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肥前編(7):長崎(07.9)

 本日も天気が良さそうです。朝の散歩で、ホテル近辺をすこし歩いてみることにしました。まずは1897(明治30)年に建造された中町教会へ。原子爆弾によって内部と屋根が崩壊したという解説板がありました。附近には長崎名物チリンチリンアイスの店、機材一式をレンタルしてくれるそうです。そしてサン・ラザロ病院跡、サン・ジョアン教会跡、勝海舟寓居の地という記念碑がある本蓮寺へ。幕府の海軍伝習所伝習生となった海舟が住んでいた地ですね。彼はここで当地の女性梶くまと一男一女をもうけたそうです。
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 そのすぐ近くにあるのは日本二十六聖人殉教地。1597(慶長元)年、6名の外国人と20名の日本人が、豊臣秀吉のキリシタン禁令のため大坂・京都で捕らえられ、この地で処刑されました。1862(文久2)年にローマ教皇がこの26人の殉教者を聖人に列したそうです。幼い三人の像が心に残ります。なお「日本とポルトガル その出会いの歴史(筆者注:『日本史』)をここ長崎の地で書いた」と刻まれたルイス・フロイスの記念碑もありました。
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 さて、できうればモーニング・サービスでもいただきたいのですが、手ごろな喫茶店があるでしょうか。駅に向かう坂道を降りると、その背後には昨夜上った稲佐山がそびえたっています。うろうろしていると、観光案内所の入っているビルに喫茶店がありました。渡りに舟、ここでモーニング・サービスを食してホテルに戻ります。
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 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2008-02-28 04:43 | 九州 | Comments(0)

肥前編(6):稲佐山夜景(07.9)

 さて路線バスに乗って長崎駅へ戻りましょう。そろそろ夕闇が迫ってきました。稲佐山に上って長崎夜景見物としゃれこむことにしました。バスで淵神社に行き、ロープウェーの出発時刻(15分に一本)までしばし附近を散策。へえー、長崎海軍伝習所に派遣された江川太郎左衛門一行が宿泊したのがこのあたりだったんだ。
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 そしてロープウェーに乗り込みます。眼下の斜面に広がる長崎の街、ちょっとギリシアを思い出してしまいます。建物の屋上には貯水槽が目につきますが、水不足対策なのでしょうか。
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 頂上に着き、少し歩くと円筒状の展望台があります。一番上に上ると、そこは360度のパノラマ。長崎市街と長崎港、浦上、長崎湾と日本海をぐるり見渡すことができます。おぼろげながら雲仙も頭をのぞかせていました。残念ながら雲に隠れて落日はみられませんでしたが、雲の隙間から洩れる光が光背のようです。
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 街の灯が完全に灯るまで少し間がありそうなので、展望台のレストランで夕食をとりましょう。平日ということで店内はほとんど空席、いちばん眺望の良い席に座れました。注文はトンカツ+ピラフ+ナポリタンという不思議な組み合わせのトルコライス! なぜトルコ? 三色旗(トリコロール)に見立てたとか、トルコの炊き込みご飯がヒントになったとか、諸説紛々です。ま、美味しければどうでもいいのですが。この店の味は、可もなく不可もなし。
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 さて再び屋上に出ると、眼下は一面の宝石箱! 斜面に連なる灯、湾に映る灯、この変化の妙が長崎の夜景の魅力ですね。函館、神戸とならび日本三大夜景といわれるのも納得です。夜景を撮影するときには三脚が必需であることをやっと学習したので、今回は持参しています。おかげで手ぶれすることなく無事に写真撮影ができました。カメラ付携帯電話で撮影している人もかなりいましたが、ちょっと厳しそう。
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 夜景をたっぷりと堪能し、ロープウェーで淵神社駅に降り、バスで駅前に戻ると、何やら駅構内でけたたましい音が鳴り響いています。何事かと行ってみると、子どもたちによる長崎くんちの実演が行われていました。金管や銅鑼で演奏される中国風音楽にのって、張子の龍が暴れまわるのをしばし見物。そして駅の近くにあるホテルへ。
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 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2008-02-27 06:16 | 九州 | Comments(0)

肥前編(5):軍艦島(07.9)

