カテゴリ:関東
  • 箱根大平台(2):林泉寺(12.4)
    [ 2012-05-05 07:14 ]
  • 箱根大平台(1):桜(12.4)
    [ 2012-05-04 07:30 ]
  • 常陸錦秋編(13):常陸太田(10.11)
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  • 常陸錦秋編(11):袋田の滝(10.11)
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    [ 2012-03-12 06:18 ]
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    [ 2012-03-11 08:49 ]
  • 常陸錦秋編(7):水戸(10.11)
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  • 常陸錦秋編(6):水戸(10.11)
    [ 2012-03-09 06:20 ]
箱根大平台(2):林泉寺(12.4)
 春の桜、六月の紫陽花の時期は見ものですが、その他にはとりたてて名所はありません。あえて挙げれば、共同浴場「姫之湯」、浅間山の伏流水が湧き出た名水「姫の水」くらいでしょうか。ま、だから観光客が押しかけず、閑静な雰囲気が味わえるのですけれどね。ただどうしても紹介しておきたいのが、曹洞宗の古刹、林泉寺です。ここは、大逆事件に連座して処刑された内山愚童が住職をつとめていたお寺さんです。箱根登山鉄道大平台駅の階段をのぼり、国道1号線沿いに強羅方面に歩いてすぐのところにあります。日本近代の大きなターニング・ポイントとなったこの事件に関心を持つ方ならば必見。「日本文壇史17」(伊藤整 講談社文芸文庫)と「小説 大逆事件」(佐木隆三 文春文庫)を参考にしながら、彼について紹介しましょう。
 内山愚童は、1874(明治7)年、新潟県北魚沼郡小千谷に生れました。佐倉惣五郎や大塩平八郎を尊敬し、「農地を解放して夫人に参政権を」と論じやがて全国放浪の旅に出ます。19歳のころ、井上円了の家に住み込み仏教を学び、22歳で得度して林泉寺の住職となりました。同時に創刊された『平民新聞』の定期購読をはじめましたが、第二号の自己紹介文で彼はこう述べています。「余は仏教の伝道者として、いわく一切衆生はことごとく仏性を有し、いわくこの法は平等で高下なく、いわく一切衆生はわが子である。これが余の信仰の立脚地とする金言にして、社会主義のいうところの金言と、まったく一致することを発見して、ついに社会主義の信者になったのである」 幸徳秋水とは、知人である加藤時次郎(平民病院院長)を通して知り合うことになり、秋水は幾度かここ林泉寺を訪れます。天皇制を否定する『入獄記念/無政府共産』や兵士に脱走をすすめる『帝国軍人座右之銘』などを秘密出版、目をつけた警察が林泉寺を家宅捜査したところ、活字印刷機とダイナマイトを発見、「出版法違反」「爆発物取締罰則違反」により逮捕にいたります。そして大逆事件に連座して1911(明治44)年1月24日に刑死。享年三十六。処刑前に数珠を手に取ろうとしない愚堂をいぶかった教誨師・沼波政憲に対して、愚堂は「たとえ念珠をかけてみたところで、どうせ浮かばれっこないのです」と言って微笑すると、癖である肩を怒らせる歩き方で絞首台へ向かったそうです。
 当時の首相は桂太郎ですが、この苛烈な冤罪事件を仕組んだのはどうやら山県有朋のようです。伊藤整氏は前掲書の中でこう述べられています。
 山県有朋は、この頃陸軍系統の長老として、軍政専門の立場から次第に内政一般に広く関与し、日本国家の存在理念を一貫して把握実践する責任は自分にありと考えるようになっていた。彼は社会主義者が活躍しはじめた明治三十年頃から、その取扱いに苦慮し、社会主義なるものの内容を理解せぬまま、これを明治政府にとって最も危険な国賊だと考えていた。鴎外に研究を命じ、その研究の一部を鴎外は平出修に洩らしていたのだった。また日露戦争当時、ロシアを内部から崩壊に導いたのは社会主義の革命運動であることを知って、社会主義の危険なことを更に痛切に考えるようになった。山県にとって陸軍出身の政治家桂太郎は最も動かしやすい駒にすぎなかった。(p.66)
 なお曹洞宗は彼の僧籍を剥奪し「宗内擯斥」処分としましたが、1993(平成5)年にようやくその処分を取り消し、名誉を回復しました。そして2005年(平成17)年には、彼を顕彰する碑をここ林泉寺に建立したという次第です。墓地の右手、上方にありますが、後学のため転記しておきます。
内山愚童師の顕彰によせて 曹洞宗

