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「反骨 金子光晴エッセイ・コレクション」

 「反骨 金子光晴エッセイ・コレクション」(ちくま文庫)読了。「流浪 金子光晴エッセイ・コレクション」(大庭萱朗編 ちくま文庫)を読んだ後、ぼーっとしていたら続編が出ていたのですね。いかんいかん。さっそく拝読いたしました。どうすれば氏のような強靭な精神と知性をもつことができるのか、たぶん私にとって一生の問題だと思います。そうした息吹をより直截に感じられるエッセイの数々、たいへん魅力と含蓄に富んでいます。「社会/個人」「男/女」「青年/老年」の三編構成ですが、いくつか引用します。
 むかしから僕には、親友というのがいなかった。ほんとうのことは誰一人相談するあいてがいないので、なんでも自分で判断してかってにやる癖がついてしまった。だから、友人がいないで淋しいなどと感じたことはない。裏切られたところで、苦にもならない。心のなかで親疎はないので、気に入らないことをされても、特に怒るということはない。衆の力をかりて、のしかかってくる奴だけはやりきれない。どんなにそれが正義でも腹が立つ。個人に腹が立つというよりも集団の力のうしろであぐらをかいている個人の状態に嘔吐を感じる。戦争の時の日本人は、そのいちばんいやな面をむき出しにしていた。そういう奴こそ敵という感じがした。

 …ばらばらになってゆく個人個人は、そのよそよそしさに耐えられなくなるだろう。そして、彼らは、何か信仰するもの、命令するものをさがすことによって、その孤立の苦しみから逃避しようとする。
 世界的なこの傾向は、やがて、若くしてゆきくれた、日本の十代、二十代をとらえるだろう。そのとき、戦争の苦しみも、戦後の悩みも知らない、また、一度も絶望した覚えのない彼らが、この狭い日本で、はたして何を見つけだすだろうか。それが、明治や、大正や、戦前の日本人が選んだものと、同じ血の誘引ではないと、だれが断定できよう。

 日本人の美点は、絶望しないところにあると思われてきた。だが、僕は、むしろ絶望してほしいのだ。…開国日本を、いまだに高価に買いすぎたり、民主主義で、箪笥にものをかたづけるように手ぎわよく問題がかたづき、未来に支障がないというような妄想にとりつかれてほしくないのだ。しいて言えば、今日の日本の繁栄などに、眼をくらまされてほしくないのだ。
 そしてできるならいちばん身近い日本人を知り、探索し、過去や現在の絶望の所在をえぐり出し、その根を育て、未来についての甘い夢を引きちぎって、すこしでも無意味な犠牲を出さないようにしてほしいものだ。
 絶望の姿だけが、その人の本格的な正しい姿勢なのだ。それほど、現代人のすべての構造は破滅的なのだ。
 日本人の誇りなど、たいしたことではない。フランス人の誇りだって、中国人の誇りだって、そのとおりで、世界の国が、そんな誇りをめちゃくちゃにされたときでなければ、人間は平和を真剣に考えないのではないか。人間が国をしょってあがいているあいだ、平和などくるはずもなく、口先とはうらはらで、人間は、平和に耐えきれない動物なのではないか、とさえおもわれてくる。

 一つの国の暴力に対抗し、それより強力な暴力を備えることで、からくも一日一日の平安をかせぐべく、バランスをとるというやりかたは、どんなサーカスの空中曲芸よりも危険なものだ。そんなとき、正義だとか、自由のため、平和のためなどというあやしげな文句は、火の手に風を送るようなものだ。人間は、良識をもっているから、威嚇の限度を越えて、じぶんのからだに油をかけてマッチをするような、おろかな真似はしない、と多寡をくくっている人が多い。それならば、結構、というほかはない。人間は、常にそんなに冷静なものだろうか。例え、水のようにしずかであっても、またしずかであればあるほど、この先人類が何万年生きてゆくことの目標を失い、滅亡にしか価値のないことをそろそろ気付きはじめているのではないか、それとも単に錯乱しているのか、存続への断念に情熱をもつにいたったのではないか、と、いろいろろくでもないようなことを考えざるをえないようなうごきかたに、故意に片より出しているような現象に、あちこちでふれ、不安と失意が、会う人の表情の奥からのぞくのをみるようになった。
 最後の一文は『「八月六日」にあたって思うこと』の一部で、1965年8月9日に「週刊読書人」に掲載されたものです。氏の“絶望”の深さは、40年を経ても私の臓腑と脳漿に食い込んできます。権力・財力を持つ者には良識なぞない、ときちんと絶望すること。もう体に油をかけ、そしてマッチを箱から取り出すところまで、人類は来てしまいました。衆の力を頼らず、自分の頭で考え自分の足で歩く。未来についての甘い夢を見ない。無意味な犠牲を出さない。過去と現在についてとことん絶望する。孤立から逃げない。そして国を背負わない。金子光晴の強靭な精神と知性に学ぶのは、今を措いて他にはないでしょう。
by sabasaba13 | 2007-11-30 06:07 | | Comments(0)

