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「旅順と南京」

 「旅順と南京 日中五十年戦争の起源」(一ノ瀬俊也 文春新書605)読了。本書で知ったのですが、歴史研究者の藤村道生氏が、日清戦争から太平洋戦争敗戦までの一連の事態を指して「日中五十年戦争」という概念を提唱されたそうです。(「日清戦争 東アジア近代史の転換点」岩波新書) 中国の植民地化をめぐる日本と欧米列強の角逐は、日本の近代史を読み解く上で重要な視角だとつねづね思っております。さっそくこの本も読んでみよっと。
 さて本書は、日清戦争を日中戦争の起源ととらえ、この戦争に従軍した兵士・軍夫の体験が、その後の戦争にいかに引き継がれたか/引き継がれなかったかを問うものです。そのきっかけとなったのが、日清戦争に従軍した上等兵と軍夫の日記を古書店の目録で見つけたこと。研究者にとって、こうした貴重な史料に出会えた時の喜びは言葉に出来ないでしょうね。とともに、古書店を大事にしないといけないなあ、最近神保町に行ってないなあ、などと思ってしまいます。それはさておき、なかなか脚光が当たらない軍夫について、その戦場における役割や行動を知ることができたのが収穫でした。想像はしていたのですが、兵士にくらべてその待遇がきわめて劣悪であったことがよくわかりました(ex.装備・衣服・食糧・埋葬…)。そしてそれを補うための掠奪。例えばこんな記述があります。
 茂早や寒さも烈しく、身なりは単えの半天、同股引、あまりさむさの強きゆえ、悪るいと知りつつチャン公のきもの徴発してこれきてさむさを凌ぐ、思い思いにきたふうぞく余程妙てこなふう成り (1894.11.27)
 なおこの日記を残した丸木力蔵という方は、絵心もあり、戦場における日々の暮らしをていねいな筆致で描き残しています。その中で、中国の人々の風俗などを描いたものも散見されます。上記の日記にも「悪るいと知りつつ」と記されていたように、彼に関しては、中国人に対する露骨な差別意識に捉われていなかったようですね。もちろん、これを全兵士・軍夫にあてはめるような即断はできませんが。
 そして著者が指摘するのは、日中戦争(1937‐45)で日本兵によって引き起こされた捕虜虐待、掠奪、放火といった数多の事態が、すでに日清戦争で起きていたということが、この日記から分かるということです。さらに日記を残した二人は旅順虐殺事件に関する記述もしるしているのですが、南京虐殺との多くの共通点・類似点も見受けられます。昭和の軍隊は軍規が緩んだ、明治の軍隊は立派だった、という物言いは通用しませんね。それではなぜ、こうした事態を軍は教訓として記憶せず、ふたたび繰り返されることになったのか? 著者は、世代交代によってこうした体験が語り継がれなかったこと、そして日露戦争というより苛烈な体験が日清戦争の記憶をかすませてしまったことを理由としてあげておられます。さらにこうした事態を自ら引き起こした、あるいは見聞した兵士たちは、それをどう語ったのか、そして地域社会はどう受け取ったのか。著者は、彼らが語った戦場の、そして中国民衆の悲惨さが、「だからこそ対外戦争には負けてはならぬ」「だからこそ大日本帝国はありがたい」という文脈へと(地域社会によって?)誘導されていったと述べられています。

