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大芦川・真岡鉄道・烏山編(1):(07.7)

 「水百景」という番組をご存知ですか。テレビ東京で火曜日午後10時ごろ放映されている、五分間ほどの小さな番組ですが、なかなか素晴らしい。各地の清流や滝、そこに生きる動植物を簡素なナレーションとともに紹介してくれます。涼風とフィトンチッドが、しばらくの間部屋に流れ出してくるようです。こんな美しい清流を利権のため傍若無人に破壊し続けている元凶の親玉が、「美しい国」などと平然と口にするのですから驚き桃の木山椒の木ですね。ま、それはさておき、その番組の中で以前紹介されていたのが栃木県の大芦川です。なんでも関東に残された最後の清流だとか。定例の一泊二日関東甲信越小さな旅ができそうなので、今回はここを中心に計画を立ててみました。しかし本やインターネットでいくら調べても、大芦川の詳細がわからない。困ってしまってワンワンワワン、とクルクル回っていたら、インターネットであるブックレットの存在を知りました。『「大芦川緑のダム」宣言』(随想舎)という本ですが、さっそく購入。この川の相貌と、ダム建設をめぐる問題点がよくわかりました。渡良瀬水系に属し、前日光高原を源とする一級河川にして動植物の宝庫です。クマタカやオオタカやオオルリなどの鳥類、ヤマネやツキノワグマなどの哺乳類、ニッコウイワナやサンショウウオが棲息し、イチリンソウやクマガイソウなどの野草も咲き誇るそうです。明治期には足尾銅山の資材供給のため上流の水源林が伐採されて災害が多発したこともありますが、先人たちの植林事業によって川の崩壊は食い止められました。ところが1973(昭和48)年、栃木県は東京都の水不足を解消するためと称してダム建設計画を発表、ほとんどの村人が同胞のためと涙を飲んで立ち退きました。しかし東京の水不足解消の目処がたったにもかかわらず、1993(平成5)年に今度は鹿沼市が市の水道水のためとしてダム建設を引き継ぎます。これに対して西大芦漁業協同組合の人々を中心に反対運動が活発となり、地域や県外の人たちも参加して立木トラスト・土地トラストなどの運動をくりひろげました。この運動が功を奏し、2003(平成15)年、栃木県はダム建設計画の中止を決定します。うーん、なるほど、その戦いの軌跡も是非見てみたい。なお詳細な地図も載っているので、これをコピーして持参することにしました。
 大芦川に行く際の最寄り駅は鹿沼なので、ここから下館に出て板谷波山記念館、そして真岡鉄道に乗って真岡を見物、そして茂木に泊まることにしましょう。翌日は、この近くにある石畑の棚田を見たいのですが、公共輸送機関はないのでタクシーを利用。そのまま烏山まで行き、レンタサイクルを借りて国見の棚田と街並みを見物、もし時間があったら大宮にあるジョン・レノン・ミュージアムに寄りましょう。うしっ、巨大な連関が音を立ててつながった! がしゃん なお持参した本は「パレスチナ」(芝生瑞和 文春新書)です。
by sabasaba13 | 2007-09-30 07:41 | 関東 | Comments(0)

「今日は死ぬのにもってこいの日」

 「今日は死ぬのにもってこいの日」(ナンシー・ウッド著 金関寿夫訳 めるくまーる)読了。もうタイトルを見ただけで、即購入しました。いや、べつに自殺願望などではなく、そんなふうに慫慂として死を受け入れる気持ちってどういうものなんだろう、そしてそういう気持ちにさせてくれる日ってどんな日なんだろう。
 本書は、詩人ナンシー・ウッドがプエブロ・インディアンの古老から聞いた話や言葉を、詩や短文として再構成したものです。詩について解説するなどという大それた野暮なことはできません。ただ自然や大地や動植物や仲間や祖先との共存・共生がいかに大事であるかを、剛毅かつ優しい言葉でつづっています。例えば…
わたしたちは大地の子、
だからそれを傷つけない。
朝の挨拶を忘れて
太陽を怒らすこともするまいぞ。
わたしたちは、祖父が創ったすべてのものを
心から讃めたたえる。
わたしたちは、みんな一緒に同じ空気を吸っている―
獣も、樹木も、鳥も、人も。
 平気で大地を傷つけ、太陽を怒らせ、祖先の遺してくれた遺産を破壊し、そして獣や樹木や鳥を絶滅の淵に追い込んでいるのが、われわれ先進国の人間です。何のため? 利潤のため。そして同じことを第三世界の人びとに強要しているのですね。おそらくほとんどの民族が、持続可能な社会を子孫に永遠に残すため、この詩のような智慧をもっていたのだと思います。しかし資本主義あるいは市場原理主義という癌細胞が、人びとを、そして地球を蝕んでいる。そろそろ本気で人間の原点ともいうべきこうした思想に立ち戻るべきではないか。そうした思いを触発してくれる詩集です。
 なお、挿入されているフランク・ハウエル描く、インディアンの古老たちの絵がすてきです。写真とも見まがうリアルな絵なのですが、何といってもその皺の魅力的なこと! 「真っ当な生き方をしてきたから、あとは死ぬだけだ」という逞しい矜持が表情にあるからなのでしょう、まったくもって人生の年輪を深く刻んだ見事な皺です。皺かくしに必死になっている方も多いようですが、なんてことはないのにね、真っ当な生き方さえしていれば。
by sabasaba13 | 2007-09-29 07:28 | | Comments(0)

「ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る」

 「ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る」(梅森直之編著 光文社新書301)読了。いやあ面白かった、読み進めるうちにドッグ・イヤーがどんどん増えて本の厚さが1.35倍になってしまいました。
 氏はナショナリズム研究の泰斗で、代表作は「想像の共同体」(NTT出版)です。今、地球と人類を破滅の一歩手前まで追い込んでいる諸問題、テロや武力紛争、環境破壊、経済的不平等と格差などを考える時に、ナショナリズムという視点は欠かせません。“われわれ(自国民)”を脅かす“やつら(他国民)”、あるいは“われわれ”さえ良ければ“やつら”はどうなったっていい、という発想が事態を悪化させているのではないでしょうか。何故、“われわれ国民”という広漠にして根拠のあやふやな一体感が生れたのか、そして何故、“われわれ”と“やつら”を截然と区別してしまうのか。たしか森巣博氏が紹介されていたエピソードですが、ユダヤ人強制収容所の看守をしていたドイツ兵に、なぜあのような残虐な行為ができたのかと訊ねたところ、彼はこう答えたそうです。「まずわれわれと彼らを分けた。あとは簡単だった…」 “国民”という想像力の産物のために、過去二世紀にわたり数百万の人々が、殺し合い、あるいは自らすすんでいったという冷厳なる歴史的事実にこだわり、それを解明しようとしているのがベネディクト・アンダーソン氏です。しかし“国民”=空想されたでっちあげと単純に切り捨てているわけではありません。「想像の共同体」より引用します。
 ナショナリティとナショナリズムが文化的人造物であること、これを正しく理解するためには、それがいかにして歴史的存在となったか、その意味がときとともにどのように変化してきたか、そして今日、なぜそれが深く情念を揺さぶる正統性をもつのか、これを注意深く検討する必要がある。…この文化的人造物が、これほどにも深い愛着(アタッチメント)を人々に引き起こしてきたのはなぜか
 そう、ナショナリズムとは近代の産物ではなく、過去から連綿として存続してきた心性であるということ。そして近現代において特に人々の情念を揺さぶり、深い愛着を引き起こすようになったというのが氏の主張です。

 前置きが長くなりましたが、その氏が2005年4月に来日して早稲田大学で行った二回の講演を収録したのが本書です。予想外の軽妙洒脱な語りに引き込まれてしまいました。中でも生い立ちと研究者としての歩みについては、非常に興味をもちました。「わたしは幸福なことに、複合的な家族背景を有しています。父はアイルランド人で、母はイギリス人です」 イギリス税関官吏として中国に赴任した父親のもとで生まれ、十歳まで中国で過ごします。その後ケンブリッジ大学に学び、そしてアメリカのコーネル大学に移りインドネシアの研究者になることを決意します。「アメリカはアジアを包括的に支配しようという野心を持ち得た唯一の国でした(現在も持ち続けています)」 つまり、冷戦という状況下で、帝国主義的支配するためにアジア全体を研究する必要性をアメリカは考えていたのですね。その渦の中に彼は飛び込んだわけです。そして一国だけを研究するのではなく、常にアジア全体を視野に入れながら各国を比較し、しかも人類学・歴史学・政治学・経済学を包括できる総合的な能力を身につけるという研究システムが、彼にとって大いに役立ったようです。帝国主義国(イギリス・アメリカ)と植民地(アイルランド・中国・インドネシア)、それぞれに深く関わってきた体験が、ナショナリティに対する彼の柔軟にして複眼的な思考を可能にさせる素地を生んだのでしょう。

