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トスカ

c0051620_6261055.jpg 人並はずれた知識や情熱や気合はありませんが、オペラは大好きです。音楽、文学、演劇、美術をまじえた総合芸術に身も心もどっぷりと浸れるひと時をこよなく愛します。これまでもリヒャルト・シュトラウスの『ばらの騎士』、プッチーニの『蝶々夫人』、モーツァルトの『魔笛』と『フィガロの結婚』、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』と『ニュルンベルクのマイスタージンガー』、ヴェルディの『椿姫』などを聴いてきましたが、これからも機会を見つけて足繁くホールに通うつもりです。

 今回は、私の大好きな広上淳一氏が、プッチーニの『トスカ』を振るということで、山ノ神を誘って池袋の東京芸術劇場に行ってきました。座席は正面二階、舞台全体を見渡せ、指揮者とオーケストラの演奏も一望できる良い場所です。
 さてオペラのあらすじですが、ところはローマ市、時は1800年6月、ナポレオン率いるフランス軍が欧州を席巻していた頃です。ナポレオンを支持する共和派の画家カヴァラドッシは、脱獄した友人の政治囚アンジェロッティの逃亡を助けたために、反共和派の警視総監スカルピアに死刑を宣告されます。彼の恋人で有名歌手トスカは、彼を救おうと警視総監スカルピアを殺しますが、スカルピアの計略でカヴァラドッシは処刑され、そしてトスカも彼の後を追って自殺するという悲劇です。なんと主役級の人物がすべて死んでしまうのですね。
 注目は、カンヌ国際映画祭審査員特別大賞グランプリを受賞した映画監督の河瀨直美氏が、自身初となるオペラ演出に取り組んだことです。舞台を古代日本のような世界におきかえ、"ローマ"を"牢魔"に、"トスカ"を"トス香"に、"カヴァラドッシ"を"カバラ導師"、"スカルピア"を"須賀ルピオ"に読み替えています。正直言ってあまり意味はなかったと思いますが、大スクリーンに映した映像を多用した演出は見ごたえがありました。水の泡、炸裂する花火、子どもなど、劇的な効果をよくあげていたと思います。
 肝心のオペラですが、緊迫感にあふれるストーリー展開に加えて、「妙なる調和」や「歌に生き、愛に生き」や「星は光りぬ」といった素晴らしいアリアがちりばめられた、見事な作品です。トス香を演じたルイザ・アルブレヒトヴァ(ソプラノ)とカバラ導師を演じたアレクサンドル・バディア(テノール)は、みごとな歌唱力と表現力でした。しかし特筆すべきは、須賀ルピオを演じた三戸大久(バリトン)をはじめ、他の歌手はすべて日本人でしかも主役の二人に劣らない好演でした。いやあ、日本の歌手も上手くなりましたねえ、安心して聴くことができました。
 指揮者の広上淳一氏も、東京フィルハーモニー交響楽団も大熱演。感極まって、ぴょんぴょんと飛び上がる広上氏の姿を何度も見ることができました。

 というわけで、喜ばしき一夜でした。たまにはこういう素敵な夜を味わえないと、生きている甲斐がありませんね。そしてモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』、ビゼーの『カルメン』、ヴェルディの『アイーダ』などなど、まだ見ぬオペラに思いを馳せました。いまだ聴いていないオペラが山のようにある、なんて私は幸せ者なのでしょう。
by sabasaba13 | 2017-11-29 06:26 | 音楽 | Comments(0)

キャスリーン・バトル

c0051620_14254740.jpg 先日、山ノ神と一緒にサントリーホールでリリック・コロラトゥーラ・ソプラノ歌手、キャスリーン・バトルのコンサートを聴いてきました。大学生のころでしたか、ウィスキーのCMで彼女が唄った「オンブラ・マイ・フ」に感銘を受けて以来のファンです。声楽を習っている山ノ神も、彼女の歌を生で聴くのをたいへん楽しみにしていました。
 当日は仕事があるので、山ノ神とはホール近くの店で落ち合ってまず夕食をとることにしました。ホールや映画館に行く楽しみの一つは、その付近の店で美味しいものにありつけることです。渋谷アップリンクと「バイロン」のパン、ポレポレ東中野と「十番」のタンメン、オペラシティと「つな八」のてんぷら、浜離宮朝日ホールと「磯野屋」の寿司、新国立劇場と「はげ天」のてんぷら、東京文化会館と「池之端藪」の蕎麦、東京芸術劇場と「鼎泰豊」の小籠包、津田ホールと「ユーハイム」の洋食、岩波ホールと「揚子江菜館」の上海式肉焼そば・「スヰート・ポーズ」の餃子、新宿と「中村屋」などなど。
 さてサントリーホールの近くで食べるとしたら、どんな店があるのか。インターネットで調べてみると、アーク森ビルの中に「宇和島鯛めし 丸水」というお店を見つけました。鯛めしか、以前に宇和島で食べたことがありますが、鯛の刺身と生卵をだし汁に入れ、ぐちゃぐちゃかき回してご飯にかけるという豪快な料理です。なかなか美味しかった記憶があるので、この店に決定。午後六時に店の中で待ち合わせることにしました。
 ところが好事魔多し、改装中のため閉店中です。無念。仕方がないので同ビル内にある「水内庵(みのちあん)」という蕎麦屋で、私はカツカレー、山ノ神はおかめうどんをいただきました。それにしても蕎麦屋のカツカレーってどうして美味しいのでしょうか。すったもんだがありましたが、午後七時少し前に、席に着くことができました。わくわく。