 船が近づくにつれて、その威容と異形が眼前に迫ってきました。荒波をかぶる切り立った岸壁、廃墟と化した高層ビル群。最盛期の人口は5300人だそうですが、この孤島で暮らし働くとはどういうことなのか、想像を絶します。ここで掘り出された石炭が、日本の産業化と軍事化を支えたのかと思うと、近代世界という荒海にのりだした日本帝国の姿がオーバーラップしました。うねる波を切って船は島を一周。
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 港に戻り、バス停まで車で送ってもらいました。船頭さんの話によると、来年から上陸できるようになり、今遊歩道などの整備を進めているそうです。すわっ、早まったか。なおインターネットで調べたところ、無断で上陸したという記事がけっこうあるのですね。その一つに、島の小学校に下記のようなメッセージが刻まれていたという報告がありました。
たとえ
荒れ果てようとも
朽ち果てようとも
世間から
棄てられた島と言われようとも
ここは私たちの大切な故郷

もとの岩礁の姿に戻るまで
思いはこの島に残りつづけます

だから
荒らさないでください
汚さないでください
盗らないでください

この願いを聴いて下されば
私たちは感謝すると共に
貴方の無事をお祈り致します

端島人一同
 返す言葉もありません。バス停のとなりには、小規模ですが往時の写真が展示してある軍艦島資料館がありました。強制収容所のような環境であったのだろうという先入観をもっていたのですが、写真や解説を見る限りそうではないようです。充実した娯楽施設や電化製品の導入、海底水道の整備など、生産性を最大限にあげるためにかなりの企業努力がなされたようです。そしてモノクロ写真からほとばしるのは、住民の連帯です。危険な坑内作業、狭く隔絶された住環境、それを通して互いに助け合い励まし合いながら働き戦う意識が強く豊かに育まれたのでしょう。猖獗をきわめる市場原理主義(ex.労働者の使い捨て)を信奉する人々が、もっとも恐れるのがこの労働者の連帯と団結だと思います。スーザン・ジョージの「自分が一番したいことはするな。敵がもっとも嫌がることをせよ」という言葉を想起しますが、でもどうやって? それについて本気で考えることが、私たちの喫緊の課題でしょう。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2008-02-26 06:16 | 九州 | Comments(0)

肥前編(4):軍艦島(07.9)

 さて軍艦島クルーズについての情報を集めたところ、やまさ海運による長崎港発のクルーズがありましたが、十五人そろわないとツァーは中止。もう一つは共同(株)によるクルーズでこちらは定期運行です。よって野母崎半島まで行って後者のクルーズに参加することにしました。一日3便(土・日・祝日は4便)で最終は午後三時。一時間に一本ほどしかない路線バスで野母崎に向かおうとしましたが、これがなかなか来ない。十分ほどは鷹揚に待っていましたが定刻を二十分過ぎると安穏としていられません。午後三時の便に乗り遅れたら、予定が大幅に狂ってしまう… 苦渋の決断、韓信の股くぐり、仕方がないタクシーに乗ることにしました。野母崎半島をしばらく南下し海沿いの道路に出ると、おおっ、沖合に軍艦島の異形の輪郭が見えてきました。波がざんざばざばざん岸に打ち寄せいているのは気になりますが、風もないし素晴らしい晴天だし問題ないでしょう。40分ほどで港に到着、出航まであと15分ほどです。さて乗船場は… ない。港には人影すら見当たりません。"そこにはただ風えが吹いているだけええええ"と歌っている場合ではありません。よく見ると、軍艦島クルーズと書いてある小さな船、その前にミニバンが停まっていて男性の方が寝ています。
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 もしやと思い声をかけると、備後! そこがクルーズの受付でした。「軍艦島クルーズをお願いしたいのですが」「やめた方がいいよ」「え?」「今日二回行ってきたけど波が高い」「…」「明日にしたら」「わざわざ東京から来たのですが」「ちょっときびしいねえ」 (約8秒間の沈黙) 「よしっ行こう」「えっ」「せっかく遠いところから来てくれたんだ」 しかし赤銅色に焼けた海の男が逡巡するのですから沖はよほど荒れているのでしょう。舟の揺れに弱い私として少々不安です。「もし揺れがひどいようでしたら途中で引き返してもいいですよ」「まかせなさい」 何をまかせればいいのかよくわかりませんが、出航することに決定。料金は2000円、乗客は私一人。びくびくしていたのですが、軍艦島が近づくとたしかに船は木の葉のように揺れましたが、気分が悪くなるほどではありません。ん? もしや自分は船酔いに強いのでは。思い返せば、短時間ではあるものの、これまでひどい船の揺れは何回か経験してきました。宮古島八重瀬クルーズ石廊崎遊覧船竹富島への高速船。もしかすると、私の三半規管はけっこう鍛えられていたのではないか。何事も経験ですね、自分を包む殻を一枚壊せたようで爽快です。