「別冊太陽 宮本常一」

 「別冊太陽 宮本常一」(平凡社)読了。民衆の智慧を求めて日本全国をくまなく経巡り、それを明るく活気のある未来に生かそうとした希代の民俗学者・宮本常一。私にとって敬慕してやまない人物です。その後塵をほんの少しでも拝したいとしょぼくれた旅を続けていますが、氏の後姿さえ見えてきません。せめて氏の著作をよみながら、その精神を僅かでも吸収したいと思っています。本書は、宮本常一の生涯を、豊富な写真・資料・地図・ブックガイドをまじえながら再現し、さまざまな研究者からのオマージュを収録したものです。奈落の底に落ちる淵にいる地方を再生するため、そして地方を弊履にように捨てようとしている政治に抗うためにも、氏の人生と業績と思想をふりかえるのは必ずや得るところがあるでしょう。お薦めです。
 一読、やはり渋沢敬三との出会いが彼の生涯にとって大きな意味を持っていたことがよくわかりました。“モノ”からヒトの営みの跡を読み取り、人間の文化を解明するという彼の研究方法が、宮本常一に大きな影響を与えたのですね。滋味あふれる言葉も多々ありますが、一番心に残ったものがこれです。
 要するに私は、正しい意味の教育を確立したいのである。いちばん大切なことは、騙されない自己を確立することである。社会を、あくまで自然現象として眺めるほどの客観性をもって観察し、それに政治的なものを交えないことである。
 嗚呼、騙されやすく従順で頑丈な使い捨て労働者に育てようという教育をせっせこせっせこ強要している文部科学省の官僚諸氏にぜひともよく味わっていただきたいですね。

 なお氏が撮影した写真の魅力にはつねづね感服しておりましたが、その理由の一端がすとんと腑に落ちました。“自分が写真を撮影していないからこの場所にはそのようなものはなかった”“写真とは「見た」ことの確かさをとどめるもの” 本書にある言葉ですが、宮本常一の「眼」の力、あらためて恐れ入りました。ヒトの営みに対してつねに感受性を働かせ敏感であること、そしてそれを技巧にこだわらず写真におさめること、これも学びたいところです。
by sabasaba13 | 2007-11-29 06:08 | | Comments(0)