其土地で死ぬ積で無ければ
其土地の人を救ふことは出来ぬと思ひます

 内山愚童師が友人・石川三四郎に語った仏教者としての叫びの声です。
 こう語った仏教者は、ここ箱根の大平台とそこに住む人びとをこよなく愛し、民衆の苦しみや喜びを自らの苦楽として仏の道を真っ直ぐに歩んでいました。その途上、三十六歳の若さで刑死したのです。本人の遺言によって、その亡きがらはこの林泉寺の墓地に埋葬されています。愚童師のこころは今も、ここに生きているのです。

 一九一一(明治四十四)年一月二十四日、箱根林泉寺住職内山愚童師は、「大逆罪」により幸徳秋水らとともに処刑されました。これが世にいう「大逆事件」です。この事件は、当時の政府が社会主義運動を一網打尽に壊滅させることを最大の目的とした、極めて冤罪性の強い暗黒裁判でした。愚童師の場合は、当時の不条理な国家権力への非難が昂じた発言にすぎなかったのです。
 曹洞宗も国家権力へ追随するかたちで、死刑執行の前年一九一〇年(明治四十三)年六月二十一日付で「宗内擯斥」処分とし、愚童師の僧籍を剥奪しました。
 当時、世界の強国は軍事力をもって領土拡大に奔走していた時代であり、二本も例外ではありませんでした。国家は民衆の声や運動を封じ込めるために「大逆罪」を実体化し、その後の日本の体制のあり方と進路を決定づけました。これによって民衆は愚童師のいう「独立自活・相互扶助」の主体性をもつことを禁止され、人権や自由が抑圧され、世論が時の政治権力に都合の良いように操作されて、軍国主義の破局へと突き進んでいきました。
 宗門も時の国家体制に追随し、信仰の自由と平和を希求する良心をも放棄し、仏教者の誓願に背き、教学を歪曲してまで、積極的に戦時体制に協力しました。
 宗門は、真の仏教者であった愚童師に対して、あまりに不誠実であり冷酷でありました。人間としての尊厳と僧侶としての名誉を踏みにじったまま、八十有余年の歳月を埋もれさせてしまったのです。
 一九九三(平成五)年四月十三日、ようやくにして「宗内擯斥」処分を取り消し、宗門僧侶としての名誉の回復を宣言いたしました。
 私達は今日、愚童師の先見性に改めて刮目しなければなりません。
 「戦争は総て罪悪也」
 「人類の終局目的は独立自活・相互扶助にある」
 「女子は男子の附属物ではない」
と、あらゆる戦争を拒み、独立自由と、異なる立場の人々との共存を理想として掲げ、女性の人権尊重までも主張しています。
 ここに、愚童師の仏教者としての遺徳をたたえ、宗門の罪過を心より懺謝するものです。
 最後まで僧侶としての誇りを失わず、理想世界を冀い、泰然として死に臨んだ愚童師に対し、その確固たる信念を永く顕彰し、宗門として「人権の確立・平和の維持・環境の保護」を啓発推進していくことを改めてここに誓願します。

 二〇〇五年(平成十)年一月二十四日
 なお、大逆事件で無期懲役となりのち獄中で縊死した高木顕明に対して、擯斥(僧籍剥奪/宗門追放)処分を課した真宗大谷派は、その三年後の1996年にその取り消し・謝罪・名誉回復を決定しました。同じく無期懲役のち獄中で病死した峰尾節堂に対しての、臨済宗の処分の有無やその後の経過についてはわかりません。こんど調べてみよう。

 この事件は決して過去のものとして忘却の淵に沈めることはできません。国家に抗う者や国家の利益を脅かす者への、権力による仮借ない迫害と弾圧、あるいは無視と排斥。そして国家権力の爪牙となって、そうした非人間的な行為を「合法」という糖衣でくるみ、隠蔽してしまう司法。沖縄の米軍基地問題、乱立する危険な核(原子力)発電所と福島第一原発事故、教員に対する「日の丸への起立・君が代斉唱の強要」、すべてこの文脈からとらえられる事態だと考えます。さまざまな圧力・暴力とともに、「国家を愛せ・国家に従順であれ」とつきまとう恐るべきストーカーのような国家・日本。その始点としての大逆事件にはこれからもこだわり続けていきたいと思います。「独立自活・相互扶助」を理想として掲げながら…

