境を侵犯したり、日本人に戦争をしかけたりしそうな国はどこだろう? 答はあきらかだ。それはソ連ではなく、アメリカである。
 こんなことをいうのはタブーになっているけれども、第2次大戦後の歴史をみればそれは歴然としている。冷戦が始まって以来、アメリカもソ連も、相手の勢力圏にある国を直接侵略するようなマネはしていない。第3次大戦の引金となるのを恐れるからだ。中立国にも戦争をしかけていない。アメリカとソ連が当事国として関係している戦争や軍事行為はどれも、自分の勢力圏内の、すでに自分の支配下にある国で、その支配力が脅かされたときに始まっている。
 こうして朝鮮戦争はアメリカの勢力圏内の韓国でおき、インドシナ戦争はアメリカの勢力圏内の南ベトナムでおきた。他方、ソ連が軍事力を行使したのは、同盟国であるチェコスロバキアやアフガニスタンの侵略のときだけだ。超大国と結んだ「安全保障条約」は、その超大国が侵攻してくるのを防ぐ役にはたたないようだ。
 現在の国際的な権力構造からすると、日本を侵略しそうな唯一の国はアメリカである。といっても、侵略の可能性が大きいというのではなく、ソ連よりはまだ可能性があるというだけの話だが(もちろん第3次大戦が始まればソ連のミサイルが-アメリカの基地がここにあるから-日本に降りそそぐだろうが、第3次大戦は1時間ちょっとしか続くまい)。アメリカの侵略は、もちろん、(チェコや南ベトナムのときと同じパターンで)日本で政府の手におえないほどの反米運動がおきたときなどに、「正当な政府の要請により」行なわれる。そしてこれほど簡単なことがあるだろうか? 米軍と軍の装備はすでに日本国内に入っているわけだし、日本の自衛隊がそれに対して防御線をしいたり戦略を考えたなどという話は聞いたことがないのだから。(p.25~7)
 うわお。その通り。歴史をふりかえればたしかに一目瞭然、過去において他国に対して最も頻繁に戦争をしかけたり軍事行為を行なったりした国は、アメリカ合州国です。その理由は、ラミス氏が指摘している通り、当該国に対する支配力が脅かされた時ですね。これには当然、経済的な権益も含まれます。『政府はもう嘘をつけない』(堤未果 角川新書)によると、アメリカ合州国は、建国以来、235年中214年が戦争中だそうです。(p.170) アメリカは、戦争によって物事を解決する国なんだということを肝に銘じておいた方がよさそうです。そしてそのための準備にも余念がないということも。食事とゴルフを一緒にしてもらったとはしゃぎながら尻尾を振っている誰かさん、歴史を勉強してくださいね。
 という短いながらも鋭く本質を抉るエッセイが満載なのが本書です。日本語にして800字程度、おまけに英語バージョンも掲載されているという優れもの。シニカルに、ユーモラスに、真面目に、軽やかに、時には(特に権力に対して)怒気をはらみながら、ラミス氏の筆は縦横無尽に政治や社会や文化を活写します。なおこの「英語で考え、日本語で考える」シリーズは、他にも『最後のタヌキ』、『フクロウを待つ』、『ウォー・カムズ・ホーム』(いずれも晶文社)が刊行されていますが、すべてお薦めです。すべて絶版というのも悲しいのですが、古本屋のサイトで見つかると思います。
 なお拙ブログに『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』(平凡社ライブラリー)と『普通の国になりましょう』(大月書店)の書評も掲載してありますので、よろしければご笑覧ください。

ウィキペディアからラミス氏のプロフィールを引用します。
ダグラス・ラミス(Charles Douglas Lummis、1936年-)は、アメリカ合衆国の政治学者、評論家。専門は政治学。日本在住。サンフランシスコに生まれ、カリフォルニア大学バークレー校卒業。1960年に海兵隊員として沖縄県に駐留。1961年に除隊後、関西に住み、ベ平連の一員として日本での活動を始める。1980年津田塾大学教授。2000年退職。以後は沖縄に移り住み、非常勤講師を勤める傍ら、執筆や講演活動を行っている。日本人論批判で知られ、のち平和運動家、また文筆活動をする。
 映画『沖縄 うりずんの雨』にも出演されていましたね。なお知念ウシさんは、御夫人です。彼女が書いた『ウシがゆく』(沖縄タイムス社)も面白いですよ。

 タイトルの「タコ社会」ですが、これは中根千枝氏が日本社会を分析する際に提唱した「タテ社会」をひねったものです。タコ社会は階級社会であって、"分割して統治せよ (divide and rule)"という古くからの方針によって組織された社会です。底辺では、住民を別々のタテ組織に組みこむことによってヨコの関係-連帯-を阻んでいます。タコの足のように。上層部では、支配階級がヨコに連帯して社会を統治しています。タコの頭のように。(p.207~9) 私に言わせれば、連帯する1%と、分断される99%、ということですね。
 では、このタコ社会に抵抗するには、その外側に出るには、トンネルの壁に穴をあけるには、何をすればいいんでしょうか? ラミス氏は、こう答えておられます。
 方法は無数にある。逆コースについて勉強し、自然の野性を愛することをおぼえ、流行に目をくれず、自転車に乗り、ウィジェット(※役に立つ機能もなく芸術的価値もない小道具や装飾品のこと)を買うのをやめ、コンピューターを笑い、自分の主義に忠実であろうと決意し、民主主義のためにあらゆるところで(特に働いている人はそれぞれの職場で)闘い、先生が教えてくれなかったことを勉強し、外に出て日没をながめ、飼犬をはなしてやりなさい。すでにそういうことを実行している人は大勢いる。その人たちに加われば、あなたはタコ社会に負けないだろう。(p.209~11)
 なお留意すべきは、いまや全世界が「タコ社会」と化していることです。そしてタコの足どうしがいがみあっていれば、タコの頭は安泰です。中国や韓国や北朝鮮の人びとと罵り合っている場合じゃないと思うんだけどなあ。タコの頭を利するだけです。
by sabasaba13 | 2017-02-15 06:27 | | Comments(0)

『韓国現代史』

 関東大震災時の朝鮮人虐殺についてずっと追いかけていますが、ふと立ち止まると、朝鮮の歴史についてあまりに無知なことに気づき愕然としました。いかんいかん、すこし勉強しなければ。というわけで手に取ったのが『韓国現代史』(文京洙[ムンギョンス] 岩波新書984)です。

 日本による植民地支配からの解放(光復)、米ソによる南北分断と済州島4・3事件、李承晩による独裁、朝鮮戦争、学生と市民のデモで李承晩政権を倒すも(4・19革命)、朴正熙によるクーデターで軍事政権が成立。彼が射殺されて民主化(ソウルの春)への期待がふくらみますが、全斗煥による5・17クーデターが成功。民主化運動が沈黙を余儀なくされるなか、唯一この新軍部政権に抗議して立ち上がったのが光州の市民・学生ですが、アメリカの協力のもと全斗煥政権は武力でこの動きを鎮圧します(光州事件)。これに関して、文氏はこう述べられています。
 だが、光州事件は、この学生運動にとっても骨身にしみる体験であった。光州の悲劇は、体験者の口コミや運動歌謡「ニムの行進曲」などを通じて外部にも伝えられた。そうした体験談や目撃談を伝えきいて、「憤怒して涙を流し、社会の現実に無知であった自身を恥じ、また罪責感にさいなまれ、学生運動に参画していった者も数知れない」(真鍋祐子 『光州事件で読む現代韓国』)という。(p.156)
 そして1987年、民衆デモの巨大なうねりがこの新軍部政権を力でねじふせます(六月民主抗争)。全斗煥を退陣に追い込んだのですが、新憲法下での大統領選挙で民主化勢力は候補者を一本化できず(金大中・金泳三)、軍部の盧泰愚が当選します。しかし多数派を制した野党が国政調査権を発動、政財界の有力者を聴聞会に召喚し、新軍部政権期の不正や人権弾圧を次々と暴いたのです。これが盧泰愚政権の息の根を止め、三十年ぶりの文民政権・金泳三政権が誕生しました。その後、金大中政権を経て、韓国の宿痾とも言うべき地域主義と、保守勢力の打破を掲げて盧武鉉が大統領選に立候補します。ネティズン(インターネット+市民)と呼ばれる若い有権者の支持を得ますが、やがて日韓共催W杯の熱気によって、人びとの政治に対する関心が冷え切っていきます。ところが…
 (※2002年)11月、米軍事法廷の下したある無罪判決がネティズンたちを激怒させ、数万の市民の反米蝋燭デモが全国の主要都市で繰り返された。五カ月前に女子中学生二人が米軍装甲車によって轢死する事件があり、米軍は駐韓米軍地位協定(SOFA)を盾に加害米兵の引渡しを拒んで米軍軍事法廷に処分を委ねていたのである。W杯から蝋燭デモへと、ネティズンたちの気分は、もう一度政治へと傾き、投票日を間近にひかえて盧風(ノブン)が猛烈な勢いで再燃した。(p.204~5)
 こうして盧武鉉が大統領に当選。彼は、強い意志をもって韓国が犯してきた過ちの清算に乗り出し、民主主義を進化させていきます。2005年の光復節(クァンボクチョル)(8月15日)、この解放六十年の記念すべき式典で盧武鉉大統領は演説し、過去清算について次のように述べています。
 「国民に対する国家機関の不法行為によって国家の道徳性と信頼が大きく毀損されました。国家は自ら率先して真相を明らかにし、謝罪し、賠償や補償の責任を尽さなければならないでしょう。(中略)国家権力を乱用し、国民の人権と民主的基本秩序を侵害した犯罪に対しては、そしてこのために人権を侵害された人びとの賠償と補償については、民・刑事の時効の適用を排除したり、適切に調整したりする法律をつくらなければなりません」 (p.214~5)
 そして2004年の韓国国会は、過去清算に関する立法のラッシュとなりました。朝鮮戦争の民間人虐殺の被害者救済にかかわる法律、植民地期の強制連行などにかかわる特別法、さらになんと一世紀以上前の甲午農民戦争に関する特別立法、植民地期における親日反民族的行為を究明する特別法などが次々と制定されました。そしてこうした特別法を総括する母法として、植民地期から軍事政権期にいたるすべての事案に適用して真相究明や責任の追及、補償を効率的に実施できるような特別法(真実・和解のための過去事整理基本法)が成立します。(p.215~6) こうした動きに反発する野党勢力(ハンナラ党)も強かったのですが…
 ところが、2005年の3~4月におきた思わぬ事態が法案成立の追い風となった。島根県議会の「竹島の日」条例案の採択や、扶桑社の歴史教科書問題をめぐって対日批判の機運が盛り上がったのである。過去を忘れ去ろうとする日本人・日本社会のあり方がいわば「反面教師」となって、韓国人の過去に向き合おうとする意識があらためて喚起され、ハンナラ党もそういう機運におされて譲歩する以外になかった。(p.217)
 しかし反対勢力は、不正な選挙運動・側近の不正などを理由に、国会において大統領弾劾訴追案を可決させます。しかし世論はこの弾劾に激しく反発。
 こうして、弾劾反対の世論を主導したのは、国会に長年巣くいながら有権者不在の派閥争いや不正に明け暮れてきた政治家たちに対する、まったく未組織のネティズンたちの積もり積もった怒りであった。それは、インターネット時代における直接民主主義の新しい可能性を示したともいえる。(p.222)
 弾劾の当否を問うかたちとなった2004年の総選挙では、盧武鉉とウリ党を支持するネティズンたちが活発な活動を行ないました。インターネットによる情報発信、大規模なデモや集会、落選運動や選挙監視、さらにじかに候補を擁立するなどの運動を追い風にして、ウリ党は圧勝。これをもって事実上の大統領信任と見なされ、さらに憲法裁判所により大統領弾劾訴追が棄却されました。
 さらにこの総選挙ではドラスティックな国会の刷新が実現します。議員の63%が新人に入れ替わり、国会の八割が新人と二選の議員で占められました。87年の民主化以前からの国会議員は一人のみとなり、多選議員のボスが党運営を牛耳って党改革の足を引っ張るといった構造は大きく払拭されます。そして70~80年代に街頭で民主化運動をたたかった世代が大半を占める形となりました。

