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肥前編(19):川棚~日向の棚田(07.9)

 ここから車で十分ほど行ったところ、小串野駅のそばには「特攻殉国の碑」があります。碑文によると、戦時中に魚雷艇訓練所があった場所です。さらに震洋特別攻撃隊・伏竜特別攻撃隊の練成も行っていました。前者は爆弾を装着した小型高速艇による体当たり(筆者注:作家の故島尾敏雄氏もここで訓練されたとのこと)、後者は単身潜水して水中から攻撃する特攻、いずれも自爆攻撃ですね。この他にも人間魚雷「回天」乗組員の訓練もここで行われたようです。碑文の最後は、「今日焼土から蘇生した日本の復興と平和の姿を見るとき、これひとえに卿等殉国の英霊の加護によるものと我等は景仰する」という、あまりにも無邪気な一文でしめくくられています。戦死者の思いがどのようなものか確認できっこないのですから、当然生き残った者が自分の思いを投影することになります。この碑文を選んだ方々は、彼らが日本を"加護"(神仏が慈悲の力を加えて助け守る)している、つまり自分に死を強いた責任の所在は不問にして日本を守り続けていると思いたいのですね。でもその日本って何? 故郷、家族や友人、列島の自然とそこに住む人々、天皇制、戦前とかなりの部分で連続する政治システム、いろいろな内実があるはずなのに、それを十把一絡にするのはあまりにも無邪気すぎるし事態を曖昧にしようとする悪意さえ感じます。私が戦死者だったら、つまり私が投影する思いは、こうですね。故郷、家族や友人、列島の自然とそこに住む人々を守り続けたい、と同時に自分に無意味な死を強いた責任者、政治・社会システムを憎悪し続けたい。そして前者が後者を許容しているのであれば、日本をまるごと憎悪したい。死者に語らせるのはいいかげんにやめて、生者がきちんと語るべきだと思います。
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 さて川棚駅方面に戻り、次は日向の棚田をめざします。途中の坂道から対岸にある三本の巨塔がちらと見えました。針尾の送信塔だっ! こんなに近いところにあったのか… 予定では明日、佐世保から行くことにしていたのですが予定変更。今日、ハウステンボス駅で下りて寄ってみることにしましょう。そして駅方面へと戻りますが、途中に「キリシタン絵踏跡」がありました。この地のキリシタン摘発は過酷をきわめたのでしょう。街中にある常在寺には、「郡崩れ」による破却をまぬかれたキリシタン墓碑がありました。ここは川棚の町並み、大村湾を一望できる絶好のビュー・ポイントでもあります。
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 そして川に沿って虚空蔵山へと向かいます。途中の山腹には、防空壕の入り口が点々と連なっていました。運転手さんによると、空襲を避けるために移転された海軍工廠の地下工場だそうです。
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 やがて車は、谷の斜面に建てられている集落の間を走り抜けていきます。そして細長い谷の斜面を埋め尽くすかのように棚田群が、じょじょに姿をあらわしました。これは圧巻。地域の未来を明るくするための、血と汗のにじむ、しかし楽観的な努力を目の当たりにした思いです。ところどころに「ダム建設反対」というポスターや幟があったので運転手さんに訊ねると、何十年も前からあるダム建設計画が地元の反対でいまだ着工できないということでした。現長崎県知事の強硬な姿勢が、さらに反発をよんでいるそうです。長崎市本河内高部ダムのように、ほんとうに地元住民のためという高い志があるのだったら反対も起きないのにね。
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 本日の二枚は、常在寺からの眺望と日向の棚田です。
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by sabasaba13 | 2008-03-28 06:20 | 九州 | Comments(0)

肥前編(18):川棚(07.9)

 大村駅から大村線で川棚に向かいます。その先にハウステンボスがあるので、車内はけっこう混み合っていました。左手に大村湾を眺めながら約25分で川棚駅に到着、ここでのお目当ては魚雷発射試験場跡をはじめとする戦争遺跡と、日向・鬼木の棚田、やきものの里・波佐見です。駅周辺には観光案内所も貸し自転車もなし、これは確信していました。長崎の観光案内所でパンフレットをもらっておいてよかった。駅前食堂でお魚定食をいただきながら、行程を確認しました。どう考えても路線バスでは回りきれません、よってタクシーを3時間貸切にしてもらいましょう。
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 幸い、駅前にタクシーの営業所があったのでさっそくお願いしました。まずは駅の近くにある川棚海軍工廠跡へ。戦争当時、日本一の水雷工場といわれ、雷撃機に搭載する九一式航空魚雷を生産していました。今は普通の工場となっており、解説板が残るのみです。運転手さんがすぐそばに珍しいものがあるというので、連れていってもらいました。海沿いの立入禁止区域の中に、円錐形屋根+円筒形家屋のコンクリート製物件がポコンと建っていました。このあたりは高射砲が設置されていたということなので、おそらく測距のための施設でしょう。
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 そして車で十分ほど行ったところにある片島魚雷発射試験場跡へ。さきほどの海軍工廠で生産した魚雷を発射試験し、島の頂上にある観測所から観測して性能をチェックしていたところです。海ぞいに倉庫らしき廃墟があり、そこからL字型の桟橋が海へとのびています。そこにはレール跡がはっきりと残っていました。曲がった突き当りにはこれも廃墟となった三階建ての細長いコンクリート製建物、おそらく観測所ですね。その脇は、開閉扉用の溝がついた小さなドックになっており、ここから魚雷を発射したことがわかります。その少し先の海中には、廃墟となった観測所がありました。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2008-03-27 06:13 | 九州 | Comments(0)

