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虐殺行脚 千葉編2(10):円福寺大利根霊園(16.12)

 そして二十分ほどペダルをこいで八千代緑が丘駅へ、ブロンプトンを折りたたみ、東葉高速線に乗って西船橋へ。武蔵野線に乗り換えて南流山へ。つくばエクスプレスに乗り換えて流山おおたかの森へ。東武アーバンパークラインに乗り換えて梅郷へ。あーややこしかった。
 向かうは、日本人9名が朝鮮人と誤認されて自警団に虐殺されるという「福田・田中村事件」の慰霊碑のある円福寺大利根霊園です。ブロンプトンを組み立てて地図を頼りに三十分ほど走ると、左手に〒印のついた古いお宅がありましたが、たぶん旧福田郵便局なのかな。余談ですが、このマークは「逓信」の「テ」からとられたもので、世界共通ではありません。そして円福寺大利根霊園に着きました。
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 広大な墓地ですので探しあてられるのか心配でしたが、幸い事務所がありました。係の方に慰霊碑の場所をお聞きすると、ご丁寧にそこまで案内してくれました。事務所の前の道を奥へすこし歩くと駐車場で、そこの右手にありました。「関東大震災福田村事件犠牲者 追悼慰霊碑」と刻まれた、黒い石の慰霊碑です。

 合掌

 それでは『世界史としての関東大震災 アジア・国家・民衆』(関東大震災80周年記念行事実行委員会編 日本経済評論社)所収の、石井雍大氏の論文をもとに、事件の概要を紹介します。1923年9月6日午前10時ごろ、千葉県東葛飾郡福田村(現・野田市)三ツ堀において、香川県の売薬行商人の一行15名が朝鮮人とされ、女、子どもを含む9名が、福田、田中村(現・柏市)の自警団によって殺害されるという事件が起こります。生存者・太田文義氏の証言によると、三ツ堀近くの香取神社で、船賃のことで交渉していると渡し場の船頭が騒ぎだし、福田村・田中村の自警団が押し寄せてきて、「君が代を歌え」「教育勅語」「『一五円五〇銭』をいってみろ」等のやりとりがあった後、「怪しい者はやってしまえ」ということで虐殺しました。言葉づかい(讃岐弁)や、めずらしい黒い羽の扇子を持っていたことも疑惑のもとだったそうです。
 事件後間もなく、千葉地方裁判所で裁判が行なわれますが、被告たちは、例外なく「郷土を朝鮮人から守った俺は憂国の志士であり、国が自警団を作れと命令し、その結果誤って殺したのだ」と陳述しています。驚くべきことに、予審判事は裁判の始まる前から「量刑は考慮する」と新聞紙上で語っています。さらに大正天皇の死去による恩赦で、一番長く刑務所にいた者でも、拘留期間を除くと一年半ぐらいの服役にしかなりませんでした。
 懲役三年の実刑判決を受け服役した田中村のT氏は、その後村長選挙に当選して村長に就任しています。また、検挙が始まった10月2日、田中村の会議で四人の被告に対し、見舞い金の名目で一人90円の弁護費用を出すことを決め、それを村の各戸から均等に徴収しています。(同書 p.76~8)
 なお石井雍大氏は、行商団の人たちが日本人であると分かっていて虐殺したのではないかと指摘されています。そのうえでの氏の論考を引用します。たいへん重要な論点だと思いますので。
 それでは、福田・田中村事件の場合、行商団の人たちが「朝鮮人ではないのでは」と、少なからずわかっていたにもかかわらず、殺害に及んだのはどうしてか。そこにもまた同じ日本人であっても貧しそうな行商人に対する蔑視や差別の構造があったと考えられるのである。
 事件に巻き込まれた香川県の行商団の人たちは、被差別部落の人たちであった。香川県の場合、所有農地が少ない農家(平均五反)が多く、小作率も全国一である。したがって、被差別部落の人たちが、たとえ土地を買いたくてもなかなか売ってもらえない、また小作をしたくてもさせてもらえない状況があった。そのような理由から、少なからぬ被差別部落の人たちは行商に出ざるをえなかったのである。
 部落差別を受け、行商を生業とせざるをえなかったため、大方は貧しい境遇であった。このことも行商人一行に対する目に見えるかたちでの蔑視、偏見、差別の要因になった。「どうせ、どこから来たのかも知れぬ行商人ではないか」こんな意識が働いたことは十分考えられる。
 事件が「朝鮮人と誤認され」といわれているが、単に日本人の民族排外心理一般の中での誤認事件ということだけではカバーしきれぬ問題があると考えざるをえない。(同書 p.79~80)
 碑の裏面に犠牲者の氏名と年齢が刻まれていますが、その中に「晴好 六歳」「つ多江 四歳」「イソ 二十三歳」「イソ 胎児」という文字を見出して固唾を呑んでしまいました。四歳と六歳の子供、そして妊婦を殺したのか。卒塔婆の一つに「惨死」と書かれていたのも印象的でした。
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 貧しげなよそ者をみんなで面白がって殺した、ついでに子供と妊婦も… そうとしか考えられません。この恐るべき非人間的な残虐性を、どう説明すればよいのでしょうか。言うまでもなくこうした残虐な行為は、後のアジア・太平洋戦争において、中国人をはじめアジアの人びとに対して繰り返されます。たとえば『中国の旅』(本多勝一 朝日新聞出版)におさめられている馮景亭さんの証言を紹介しましょう。
 強姦された二人の女性のうち、気娘は局部に箒(ほうき)をさしこまれ、さらに銃剣を突き刺されて殺された。妊婦のほうは腹を銃剣で切り裂かれ、胎児が外にえぐりだされた。放火された自分たちの家々に火の手が大きくあがるのを見て耐えられなくなった三人の男が、日本兵のかこみを命がけで突破して家の方へ行こうとした。行かせまいとする兵隊たちともみあいになったが、まもなく三人は燃えさかる一軒の中へ押しこまれ、扉を外から閉められた。ほとんどその直後にその家は屋根が焼けおちた。二歳の男の赤ん坊がいた。騒ぎに驚いて大声で泣きだした。抱いていた母親から赤ん坊を奪った兵隊が、火の中へ放りこんだ。泣きさけぶ母親は、水路の中へ銃剣で突き落された。
 この非人間的な残虐性から目を逸らさず、真っ向から受け止め、そして何故なのかを考え抜くこと。自分の課題としていきたいと思います。さもないと、これからもずっと私たちは、さまざまな形での"残虐性"に苛まれ続けることになってしまいます。
思うに、歴史を修正したがる方々は、日本人のもつこうした"残虐性"を認めたくないのかもしれません。でも仕方ありません、歴史的事実なのですから。