 そして今、韓国市民はまた立ち上がり、朴槿恵大統領を退陣へと追い込みました。

 著者の文京洙氏は、最後にこう述べられています。
 市民社会が幼弱だった70年代までの韓国では、反共と開発を掲げた「強い国家」のもとで学生や市民による自発的な協働は、いともたやすく捻じ曲げられたり捻じ伏せられたりしてきた。だが、70年代以降の民主化過程で韓国社会は実に豊かにこの下からの自発的な協働に発する組織や運動団体(アソシエーション)をはぐくんできた。それは、「強い国家」の時代から「強い市民社会」のそれへの転換であったと言い換えることもできる。韓国のサイバー空間が一方的な中傷や誹謗、差別表現や人身攻撃の場に堕することなく、市民参加や水平的な討議の手段となりえたのも、基本的にはインターネットの普及がそういう市民社会の成長の時代と軌をいつにしていたからであろう。
 市民社会の強さとは、互いに異なる立場や見解をもつ実に多様な集団や個人どうしの尽くされた討議や対話を前提としている。(p.229)
 韓国の現代史を理解するためのキーワードが、「強い市民社会」であると痛感しました。文氏の言を借りれば、"多様な考え方や主張が対等で開かれた討議や対話を通して問題解決に貢献しようとするときの場やルールをいかに確保するのか"ということです。(p.233) そして「強い市民社会」を闘いによって自らの力で勝ち取った韓国の市民、心の底から尊敬します。その不撓不屈の闘いを支えたものは何か。まずは、引用文の中にあるように、"憤怒""激怒""怒り"です。義憤と公憤。自国他国を問わず、国家権力による人権侵害や市民社会への攻撃に対して、きちっと怒ってきたこと。そして植民地期には日本によって、戦後は軍部政権によって、言語に絶するような人権侵害・虐殺・弾圧を受けてきたこと。国家権力に対する不信感・警戒感と、市民社会に対する不信感が、市民の心根にしっかりと根づいているのではないでしょうか。

 できればしたくはないのですが、わが日本と比較しましょう。米兵の犯罪に激怒した韓国市民、怒らない日本国民。パチンコを全廃させた韓国市民、カジノ法案を成立させてしまった日本国民。反民主的な大統領を何度もやめさせてきた韓国市民、「他の首相より良さそう」という理由で安倍伍長政権を六割が支持する日本国民。国家の犯した犯罪や過ちを究明し謝罪し補償しようとする韓国政府とそれを後押しする市民、それを隠蔽する日本政府とそれを支持する、あるいは無知・無関心な国民市民社会を守るために怒り闘ってきた韓国市民、市民社会を守ろうとしない日本国民。怒る韓国市民、怒らない日本国民。
 その絶望的な懸隔には目が眩みます。それにしてもなぜこのような状況になってしましったのか。歴史に学びましょう。『永続敗戦論』(太田出版)の中で、白井聡氏はこう述べられています。
 戦後のある時期までの台湾や韓国の政治体制の抑圧性は、言ってみれば、日本において「デモクラシーごっこ」が成り立つための条件であった。ここに浮かび上がるのは、敗戦による罰を二重三重に逃れてきた戦後日本の姿である。実行されなかった本土決戦、第一次世界大戦におけるドイツに対する戦後処理の失敗の反省の上に立った寛大な賠償、一部の軍部指導者に限られた戦争責任追及、比較的速やかな経済再建とそれに引き続いた驚異的な成長、かつての植民地諸国に暴力的政治体制の役回りを引き受けさせた上でのデモクラシー、沖縄の要塞化、そして「国体の護持」…。冷戦構造という最も大局的な構図に規定されることによって、これらすべての要素が、「日本は第二次世界大戦の敗戦国である」という単純な事実を覆い隠してきた。(p.42)

 付記。韓国の軍部政権を日本政府が支えてきたことも絶対に忘れないようにしましょう。例えば、1982年末に登場した中曽根政権は、韓米日の新次元での安保協力関係の構築に意欲を燃やし、40億ドルの借款供与によって全斗煥政権を支えました。(p.154)

 付記その二。朴槿恵大統領は、朴正熙の娘さんだったのですね。
by sabasaba13 | 2016-12-27 06:28 | | Comments(0)

『へいわって どんなこと?』

 「日・中・韓国 平和絵本」という絵本のシリーズをご存知ですか。迂闊にも私は初耳、某書ではじめて知り、その一冊『へいわって どんなこと?』(浜田桂子 童心社)を読んだ次第です。まず刊行の言葉を引用します。
 アジア・太平洋戦争の終結から65年が過ぎました。それでもなお、紛争の火種はいたるところにあり、それらは先の戦争が積み残した問題が原因となっているものも多くあります。
 一方、近隣の国同士の人びとの交流は様ざまな形で広がっており、互いに手をつなごうとする動きは確実に進んでいます。
 この"絵本シリーズ"を創るために続けられた日本、中国、韓国の絵本作家たちや出版社同士の交流は、6年を数えます。これは国の違いを超えた、相互理解と痛みの共有への努力の歴史です。そして三か国共同出版(それぞれの国で、それぞれの言語で、12冊の絵本を刊行しあう)という絵本史上初めての試みを成功させるための冒険の歴史でもあります。
 平和のために立ちあがった三か国12人の絵本作家たちの熱い思いは、強固な「友情と共感」、そして「希望への連帯」の結びつきを作りました。
 その意気やよし。嫌中・嫌韓本がうず高く本屋に積まれている今こそ、こうした共同作業が必要だと思います。そして魯迅ではありませんが、まず子どもたちを救うこと。日本人だって中国人だって韓国人だって、少々の違いはあるけれど、同じ人間であり、平和に暮したいと願っているのだということを知ってほしいと思います。人間を昆虫と同じように分類し、何千万という人間集団に「善」とか「悪」とかのレッテルが貼ってしまうような嘆かわしい精神的習慣から、せめて子どもたちは無縁でいてほしいものです。
 いろいろな人種・民族の子どもたちを彩り豊かに描いた絵も、戦争の醜さと愚劣さを描いた絵も、ともに子どもたちに訴える力をもっています。そして分かりやすく、真摯な気持ちのこもった詩が素晴らしいですね。
せんそうを しない。
ばくだんなんか おとさない。
いえや まちを はかいしない。
だって、だいすきな ひとに いつも そばにいてほしいから。
おなかが すいたら だれでも ごはんが たべられる。
ともだちと いっしょに べんきょうだって できる。
それから きっとね、へいわって こんなこと。
みんなの まえで だいすきな うたをうたえる。
いやなことは いやだって、ひとりでも いけんが いえる。
わるいことを してしまったときは ごめんなさいって あやまる。
どんな かみさまを しんじても かみさまを しんじなくても だれかに おこられたりしない。
おもいっきり あそべる。
あさまで ぐっすり ねむれる。
いのちは ひとりに ひとつ、たったひとつの おもたい いのち。
だから ぜったいに、ころしたら いけない。ころされたら いけない。
ぶきなんか いらない。
さあ、みんなで おまつりの じゅんびだよ。
たのしみに していた ひが やってきた。パレードの しゅっぱーつ!
へいわって ぼくが うまれて よかってって いうこと。
きみが うまれて よかったって いうこと。
そしてね、きみと ぼくは ともだちに なれるって いうこと。
 "いやなことは いやだって、ひとりでも いけんが いえる"など、単に戦争を否定するだけではなく、どういう状況になると戦争に一歩近づいてしまうのかを、子どもにも分かる言葉で伝えようとしているのが見事です。一人でも多くの子どもたちに、そして大人たちにも読んでほしい絵本です。

 安倍伍長、"わるいことを してしまったときは ごめんなさいって あやまる"のが大事なんですよ。
by sabasaba13 | 2016-06-26 08:43 | | Comments(0)

『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』 (その二)

 そしてもう一つ、『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』(前泊博盛 創元社)が教えてくれた衝撃的な事実を紹介します。それは…

 日本は法治国家ではない

 …という事実です。皮肉でもレトリックでもなく、ほんとうに日本は法治国家ではないのです。なにしろ米軍基地をめぐる最高裁での審理において、最高検察庁がアメリカの国務長官の指示通りの最終弁論を行ない、田中耕太郎最高裁長官は大法廷での評議の内容を細かく駐日アメリカ大使に報告したあげく、アメリカ国務省の考えた筋書きにそって判決を下したことが、アメリカ側の公文書によってあきらかになっているのです。(p.239)