 戦争が外交の一手段であり、敗戦国が賠償や領土割譲などの不利益を甘受せざるをえなかったこの時代、敗戦国には絶対になりたくないという人々の気持は理解できます。しかし、それと、一般市民に対する加害は別問題だと思います。中国民衆への加害の記憶がいとも簡単に消え失せてしまったこと、そして戦場においては一般市民が非人道的な被害をこうむるのは当然だという思い込み。まとめて言えば「戦場における、一般市民への非人道的な行為はやむをえない」という考えを、多くの日本人が許容・受容していたことがポイントだと思います。そしてこれは日本人だけの問題なのか、あるいは人類に共通する問題なのか。これに関しては、加藤周一氏の鋭い考察(「春秋無義戦」)があるので、長文ですが引用します。(「夕陽妄語Ⅳ」 朝日新聞社)
 問題は、いくさや犯罪を生みだしたところの制度・社会構造・価値観―もしそれを文化とよぶとすれば、いくさや犯罪と密接に係りあった文化の一面との断絶がどの程度か、ということである。文化のそういう面が今日まで連続して生きているとすれば、―今日の日本においてそれは著しいと私は考えるが、―そういう面を認識し、分析し、批判し、それに反対するかしないかは、遠い過去の問題ではなく、当人がいつ生まれたかには係りのない今日の問題である。
 過去の犯罪の現存する条件を容認して、犯罪との無関係を主張することはできない。直接の責任は、若い日本人にはない。しかし間接の責任は、どんなに若い日本人も免れることはできないだろう。彼または彼女が、かつていくさと犯罪を生みだした日本文化の一面と対決しないかぎり、またそうすることによって再びいくさと犯罪が生み出される危険を防ごうと努力しないかぎり。
 たとえば閉鎖的集団主義、権威への屈服、大勢順応主義、生ぬるい批判精神、人種・男女・少数意見などあらゆる種類の差別…そういうことと無関係に日本帝国主義が成立したのではなかった。
 非人道的・非人間的行為と日本の「文化」の関係、そしてそうした負の「文化」を払拭するための不断の努力、これについてはこれからも真摯に考え続けていきたいと思います。そして日本軍が行った戦争犯罪だけを断罪するのではなく、また免責するのでもなく、20世紀の戦争・現在の戦争において各国がおかした戦争犯罪と「文化」との関係についても。
 そしてもう一つ。パリ不戦条約(1928)以後(建前だけであれ)根づきつつあった、どのような名目であれ侵略戦争は不正義であるという世界的合意が、9.11以来急速に崩れていることです。"テロ"殲滅という免罪符をふりかざせば、戦争が正義となる… 春秋無義戦、今から約2300年前に孟子が語った言葉が、今だからこそ重く心にのしかかってきます。
by sabasaba13 | 2008-07-31 18:59 | | Comments(0)

「族譜・李朝残影」

 「族譜・李朝残影」(梶山季之 岩波現代文庫)読了。かなり前のことですが、知人のT氏から本作の存在を教示していただき、いたく興味をそそられました。しかし絶版のため入手できず忘却していたところ、岩波現代文庫に所収されていることに気づきさっそく購入。著者は「黒の試走車」などの企業小説やエロチックな小説など多彩な方面で活躍された人気作家ですが、1975年、45歳の若さで逝去されました。実は、朝鮮の植民地官僚の家庭に生まれ、敗戦の年に内地に引き揚げてくるという体験をしていたのですね。それをもとに朝鮮に関する小説も何作か執筆されていました。本書はその中の代表作である短編「族譜」「李朝残影」「性欲のある風景」をおさめたものです。いずれも併合されて日本帝国の支配下にある朝鮮を舞台にしています。
 「族譜」 朝鮮では家督を嗣いで当主となった長男が、一族の婚姻や生死などを丹念に記録していきますが、この大部の書を族譜といいます。主人公の若い日本人官僚は、創氏改名を拒否する大地主を説得するという仕事を割り当てられます。親日家でありながらも族譜に記入する氏の変更だけは頑として受けつけない大地主、彼の人柄に魅かれその一族の七百年の歴史に圧倒されながらも創氏を強要せざるをえない主人公。総督府はありとあらゆる手段を使い、この大地主を追い込んでいきます。主人公のモノローグが印象的でした。
 鉛のように重たく、疼くようにし激しく、僕の周りを取り巻いている、黒い渦。僕は、この黒い渦から逃れられない。自分の感情は釘づけにされたまま、深い沼の底へ引き摺り込まれて行っている。
<こんな時代に、考え、苦悩する方が狂っているのだ>
 僕は、そんなことを、ぼんやり納得していた。考えること、批判すること、それらは自分の身に逆に突き刺さってくる鋭い棘だった。だからこそ、禁忌(タブー)なのだ。その頃、僕に必要なのは、仕事への完全な惰性であった。
 アジア・太平洋戦争期の文官官僚・軍部官僚に関しては、情け容赦なく総力戦体制を構築し戦争を遂行というイメージをもっていました。そうした黒い渦の中、鉄の如き組織の一員として、この主人公のように煩悶していた人々もいたのでしょう。しかし、考え、批判し、苦悩することは、官僚組織においては禁忌であり、己を突き刺す棘となる。思考や感情を殺して、惰性としての仕事(=戦争)を緘黙に遂行するしかない… 官僚組織のおぞましさ・悲しさとともに、官僚のもつ人間としての一面を感じさせてくれる独白です。今現在でも、どこかでこのように苦悩している官僚諸氏がいるのだろうなあ、いやいてほしいなあ。
 「李朝残影」 失われつつある朝鮮の宮廷舞踊を受け継ぐ妓生(キーサン)と、彼女の舞に惚れ込んだ若い日本人画家の物語。日本人を憎悪する彼女は、絵のモデルとなることを拒否します。しかし徐々に心が打ち解け、画家の自宅でモデルをつとめていた彼女が、ふと彼の父の写真を見つけてしまう。彼女の父を堤岩里(チエアムリ)で殺した警察官だったのですね。堤岩里事件(1919.4.15)について補足しておきます。三・一運動によって日本人巡査二名が殺害されると、日本軍・警察は報復のため、堤岩里という村の十五歳以上の男子二十一名を礼拝堂に閉じ込め、石油をかけたうえ火をつけ、包囲して一斉射撃をし彼らを殺害、さらに日本軍警は村全体に放火し、三十二戸を焼き払ったという事件です。以後、二度と彼女は姿を現さず、そして完成した絵は展覧会(鮮展)で特選を受賞します。しかし…
 「性欲のある風景」は、著者自身の体験をもとに、1945年8月15日における若い日本人学生の一日を描いた小品です。