「裁判員制度の正体」

 「裁判員制度の正体」(西野喜一 講談社現代新書1903)読了。誰も求めたわけでもなく望んだわけでもない裁判員制度が実施されようとしています。こりゃそろそろ本気でその内実を知っておくべきだなと思っていた矢先に、本書に出会いました。この制度が決定するまでの過程、その仕組みと内容、そして様々な問題点を、私のような素人にも分かりやすく述べられています。ほとんどすべての人に関わってくる制度なので、より多くの方に読んでほしいですね。
 一読、背筋を冷汗が走りました。十分な時間をとって中身を吟味せず見切り発車の形で施行を焦っているため、あまりにも問題が多すぎます。まず国民の過重な負担。もし裁判員として指名されたら、われわれは休暇をとって参加しなければならないのですが、その間に蒙ったさまざまな不利益についての補償は何もありません。(幾許かの日当・旅費は出ますが) 例えば業務をほったらかした結果、左遷・馘首の憂き目に会った会社員に対しては、「それは法律違反だから、裁判に訴えればいいじゃん」ということです。これは苦役ですね。その背後には、国家が強制する苦役には文句を言わず耐え忍べという発想が垣間見えてきます。
 さすがに表立って「耐え忍べ」とは言えないので、負担はそれほど重くないというイメージ作りに法務官僚は奔走しているようです。いかにも軽いイメージの上戸彩氏をCMに登場させて、懸命に負担の軽さをアピールしていますよね。しかし裁判を短期間で簡単に終わらせようとすれば、当然手抜き審理が横行します。またそうした手抜きを許容するためのシステムづくりも行われています。(例えば部分判決制度) 真相追及が図られず、冤罪がみちあふれる事態が現出しそうです。
 それにしても政治家・官僚がこうしたシステムを打ち出した、本当の意図は何なのでしょう。これは推測ですが、凶悪な刑事裁判において死刑判決を数多く出させことが狙いなのではないでしょうか。死刑制度の維持拡大、そして国民の目を小悪・中悪に向けさせ、その犯人を死刑にすることによってストレス解消・ガス抜きをさせる。巨悪に対しては批判の眼がいかないように… 最近過熱している、賞味期限切れを隠蔽した企業に対する容赦ないメディアの糾弾は、これを裏付けているのではないかな。
 そして著者は、この制度を即時中止し、現行の裁判制度を信頼して維持すべきだと述べられています。前者には異存はありませんが、後者には異議あり。それはあまりにも楽天的すぎますね。官僚・政治家・大企業など支配者集団の意向に沿った判決の多さや、起訴=有罪という裁判所の職務を放棄したかの如き現実(有罪率99.9%!)を鑑みると、とても信頼できる代物ではありません。こうした点に言及がなかったのが残念でした。なおこの問題に関しては、以前に掲載した「愉快な裁判官」(寺西和史 河出書房新社)をご覧ください。
 そしていかにしてこのいかがわしい裁判員から逃れるかについてのノウハウが最後にまとめられていますが、これは大変参考になりました。断言しますが、施行が近づくにつれ、裁判員逃れのためのマニュアル本が多数出版されると思います。「裁判員免役心得」とかね、そう、まるで1872(明治5)年の徴兵告諭の時のように。著者が喝破されているように、これは徴兵制の地ならしなのかもしれません。

 追記。先日、「戦後日本は戦争をしてきた」(姜尚中・小森陽一 角川oneテーマ21)を読んでいたところ、韓国では、裁判の判決や裁判官の履歴・過去の判決文までオンラインで見られるそうです。いかがわしい裁判員制度を遮二無二ごり押しするよりも、積極的な情報公開のほうが最重要にして喫緊の課題でしょ、裁判所のみなさん。
by sabasaba13 | 2007-11-28 06:08 | | Comments(0)

飛騨編(7):飛騨高山(07.8)

 さてそろそろ今夜の塒、高山へと向かいましょう。高山行き名鉄バスを予約しておいたので、タクシーで郡上八幡インターチェンジのバス停留所に行きました。運転手さんによると、やはり長良川河口堰の影響で遡上する鮎が激減しているそうです。何百年もかけて守り抜いた自然の恩恵を、わずか数十年で壊滅させてしまったのですね。苛政は虎よりも猛なり(「礼記」)。
 山なみの間を縫うようにバスは走り、一時間強で高山に到着です。その間、観光案内所でもらった高山のパンフレットを見ていると、なんと今日は「手筒花火」が行われる日でした。花火と夕陽と棚田と灯台と聞くとアドレナリンがふつふつと分泌して、「お、い、ら、は、ドラマー。や、く、ざ、な、ドラマー」と口ずさんでしまう私です。ようがす、見に行きましょう。駅前ホテルで旅装を解き、花火大会の時間と場所をフロントで教えてもらい、それまでの間、高山の町を徘徊することにしましょう。まず気づいたのは外国人旅行者・バックパッカーが多いこと。上高地と白川郷がお目当てなのでしょうか。高山弁(?)で訥々と話していた観光案内所のおじさんが、外国人相手となると見事なクィーンズ・イングリッシュ(?)を話しはじめたのには驚きました。
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 駅前の通りをまっすぐに歩き、宮川を渡ってまず訪れたのは古い町並。出格子の連なる木造の家々はそれなりに風情がありますが、どこかしっくりとこない、仙台弁で言うところの「いずい」という感じです。何故なのだろう? 何軒か内部を公開している民家があるのですが、もう夕刻ということですでに閉館。これは他日を期しましょう。しばらく路地を彷徨い、夕食は高山ラーメンをいただきました。
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 さあそろそろ花火の時間です。けっこう人出も多くなってきたので、少し早めに宮前橋の欄干前を陣取りました。すぐ隣では有志の方が大太鼓・小太鼓を演奏中です。夕闇が濃くなってきた午後七時半、宮川の中に作られた四つの舞台に筒をもった方々が登場しました。そして点火されます。そう、大きな筒型花火を手に持って上空に火を放つのが「手筒花火」です。わたしゃはじめて見ましたが、豪壮というか熱そうというか… 火の粉をばしゃばしゃ浴びるシルエットを見ていると心配になります。横にした筒型花火に点火し、それを手にしてじょじょに垂直に持ち上げる。この繰り返しですが、火炎が川面に映えてなかなかきれいです。演者をアナウンスで紹介するのも、家庭的でいいですね。後ろで見ていた方は「今呼ばれたのが、父ちゃんの会社の友達だ」と息子に誇らしげに語っていました。
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 さて花火が終わったので宿に帰りましょう。その前に、さっきの古い町並にまた寄ってみることにしました。以前、広島県竹原市の古い町並を夕刻歩いたときに、格子窓からもれる一家団欒の灯の美しさにいたく感銘した記憶があるので、ここでも見られるかもと期待したわけです。ところが暗い… 灯がついていない… どうやらここには日常的に人が住んでいないようです。土産屋や飲食店が多いので、昼の間しか人がいないと見た。先ほど覚えた違和感のわけはこれだったのですね。町ぐるみ・家族総出で花火見物に行った可能性もありますけれど。そうだったら前言を撤回します。酒屋で地酒「さるぼぼ」(嘘です。名は失念しました)を購入して、部屋で寝をとりましょう。
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 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2007-11-27 06:08 | 中部 | Comments(0)