 そしてこの本の白眉は、後半部分、政治学者・梅森直之氏によるベネディクト・アンダーソン論です。中でもアイデンティティに関する説明は簡明にして当意、これまで聞き及んだ中でもっとも納得のゆくものでした。備忘のため、私なりに要約しておきます。人間は他の動物に比べて、遺伝的なプログラムやモデルによって行動が制御される比率が低い。岸田秀氏曰く「本能の壊れた動物」ということですね。よって人間の行動は可塑性が高く、これが良くも悪くもさまざまな面における進歩の源です。しかし、各人が好き勝手な振る舞いをしていたら、当然暮らしていけなくなる。そこで人間は「行動を支配する制御装置=文化」をつくりだした。そして「文化」がうまく機能するためにつくられた型がアイデンティティであり、個人はこの型にはめられることで、社会における適切な振舞いを無意識に実践することができる。日本人だからこうすべき、女だからああすべき、農民だから…というわけですね。そしてナショナリズム、すなわち自分は何人であるかという自覚は、今日において、もっとも支配的な要素となっている。しかしそれは適切な振舞いの基準を確固たるアイデンティティから「自然に/無意識に」みちびきだすことを意味するので、なぜそういう行為をするのかについて深く考えなくなる。つまり思考の停止です。とりわけそれが露になるのは、自分と異なる考え方や行動の仕方をする誰か(他者や異文化)に出会ったときだ。その違いについて深く考えようとせずに、その人物のもつアイデンティティという型のせいにして理解した気になる。「あいつは女だ、あいつは中国人だ、あいつはオウム真理教徒だ…」 単一のアイデンティティという型に堅くしばられてしまうと、他のアイデンティティを理解する努力を放棄してしまうのですね。そして理解不能な薄気味の悪い存在として、容易に排除の対象にすることができます。前記の看守のように… 「まずわれわれと彼らを分けた。あとは簡単だった…」
 とはいっても、人間はアイデンティティなしには意味ある生を送ることはできない。このことを認めながら、なおほかの誰かのアイデンティティに深く寄り添うにはどうすればよいのか。答えは自分の中にあるとアンダーソンは言います。自らのアイデンティティを構成する複数の要素を発見すること、そしてその全てに深く寄り添うことによって、どの要素からも一定の距離をとること。そのすべてでありながら、そのどれでもない自分を認めること、それが他者の理解につながる。うーん、なるほど。さしずめ私だったら、「日本人」「江戸っ子」「AB型」「みずがめ座」「宿六」「チェリスト」「変人」といったところです。よって私は、この列島に住む人々を、「日本人」という単一にして強固なアイデンティティ=型にのみはめこもうとする全ての試みに反対します。

 世界や日本の現状を考察するための前提条件を示唆してくれる好個の一冊、お薦めです。
by sabasaba13 | 2007-09-28 06:11 | | Comments(0)

「若い芸術家の肖像」

 「若い芸術家の肖像」(ジョイス 丸谷才一訳 新潮文庫)読了。「ダブリンの市民」を恙無く読み終わり、次に挑んだのが本作です。主人公のスティーヴン・ディーダラスは「ユリシーズ」でも重要な人物として登場しますが、ジョイスの半自伝的小説とも言われます。幼年期から青年期にかけて、スティーヴン彼が葛藤・苦悩とともに成長していく姿を描いた教養小説でもあります。なおディーダラスという姓は、ギリシア神話に登場する伝説的な大工、工匠、職人、発明家であるダイダロスの英語読みです。弟子のタロスが鋸を発明すると、その才能を恐れて彼を殺したためにアテナイを追放された。その後ミノス王の保護の下に入りますが、王の怒りを買い、息子イカロスと共に塔に幽閉されてしまいます。ダイダロスとイカロスは人工の翼をつくり逃亡しますが、その途中でイカロスは太陽に接近しすぎて、翼の蝋が溶け墜落死。彼は脱出に成功し、シチリア王の元に身を寄せることになったそうです。この神話が小説の骨格となっているのですね。芸術上の新しい美を創造しようとするスティーヴンですが、彼は囚われの身です。彼が幽閉されている塔は、カトリックそしてアイルランド。そして彼は自由を求めてカトリック信仰から、そしてアイルランドからも脱出します。果たして彼の目論みは成功したのか、それとも… その後日談が「ユリシーズ」で描かれているようです。
 正直、読み通すのに時間がかかりました。何と言ってもカトリックに関する教義や儀式の叙述が晦渋なためです。何度か撤退しようと思ったのですが、どういう理由からかふみこたえました。特段、無理をしたわけではないのですが、今もって不思議です。信仰、祖国、異性に対して真摯に悩みぬくスティーヴンの若者らしさに惹かれたのかもしれません。あるいは年をとるごとに文体も成長していくというジョイスの奇抜な、ある意味では当然の試みのせいかな。また処々にちりばめられた、はっとするような文章表現のおかげかもしれません。たとえば…
 暮れなずむ土地が背後へとかけ去り、四秒ごとに電柱が窓のそばをすばやく過ぎさり、そしておし黙っている数人の番人がいるだけの小さな駅がかすかに灯をちらちらさせながら、夜行列車によって背後に投げすてられると、それは一瞬、暗闇のなかで、まるで機関手がうしろに撒き捨てた火の粉のよう。
 横光利一も影響を受けたのかな。それはともかく、いよいよ「ユリシーズ」に挑戦。「ダブリンの市民」の登場人物や、スティーヴンとの再会が楽しみです。
by sabasaba13 | 2007-09-27 06:09 | | Comments(0)