肥前編(17):大村(07.9)

 まずは小姓小路武家屋敷街に行ってみましょう。大村牢跡の前を通り左折すると、おおっ、正面に石垣と木々が両サイドに連なる武家屋敷街が見えます。が、しかし、大村線の線路が無情にも走り、踏切もありません。簡単にすり抜けられる柵があるのですが、当然の如く「線路内立入禁止」の看板。遠回りするのもめんどくさいなあと逡巡していると、買い物籠をさげた老婦人が線路の向こうからすたすたとやってきて、平然と線路を横切り、にこっと笑いながら「こんにちは」と挨拶をしてくれました。これは大村市民89,266人を代表して彼女が啓示してくれた、「こんなもの無視していいの」というメッセージだと見た。さっそく、ルールは守ろうルールは守ろうルールは守ろうルールは守ろうルールは守ろうルールは守ろうルールは守ろうルールは守ろうして、小姓小路に到着。幅広い道の両側に延々と連なる重厚な石垣、その上部にはきちんと剪定された屋敷林。これは見事です。
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 そして1865(慶応元)年に建てられ、最も保存状態のよい中尾元締役屋敷へ。海石を漆喰で固めた五色塀がきれいに残っています。これをつくるのは楽しそう、やってみたいものです。その前にある踏切の向こうに記念碑らしき物件が見えたのでさっそく行ってみると「動員学徒之碑」でした。太平洋戦争期に、大村中学校の生徒が大村海軍航空廠に学徒動員され、空襲により5名がなくなったそうです。
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 岩船・本小路武家屋敷街は往時の面影はあまり残っていません。そして上小路へ。こちらは石垣がつづく緩やかな坂道となっています。中には石垣+白漆喰+瓦屋根を組み合わせた立派な物件もありました。
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 次は旧円融寺庭園(現大村護国神社)、境内奥の斜面に、江戸初期の様式でつくられた枯山水庭園が残されています。その前に並ぶ23基の墓碑は、戊辰戦争による戦没者のもの。
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 ここ草場小路にも見事な五色塀が残されていました。
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 さあ歩いて駅に戻りましょう。途中で二枚ほど裁判員制度に関心を持ってもらおうとするポスターを見かけました。2009年までに政府が遮二無二実施しようとしているこの胡散臭い制度の問題点については、「裁判員制度の正体」(西野喜一 講談社現代新書)をご一読ください。必然性がなく、憲法に違反し、手抜き審理が横行する可能性があり、真相追及が図られなくなる恐れがあり、被告人・被害者にとって辛く苦しいもので、費用がかかり過ぎ、国民の負担が大きく、戦前の国家総動員につながる思想をはらんだ、あまりにも問題が多すぎる制度だと批判されています。読んだ限りでは荒唐無稽な指摘はないですね。ただ、現行の裁判制度を手放しで礼賛するような記述がひっかかりました。裁判員制度ほどではありませんが、こちらも多くの問題点をかかえていると思いますが。「愉快な裁判官」(寺西和史 河出書房新社)が大いに参考になります。
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 本日の四枚、上から小姓小路、中尾元締役屋敷、上小路、五色塀です。
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by sabasaba13 | 2008-03-26 06:09 | 九州 | Comments(0)

肥前編(16):大村(07.9)

 城の敷地内に観光案内所があったのでちょっと寄り、パンフレット類をもらいましたが、使い勝手のよい観光地図はありませんでした。やれやれ、行き当たりばったりに歩くしかないか。近くの公衆便所をふと見ると、「宿泊は違法です 深夜パトロール実施中 発見次第警察に通報します」という貼り紙。ネットカフェ難民の次は公衆便所難民か、いよいよもって日本は「島原の乱前夜」なのかなという感を強くしました。さらに強烈な一枚が、大村小学校の塀に貼ってありました。「あの人は何か変だぞ110番 大村小学校子宝見守り隊」 あわわわわわわわわわ、変人を自称する私は、通報されてはたまらんとすぐにそこから立ち去りました。大村観光に来ているのですから、何か変と言われても返す言葉がありません。しかしこの表現には禍々しいものを感じます。ま、バールのようなものを持ちローラー・ブレードを履いた素っ裸の人が「悪い子はいねが!」と叫んでいたら、この地の民俗行事でないのを確認した上で警察に通報しますけれどね。しかし"何か"という留保は何を意味するのでしょう? 多数派と違う思想や行動や嗜好を異物として芟除しようとする心性が蔓延しているのでなければいいのですが。いやしてるな。「あいつは朝青龍と亀田親子を弁護してるぞ、110番!」「あいつは核(原子力)発電所に疑念をもってるぞ、110番!」「あいつは沢尻エリカを知らないぞ、110番!」「あいつは徴兵制に反対しているぞ、110番!」という囁きがすぐそのへんから聴こえてきます。さわさわ いっそのこと、「あの人は非国民だぞ110番」にすれば、いかに危険な標語かわかりやすいのにね。いよいよもって日本は「大東亜戦争前夜」なのかなという感も強くしました。どちらが先に起きるのかな。民衆の反乱を起こさせないために戦争をはじめるというパターンが、過去の歴史ではよく見られますが。
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 大村小学校の裏手には、藩校・五教館の藩主出入り用の御成門が残されていました。今でも、入学式・卒業式の時だけ開門するそうです。隣には大村出身の教育者にして女性教育・障害児教育に心血を注いだ石井筆子の胸像があります。そしてラッキー、そのわきには、正確にして詳細な観光地図の掲示板がありました。さっそくデジタル・カメラにおさめ利用させてもらいましょう。これによると、大村には日向平・小姓小路・本小路・岩船・上小路・草場小路、計六つの武家屋敷街があるようです。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2008-03-25 06:08 | 九州 | Comments(0)