飛騨編(6):郡上八幡(07.8) sanpo

 再び自転車に乗って、吉田川の南側の町並みを徘徊することにしましょう。まずは「いがわこみち」へ。幅わずか1mの生活道路で、その脇をきれいな用水が流れています。付近の方々は洗い場組合をつくり、清掃や管理・補修などをしながら洗濯物の濯ぎ・芋や菜っ葉洗いに利用するとともに、鯉・岩魚・鮎などを放流しているそうです。両側を緑と民家が優しく包む雰囲気の良い小路で、洗い場が二ヶ所あり、組合員の名前が記されていました。水を慈しむ気持ちがひしひしと伝わってきます。無人販売の餌を鯉にやりながら、しばし佇みました。なおここから川原に出る小路があり、河童諸君が吉田川で水遊びをしている様子を満喫できます。
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 そして自転車に乗って町並みの中を彷徨。北側城下町のような統一感はありませんが、景観を粉微塵にぶちこわす国籍不明の無粋な現代建築はほとんどなく、木造・瓦屋根の民家が建ち並び眼を喜ばせてくれます。城下の名残なのでしょうかT字路が多く、薄暗い路地から明るい通りを眺めると素敵な眺望に出会えます。突き当たりの商店、その上方には山と緑、そして行き交う地元の人びと。どこかの家で練習しているらしい郡上おどりの三味線の音が、心の塵を洗い落としてくれました。
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 「志し肉・くま肉」「銃砲火薬店」といった看板を見ると、けっこう猟がさかんなのかもしれません。
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 表敬無断訪問した八幡小学校は、「変質者・誘拐犯なんてめったにいないし、いたとしても近所の人が何とかしてくれるぜ」と言わんばかりに門扉などありゃしません。正面にある石に刻まれた「天をゆびさす」という校訓が清々しい。二宮金次郎像があったので自称真人間の私は胸を張って正面突破。オーソドックスな姿態の銅像でした。
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 なおこの町で発見した「飛び出し注意人形」は二体、ともに漫画風のものでした。少女については、眼の錯覚か希望的観測か、下着をつけていないように見えるのですが… こうした茶目っ気・大らかさも郡上八幡気質かな。
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 そして「サンプル工房」へ。実は観光パンフレットではじめて知ったのですが、ここは食品サンプルの名産地なのです。江戸時代の和蝋燭をつくる技術を応用したのではないかとひそかに睨んでいますが、詳しい理由はわかりません。ここでは天丼のサンプルをつくらせてくれるそうですので、鯖と豆腐と納豆と小籠包の天ぷらを乗っけてやるぞと息巻いて入店したのですが残念ながら満員御礼。せんかたなし、USBメモリーにつけるストラップをお土産として買いましょう。いろいろと物色したのですが、わがソウル・フード、焼き鯖がありません。ま、一応常識はわきまえているつもりなので「責任者を出せ!」などとは言わず、大人しく鮭の塩焼き(自分用)とみたらし団子(山ノ神用)を購入しました。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2007-11-26 06:10 | 中部 | Comments(0)