 拙ブログで紹介した大逆事件に関する史跡・旧跡等をあらためて紹介します。よろしければご照覧ください。
明科・湯河原「天野屋」市ヶ谷刑場跡・管野スガの墓幸徳秋水の墓古希庵函館市文学館雲魚亭大逆事件顕彰碑大石誠之助・高木顕明・峰尾節堂の墓大石誠之助宅跡養老館・浄泉寺・西村伊作記念館

 本日の二枚です。

by sabasaba13 | 2012-05-05 07:14 | 関東 | Trackback | Comments(0)
箱根大平台(1):桜(12.4)
 珍しく、わりとリアルタイムな旅行記です。箱根に大平台という地味な温泉があります。強羅や宮の下のような喧騒もなく、湯本から箱根登山鉄道に乗って二駅目というアクセスの良さもあり、われら夫婦のお気に入りの温泉です。こちらにある定宿に、4月14日~15日に二人で泊まってきました。桜の花筏でも見られれば上出来かなと、あまり期待もしないで訪れたのですが、なんとこれが満開。しかもソメイヨシノ、枝垂れ桜、山桜がここを先途と同時に咲き誇っていました。小糠雨のそぼ降る天候が無念でしたが、これぞ幽玄じゃ侘び寂びじゃと引かれ者の小唄を口ずさみながら桜を愛でてまいりました。中でも我々の贔屓にしているのが、大平台駅近くの駐車場の主、まるでトリスタンとイゾルデのように仲よく並んで屹立する二本の枝垂れ桜の古木です。石原公園をとりかこむ桜も見事だし、「枝垂れ桜通り」にはその名の通り枝垂れ桜が妍を競っていました。またこのあたりは登山列車が二回スイッチバックを行なうので、のてのてと山を上り下りする愛嬌のある姿を間近で見ることができます。線路沿いにも数多い桜の間を走り抜ける光景は、被写体としても恰好ですね。
 また、これは個人的な趣味ですが、があまた出没するのも気に入っている理由の一つです。特に寒い時期には、各家や旅館にある温泉タンクの上で丸まって暖をとっている猫をよく見かけます。“猫、タンクの上で眠り、神、空にしろしめす、すべて世は事もなし” 面白いことに、ちゃんと棲み分けができているようで、特定の温泉タンクの上にはいつも同じ猫がいます。今回の散策では、タンクの上に「猫いじめ」(※猫がいられないようにするプラスチック製の棘々)を敷いてあるお宅を発見。糞尿で汚れるのを嫌ったのでしょうか。

 ま、それはともかく、ここを訪れるとたいがいかわいい猫の写真を撮ることができます。今回は大平台駅のホームで列車を待つ猫を撮影しました。箱根板橋のビーバートザンにペティグリーチャムを買い出しに行くのでしょうか。

 本日の七枚です。






by sabasaba13 | 2012-05-04 07:30 | 関東 | Trackback | Comments(0)
常陸錦秋編(13):常陸太田(10.11)
 常陸太田駅行きのバスが来るまですこし時間があるので、さきほど通り抜けた「西山の里」で昼食をとることにしました。「桃源」という食事処に常陸太田産の新物そば粉を使った、限定手打ちもりそばがあったので、これをいただくことにしました。香り高い新そばに舌鼓を打ち、さあバスに乗って常陸太田駅へと向かいましょう。

 外に出ると大粒の雨が落ちてきました、そろそろ潮時かな、すこし早いですが常陸太田から水戸に戻り帰郷することにしました。11:30発のバスの乗客はやはり私一人、十分ほどで常陸太田駅に到着です。この町もなかなか風情のある町ですが、以前に訪れたことがあるので今回はカット。列車が来るまで十数分あるので、殺伐とした駅前の風景を眺め、観光地図をふと見ると…駅から伸びているもう一本の線路が消されています。これはもしや廃線では、さっそく当該の場所に行ってみましたが、線路跡らしき空間を確認することができましたが、確信はできません。うろうろしているうちに発車時刻が迫ってきたので探索は断念、駅へと戻ることにしました。今、「廃線跡訪問記」というブログで調べてみると、2005(平成17)年に廃線となって日立電鉄だったようです。