「言論統制列島」

 「言論統制列島 誰もいわなかった右翼と左翼」(鈴木邦男・斎藤貴男・森達也 講談社)読了。右翼運動家の鈴木氏、ジャーナリストの斎藤氏、映像作家の森氏による鼎談です。右翼と左翼という色分け/レッテルではなく、斎藤氏曰く「一生懸命ものを考える人と、ものすごく短絡する人」という視点から今の日本社会を鋭く分析・批判していますが、とれたての大間崎産マグロ(食べたことないけど)のような活きのいい言葉が縦横無尽に飛び交います。テーマは、天皇制から二世議員、憲法、メディア、教育、ジェンダーなどなど多岐にわたりますが、一貫する通奏低音は「思考停止」ですね。考えるのをめんどくさがると社会はどうなってしまうのか、現代日本を格好の素材にして考察するその手際はお見事です。とてもとてもまとめきれないので、考えるヒントにしたいいくつかの文を引用します。(これも思考停止ですね、自戒)
森 日本全体が一つの組織共同体になろうとしている。その過程で異物を排除する。つまり粛清です。このときの組織論的ダイナミズムは確かに左翼的体質なのだけれど、表層的に現れるのは、国家の誇りや民族の自尊心などの右翼的語彙。だから歪なんです。

斎藤 (強硬派には二世・三世議員が多い) 五十、六十にもなって親の七光りで権力を握っているだなんて普通なら恥ずかしくて首をくくりたくなると思うんだけれど、彼らはそうではなくて、国を背負った気になっちゃうことができるんです。…少なくとも偉そうに金正日をバカにできた義理ではないね。

森 国旗・国歌には全然愛着がない。でもこの国を愛しています。…彼女の服や靴を愛せと言われても困る。嫌いじゃないけれど、それはやはり彼女とは別な存在なのに。

斎藤 日本の場合、天皇制が仮になくなったら、それは植民地になったも同然という雰囲気が出てきちゃうと思う。…ただでさえ植民地みたいなんだから、これだけは、というのがあるような気がします。

斎藤 被害者としての戦争だけしか考えたことがないと、海外派兵も戦争のできる憲法も、特に悪いことだと思えなくなるんですよ。だって今の日本あるいは米日連合軍、というより日本の親会社であるアメリカは世界最強なんだから。どこで何やったって、おれたちが巻き添えを食うことはないじゃん? だったら戦争も、"国益"になるんならOKかも、なんて思考回路に、今この国は完全に陥っています。

森 (国際貢献について)話し合う前に、実態を知らなければいけない。例えばサマワに駐留する自衛隊員の特別手当が一日あたり一人約二万円であるとか。

斎藤 要は、世の中乱れたから、おれたち貴族(※二世議員)がすべて決めてやるっていう感じ。企業には限りない自由を、しかし個人一人ひとりには限りない隷従を。

森 縛られていることに、みんな気づかないままに縛られている。だれに縛られているかといえば、自分たちです。相互監視。
斎藤 そういうことです。で、利便性だけは与えられるわけ。
森 だから僕はね、北朝鮮みたいな独裁者国家のほうが、支配されているという自覚がある分、まだましな側面があると思う。…一番の問題は、自覚がないこと。だから抑止や抵抗の発想も生れない。…だって対抗すべき相手は自分たちなんだから。
斎藤 打倒・金正日って言うのもできないわけです。
森 できない。打倒日本社会、になっちゃうからね。