 さてこの事件で、犠牲者たちは利根川に投げ込まれ、遺体はおろか遺骨も見つかっていません。そして事件の全容がほぼ明らかになった現在でも、いまだ遺族に対して謝罪がなされていません。福田村(現・野田市)でも田中村(現・柏市)でも、一切の記録・資料を残しておりません。
 ただ、2000年に、「福田村事件真相調査会」(香川県側)と「福田村事件を心に刻む会」(千葉県側)が設立され、多くの方々からの浄財を得て、結実したのがこの慰霊碑です。なおその過程で、香川県から碑の裏に「関東大震災直後の1923年9月6日、おりからの流言蜚語を信じ、行政機関によって組織された旧福田村、田中村の自警団によって、ここ三ツ堀において、香川県三豊郡出身の売薬行商人一行十名が非業の死を遂げた。私たちは、二度と歴史の過ちを繰り返さぬことを誓い、ここに芳名を記し、追悼の碑を建立するものである」という一文を刻む提案があったそうです。しかし結果的に刻まれませんでした。ただ裏面の左側にやや広めの空白部分があり、いつの日にか、この一文を刻むことを想定しているのかもしれません。

 そして夕闇が刻一刻と心身を包みゆく中、一心不乱にブロンプトンのペダルをこいで梅郷駅に到着。一路、帰途につきました。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2017-04-29 08:11 | 関東 | Comments(0)

虐殺行脚 千葉編2(9):なぎの原(16.12)

 そして本に掲載されている地図を頼りに二十分ほどペダルをこぐと、虐殺の現場となった「なぎの原」に着きました。しかし私有地か共有地なのでしょうか、柵で囲われており中には入れません。
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 ここが先述した『震災日記』に"又鮮人を貰ひに行く九時頃に至り二人貰ってくる都合五人(ナギノ原山番ノ墓場の有場所)へ穴を掘り座せて首を切る事に決定"と記されていた場所です。合計六人の朝鮮人が殺害されてここに埋められました。

 合掌

 『地域に学ぶ関東大震災』によると、聞き取り調査によってこの事件が明らかにされたのが1973年、それ以来住民の方々は毎年慰霊祭を行なわれているそうです。それから25年経った1998年9月24日に「千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会」によって遺骨の発掘が行なわれました。大竹米子さんによると、地域住民を説得するのに時間がかかり、記録を残さず写真を撮らない、マスコミなど関係者以外は入れない、という条件で行なわれました。そして土に還る直前の遺骨六体が見つかりました。大竹さんによると、遺体はバラバラではなくきちんと重ねられて埋められていたそうです。なお発掘の費用は、「自分たちの問題だから」ということで全額この地区の方々が負担しました。
 そして遺骨を火葬にし、高津観音寺の納骨堂に納め、1999年には「関東大震災朝鮮人犠牲者慰霊の碑」が建立されましたが、その費用も地区の方々が負担したとのことです。なお実行委員会は、慰霊碑の裏に事件の概要を刻んで欲しいと望みましたが、「軍隊にやらされたとはいえ、今でも辛い」という住民の方々の思いにより、それはなされませんでした。

 ブロンプトンにまたがり十五分ほど走ると、大和田新田にある「無縁仏之墓」に着きました。1972年に付近の住民によって建てられた墓で、このあたりで交通事故で行き倒れになった無縁の方との合葬だそうです。なお石の下に骨はおさめられていません。碑文には「大和田新田下区有志一同建立」とありました。

 合掌

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2017-04-28 08:25 | 関東 | Comments(0)

虐殺行脚 千葉編2(8):八千代(16.12)

 それではこの事件に関する慰霊碑を訪ねましょう。これらは広範囲に点在しているので、ブロンプトンの威力が発揮されました。まずは八千代中央駅からほど近い萱田長福寺にある「震災異国人犠牲者 至心供養塔」です。幸い、境内をお掃除されていた女性がいらっしゃったので場所を尋ねると、墓地の一番奥にあるとのこと。指さす方向に向かって進むとすぐにわかりました。
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 1983年に建立、村の共同墓地移転の際、そこに埋められていた三人の朝鮮人の遺骨が移され、納められています。事件を目撃した住民の提案で建てられました。

 合掌

 そして京成線のガードをくぐって八千代市市民会館へ。入口右側に中台墓地があり、中へ入ると「無縁供養塔」がすぐに見つかりました。関東大震災七〇周年記念集会で、目撃者が証言した後、1995年に地区の発意で建立されました。これだけでは朝鮮人慰霊のためとはわかりませんが、後ろにまわると、卒塔婆の一つに「関東大震災朝鮮人犠牲者」と記されていました。
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 合掌