 そして水郡線に乗って水戸へと戻り、ご当地B級グルメ「ねばり丼」を駅前の居酒屋「てんまさ」でいただきました。納豆・山芋・いくら・なめこ・めかぶに生卵をトッピングした、ぬるぬるねばねばしたその食感に私の味蕾は大騒ぎ。なんとも鮮烈な体験でした。そしてスーパーひたちに乗り込み、一路帰郷の途につきました。

 本日の二枚です。

by sabasaba13 | 2012-03-16 06:21 | 関東 | Trackback | Comments(0)
常陸錦秋編(12):西山荘(10.11)
 そして予定より一本早い10:00発西山荘行きのバスに乗り込むことができましたが、またもや乗客は私一人。やれやれほんとに心配だなあ。三十分ほどで西山荘に到着、庭園のある「西山の里」という休憩施設を抜けてすこし歩くと西山荘に到着です。水戸二代藩主徳川光圀が1691(元禄4)年から1700(元禄13)年に没するまでの晩年を過ごした隠居所で、ここで「大日本史」編纂事業の監修をしたとのことです。なお以前、新緑の頃にここを訪れてその趣ある佇まいと雰囲気に感銘した記憶があります。紅葉の季節もさぞ素晴らしいものであろうと期待します。萱葺きの風情ある通用門、竹林の中をうねるように続く飛び石、その向こうに見え隠れする萱葺き屋根の質素な書斎、そして色づきはじめた紅葉の木々、素晴らしい光景ですね。紅葉した落葉を一面に浮かべて妖しく紅く輝く小さな池、イチョウの黄とカエデの紅の絶妙なコントラスト、そして観月台から見晴らす紅葉のグラデーションに包まれた西山荘の全貌、どこを切り取っても一幅の絵のようです。これで紅葉が盛りとなったら、絵にも描けない美しさでしょうね、再訪を期すことにしましょう。

 なお、持参した「黒船以前 パックス・トクガワーナの時代」(中村彰彦・山内昌之 中公文庫)の中で下記のような一節があったので紹介しておきましょう。
山内 山室恭子さんの『黄門さまと犬公方』を読むと水戸光圀でさえ、夜、試し斬りみたいなことをする。そのときのセリフが、おまえたちも不幸な人間たちだ、こうなったからにはあきらめろ、と。斬られるほうは差別を受けている人々ですね。
中村 そうです。浅草のお堂の縁の下に住んでいた人々。
山内 私どもはこういう身分の者ですから、どうぞご勘弁くださいといったら、おまえたちも不憫だけれども、そういうところにいる人間だからあきらめろといって、因果を含めて斬る(笑)。(p.248)
 まあ、彼も封建諸侯の一人ですから、さもありなん、というところですね。感情的に毀誉褒貶に走るのではなく、冷静に一人の歴史上の人物として向き合うことが大事でしょう。マルク・ブロックも「ロベスピエールをたたえる人も、にくむ人も、後生だからお願いだ。ロベスピエールとはなにものであったのか、それだけを言ってくれたまえ」と言っています。

 本日の四枚です。



by sabasaba13 | 2012-03-15 06:27 | 関東 | Trackback | Comments(0)
常陸錦秋編(11):袋田の滝(10.11)
 そして眼前に姿を現したのが日本三名瀑のひとつ袋田の滝。高さ120m・幅73m、大岸壁を四段に流れることから、別名「四度の滝」とも呼ばれる瀑布です。いやあこれは凄い…一瞬息を呑み、そして圧倒されました。段々になった幅の広い岸壁を行く筋もの白い流れとなって水が奔っていきます。なるほどたしかにこれは名瀑じゃわい。紅葉の盛りが過ぎていたのが心残りですが、よしとしましょう。なおこの上にある第二・第三観瀑台に行くと滝の全貌が見られるそうですが、エレベーター(有料)の運転が始まるのは午前九時、あと十五分ありますが、上まで行ってしまうとバスの発車時刻に間に合いません。涙を呑んでここは撤退することにしました。