 当時の朝鮮社会の状況、日本による植民地支配の実態など、知識としては知っているのですが、こうした小説という形で提示されるとより具体的なイメージが喚起させられます。著者の経験にもとづくために、リアリティもあります。また前二作では、ある朝鮮人との出会いによって、彼ら/彼女らも個性と意思をもった人間であることを気づかされ、植民地支配を空気の如く自然な状態と思い込んでいた主人公の日常に裂け目が走っていく、その心理描写も上手いですね。すぐ読み終えられますが、読後感は重い一冊。お薦めです。

 本日の一枚は、十数年前に訪れた堤岩里にあった犠牲者の墳墓です。
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by sabasaba13 | 2008-07-27 05:39 | | Comments(0)

駿河編(15):三島(07.12)

 社務所の前には「年末年始 巫女奉仕者募集中」という立て看板。丸い卵も切りようで四角、ですね。金銭目当てではなく、あくまでも自主的に働くという形をとりたいわけだ。でもやはり状況を曖昧にするために言葉を利用するのは、見ていて不愉快な行為です。ここははっきりと「巫女アルバイト急募! 時給900円 研修有 時間8:00~22:00(応相談) 食事手当有 交通費・制服支給 電話待ってるぜ!」と掲げてほしいですね。 神門をくぐると舞殿の手すりには、しっかりと座布団などのクッションがくくりつけてありました。点々と並ぶ杭も同様、正月には大変な混雑となるのでしょう。無神論者の私ですので、本殿の参詣はせずにUターン。
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 さきほどの道を駅まで戻る途中で、平井源太郎の碑を発見。農兵節をレコード化して全国に広めた人物だそうです。おおそうか、農兵節とは韮山代官江川太郎左衛門が、農兵の調練のために採用したといわれる「富士の白雪やノーエ、富士の白雪やノーエ、富士のサイサイ、白雪や朝日でとける」という歌詞のあの曲だったのか。ちなみに長崎留学から帰った家臣が伝えた西洋式メロディと、三島の田植え歌・馬子歌の歌詞を組み合わせたものだそうです。へえーへえー、旅に出るといろいろなことがわかりますね。
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 駅前に戻り、夕食をとる店を物色。沼津と違いすぐ地元経営らしい小料理屋が見つかりました。「直よし」で、三島名物のうな重と、桜エビの掻き揚げ注文。品書きを見ると、「船中八策(純米)」という名の酒がありました。これは歴史学徒に対する挑戦状ですね、よろしい、受けて立ちましょう。まあそこそこに美味しい以上三品をたいらげ、満悦。
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 新幹線「こだま」の発車時刻までしばしあるので、駅前によくある喫茶店のイデアみたいな店で、珈琲を所望。ゆるゆると腰をあげて駅に行くと、ご当地名物オブジェを乗せたポストがありました。北陸旅行で出会って以来、とんとご無沙汰していたのですがひさびさの再会です。ちなみに農兵節を踊る二人のオブジェでした。
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 三島に関しては、三嶋暦師の館、湧水時の白滝公園、菰池公園、中郷温水池、水の苑緑地、三島梅花藻の里などには行けず心残りです。再訪を期しましょう。