飛騨編(5):郡上八幡(07.8)

 さてこの町で一番高い所にある郡上八幡城へのぼりましょう。私が勝手に師として敬慕する旅人/民俗学者・宮本常一氏の父善十郎が彼に贈った言葉があります。「村でも町でも新しくたずねていったところはかならず高いところへ上がってみよ、そして方向を知り、目立つものを見よ。峠の上で村を見おろすようなところがあったら、お宮の森やお寺や目につくものをまず見、家のあり方や田畑のあり方を見、周囲の山々を見ておけ、そして山の上で目をひいたものがあったら、そこへは必ずいって見ることだ。高いところでよく見ておいたら道にまようようなことはほとんどない」 登り口にある「山内一豊と妻の像」を拝見した後、羊腸の如き坂道をひいこら歩いてのぼること十数分で城に到着です。天守閣は廃藩置県の際に破壊され、現在のものは戦後に復元されたもの。最上階からの眺めは素晴らしいの一言。郡上八幡の町並みを一望することが出来ます。はるかまで連なる山々、その間にあるわずかな平地に広がる甍の波、そこを貫いて流れる吉田川。まるで小宇宙のようです。ただ宮本氏のように、その眺めから町の歴史や人々の営みを推察する眼力は私にはありません。己の勉強不足と微力を恥じましょう。入口のところでは、山内一豊のお千代の顔はめ看板を発見。なお天守閣の奥には凌霜隊の碑がありました。
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 観光地図によると近くに「宝暦義民の碑」もあるそうですが、これは発見できず。1755(宝暦5)年、過酷な重税にたまりかねた農民たちが決死の覚悟で幕府へ直訴、駕篭訴をくりかえし12代城主金森頼錦をお家断絶へと追い込んだ事件、いわゆる宝暦騒動の犠牲者を悼んだものでしょう。行きとは違う遊歩道を下りていたら途中に鐘撞き堂がありました。近づいてみると、鐘の背後にデジタル時計が設置してあります。こうした几帳面さが郡上八幡気質なのでしょう。前にある解説には「時刻を知らせる鐘だから撞かないで」と書いてありますが、その脇に英語で"and this sound makes people feel comfortable and peaceful."とあります。そうだよなあ、この小宇宙を眺めながら鐘の音と烏の声を聞いた日にゃ、そういう気持ちきっとなるよなあ。でも何故英語版にしか書いていないのだろふ? マレビトを大事にするのも郡上八幡気質なのかもしれません。なお新橋のたもとには、釈迢空(折口信夫)の歌碑がありました。「焼け原の町のもなかを行く水のせせらぎ澄みて秋近つけり」 1919(大正11)年、柳田國男の勧めにより彼は郡上八幡に来遊したのですが、直前に起きた大火事で町は廃墟と化しており、その光景を詠んだものです。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2007-11-25 08:31 | 中部 | Comments(0)

飛騨編(4):郡上八幡(07.8)