肥前編(15):大村(07.9)

 本日は大村と川棚を徘徊して、佐世保に移動します。諫早駅からJR大村線に乗って十分強で大村に到着。994(正暦5)年、藤原(大村)直澄が久原城に入部して以来、約1000年の歴史を有する大村藩2万8000石の城下町です。これだけの長期間、領主が変わらなかった城下町はきわめて珍しいとのこと。そして何といっても、1563(永禄6)年に受洗した日本で最初のキリシタン大名・大村純忠の名が思い出されます。ポルトガル船と宣教師のために長崎を開き、天正遣欧使節の少年たちを派遣したのも彼でした。やがてキリシタン禁制の世になると、「郡崩れ」と呼ばれる潜伏キリシタン発覚事件し、406人の殉教者を出したのもこの地です。目立った観光地ではないのですが、趣のある武家屋敷街があるという情報を入手したので寄ってみることにしました。下車すると、当然の如く観光案内所も貸し自転車もなし、ま、これは想定済み。駅員に観光地図を所望したところ、「ない」というお返事。ん、これも想定内。持参した大雑把な地図のコピーと、デジタル・カメラで撮影した駅前に掲示されていた地図と、研ぎ澄まされた方向感覚と、「散歩の変人」としての矜持が頼りです。と大仰なことを言いましたが、あっさりと散策の中心となる玖島城にたどりつきました。途中で目についたのが、懐かしいコンクリート製ゴミ箱。幼少の頃、わが町でよく見かけたものですが、いまだ現役で頑張っています。
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 城の近くにある大村市役所には「本日開催中 大村競艇」という垂れ幕がさがっていました。そういえば、大村は競艇発祥の地なのですね(1952)。城跡に入ると、大村出身で近代公園設計の先駆者・長岡安平の記念碑がありました。札幌中島公園、秋田千秋公園、そしてここ大村公園などが代表作とのことです。
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 天守閣は復元されておらず、本丸のあたりは神社になっていました。近くには「戊辰戦役記念碑」があります。新政府軍に加わった大村藩が、上野戦争(対彰義隊)・会津戦争などに従軍して勲功をたてたことを誇らしげに語っています。その隣には「少年鼓手 浜田謹吾」の碑がありました。戊辰戦争・刈和野の戦いで戦死した15歳の浜田少年を顕彰する碑ですが、その死に対してご母堂は次のような歌をのこしたそうです。「双葉より手くれ水くれ待つ花の君がみために咲けやこのとき」 軍国の母はもう存在していたのですね。でも手塩にかけて育てた息子が天皇のために戦死して本望だと、本当にそう思います、お母さん?
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2008-03-24 06:07 | 九州 | Comments(0)

「自由の牢獄」

 「自由の牢獄」(ミヒャエル・エンデ 田村都志夫訳 岩波現代文庫)読了。氏の作品は『モモ』と『はてしない物語』しか読んでおりません。とても良き読者とは言えないのですが、人間存在を脅かす邪悪なるものとの戦いを描いた前者は大好きな作品で、時々読み返したくなります。たまたま書店で見かけて購入した本書は、氏の晩年の短編小説を収録したものです。何とも言えず不思議な味わいの小説ばかりで、あっという間に読み終えました。莫大な資産をもつ冷徹な男が一枚の絵に心を奪われ、そこに描かれた場所を捜し求める『遠い旅路の目的地』。魔術師にして建築家のボロメオ・コルミがつくった摩訶不思議な歩廊を描く『ボロメオ・コルミの通廊』。この小説を読んだ読者が、子供時代に出会った外壁のみで内部のない小屋を思い出す『郊外の家』。何人でも乗り込むことができ、さらには内部にガレージさえある車を描く『ちょっと小さいのはたしかですが』。影の民を支配するミスライム(なぐさめ女史)とある男との闘いを描く『ミスライムのカタコンベ』。砂漠の中につくられた完璧な都市の調査に旅立つ『夢世界の旅人マックス・ムトの手記』。神を冒涜して盲目の乞食となった人物が経験した『自由の牢獄』とは? 手品師ヒエロニムス・ホルンライバー、別名マット、別名アタナシオ・ダルカーナ伯爵、別名インディカヴィアの生涯を描く『道しるべの伝説』。
 中でも、『ミスライムのカタコンベ』と『道しるべの伝説』の二作がお気に入りです。まずは『ミスライムのカタコンベ』から引用します。
 あの忌まわしい薬を影の民に与えると、すべて忘れてしまう。そうとも、みんなは虜囚であることすら忘れる。これまでいつも影の民だったわけではないことも忘れる。ミスライムのカタコンベの外側に別の世界が存在することも忘れる。影の民は昔そこからやって来たのだ。以前も以後もみんな忘れる。問いかけやあこがれもすっかり忘れるのだ。おお、そうだとも、みんなは現状に満足している。思い出がなく、比べることができないのだからな。みんなに残されているのは個々の瞬間だけなんだ。奴隷状態以外を知らぬ奴隷はおとなしい奴隷だ。俘虜生活しか知らぬ俘虜は自由がないことに苦しまない。これこそが、なぐさめ女史が与える救いの方法なのだ。