森 敵討ちの概念を否定することが重要な要素であったはずの近代司法が、遺族の心情を理由に、いつの間にか国家による復讐を果たす装置になりつつある。
 お気づきのように、鈴木氏の語りはほとんど印象に残りませんでした。奔馬の如く駆け回る斎藤氏がバド・パウエル(p)、ビシビシと適確に力強くそれに応える森氏がマックス・ローチ(ds)、影は薄いけれど堅実な鈴木氏がカーリー・ラッセル(b)といったところかな。鈴木さん、がんばれ!
by sabasaba13 | 2007-09-26 06:06 | | Comments(0)

中国編(7):北京(02.3)

 夕食は、そう、そうです、待ちに待った北京ダック。目の前でそいでくれた肉汁あふれるjuicyな家鴨の皮を、刻み葱、みそだれといっしょに葉っぱでまいてかぶりつきます。その美味たること、言葉を失いますね。日頃、天上天下唯我独尊的言動で知られる武者小路氏が、借りてきたく、もとい猫のような声で、同じテーブルの方々に「もう一つ食べていいっすか」とことわりながら私より一つ多く食べたのもいい思い出です。(一生忘れないぞ) 至福の一時でした。
 今夜のオプショナルツァーは京劇鑑賞。ホテル内で公演している京劇を、相撲でいえば升席かな、テーブルにすわってお茶・お菓子を食べながら拝見。これがけっこうおもしろい。特に孫悟空役の役者の滑稽かつダイナミックな演技には魅了されました。
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 終演後、蒋さんの勧めでライトアップされた夜の天安門広場へ。1989年の惨劇のあとかたもなく、イルミネーションで飾られていました。なお集会時のための臨時トイレが、歩道に埋め込まれているのには驚愕。使用時は、さぞや壮観でしょう。
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 そして翌日に帰国。別れ際に、蒋さんに「天安門事件のことは公言できるのか」と尋ねたら、「できる。今の指導者が交代すれば批判も始まるだろう」との答えでした。

 というわけで、本当に中国は面白くて美しくて薄汚くて楽しくて美味しくてしたたかでおおらかで奥が深い国でした。未熟な小生を御指導御鞭撻してくださった武者小路、綾小路、両氏に感謝しつつ筆をおきたいと思います。中国、再見。
 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2007-09-25 06:17 | 海外 | Comments(0)

中国編(6):北京(02.3)

c0051620_5484591.jpg 天安門広場の近くでバスを降り、トイレをすませ、そうそうトイレの話だ。有名な仕切りやドアのないトイレ(蒋さん曰く、挨拶をしながら用をたすのでニイハオ便所というそうです)はここまでありませんでした。観光客向けのわりときれいなトイレのある場所を選んでくれていたのでしょう。で、つい油断していたのです。さあ用をたそうとふと右側の個室を見ると、ドアがない。中でしゃがんで●●●をしている中国の方と目が合ってしまった… (中国の便座は日本と逆) わたしゃ一瞬フリーズした後、そそくさと立ち去りました。こういう時ににっこり笑って「?好」と言えるのが国際人なんでしょうね。己の未熟さを猛省します。天安門広場を見た後、故宮へ。
 北京の広くて青い空と何ともいえない瓦の色がよくマッチしています。風になびく柳もきれいです。映画「ラストエンペラー」の舞台となった太和殿、紫禁城の宝物を集めた珍宝館を見学。やはり優品・逸品はことごとく国民党によって台湾に持ち去られたので、見るべきものはありません。
 そして茶の入れ方を実演して販売する土産屋へと連れていかれました。でもここはよかった。実演してくれた方が私好みの庶民派的美人だったことと、中国茶のおいしいこと! さっそく烏龍茶の新茶とジャスミン茶を購入。帰国後あっという間に(山ノ神が)飲み干してしまいました。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2007-09-20 05:50 | 海外 | Comments(0)

中国編(5):万里の長城(02.3)