 トンネルの途中にある脇道を抜けると、滝を側面から見られる吊り橋があります。ここからの眺めも絶景でした。

 そしてトンネルの対岸にある遊歩道を、渓流や紅葉や滝の遠望を楽しみながら十数分歩くとバス停留所に到着です。やってきた9:15発竜神大吊橋行きのバスに乗り込むと、乗客は私一人。いくら月曜日とはいえ、この便利な周遊バスの存続が心配になってきます。最前列左、運転席隣の席に陣取り、運転手さんと四方山話をしながら(良い子のみなさんは真似しないでね)、竜神大吊橋へと移動です。途中に、バス一台がかろうじて通れるような細い道があり、渋滞の原因となっていると説明してくれました。

 そして予定より十数分早く竜神大吊橋に到着。竜神峡にひろがるV字形の渓谷の中を流れる竜神川をせき止めた竜神ダムの上にかけられた竜神大吊橋、橋の長さは375m、歩行者専用の橋としては本州一の長さを誇るそうです。さっそく料金を払って、吊り橋を渡ってみましょう。おお絶景絶景、ダム湖面よりの高さは100m、橋の上からの眺めはまさしく紅葉のパノラマです。曇天、そして夏の猛暑のためか、あまり色が鮮やかでなかったのが残念でしたが、大満足です。


 本日の五枚です。




by sabasaba13 | 2012-03-14 06:20 | 関東 | Trackback | Comments(0)
常陸錦秋編(10):袋田の滝へ(10.11)
 朝、目覚しの音に叩き起こされてカーテンを開けると空は薄曇り、天気予報によると午後から雨が降りだすとのこと。本日は「いばらき秋の県北 周遊バス」を利用して、袋田の滝→竜神大吊橋→西山荘とまわります。バスを乗り継いでのタイトな行程、時間厳守を心がけましょう。まずは6:20発水郡線常陸大子行き列車に乗らないといけません。水戸駅まで歩いていき、駅前の水戸黄門+助さん格さんの銅像を撮影、列車に乗り込みました。

 7:39に袋田駅に到着、もしタクシーがいれば利用するつもりでしたが、その姿はありません。事前に調べておいたところによると徒歩で三十分、駅前にあった案内の地図を撮影して歩いて行くことにしました。

 おっとその前に小用を済ませておきましょう、駅のトイレに入ろうとすると、野鳥をマンガ化した男女表示です。昨日も逸品を二つ見かけたので、茨城県はトイレ男女表示のサンクチュアリかもしれません。

 それでは出発、「うちの子にかぎってと思うゆだんが悪の道」という字余りの標語看板を撮影してすこし歩くと左に久慈川が見えてきました。橋の上から紅葉の風景を眺め、十分ほど歩くと袋田の街並みに到着です。

 しぶい木造の小学校校舎を撮影して、またしばらく行くと「桜田烈士関鉄之介歌碑」に遭遇。なになに、解説板を読むと、桜田門外の変における現場指揮官であった関鉄之介が、北郡奉行所時代に親交のあった桜岡源次衛門を頼って、ここ袋田村にあった彼の屋敷(蒟蒻会所)に一年余潜伏したそうです。その後、身の危険を感じた彼は越後湯沢温泉に移動、そこで捕えられ江戸小伝馬町で処刑されました。歌は"河鹿鳴く山川みすのうきふしにあわれははるの夜半にもそしる" この桜岡家は、水戸藩御用達の蒟蒻業者で、桜田門外の変を起こした水戸藩尊王攘夷派の資金面を担当していたとのことです。ここでも豪商の使徒である志士の姿が見え隠れします。

 思い出浪漫館の前を通り過ぎ、しばし歩くと「かくしごと わたしはしません あかるいこ!」という標語を発見。うーん、時と場合によるとは思いますが、隠し事をするのは暗くて悪い子と決めつけるのもいかがなものかと思います。

 このあたりでも、石造りの蔵や瓦を見かけました。

 やがて袋田の滝が近づいてくると、お土産屋や蕎麦屋が林立する一帯がありました。竜神大吊橋に行くバスの停留所を確認し、さらに歩くと路傍に「袋田名産 さしみこんにゃく」の販売所がありました。「滝まで1kmちょっと約15分(足の長い人)」と書いてあってので、足の短い私だとあと二十分くらいかかるかな。

 果樹園や販売所があるので、このあたりはリンゴ産地でもあるようです。そして滝の入口に到着、袋田駅からは一時間弱かかりました。ここからけばけばしいイルミネーションで飾られた長い観瀑トンネルを100mほど歩くと、第一観瀑台に着きました。