 「それで、もし影の民がこの忌まわしい薬をもらうことをやめれば…」とイヴリィはかすれた声で言った。
 「そう」老人はほとんど消え入りそうな声をかろうじてしぼり出した。「みんなひどく苦しみだすだろう。思い出しはじめるから…、だが、ミスライムから脱出する道はそのほかにはない。だからおまえはみんなを苦しませなければならない。全部破壊するんだ…行け、壊せ、早く壊すんだ!」
 これは問いかけ=批判精神やあこがれ=理想や希望を忘れさせるための忌まわしい薬が満ち満ちている今の日本のメタファーとして読めますね。携帯電話、ファミコン、TV、ファッションなどによって個々の瞬間だけが与えられ、現状を批判し理想を掲げる視座を持たない私たち…。そして今、若者が追い込まれている苛酷な労働条件は、奴隷状態以外を知らない奴隷、おとなしく自由がないことを苦しまない人間にしてしまうための自民党・官僚・財界の戦略ではないかな。中年層にこんなことをしたら社会不安が起こるでしょうが、人生経験の少ない若者だったらすぐに慣れ、三十年後には全世代を奴隷・俘虜にできますから。なお、フランス政府も同様の政策を強行しようとしましたが、周知のように若者の猛反対でぽしゃりました。
 そして『道しるべの伝説』からの引用です。
「…一体この世には何の意義があるんですか」
「知るものか。それに関心もない。意義などなくとも、わしは生きてゆける。…わしは偶然この世に生を受け、また偶然この世から去っていく。その間に手品遊びをする時間が少々ある。金持ちになりたい者もいれば、権力を得たいと思う者や幸せをさがす者もいる。知らぬ者は幻想をいだき、知る者は他の者の幻想をつくる。これが違いだ! ひとつだけ言っておこう。希望や良心なんぞはないほうが生きやすいぞ。さあ、捨てるがよい」

 この日々を通じて、ヒエロニムスはあるひとつの心象ができていった。人間とは天と地を結ぶ、かぎりなく長いくさりだという心象である。このくさりの一つひとつの環はそれだけでは意味がなく、ほかの環とつながることで、くさり全体の役に立つ。そして、高みにある環も低みのそれに優るわけではない。その場所がどこであろうと、同じように重要だ。
 上はヒエロニムスが師事した手品の師匠の言葉です。全世界が陥りつつある、生・他者・未来に対する無関心への鋭い警鐘! 「希望や良心なんぞはないほうが生きやすい」世界、臓腑を抉られ切り刻まれるような言葉です。それに対置される美しい言葉が印象的です。「ほかの環とつながることで、くさり全体の役に立つ」世界。著者の白鳥の歌として、しかと受け止めたいと思います。

 追記。個人的に収集している「いい言葉」コレクションを検索してみたら、ミヒャエル・エンデ氏のものが三つありました。紹介します。なお一番上は出典が未詳、下の二つは『モモ』からの引用です。われわれ人類を脅かす三つの邪悪、金と有用性と無気力…
 ある人が西暦元年に1マルク預金したとして、それを年5%の複利で計算すると現在その人は太陽と同じ大きさの金塊を4個分所有することになる。一方、別の人が、西暦元年から毎日8時間働き続けたとする。彼の財産はどれくらいになるか。驚いたことに、1.5gの金の延べ棒一本にすぎないのだ。この大きな差額の勘定書は、いったいだれが払っているのか。