 さて昼食でも食べますか、やはり鰻だなと思っていたのですが、「飛騨牛」という看板を見て変心しました。牛肉行脚は続行中、やはり食べなくてはと、「泉坂」という店に飛び込んでステーキ定食をいただきました。「知らなかったよ、牛がこんなに美味いとは…」と口ずさみながら、宗祇水へと向かいます。連歌の宗匠・飯尾宗祇が郡上の領主である東常縁から古今伝授を受けて京へ戻るとき、この二人が、この泉のほとりで歌を詠み交わしたそうです。「もみじ葉の 流るるたつた白雲の 花のみよし野思ひ忘るな 常縁」「三年ごし 心をつくす思ひ川 春立つ沢に湧き出づるかな 宗祇」 この故事から命名されたのが宗祇水です。こんこんと湧き出る水源の上には社がしつらえてあり、清水は石でつくられた水舟へと導かれます。そこは四つに区切られており、水源に近いほうから、飲料水・米等洗場(スイカ冷やしに利用)・野菜等洗場・さらし場(桶等をつけておく)とわざわざ注意書きがありました。どうやら現役のようですね。
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 このあたり一帯は古い町並みがあるということなので、徒歩で散策することにしました。これといった見所はないのですが、木造・瓦屋根・二階建ての民家が道の両側に連なる統一感ある町並みでした。正面奥にはお寺さんと山が、まるで町の守護神だといわんばかりに鎮座されております。なおこのお寺さんは長敬寺といい、門前に何やら解説板があります。どれどれとさっそく読んでみると、戊辰戦争の際に郡上藩士45名が凌霜隊を結成し、会津若松で白虎隊とともに新政府軍と戦ったそうです。その後捕らえられ厳しい詮索を受けた後この寺に移され、1870(明治3)年に釈放されたとのこと。藩は官軍につき、その一方で脱藩者の名目で藩士を会津に送る、生き残り策をとったようですね。
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 道の脇には小さな水路があり、清流が流れています。微かなせせらぎの音が耳に心地よいですね。処々にベンチが置かれ、柳が植えられているなど、一休みできるようになっています。観光用水舟に気持ち良さそうにぷかぷかと浮いている無人販売のトマトを購入して、かぶりつきながら私も一休み。
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 そうそう、町を歩いていて眼についたのが、軒先にぶらさがる赤い消火用バケツと小さな半鐘。二階部分には延焼を防ぐための張り出した小さな壁(うだつ、この地では袖壁)もよく見かけました。火事に対する用心が徹底しています。
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 なおこのあたりで面白い物件を二つ見つけました。一つは、洋風住居ですが、一階部分の左側入口が丸い破風と鏝絵、右側が半円アーチの窓という奇妙奇天烈なものです。こちらは登録有形文化財でした。もう一つは、建物中央に尖塔のような物見櫓が屹立している物件。これは火の見櫓かもしれません。
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 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2007-11-24 19:24 | 中部 | Comments(2)

飛騨編(3):郡上八幡(07.8)

 まずは「谷中水のこみち」へ。最近つくられた小公園のようですが、白壁と黒板塀にはさまれた路地の脇を小さな水路が流れています。暑いので、数人の子供たちが楽しげに水浴びをしています。手を入れてみましたが、本当にきれいな水でした。
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 この近くで観光用の水舟を発見。水舟とは、湧水を引き込んだ二槽または三槽からなる水槽で、最初の水槽が飲用や食べ物を洗うのに使われ、次の水槽は汚れた食器などの洗浄、そこで出たご飯つぶなどの食べ物の残りはそのまま下の池に流れて飼われている鯉や魚のエサとなり、水は自然に浄化されて川に流れこむしくみになっているそうです。そのほとんどは個人の家の敷地内にあるのでなかなか目にふれることはないですが、観光用に設置されたものを時々見かけました。さっそく置いてあるコップで一杯所望、ああっおいしい。「知らなかったよ、水がこんなに美味いとは…」と鼻歌を唄いながら、吉田川を渡って対岸へと向かいました。
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 すると、そこでは信じられない光景が繰り広げられていたのです。子供たちが川で遊んでいる… 泳ぐ者、浮き輪に乗って川を下る者、橋や岩から飛び込む者、見ているだけで暑気がふっとびました。ほんとにきれいな川なんだなあと感心するとともに、こうした状態を保ち続けた郡上八幡市民に心から敬意を表したいと思います。四万十川ではよく見かけましたが、市街地のど真ん中で見かけるとは思いもしませんでした。でもこれが当たり前の光景でなくちゃいけないんですよね。護岸工事で川辺を奪い、工場排水や生活排水で川を汚染してきたのは一体誰か? When after all, it's you and me. 水泳着をもってこなかったことを目一杯後悔しながら、しばし河童たちの様子を、指をくわえて眺めていました。もうこれだけで来たかいがあったというものpart2。
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 なーんて暢気なことを書いたのですが、さきほど郡上八幡の観光HPの一文を読んで冷水に漬けたバールのようなもので後頭部を殴られたような衝撃を受けました。以下引用します。
 近年すっかり有名になった新橋からの飛びこみですが、昔から新橋から飛びこむことは、郡上八幡に生まれた子供たちにとっては、ひとつの通過儀礼のようなものなのです。小さなときから川に親しみ、最初は低い岩から飛びこみ、三角岩、サンリキ岩、学校橋、やがて新橋と順に高いところから飛びこんで度胸をためしていきます。その中には、自然に学んだ暗黙のルールがあります。増水のときは飛び込まない。川は時おり水温が低いから、必ず体を水温に慣らす。仲間の子供は着水点の周囲に誰もいないことを確認して合図を送る。そしてあくまでも自分の責任で飛びこみます。無理と感じたらやめるのも勇気のひとつ。これは郡上八幡の子供たちの伝統文化でもあるのです。単にスリルだけを求めて安易に飛び込む観光客の方がいらっしゃいますが、橋の高さは12メートル、ビルの5階のベランダの高さに匹敵します。万が一ケガでもされて、事故になったら取り返しのつかないことになります。そしてこの町の水の文化を壊すことになりかねません。新橋の欄干から水面を見下ろして、子供たちの感じる怖さをちょっと味わってみる。降り注ぐまわりの子供たちのまなざしと蝉しぐれを想像してみる。旅の思い出はどうぞここまでになさってください。無事が何よりのおみやげです。郡上八幡の子供たちと観光協会からのお願いでした。
 観光客よ、驕るなかれ、ということですね。反省します。それにしても識見を感じさせる文章ですね。町の文化と観光業が抵触した時に、毅然として前者を優先するという強い意思を感じます。後者を優先して「新橋仮装ダイビング・コンテスト」なんてやりかねない観光地も増えてきているような気もしますね。観光がその町の文化を壊すことも多々あるという、至極当然の事実をあらためて肝に銘じましょう。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2007-11-23 06:44 | 中部 | Comments(0)