 さて、さすがに空腹になりましたが、渡りに舟、すぐ近くにラーメン屋「こてメン堂」と和食「味の民芸」がありました。ラーメン屋は店内で行列ができていたのでパス、それにしても風変わりな店名ですね。こてメン堂…こてめんどう…こて・めん・どう… そうか! (パンッ) 篭手・面・胴、剣道の決まり手ですね。ま、それはともかく隣にあった「味の民芸」で皿うどん定食をいただきました。
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 ふたたびブロンプトンにまたがって、近くにある村上橋を渡って土手をすこし左に走ると、「戦災水難横死萬施餓鬼流灯供養菩提也」と記された角塔婆があります。"横死"という表現ですが虐殺された朝鮮人を慰霊するためのもので、八千代仏教会が毎年たてかえているそうです。
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 合掌

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2017-04-27 06:31 | 関東 | Comments(0)

虐殺行脚 千葉編2(7):八千代(16.12)

 前置きが長くなりましたが、朝鮮人の「保護」「選別」「殺害」の舞台となった習志野収容所(高津廠舎)跡を訪れてみましょう。どのあたりだったのでしょう…わからない。実は『地域に学ぶ関東大震災』に掲載されている地図が詳しいものではなく、また私も探知能力の欠如とあいまって、結局わかりませんでした。実籾駅の近くであることは間違いないのですが。「猪木ピンチ」という状況にもなり、無念ですが探索を断念しました。

 実籾駅に着き、ブロンプトンを折りたたみ、駅のトイレに駆け込んで用を済ませ、京成本線に乗って勝田台へ。東葉高速線に乗り換えて八千代中央駅で下車し、ブロンプトンを組み立てていざ出発。これから、このあたりの地域住民のみなさんが建立した慰霊碑等をまわります。実は彼らによる朝鮮人虐殺と、既述の習志野収容所が深く関わっています。9月7日から9日にかけて、習志野に駐屯する騎兵隊は、習志野収容所に収容されている朝鮮人を周辺の村の農民に渡して殺させました。これは大竹米子先生と習志野市立第四中学校郷土史研究会の生徒たちによる聞き取り調査と、地域住民から提供された日記史料によって明らかとなりました。7日の午後4時頃、高津廠舎より「鮮人を呉れるから取りにこい」との知らせがあって、7日夜から9日夜にかけて二度にわけて18人をもらってきました。高津地区では新木戸地区と共同で6人を切りました。5人は入会地の山番小屋付近の寺の境内で、残る1人は大きなイチョウの木にしばりつけて殺したということでした。提供された『震災日記』から引用します。(『関東大震災・虐殺の記憶』 p.211~2)
七日 …午后四時頃バラック(※習志野収容所高津廠舎)から鮮人を呉れるから取りに来いと知せが有ったとて急に集合させ主望者に受取り行って貰ふことにした。東京へ送るべく米二俵本家の牛で桝次に搗きにやらせる事にして牛を借りにやると大和田からとりに来ると云ふので荷車で付けてやる。夜中に鮮人十五人貰ひ各区に配当し高津は新木戸と共同して三人引受お寺の庭に置き番をして居る。

八日 太左ヱ門の富治に車で野菜と正伯から米を付けて行って貰ふにする小石川に二斗本郷に二斗麻布に二斗朝三時頃出発。又鮮人を貰ひに行く九時頃に至り二人貰ってくる都合五人(ナギノ原山番ノ墓場の有場所)へ穴を掘り座せて首を切る事に決定。第一番邦光スパリと見事に首が切れた。第二番啓次ボクリと是は中バしか切れぬ。第三番高治首の皮が少し残った。第四番光雄、邦光の切った刀で見事コロリと行った。第五番 吉之助力足らず中バしか切れぬ二太刀切。穴の中に入れて埋め仕舞ふ皆労れたらしく皆其處此處に寝て居る夜になるとまた各持場の警戒線に付く。