 本日の一枚です。しらたまの歯にしみとほる秋の夜の酒は静かに飲むべかりけれ
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by sabasaba13 | 2008-07-26 07:25 | 中部 | Comments(2)

駿河編(14):三島(07.12)

 そして白滝公園のところを斜めに曲がり、水辺の文学碑が立ち並ぶ水上通りに入ります。若山牧水、太宰治、正岡子規(「面白や どの橋からも 秋の不二」)などが、三島を題材として書いた一文が碑文として刻まれています。これはなかなか楽しい。中でも、大岡信の詩が印象的でした。「地表面の七割は水 人体の七割も水 われわれの最も深い感情も思想も 水が感じ 水が考へてゐるにちがひない」 なぜ私たちがきれいな水の流れる情景や街に恋焦がれるのか、その一つの答えですね。
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 数分歩くと、伊豆一の宮、源頼朝もあつく信仰したという古い神社の三嶋大社脇の入口に到着です。正面に向かって歩くと「御神域につき左の行為を禁じます 一、犬・猫をつれての境内参入 一、捨て犬・捨て猫 一、犬・猫へのエサやり」 大山祇神・事代主神はよほどの犬猫嫌いとみた。掃除が大変なのはわかりますが、もう少し生命をいとおしむ慈愛があってもいいんじゃないのかな。参道に出ると、初詣で荒稼ぎする準備が着々と進んでいました。的屋さんたちはせっせせっせと店やテントの準備で大童です。おっやっぱりあった! すぐそこには弥次さん喜多さんの顔はめ看板がありました。やけに立派な作りなので裏に回ると、いろいろとご託がならべてありました。「1,2人で弥次さん、喜多さんの気分になって記念写真を撮影して下さい。2,弥次さん、喜多さんになって、詩・俳句・和歌・短歌・川柳・狂歌などなどを短文にまとめて下さい。3,記念写真と一文を添えてご投稿下さい。 静岡県建設業協会内 昭和会 弥次喜多の会」 和歌と短歌の違いってなんだ、というつっこみはおいといても、なかなか壮大なプロジェクトのようですね。その後ろには、源頼朝・北条政子の腰掛石。1180(治承4)年5月に頼朝が平家追討の心願を込めて百日の日参をした折に、腰かけて休息した石とのことです。以仁王と源頼政が挙兵した月ですね、この三ヵ月後には頼朝も挙兵することになります。
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 そして最近気に入っている絵馬ウォッチング。「日本精機向MP12が問題なく立上がりますように」「裁判に勝てますように」「アンパンマンになりたい」「てにす」 いやはや神様も大変です。
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by sabasaba13 | 2008-07-25 08:10 | 中部 | Comments(0)

駿河編(13):三島(07.12)

 公園の前からは、雲に霞む富士を遠望することができました。そして公園の脇を走る道路をしばらく走ると、柿田橋です。そのすぐ下流には明治時代の石橋(眼鏡橋)の一部が残り、大きな湧水群がって水しぶきをあげているとパンフレットにありました。はっきりとは観察できませんでしたけれど。川沿いの細い道を下流へすこし歩くと、柿田川は狩野川と合流します。そうか、この川が沼津へと流れていくのか。♪ああー川の流れのよおおおにいい♪と激唱していると、12月だというのに二人の少女が川の中に脚まで入り戯れていました。絵になる光景です。
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 そして三島駅まで戻り丁重に礼を言って自転車を返却。まだ日没まで時間があるので三嶋大社まで行ってみましょう。その前に駅前にある小松宮彰仁親王の別邸・楽寿園に入ってみました。富士の溶岩と樹木にあふれた庭園ですが、水が涸れていたのは残念。
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 庭園を出ると愛染坂ですが、この附近にあるレトロな商店の数々はちょっとした見ものです。「玩具 人形 プラホビー テレビ宣伝品 麻雀牌 花札トランプ類 桃太郎玩具店」「洋菓子の店 ジュラク」「早い安いうまい 立喰」「小鳥と犬 弘電舎家禽部」 中でも桃太郎玩具店の懐かしい品揃えには、もう風景が涙にゆすれてしまいそうです。気がついたらお年玉を握り締めて佇むうん十年前の私にもどっていました。それにしても、よくぞまあこんなにシンプルでちゃちな玩具に夢中になれたもんだ。きっと想像力によって足りない部分を一所懸命にカバーしようとしたのですね。嗚呼、ファミコンがない時代に生まれ育って本当に良かった。
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 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2008-07-24 06:16 | 中部 | Comments(0)