 さて軍艦島(端島)とは何ぞや。以下、ウィキペディアから引用します。
 19世紀に石炭の存在が発見された。明治時代初期には鍋島氏が経営。1890年から三菱財閥の所有となった。石炭採掘のため周囲を埋め立て、また大正期以降には鉄筋コンクリート造の集合住宅群が建設された。海上から見たそのシルエットが、日本海軍の戦艦「土佐」に似ていることから、軍艦島の通称で呼ばれてきた。戦時中に米軍潜水艦が本物の軍艦と勘違いして魚雷を撃ち込んだというエピソードは有名だが、実際は停泊していた石炭運搬船を狙ったものだった。
 良質な強粘炭が取れ、隣接する高島炭鉱とともに、日本の近代化を支えてきた炭鉱の一つであった。石炭出炭量が最盛期を迎えた1941年には約41万tを出炭。人口が最盛期を迎えた1960年には5,267人の人口がおり、人口密度は世界一を誇り東京特別区部の9倍以上に達した。炭鉱施設・住宅のほか、学校・店舗・病院・寺院・映画館・理髪店などもあり、島内において完結した都市機能を有していた。
 1960年以降は、主要エネルギーの石炭から石油への移行(エネルギー革命)により衰退。1965年に新坑が開発され一時期は持ち直したが、1970年代以降のエネルギー政策の影響を受けて1974年1月15日に閉山した。閉山時に約2,000人まで減っていた住民は4月20日までに全て島を離れ、無人島となった。この時期は、日本の高度経済成長の終焉と重なる。
 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2008-02-25 06:07 | 九州 | Comments(2)

肥前編(3):長崎(07.9)

 終点の蛍茶屋からさらに先に行くとお目当ての高部ダムがあるはずです。しかし高架道路が複雑にからみあい、見つけることができません。うろうろしたあげく、やっとトンネルの手前で発見しました。この間、ほとんどが坂道なので、電動自転車を借りられてほんとうに助かりました。
 ここでちょっとダムについてのお勉強。近代ダムには三つのタイプがあり、重力式ダム・アーチ式ダム・バットレス式ダム。重力式は土やコンクリートで堤防をつくり水をせきとめる、アーチ式はアーチの作用で水圧に対抗する、バットレス式は斜壁を背後から鉄筋コンクリート製の柱と梁で支えるというものです。この本河内高部ダムは、もっとも初期の重力式ダム。1885(明治18)年、長崎でコレラが猛威をふるい、これに対して長崎在住の外国人たちが上水道施設の建設を訴えます。これを日本人の手でつくろうと、長崎市・国は吉村長策(工部大学校助教授)に設計を依頼、彼は職をなげうって長崎にやってきます。そして外国の参考書をひもときながら独力で図面を書き上げたのが、この水道用重力式アーチダム・本河内高部ダムです。その完成度の高さにはお雇い外国人も驚愕したとか。いわば近代水道の記念碑的な作品ですね。そう、作品と呼びたくなるような、緑の芝生に覆われた柔和な表情のダムです。が、残念ながら立入禁止。金網越しに見ることしかできません。これはぜひ公開を望みます。なお吉村長策が設計した重力式コンクリートダム・布引五本松ダムが神戸にあるので、こちらもいつか見てみたいですね。現役で神戸の人たちに美味しく安全な水を提供し、しかも阪神淡路大地震でもほとんど損壊はなかったそうです。利権のためではなく、市民のためにという高い志をもってつくられ、しかも丈夫なダム、そんなダムだったら大歓迎なのですけれど。
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 さて駅に戻りましょう。途中に、原子爆弾投下後に救護所となった伊良林国民学校についての解説プレートを見かけました。現在では伊良林小学校となっており、二宮金次郎像も残されています。
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 しばらく走ると眼鏡橋。1634(寛永11)年に興福寺住職・黙子如定が架設した日本最古のアーチ型石橋です。風もないので、きれいな眼鏡の形を川面に映していました。その隣の袋橋のたもとには「上野彦馬生誕地」という記念碑があります。上野彦馬、下岡蓮杖とならぶ日本における写真術の開祖、広瀬淡窓に漢学を、ポンペに化学を、ロッシュに写真術を学び、1862(文久2)年に日本初のプロカメラマンとして長崎に撮影局を開きました。坂本龍馬の有名な写真は彼が撮影したものですね。
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 長崎駅で自転車を返却し、いよいよ軍艦島へと向かいましょう。駅前交番には「家出人相談所」という看板がかけられていました。このあたりでは、かなり多いのでしょうか。歩道橋には「人混みでの喫煙」禁止という表示があります。人様に迷惑をかけない限り喫煙を許容する、うん、これは真っ当な感覚だ。いいぞ、長崎市。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2008-02-24 06:48 | 九州 | Comments(3)