 本日の三枚です。


by sabasaba13 | 2012-03-13 06:25 | 関東 | Trackback | Comments(0)
常陸錦秋編(9):水戸(10.11)
 さあそれでは石田屋へ向かいましょう。途中にあったのが天狗納豆の(たぶん)本社。それにしても何で納豆は水戸の名物なのでしょう??? ウィキペディアで調べてみると、「明治以降、鉄道(水戸線)の開通に伴い、土産品として売られた(天狗納豆が発祥とされる)のをきっかけに、産地としてもっとも知られている」といことでした。しかし、しかあし、それを上回る衝撃の事実が判明しました!!! この記事の"天狗納豆"の項目をクリックすると…
 江戸時代末期の安政元年に水戸藩士で勤王家の笹沼家に生まれた初代笹沼清左衛門が明治22年に興し、今日の水戸納豆の礎を築いた。中世から近世初期の常陸国主・佐竹常陸介旧臣の系譜を持つ藩士庄屋神官層が主軸となり、八代水戸藩主徳川斉昭公に重用された「藩政改革・尊皇攘夷派」に属した。故に、明治維新の魁となった水戸藩の尊皇攘夷激派、「水戸天狗党」の名を戴き「天狗納豆」とした(納豆メーカーのブランド名にキャラクターが多いのは「天狗」を模倣したため)。極早稲の小粒大豆を使用したことが好評を得たこと、また、近代的食品工業としての製造技術を確立し、更にはそれまでの販売員に頼る手法ではなく、開通間もない鉄道の駅や観光地(偕楽園)などでの販売を行う等販売ツールの革新もはかったことで今日の名声を得る。現在、数社の「天狗」ブランドが存在するが清左衛門の流れを引くのは二社。それぞれ「総本店」と「水戸元祖」を名乗り「老舗」の暖簾を守っている。
 いやはや、己の軽忽さには溜息が出ますね。天狗党→水戸→納豆→天狗納豆と考えを馳せるべきでした。それにしても、尊王攘夷派の背後にこうした豪商・豪農が存在し、資金援助をしていたことは注目すべき史実です。黒羽清隆氏曰く、草莽と浪士は豪家の農商の使徒だったのですね。(『黒羽清隆歴史教育論集』 竹林館 p.125) えてして、"愛国心と正義感にあふれた薩長土肥の志士が蒙昧な幕府を倒し新生日本を築いた"という陳腐にステロタイプ化されたイメージが流布されていますが、黒羽氏は"経済史のうらうちを欠いた中下級武士=「薩長土肥」一元論という亡霊"と一刀両断されています。いったい彼ら豪商・豪農は草莽・浪士・志士を走狗として、幕藩体制を破壊しどんな社会をつくろうとしていたのか。ま、小泉政権が財界の使徒として「失業と飢餓と貧困の恐怖なくして成長なし」という新自由主義路線を推し進めたように、民衆を酷使して自由に金儲けができる体制=自由主義を希求していたのでしょう。そうした視点から幕末・維新史を見直したいものです。以前にも紹介しました 「持丸長者 幕末・維新編 日本を動かした怪物たち」(広瀬隆 ダイヤモンド社)という好著もありますが、さらなる研究の前進を期待します。
 なお余談ですが、前述のウィキペディアに、北大路魯山人の納豆の作り方が紹介されていました。「まず納豆になにも加えずに練る。白い糸状のものがたくさん出て納豆が固くなり練りにくくなったら、醤油を少量たらしてまた練る。練る、醤油を入れる作業を数回繰り返す。糸がなくなってどろどろになったところに辛子や薬味を入れてかき混ぜる」(『魯山人味道』 中公文庫) 醤油を少しずつ入れるというのがポイントなのでしょうか、今度やってみます。もひとつ余談、薬味として長ネギのかわりに玉ねぎを入れるともっと美味しいですよ。公序良俗に反するようでこれまで発表していなかったのですが、納豆の上にマヨネーズをかけるとさらに美味しさは倍増。口内にひろがるニチャニチャ・ネバネバ・ドロドロ感が大人をして愉悦の境地に導いてくれます。お試しあれ。