飛騨編(2):郡上八幡(07.8)

 一時間二十分ほどで郡上八幡に到着。四方を山で囲まれた小宇宙といった風情です。
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 郡上八幡の城下町としての歴史は1559(永禄2)年に遠藤盛数によって八幡山に城が築かれたことにはじまります。時は戦国時代ですね。四代城主遠藤慶隆は人心を懐柔するために、それまであちこちで踊られていた盆おどりをひとつにして城下で踊ることを奨励したそうです。これが郡上おどりの濫觴と言われています。そして1652(承応元)年に起きた大火事は、町全体を焼きつくしてしまいました。六代城主の遠藤常友は焦土と化した町の復興を手がけ、小駄良川の上流から水を引き入れ、城下の町並みにそって縦横にはしる水路を建設しました。これは生活用水であると同時に大火を繰り返さないための防火の目的でもありました。道の両側を水路が走るという現在の町の景観の特徴はこの頃の名残りを伝えるものです。そう、そうです、この水のある風景が私のお目当てなのです。
 郡上八幡駅は映画か夢に出てきそうな、三角破風が愛らしい木造の駅舎です。構内には、鉄道に関する資料や物件を展示する小さな博物館になっていました。この路線に対する関係者各位の熱い思いが伝わってきます。
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 さて地図によると中心地はここから歩いて十数分のところにあるようです。残暑酷烈の中、喪家の狗のようにとぼとぼと歩いていくことにしましょう。幸い、案内の標識もあり、迷わずにすみました。通行量の激しい車道を渡ると、中心街へと向かう斜めの直線道路があります。そこに一歩足を踏み入れた瞬間、得も言われぬ既視感を覚えました。この道は歩いたことがある… 歩道も車道もない幅の広い道、町の方々の立ち話、元気そうに商いをしている地元商店、四方を囲む山なみ、そして広くて青い空。高層建築がほとんどないために、上方への視界を遮る無粋な物体がありません。幼い頃によく連れて行ってもらった、母の実家がある群馬県某町の佇まいによく似ているので懐かしさを覚えたのでしょう。もうこれだけで来たかいがあったというもの。「知らなかったよ、空がこんなに青いとは…」と口笛を吹きながら歩いていると、すぐ中心部に入ります。7月中旬から9月上旬にかけて三十二夜(!)にわたって踊られるという何ともはや凄まじい「郡上おどり」の真っ最中なので、何となく街全体が浮き浮きしているようです。とは言っても、観光客であふれているようにも、街のあり方をねじまげてでも観光業に魂を売ったようにも見受けられません。地元の産業と観光業が絶妙のバランスを取っているという印象を受けました。
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 さっそく市民ギャラリー「楽芸館」のそばにある郡上八幡旧庁舎記念館(観光案内所)に行ってパンフレットや地図をもらい、街の構造とこれから歩き回る場所を調べました。地図を見ると、郡上八幡が長良川・吉田川・小駄良川の合流地点にあることがよくわかります。なおこちらでは貸し自転車を借りることができます。さっそく借りて、いざ徘徊の開始。
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 本日の四枚です。
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by sabasaba13 | 2007-11-22 06:09 | 中部 | Comments(0)