肥前編(2):長崎(07.9)

 それでは出発、まずめざすは小菅そろばんドックです。途中に出島跡がありましたが、ずいぶん復元が進んでいるようですね。時間がないので見物はしませんでしたが、うすっぺらくてしょぼいテーマ・パークにしないで異文化との交流を学べる施設としての完成を期待します。南山手を通り過ぎてしばらく南下すると、小菅町に到着。トンネルのすぐ手前にあるのが小菅修船場跡、通称そろばんドックです。
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 五代友厚が小松帯刀・グラバーの協力を得て建設した洋式スリップ・ドックで、1868(明治元)年竣工。海からの斜路があり、船をウインチで陸に巻き上げて修理をするという素朴な愛らしいドックです。その石製のレールが摩擦をへらすためにソロバン状になっているのが名前の由来です。その巻上げウインチが格納されている小屋の煉瓦はフランス積、たしかここと富岡製糸場猿島要塞と米海軍横須賀基地内倉庫だけだったという記憶があります。おまけに非常に扁平ないわゆる「こんにゃく煉瓦」が使用されています。この類例はほとんどないようで、日本最古の赤煉瓦造りではないかと言われています。
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 そして旧香港上海銀行長崎支店、長崎市べっ甲工芸館、旧長崎英国領事館の前を走りぬけ、旧唐人屋敷へ。金銀銅流出の防止と密貿易取締りのため、江戸幕府は1689(元禄2)年に中国人商人をここに隔離し厳重に警戒をしました。敷地は出島の二倍、周囲を塀・竹垣で囲っていたようです。今では往時の面影はありませんが、土神堂、観音堂、天后堂、福建会館が復元されています。
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 新地中華街の脇を走り抜け、住宅地の間を北へ走っていると、シーボルトの娘・楠本イネの墓という表示がありました。そういえば、愛媛県宇和町で、シーボルトの高弟・二宮敬作と彼に師事していた初の女性婦人科医・楠本イネに関する展示を見ましたっけ。こんなところで再会できるとは。しかし時間がないので訪問は断念。すぐ近くには亀山社中跡が小高い岡の上にあるそうです。坂本龍馬が1865(慶応元)年につくった日本初の貿易商社ですね。そして新長崎通りに出て、しばらく市電と並走。健康と安全のため、地球温暖化防止のため、車社会からの脱却が喫緊の課題だと思いますが、その有効な方策の一つが路面電車にあると思います。これまで訪れた市電のある街は、函館、札幌、富山高岡福井、広島、岡山、熊本ですが、いずれも心に残る街でした。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2008-02-23 06:13 | 九州 | Comments(0)

肥前編(1):長崎(07.9)

遠い太鼓に誘われて
私は長い旅に出た
古い外套に身を包み
すべてを後に残して
              (トルコの古い唄)
 「遠い太鼓」(村上春樹 講談社文庫)の冒頭に載っていた一文です。昨年の9月に五連休がとれることになり、私の耳に"どっどっどっ どっどーどずどど"と「アトムの子」(山下達郎)の冒頭に聴こえてくるような太鼓の音が鳴り響きました。別段すべてを置き去りにする長い旅ではありませぬが、その高揚した気持ちに変わりはありません。さて太鼓の音は鎮西の方から鳴り響いてきます。お手製の「遠くへ行きたい」リストを紐解いてみると、長崎県を中心に興味深い物件が多々あるので、今回は肥前彷徨としゃれこみましょう。近代化遺産として長崎の軍艦島・高部ダム・小菅そろばんドック・筑後川の昇開橋、戦争遺産として川棚の魚雷発射試験場・針尾通信塔・伊万里の川南造船所、谷水・日向・鬼木・土谷の棚田、史跡は原城跡、素敵な町は島原・大村・筑後吉井、観光名所は稲佐山からの夜景・九十九島、税金の無駄遣いは諫早湾干拓・佐世保の米軍基地。うん、これは面白そうだ。時刻表で調べると何とか移動も可能なようです。なお持参した本は「お節介なアメリカ」(チョムスキー ちくま新書676)。