 そう、砂川事件に関して、東京地裁の伊達秋雄裁判長が、在日米軍の違憲判決を出した、いわゆる「伊達判決」です(1959.3.30)。安保条約改定直前ということもあって、あわてふためいた日米両政府は協力して事を進め、跳躍上告の結果、なんとわずか九ヵ月弱のスピード審理で、在日米軍は違憲ではないという最高裁判決が出されます(1959.12.16)。さらに問題なのはその判決の内容です。以下、長文ですが引用します。筆者の言にあるように、これは戦後史最大の事件かもしれません。
 しかしこの判決のもつ最大の意味は、判決要旨六の内容です。「安保条約のごとき、主権国としてのわが国の存立の基盤に重大な関係をもつ高度の政治性を有するものが、違憲であるか否かの法的判断は、(略)裁判所の司法審査権の範囲外にある」
 これこそ「戦後日本」という国家の中枢をなす条文です。それはなぜか。この判決文は「安保条約のような高度な政治性をもつ事案については憲法判断をしない」とのべています。ところが判決要旨一と七でもとくに言及されている「憲法第98条第2項」(「日本国が締結した条約および確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする」)の一般的解釈では、「条約は憲法以外の国内法に優先する」となっています。ですからこの最高裁判決と、憲法第98条第2項の一般的解釈を重ねあわせると、…安保を中心としたアメリカとの条約群が日本の法体系よりも上位にあるという戦後日本の大原則が確定するのです。
 …この…ロジックもまた、アメリカ国務省が「長年の研究」にもとづいて考案したものだった可能性が非常に高いと思います。…
 砂川判決のもつ最大のポイントは、この判決によって、GHQ=アメリカ(上位)>日本政府(下位)という、占領期に生まれ、その後もおそらくウラ側で温存されていた権力構造が、安保を中心としたアメリカとの条約群>日本政府(下位)という形で法的に確定してしまったことにあります。…
 さらにもうひとつ、大問題があります。こうしたウラ側の権力構造が法的根拠を得た結果、今度はアメリカだけでなく、アメリカの意向をバックにした日本の官僚たちまでもが、日本の国内法を超越した存在になってしまったということです。
 注目していただきたいのは、「憲法判断ができない」と最高裁が決めたのが、「安保条約」そのものではなく、「安保条約のごとき、高度の政治性を有するもの」というあいまいな定義になっているところです。ここにアメリカ自身ではなく、「アメリカの意向」を知る立場にある(=解釈する権限をもつ)と自称する日本の官僚たちの法的権限が生まれるのです。
 砂川裁判の判決を読めば、少なくとも「国家レベルの安全保障」に関しては、最高裁は憲法判断ができず、この分野に法的コントロールがおよばないことは、ほぼ確定しています。おそらく昨年(2012年)改正された「原子力基本法」に、こっそり「わが国の安全保障に資することを目的として」という言葉が入ったのもそのせいでしょう。これによって今後、原子力に関する国家側の行動はすべて法的コントロールの枠外へ移行する可能性があります。どんなにメチャクチャなことをやっても憲法判断ができず、罰することができないからです。
 すでにいまから35年前の1978年、周辺住民が原子炉の設置許可取り消しを求めて争った伊方原発訴訟の一審判決で柏木賢吉裁判長は、「原子炉の設置は国の高度の政策的判断と密接に関連することから、原子炉の設置許可は周辺住民との関係でも国の裁量行為に属する」とのべ、1992年の同訴訟の最高裁判決で小野幹雄裁判長は、「〔原発の安全性の審査は〕原子力工学はもとより、多方面にわたるきわめて高度な最新の科学的、専門技術的知見にもとづく総合的判断が必要とされる」から、「原子力委員会の科学的、専門技術的知見にもとづく意見を尊重して行なう内閣総理大臣の合理的判断にゆだねる」のが適当(相当)であるとのべていました。
 このロジックは、先に見た田中耕太郎長官の最高裁判決とまったく同じであることがわかります。三権分立の立場からアメリカや行政のまちがいに歯止めをかけようという姿勢はどこにもなく、アメリカや行政側の判断に対し、ただちに無条件でしたがっているだけです。田中耕太郎判決のロジックは「統治行為論」、柏木賢吉判決のロジックは「裁量行為論」と呼ばれますが、どちらも内容は同じです。こうしてアメリカが米軍基地問題に関してあみだした「日本の憲法を機能停止に追いこむための法的トリック」が、次は原子力の分野でも適用されるようになってしまった。その行きついた先が、現実に放射能汚染が進行し、多くの国民が被曝しつづけるなかでの原発再稼働という狂気の政策なのです。(p.253~7)

 「政府は憲法に違反する法律を制定することができる」
 これをやったら、もちろんどんな国だって亡ぶに決まっています。しかし日本の場合はすでに見たように、米軍基地問題をきっかけに憲法が機能停止に追いこまれ、「アメリカの意向」をバックにした行政官僚たちが平然と憲法違反をくり返すようになりました。すでにのべたとおり憲法とは、主権者である国民から政府への命令、官僚をしばる鎖。それがまったく機能しなくなってしまったのです。
「『法律が憲法に違反できる』というような法律は、いまはどんな独裁国家にも存在しない」と、早稲田大学法学部の水島朝穂教授は言います。
 しかし、現在の日本における法体系は、ナチスよりもひどい。法律どころか、「官僚が自分たちでつくった省令や行政指導」でさえ、憲法に違反できる状態になっているのです。(p.258)
 すこしでも関心があれば、1500円の身銭を切れば、克明にわかることなのに。日本人の思考停止と無知と無関心の深淵は計り難い…
by sabasaba13 | 2016-05-27 06:37 | | Comments(0)

『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』 (その一)

 また米軍関係者による凶悪な犯罪が起こりました。そして日本政府は「再発防止」を強く要求し、アメリカ側も「再発防止」を固く約束し…やれやれ、これまでこのやり取りが何度くりかえされてきたのでしょう。
 ということは、結局こういうことですね。日本政府は再発しても仕方がないと諦めており、アメリカ政府は再発しても仕方がないと開き直っている。つまり双方とも、米兵による凶悪犯罪をなくそうとする気は毛頭ないということですね。
 なぜか? やはりアメリカ合州国は宗主国、日本は属国、そして沖縄は植民地であるからだろうと思わざるをえません。要するに、宗主国の兵士が植民地の女性を強姦・殺害しても、属国としては手も足も出ない…ということでしょう。そのからくりを見事に暴いてくれる好著が『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』(前泊博盛 創元社)です。タイトルからして刺激的ですね。前泊氏はこう言っておられます。
…日米両国の「属国・宗主国関係」とは、たんなる外交上の圧力や力関係から生まれたものではなく、きちんとした文書にもとづく法的なとり決めだからです。
 その法的なとり決めの中心こそ、本書のテーマである「日米地位協定」です。
 「戦後日本」という国家の根幹をなすもっとも重要な法律(法的とり決め)は、残念ながら日本国憲法でもなければ、日米安保条約でもありません。サンフランシスコ講和条約でもない。日米地位協定なのです。(p.4~5)
 そう、憲法はほいさかほいさか変えようとする安倍伍長が、金科玉条の如く絶対に変えようとしない取り決め、日米地位協定に着目すべきだというのが、本書のテーマです。ちなみに、氏は日米地位協定とは、「アメリカが占領期と同じように日本に軍備を配備し続けるためのとり決め」(p.17)、「日本における、米軍の強大な権益についてのとり決め」(p.18)であると定義されております。要するに、1945年、太平洋戦争の勝利によって米軍が日本国内に獲得した巨大な権益が、戦後70年たったいまでも維持されているということです。

 さて、この日米地位協定は、1952年に旧安保条約と同時に発効した「日米行政協定」を前身としています。その日米行政協定を結ぶにあたってアメリカ側がもっとも重視した目的が、①日本の全土基地化、②在日米軍基地の自由使用でした。日本の全土基地化とは、日本国内のどの場所でも米軍基地にできるということ。言いかえれば、日本全土を米軍にとっての「潜在的基地(ポテンシャル・ベース)」にするということです。言い換えると、日本のどんな場所でも、もし米軍が必要だと言えば、米軍基地にすることができるという取り決めです。これはおかしな話で、完全な属国か植民地以外、そのような条約が結ばれることはありえません。どんな国と国との条約でも、協定を結んで他国に軍隊が駐留するときは、場所や基地の名をはっきりと明記するのが当然です。もちろんアメリカも、日本以外の国と結んだ協定ではそうしています。イギリスと結んだ協定でも、フィリピンや韓国と結んだ協定でも、米軍が使用できる基地は具体的に付属文書のなかに明記されているのです。ところが日本の場合だけは、それが明記(=限定)されておらず、米軍がどうしても必要だと主張したとき、日本側に拒否する権利はありません。
一方、在日米軍基地の自由使用とは、占領期と同じように、日本の法律に拘束されず自由に日本国内の基地を使用できることを意味します。
日米安保条約におけるアメリカ側の交渉担当者だったジョン・フォスター・ダレス(当時、国務省顧問)の有名なセリフを借りれば、日本の独立(占領終結)に際してアメリカ側が最大の目的としたのは、「われわれが望む数の兵力を、〔日本国内の〕望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を確保すること」でした。よってアメリカにとってこの日米行政協定が最重要の取り決めだったのですね。寺崎太郎・元外務次官の言葉です。
 「周知のように、日本が置かれているサンフランシスコ体制は、時間的には平和条約〔サンフランシスコ講和条約〕-安保条約-行政協定の順序でできた。だが、それがもつ真の意義は、まさにその逆で、行政協定のための安保条約、安保条約のための平和条約でしかなかったことは、今日までに明瞭であろう。つまり本能寺〔=本当の目的〕は最後の行政協定にこそあったのだ」 (p.44)
 さらに重要なのは、このときダレス自身が、「アメリカにこのような特権をあたえるような政府は、日本の主権を傷つけるのを許したと必ず攻撃されるだろう。われわれの提案を納得させるのはむずかしい」として、自分たちがこれから日本に要求する巨大な特権が、明白な主権侵害であることを認めていたということです。さらにダレスはスタッフ会議で、「ほかの連合国を説得するまえに、講和条約と安保条約について日米の合意を確立しておくことが絶対に必要だ。日米の意見に相違点があれば、たとえばイギリスがそこにつけこんで、さまざまな争点をかきたてるだろうし、ソ連は反米プロパガンダの口実とするだろう。だからアメリカは、日本から確実に基地の権利を獲得するために、寛大な講和条約を用意したのだ」
 このように、寛大な講和条約(平和条約)の代償として結ばされた「日本全土の基地化条約」と「在日米軍基地の自由使用条約」、これが1951年に調印された旧安保条約の正体だったのです。だから、サンフランシスコ講和条約が豪華なオペラハウスで、48ヵ国の代表とのあいだで華々しく調印されたのに対し、日米安保条約はどこで結ぶのか、いつ結ぶのか、最後の最後まで日本側は教えてもらえませんでした。あまりにアメリカにとって有利な特権を認める条約であること、逆に日本にとって売国的な条約であることが、アメリカ側にはよくわかっていたのですね。そのため先にのべたようにダレス自身が、ソ連などからだけでなく、イギリスなどの西側諸国からも妨害が入ることを警戒していたのです。

 そして1960(昭和35)年1月19日に、新日米安保条約に基づき締結されたのが日米地位協定(日本での法令区分としては条約)ですが、「いかなる場合にも米軍の権利が優先する、治外法権にもとづく不平等協定」という中身は日米行政協定とほとんど変わっていません。前泊氏が指摘される問題点は、次の五つです。
①米軍や米兵が優位にあつかわれる「法のもとの不平等」
②環境保護規定がなく、いくら有害物質をたれ流しても罰せられない協定の不備など「法の空白」
③米軍の勝手な運用を可能にする「恣意的な運用」
④協定で決められていることも守られない「免法特権」
⑤米軍には日本の法律が適用されない「治外法権」 (p.74~5)

 首都圏が横田基地・横須賀基地など在日米軍に占拠されている異常事態、潜水艦の浮上掲旗義務違反、米兵の犯罪不起訴率100%などなど、具体例を列挙するときりがありませんので、一つだけ紹介します。もしかすると今回の事件にも関係するかもしれません。それは米兵犯罪における裏取引の話です。本来は米兵ないし米軍(米国)が払わなければならない「被害者補償金」を、米軍が値切ったために日本政府が被害者とのあいだの示談交渉の仲裁に入り、米軍が値切った不足分を日本政府が肩代わりするということが起きています。また沖縄の嘉手納基地や普天間基地、神奈川県の厚木基地、東京都の横田基地などの周辺住民が起こした、米軍機の騒音〔爆音〕による被害の救済を求める爆音訴訟でも、過去何度も住民側が勝訴して、そのたびに被害補償の支払いを命じる判決を裁判所から受けているのですが、その裁判の賠償金の支払いを米側が拒んだために日本側が全額負担させられているという問題が起きています。もはや主権国家とはいえませんね、こりゃ。
 