駿河編(12):三島(07.12)

 45分ほどで三島に到着。さっそく駅前にある観光案内所にとびこんだところ、幸いなるかな、無料の貸し自転車がありました。(ただし16:00まで) そして見所を教えてもらい、詳細な地図を数枚もらってさあ出発です。富士の雪解け水が溶岩の中を延々と流れ夏季に市内あちこちに湧き出る水の都・三島。まずは源兵衛川へ行ってみましょう。途中で「農兵節資料室」という小さな看板を発見。のうへいふし??? とりあえず疑問として脳裡に置いといて先へ進みます。駅から十分ほどで源兵衛川に到着。その昔、源兵衛さんがつくった農業用水でしたが、高度経済成長期に汚染が進み、一時は水辺環境がきわめて悪化したそうです。その後、市民・企業・NPO・行政の協力でみごとに甦り、今ではホタルや沢ガニも見られるとか。市街地のど真ん中にこんな綺麗な清流が流れるなんて、やればできるんだ! おまけに川の中に遊歩道があり、川面を歩いているような気分になれます。
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 そしてすぐ近くの宮さんの川へ。小松宮別邸のある小浜池が源流なので、こう呼ばれているそうです。こちらも市民の協力で汚染から甦った川で、ところどころにいろいろなモニュメントが置かれていました。
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 次なるは境川・清住緑地です。トンボの研究で世界的に有名な朝比奈正二郎博士の別邸がかつてあり、湿地・水田・湧水など豊かな自然環境であったのが、ここもまた高度経済成長期に荒れ果ててしまい、市民の力で甦ったところです。湿地の中には木々・池・湧水・水田が点在し、街中とは思えない水のある光景を満喫することができました。
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 国道一号線に出てしばらく走ると、柿田川公園です。柿田川ぞいにつくられており、遊歩道や水の湧いている場所(湧き間)を見られる展望所が整備されていました。滾々と湧き出で数多の生命を育む水… 見ているだけで心身にこびりついた垢が洗い流されていくようです。そして護岸工事をしていない川の美しいこと! 経済成長のためなら自然破壊なぞ屁とも思わなかった/思わない愚劣さを嘆きます。「美しい国」「国家の品格」といった胡散臭い言辞をみんなで嗤いましょう。
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 それにしてもなぜ三島にはこれほどきれいな水が湧くのか。司馬遼太郎の要を得た適確な言から引用します。「この湧水というのが、なんともいえずおかしみがある。むかし富士が噴火してせりあがってゆくとき、溶岩流が奔って、いまの三島の市域にまできて止まり、冷えて岩盤になった。その後、岩盤が、ちょうど人体の血管のようにそのすきまに多くの水脈をつくった。融けた雪は山体に滲み入り、水脈に入り、はるかに地下を流れて、溶岩台地の最後の縁辺である三島にきて、その砂地に入ったときに顔を出して湧くのである」

 本日の四枚。上から源兵衛川、境川・清住緑地、柿田川公園(二枚)です。
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by sabasaba13 | 2008-07-23 20:38 | 中部 | Comments(0)

駿河編(11):坐漁荘(07.12)