 みんなはそれぞれの住む地区にしたがって、べつべつに<子どもの家>にほうりこまれました。こういうところでなにかじぶんで遊びを工夫することなど、もちろん許されるはずもありません。遊びをきめるのは監督の大人で、しかもその遊びときたら、なにか役に立つことをおぼえさせるためのものばかりです。こうして子どもたちは、ほかのあることを忘れてゆきました。ほかのあること、つまりそれは、たのしいと思うこと、むちゅうになること、夢見ることです。しだいしだいに子どもたちは、小さな時間貯蓄家といった顔つきになってきました。やれと命じられたことを、いやいやながら、おもしろくもなさそうに、ふくれっつらでやります。そしてじぶんたちの好きなようにしていいと言われると、こんどはなにをしたらいいか、ぜんぜんわからないのです。たったひとつだけ子どもたちがまだやれたことはといえば、さわぐことでした。-でもそれはもちろん、ほがらかにはしゃぐのではなく、腹だちまぎれの、とげとげしいさわぎでした。
 「そんなことがおもしろいの?」とモモは、いぶかしそうにききました。
 「そんなことは問題じゃないのよ。」と、マリアはおどおどして言いました。
 「それは口にしちゃいけないことなの。」
 「じゃ、なにがいったい問題なの?」
 「将来の役に立つってことさ。」とパオロがこたえました。

 「はじめのうちは気がつかないていどだが、ある日きゅうに、なにもする気がしなくなってしまう。なにについても関心が持てなくなり、なにをしてもおもしろくない。だがこの無気力はそのうちに消えるどころか、すこしずつはげしくなってゆく。日ごとに、週をかさねるごとに、ひどくなるのだ。気分はますますゆううつになり、心の中はますますからっぽになり、じぶんにたいしても、世の中にたいしても、不満がつのってくる。そのうちにこういう感情さえなくなって、およそ何も感じなくなってしまう。なにもかも灰色で、どうでもよくなり、世の中はすっかりとおのいてしまって、じぶんとはなんのかかわりもないと思えてくる。怒ることもなければ、感激することもなく、よろこぶことも悲しむこともできなくなり、笑うことも泣くこともわすれてしまう。そうなると心の中はひえきって、もう人も物もいっさい愛することができない。ここまでくると、もう病気はなおる見こみがない。あとにもどることはできないのだよ。うつろな灰色の顔をしてせかせか動きまわるばかりで、灰色の男とそっくりになってしまう。そうだよ、こうなったらもう灰色の男そのものだよ。この病気の名前はね、致死的退屈症というのだ。」

by sabasaba13 | 2008-03-19 06:36 | | Comments(0)

「人間を守る読書」

 「人間を守る読書」(四方田犬彦 文春新書592)読了。映画・文学評論家四方田犬彦氏によるブックガイド、この魅力的なタイトルは批評家ジョージ・スタイナーが『言葉と沈黙』で唱えていた言葉に由来するそうです。
 野蛮な時代には読書が人間を守る側に立たなければいけない。野蛮で暴力的ではない側に人間を置くために必要なんだ。
 読書=他人の声に耳を傾ける行為こそが、野蛮や暴力から人間を守る。うーむ、いい言葉ですね。そして書物を読むというのは体験の代替物ではなく、現実の体験であり、体験に枠組みと深みを与え、次なる体験へと導いてくれる何かであると氏は主張されます。同感。そういう意味で、読書を忌避する方が増えている現状(確実なデータは知りませんが)については、常日頃危機感を覚えています。氏の言い方によれば、他人の声に耳を閉ざし、陳腐でチープな体験で満足してしまうということでしょう。労働者使い捨て政策を推し進めた小泉元軍曹や、ウルトラ・ナショナリストにしてレイシストの石原強制収容所所長が支持されるのは、那辺に理由があると思います。よって、みんなが「どりゃどりゃ」と思わず本を手にしたくなるようなブックガイドの刊行を期待します。
 著者が紹介する書物の森の全貌は実際に読んでいただくとして、私の目についた巨木は平井玄『引き裂かれた声 もうひとつの20世紀音楽史』(毎日新聞社)、ピーター・B・ハーイ『帝国の銀幕』(名古屋大学出版会)、川田順造『母の声、川の匂い』(筑摩書房)、マルクス・アウレーリウス『自省録』(岩波文庫)、ヴラジーミル・ナボコフ『ロリータ』(新潮社)。さっそく読んでみるつもりです。特に、映画・音楽に関する書物と漫画が多数紹介されているのは嬉しい限り。ジョー・サッコ、黒田硫黄、岡田史子、小山春夫といった漫画家の存在もはじめて知りました。ただ惜しむらくは、かなり難易度の高い書物が多いことですが、これは「何度でも読み返したい」という著者の意図ですから仕方がありません。活字を見ると蕁麻疹が出るような方々向けのブックガイドも、どなたかに書いてほしいな。今、喫緊に必要とされているブックガイドは後者だと思います。国民が批判精神をもつことを嫌悪し恐怖する政治家・官僚・財界の諸氏は必死に妨害するでしょうけれど。
 読書は何から人間を守るか。贅言ですが一つ付け加えます。恐るべき病、知的無関心から…
by sabasaba13 | 2008-03-18 06:07 | | Comments(0)