 万里の長城で立ちションすればゴビの砂漠に虹がたつ。まずは何はなくとも江戸紫ではなくて、万里の長城です。心配していた黄砂もなく、快晴。われわれ二人の日頃の善行の積み重ねの結果ですね。神様ありがと。付近の山々は桃や杏の花盛り、桃源郷! そして文句なしの存在感、圧倒的な迫力。まいった。座布団一枚。Give up。ここでも鉄槌をくらいました。こんなものを作ってしまう、人間ってなんなんだろう。でも桃の花を産毛のようにまとった連山、吹きつける大陸の風、果てしない天空、山を縫って伸びる長城、素晴らしい気分でした。本っ当に来て良かったと、しみじみ思いましたね。
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 そして御土産屋で昼食。その店で5分で印鑑を彫ってくれるということなので「邪想庵」の印を注文。100元でした。(約1300円)
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 そしてバスで故宮へ。それにしても中国の車の運転マナーの豪快さ/乱暴さというものはハンパじゃありません。ガイドの蒋さんが出してくれたクイズです。『中国で優先されるのは、歩行者か、自転車か、自動車か?』 正解は『勇気のある人』です。とにかく道路の横断は車と人の真剣勝負。鼻先18cm前を大型バスが平気の平左でかすめ去った時は、腰が抜けましたよほんとに。『信号とはあってもなくてもいいが、あったほうが多少便利な機械』ということもわかりました。これもドストエフスキー的鉄槌。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2007-09-19 06:06 | 海外 | Comments(0)

中国編(4):上海(02.3)

 上海一の繁華街、南京路へバスで移動。ここでようやく待望の一時間の自由行動です。われわれ三人はすぐに「それじゃ」「のちほど」「じゃあね」と単独行動を開始。このへんの一糸乱れぬteamworkはなかなかのもんでしょ。よって残り二人の行動は不明です。悪さはしていないと祈りますが、綾小路氏はバシャバシャ写真を撮りまくり、武者小路氏はムシャムシャ立ち食いをしていたのではないかな。小生はガシガシと裏通りを歩き回りました。井戸端会議、縁台、路上で営業する床屋、万国旗の如き洗濯物、駆け抜ける自転車… デジャヴにおそわれましたね、うん。羊水の中に戻ったようでした。驚いたのが、裏小路への入口に写真のような鉄柵があるんですね。掲示には“午後六時には閉めるよ”と書いてあるようです。中国人民は、こうやって自衛しながら悠久の歴史を生き抜いてきたんだなあ、と考えると感無量です。
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 車窓から町並みや自転車の大群やレトロな消防車や天秤棒をかついだ女性やミネラルウォーターを満載した三輪車などを眺めながら、再びバスで上海空港へ。北京へのflightなんですが、現地の悪天候のため大幅な遅延。こりゃ長引くなと待っていたら、航空会社から弁当が支給されました。まあ中国版ほっかほか弁当なんですが、これが、チキンと卵焼と野菜炒めとご飯がどん・どん・どん・どんと四つの山になっている、プラトン流にいえば“弁当のイデー”のようなもの。恐るべし、中国。勿論全部たいらげましたけどね。さあ長期戦だとかまえていたら、すぐに搭乗開始。無事に北京着。
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 本日の一枚。洗濯物と高層ビルディングです。
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by sabasaba13 | 2007-09-18 06:08 | 海外 | Comments(0)

中国編(3):上海(02.3)

 今日は上海の市内観光です。まずは明代につくられた庭園、豫園へ。この付近一帯は租界時代から最も中国人が多く住んでいた、一番中国らしい街とのこと。料理店・屋台・雑貨屋が密集し人が溢れた活気あるところです。横浜中華街を二十倍に広げ、数万人を詰め込んで、イースト菌で発酵させたような感じ。それにしても屋台で売っていたショーロンポーの旨そうなこと! 団体行動のため食せなかったのが、今でも心残りです。
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 美しい庭園を見学した後、近くの百貨店の中で昼食とお土産タイム。ゴーマンかましてよかですか。別に自慢するわけなんですが、こんなことがありました。烏龍茶を買おうと物色し、日本語を話せる若い女性の店員さんと値段の交渉をしたんです。あまりまけてくれませんでしたが購入。その後の会話です。「お客さんはどこからきた?」「東京です」「あなたは紳士だ」「(耳を疑い)えっ?! お世辞はけっこうですよ」「いや、もう買ってもらったからお世辞は言わない。あなたは紳士だ」天地神明八百万の神+山ノ神に誓い、事実です。(ほんとだよ、武者小路さん) よくよく考えると、多くの日本人旅行客が中国の店員さんに対してぞんざいで野卑な話し方をしているってことなんですよね。まず愛国心愛国心と声高に叫ぶ政治家・官僚の方々、こういう実態を把握しなさい。

 本日の一枚は、上海市内の光景です。バーイシクッ、バーイシクッ
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by sabasaba13 | 2007-09-17 08:57 | 海外 | Comments(0)