九日 今日から日中は十八人で警戒し夜は全部出動する事になり皆非常に労れて何處でもゴロゴロ寝て居る。昨日行った富治が帰って来るかと待って居ると中々帰って来ない。夕方漸く帰る釜壊し仕舞った為買って来て呉れた金四円五十銭富治立替へて呉れる。夜又全部出動十二時過ぎ又鮮人貰って来たと知らせ有る之は直に前側に穴を掘って有るので連れて行って提灯の明りて梅松切る皮が少し残る是で首を切るには刀の善悪により刀が良ければ誰でも切れる事に決定した随分刀も害ったが新木戸中嶋光雄君の刀以外スパリと切れる刀はない。
 聞き取り調査による証言も紹介します。まず萱田地区の君塚国治さんの証言です。(同 p.213~4)
 暴れて困る質の悪いのをつれてきたんだから、生かして置くわけにいかん。部落部落にもらってきた部落のものが処分しなければいかん…朝鮮の奴は何としても鉄砲でうってくれという、そうか、他では夜のうちに三本立てやってつるして下から火を燃やしたところもあるらしいね。そんなまねはできない。本人のいう通りにしてやろう、今のあのもみお墓地に穴ほって、当人のいう通りに鉄砲でうってやれ、うつまでが大変だ、話すれば簡単に言うけれど、同じ人間をひどい目にするんだからね、中にゃこいつ悪いことしただからよ、めんどうくさいから刀でぶっさすべ、いうのもあるしね、みんな刀もってんだからね、そんなこと言わずにまぁ穴ほって倒れれば落ちるようにしておいたのです。最後に撃つ者もあまり気持ちよくないというわけです、なかなかやってくれないんだよね、おめえやれとか、そっちやれとか、カリウドやった人に頼んだけど人をやったらこの鉄砲は使いもんにならないちゅうわね…とうとう鑑札をうけた鉄砲もっている人にやってもらったけどね…葬るまでの間が大変でしたよ…もうそれは地震があってから一か月から、そのくらいたってからだね、涼しくなってたからね。(1977.10)
 同萱田地区、本郷氏と阿部こう氏の証言です。(同 p.214)
 それこそ伝家の宝刀持ち出してさ、猟銃で撃ったりね、手も足もしばっちゃったんだからかわいそうだったね、船橋のマツシマという所に土木工事にきてたんだって、何度も言ってたがもう殺気立ってて聞き入れなかった。(結局、みんなで何とはなしに殺しちゃったが、阿部) 一人やるとき一人見せて、哀号、哀号ってないてたぞって、(二人殺すのを一人は目をあけて見せておいたって言うから、ずい分残酷なことをしたもんだね、阿部)、こっちは二人、二人だもん(そういうことはずっとみんなの中で言わないでこられたでしょう)、だってもう、あたりさわりのない方がいいからね、まして敗戦後、朝鮮そのものがねぇ、下手にしゃべっておかしなことになってもつまらないしさ。(1976.7.29)
 一読、慄然とします。「牛を借りる」「釜を買ってもらう」「代金を立て替えてもらう」といった何気ない日々の営みに、殺人の様子や刀の切れ味といった非人間的な行為が違和感なく同居しています。そして言うまでもなく、国家権力にとって目障りな朝鮮人を選別し、住民に殺害させて責任を転嫁する、その底無しの卑劣さ。民衆の責任と国家の責任、ともに免れることはできないと思います。
by sabasaba13 | 2017-04-26 06:27 | 関東 | Comments(0)

虐殺行脚 千葉編2(6):習志野(16.12)

 ここから東へ向かってしばらく走ると、朝鮮人・中国人収容所(高津廠舎)があったところです。
 1923年9月3日に開かれた臨時震災救護事務局警備部の会議で、容疑のない朝鮮人は保護し、容疑のある朝鮮人は警官・憲兵が「適当処置(※殺害)」する方針が決定されたことです。戒厳行動を展開しているうちに、戒厳司令部は、流言は無根で朝鮮人暴動は起きていないのではないかという疑問をいだきはじめたのでしょう。また内外に対する体面上、自警団の熱狂的な暴走を抑制する必要を感じたのかもしれません。つまりこれまでの無差別敵視策を撤回して、大部分の朝鮮人は保護し、一部の「容疑ノ点アル」朝鮮人を「適当処分」する方策に変更しました。いうまでもなく、"容疑の点ある朝鮮人"とは、独立運動や労働運動・社会主義運動・無政府主義運動に関わっていた方々です。
 これは推測ですが、戒厳司令部としては、今さら朝鮮人暴動は事実無根であったと認めることは絶対にできません。組織的に流言蜚語を流布し、朝鮮人虐殺を実行してきたのは軍隊・警察なのですから、これを認めたら重大な過失であり責任を問われます。かといって朝鮮人の虐殺を放置しておくこともできない。そこで数は少ないが朝鮮人による放火や暴動はあったと嘘をついて責任を免れ、同時に流言蜚語を取り締まり、朝鮮人の保護を命じる。またその嘘に真実性をもたせるために、疑わしい朝鮮人をあぶりだして「適当処分」する。朝鮮人による独立運動・労働運動・社会主義運動の萌芽を、先手を打って潰すためにも有効ですね。
 というわけで、朝鮮人を「保護」または「適当処分」するための収容所が、千葉県習志野陸軍廠舎(旧捕虜収容所)、那須金丸ヶ原練兵場内、目黒競馬場、横浜港内碇泊の華山丸に開設されました。この中で、"容疑の点ある朝鮮人"を選別して殺害するための舞台となったのが、習志野収容所でした。例えば、警視庁管内63署は留置場・演武場などに拘束していた朝鮮人の多くを目黒競馬場の収容所に送りましたが、そのなかで世田ヶ谷署は120名の拘束者を目黒と習志野にわけ、「注意人物は軍隊に托して習志野に移し」ました。こうして独立運動・労働運動・社会主義運動に深く関わっている朝鮮人、あるいは軍・警察が犯した"不都合な真実"を知り過ぎた朝鮮人は、習志野の収容所に送られる。また収容されている人びとに対する捜査・尋問を行なって前記のような「不逞」(日本の国家権力にとって目障りな)朝鮮人をあぶり出す。戒厳司令官・福田雅太郎は習志野送りを「玉石混淆共に砕ることなからしむるため」と述べ、橘清は「保護すべきは保護し拘束すべきは拘束し、事毎に機宜の処置」であると述べています。そして「玉」と判断したら保護し、「石」と判断したら… (『関東大震災・虐殺の記憶』 p.197~9、p.201~2)