マタイ受難曲

 先日、聖トーマス教会合唱団&ゲヴァントハウス管弦楽団(指揮:ゲオルグ・クリストフ・ピラー)による、J.S.バッハのマタイ受難曲を聴いてきました。会場はサントリー・ホール、虚飾に満ち満ちた六本木でマタイを聴くのはどうにもやりきれませんがいたしかたありません。山ノ神とは開演30分前にホール前で待ち合わせて、腹の虫を慰撫するために近くにある蕎麦屋で天もりをかっこみました。バッハが27年間におよびカントールを務めていた合唱団と、ライプツィヒが育んだ世界最古のオーケストラ、否が応でも期待は高まります。
 結論から言ってしまうと、素晴らしい曲、そして素晴らしい演奏、ほんとに音楽が好きで良かったなあとしみじみと感じ入った至福のひと時でした。私の大好きな冒頭の合唱「娘たちよ、一緒に来て嘆きなさい」(第1番)を聴いただけでもう感興にうちふるえてしまいました。きりりと引き締まったテンポ、確かな技量のオーケストラに支えられて分厚いハーモニーを紡ぎだす合唱。メンゲルベルクとは対極的な、過度な感情移入をせずにあくまでも正統的なきちんとした演奏でした。(どちらの演奏でも感動的なのが、この曲の懐の深さですが) それだけに福音史家のマルティン・ペッツォルト(テノール)の、時には感情を爆発させるような劇的な歌唱は光りましたね。ただ個人的な趣味で言えば、イエスを裏切ったペトロを憐れむアリアおよびバイオリンのソロ(第47番)だけは、テンポの揺らぎ、ダイナミクスの変化、ビブラート、ポルタメント、アキレス腱固め、もうどんな手を使ってもいいから泣かせてほしかった… 悲哀・憐憫・達観が美によって包まれ渾然一体となって心の襞に染み入り食い込む、此の世のものとは思われぬ至上の曲ですので、もっと大げさに唄ってもいいのではないかな。馬銜(はめ)を外さない理知的な表現が持ち味だとは思いますが。

c0051620_6104197.jpg 今、あらためて冒頭の合唱の歌詞を読み直しています。
おいで 娘たち 共に嘆こう
おお、神の子羊、罪もなく
十字架につけられたあなたよ、
どんなときでもあなたは耐え忍ばれた、
どんな辱めをこうむろうとも。
あなたは全ての罪を担われた、
さもなくばわれらの望みは果てよう。
ごらん 愛と慈しみから
ご自身で十字架を背負われるのを。
われらを憐れみたまえ、おお、イエスよ。
 イエスの姿が地球の現状にオーバーラップしてきます。私たち人類の罪を全て背負いながら、今、ゴルゴタの丘に重い足取りで向かっている地球。鞭打つのも、荊の冠をかぶせるのも、そして銀貨三十枚で彼を裏切ったのも、私たちです。地球は私たちを憐れんでくれるのでしょうか。それとも…

 追記。公演パンフレットを購入したところ、故武満徹氏のご令嬢・眞樹氏が書かれた"父と『マタイ受難曲』"という味わい深いエッセイが載せられていました。それによると氏が結核で入院していた時、合唱団で活動をしていた奥さんの持っていた『マタイ受難曲』の楽譜を見つけ、ピアノで弾くようになったそうです。以後、いつの日からか、新しい作品の作曲に取りかかる前には必ず第72番コラールの旋律を弾くことが習慣となりました。また東京オペラシティの芸術監督に就任した際にも、オープニングにこの曲を演奏することを強く主張されました。(彼の死後に実現) そして晩年、膀胱ガンで入院していた時、たまたま大雪で奥さんが見舞いに来られたかった日、無聊を慰めるためにラジオをつけたところ、偶然『マタイ受難曲』全曲が流れてきました。翌日、奥さんに「心身ともに癒された」と語り、その翌日に容態が急変して帰らぬ人となったそうです。眞樹氏はこう結ばれています。
 父にとって音楽は常に「祈り・希望・平和」であり、その象徴が『マタイ受難曲』だったのだと思います。恐らく多くの人たちにとってそうであるように…

by sabasaba13 | 2008-03-17 06:11 | 音楽 | Comments(0)