 そして清見寺から先へ数分歩くと、坐漁荘に到着です。西園寺公望が晩年に暮らした別邸ですね。実は愛知県の明治村に移築され、ここにあるのは最近復元したものです。以下、岩波日本史辞典より引用します。
 西園寺公望(1849‐1940)、公家出身の政治家。最後の元老。京都生れ。徳大寺公純次男で、西園寺家養子となる。戊辰戦争では会津を攻略。木戸孝允らと交流を深め、邸内に家塾立命館を創設。フランス留学中、パリ・コミューン事件に遭遇、帰国後、中江兆民らと「東洋自由新聞」を創刊。のち文相、枢密院議長を歴任し、伊藤博文の後継者として立憲政友会総裁となる。1906年、第1次西園寺内閣を組織、鉄道国有化など日露戦争後の政情に対応。桂太郎と交互に組閣し、桂園時代とよばれたが、第2次内閣で2個師団増設問題が起り陸軍と対立して退陣、元老となる。19年、パリ講和会議全権を務め、牧野伸顕とともに対米英協調路線をとり、近衛文麿ら革新貴族と見解を異にした。昭和天皇の摂政時代から後継首相の奏薦にあたり、ロンドン軍縮問題後は米英との乖離を危惧、牧野内大臣や一木喜徳郎宮内大臣らとともに軍部や右翼の冒険主義に対抗。しかし満州事変や5.15事件など,相次ぐ謀略やテロにより政党内閣の慣行を維持しえず、高齢を理由に任を辞した。陶庵と号し、興津坐漁荘に引退。
 彼の事跡についてコメントをする力量はとてもありませんが、肝心なところで軍国主義・ファシズムへの動きを抑えられず、その背景には天皇に累が及ばぬようにするという配慮があったのではないかと思っています。徳富蘇峰が彼を評して「彼には三つの"in"がある。 intelligence(聡明)、indolence(無精)、indifference(無頓着)」と言ったそうですか、むべなるかな。辞世の言葉は「いったいどこへ国をもってゆくのや」、近衛文麿を首相として推挙したことを最後まで悔やんでいたようです。
 さあそれでは中に入ってみましょう。嬉しいことに入場は無料です。外観は何てことはない純和風の二階造り。
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 中には係員の方がいて、それはそれは懇切丁寧にいろいろと解説をしてくれました。本物を忠実に再現したようで、特に竹を多用した精緻にして雅趣あふれる装飾や設えには目を見張ります。一階の一室だけは洋間で、応接間として使われていたとのこと。
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 二階に上がるとそこは広々とした居間で、海や三保、日本平まで見張らすことができます。引退後も助言を求めてやってくる政財界の要人(いわゆる「興津詣で」)と、ここで会見したとのことです。それにしてもこれを建てるには、莫大な金がかかったろうなあ。設計は住友本社の建築技師・則松幸十、また「西園寺公と政局」の著者にして秘書の原田熊雄の報酬は住友からすべて支払われていた(月額100万円!)ことから、おそらく住友財閥から提供されたのでしょうね。興津駅のホームで写した写真が展示してありましたが、大滝秀治にくりそつ。
 去り際に、係員の方に「なぜ明治村に移築されてしまったのか」と訊ねたところ、もごもごと口を濁らせます。これは野暮な質問でしたね、間違いなく維持する費用が捻出できなかったためでしょう。それならば何故今頃、金をかけて復元したのかという疑問もわいてきました。玄関から出る時に、係の方が「当時、ここから出入りできたのはただ一人でした」とぼそりと呟きました。誰? もちろん近衛文麿です。
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 さてそれでは興津駅へと戻りましょう。清見寺の前にある観光地図を見ると、「興津駅北側にある農林水産省果樹試験場には、日本三大並木の一つ、プラタナス並木(北海道大学のポプラ並木・東京大学のイチョウ並木)があります」と書いてありました。後二者を見てきた私に対する挑戦状か、ようがす見にいきましょう。踏み切りを渡って駅の向こう側に出ると、試験場の門から葉のすっかり落ちたプラタナス並木を見ることができました。(立入りは禁止) しかあし、どこが日本三大並木の名に値するのでしょう??? この三者の選択に関しては疑問を抱きますね。歴史的に由緒があるということなのでしょうか。
 興津駅から再び東海道本線に乗り、三島へと向かいます。薩た峠のあたりで富士がきれいに見えたら、由比で降りてよってみようかな、などという色気をもったのですがすでに雲がかかっていたので初志貫徹、三島へ直行。なお坐漁荘の係の方の話では、二月十日ごろが空気が澄んでクリアに見えるし薄寒桜も見頃ということでした。捲土重来。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2008-07-22 06:22 | 中部 | Comments(0)

駿河編(10):清見寺(07.12)