 そしてキャスリーン・バトルと伴奏のジョエル・マーティンが舞台に登場。1948年生まれですから、齢69歳。しかしとてもそうは見えない若々しさ、さらには圧倒的な存在感と大輪の華のようなオーラには目を瞠りました。
 プログラムは、ヘンデルの「オンブラ・マイ・フ」、シューベルトの「あらゆる姿をとる恋人」「夜と夢」「ます」「糸を紡ぐグレートヒェン」、メンデルスゾーンの「新しい恋」「歌の翼に」、ラフマニノフの「夜の静けさに」「春の奔流」、リストの「ローレライ」、オブラドルスの「いちばん細い髪の毛で」、トゥリーナの「あなたの青い目」、G.&I.ガーシュウィンの「サマータイム」「バイ・シュトラウス」、R.ロジャース&O.ハマースタインIIの「私のお気に入り」、そして黒人霊歌から「ハッシュ」「私の小さなともし火」「天国という都」「馬車よやさしく」です。
 それにしても、何と美しい声であることよ。艶やかで、なめらかで、張りがあって…いや言葉では表現できません。お年のせいか、最弱音を保つのに少々苦労されているようですが、致し方ないですね。選曲も、歌曲あり、スタンダード・ナンバーあり、黒人霊歌ありとバラエティに富み、楽しむことができました。
 伴奏のジョエル・マーティンもいいですね。ラフマニノフの超絶技巧の伴奏を難なく弾きこなし、ジャズ風の即興演奏も披露してくれました。圧巻はアンコール、なんと黒人霊歌を中心に九曲も歌ってくれました。もちろんサービス精神もあるのでしょうが、それ以上に歌うことが好きで好きでしょうがないという気持をひしひしと感じます。山田耕筰作曲、北原白秋作詞の「この道」も歌ってくれましたが、しみじみとした良い曲ですね。客席から唱和する歌声も聴こえてきました。

 人間の声の素晴らしさ、凄さをあらためて思い知ることができた、至福の一夜でした。
by sabasaba13 | 2017-11-27 14:26 | 音楽 | Comments(0)

トーキング烏山神社の椎ノ木ブルース

c0051620_6345870.jpg 中川五郎氏の『トーキング烏山神社の椎ノ木ブルース』、これも『週刊金曜日』の音楽評で教示していただいたCDです。中川氏といえば、『受験生ブルース』を作詞したフォーク・シンガーですね。そして"烏山神社の椎ノ木"といえば…拙ブログでも紹介した、関東大震災時の朝鮮人虐殺に関係するあの椎ノ木でしょう。くりかえしますと、1923(大正12)年9月2日の午後9時頃に、甲州街道沿いの東京府千歳村烏山で起きた虐殺です。ある土木請負人が、京王電鉄の依頼で朝鮮人労働者18名と共にトラックに乗って、地震で半壊した車庫を修理するために、笹塚方面に向かっていました。しかし、烏山附近まで来た時、竹槍を携えていた7、80名の青年団員に停車を命じられ、全員路上に立たされました。彼らは襲撃してきた朝鮮人集団と解釈し、鳶口、棍棒、竹槍等によって激しい暴行を加えて一人を刺殺し他の者にも重軽傷を負わせました。この事件で12人が起訴された時、千歳村連合議会は、この事件はひとり烏山村の不幸ではなく、千歳連合村全体の不幸だ、として彼らにあたたかい援助の手をさしのべます。ある人物曰く、「千歳村連合地域とはこのように郷土愛が強く美しく優さしい人々の集合体なのである。私は至上の喜びを禁じ得ない。そして12人は晴れて郷土にもどり関係者一同で烏山神社の境内に椎の木12本を記念として植樹した。今なお数本が現存しまもなく70年をむかえようとしている」「日本刀が、竹槍が、どこの誰がどうしたなど絶対に問うてはならない。すべては未曽有の大震災と行政の不行届と情報の不十分さが大きく作用したことは厳粛な事実だ」。なお烏山神社には、当時植えられた椎の木のうち4本が残り、参道の両側に高くそびえているそうです。

 それではなぜ彼がこの事件を歌にしたのか。「ハフポスト日本版」の中で、彼がその思いを語っているので紹介します。きっかけは『九月、東京の路上で』(加藤直樹 ころから)を読んだことだそうです。
「僕は1980年代に10年ほど烏山に住んでいて、このあたりもよく通っていながら、事件のことを知らなかったんですよ。それから烏山神社のことも。だから加藤さんの本を読んだときはショックでね。すぐに歌を作って現場を訪れました」

「怖いことです。僕も住んでいたからこそ分かるんですが、千歳の村でかばい合う意味での絆があったんでしょうね。身内の団結というか、例え誤ったことでもそれは地元のためにやったことだからと正当化してしまう。内向きでそれを正義にしてしまう。日本の恐ろしい所、この国が犯して来た過ちです。これを歌わなければと強く思ったわけです」

「でもね。僕が歌っているのは、94年前のことではなく、今の日本のこと。事件は過去のことでも現在と未来のことを歌っているんです」

「自分たちと異なる人たち、出自を外国に持つ人であったり、障害を持つ人たちとこの国で共に生きようとするのではなくて排除しようとしている。そんなひどい社会になっているじゃないですか」
 そして関東大震災の虐殺について、歴代都知事が行って来た朝鮮人犠牲者の追悼式に対する追悼文を、小池百合子都知事は約6000人という犠牲者の数に疑義を呈して今回は見送ると表明しました。
「ああいう歴史修正が恐ろしい。小池知事は東京大空襲や広島、長崎の被害の数字にはこだわりは見せていないじゃないですか。それでいて関東大震災の虐殺については数字から事実ではないのではないかという言いがかり。仮にその数字に信憑性がなかったとしても、例え犠牲者の数が少なかったとしても、デマがあって自分たちと違う人々がそれを理由に殺されたという悲惨な出来事自体はあったわけです」