 こうして軍・警察による厳重な警戒のもと、朝鮮人たちは徒歩で、水・食糧は与えられず、傷病者への手当てもなく、炎天下のなか疲労困憊して習志野への移送されました。しかも道中には移送の噂を聞いたその地の自警団が大勢たむろしていました。心身ともに疲労して歩けなくなった落伍者は放置され、群狼の如き自警団の手中に落ちて落命した朝鮮人も、また些細なことで兵士に射殺された朝鮮人もいました。習志野の収容所は、騎兵第二旅団指揮下の騎兵第十三、十四、十五、十六連隊の東にある高津廠舎に開設されましたが、そこはかつて日露戦争の時のロシア人捕虜収容所、第一次大戦の時のドイツ人捕虜収容所となったところです。こうして習志野収容所に、9月5日から千葉県内および東京方面からおくりこまれた朝鮮人は約3200人、中国人は約600人でした。
 しかしこれで、彼らの生命が保障されたわけではありません。その処遇は避難民というよりは「戦時捕虜」に近いものでした。機関銃さえ用意した物々しい警戒は、自警団による攻撃はありえないので、朝鮮人監視のためでしょう。面会・通信・帰国の自由はいっさいありません。貸与された毛布や食事も貧弱なものでした。
 そして選別と抹殺がはじまります。当時、船橋警察署巡査部長であった渡辺良雄さんは以下のように回顧しています。
 わたしは統計(収容者数の)をやってから、毎日、何時現在で朝鮮人何名という日報を出した。現地の駐在巡査が現場に行って、収容所の人が数えたのをわたしに報告してくる。それをわたしが県庁へ報告する。すると、一日に二人か三人くらいずつ足りなくなる。昨日現在いくら、今日出たのがいくら、残りいくらとくるわけだから、すると出入りの関係で数が合わない。
 収容所のなかには、震災で負傷した人、避難の最中で軍隊や自警団に殺されかけて、傷を負いながら収容所にたどり着いた人もいたでしょう。収容所に入る以前の傷がもとで亡くなった人もいたでしょう。しかし、収容者数の減少の原因は、それだけではありませんでした。習志野収容所に収容された18歳の学生・申鴻湜(シンホンシク)さんの証言です。
 習志野へ行くと、身体検査をされ、持ち物全部検査されました。(中略) 兵営が二つ、ドイツ兵捕虜(第一次世界大戦時)を収容していた収容所だと思うのですが、大きいのがいく棟もあって、朝鮮人が二棟つかっていて、むこうにもう一棟中国人がいたんです。(中略)
 ところが、やっぱり人間が大勢いるといろんな事件がおこってくるんです。中国人の収容所の方で、逃げようとして打ち殺されたのがいましたよ。「ここにいたら殺される」と思っていたんでしょうね。それから、食事の時に我先にというと打ち殺すんですからひどいですよ。
 私などは、千葉陸軍歩兵教導連隊の兵営につれて行かれました。(中略)
 私のことを特務曹長は、「お前は運のいいやつだ」といっていましたよ。拡声器かなにかでよばれて、いったら帰ってこないのがいましたからね。それで「だれそれはどうしたのだ」ときくと、いろんなことを言っていましたよ。たいてい、昔の知りあいが訪ねてきたとか、雇主がここにいやせんかと訪ねてきたとか、親戚が来たとか。
 それならば、帰るときにここへきて、「オレはこういうわけで、親戚が来たから帰る」とか、言うわけだけれども、何のあいさつもなしにすっと帰るのはおかしいなと思うわけです。呼び出されたのは、必ずしもそこで委員(自治委員)をやっていた人とは限らないですが、委員をやっていた人の中で呼び出されて帰ってこないのが、私の知っている限りで、一人か二人いましたよ。
 申さんの「運のいい」こととは、教導連隊の特務曹長と申さんの間に偶然にも共通の知人がいたことです。
 当時騎兵第十四連隊本部書記だった会沢泰さんは、連隊が収容所にいる朝鮮人を「ある程度調べて」殺害したと証言されています。これを裏付けるのが2003年8月に新聞で報じられた「関東大震災ト救護警戒活動東京憲兵隊(推定)」という資料です。同資料は震災直後の憲兵隊の活動を記録したものとして、次のように記されています。
 習志野鮮人収容所警戒に就ては習志野憲兵分隊を以て之に充当せしむるの外、鮮語に通暁せる上等兵三名を私服にて収容所内に派遣し、鮮人の動静知悉に努めしめ、有力な資料を得たり。
 憲兵が収容所内でスパイとして朝鮮人と接し、監視していたことがわかります。そして、会沢さんの証言にあるように、朝鮮人の中から「おかしいようなもの=民族主義者・社会主義者」を峻別し、そのレッテルを貼られたものは呼び出しをくらい秘密裏に殺されました。
by sabasaba13 | 2017-04-23 09:27 | 関東 | Comments(0)

虐殺行脚 千葉編2(5):習志野(16.12)

 ふたたび大学前の通りに戻って右へ行くと、東邦大学付属中学校・高校がありますが、ここはかつて第十五連隊・第十六連隊があった場所です。校門のわきにそれをしめす木柱がありました。
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 平形千恵子氏によると、満州事変の時に第十三・第十四連隊が満州に行って、その跡地に第十五連隊・第十六連隊が移り、ここには新たに習志野学校がつくられたそうです。例えば中野学校のように、地名のついた学校は特殊な任務の学校で、習志野学校は毒ガスを研究する学校でした。ウィキペディアから引用します。
 第一次世界大戦では、数々の新兵器が使用され、その非人間性について非難し軍縮を求める声が広がった。その一方で、列強各国はこの新兵器を開発又は防禦する研究を奨励し、次々に新兵器の開発を進めた。これら新兵器の中には生物兵器・化学兵器も含まれていた。
 陸軍省は1932年(昭和7年)12月兵備改善案を発表し、この中で毒ガス防護教育の充実をうたった。翌年、化学戦学校が千葉県の習志野に設置されることが新聞で報じられ、まもなく化学戦学校は「陸軍習志野学校」と正式に命名され、8月1日に開校することとなった。学校名が地名なのは、その教授内容の秘匿のためともいわれる。
 学校設置の目的は「陸軍習志野学校令」によると、「軍事ニ関スル化学ノ教育並調査研究等ヲ行フ所」とあり、毒ガスの知識を普及し、その使用法や防禦法を調査研究する機関であるとしている。習志野学校は「毒ガス学校」とも呼ばれ、毒ガス兵器の開発や実戦を行う機関と思われているが、実際は主に毒ガスの防禦法を訓練する学校であり、動物実験は行われていたようだが生体実験が行われたことはないといわれている。
 きっと大久野島とも関連があるのでしょう。この習志野学校の遺構が残っているということなので、本を片手にペダルをこぎました。まず見つけたのが、土台が煉瓦造りの旧い木造家屋、確証はありませんがおそらく学校の施設だったのでしょう。泉児童公園には、弾薬庫の跡が残っていますが、軍隊のコンクリートは厚くてなかなか壊せないためだそうです。それにしても毒ガスを装填した弾薬などが格納されていた可能性もあるのでは。よりによって子どもの遊ぶ公園にしなくても、と思います。その先には習志野学校裏門の門柱が残っていました。
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 大久保保育所内に残っているレール跡は、習志野学校で使われていたものだそうです。保育所では、信号を渡る練習に使っていたとか。学校跡地の一部が更地として鬱蒼とした木々とともに残っていますが、残念ながら中には入れません。財務省の管理下にあるとか。金網越しに、コンクリートの土台が点在しているのが見えました。案内役の平形千恵子さんによると、実験動物の慰霊碑もあるそうです。
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 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2017-04-21 06:30 | 関東 | Comments(0)