 好月好日、早朝に羽田空港からANAで長崎空港へと向かいます。天気予報によると、この五日間はおおむね晴れ模様。もっとも心配していた台風の直撃はなさそうです。大村湾に浮かぶ島を利用してつくられた長崎空港に到着すると、長崎の角煮まんじゅうや、雲仙の養々麺の広告が眼に飛び込んできました。今回は宮本常一氏ご尊父の言葉に従い、ご当地の名物を食べ歩くつもりなので、つばをつけておきましょう。
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 ここから長崎市内へ向かうバスに乗り、一時間弱で到着。まずは定石・定番、駅前ビル二階にある観光案内所に行きましょう。これから行くところのパンフレットをしこたまいただき、ついでに諫早湾潮受堤防がよく見えるポイントを教えてもらいましょう。ところが、(当然ですが)そのような質問に戸惑い、返答不能。係の女性は島原鉄道や諫早市役所にまで電話をかけまくり、調べてくれたのでした。これは旅行者にとってほんとうにありがたいことです、多謝。そして長崎駅へ。以前に、JR横須賀駅が階段なしで直接ホームに行ける駅として有名だと書きましたが、この駅もそうでした。「みどりの窓口」に行って自転車のレンタルを申し込み、駅前にあるレンタ・カー事務所で電動自転車を借り受けました。坂道が多い長崎だけに、これは助かります。
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by sabasaba13 | 2008-02-22 06:10 | 九州 | Comments(0)

「「テロリスト」がアメリカを憎む理由」

 「「テロリスト」がアメリカを憎む理由」(芝生瑞和 毎日新聞社)読了。パレスチナ問題に詳しいジャーナリストである著者が、なぜ9.11が起こされたかについて分析したのが本書です。その核心にあるアメリカに対するムスリムの憎悪について平明な文章で解説した、格好の入門書。この問題に興味がある方にお薦めです。なおタイトルで、テロリストに括弧がついているのは、公平であろうとする著者の姿勢のためです。たとえばロイター通信のステファン・ジュークスは次のような通達を記者に出しています。
 ある人にとっての『テロリスト』は、他の人にとっては『自由の戦士』だ、ということをわれわれはみな知っており、ロイターでは、テロリストという言葉を使わないという原則を崩さないことにした。
 この言葉が敵対する勢力にはりつけるレッテルとして氾濫している現状では、見識ある態度だと思います。レッテルで事態を単純化するのではなく、やはり複雑で多様な現実を直視すべきですね。
 さてアメリカ政府がこの事件の首謀者を見なしているビンラディンはなぜアメリカを憎むのか。氏の分析では、第一にパレスチナ問題においてアメリカがイスラエルを一貫してバックアップしてきたこと。第二に、彼の故国、サウジアラビアにおけるアメリカ軍の駐留。第三にアメリカが利己的な理由からアラブの腐敗した権力を支えているということ。そしてその背後には、米国製の武器で数万人のパレスチナ人やレバノンのイスラム教徒が殺されてきたことへの、ムスリムの怒りと憎悪があります。こうした事実に気づかない多くのアメリカ国民がいることが、憎悪の連鎖につながっていると思います。
 さあそれでは、われわれはどうすればよいのか。無邪気に「対テロ戦争」に参加、あるいは傍観しているだけではこの連鎖は断ち切れないでしょう。もちろん即効策はありませんが、少なくとも事実を直視し考える必要があるでしょう。今、日本社会にしのびよっている監視社会化と管理強化は決してこの問題と関係がないわけではないですしね。
 なお著者が引用されている、スーザン・ソンタグの素晴らしい言葉を紹介します。
 悲しみを共有しようではないか。しかし、愚かさを共有するのはやめよう。歴史を少しでも知ることが、何が起こったかも、これから起こるだろうことも、理解させてくれるかもしれない。

by sabasaba13 | 2008-02-21 06:09 | | Comments(0)

だまたべ:しらすふりかけ

c0051620_645334.jpg 「だまたべ(騙されたと思って、食べてみて)」コーナーです。本日は山ノ神の得意な料理を紹介します。メモの用意はよろしいでしょうか。