「都知事の立場ならば、かつて東京でそういう事件が起こったということ、数字の正確さよりもそれを二度と繰り返さないという誓いを言わないといけないと思うんですよ。ところが、数字の問題にすり替えて、あった事実をゼロにしてしまう。知事が追悼の言葉を送らないなんて考えられないですよ。恐ろしい時代になって来ました。そのおかげで僕はこの年になって歌いたいことがどんどん出て来ました」
 うーむ、これはぜひ聴いてみたい。インターネットで調べて、対レイシスト行動集団(Counter-Racist Action Collective、略称C.R.A.C.[クラック])の通信販売サイトで購入しました。この事件をひとつの物語として、生ギター一本で歌い上げた17分49秒の力作です。いや歌というよりは、語り、そして叫びですね。まず軽快なギターの伴奏とともに事件の概要が語られ、最後の短いフレーズが歌となります。やがてこの椎ノ木が、犠牲者を悼むためではなく、加害者を労うために植樹されたことに話が至ると、俄然、中川氏の言葉に熱と力がこもってきます。そしてヘイト・スピーチなど、未だに朝鮮人への差別意識が払拭されていない現状を語るとともに、氏の言葉は怒りのかたまりとなって爆発します。
変わらないこの国 変わらないこの国の人たち
変わろうとしないこの国 変わろうとしないこの国の人たちを
残った椎ノ木は 見つめている
また同じことを 繰り返そうとする
この国を見つめている
「良い朝鮮人も 悪い朝鮮人も みんな殺せ」
そんなことを 街中で大声で叫ぶ人たちがいて
それに 見て見ぬふりをして
何も言おうとしない人たちが あふれるこの国
変わらないこの国 変わらないこの国の人たち
変わろうとしないこの国 変わろうとしないこの国の人たち
今も残った椎ノ木は 同じことを繰り返す
この国を見て 一体何を思うのか
僕は思った 僕は思った
変わろうとしないこの国を 変わろうとしないこの国の人たちを
変わろうとしないこの国を 変わろうとしないこの国の人たちを
まるで まるで まるで まるで
まるで まるで まるで まるで
祝福しているかのような この大きな椎ノ木を
ぶった切ってやりたいと
 ひさしぶりに聞くことができた、素晴らしいメッセージ・ソングです。強烈な差別意識、とそれに対する無関心や傍観、私たちの心に潜む暗部を怒りとともに抉りだす中川氏の志にいたく共感しました。そう、理不尽で没義道なものに対して、きちんと怒ること。『怒れ!憤れ!』(日経BP)の中で、ステファン・エセル氏もこう述べられています。
 いちばんよくないのは、無関心だ。「どうせ自分には何もできない。自分の手には負えない」という態度だ。そのような姿勢でいたら、人間を人間たらしめている大切なものを失う。その一つが怒りであり、怒りの対象に自ら挑む意志である。(p.45)

 現代の社会には、互いの理解と忍耐によって紛争を解決する力があると信じる希望。そこにたどり着くためには、人権を基本としなければならない。人権の侵害は、相手が誰であれ、怒りの対象となるべきだ。この権利に関する限り、妥協の余地はない。(p.85)
 人間を人間たらしめている大切なもの、怒りを呼び起こしてくれる一枚。お薦めです。

 本日の一枚は、先日撮影してきた烏山神社の椎ノ木です。
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by sabasaba13 | 2017-11-24 06:36 | 音楽 | Comments(0)

ビル・エヴァンス 『アナザー・タイム』

c0051620_628482.jpg 購読を始めた『週刊金曜日』の書評・音楽評・映画評がなかなか充実していると拙ブログで報告しましたが、今日はそこからビル・エヴァンスのCDを紹介します。

 ふだん家で聴く音楽は、クラシック:ジャズ:ロック:その他が、5:3:1:1ぐらいの割合ですね。ジャズは50~60年代のハード・バップが中心ですが、愛聴しているのはマイルス・デイヴィス、ウィントン・ケリー、ウェス・モンゴメリー、そしてビル・エヴァンスです。一日の仕事を終えて帰宅し、缶ビールを飲みながらビル・エヴァンスのピアノに耳を傾けるのが至福のひと時。類まれなる歌心と心地よいスイング感が、身に積もった俗塵をきれいに洗い流してくれます。主に聴くアルバムは、スコット・ラファロ(b)+ポール・モチアン(ds)によるリバーサイド四部作。ピアノが主役、ベースとドラムスが脇役というこれまでの常識をくつがえし、三者が対等に語り合うと"インター・プレイ"を完成させた黄金トリオです。中でもスコット・ラファロ奏でるベースの素晴らしいこと。重厚な音色、高音をものともしない超絶技巧、そして魅力的なメロディ・ライン、過去最高のベーシストだと思います。
 そしてエディ・ゴメス(b)+ジャック・ディジョネット(ds)による『ビル・エヴァンス・アット・ザ・モントルー・ジャズ・フェスティバル』も捨てがたい愛聴盤です。黄金トリオに匹敵するような素晴らしいインター・プレイですが、残念ながらジャック・ディジョネットがマイルス・デイヴィスに引き抜かれたため、このトリオはわずか六ヵ月しか存続しませんでした。よってアルバムも前記の一枚のみ。ま、一枚だけでも録音が残されたことは僥倖でしょう。
 ところが、ジャズ・プレイヤーの貴重な未発表音源を精力的に発掘しつづけているレゾナンス・レコードのプロデューサー、ゼヴ・フェルドマンがこのトリオのスタジオ録音を発見したのです。それが『アナザー・タイム』、1968年6月22日、オランダ中部のヒルフェルスムにあるネーデルラント・ラジオ・ユニオンのスタジオで行なわれたコンサートを録音したものです。
 さっそく購入して聴きました。うーん、いいですね。歌心に力強さも加わったエヴァンスのピアノ、それを支えつつも雄弁にメロディをつむぎだすゴメスのベース、そして二人を刺戟するようなディジョネットのドラムス、三者のインター・プレイに聴き惚れました。これは黄金のトリオを凌駕するのでは。秋の夜長、ウィスキーの「ストレート・ノー・チェイサー」を味わいながら、ビル・エヴァンス・トリオの奏でる音楽に身と心を浸す。人生はそれほど悪いものではないなと思うひと時です。

 なおフェルドマンは、このトリオが1968年6月20日にドイツのスタジオで録音した音源を見つけ、こちらは『サム・アザー・タイム』として発売されているとのこと。さっそく購入することにしました。
by sabasaba13 | 2017-11-09 06:28 | 音楽 | Comments(0)