 まだまだ驚かなくてはいけないことがあります。この日米地位協定を含む、日米で結ばれる安全保障上の重要なとり決めの多くが、英語だけで正文が作られ、日本語の条文は「仮訳」という形になっているのだそうです。そのことの意味は、ふたつ。「正文」を変更して国民をだませば「犯罪」になりますが、ウソの条文を作っても、仮訳なら「誤訳だった」といってごまかすことができる。これがひとつ。もうひとつは、日本語の正文が存在しなければ、条文の「解釈権」が、永遠に外務官僚の手に残されるということです。

 もう言葉もありません。敗戦後の日本は法治国家・主権国家ではなかったし、今でもそうではない。下手すると未来永劫、法治国家・主権国家でない状態が続く。この冷厳なる事実に眼を向けましょう。アメリカ軍の*を舐め続けてきた/いる官僚、自由民主党を筆頭とする政治家、好きな言葉ではありませんが、「売国奴」という称号を進呈します。そして傍若無人・破廉恥にふるまうアメリカ軍にずっとずっとずっと、そしても今も苦しんでいるのが、75%の米軍基地が集中する沖縄です。今回の事件は氷山の一角に過ぎません。さあわれわれヤマトンチュはどうします。①見て見ぬ振りをこれからもしつづける、②沖縄の米軍基地を本土に移転させる、③安保条約を廃棄してアメリカ軍におひきとりを願う。選択肢はこの三つしかないのでは。でも「日本の怒り」ではなくて「沖縄の怒り」と連呼するメディアをそれに違和感を覚えない多くの方々を見ていると、①を選択しそうですね。やだなあ、それでは「人でなし」になってしまう。「売国奴」が統治する「人でなし」の国・日本、涙も枯れ果てるほどみじめな現実です。
by sabasaba13 | 2016-05-26 06:33 | | Comments(0)

『戦後入門』

 『戦後入門』(加藤典洋 ちくま新書1146)読了。

 …まいった…

 超ドレッドノート級の面白さ、ひさかたぶりに読書の喜びを満喫させていただきました。加藤氏に感謝します。
 635ページ、重さ…計測していませんがけっこう重いです。小生の如き蒙昧な徒ではとても要約できませんので、カバー袖裏の紹介文を引用します。
 日本ばかりが、いまだ「戦後」を終わらせられないのはなぜか。この国をなお呪縛する「対米従属」や「ねじれ」の問題は、どこに起源があり、どうすれば解消できるのか-。世界大戦の意味を喝破し、原子爆弾と無条件降伏の関係を明らかにすることで、敗戦国日本がかかえた矛盾の本質が浮き彫りになる。憲法九条の平和原則をさらに強化することにより、戦後問題を一挙に突破する行程を示す決定的論考。どこまでも広く深く考え抜き、平明に語った本書は、これまでの思想の枠組みを破壊する、ことばの爆弾だ!
 おおっ、かなりリーダーズ・ハイ、ライターズ・ハイになっていますね。わかるわかる、おいちゃんもその気持ち、よーくわかります。

 本来ならば、その全貌をきちんとまとめて、小生の意見を述べるべきなのですが、時間も能力もありません。とりあえず、広島を訪れるというオバマ大統領の英断に敬意を表して、原子爆弾に関する叙述をいくつか引用します。

 まずトルーマン大統領は、1945年8月9日午後10時、ラジオを通じて二発の原爆投下について釈明・正当化を、アメリカ国民に向けて発表しました。加藤氏の要約によると、日本人は、予告なしにパールハーバーでわれわれを攻撃し、米国人捕虜を餓死させ、殴打し、処刑し、戦争に関する国際法規に従うふりをする態度すらもかなぐりすてた者たちであるからだ、という理由です。そして戦争を早く終わらせ、何千何万もの米国青年の生命を救うためだ、と。(p.215~6) 以下はすべて引用です。たくさんひっぱってしまったのですが是非ご海容ください。「ことばの爆弾」の破壊力を体感していただきたく思います。
 このような「声明」だけで、投下した側の、戦後の国際秩序構築に必須の道義的威厳、威光、さらに原爆保持・新たな使用の合法性が保証されないことは、明らかです。
 こうして、この道義的な「空白」を補填し、埋めるべく、彼らの戦後政策ともいうべきものが用意される道筋が見えてきます。その主要なものが、日本についていえば、無条件降伏政策に基づく言論統制、あるいは国際軍事裁判です。(p.218~9)

 そして…(※1945年)9月6日には、着任一週間後のマッカーサーに、その趣旨にそって無条件降伏政策への転換を指示するトルーマン名の大統領指令が、届いています。
 …この大統領指令には、ポツダム宣言を否定する内容、つまり、「われわれと日本との関係は、契約的基礎の上に立つものではなく、無条件降伏を基礎とするものである」旨が、記されていました。
 要は、今後は、ポツダム宣言の「契約的」な基礎は顧慮せず、対等な関係を否定することからもさらに一歩踏み出し、「権威の範囲に対する日本人の質問」すら認めない問答無用の関係、「無条件降伏」関係を打ち立てよ、ということが指令の眼目でした。
 これこそ、ルーズヴェルトが南北戦争の寓話などで示した、原爆を投下された側からの批判、非難をすべてシャットアウトする枠組みを、占領の基礎とするという意思の具体化だったのです。(p.260~4)

 米国は、このとき、直接的・個別的にいえば、原爆投下に対する道義的、法的、政治的な批判が、投下された当事国から現れ、それが国際社会に発信され、原爆をオールマイティの切り札として戦後秩序での完全な優位を確立しようとする自国の世界戦略に不利な影響を及ぼすことを警戒していました。(p.278)

 そしてその警戒は、もっと大きくいえば、これまで述べてきた第二次世界大戦の「世界戦争」としての中途半端さ-連合国vs枢軸国、善悪二元論的構図の数々のほころび-を、戦後、新たに隠蔽し、修復し、国際社会と国内社会の双方に対し、米国の道義的優位性を瑕疵のないかたちで示す、切迫した必要に支えられていました。
 バーンズがなぜ日本の物質的武装解除だけでは足りない、精神的武装解除も必要だといったのか。日本から、米国の民主原則、自由と正義の信奉について、批判が出てきうることを知っていたから、もっとはっきりいえば原子爆弾の投下に後ろめたさを抱えていたからにほかなりません。ですから、そんなクレームが出てこないよう、精神的武器も、使い物にならないくらい、叩きのめせ、といっているのです。(p.278~9)

 さらに一歩進めて、たとえどのように日本から原爆投下に対する批判が出てきても、それが国際社会にはほとんど有効性をもたず、米国の威信を揺るがさないようにすること、つまり、日本を国際秩序の価値観のメンバーから排除すること、いわば、日本を一種の一時的な禁治産国とし、彼らから国際社会における倫理的なメンバーシップを一時的に奪うことが、ルーズヴェルトの念頭にある無条件降伏の最終的な狙い、本質でした。(p.280)

 (※ラダビノード・パール判事) 広島、長崎に原爆を投下したときどのような口実がなされたか。日本として投下されるなんの理由があったか。当時すでに日本はソ連を通じて降伏の用意をしていた。連合軍は日本の敗北を知っていた。それにもかかわらず、この残虐な兵器を日本に投下した。しかも実験として広島と長崎に投下したのである。この惨劇についていろいろ考えられねばならないが、しかし彼らの口からザンゲのことばを聞いたことはない。彼らは口実として、もし広島に原爆を投下せねば多数の連合軍の兵隊が死ぬことを強調した。原爆投下は日本の男女の別、戦闘員、非戦闘員の区別なく無差別に殺すことである。いったい、白人の兵隊の生命を助けるために幾十万の非戦闘員が虐殺されることはどういうことなのか、彼らがもっともらしい口実をつくるのは、このような説明で満足する人々がいるからである。(p.290~1)

 この原爆慰霊碑が生まれるには、平和公園の建設が先決で、それにはまず焦土の広島の復興が必要でした。しかし、広島の復興は、占領軍当局の顔色をうかがう日本政府から、冷淡に扱われました。こうして、占領下、「原爆憎しとアメリカを非難する」姿勢では無理と考えた広島関係者がたどりついたのが、「過去よりも未来の平和創造に国家的意義を見いだすというアイデア」だったといいます。広島は「過去にこだわらず、平和実現にのみ力を尽すべき」と考えられ、また自らもそこに活路を見出したのです。
 平和公園の建設、原爆慰霊碑の建立、碑文の選定は、この延長上にきます。つまり、完成と建立は講和後でしたが、そのみちすじはすべて占領体制のもとで決められていました。
 米国批判をしない、過去をふり返らない、ということは、GHQの求める完全鉄則でした。しかし、それに屈伏するのでも、迎合するのでもなく、もっぱら自らの体験に立って、「未来の平和創造」という一点で時の政府との合意点(「国家的意義」)を押さえ、「平和実現にのみ力を尽くす」ことに踏み出していこう-。
 ここには、先に「朝日新聞」に見た転進の論理と同じ重合性が指摘できます。つまり、原爆慰霊碑の論理に消えているのは、あるいは隠されているのは、「けっしてうらまない」という言葉の陰に隠れた「米国を批判できない」という無力感、あるいは「米国を批判するべきだ」という抵抗の意思の放棄なのです。(p.292~3)

 パールの批判は、白色人種の人間が人種偏見もあって、このような無差別大量破壊兵器を使った、そのことに抗議すべきだという主張に要約できます。(p.294)

 しかし、「憎しみ」や「うらみ」をもってではなく、自由と民主主義の原理を信じ、平和を希求するがゆえに、自国の犯した犯罪の責任とともに米国の原爆投下の責任を論じる、批判する、という立場がありえます。もしそういう立場に立つなら、この原爆投下の責任を論ずることは、現在にいたるまでその責任を問わない日本政府の責任を問うこと、その延長で現在なお米軍基地の現存を容認する日本政府の責任を問うことに、つながるし、また同時に、中国や韓国からの同様の戦時行為に対する批判にしっかりと向きあわない日本政府の姿勢を弾劾する日本の加害責任論へと、私たちを押しだすでしょう。
 つまり、「原爆投下の責任を論ずる」ことが、日本の「加害責任」を着脱可能なかたちではなく、にっちもさっちもいかない、どうしてもそれから逃れられないあり方でそれを引き受けるための、じつは入り口なのです。そしてそれが、無条件降伏政策への抵抗の完成形でもあるでしょう。
 逆からいえば、そうでない限り、どんなに口で加害責任をいっても、それは、言葉の綾にすぎません。相手の加害責任を問う。その立場は、たしかにさまざまにありえますが、ここで「ことばをもつ」とは、相手に通じることばをもつ、ということです。そしてそれは、価値観を共有していることを宣揚するということでもあります。そこでは、同じ価値観の共有の宣揚として、相手の非を批判することと相手から批判される非に誠実に応え、謝罪することが、等価の行為を意味するのです。(p.294~5)