 そして石田屋に到着、念のため品書きを拝見すると、「まぼろしの逸品 地鶏チャーシュー」とありました。女将に訊ねると、それは水戸藩ラーメンにしか入れないとのこと、無念。初志貫徹、スタミナラーメンを注文することにしました。キャベツやレバーを炒めて甘辛の餡にからめて麺に乗せた一品がご来臨。そういえば今日は花貫渓谷でハム焼きを食べただけでしたね、ほかほかとした湯気に包まれたラーメンを前に意識は飛びトランス状態となって一気呵成に完食、たいへんおいしゅうございました。すると女将が小皿に入れた地鶏チャーシューを「どうぞ」と差し入れてくれました。感謝感激雨あられ、♪あたたかい人の情けも、胸を打つあつい涙も、知らないで育った僕は変人さ♪ このご厚情、一生忘れません。こういう人情に出会えるのも旅の楽しみの一つです。親切にされると、次は自分が誰かに親切にしてあげたくなりますね。「世界を救うのは愛ではなくて、親切だ」というカート・ヴォネガットの言葉が胸に響きます。なお肝心の味の方は…まあまあの美味しさでした。そして酒屋で地酒を購入し、ホテルで丁重にお礼を言って自転車を返却、部屋に入ってシャワーを浴び、明日の旅程に思いを馳せながら一献傾けました。

 本日の二枚です。

by sabasaba13 | 2012-03-12 06:18 | 関東 | Trackback | Comments(0)
常陸錦秋編(8):茨城県立近代美術館(10.11)
 さてそれでは茨城県立近代美術館へと向かいましょう。千波公園を走っていると、そろそろ色づいてきた紅葉に目を引かれます。おっ水戸黄門の銅像があった。その先には仰々しい囲いが設置してある広い一角があり、"「桜田門外ノ変」 オープンセット 公開中 入場券販売中"と書かれていました。ふーん、そんな映画があったのか、ま、別に興味もないので通り過ぎました。

 でも少し気になるので、今、インターネットで調べてみたところ、"世の中を変えなければ、日本は滅びる""黒船来襲、太平洋戦争を経て、資本のグローバリズムの波が否応なく日本を襲い、国際関係の中で日本の立つべき位置を、今、我々は問われている"という謳い文句の映画でした。へえー、中国との戦争は視野に入っていないわけだ。ま、それはさておき、監督は『男たちの大和』を手掛けた佐藤純彌氏。どちらの映画も未見なので偉そうなことは言えませんが、「国を愛するという純粋な気持ちさえあれば何をしても結果は問われない」的な内容なのかなあ、鶴亀鶴亀。そして近代美術館に到着。

 こちらには横山大観、菱田春草、下村観山、木村武山の日本画や、岸田劉生や国吉康雄、中村彝の洋画など優品が展示されています。私のお目当ては何と言っても小川芋銭。河童や小動物が自然の中で群れ遊ぶ、幻想的なUSENN WORLDには大きな魅力を感じます。"芋を買う銭さえ手に入ればいい"という恬淡な画号も大好きです。悪魔の挽き臼=グローバリゼーションの嵐の中で、真っ当な国になるためのキーワードにもなりそう。そうそう、望外の喜びだったのは、香月泰男の素敵な小品に出会えたことです。至福のひと時を堪能し、トイレに行くとなかなか洒落た男女表示でした。

 館内にある喫茶店で香り高い珈琲をいただき、地図を広げてこれからの行程を確認。とは言っても、もうそろそろ午後四時です。日暮れも近いし、備前堀を見て、その近くにある先ほど観光案内所で教えてもらったお店でスタミナラーメンを食べて、本日の散策は終了かな。美術館のすぐ隣には中村彝のアトリエが移築されていますが、内部の公開は火~金13:00~15:00 土~日10:30~15:00ということで見られませんでした。せめて外観を写真で撮影。その近くで「横山大観頌碑」を発見。寡聞にして知りませんでしたが、彼は水戸の出身なのですね。

 そして東へ向かって十五分ほど走ると、備前堀に到着です。1610(慶長15)年、初代水戸藩主徳川頼房の命により、関東郡代伊奈忠次を中心として、干害に悩まされていた城南低地の村々の農業用水を確保するため、千波湖の水を涸沼川に注ぐように整備した堀で、同時に千波湖の溢水予防を兼ねたものでもありました。なるほど橋の欄干に伊奈忠次の銅像が建っていました。しかし住宅街のど真ん中を流れているため、あまり風情はなし。