ばらの騎士

c0051620_6231720.jpg 以前から見たい聴きたいと念願していたリヒャルト・シュトラウスのオペラ『ばらの騎士』を、ようやく鑑賞することができました。東京二期会による公演で、セバスティアン・ヴァイグレが指揮する読売日本交響楽団、そして演出はリチャード・ジョーンズです。
 会場は上野にある東京文化会館。山ノ神と二人で早めに家を出て、上野駅構内にある「たいめいけん」でオムライス+ハンバーグ+ボルシチ+コールスローを食して腹の虫を黙らせ、「シーズカフェ」で珈琲を飲んで睡魔を手懐け、準備万端調いました。
 座席は三階正面の最前列、舞台全体を一望できるし、オーケストラ・ピットも覗けるし、足も悠々と伸ばせるし、なかなか良い席でした。さあはじまりはじまり、どきどきわくわく。
 まずは簡単にあらすじを紹介します。舞台は1740 年、マリア・テレジア治世下のウィーン。オックス男爵の結婚に際し、貴族の結婚の印として贈られる銀のばらを運ぶ使者として、元帥夫人は自分の不倫相手オクタヴィアンを選びます。オックス男爵の花嫁となるゾフィーのもとへ銀のばらを運んだオクタヴィアンでしたが、若い二人は一目ぼれ。粗野なオックス男爵からゾフィーを守るため、オクタヴィアンは女装して仲間とともにオックス男爵に一泡ふかせ、婚約を破談させました。そして伯爵夫人が現れてオクタヴィアンとゾフィーの仲を認め、二人を祝福して自らは身を引きます。おしまい。
 という、何とも他愛のないお話です。しかし華やかな序曲がはじまると、もう夢のような世界に惹き込まれました。リヒャルト・シュトラウスが紡ぎだす音楽の何と素晴らしいことよ。時には勇壮に、時には不安気に、時には面白可笑しく、そして時には底なし沼のように甘美に… 華麗で優美なウィンナ・ワルツの数々にも蠱惑されました。中でも身も心もとろけてしまったのは、第三幕最後の場面、伯爵夫人とオクタヴィアンとゾフィーの三重唱です。裏切りに苛まれるオクタヴィアン、未来に不安を抱くゾフィー、そして二人を気遣い祝福して身を引く伯爵夫人。三者三様の想いを乗せながら三つのメロディが甘美に絡みあう、その素晴らしさ。作曲者シュトラウスが、この曲を自分の葬儀で演奏してほしいと望んだのも頷けます。その後に歌われたオクタヴィアンとゾフィーの二重唱では、愛の喜びに包まれながらも、茶々をいれるような木管のオブリガードがからみ、二人の将来への不安を感じさせるなど、芸の細かさにも脱帽。
 歌手陣も申し分なく、中でも出色がオックス男爵を演じた妻屋秀和氏です。豊かな声量や卓抜した表現力もさることながら、男爵を単なる悪役とせず、男の業を漂わせながらコミカルに演じた演技力にブラーボ! 読売日本交響楽団も熱演でした。演出・振付・舞台装置もお見事でした。スラップスティックのようなドタバタの場面での、集団のコミカルなダンスや動きなども秀逸。第三幕ではあえて三角形の部屋として三重唱での三人の想いを際立たせたり、ライトによって壁紙の色を千変万化させたりするなど、舞台装置や照明にも拍手を贈りたいと思います。ブラービ。

 いま思い返してみると、作品全体の半分くらいしか登場しないのですが、伯爵夫人の存在感が強く印象に残ります。特に、第一幕最後の場面で、自らの老いを嘆く静謐な独唱に心打たれました。オクタヴィアンへの愛を諦め、若い二人の前途を祝するのも、この老いの故なのでしょう。
 おばあさん、老マルシャリン(※伯爵夫人の名前)! どうしてそんなことが起こり得ようか。どうして神様がそんなことをなさるのだろう。私自身はいつも同じ人間なのに。神様がそうなさらなければならないのなら、何故私にそれを見せようとなさるのだろう。
 しかもこんなにはっきりと、何故それを私の目から隠そうとなさらぬのか。すべてのことが不可解だ。そして人間はそれに堪えしのぶために生きているのだ。そしてこの「どうして」の中にすべてのちがいがある。
 このオペラの初演は1911年、時は第一次世界大戦が始まる三年前、シュトラウスと台本作者のホフマンスタールは、ハプスブルク帝国の凋落と崩壊を予感し、その墓碑銘として伯爵夫人に歌わせたのかもしれません。

 これまでに見た中でもっとも素敵なオペラであったと、山ノ神と意気投合。こんな素晴らしい人と気を贈ってくれた二期会と読響に感謝するとともに、日本オペラ界の実力もなかなかのものだと実感。これからもお金と時間の許す限り日本のオペラに足繁く通って、応援していきたいと思います。
by sabasaba13 | 2017-08-01 06:24 | 音楽 | Comments(0)

マーラー交響曲第九番

c0051620_6271537.jpg 気鋭の指揮者・山田和樹氏が、日本フィルハーモニーとともに三年をかけてマーラーの交響曲九作を年代順に振る「マーラー・ツィクルス」がいよいよ最後の曲となりました。そう、交響曲第9番です。『マーラーの交響曲』(講談社現代新書)の中で金聖響氏は「マーラーの最高傑作」と評されていましたが、普段CDを聴いているかぎりではそうは感じられません。やはりライブで聴かないと、真価はわかりませんよね。楽しみです。
 なお公演パンフレットの解説によると、作曲に着手したのは1909年の夏、その二年前には最愛の娘マリア・アンナを亡くし、その直後に心臓疾患を告げられます。そしてウィーン宮廷歌劇場を自任してメトロポリタン歌劇場にデビューするなど、ストレスの多い日々の中で第9番はつくられました。そうした中、マーラーの音楽に向き合う姿勢が明らかに変わったことが、ブルーノ・ワルター宛ての手紙(1908.7.18)から読み取れます。
 つまり私はただの一瞬にしてこれまで戦い獲ってきたあらゆる明察と平静とを失ってしまったのです。そして私は無に直面して立ち、人生の終わりになっていまからふたたび初心者として歩行や起立を学ばなければならなくなったのです。
 娘の死に打ちひしがれ、自らの死を予感しつつ、万感の想いを込めて人生を振り返りながら作った曲なのでしょうか。そうした予備知識をどこかの引き出しに入れておいて、虚心坦懐に音楽を楽しみたいと思います。