「オリエンタリズム」

 「オリエンタリズム(上・下)」(エドワード・E・サイード 平凡社ライブラリー)読了。さまざまな学問分野や学者・知識人に知的衝撃を与えた大作、しかし最初の一歩が踏み出せずしばらく机上に積んでありました。やっと踏ん切りをつけて読み始めたら、後は一気呵成、難解な表現に時々戸惑いながらも読み通せました。ここはいっちょ、蛮勇をふるって書評を書いてみましょう。
 さてオリエンタリズムとは何ぞや? ここはまず著者に語ってもらいましょう。
 オリエンタリズムとは、東洋的とみなされる問題、対象、特質、地域を扱うさいのひとつの習慣にほかならず、これを行う者は誰であれ、自分が語り、考える対象を、ある言葉や言い回しによって指示し、命名し、固定する。すると今度は、その言葉や言い回しが現実性を獲得し、あるいはもっと単純に、それが現実のものとみなされるようになるのである。
 ヨーロッパの文明と言語の淵源であり、ヨーロッパ文化の好敵手であり、またヨーロッパ人の心のもっとも奥深いところから繰り返したち現れる他者イメージでもあったオリエント。ヨーロッパ人は、古代以来、この異質で曖昧な未知のオリエントを把握するために、さまざまなイメージで表象することにより把握しようとしてきました。その際に、オリエントにはマイナス・イメージを、ヨーロッパにはそれと対になるプラス・イメージを貼り付けます。オリエントは後進性・奇矯性・官能性・受動性・被浸透性、ヨーロッパは先進性・正常性・理知性・能動性・浸透性、という具合に。そしてこうしたイメージをもとにしたオリエント学が19世紀に成立し、やがて政治権力と協力しながらオリエントの植民地化を進めていく。野蛮で後れた東洋人は征服されることを必要としており、西洋人によるオリエントの植民地化は、征服ではなく解放なのだとする主張が、何の疑問もなく受け入れられていきます。言わば、人種差別主義と反人間的イデオロギーを内に含み、他者・異文化を文化的ステレオタイプの枠の中に押し込み、政治的帝国主義の走狗となる学問・知の体系・ものの見方、これがオリエンタリズムだと思います。そして20世紀になると、さすがにこうした主張は声高に叫ばれなくなりますが、イスラム・アラブ世界に対してはいまだ執拗にまかり通っているというのが著者の考えです。アラブ・パレスティナ人である著者にしてみれば、最悪の状況にあるパレスティナ情勢に対して見て見ぬふりをする各国の態度の背後に、オリエンタリズムの影を感じざるをえないのでしょう。

 第一章では、いかにしてオリエンタリズムが、古代以来、ヨーロッパの文化一般のなかで受け継がれてきたかについての考察。第二章では、十九世紀にいかにして近代的な専門用語と職業的慣習とが確立され、それらがいかにしてオリエントについてなされる言説を支配するようになっていったかについての考察。そして第三章では、以上をふまえての、20世紀におけるオリエンタリズムについての考察です。何よりも、著者の博覧強記には頭を垂れます。アイスキュロス、ダンテ、シャトーブリアン、ラマルティーヌ、ネルヴァル、フローベール、シルヴェストル・ド・サシ、エルネスト・ルナン、マルクス、レイン、ギブ、マシニョン、グルーネバウム、ルイス、ナポレオン、バルフォア、レセップス、クローマー、キッシンジャー、T・E・ローレンスといった文学者・学者・政治家の著作や言動を縦横無尽に引用しながら怜悧に分析するその手際には感服します。(ちなみに私が聞いたことがある人名は12/20…) そして「これは科学でも知識でも、また理解でもない。それは力の言明であり、自分が他の誰よりも絶対的権威を帯びているとする主張である」と主張し、支配的・威圧的な知の体系の終焉をめざそうとする高い志。ではそれに代わる知の体系はどのようなものか、どうしたら構築できるのか。著者の示す方向性を引用します。
 我々は文化をいかにして表象することができるのか。異文化とは何なのか。ひとつのはっきりした文化(人種、宗教、文明)という概念は有益なものであるのかどうか。あるいは、それはつねに(自己の文化を論ずるさいには)自己賛美が、(「異」文化を論ずるさいには)敵意と攻撃とにまきこまれるものではないのだろうか。文化的・宗教的・人種的差異は、社会=経済的・政治=歴史的カテゴリーより重要なものといえるのだろうか。観念とはいかにして権威、「正常性」、あるいは「自明の」真理という地位を獲得するものなのだろうか。知識人の役割とは何であるのか。知識人とは、彼が属している文化や国家を正当化するために存在するものなのだろうか。知識人は、独立した批判意識、つまり対立的批判意識にどれだけの重要性を付与するべきなのだろうか。
 読後、いろいろと考えさせられました。
 19世紀、ヨーロッパによる世界の制覇は、えてして強大な軍事力と経済力によるものと言われてきました。実は先日読み終えた「興亡の世界史15 東インド会社とアジアの海」(羽田正 講談社)に「文学と書籍、地図によって外国に関する情報を蓄積することは、この時期(※17世紀)のヨーロッパ諸国の知識人たちに見られる大きな特徴である。ある言葉で記された情報はすぐ他の言葉に翻訳され、出版された。その際に、活版印刷術の獲得が大きな意味を持っていた…」「この時期の北西ヨーロッパの人々は、新規なものに対するあふれんばかりの知識欲とそれを多くの人たちで共有しようとする明確な姿勢を持っていた」という一節がありました。何気なく読み飛ばしてしまったのですが、本書によってその意味するところの重要さに気づきました。他者や異文化を観察・分析し、それをテクストにして共有する。それがヨーロッパの「強さ」を導いたのではないか。それでは、何故ヨーロッパだけにこうしたことが可能だったのか。いろいろと考えてみたいですね。
 また西洋によって語られ操作される対象であった近代日本が、やがてアジアを語り操作する側に自らの位置を変えていく。「近代日本におけるオリエンタリズム」について分析・考察する必要性は大でしょう。著者はオリエンタリズムを象徴する言葉として、マルクスの「彼ら(フランスの分割地農民のこと)は、自分で自分を代表することができず、だれかに代表してもらわなければならない」(『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』より)という言葉を引用されていますが、これは大東亜共栄圏の発想そのものですね。そして今の我々が、こうした支配的・威圧的な考え方/見方を払拭できているのかどうか。
 さらに教育基本法改悪によって、これから猖獗をきわめそうな愛国心・ナショナリズムについて。著者の言です。
 「ヨーロッパ」と「アジア」、あるいは「西洋」と「東洋」という年古りた区分は、人間の多様性に由来するありとあらゆる差異をば、はなはだ大まかなレッテルのもとに家畜の群を分けるように作用して、その過程で人間をひとつかふたつの究極的で集合的な抽象概念に還元してしまうのである。
 「日本人」という"究極的で集合的な抽象概念"で私たちを括り上げ、その優秀性・卓越性を無邪気に無頓着に称揚する動き、これもオリエンタリズムの一種だと思います。こうした"精神によってつくり出された手枷"は驚くべきほどたやすくつくられ、応用され、保護されると著者は警告しています。さて私たちはこうした状況を、どう考え、どう行動していくのか。