 さてやってきたバスに乗り込み、再び清水駅へ。そして東海道本線に乗ること4分で興津に到着です。お目当ては清見寺と坐漁荘。駅から国道ぞいに西へ十分ほど歩くと古刹・清見寺に到着です。白鳳年間(7世紀後半)に東北のいわゆる蝦夷に備えてこの地に清見関という関所が設けられ、その傍らに関所の鎮護として仏堂が建立されたことが嚆矢だそうです。鎌倉時代には禅宗に改められ、室町には足利尊氏が深く清見寺を崇敬し、清見寺山頂に利生塔を建立して南北朝内乱の戦死者の霊を慰めました。その後、駿河を領した今川氏が外護し、雪舟も訪れたそうです。戦国時代になると、この地は自然の要害となったので、今川・徳川・武田・北條等の戦国大名が陣をしき城として使用しました。なお徳川家康が幼少時今川氏の人質として駿府にいた頃、清見寺住職より教育を受けたそうですが、その縁でしょうか、江戸時代には徳川一門の帰依を受けるところとなりました。この時代に、朝鮮通信使や琉球謝恩使・慶賀使が本寺をしばしば訪れ、旅の疲れを癒し、日本の文人・知識人と交流しながら詩をつくり絵を描いたそうです。辛基秀氏は「隣国同士友好関係を200年以上崩さずに維持したことは世界史的にも類を見ないこと」と言われていますが、その証である扁額が展示されているというので是非拝見したいと思ったわけです。
 吃驚したのは、山の斜面にある寺の眼前を東海道本線が走っていることです。よって寺の敷地に入り踏み切りを渡って、入山することになります。鎌倉の円覚寺もそうでしたが、何か理由がありそうですね。
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 拝観料を支払い、大方丈に入ると朝鮮や琉球の使節によって書かれた数多の扁額(複製)が飾られていました。浅学な小生にはとても読みこなすことはできませぬが、その真摯な志は伝わってきます。漢字を使えば文化交流ができた時代だったのですね、あらためて日本・朝鮮・琉球を包み込んだ漢字文化圏の存在を痛感しました。
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 その奥には血天井がありました。これまでも京都の養源院源光庵で拝見しましたが、こちらにはどんな謂れがあるのでしょう。どれどれ解説を読むと、1200(正治2)年梶原景時一族が鎌倉を出奔し西国に向かう途中で一戦交えた建物の古材を天井板として使っているそうです。うむむ、これはもしや日本最古の逸品ではないか。血天井研究者のご教示を請う。とはいっても、血と汚れの違いを判別できませんでしたが。大方丈裏手では、江戸初期の庭園を見ることができます。
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 ここにある西の間は、徳川家康が手習いをした部屋だそうです。そして二階にある書院・潮音閣へ。海が一望できますが、視界を遮る建物が建ち並び、往時の眺望は想像するしかありません。
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 大方丈の前に出ると、「咸臨丸碑」がありました。戊辰戦争の際に、清水港で新政府軍と戦い幕府に殉じた乗組員を、榎本武揚が悼んだものです。銘文は「食人之食者死人之事 (人の食を食む者は人の事に死す)」。
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 左手に回ると、江戸中期につくられた五百羅漢石像がありました。島崎藤村の小説「桜の実の熟する時」の最後の場面で、ここが舞台となっているとのこと。
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 すぐ脇に豪放磊落な達筆で「防火槽」と書かれた黄色いバケツがあったので、これこそ禅の心だといそいそと近づいてみるとただ下手なだけでした。なお門前には「高山樗牛仮寓之処」という碑があります。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2008-07-21 17:36 | 中部 | Comments(0)

駿河編(9):海洋科学博物館(07.12)

 そして真崎灯台を見て、東海大学海洋科学博物館に到着。ちなみに羽衣の松からここまで、徒歩一時間強でした。博物館前にあるバス停の時刻表を見ると、休日のため本数が少なく、次のバスが来るのは一時間後です。ま、これは想定内。幸い、すぐ近くに食堂があったので、こちらで(ちょっと玉ねぎが多い)桜えび掻き揚げ定食をいただきました。
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 さてさてまだ30分ほど時間があるので、東海大学海洋科学博物館に寄ってみることにしましょう。入口前には人魚姫の像、解説板によると1971年にコペンハーゲン市長から贈られたものだそうです。「私は、なんでこんなしょぼい所にいるの」とでも言いたげな物憂い表情が印象的。まあでも、コンビナート群がいやでも目に入るコペンハーゲンでの立地とどっこいどっこいですよ、と慰めにもならない慰めを言い、博物館入口へ。
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 入館料1500円は、数十秒間しぶちんの私を逡巡させるには十分な金額です。しかしツルゲーネフも「乗りかかった船には、ためらわず乗ってしまえ」と言っているじゃああーりませんか、ここは乾坤一擲の暇潰し。後で後悔するのも嫌だし、入館することにしました。なお仰々しい名称ですが、要するに水族館です。入口にかかっている宣伝文を見ると、「ふわふわクラゲは幻想的 クラゲギャラリー」と「世界のクマノミがやってきた! クマノミ水族館」が目玉展示のようですね。
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 中に入るとそれほど大きな規模ではありません。そして壁にはめ込まれている小ぶりな水槽では、百花繚乱、クラゲたちがふわふわと浮遊しています。ヒーリングとして利用する試みがなされるのも納得、このゆったりとした動きと脱力感はたしかにはまってしまいそう。でもクラゲに慰められるなんて、末法ですなあ。クマノミは愛らしいことは愛らしいのですが、ただそれだけ。
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 思わず刮目したのはイワシとタコです。体を銀色に光らせながら、小さな水槽の中をぐるぐると素早く遊弋するイワシの群れを見ていると、この国の来し方行く末が二重写しになってきます。みんなで泳げば怖くない! タコのうぞうぞにょろにょろとした意表をつく動きは見ていて飽きません。ヒーリングならこちらを推奨したいですね。
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 なおこちらの水族館では、水槽前に小さな手すりがあって子どもだけがその前で見られるとか(とは言っても入館者は四人でしたが)、水槽の裏側や係員の作業風景が見られるなど、ちょっとした工夫がなされていました。旭山動物園の影響でしょうか。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2008-07-20 06:13 | 中部 | Comments(0)