 会場はいつものように、Bunkamuraオーチャードホール。一曲目は、武満徹の「弦楽のためのレクイエム」、その清澄な響きで耳朶にこびりついた俗塵を洗い落としてもらいました。
 20分休憩のあと、いよいよ交響曲第9番です。銅鑼とハープの重低音とヴィオラのトレモロが静かに空間を包み、ヴァイオリンが甘美なメロディを愛おしむように奏でます。そして、どれが主旋律でどれが伴奏か、和音なのかメロディなのか、判然としない音の塊がうねりながらホールを濃密に満たします。羊水の中で微睡む胎児のように、その神秘的で美しい音楽にただただ身と心を浸すのみ。これは"死"というよりも"生"の音楽ですね、生きて、この音楽が聴けてほんとうによかった。至福のひと時があっという間に過ぎていきました。
 第2楽章は三拍子の田舎の踊り(レントラー)。マーラーは「いくらか不器用で、かなり粗野に」という書き込みをしています。己の不器用で粗野な生き方を、思いきり哄笑しながら振り返っているようです。そして第3楽章には、ブルレスケ(道化芝居の音楽)という指示と、「きわめて反抗的に」という珍しい支持が書き込まれています。自らの人生を「道化芝居」と突き放しながらも、無理解な周囲と音楽をもって戦い反抗を続けたことを振り返っているのでしょうか。先ほどの手紙に"戦い獲ってきた"と記されていたことと符合します。この楽章での、山田氏の鬼神の如き指揮は凄まじかった。「戦え、抗え」と怒号するかのような迫力でオーケストラを奮い立たせ、この攻撃的な音楽を見事に表現しました。二列目左端に座っていたのですが、第一ヴァイオリンを睨みつける氏の表情には血の気が引いたほどです。そして音の大爆発とともに、第3楽章は終わります。ふう。
 第4楽章、アダージョ。喜び、悲しみ、安らぎ、絶望、さまざまな感情がゆったりとしたテンポとともに唄い上げられます。指揮者とオーケストラが一体となって、全身全霊を込めて唄い上げるメロディの素晴らしいこと。陳腐な表現ですが、心の琴線が震えっぱなしでした。そして音楽は徐々に静謐となっていき、幸福というオーラに包まれながら息絶えていきます。最後の音がpppで終わり、無音の響きが微かに鳴り響くホール。微動だにしない指揮者とオーケストラ。ああずっとこの無音に包まれていたい、ずっと…

 すると。山田和樹氏が振り返りもせず動きもしないのに、誰かが「ぶらぼー」と叫びながら盛大な拍手をはじめました。やれやれ。二人で苦笑いをするしかありませんでした。

 というわけでほんとうに素晴らしい音楽でした。あらためて山田和樹氏と日本フィルに感謝したいと思います。どうもありがとうございました。でもこれで「マーラー・ツィクルス」が終わりかと思うと、残念です。今度は、金聖響氏の「マーラー・ツィクルス」をぜひ聴きたいものです。
by sabasaba13 | 2017-07-06 06:27 | 音楽 | Comments(0)

マーラー交響曲第八番「千人の交響曲」

c0051620_6283485.jpg 気鋭の指揮者・山田和樹氏が、日本フィルハーモニーとともに三年をかけてマーラーの交響曲九作を年代順に振る「マーラー・ツィクルス」がいよいよ第3期に入りました。前回は交響曲第7番「夜の歌」、そして今回はいよいよ畢生の大作、交響曲第8番「千人の交響曲」です。『マーラーの交響曲』(金聖響+玉木正之 講談社現代新書)によると、この曲についてマーラーは次のような言葉を残しているそうです。(p.221)
 私は、ちょうど第八番の交響曲を完成させたところです。これは、これまでの私の作品のなかで最大の最も優れた作品で、内容的にも形式的にも非常にユニークで、他に例がなく、言葉で表現することができません。大宇宙が響きはじめる様子を想像してください。それは、もはや人間の声ではなく、運航する惑星であり、太陽そのものです。
 以前に、ガリー・ベルティーニの指揮で聴いたことがあるので、生で聴くのは二度目です。大宇宙の響きにまた包まれるのが楽しみです。

 会場はいつものように、Bunkamuraオーチャードホール。今回は三階席なのでホール全体を一望できますが、舞台の後ろ半分は合唱団のための演台が列をなし、前半分にはハープ四台にピアノ、チェレスタ、ハーモニウム、そして様々な打楽器群が置かれています。もうこれだけで、期待で胸ははちきれそう。
 まずは早稲田大学創立100周年を記念して武満徹が作曲した「星・島(スター・アイル) (オーケストラのための)」で身も心も浄められ、15分の休憩です。紫煙をくゆらして座席に戻ると、陸続と合唱団、そしてオーケストラのみなさんが登場し、舞台を埋め尽くしました。山ノ神が肘でつつくので指さす方を見ると、三階席の両側に譜面台が置かれていました。どうやらバンダ(オーケストラと離れた位置で演奏する小規模のアンサンブル)が加わるようですね。そして指揮者の山田和樹氏が登場して万雷の拍手を浴び、すぐに静寂がホールを包みます。一瞬の間を置き、タクトを上げて振り下ろすと、オルガンの重厚な響き、そしてVeni, creator spritus ! (来たれ、創造主である聖霊よ)という大合唱とオーケストラの音が、文字通りホールを揺るがしました。
 第一部は、中世のマインツの大司教ラバヌス・マウルスが創ったといわれる、創造主・キリスト・聖霊を讃えるラテン語の讃歌です。第二部は、ゲーテの『ファウスト』で、ファウストが天上界へ導かれていく最終場面がドイツ語で歌われます。いや、そうした註釈ぬきで、素晴らしい音楽に酔い、包まれ、感動することができました。自分という存在が消え失せて、大宇宙の響きと一体となったという稀有なる体験です。もう言葉もありません。
 とはいえ、興奮と感動が醒めやると、やはりマーラーがこの曲で表現したかったことが気になります。金聖響氏も前掲書の中で言っておられましたが、最後に歌われる「永遠に女性的なるものが私たちを引き上げる! (Das Ewig-Weibliche Zieht uns hinan !)」という謎のような言葉が鍵を握っていそうです。『ファウスト』の中で、ゲーテはこうも書いています。
 女性的な感覚の方が、人間を正しい方向に導く。
 マーラーは、当時(※初演は1910年)のヨーロッパ社会が間違った方向に進んでいて、それを矯正するには"女性的な感覚"が必要だと考え、それをこの巨大な音の伽藍で表現しようとしたのではないか。だとすると、その間違った方向とは何なのでしょう。それを考えるときに、ほぼ同時期に刊行されたマックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1904~5)が導きの糸になりそうです。私の文責で要約しますと、この時代、合理的産業経営を土台とする資本主義の社会的機構が、鋼鉄のようなメカニズム(鉄の檻)と化していました。その結果、諸個人の行動から倫理的な意味は消え失せ、貨幣の獲得のみが職業における有能さの結果であると信じ、徹底的に合理化された思考・行動によって競争相手を打ち負かし利潤を増やそうとする人間類型が登場することになります。精神のない専門人、心情のない享楽人。ヴェーバー曰く、「末人たち」(letzte Menschen)です。こうした人間類型に対して、彼が本書で掲げているのが「ファウスト的な人間の全面性」という表現です。それが「女性的なるもの」の正体ではないでしょうか。戦い・争い・競争を忌み嫌い、他者を蹴落とそうとせず、人間らしく生きようとすること。
 ちなみに、マーラーが唯一、個人に献呈したのがこの第八だそうです。相手は妻のアルマ・マーラー。この頃、マーラーはアルマが建築家ワルター・グロピウスと不倫関係にあることに気づき、どちらをとるかを彼女に決断させ、アルマはマーラーのもとに戻ってきました。しかし精神的に不安定になったマーラーはフロイトの診療を受けるとともに、第八番初演の準備や第十番の作曲に忙殺されていた時に、アルマにこの曲を献呈する決意をしたようです。彼女のなかに、十全なる"女性的なるもの"を見ていたのでしょう。