虐殺行脚 千葉編2(4):習志野(16.12)

 「習志野騎兵旅団発祥の地」という大きな記念碑のとなりに、その由来を記す碑があったので、こちらも転記しておきます。
碑誌
騎兵第一 第二旅団は 明治三十四年十二月この地に創設せられ 日本陸軍最初の快速兵団として発祥した 第一旅団に属する第十三 第十四聯隊 第二旅団に属する第十五 第十六聯隊は堂々と甍を連ね 大久保の地は一転して一大衛戍地となった
この地習志野の名は 明治六年 明治天皇行幸して親しく軍隊の調練を天覧せられし際 将来に亙り軍が操練に励むべき地として特に命名せられたるもの いま騎兵旅団の設置を見るに及び 正にその聖旨に副い名実相伴うに至ったのである 明治三十七八年日露戦争に當り 両旅団は共に満州に出征 よく機動性を発揮し 果敢善戦赫々たる戦績を収めて凱旋した 尓来約三千の将兵は人馬一体となり 日夜習志野原頭を馳駆して練武を重ね 輝く騎兵精神を培った 一面の草原は生気に満ち 聯隊旅団を挙げての乗馬襲撃など正に壮観そのものであった かくて習志野騎兵旅団は陸軍の華と謳われ 地域住民の親愛と協力の下に 軍民一致輝かしい一時代を経過した
満州事変の勃発するや 昭和七年第一旅団はこれに出動して各地に転戦し 引続き満州ハイラルに駐屯 さらに支那事変に活躍して偉功を樹てた この間第二旅団は終始この地に衛戍して訓練を続け また各種部隊の編成補充に任じた 時代の変遷に伴い騎兵部隊は逐次機械化の途を辿るに至り 第二旅団は昭和十六年 第一旅団は同十七年それぞれ戦車部隊に改編せられ ここに騎兵旅団の歴史は終りを告げたのである 発祥以来この地で訓練された壮丁は関東全域及び山梨長野両県下から選抜せられ その数延数万に及び 軍馬は北海道及び東北地方から補充せられ延一万余頭に達した この中には幾多の戦没犠牲となった人馬があることを銘記しなければならない 大東亜戦争後 習志野の地はその様相を一変し 広茫として習志野原もその姿を変えるに至ったが この地が騎兵旅団と共に歩んだ四十年は 習志野発展史上特に意義深い一時代を画したものというべきである その由緒を記念するため 関係者有志七百余名の思いをこめてこの碑は建てられた
希くは 習志野の地が永く栄光ある発展を遂げんことをと祈念し ここにその由来を誌す
昭和五十一年四月 建設委員一同
 あれれ、「大正十二年 関東大震災発生後 戒厳令下 騎兵旅団は敵と看做した無辜の朝鮮人を大量に虐殺し 赫々たる戦果を挙げた」という一文が抜けてますけれど。そして「軍民一致」という言葉に、背筋を冷たいものが走ります。『関東大震災・虐殺の記憶』(姜徳相 青丘文化社)によると、1923年9月3日、大島(現・江東区)に到着した野重砲第一連隊第六中隊の兵士、久保野茂次が日記にこう書いています。
 軍隊が到着するや在郷軍人等非常(非情か)なものだ。鮮人と見るや者(物)も云わず、大道であろうが何処であろうが斬殺してしまふた。そして川に投げこみてしまう。余等見たの許りで二十人一かたまり、四人、八人、皆地方人に斬殺されてしまふていた。(p.109~10)
 戒厳軍の権威と武力を後ろ盾にして、自警団や民衆が朝鮮人を殺戮したことがわかります。これぞ「軍民一致」。

 公園内には、「軍馬忠魂塔」、「軍馬之碑」、「騎兵第一旅団司令部跡」といった石碑がありました。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-04-20 06:25 | 関東 | Comments(0)

虐殺行脚 千葉編2(3):習志野(16.12)