 原爆投下に関しては、日本では、長い間、「うらみ」でも「赦し」でもなく「批判」を示すことが投下した者に対する積極的なコミット(関与)を意味するという観点が、示されませんでした。示されても、それは孤立しました。そのよい例が、1955年に開始された原爆訴訟、別名下田判決だったでしょう。
 これは、広島と長崎の被爆者55名が国を相手に損害賠償(原爆投下による精神的損害に対する慰謝料)と米国の原爆投下を国際法違反と認定することを求めて訴えでたもので、1963年に東京地裁で結審しました。判決は、原告の請求は棄却、しかし、「米軍による広島・長崎への原爆投下は国際法に違反する」とし、「被爆者個人は損害賠償請求権を持たない」が、原爆被害における国の責任は大きいことを認定するものでした。(p.296~7)

 ほんとうは、日本政府がやるべきことを、誰も政府に求めず、政府もこれを行わないというなかで、被爆者自身が自ら立ち上がって国際社会に向けて提起した画期的なコミット、訴えでした。
 原告側の論理は、米軍の原爆投下は、国際法に違反する不法行為であり、原爆の被害者は米国に対して損害賠償請求権をもつが、それを日本政府がサンフランシスコ講和条約によって放棄している。よって、日本政府は米国政府に代わり、原爆被害者に補償・賠償を行え、というものです。これに対し、東京地裁は、賠償請求は棄却したものの、戦時国際法・国際人道法からなる国際法が原則として、非戦闘員や非軍事施設への攻撃を禁止していること、不必要な苦痛を与える兵器の使用を禁止していることを理由に、原爆投下は国際法に違反していると判決したのです。
 これに対し、日本政府は、米国政府の立場を擁護し、代弁することに終始しました。原告の国際法違反の訴えに対し、「必ずしも国際法違反であるとは断定し難い」と、こう主張したのです。
 一、当時、「新兵器についての国際慣習法は全くなかった」、よって「原子兵器に関する実定国際法は存在しなかった」、
 二、「原子爆弾の使用は日本の降伏を早め、戦争を継続することによって生ずる交戦国双方の人命殺傷を防止する結果をもたらした」、
 三、日本政府が先に1945年8月10日「スイス政府を通じて米国政府に対して」行った国際法違反との抗議は、「当時交戦国として」これを「主張したのであって、交戦国という立場を離れて客観的にみるならば、必ずしもそう断定することはできない」。
 この判決もいうように、国際法違反の訴えを起こすことができる法主体は、個人ではありません。もし、米国の原爆投下が国際法に違反するという訴えを起こすことができる主体があるとすれば、それは日本政府しかありません。
 そういうなか、個人が米国の原爆投下に国際法違反判決を求めたこの企ては、これまで世界で唯一の国際法違反の判決例となりながら、国内でも、国際社会でも、孤立しています。(p.297~8)
 なお「あとがき」の一文にもいたく感銘しました。そうですよね、まったくそのとおりです。“人間を食ったことのない子どもは、まだいるかしらん。子どもを救え…” 『魯迅選集』(岩波書店)第一巻所収「狂人日記」 p.27
 この本を、高校生くらいの若い人にも、読んでもらいたい。
 大学生にも読んでほしい。
 そういうチャレンジの気持ちを、書き手として抑えられない。
 そういう人を説得できなければ、日本の平和主義に、末来などないに決まっているからである。(p.632)
 それではオバマ大統領、心よりお待ちしています。
by sabasaba13 | 2016-05-25 06:38 | | Comments(0)

『暗闘』

 『暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏』(長谷川毅 中公文庫)読了。F・D・ローズヴェルトの死とトルーマンの登場、ポツダム会談、原子爆弾の実験成功、広島への原爆投下、ソ連の参戦、長崎への原爆投下、ポツダム宣言受諾、ソ連による千島(クリル)列島への侵攻、息が詰まるような太平洋戦争の最終局面を、豊富な史料を駆使しながら、スターリンという重要なアクターに目を配りつつ叙述した力作です。
 著者の長谷川氏は、アメリカ市民権を取得し、カリフォルニア大学でロシア史を研究されている方です。よってこれまでの研究では不十分であったスターリン=ソ連の政策や意図について、かなり詳細に考察されているのが印象的でした。知力・気力の限りを尽くし、相手の出方を窺いながら、時にはしたたかに時には真摯に時には威圧的に時には慎重に、それぞれの「国益」をめぐって暗闘をくりひろげるスターリンとトルーマン。外交とはこういうものかと痛感しました。大粛清を行い全体主義体制を築いたスターリンではありますが、外交家としての力量はやはり卓絶したものです。もう一つの軸となるのが、降伏をめぐる日本の支配層の動きです。ドイツ降伏、沖縄での敗戦、ポツダム宣言発表など、戦争を終結させる機会が幾度となく存在したにもかかわらず、意見が分かれてその決定ができなかった為政者たち。そのためにいかに多くの人命が失われたことか。長谷川氏はそれを舌鋒鋭く批判します。
 しかし日本では、ソ連の「火事場泥棒」のような振る舞いやアメリカの原爆投下を非難する声はあっても、戦争の終結を遅らせた日本の指導者の責任にたいする批判はあまり聞こえてこない。もし、日本政府がもっと早い段階でポツダム宣言を受諾して戦争終結の決断をしていれば、原爆もなかったし、ソ連参戦もなかったであろう。これは、必ずしも、ないものねだりではない。実際に、佐藤尚武大使、加瀬俊一スイス公使、松本俊一外務次官などは、これを主張していた。
 日本国内の政治決定過程ではこのような政策をとることが不可能であったというのは、指導者の主体的な責任を政治機構の不備にすりかえる議論である。そもそも政治指導者の指導力とは、機構の制約を超えて発揮されるものである。とりわけ緊急事態においてはそのような指導力が要求される。鈴木、東郷、木戸、米内、そして天皇自身を含めて、原爆とソ連参戦という二つの外圧があるまで、決定的な行動をとらなかった日本の指導者の指導力の欠如こそが、トルーマンの原爆投下とスターリンの参戦以上に、回避できたかもしれない戦争の大きな惨禍をもたらした最大の理由であった。(p.274~5)
 なぜ決定ができなかったのか。要するに、国民の生命よりも、組織防衛と自己の権勢の維持、および責任逃れを重視したためですね。その際のキーワードが「国体」です。私考えるに、「天皇の名を使えば、責任を問われずに好き勝手に、野放図に権力を使える体制」です。その体制を死守しようとする軍部、その体制が多少こわれても皇室の安泰さえ確保できればよしとする宮中グループ。そこには、国民を守るという視点は全くありません。やれやれ。こういう方々にきっちりと落し前をつけさせ、かつそれを歴史的記憶として共有するという作業を怠ったのが、現在につながっていると思います。あいもかわらず、組織防衛と自己の権勢の維持、および責任逃れを最重要視する管理エリート(官僚・政治家・財界)がいかに多いことか。

 もうひとつの読みどころは、原爆投下に関する分析です。とくに新しい視点はありませんが、豊富な史料を使って、その経過を手際よくまとめられています。
 アメリカで広く信じられている原爆投下正当論は、二つの仮定の上に成り立っています。第一の仮定は、トルーマン大統領は日本を降伏させる手段として、原爆投下か、アメリカ兵の大きな犠牲を伴う日本本土侵攻の二者択一を迫られたこと。第二の仮定は、まさに原爆投下こそが日本政府が降伏を受け入れた決定的な要因であること。以上二つの仮定から、原爆投下は、日本本土侵攻の際に予測される百万以上のアメリカ兵の命を救うためには必要であり、正当化されると論じられます。
 しかしながら、トルーマンには、上記の二つ以外にも、(1)ポツダム宣言にある無条件降伏の条項を修正して、日本が君主制を維持することを許容する条件を盛り込む、(2)予定されているソ連参戦が日本政府にいかにインパクトを与えるかを待つ、(3)スターリンがポツダム宣言への署名の要求をしてきたときこれを排除せずに受けいれる、の少なくとも三つの選択肢がありました。ところが、…政治的理由からトルーマンはこの三つの選択肢を斥け、原爆投下を急ぐことによって、ソ連参戦以前に日本に無条件降伏を突きつけて戦争終結の果実をソ連抜きで勝ち取ろうとしました。すなわち、私は、トルーマンには二つの選択肢以上の選択があり、これらの選択を排除して原爆投下を行ったと論じ、第一の仮定を否定しました。(下p.284~5)

 8月10日に日本の政府は、スイス政府を通じてアメリカ政府の原爆投下に抗議する一声明文を送った。この抗議文にはこう書かれている。アメリカ政府による原爆の使用は不必要な苦痛を与える兵器、投射物その他の物質を使用することを禁じた「ハーグ会議の陸戦の法規慣例」に関する第22条に違反しており、

「米国が今回使用したる本件爆弾は、その性能の無差別性かつ残虐性において、従来かかる性能を有するが故に使用を禁止されをる毒ガスその他の兵器を遥かに凌駕しをれり…。いまや新奇にして、かつ従来のいかなる兵器、投射物にも比し得ざる無差別性残虐性を有する本件爆弾を使用せるは人類文化にたいする新たな罪悪なり。帝国政府はここに自らの名において、且つ又全人類及び文明の名において米国政府を糾弾すると共に即時かかる非人道的兵器の使用を放棄すべきことを厳重に要求す」

 トルーマンはもちろんこの抗議文に回答しなかった。日本政府もアメリカの占領を受け入れた後、アメリカの安全保障体制の庇護の下に入り、また冷戦が到来してからは、原爆投下の件でアメリカを非難するのは都合が悪くなり、この抗議文はいわば歴史の芥箱の中にほうり捨てられてしまった。この抗議文以降、日本政府が原爆投下に関してアメリカ政府に抗議をしたことはない。
 このように抗議した日本政府自身が、戦争の法規に違反する非人道的行為を行ったことはもちろん事実である。1937年の南京虐殺、悪名高い731部隊による細菌戦争の人体実験、バターンでの死の行進、連合国捕虜の処刑・虐待など、日本軍の残虐行為の例は枚挙にいとまがない。しかし、こうした行為にたいして日本人が負わねばならない道徳的責任をもって、日本政府が原爆投下に抗議することはもってのほかであるとする議論は成り立たない。倫理的責任は相対的なものではなく、絶対的な価値だからである。すでにまったく忘却されたこの日本政府の抗議が再考されなければならない。
 アメリカ人は、広島・長崎への原爆の投下は日本を降伏させるために必要であり、正当化されるという神話にしがみついて自己の倫理的責任を回避することはもはやできない。…
 アメリカの名誉のために、アメリカ人は原爆投下はアメリカの歴史の負の遺産であることを直視しなければならない。ここにこそアメリカ人の尊厳がかかっている。(下p.269~71)
 私もはじめて知ったのですが、2005年にドイツでドレスデン爆撃の60周年追悼式が開かれた際に、米国、英国、フランス、ロシア代表を前にして、ドイツのゲアハルト・シュレーダー首相は「われわれは本日ドイツのドレスデンとヨーロッパにおいて戦争とナチスのテロの支配の犠牲になった人々に追悼の意を表すものである」と宣言したそうです。一方、広島の平和記念式典での菅直人首相の演説では、「日本が今後核のない世界を建設する運動の先頭に立つ決意」を表明しながら、原爆投下の背景にあった戦争における日本の責任についてはいかなる言及もなかったそうです。