 著者の死を悼むとともに(2003年逝去)、その志の万分の一でも引き継いでいきたいなと思います。どのようにしたら他者を抑圧したり操作したりするのではない自由擁護の立場に立って、異文化を知ることができるのだろう。
by sabasaba13 | 2008-03-16 07:35 | | Comments(0)

肥前編(14):諫早(07.9)

 列車を待ちながらホームをぶらぶらしていると、「記念乗車券 幸駅・愛野駅・吾妻駅 幸せを愛しの吾が妻へ」というポスターが貼ってありました。コメントは控えます。それにしてもいつ頃つけられた駅名・地名なのでしょう。島原の過酷な歴史と関連があるのかもしれません。線路の向こう側には、「島原映画案内」という何も貼られていない朽ちかけた掲示板がありました。
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 列車に乗り込み、本日最後の目的地、諫早湾干拓潮受け堤防をめざしましょう。ここで諫早湾干拓事業についてのお勉強です。諫早湾は有明海の内湾で、湾奥部の諫早干潟を含め、飛び抜けて魚介類の生産性の高い海域であり、瀬戸内海がまったく汚染されていないころの生産力に匹敵するといわれていました。その大規模な干拓計画(通称は南総開発)が持ち上がったのは1970年でしたが、休止、再開、計画内容の変更などが重なり、ようやく諫早湾深奥部すなわち諫早干潟(約3000ヘクタール)を干拓することとなりました。そのため97年4月14日、潮受け堤防の排水門が締め切られます。これには強い反対もあり、全国的な問題となりましたが、農水省と県、市は「防災と優良農地の造成」を名目に強行し、貴重な干潟を抹殺しました。干潟は魚介類の生産の場としてだけでなく、高い水質浄化機能をもち、渡り鳥のかけがえのない中継点、越冬地でもあったのに… この干拓事業の当初予算は1350億円でしたが、それが早くも2370億円に膨れ上がっているそうです。やれやれ。(sigh)
 キー・ボードを打っているだけでムカムカしてきました。血税を湯水のように浪費し、環境と人々の暮らしを破壊した潮受け堤防、ぜひ網膜と脳髄に焼き付けたいと思います。昨日、長崎の観光案内所で教えてもらった、堤防にいちばん近い吾妻駅で下車。さて堤防のある方角に歩いていくと、葦原や人家に阻まれてたどり着けそうにありません。作戦変更、いったん国道251号線に出て東方に歩いていくと、「九州農政局諫早湾干拓事業 堤防工事用道路」という標識がありました。左折すると「工事用道路につき関係者以外立入禁止」という掲示があり、係員が胡散臭そうにこちらを見つめています。しゃあない、並行する脇道を歩いていくと先ほどより少し奥まで行けましたが、今度は閉ざされた鉄条網付ゲートがあり「これより先は干拓工事中につき危険なので関係者以外の立入りを禁止します」という掲示。「危険なのはそっちだろ」と毒づいてもゲートは開きません。堤防を遠望できるあたりで写真を撮り、撤収することにしました。
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 近くにバス停があったので、バスで諫早に向かいましたが、これが大きな誤算。渋滞に巻き込まれてとんだ目にあいました。やはり鉄道を利用できる時は、そちらを選択すべきですね。銘肝。諫早のホテルに荷を置き、名物のうなぎを食べられそうな店を物色しましょう。「九州で二番目にまずくて高くてきたない店 恵(けい)」はもちろんパス。すぐ近くにある、こざっぱりとした店構えの「味処 よりみち」を選びましたがこれが大正解。前菜として注文した鯖の塩焼きも美味だし、うなぎ一匹をさばいてつくってくれたうな丼・うな玉・うな骨のから揚げも絶品。歳若い板さんの誠意にあふれた味でした。
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 これで本日の徘徊は終了。生きることの厳しさと荘厳さを島原半島は言葉少なに語ってくれました。生きるために棚田をつくり、生きるために一揆を起こし、生きるためにからゆきさんとなり、生きるためにピーマンを育てる島原の人々。それをせせら笑うかのように毟り取った税金で堤防をつくり、自然と人々の暮らしを破壊する行政。いろいろと勉強になりました。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2008-03-15 07:16 | 九州 | Comments(0)