 何も考えずに曲に身をまかすだけで至福ですが、こうした思想的な背景を考えるとより深みと厚みが増すような気がします。この時代よりもますますletzte Menschenが跳梁跋扈しもてはやされる現代、マーラーの思いはより輝きをもって鳴り響きます。
by sabasaba13 | 2017-06-14 06:29 | 音楽 | Comments(0)

マーラー交響曲第七番

c0051620_6263381.jpg 気鋭の指揮者・山田和樹氏が、日本フィルハーモニーとともに三年をかけてマーラーの交響曲九作を年代順に振る「マーラー・ツィクルス」がいよいよ第3期に入りました。これまでに、第2番「復活」第4番、第5番、第6番「悲劇的」を聴いてきましたが、いずれも聴き応え充分でした。今回の交響曲第7番「夜の歌」も楽しみです。
 開演は5月14日の午後三時。しかし好事魔多し、日曜日だというのに無慈悲にも仕事が入ってしまいました。せんかたなし、山ノ神とは現地で落ち合うことにして、急いで仕事を済ませて渋谷へ駈けつけました。傍若無人にスマートフォンの画面に見入る人びとを掻き分け掻き分け、開演五分前にBunkamuraオーチャードホールの座席に辿り着けました。ふう

 パンフレットから引用します。
 マーラーと武満徹。
 一見するとまったく違う作風の二人の音楽作りの根底にあったもの、それは伝統的な音楽への尊敬でした。とりわけ、音楽の父とされるバッハへの想いは特別だったようです。
 伝統的な音楽から、それまでになかった革新的な音楽への飛翔。自然の音に耳を澄ませ、生と死をみつめ、人間の歌にこだわった二人の作曲家。その姿を追いながら、いよいよ第3期『昇華』を迎えることになりました。マーラーの後期交響曲では、"美"が突き詰められていきます。その先にあったものは一体何だったのか。
 「やがて私の時代がやって来る」-その通りになった現代、マーラーの音楽が私たちに問いかけるものは何なのか。
 祈りと絶望、陶酔と狂気、刹那と永遠、喜悦と怒り、それらが同時に交錯する世界の中で、僕は叫びたくなります。その叫びたくなる感覚はどこから来るのか。死というものを近くに感じるからなのか、美しいものに触れるからなのか。そもそも音楽の始まりは、歌だったのか、叫びだったのか。
 第3期『昇華』は、生きる上での哲学とともに、音楽の原初を辿る旅にもなりそうです。
 溢れる想いを胸に、二人の作曲家に感謝しながら。
 そう、このツィクルスでは、山田和樹氏の強い希望によりすべて武満徹氏の曲と組み合わされています。今回の曲は、「夢の時(オーケストラのための)」。アボリジニの間に伝わる天地創造の神話をテーマとした曲です。グリッサンドやトリルが多用された音の波動に身を任せ、しばし夢の世界に遊びました。
 そして休憩の後に、マーラーの交響曲第7番「夜の歌」が演奏されました。…告白しますと、第3楽章までは、仕事の疲れもあって酔生夢死状態。鼾をかかぬように気をつけてうつらうつらと夢心地で音楽に浸っていました。マーラーさん、ごめんなさい。しかし第4楽章の「夜曲 アンダンテ・アモローソ(愛情を込めて)」が始まると、とたんに覚醒。ああ何て愛らしく魅惑的な音楽なのでしょう。逍遥するような穏やかなテンポに乗って、親しみやすくチャーミングなメロディが流れていきます。意外な取り合わせですがギターとマンドリンの音も、曲想によく合っています。睡魔も眠ってしまうような至福のひと時でした。そして第5楽章「ロンド‐フィナーレ」では、音の洪水と爆発に圧倒されました。「夜の歌」の終楽章なのにこの底抜けの明るさは何なんだ。ま、いいや。身悶えするような音の響きと迫力に身も心もゆだねましょう。

 実は『マーラーの交響曲』(金聖響+玉木正之 講談社現代新書)のなかで、指揮者の金聖響氏が、この交響曲はよくわからない、とぼやいておられるのですね。しかしその後で、マーラー研究家のアンリ=ルイ・ド・ラ・グランジュ氏の言葉を引用されています。
 マーラーは聴かれることを望んでいたが、裸にされることは望んでいなかった。彼は自作についての分析や注釈や解説を嫌悪し、晩年にはそれらを禁じたほどだった。歌曲のひとつにドミナント(属音)の和音で終わるものがあると指摘されたときには、腹を立て、その曲は理性よりもむしろ直観で聴いてほしいと答えたという。(p.218)
 マーラーの楽曲を分析する能力も理性もない小生としては、たいへん心強いお言葉です。これからも虚心坦懐に音に身も心も委ねることにしましょう。