 己の戦争犯罪を認めてきちんとした形で謝罪・補償をおこない、そしてアメリカ合州国の名誉と尊厳のため、原爆投下に対する謝罪を求める。安倍伍長にはかなり荷が重い仕事かな。でもぜひ行なっていただきたいものです。
 そして広島を訪れるオバマ大統領には、未来だけではなく、過去にも眼を向けていただきたい。ある政治的目的のために無差別に人間を殺傷することを"テロ"と定義するならば、原爆投下という最悪・最凶・最低の国家テロを行なった国は、今のところアメリカ合州国だけなのです。(ちなみに"テロ"を実行した人間を"テロリスト"と呼びます。だとすると原爆を投下したアメリカ大統領は史上最悪の"テロリスト"ですね) それについて謝罪せず正当化するということは、ふたたび繰返す意思を持っているのでしょうか。

 オバマ大統領のスピーチに注目したいと思います。
by sabasaba13 | 2016-05-24 06:32 | | Comments(0)

『日本の百年7 アジア解放の夢』

 ひたひたと迫り来る戦争の足音、5兆541億円の軍事費、政治家・官僚の頽落、萎縮し権力に迎合するメディア、炎上するナショナリズムとレイシズム、果てしなくひろがる貧富の差。その荒涼たる光景に慄然とし立ち竦んでしまいます。1920~30年代の日本にも、きっとこのような光景がひろがっていたのかなと想像します。だとしたら、同じ失敗を繰り返さないためにも歴史を学ぶことは私たちにとって喫緊の課題です。
そこでみなさまに紹介したいのが、ちくま学芸文庫におさめられている『日本の百年』全十巻です。そんじょそこらの凡百な通史、教科書・参考書のような事なかれ主義の平板な通史とは、雲泥、月と鼈、提灯と釣り鐘。開国以来日本の歩んできた百年、そこに生きた人々、当時の雰囲気、世相風俗を浮き彫りにしたドキュメントです。公式記録、史料、体験談、新聞、雑誌、回想録、流行歌を駆使して、その時代の息吹や人々の息遣いを再現しています。その博覧強記たるや、もう脱帽です。それもそのはず、編著者は鶴見俊輔、松本三之介、橋川文三、今井清一といった錚々たる手練。ドキュメントを貫き支える骨太の歴史観にも、学ぶところ大でした。ただ残念ながらほとんどの巻が絶版、でもインターネットの古本屋で手に入るかと思います。
 いずれ劣らぬ面白さですが、出色なのはやはり『日本の百年7 アジア解放の夢』(橋川文三編著)です。1931年の満州事変から1937年の南京攻略の時代、内に東北農村の凶作、権力による苛烈な弾圧、昭和維新の嵐、外に満州国の建設、抗日の激流、そして社会が不安と退廃に澱んでいた時代です。前述のように、今現在を彷彿とさせる時代であるだけに、ぜひとも知っておきたい、いや知らなければいけない歴史だと思います。

 この時代の躓きのひとつに対中国関係がありますが、それに関する孫文の言葉と橋本氏の分析を引用します。
 1924年11月、日本を訪れた孫文は、長崎においてつぎのような談話をおこなった。
  「日本の維新は中国革命の第一歩であった。中国革命は日本維新の第二歩である。中国の革命と日本の維新とは、実際同一の意味のものである。おしいかな、日本人は維新後富強を致し得て、かえって中国革命の失敗を忘失してしまった。ゆえに中国の感情は日に日に疎遠となった。」
 この短かいことばの中に、五十年にわたる日中両国の関係の明るい面と暗い面とが、簡潔にものがたられている。(p.15)

 日本のエリートも国民も、革命中国の中に明治維新の精神を見る能力をしだいに失っていった。日本はかつてその味わった植民地化の危機意識をおき忘れ、しだいに先進帝国主義国に追随する「優等生」として、後進中国を「劣等生」と見る習慣を身につけるようになった。
 1915年、日本によって中国に強制された二十一カ条要求は、早熟な優等生のおかした致命的な失敗であった。それは中国民族にとって「国恥」の意識をきざみつけることになった。さらにまた中国革命の波が北伐によって新たな昂揚を示したとき、日本は露骨な干渉出兵(山東出兵)を三たびくり返して、中国の民心を刺激した。
「なんといっても山東出兵はわが国の大失敗だった。あらゆる方面よりみて失敗だった。この暗愚な一事件のため、日支の関係は根柢より攪乱された。実に不用意な出来事にして、かつとり返しのつかぬ失敗である。」(長島隆二 『政界秘話』 1918)
 日本は中国の現実とその未来をとらえる能力を見失った。そこには悲劇的な無能さがあった。孫文はその死の前年、「西洋帝国主義の番犬となるか、あるいは東洋王道の前衛となるか」という選択を日本国民の前に呈示した。しかし、維新後五十年をへた日本国民の意識からは、中国ナショナリズムへのリアルな感覚は失われ、中国の個々の行動への軽べつと憎しみのみが国民心理をとらえていた。のち1933年、日本は国際連盟において「中国は国家にあらず」と宣言してはばからなかったが、その心理は大正年間を通じて久しくやしなわれたものであった。(p.17~9)
 なるほど、中国革命やナショナリズムを「第二の明治維新」ととらえるのは炯眼ですね。不平等条約を強要されて苦しんだ近代日本なればこそ、すぐ気づきそうなものですが。たとえば、ソ連が北海道を武力占領して領有し、同国にとっての「生命線」であるとして傀儡国家として独立させたら、当時の日本人はどう考えるか。「中国の現実とその末来をとらえる能力を見失った悲劇的な無能さ」という言葉が胸に突き刺さります。もしかするとわれわれはその能力をいまだに見失っているのかもしれません。

 またこの時代に、国家権力に抗いながら生き抜いた人びとがいたことにも勇気づけられます。岩倉靖子、魯迅、小林多喜二、多喜二の母セキ、武谷三男、ねづまさし、野上弥生子、いずれも忘れ難い方々です。
 華族制度の生みの親ともいうべき岩倉具視の家系に、靖子のような共産主義者が現われ、華族制度を批判したのは、まったく皮肉というほかない。
 1932年秋検挙されて、一年間拘留された岩倉靖子は、この間、頑強な女党員として警察や岩倉家を手こずらせた。だが、彼女につねに同情的だった兄具栄の宮内省退職は彼女の心を動かした。ついに獄中で転向した靖子は、保釈で出所した。そして母のもとに帰って十日、明日は予審終結という早朝、彼女は自殺したのである。日本の思想史全体を通じて、転向の責任をとるために自殺した例は非常に少ないが、この22歳の貴族の娘には、恥の倫理が生きていたのだろうか。(p.101)

 中国の文学者魯迅は、小林の死を悼み、暴虐な権力に抗議して日本文でつぎのような弔電をよこした。
「同志小林の死を聞いて
 日本と支那との大衆はもとより兄弟である。資産階級は大衆をだましてその血で界をえがいた、またえがきつつある。
 しかし、無産階級とその先駆たちは血でそれを洗っている。
 同志小林の死はその実証の一だ。
 われわれは知っている。われわれは忘れない。
 われわれは堅く同志小林の血路に沿って前進し握手するのだ。」(『プロレタリア文学』 1933年4・5合併号)
 多喜二の母セキは、1961年5月小樽で死んだ。多喜二が「蟹工船」で不敬罪に問われ、獄中にいたころ、彼女は息子との文通のために字を書くことをおぼえた。彼女の死後つぎのようなことばをしるした紙片が見出された。
「あーまたこの二月の月がきた ほんとうにこの月とゆ(いう)月か(が)いやな月 こい(声)をいぱいになきたい どこにいてもなかれない あーて(で)もラチオ(ラジオ)て(で)しこす(少し)たすかる あーなみたかてる(涙が出る) めか(が)くもる」 (p.260~1)

 滝川事件で、政府の思想統制に反対する運動の中心となった京都に、もう一度、軍国主義にたいする反対の運動がうまれた。
 満州事変の前年、1930年9月に、美学者の中井正一、美術史家でオーケストラの指揮者でもある長広敏雄を中心として、『美批評』という同人誌が発刊された。これは近代美および新しく解釈された日本古典美術の紹介研究を目的とする、純粋の学術雑誌だった。発刊後三年目に起こった滝川事件は、このグループの性格を変えた。このころ、雑誌は一時休刊となったが、美批評研究会という名前で、大阪朝日社長上野精一から月二十円の援助をうけて会合をつづけた。新しいメンバーには哲学者の真下信一、久野収、梯(かけはし)明秀、数学者近藤洋逸、物理学者武谷三男、フランス文学者新村猛、ドイツ文学者和田洋一、歴史家禰津正志、北山茂夫、ロシア文学者熊沢復六、政治学者大岩誠、滝川事件のときに京大をやめた法律学者加古祐二郎、弁護士の能瀬克男らが加わった。
 1935年2月、このグループは『世界文化』という月刊雑誌を出しはじめた。(p.355)