 本日の二枚です。

by sabasaba13 | 2012-03-11 08:49 | 関東 | Trackback | Comments(0)
常陸錦秋編(7):水戸(10.11)
 次は水戸商業高等学校旧本館玄関を拝見しに行きましょう。県立歴史館から自転車で十数分、観光地図を頼りにやっと見つけました。どこが学校だどこが、と茶々を入れたくなるような華麗な洋館が、街の片隅に佇んでいます。解説によると、竣工は1903(明治36)年、ベルサイユ宮殿を模したと伝えられており、設計したのは茨城県技師駒杵勤治だそうです。なお彼は他にも、県立太田中学校講堂県立土浦中学校本館も設計しています。二つとも訪れたことがありますが、なるほど、「学校に見えない」というのがこの方の持ち味かもしれません。ま、外観なんてどうでもいいのですけれどね。そこで希望が語られ、誠実が胸に刻まれているかどうかが問題です。競争と従順ではなくて… そうそう、これは帰りの列車の中で気づいたのですが、実はこの近くに天狗党に関する展示がある回天館がありました。敦賀で彼らが監禁されていた鰊蔵を移築してあるそうなので、これは見たかったなあ。天狗党については以前も書きましたが、興味を引かれる事件です。なお不思議なもので、旅行に持参した本が、訪問先のことについて偶然触れているということがよくあります。今回もそう、「黒船以前 パックス・トクガワーナの時代」(中村彰彦・山内昌之 中公文庫)の中で、山内氏がこう語られていました。
 例えば、水戸学のような高邁な国家哲学や国家観を為政者が持っていたとしても、それをストレートに経世済民の学、統治の学とするのは難しい。実際の領地や領民という生きた対象を相手に行政を施さなければなりませんからね。水戸光圀はたしかに天下国家についてスケールの大きい哲学を持っていたかもしれませんけれど、実際の水戸藩における領国支配ではずいぶん失敗をしています。だいたい水戸藩は頭でっかちのところがある(笑)。幕末の斉昭や天狗党はその最たるものですよ。(p.172)
 なるほどねえ、頭でっかちか、言い得て妙ですね。ま、引かれ者の小唄です。

 本日の一枚です。
by sabasaba13 | 2012-03-10 06:20 | 関東 | Trackback | Comments(0)
常陸錦秋編(6):水戸(10.11)
 そして梅園を散策、みわたせば花も紅葉もなかりけり、でも鉛色の空を縦横無尽に切り裂く梅の枝ぶりがピクチャレスクですね。まるでモンドリアンの初期の絵を見ているようです。

 トイレを拝借すると、その男女表示がなかなか洒落たものでした。

 ふたたび自転車にまたがり、茨城県立歴史館へと向かいましょう。お目当ては、旧水海道小学校校舎です。以前に一度訪れたことがあるのですが、その堂々とした風格に惚れ込みましたので、久闊を叙したいと思います。十分足らずで県立歴史館に到着、門をくぐると旧友は健在でした。いやあお久しぶり、お元気そうでなによりです。大きく張り出した玄関部分と両翼のバランスのよさ、ファサードの列柱、そして全体をきりりと引き締める八角形の塔、素晴らしい学校建築です。個人的には、開智学校中込学校旧登米高等尋常小学校旧見付学校と並べて、明治の学校ベスト5にノミネートしたいですね。なお竣工は1881(明治14)年、設計は水海道の宮大工で棟梁の羽田甚蔵で、西洋風の校舎を建築するにあたって横浜まで見学に行ったといわれています。水海道は江戸時代から鬼怒川を利用した水運の町として栄え、財力のある商人たちが江戸から文化人を呼び寄せ、絶えず最新の流行を取り入れようとする気風があった地。自らの手で最新の小学校をという気運が高まり、町人の寄付だけで建設されたとのことです。なお歴史館には別途入館料が必要ですが、ここまでは無料、内部に入ることもでき教育資料を見学できます。

 そして嬉しいサプライズは、その前から続くイチョウ並木が見事に紅葉していたことです。いやあ素晴らしい、黄色く染め上げられた空気の中、しばし散策をしました。途中には1895(明治28)年に竣工された水戸農業高等学校本館が保存されています。


 本日の四枚です。



by sabasaba13 | 2012-03-09 06:20 | 関東 | Trackback | Comments(0)