駿河編(8):三保の松原(07.12)

 朝起きるとみごとな快晴。今日は三保→興津→三島という予定です。まずは東海道本線に乗って清水へ向かいましょう。由比を過ぎたあたりで進行方向左手の窓から振り返ると、富嶽がなかなかクリアに見えました。三保からの眺望も期待できそうです。40分ほどで清水駅に到着。駅からも富士山がくっきり見えました。さてここからバスに乗って三保の松原をめざします。幸い、三保車庫行きのバスにすぐ乗ることができました。車窓からぼんやりと清水の街を眺めていると、ん? さすがはサッカー王国・静岡、歩道にはサッカー・ボール型の敷石がありました。それにしても、何故静岡県ではサッカーがさかんなのでしょうか。国見高校のある島原半島のような貧困は感じられないし… 憶測ですが、読売ジャイアンツの引力圏と中日ドラゴンズの引力圏のちょうど狭間にあり、野球ファンとなる少年がそれほど多くなかったからではないか。ご教示を請う。しばらくすると録音による車内放送がありました。「静岡県から暴力団を追放しましょう」 ふんふん。「静岡県暴力団追放推進運動相談センター」 へえそんな組織があるんだ。「電話番号283-8930」 覚えづらいなあ。「やくざゼロ」 山田君、座布団全部もっていきなさい!
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 30分ほどで「三保松原入口」というバス停に到着。いきなり道の真正面に、あらひざらした浴衣のやうな富士がきりりと聳えています。ここから三保の松原まではところどころに案内表示があるので、それに従って参ることにしましょう。道路を横断する時に、「とびだすな 清水市農協」というレトロな看板がありました。「飛び出し小僧」のプロトタイプかもしれませんね、川上澄生風の質朴な少年・少女像には心惹かれます。
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 途中にあった清水三保第一小学校では二宮金次郎像を発見。台座に「報徳」と刻んであるのはなかなか珍しい。御穂神社の参道は「神の道」という身も蓋もないネーミング、松が立ち並ぶ長い並木道になっています。そして20分強で三保の松原に到着、これで日本三大松原を制覇したことになります。ちなみに残り二つは、虹の松原(唐津)、気比松原(敦賀)ですね。まずは天女が衣をかけたという羽衣の松を見物。
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 そして松林の中を貫く遊歩道をしばし散策しました。
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 海岸に出ると、見事な稜線を描く富士が海越しに遠望できました。山田君、座布団一枚! なんだかんだ言ってもやはり美しいプロポーションですね。海沿いの舗装道路を歩いていくと、清水灯台に出会えます。1912(明治45)年に建造された、日本初の鉄筋コンクリート製灯台だそうです。八角柱形の瀟洒な灯台ですが、残念ながら内部は非公開です。灯台と富士をいっしょにおさめられるピクチャレスクな構図を求めて、附近を探索したのですが結局見つかりませんでした。窮余の一枚がこれです。
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 しばらく歩いて半島の東側に行くと、海越しに完全な姿の富士を見ることができました。海釣りに興じる太公望のみなさんも気持ち良さそうです。

 本日の二枚です。
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 グリコのおまけ。旅行記を書かなかったためお蔵入りになっていた冨士の写真を三枚載せておきます。上は箱根成川美術館から、中は沖縄行き飛行機の機窓から、下は山中湖畔から写した富士山です。
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by sabasaba13 | 2008-07-19 07:25 | 中部 | Comments(2)