 さあ次回は交響曲第8番「一千人の交響曲」です。いまからワクワクしています。
by sabasaba13 | 2017-05-17 06:27 | 音楽 | Comments(0)

マーラー交響曲第四番

c0051620_6304346.jpg 小笠原伯爵邸を出て、若松河田駅から都営12号線(筆者注:あの極右・レイシストの御仁…以下略)に乗って新宿西口駅で下車し、てくてくと歩いてJR新宿駅へ。山手線に乗り換えて渋谷駅に到着。ああ相も変わらず五月蠅い街だなあ、わき目もふらずに一路Bunkamuraのオーチャードホールに向いました。以前にも書きましたが、山田和樹という若い指揮者が、日本フィルハーモニーとともに三年をかけてマーラーの交響曲九作を年代順に振るという「マーラー・ツィクルス」第二期の一回目、交響曲第4番の演奏会です。なおこのツィクルスでは、山田和樹氏の強い希望によりすべて武満徹の曲と組み合わされています。今回は、「系図 ~若い人たちのための音楽詩~ (語りとオーケストラのための)」という曲でした。谷川俊太郎の詩集『はだか』から武満徹が選んだ六編の詩を女優・モデルの上白石萌歌が語り、オーケストラが伴奏をつけるという構成です。彼女の上手な語りと、優しい曲調と、満腹感のため…関係者各位申し訳ない、寝てしまいました。言い訳にもなりませんが、ほんとうに気持ち良かった。
 20分の休憩をはさんで、いよいよマーラー作曲の交響曲第4番です。指揮者の山田和樹氏は、交響曲第1~3番を第一期「創生」、第4~6番を第二期「深化」、第7~9番を第三期「昇華」と捉えています。第二期「深化」については、パンフレットの中でこう書かれています。
 20世紀初頭、40歳代のマーラーは、指揮活動に作曲活動に邁進していくことになります。アルマとの結婚、二人の女の子の誕生とプライベートも充実を見せる中で、マーラーの交響曲は「深化」していくことになりました。パロディ的要素の強い第4番、結婚という大きな節目に書かれた第5番、自身のその後の運命を予感させるような第6番。「深化」と題した第2期は、鈴の音から始まり、ハンマーの音で終わることになります。
プログラム前半でお送りしる武満徹作品には、ナレーション、ヴィオラ、ヴァイオリンによる協奏的作品を配置しました。
 二人の作曲家の見ていたであろう風景を追いながら、自分自身も「深化」していけたらと思います。
 なおマーラーの交響曲に関しては、『マーラーの交響曲』(金聖響+玉木正之 講談社現代新書)という優れた概説書がありますが、その中で金聖響氏は次のような区分をされています。
1.オペラや交響詩ではなく「交響曲作家」として出発(一番)
2.ベートーヴェン『第九交響曲』への強い意識と、それからの離脱(声楽付きの二~四番)
3.新しい交響曲に対する模索と実験(五~七番)
4.過去の交響曲の集大成(声楽付きの八番)
   (3と4で「アルマ交響曲群」という呼び方も可能?)
5.新しい交響曲(音楽)の始まり(大地の歌、九番、クック版十番) (p.134)
 お二人の分析の当否は浅学故分かりませんが、第四番がマーラーの過渡期を示す作品であるという点は共通しているようです。そしてパロディ的な曲だという点でも。パロディ? ベートーヴェンの? まさかね。でもこれまでCDで何度も聴いてきましたが、親しみやすいけれどどことなく変な交響曲だなという気はしていました。第1楽章の混乱、第2楽章のおどけたヴァイオリン、そして第1~3番のような壮大な盛り上がりをみせず、愉悦と狂騒を繰り返しながら不気味な響きとともに静かに終わる終楽章。
演奏会の前に前掲書を再読し、ホールでプログラムを読み、そのパロディという意味が、そしてこの曲の変異さがすこしわかったような気がしました。まず曲の冒頭でシャンシャンシャンシャンと鳴り響く鈴の音。金氏はこう言われます。
…この鈴の音を、ポスト・モダンの哲学者でマーラー研究の音楽学者でもあるテオドール・アドルノは、「道化の鈴」と呼びました。「道化の鈴」とは道化師の帽子にいくつかぶら下がっている鈴のことで、これが冒頭に鳴らされるのは、「これから君たちが聴くものは、すべて本当のことではないのだよ」と、物語が始まるときの口上が述べられていることになります。(p.118~9)
 第2楽章のヴァイオリン独奏には、マーラー自身が「死神(Freund Hein)は演奏する」と書き入れたことがあり、また「フィドルのように」と指示しているそうです。後者は、踊りの伴奏というニュアンスですね。さらに独奏ヴァイオリンは通常より二度高く調弦してあります。つまり、調子外れの死神の踊り… 第3楽章は美しく安らかな音楽、ほんっとにマーラーの緩徐楽章はすばらしいですね。そして「完全に死に絶えるように」という指示とともに消えるように終わります。つまり第4楽章は死後の世界、そこでソプラノによって歌われるのが「天上の生活」です。プログラムより、前半部分を転記します。
天の喜びを 味わうわれら 憂き世のことは 忘れるに限る 世の喧騒は 天には 届かぬ 安らかな静けさの中 暮らすのだ その生活は 天使のようだが まったく 愉快きわまりない 踊り 跳びまわり 飛んでは 歌う 天のペテロ様が それを見る