 1937年1月、作家野上弥生子は、年頭の新聞につぎのような願いを書いた。
「…神聖な年神様にたったひとつお願いごとをしたい。今年は豊作でございましょうか、凶作でございましょうか。いいえ、どちらでもよろしゅうございます。洪水があっても、大地震があっても、大火事があっても、暴風雨があっても、大噴火があっても、コレラとペストがいっしょにはやっても、よろしゅうございます。どうか戦争だけはございませんように…」 (p.511~2)
 また、こうした暗い時代が、今まさに再び現前しつつあるように思われるのは、国家権力の中となった「管理エリート」たちが、責任を問われずに戦後も活躍したということにあると考えます。例えば、ファシズム体制構築に欠かせない強制的同質化(グライヒシャルトゥング)の主役となった内務官僚・警察官僚・司法官僚たちです。最近読んだ『ファシズム』(山口定 有斐閣選書)の中に、"近年の研究が一致して指摘しているところによれば、内務官僚、とりわけ警察官僚の優位は極めて顕著であり、そのことが、日本ファシズムの場合、「下から」の自発性に支えられた大衆動員を困難にしたといわれる"(p.223)という指摘がありましたが、「上からの」ファッショ化を推進した方々です。統治行為論を挙げるまでもなく、法治国家・立憲主義が平然と踏みにじられるケースが多いのも、これに関係していそうです。
 このエピソードの中に、ナチスと日本の国家主義のちがいが現われている。侵略戦争のための思想統制を担当しながら、ドイツにおいては、ヒムラーは敗戦とともに自殺し、日本においては、思想統制の直接担当者である山崎巌元内務省警保局長・警視総監・内務次官は、戦後内務大臣・衆議院議員となり、転向対策を立案した大審院検事池田克は、戦後の最高裁判所判事、おなじく立案者の名古屋区裁判所検事長部謹吾は、戦後の検事次長である。彼らの努力は、ヒムラーのように鞭だけを持ってするのではなく、片手に鞭を持ちつつ温情をもって接することで、国体観念を共産主義者の心の中にしぜんに湧きあがらせるという形をとった。(p.301~3)
 そして中国外交部長・張群が、当時の日本における政治を「おみこし」に譬えて鋭く分析した一文には、脱帽しました。
 日本の政治、思想がしだいに異常なゆがみをあらわしはじめたころ、中国の外交部長張群は日本の行動をおみこしにたとえて、つぎのように語った。
「(日本のゆき方は)自分が日本に留学していた時代に、お祭に出てくるおみこしを見たことがあるが、ちょうどあのおみこしのかつぎ方に似ている。おみこしのお通りになった跡をよくみると結局は目的地に到着してはいるが、その途中では、あるときはあっちの電信柱にぶつかりそうになったり、あるときはこっちの店先にとび込みそこなったり、これを側で見ているものからはハラハラすることばかりだ。しかし、これは誰かがことさらにそんなかつぎ方をさしているのかといえば、結局そうではない。おみこしはほとんど不可抗力的に電信柱にぶっつかり、または店先にとび込もうとしている。(略)
 支那のほうでは日本のおみこしさんを誘導しているのが、日本の軍部の力だと、こんな具合に観察している者が多い。しかし、これもまたおみこしさんというものの実情をみた経験のある自分からいわせれば、日本のおみこしさまも、決して軍部の思う通り動くものではない。」(根本博 「南北支那飛脚記」、『文藝春秋』 1936.3)
 この見方は日本ファシズムのエネルギーのあり方をよく示している。「みこし」とは、神聖な権威を象徴しており、それをかつぐ人びとは権力の地位にある軍人や官僚や狂信的な学者・思想家、もしくは右翼の無法者たちであった。彼らはみこしを振りまわすことによって、無責任にすべての異端者におそいかかり、それをおしつぶした。
 日本社会におけるもっとも正統的な権威はいうまでもなく国体であり、それを肉体化した天皇であった。しかし国体が何であるかは日本の国体論者にも明確に定義することはできなかった。それは気体のようにとらえどころのないある普遍的なものとして偏在した。それは限定されえないあるものとしてかえって人間の根源的エネルギーの源泉となることができた。みこしに意志はない。しかしかえってあらゆる人間集団の欲望をみたす象徴となることができた。(p.374~7)
 なるほど、絶対的権威のもと匿名で、leadershipなきまま権力を行使するエリートたち。絶対的権威を畏怖して、批判もせずに道を空けてしまう民衆。「おみこし」とは言い得て妙、卓抜な比喩です。その「おみこし」は、戦前は天皇、今はアメリカ合州国なのでしょう。

 さてその「おみこし」がそろそろ来日します。広島でどのようなスピーチをするのか注視したいと思います。
by sabasaba13 | 2016-05-23 06:34 | | Comments(0)

『香港』

 小熊英二氏が監督した『首相官邸の前で』の映画評は以前に上梓しましたが、上映後におこなわれたトーク・ショーについて紹介します。ゲストは、歴史・文化社会学、ナショナリズム論、日本研究(鉄道史、サブカルチャー論、近代日本ナショナリズム)を専門とする香港の張…だめだ、漢字が難しすぎる。申し訳ない、Cheung Yuk Man氏。そして学生運動にコミットしている香港在住の女子大学生、周庭(アグネス・チョウ)氏です。
 テーマは民主化運動です。●があったら入りたいほど恥ずかしいのですが、2014年秋に香港では、市民が香港中心部を79日間も占拠するという「雨傘運動」が起きたのですね。正直、あまり実りある話は聞けませんでしたが、張氏が共同執筆された岩波新書を二人のサインをつけて即売するというので、購入しました。
 というわけで『香港 中国と向き合う自由都市』(倉田徹/Cheung Yuk Man 岩波新書1578)読了。「はじめに」で倉田氏はこう述べられています。香港は国なのか、地域なのか、都市なのか。イギリス的なのか、中国的なのか、アジア的なのか。グローバルなのか、ローカルなのか。親中なのか、反中なのか。親日なのか、反日なのか。経済都市なのか、政治都市なのか。これらほとんど全ての問いに対して「イエスでもあり、ノーでもある」としか言えない、と。そしてこう言われます。
 このような、複雑怪奇で千変万化の香港に、万古不易の原理は存在するのか。筆者両名がたどり着いた一つの答えが「自由」であった。植民地期から現在まで、香港は「自由都市」であった。「自由」の意味合いは時によっても変わるし、自由への脅威も常にあった。しかし、香港の人々は、自由を存分に使い、アイデアによって商売を生み出し、知恵によって強権と向き合い、たくましく生き続けた。香港を理解するには、この「自由」の本質に迫る必要がある。…まさに、香港は驚くほど自由なのだ。(p.x~xi)
 そんな香港について、倉田氏が歴史と政治を、張氏が社会と文化を論じたのが本書です。イギリスと中国という二人の巨人に支配されながら、自由にしたたかに生き抜いてきた香港の人々の歴史、たいへん興味深いものでした。中でもやはり「雨傘運動」に関する叙述は圧巻です。2014年、中国は、2017年に予定される香港初の政府トップ・行政長官の選挙において、北京と対立する民主派が出馬できなくなるような制度を決定しました。民主派と学生はこれに怒り、9月28日から12月15日までの79日間、香港中心部を占拠しました。催涙弾に雨傘を差して耐える市民の姿から、この運動は「雨傘運動」と称されます。占拠された地域の近くに住み、自らこの運動を体験した張氏が、占拠区の個人がそれぞれどうこの運動を作り上げたかを証言されています。例えば…
 2014年9月28日午後4時ごろ、学生たちを支援にきた市民が車道に溢れた。彼らは学生を包囲した警察の封鎖線を突破しようとしたため、警察による催涙ガスでの攻撃と、傘の防御陣との間での攻防戦が繰り返されていた。午後5時58分、一発目の催涙弾が発射された。市民はいったんは一斉に散ったが、一部はやがて方々から戻ってきた。暴徒と見なされると、警察の暴力に口実を与えるので、市民は手をあげて降参のポーズで、時に逃げたり、時に機動隊に立ちふさがったりして、平和主義を貫いた。大量の市民を全員逮捕することはできないし、報道カメラを前に市民に発砲もできない警察は、催涙弾を乱発するしかない。
 ゲリラ戦術といえば聞こえはいいが、香港人らしい弱虫戦術だ。一人ひとりの命と身の安全が大事、危険なら一時的に避ける。無駄な犠牲は要らないが、屈服しない。武装抵抗ではなく、野次馬根性で粘りぬいたことは、雨傘運動の長さと広がり、そして死者が出なかったことの理由のひとつだ。(p.173~4)
 弱虫戦術とはご謙遜、たいへん参考になるしたたかな戦い方です。警察の暴力に口実を与えない、報道カメラを利用する、無駄な犠牲はださないが屈服しない、そして野次馬根性。お見事。
 また村上春樹氏がエルサレム賞授賞式スピーチで使った比喩「壁と卵」が、雨傘運動でたびたび引用されたことも知りました。壁=システムを、専制政治と中国共産党の比喩として使ったのですね。また雨傘運動の最中にベルリンで行なわれた文学賞受賞式スピーチでは、香港の若者にエールを送り励ましたそうです。迂闊にもこれは知りませんでした。インターネットで調べたところ、「小さなスナック」というサイトに全文が掲載されており、最後は"まさに、壁と闘っている香港の若者たちにこのメッセージを送りたいと思います"というエールで締めくくられていました。
 権力に翻弄されることを拒否する「自己決定の自由」を求めて戦う香港の人たち。そして筆者は、その香港と日本を比較してこう述べられています。長文ですが、たいへん重要なことですので引用します。
 選挙のない時期に、民意を為政者に見える形にするのがデモである。もちろん、デモは選挙と異なり、参加人数を正確に数える仕組みはないし、どれほど大規模なデモも、総人口の過半数の参加を集めることはまずあり得ない。デモ=民意との解釈はむしろ民主主義に反するもので、「沈黙する多数派」の「声なき声」を聴けという主張も、普遍的に見られる。しかし、デモ現場の人数以外に、デモに共鳴しつつも現場には行けない人が多数いると想定されるのは当然である。また、仮に主張に賛同する者が少数派であったとしても、デモという行動に出る人の訴えは、多くの場合沈黙する者や無関心の者よりも切実なものであり、あるいは多数派が彼らの何らかの権利や意思を不当に踏みにじっていることへの強い抗議なのかもしれない。抗議する権利を否定することは、次に自分が権利を侵されたときに、抗議の声をあげる権利を放棄することと同義なのである。こういったことを踏まえずに、デモ現場の人数を総人口で割って比率を求め、それを根拠にして主張を無視するような発想は、民主主義の相当表面的な理解と言わざるを得ない。デモは「権利」であり、ここで発揮されるべきは、多数決の「民主」よりも、権利を侵害されない「自由」なのである。
 香港の人々は、自由の権利の行使として、当たり前のようにデモを起こす。一方の日本では、大規模な抗議デモが発生し、世論調査で反対が多数を占めると報じられる中、安保法案は国会で可決された。香港市民から見れば、これはむしろ不思議な光景である。「民主的」な政治体制の下に住む日本人が、どれだけ「自由」だと言えるだろうか。貿易拡大のために、北海道は農業の犠牲を強いられる。安保を理由に沖縄は基地を強制される。さらに言えば、対米関係が国内世論より優先される日本に、どれほどの「自己決定の自由」があるだろうか。
 制度面で十分な自由の空間が保障されている日本に対して、香港の自由は常に植民地当局や共産党という強権と相対し、極めて脆いもの、不完全なものにも見える。しかし、香港市民はこれまで、与えられた自由の空間を存分に活用してきた。自由を使うことが香港の活力であり、それによって香港そのものが、独自の存在として生き延びてきたのである。
 日本国憲法は集会や表現、言論の自由を保障する。しかし、周囲の空気を読み、強い主張を行って突出することを避けようとする傾向が強いと言われる社会にあって、こういった自由の権利は十分に発揮されていると言えるだろうか。使えない権利は意味を持たないし、使わない自由はやがて錆びつき、劣化する。
 香港式の「自由の使い方」を、日本も学ぶべきではないだろうか? (p.224~6)
 うーむ、考えさせられます。私たちはもはや「卵」ではなく、壁をつくる一個の「煉瓦」なのかもしれません。♪All in all you're just another brick in the wall♪ 壁にぶつかって割れるよりも、壁の一部になった方が楽ですものね、何も考えなくていいし。雨傘運動で中心的役割を果たした学生団体「学民思潮」メンバーで、トークをしてくれた周庭(アグネス・チョウ)氏が、初来日後のフェイスブックに次のように書き込まれたそうです。
 日本はかなり完璧な民主政治の制度を持っているが、人々の政治参加の度合い、特に若者のそれはかなり低い。日本に来て、私は初めて本当の政治的無関心とは何かを知った。(p.223)
 なお1月11日配信の朝日新聞デジタルによると、中国共産党に批判的な本を出版・販売していた香港の書店関係者5人が失踪した事件が、香港で起きました。失踪時の状況から中国当局が越境して香港内で拘束したとの見方が出ており、5人の釈放を求め、民主派団体が呼びかけた抗議デモには、主催者発表で約6千人が参加したとのこと。いま、香港で、そして世界各地で、壁と戦っている卵たちが大勢いることを肝に銘じたいと思います。