 商店街のゲートには、チェスの駒でしょうか、ナイトとポーン(ビショップ?)の絵が描かれていました。騎兵旅団との結びつきの強い町だったのですね。そういえば、『地域に学ぶ関東大震災』の中で、実行委員会の平形千恵子氏がこう語っておられました。
 軍隊の町で、軍隊関係の商店が連なっています。軍人にものを売るとか写真を撮るとか。なかにはね、飯ごうの蓋一つ無くなると、点検されると困るので、だいたい他人の蓋を取るんだそうです。それでまた次の人から取る。最後に一番気の弱い人が塀を乗り越えてここに買いに来る。金物屋さんに飯ごうの蓋一つ買いにいった話があります。
 写真屋さんも多いし、食料品を売る店、薪炭屋、それからおの裏の方の農家は馬の飼料を納入して軍の残飯を払い下げて豚の餌にしていたとか。(p.89~90)
 「大久保ゆうろーど」のつきあたりがT字路になっており、日本大学生産工学部がありますが、かつての第十四連隊跡地です。左に行くと東邦大学でこちらは第十三連隊跡地。その先に済生会習志野病院がありますが、かつては衛戍病院(陸軍習志野病院)でした。
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 T字路に戻って今度は右へすこし走り、南方向へ曲ると八幡公園がありますが、ここがかつての騎兵旅団司令部跡です。煉瓦造りの門柱は当時のものですね。解説板があったので転記しておきます。
騎兵連隊・旅団司令部跡
 明治初頭より旧陸軍の演習が行われていた小金原は、同六年(一八七三年)明治天皇行幸の際に、「習志野原」と命名されてから、周辺に軍隊が急速に創設され、それにともない拡張されてきました。
 明治三十二年、日本陸軍初の快速兵団として騎兵連隊が習志野に創設され、同三十四年には大久保に転営して、現在の東邦、日本大学付近に第十三・十四連隊からなる第一旅団と、東邦中学校・高校付近に第十五・十六連隊からなる第二旅団がおかれました。さらに、八幡公園・習志野郵便局の地に旅団司令部がおかれました。
 日露戦争(明治三十七~三十八年)の折には、両旅団が派遣されましたが、満州事変(昭和六年)・支那事変(同十二年)には第一旅団が派遣されました。この頃より軍隊の機械化がすすみ、騎兵連隊は装甲部隊に再編制されていきました。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-04-19 06:26 | 関東 | Comments(0)

虐殺行脚 千葉編2(2):習志野(16.12)

 そして踏切を渡り、京成大久保駅の北側へ向かうと、「大久保ゆうろーど」という商店街となっていました。途中にあったのが、習志野第一騎兵旅団長・秋山好古の記念碑です。後学のために転記します。
秋山好古と習志野
 日本とロシアの間に緊張が高まった明治三十六年(一九〇三年)、秋山好古は当時大久保にあった騎兵第一旅団に赴任し、翌三十七年、日露戦争が始まると同旅団長として中国に渡りました。戦地では、沙河・黒溝台・奉天等の激戦地を駆け巡り、当時世界最強と呼ばれたロシア・コサック騎兵と互角に渡り合い、あるいは凌ぎ、日本軍の危機を幾度も救う活躍を見せました。司令官でありながら最前線で指揮を執り、退却時には自らしんがりをつとめた好古の勇姿は、敵・見方をこえて評判となり、明治三十八年九月、日本とロシアとの間に講和条約が締結されると明けて明治三十九年早春、好古は歴戦の痕跡を残す連隊旗と共に堂々と大久保の地に凱旋しました。この戦功により、後に日本騎兵の父と呼ばれた秋山好古、そして日本海海戦で赫々たる戦果を上げた連合艦隊の首席参謀、実弟・秋山真之の活躍は世界から驚きをもって称賛され、後に小説「坂の上の雲」(司馬遼太郎著)の主人公として描かれ、現在も多くの人々にその名が知られています。
 当時の日本が他のアジア諸国のように西洋列強の隷属や植民地にならなかったのは秋山兄弟の功績に負うところが大きく、習志野の地にいた数年間は好古の人生にとっても日本にとっても重要な日々であったことは後の歴史が物語っています。
 秋山兄弟の功績を認めることには吝かではありませんが、過大評価のように思えます。また日露戦争の歴史的意義については、自衛戦争より帝国主義戦争、朝鮮と満州の奪い合いという点のほうが大きかったと考えます。
 私が知りたいのは、勇将・秋山好古が(たぶん)心血を注いで鍛え上げた騎兵旅団が、日露戦争から約20年後に次のような事件を引き起こしたのかです。騎兵第十五連隊(習志野)所属の越中谷利一氏の証言を、『震災・戒厳令・虐殺』 (関東大震災85周年シンポジウム実行委員会編 三一書房)から引用します。
 ぼくがいた習志野騎兵連隊が出動したのは九月二日の時刻にして正午少し前頃であったろうか、とにかく恐ろしく急であった。人馬の戦時武装を整えて營門に整列するまでの所要時間、僅に三十分しか与えられなかった。二日分の糧食および馬糧予備蹄鉄まで携行、実弾は六十発、将校は自宅から取り寄せた真刀で指揮号令をしたのであるから、さながら戦争気分! そして何が何やら分らぬままに疾風のように兵營を後にして千葉街道を一路砂塵をあげてぶっ続けに飛ばしたのである。亀戸に到着したのは午後二時頃だったが、罹災民でハンランする洪水のようであった。連隊は行動の手始めとして先づ列車改め、というのをやった。将校は抜剣して列車の内外を調べ廻った。どの列車も超満員で、機関車につまれてある石炭の上まで蠅のように群がりたかっていたが、その中にまじっている朝鮮人はみなひきずり下ろされた。そして直ちに白刃と銃剣の下に次々と倒れていった。日本人避難民の中からは嵐のように湧き起る万才歓呼の声! 國賊! 朝鮮人はみな殺しにしろ! ぼくたちの連隊はこれを劈頭の血祭りにして、その日の夕方から夜にかけて本格的な朝鮮人狩りをやりだした。(p.46)
 やれやれ、好古さんは草葉の陰でどう思っているでしょうね。それにしても、陸軍のなかでも騎兵連隊がなぜ虐殺に関わったのでしょう。『関東大震災と戒厳令』(吉川弘文館)の中で、松尾章一氏が次のように分析されています。
 『騎兵操典』に「騎兵ハ剛胆慧敏ニシテ忍耐ニ富ミ、躰力強健ニシテ武器殊ニ馬術ニ熟達シ、襲撃ノ令一タビ下ルトキハ敵ノ多寡ヲ問ハズ勇躍奮進シテ敵ヲ圧倒スルノ勇気アルヲ要ス」とあるように、「騎兵精神」は「慧敏果敢」「軽捷機敏」を特性とした。大正7年(1918)12月から同9年12月にかけて、騎兵旅団内の奇数番号の聯隊に機関銃隊を設置した。したがって習志野の第13と第15聯隊は機関銃を所持していた。また同11年から鳩通信を騎兵通信に採用した。シベリア干渉戦争時に騎兵隊は大いに活躍し勇名をとどろかしたが、同11年の軍備整理で、師団内騎兵聯隊は二中隊に削減され、同年『騎兵操典』の改正により、乗馬戦・徒歩戦両様主義が採用され、徒歩戦の比重が高まり、乗馬行動が軽視される傾向となり、騎兵の陸軍のなかでの役割が低くなっていた(第一次世界大戦以後、騎兵不要論が台頭したことに抗議して、同9年8月に騎兵第四旅団長の吉橋徳三郎少将が自刃した事件があった)。このような時に、震災当時の近衛師団長・東京衛戌司令官であった森岡守成騎兵中将(大正12年3月に騎兵監に就任。シベリア出兵の殊勲者)の指揮下で、騎兵といえば習志野、習志野といえば騎兵といわれていた習志野騎兵聯隊にとっては、名誉挽回の好機であり、「騎兵精神」を大いに発揮し、戒厳令下で敵と見做した「不逞鮮人」や「主義者」の虐殺に積極的にかかわったのではないか、と私は考えている(佐久間亮三編『日本騎兵史』参照)。(p.84~5)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-04-18 06:27 | 関東 | Comments(0)