飛騨編(1):長良川鉄道(07.8)

 人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり、と幸若舞「敦盛」を踊っていたら、そろそろ人生の半ばを過ぎるのだなあとしみじみと感じ入ってしまいました。散歩の変人などといきがってきましたが、そろそろ初心に戻って正統的な観光地にも行っておきたいな、覇道が好きだけど王道もなめちゃあかんななどと殊勝な考えが浮かび、いくつかの候補地を選んでみました。上高地? 佐渡? 黒部ダム? 屋久島? 熊野古道? うん、やはりここしかない。飛騨高山! そして郡上八幡・白川郷を旅程に組み、さらに飛騨古川という町がなかなかよろしという情報を得て、これで決定です。しかし調べてみたところ、アクセスがなかなか難しい。しかもバスが予約制ということもあり、以下のようなプランをひねりだしました。初日は名古屋から美濃太田へ、ここで長良川鉄道に乗り換えて郡上八幡へ。そして予約したバスで飛騨高山に行き宿泊。二日目は、高山からバス(予約制)で白川郷へ行き、またバスで高山に戻り宿泊。三日目は、高山本線で飛騨古川に行き見物、そして高山に戻り見物。あとは長駆名古屋まで特急、そして新幹線で帰郷という算段です。最終日がちょっときついかなと思いますが、これでやってみましょう。持参した本は「伽藍が白かったとき」(ル・コルビュジエ 岩波文庫)です。実は、飛騨高山が町の再開発をした時にル・コルビュジエがプランナーとして協力し、名誉市民となった、というのは真っ赤な嘘で、たまたま岩波文庫の最新刊として購入したのをバッグにつっこんだだけ。余談ですが、本書と「尾崎放哉句集」を同時に平然と上梓するところにこの出版社の凄みを感じます。でもル・コルビュジエが設計した簡素にして機能美に満ちた家で、「咳をしても一人」とひねるのは、場違いではないような気がします。もしかしたら、彼の俳句の影響を受けていたりして。これは妄想です。

 天気予報によると、この三日間は猛暑になりそうなので帽子は忘れずに。早起きして新幹線に乗り込み、約一時間半で名古屋に到着です。特急に乗り換えて、約40分で美濃太田に着きました。ここで長良川鉄道に乗り換えますが、少し時間があるので駅舎一階にある観光案内所に寄って、関連箇所のパンフレットをもらってきました。駅の連絡通路を歩いていると、町の観光ポスターがありました。へええ、坪内逍遥や津田左右吉はこのあたりが出身だったんだ。さてそろそろ乗り込みましょう。長良川鉄道は一両のみの、絵に描いて額に入れたようなローカル線です。ホームの向こうには転車台がありました。乗客を乗せたままあそこでぐるんぐるん廻ってくれると、結構観光客も集まるのではないかと愚考します。
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 そして出発。「太いうんちがどっさり出た!」という薬局の大きな看板が車窓から見えると、旅に来たのだなあという気分になってきます。私もそんな*の大きな人間になりたい。列車は風光明媚な長良川の左岸あるいは右岸に沿ってのてのてと走っていきます。ぎょっとしたのは、田んぼの中に生首が点々と浮かんでいること。マネキンを利用したものですが、案山子がわりなのでしょう。このあたりの鳥さんたちは、かなりリアルに人間を認識するのでしょうか。途中の「みなみ子宝温泉駅」で多くの乗客(ほとんどがじさまとばさま)が降りましたが、地元民御用達の温泉なのですね、きっと。
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 本日の一枚は、長良川鉄道の車窓からの風景です。
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by sabasaba13 | 2007-11-21 06:12 | 中部 | Comments(0)