 追記。気になる指摘が二つありました。「異論は認めぬ、経済発展に驀進すべし-典型的な中国共産党型の統治理念である」(p.ⅴ)と、「行政と司法が一体化し、政治的判決が下されることが常態となっている大陸」(p.11)。デジャ・ヴ…これって日本と同じですね。もしかすると共産党政権は、日本をお手本にして突っ走っているのかもしれません。そしてそれがある意味では成功しているのを見た日本の為政者の皆様方が、近親憎悪的な反発を感じているのが「嫌中」の正体なのかな。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2016-02-11 06:34 | | Comments(0)

『平和のための名言集』

 昨今、言葉がどんどん、軽く薄くなっているのが気がかりです。例えば安倍伍長がよく口にする「積極的平和」という言葉。本来は、平和学者のヨハン・ガルトゥングが唱えた言葉で、平和とは、戦争がない状態(=消極的平和)だけでなく、国際および国内の社会構造に起因する貧困・飢餓・抑圧・疎外・差別(=構造的暴力)がない状態をさす、崇高な概念です。(『構造的暴力と平和』p.231 中央大学出版部) しかしどう見ても、安倍伍長言うところの「積極的平和」の内実は、アメリカの権益を増大させる(=「平和」)ための戦争の片棒を積極的にかつぐ、というものでしょう。月とスッポン、提灯と釣り鐘、雪と墨、烏と鷺、スワローズとジャイアンツ、その志の違いには目も眩むほどの懸隔があります。ま、アメリカに留学した時に、寂しさのあまり家族や友人に電話をかけまくり国際電話代が月に10万円にもなったという御仁ですから、むべなるかな。(『がちナショナリズム』p.148 香山リカ ちくま新書) でも"貧困・飢餓・抑圧・疎外・差別"をまきちらし、放任する張本人から「積極的平和」とい言葉を聞かされたら、ガルトゥング氏は、たまげた、駒下駄、日和下駄、ブリキに狸に蓄音器でしょうね。どう思うでしょう。こういう厚顔無恥な御仁を首相にしてしまった国民の一人として汗顔の至りです。そしてきちんと検証もせずに、伍長の言葉を垂れ流すメディアの低劣さにも目を覆いたくなります。
 思わずキーが滑ってしまいましたが、そんなご時世だからこそ、気骨のある言葉、ぶれない言葉、批判精神にあふれた言葉を血肉にしたいと常日頃思っています。本を読んでいるときにそんな言葉に出会うと、晩秋の栗鼠のように、せっせせっせとハードディスクに保存しております。名言集的な本を買ってしまえば話は早いのかもしれませんが、読書に関してだけはそういう安直なことはしないという変な矜持があります。しかし最近出会えた『平和のための名言集』(大和書房)は話が別。まず編者の早乙女勝元氏は、12歳で東京大空襲を経験し、それをもとにルポルタージュの傑作『東京大空襲』(岩波新書)を著した作家です。戦争を憎み平和を希求する氏が蒐集された、平和に関する365の名言・金言を紹介したのが本書。その該博な知識に驚嘆するとともに、直截的に反戦平和の思いを述べた言葉だけではなく、構造的暴力を批判しそれに抗う言葉も多々ふくまれていることです。例えば、鬼福祉や教育への抑圧に関して…
 二度と生きて福祉を受けたくない。あなたが死ねと言ったから死にます。(抗議する老婦人 『豊かさとは何か』) (p.305)

 それぞれの土から 陽炎のように ふっと匂いたった旋律がある 愛されてひとびとに 永くうたいつがれてきた民謡がある なぜ国歌など ものものしくうたう必要がありましょう おおかたは侵略の血でよごれ 腹黒の過去を隠しながら 口を拭って起立して 直立不動でうたわなければならないのか 聞かなければならないのか 私は立たない 坐っています (茨木のり子 『鄙ぶりの唄』) (p.302)
 そのためにたいへんな広がりをもった内容となっています。これほどの豊かな、そして強靭な思想を言葉にした人たちが、かつていたし、今もいるし、これからもいるであろうことは、萎えそうな心をキックしてくれる恰好のカンフル剤となってくれます。できうればその炬火を受け継ぎ、その一翼を担いたいものです。贅言はここまで。いくつか私を捉えた言葉をいくつか紹介します。
 戦争とは、たえまなく血が流れ出ることだ。そのながれた血が、むなしく 地にすひこまれてしまふことだ。…瓦を作るように型にはめて、人間を戦力としておくりだすことだ。…十九の子供も 五十の父親も 一つの命令に服従して、左をむき 右をむき 一つの標的にひき金をひく。敵の父親や 敵の子供については 考へる必要は毛頭ない。それは、敵なのだから。(『戦争』 金子光晴) (p.22)

 戦いは戦いを生み、復讐は復讐を生み、好意は好意を生み、善行は善行を招く。(エラスムス 『平和の訴え』) (p.60)

 政策遂行の手段としての戦争を否定し、軍隊を保持しない日本は、もし、一国の安全ということがあるとすれば、全世界で最も安全な国です。日本を危険にさらすものは、無軍備よりはむしろ在日アメリカ軍基地です。それは日本を攻撃目標に変えてしまうからです。(セント・ジェルジ 『狂った猿』) (p.96)

 ナショナリストは、味方の残虐行為となると非難しないだけでなく、耳にも入らないという、すばらしい才能をもっている。(ジョージ・オーウェル) (p.186)

 元来精神的に高い生活をしていた感じ易い人間は、…収容所生活のかくも困難な、外的状況を苦痛ではあるにせよ彼等の精神生活にとって、それほど破壊的には体験しなかった。なぜならば彼等にとっては、恐ろしい周囲の世界から精神の自由と内的な豊かさへと逃れる道が開かれていたからである。(ヴィクトール・フランクル 『夜と霧』) (p.187)

 お望みならば、私を売国奴と呼んでくださってもけっこうです。決しておそれません。…他国を侵略するばかりか、罪のない難民の上にこの世の地獄を平然と作りだしている人たちと同じ国民に属していることのほうを、私はより大きい恥としています。日中両国民の間には、いかなる基本的な敵対感情も存在していません。(長谷川テル) (p.195)

 賢さを伴わない勇気は乱暴であり、勇気を伴わない賢さなどはくそにもなりません! 世界の歴史には、おろかな連中が勇気をもち、賢い人たちが臆病だったような時代がいくらもあります。(エーリヒ・ケストナー) (p.259)

 「国家のため」という圧力に押しつぶされて、国家の悪を見逃してはならない。いやしくも、正義人道に反す方向に行きそうな場合は、国家にだろうが、親にだろうが、夫にだろうが、敢然反対して、これを正道に戻すような人間をつくらねばならない。(尾崎行雄 『民主政治読本』) (p.285)

 「戦争協力が国際貢献」とは言語道断である。(中村哲) (p.286)

 暴君の臣民は、ひたすら暴政が他人の頭上に振るわれることを願い、自らはそれを見物してよろこび、"残酷"を娯楽とし、"他人の苦しみ"を賞玩物とし、慰安する。(魯迅 『随感録』) (p.338)

 この新しい一千年期を迎えるにあたってお互いぜひとも日本国憲法によって導かれていこうではないか。世界平和と公正とを目指すこの73語から成る金言は、第2次世界大戦の業火と大量殺戮の中から不死鳥のごとくによみがえったものなのである。(チャールズ・M・オーバビー) (p.371)
 なお、安倍伍長と東京電力首脳陣のみなさまに、熨斗をつけて進呈した言葉がありますので、よろしければご笑納ください。
 戦争だ。ウソが始まる。(ヘティ・バウアーの父) (p.336)

 戦争が 廊下の奥に 立つてゐた (渡辺白泉) (p.342)

 銭は一銭もいらん。そのかわり、会社のえらか衆の、上から順々に、水銀母液ば飲んでもらおう。…上から順々に四二人死んでもらう。奥さんにも飲んでもらう。胎児性の生まれるように。そのあと順々に六九人、水俣病になってもらう。あと百人ぐらい潜在患者になってもらう。それでよか。(石牟礼道子 『苦海浄土』) (p.209)
 もう一つこの本が素晴らしいのは、良質のブックガイドにもなっていることです。まあまあ本は読んでいる方かなと自負しておりますが、未読の面白そうな本をたくさん教示していただきました。これもいくつか紹介しましょう。
 『本当の戦争』(クリス・ヘッジズ 集英社)、『金子光晴』(ほるぷ出版)、『戦後を語る』(岩波新書)、『母は枯葉剤を浴びた』(中村梧郎 新潮文庫)、『半生の記』(松本清張 新潮文庫)、『信州異端の近代女性たち』(東栄蔵 信濃毎日新聞社)、『戦争で死ぬ、ということ』(島本慈子 岩波新書)、『狂ったサル』(セント・ジェルジ サイマル出版会)、『戦争』(大岡昇平 岩波現代文庫)、『日本とアジア』(竹内好 ちくま学芸文庫)、『独裁者の学校』(エーリヒ・ケストナー みすず書房)、『偉大なる道』(アグネス・スメドレー 岩波文庫)、『思想は武器に勝る』(フィデル・カストロ 現代書館)、『村が消えた』(本田靖春 講談社文庫)、『豊かさとは何か』(暉峻淑子 岩波新書)、『近代日本の戦争』(色川大吉 岩波ジュニア新書)、『魯迅と日本人』(伊藤虎丸 朝日選書)、『歩く影たち』(開高健 新潮文庫)、『酸っぱい葡萄』(中野好夫 みすず書房)、『与太郎戦記』(春風亭柳昇 ちくま文庫)、『上野英信集』(影書房)、『ボローニャ紀行』(井上ひさし 文藝春秋社)、『私のおせっかい談義』(沢村貞子 光文社文庫)、『絞首台からのレポート』(ユリウス・フーチク 岩波文庫)。
 平野レミのように「おもしろそうでしょ、でしょ、でしょ」とつきまといたくなりますが、星一徹のように卓袱台を蹴り倒したくなることもあります。(星氏のために弁護すると、実際には一回しかしていないそうです。一回やれば充分ですが) そのほとんどが絶版なのですね、これが。いやはや。知的営為に無知・無関心な方々、スマートフォンに身も心も捧げた方が増えて、出版業界の台所事情が苦しいのはわかりますが、なんとか頑張っていただきたいと思います。薄給の身ですが、一日不読書口中生荊棘(安重根)、身銭を切って応援する所存です。
by sabasaba13 | 2016-01-13 06:12 | | Comments(0)