 用意するもの:しらすぼし(適量)・ゴマ(適量)・青海苔(適量)
 料理方法:上記の三つを混ぜる

 「なめとんのかこらあ」と怒らないでください。あつあつのご飯にかけて、ちょっと醤油をたらして、一心不乱にかきこめばこの世は天国さっ! 鼻腔をやさしくくすぐる香り、味蕾を力強くキックする味、そして栄養も満点。満足度÷手間ひまで数値を出すと、かなりの高得点になるはずです。これこそ「だまたべ」にふさわしいと、満を持して紹介します。我が家では「しらふり」と称して、胃や空腹の枕詞として使っております。

  しらふりの胃のひしゃげたる冬の夜の飯は静かに喰ふべかりけり
by sabasaba13 | 2008-02-20 06:05 | 鶏肋 | Comments(0)

「日本人と戦争責任」

 「日本人と戦争責任 元戦艦武蔵乗組員の「遺書」を読んで考える」(斎藤貴男・森達也 高文研)読了。渡辺清氏のことは何冊かの本を読んで知る機会がありました。海軍に志願し戦艦武蔵乗組員として九死に一生を得、その体験をもとに戦争や天皇制に対する痛烈にして徹底的な分析と批判をなされてきた方です。たしか「砕かれた神」(岩波現代文庫)を購入したはずなのに行方不明、今捜索中です。さてその彼の「遺書」をもとに、斎藤貴男・森達也両氏がアジア・太平洋戦争についての対談を記録したのが本書。渡辺氏の主張の核心は、戦争は終わったが、戦後は終わっていないという点に尽きると思います。要するに、戦死者の巨大な空白と沈黙から何かを学び取りそれを十全に生かすことによって真の意味で戦後は終わる、しかしわれわれはそれを果たしていないということでしょう。言い換えると、あの無謀にして愚劣な戦争の仕組みと構造をしっかりと分析し、責任の所在を明らかにし、そして二度と繰り返さないように最善の努力をすること。
 この彼の遺志を受け継いで、斎藤・森両氏は歯に衣着せず語り合います。「戦中派」世代の経験の継受、天皇制、政治家や官僚を縛る憲法の必要性、「靖国」問題、底なしの無責任感覚、思考を停止させるための様々な装置、他人を見下す人間の心性、メディアの「わかりやすさ症候群」、など論点は多岐にわたりますが、基本的にあの戦争を起こしたシステムや心性は変わっていないという結論です。中でも語りのはしばしからあふれてくるのは、主体性の欠如という問題です。「自分の頭で考えて、行動すること」、その欠落があの戦争を支え、そして今でもわれわれは確立することができないでいる。これに関しては竹内好氏の臓腑を抉るような言葉が紹介されています。
 こうした主体性の欠如は、自己が自己自身でないことからきている。自己が自己自身でないのは、自己自身であることを放棄したからだ。つまり抵抗を放棄したからだ。…放棄したことは、日本文化の優秀さのあらわれである。(だから日本文化の優秀さは、ドレイとしての優秀さ、ダラクの方向における優秀さだ。)…

 日本文化では、伝統のなかに独立の体験をもたないのではないか、そのために独立という状態が実感として感じられないのではないか、と私は思う。外からくるものを苦痛として抵抗において受け取ったことは一度もないのではないか。自由の味を知らぬものは、自由であるという暗示だけで満足する。ドレイはドレイでないと思うことでドレイである。
 平和のための核武装というスローガンが平然と選挙公約に掲げられる昨今、渡辺・斎藤・森氏の言葉に耳を傾けてみませんか。一度酷い目に会ったら、そして他者を酷い目に会わせたら、いいかげんに懲りましょうよ。

 追記。渡辺氏の言葉です。
 変な言い方ですが、ほんとのおそろしい敵は日本人でしたね。それはぼくらの身近にいる兵長であり、下士官であり、士官だった。いわば味方の中の敵、その敵のほうがほんとうにこわかったですね。とにかく軍隊におけるほんとのおそろしい敵は日本兵だった。アメリカは抽象的な敵だった。目に見えないものですから…
 こうした視点には気づきもしませんでした。沖縄戦で沖縄の人々が体験した事態であることは知っていましたが、軍隊内部でもお互いが恐るべき敵であったという経験者が語る事実。アジア・太平洋戦争の本質を考える上でも重要な視点だと思います。
by sabasaba13 | 2008-02-19 06:08 | | Comments(2)