虐殺行脚 千葉編2(1):習志野(16.12)

 関東大震災時における虐殺行脚、まだ続けています。千葉県はすでにまわったのですが、その後、『地域に学ぶ関東大震災 千葉県における朝鮮人虐殺 その解明・追悼はいかになされたか』(田中正敬・専修大学関東大震災史研究会編 日本経済評論社)という好著を読む機会がありました。専修大学関東大震災史研究会が、「千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会」の方々に案内してもらったフィールドワークの記録です。史跡や事件の現場が、地図とともに紹介されており、これを片手にふたたび千葉県を訪れることにしました。今回は、最高の伴侶を同行します。あっ、いやいや、山ノ神ではなくて、ブロンプトンです。そう、知る人ぞ知る、知らない人は知らない、世界最高の折りたたみ自転車、分解・組み立てが約一分にしてコンパクト・サイズという優れもの。結果から言えば、たいへん重宝いたしました。持参した本は、同書と『在日外国人 第三版 -法の壁、心の溝』(田中宏 岩波新書1429)です。

 「第2章 八千代市高津・大和田新田・萱田を歩く」で紹介されている史跡をメインにまわろうと、東西線に乗って八千代中央駅をめざしますが、車内で同書の「第3章 「軍郷」習志野を歩く」を読んでいるうちに、気が変わりました。まず習志野を訪れましょう。習志野には騎兵第十三・第十四・第十五・第十六連隊が駐屯し、震災直後直ちに東京方面などに出動し、朝鮮人を大量に虐殺しました。その駐屯地の近くには、9月5日、朝鮮人「保護」のため収容所が開設され、朝鮮人が護送されてきましたが、収容所では憲兵が思想調査を行ない、あやしいと判断した朝鮮人を殺し、また近隣の住民に殺させたのも、この騎兵連隊です。
 東西線で西船橋まで行き、総武線に乗り換えて船橋へ。京成船橋から京成本線に乗って京成大久保駅に到着です。ブロンプトンを組み立てて、まずは駅の南側に向かいました。すぐに大久保公民館に着きましたが、このあたりも騎兵連隊による朝鮮人虐殺の現場です。

 合掌

 会沢泰さん(当時騎兵第十四連隊本部書記)の証言を『地域に学ぶ関東大震災』から引用します。
 救護する目的でつれて来たんですけれども、朝鮮人が暴動を起こしそうだっちゅうんで、朝鮮人をひっぱり出せという事で、ひっぱってきたんですねえ。私の連隊の中でも16人営倉に入れた。それが四個連隊あるんですから。おかしいようなのは、みんな連隊にひっぱり出してきては、調査したんです。
 ねえ、軍隊の中で…そしておかしいようなものを…ホラ、よくいうでしょう…切っちゃったんです。日本人か朝鮮人かわからないのも居たわけですね。切ったところは、大久保公民館の裏の墓地でした。そこへひっぱっていってそこで切ったんです。…私は切りません…30人ぐらいいたでしょうね。
 ところが、私の連隊ばかりじゃない。他の連隊もみんなやる。いきなりではなく、(連隊の中で)ある程度調べてね。ナニしとったんだか、どこに居たんだかを。(p.69~72)
 現在は中央公園ですが、当時は人気のない墓地だったのでしょうか。習志野収容所で取調べや調査などをして、民族主義者・労働運動家・社会主義者などをあぶり出してこのあたりで殺害したのでしょう。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2017-04-17 08:07 | 関東 | Comments(0)