ヨハネ様は 仔羊を放し 肉屋のヘロデは 虎視眈眈 われらは この慈悲深き 穢れなき かわいい仔羊を 死へと追いやるのだ ルカ様は 少しもためらわず 雄牛を屠る 天の酒蔵にある酒は 鐚一文も かからない パンを焼くのは 天使たち
 快楽と安逸に満ちた天上の暮らし。その一方で、イエス・キリストに洗礼を施したヨハネは、仔羊(イエス)を放逐し、嬰児殺しのヘロデ王が虎視眈眈と彼を狙う。キリスト教への冒?とも受け取れます。なお金氏によると、マーラーは1897年にウィーン宮廷歌劇場の常任指揮者になりますが、そのためにユダヤ教を棄て、ローマ・カトリックに改宗しています。そうしないと反ユダヤの空気が強いウィーンでは高い地位は望めなかったのですね。交響曲第4番の作曲時期は1899~1900年ですから、そうしたことへの鬱屈や苛立ちを感じていたのかもしれません。また世紀末ウィーンのブルジョア社会に対する反発を持った可能性もありますね。キリスト教とブルジョア社会のパロディ。しかし突然鳴渡る鈴の音と狂騒の響き、「嘘だよ」「冗談だよ」と嘲笑うかのように。そして暗鬱で不気味な和音とともに曲は静かに終わります。楽譜には、他に例はないのですが「交響曲はおしまい(Ende der Symphonie)」と記されているそうです。
 良いか悪いかはわかりませんが、今回は事前学習をした上で鑑賞にのぞみました。そうしてみると、この一筋縄ではいかない交響曲を、山田和樹氏も日フィルもみごとに演奏してくれました。美しく、安らかに、剽軽に、奇妙に、騒々しく。そして時には微笑み、時には嘲笑し、時には罵倒し、そしてからかってくれました。ブラービ。
 次回の交響曲第5番も楽しみにしています。
by sabasaba13 | 2016-03-02 06:31 | 音楽 | Comments(0)

春の祭典

 とあるコンサートで貰ったチラシに、小林研一郎が日本フィルを指揮して「シェエラザード」と「春の祭典」を演奏するというものがありました。なんてゴージャスなんだ、山ノ神の了承を得て、A席の切符を二枚購入。先日の土曜日にサントリーホールに聴きにいきました。開演は午後二時、ギロッポンのどこかで昼食をとることにしましたが、実はサントリーホール(六本木)とオーチャードホール(渋谷)のあたりにはわれわれご用達のお店がありません。他のホールにはたいていあるのですけれどね。六本木・渋谷のゲニウス・ロキとボンビーなわれわれは相性が悪いのかもしれません。とは言っても背に腹は代えられません。山ノ神が、ホールとなりのビルに「タコリッコ」というメキシコ料理のお店があるのを、インターネットで見つけたので行ってみることにしました。かつて小田原に「ブエナ・カレラ」というメキシコ料理の名店がありましたが、そこには及ばぬもののそれなりに美味しいタコスをいだだきました。ご馳走さま。
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c0051620_6145581.jpg そして眼前にあるサントリーホールへ。まずは「シェエラザード」、「千夜一夜物語」からインスピレーションを得たリムスキー=コルサコフが、四つの物語を四つの楽章にまとめて仕上げた交響的作品です。多彩で豊かな響きと魅力的な旋律、そして「海とシンドバッドの船」の雄渾、「カランダール王子の物語」の哀愁、「王子と王女」の甘美、そして「バグダードの祭り、海、青銅の騎士の立つ岩での難破、終曲」の爆発と、それぞれの特徴をもつ楽章。私も山ノ神もこの曲は大好き。小林研一郎の指揮と日フィルの力量があいまって、この曲の魅力を十全に引き出した素晴らしい演奏でした。「カランダール王子の物語」と「王子と王女」では、そのあまりの甘美さに思わず睡魔に抱かれそうになることも(ごめんなさい)。でも終曲では、オケの迫力と熱気、そしてトランペットの見事なタンギングでしっかりと目が覚めました。
 ここで十五分の休憩をはさみ、いよいよお待ちかねのストラヴィンスキー作のバレエ音楽「春の祭典」です。チラシによると、日本フィル創立50周年の記念年(2006年)に行われたヨーロッパ・ツァーで取り上げて以来、10年ぶりとなるコバケン先生との「春の祭典」だそうです。マエストロの「そろそろハルサイでも…」という言葉を楽団員のみなさんが聞き逃さなかったというのですから、満を持しての演奏なのでしょう、楽しみです。紫煙をくゆらして席に戻ると、おおっ、ステージを埋め尽くさんばかりに椅子が並んでいます。なにせ五管編成に加えてティンパニが二人、アルト・フルート、イングリッシュ・ホルン、E♭クラリネット、バス・クラリネット、コントラ・ファゴット、テナー・チューバ、ピッコロ・トランペット、バス・トランペットといった普段馴染みの薄い楽器も動員された、超弩級の編成です。そして三々五々ステージにあがるオーケストラのみなさん、心なしか緊張感と興奮のいりまじった不思議なオーラを感じます。そしてコバケン氏の登場、いつものように楽団員に一礼して、静かにタクトがふりおろされました。
 なお自伝によると、ストラヴィンスキーはこう語っているそうです。
 私は空想のうちに、おごそかな異教の祭典を見た。輪になって座った長老たちが、死ぬまで踊る若い娘をみまもっていた。かれらは春の神の心を和らげるために彼女を犠牲に供したのである。
 第一部「大地礼賛」(序奏‐春のきざし・乙女たちの踊り‐誘拐‐春の踊り‐敵の都の人々のたわむれ‐賢人の行列‐大地のくちずけ‐大地の踊り)、第二部「いけにえ」(序奏‐乙女たちの神秘的な集い‐いけにえの賛美‐祖先の呼び出し‐祖先の儀式‐いけにえの踊り)という二部構成です。
 ファゴットによって奏でられる摩訶不思議ですが魅力的な旋律とともに曲は始まります。複雑なリズムと拍子、無調と不協和音、ホールを揺るがすオーケストラの咆哮、聴き惚れるというよりは、巨大な音の塊に包まれ身も心もただ強烈な響きにゆだねるのみ。指揮者の小林研一郎氏は熱い心を保ちながらも、冷静なタクトでこの複雑な曲を見事に組み立てていきます。それによく応えたオーケストラの技量とアンサンブルにも脱帽。気がつけば、「ブラボー」という声とともに曲は終わっていました。ブラービ!

 コバケン+日フィルのハルサイ、次に聴けるのはいつになるか分かりませんが、お聴き逃しなく。なおこの曲の初演は1913年5月、パリのシャンゼリゼ劇場。その時の観客のブーイングと罵倒は伝説になっていますが、時は第一次世界大戦勃発のほぼ一年前です。ヨーロッパ文明崩壊を予感させるこの曲に、人々は畏怖を感じていたのかもしれませんね。
by sabasaba13 | 2016-02-10 06:15 | 音楽 | Comments(0)