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屋久島編(17):鹿児島(08.3)

 せっかく好天に恵まれたのですから、次は城山展望台に行ってみましょう。バスだと手間取りそうなので、泣いて馬謖を斬る、タクシーを利用することにしました。幸いタクシー会社が異人館の近くにあったので車に乗り込み、十分ほどで城山展望台に到着です。駐車場で下りて少し歩くと、そこが桜島・錦江湾・鹿児島市街を一望できる展望台。いやあ絶景絶景。
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 なおここに置かれていた顔はめ看板は、軍服を着た西郷どんと「ピッカピカ」の一年生の少女という奇妙な取り合わせ。そして鹿児島中央駅まで向かってもらいますが、ついでなので近くにある西南戦争における最後の司令部・西郷隆盛洞窟に寄ってもらいました。1877(明治10)年9月24日、城山にたてこもる薩摩軍兵士は三百余、包囲する政府軍は四万、この洞窟を出た西郷の腰に流れ弾が当たり、別府晋介の介錯をあおいで四十九年の生涯を閉じることになります。柵に囲まれて二つの洞窟がありますが、タクシーの運転手さん曰く、左側のものは後年に掘られたものだそうです(理由は不明)。
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 駅に向かう途中にあった西郷隆盛像のところで車を停めてくれたので、下車して写真撮影。近くにあった公民館は戦前のものらしい、威風堂々とした物件です。
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 しばらく行くと、車窓から「フランシスコ・ザビエ聖師滞鹿記念」碑が見えました。駅前で降ろしてもらい、ここのバス・ターミナルから高速バスで鹿児島空港に向かいます。
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 途中で大きな西郷どんのディスプレイを発見。鹿児島県人の西郷びいきをひしひしと感じます。そして「姶良(あいら)」という地名表示、うーん、どこかで聞いた覚えがある。今、調べたところ、1943(昭和18)年に地質学者松本唯一が提唱した、九州中部から南部に連なる阿蘇型大カルデラ群の一つである姶良カルデラがあるところでした。
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 本日の二枚です。
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 追記。「日本の歴史 列島創世記」(松本武彦 小学館)に下記のような記述がありました。
 およそ2万9000年前、現在の鹿児島湾を火口とする大噴火が起こり、その噴出物は東日本にまで降り積もった。この大災害が、おりからの寒冷化や人びとの暮らしにどれほどの影響を与えたのかはわからない。だが、AT火山灰(姶良・丹沢火山灰)と呼ばれるこのときの噴出物の層は日本列島の広い範囲をカバーしているので、各地の遺跡の年代やその相互関係を知るための手がかりとして役立ち、後期旧石器時代を前半と後半に分ける指標としても使われている。

by sabasaba13 | 2008-11-30 08:31 | 九州 | Comments(0)

屋久島編(16):鹿児島(08.3)

 昼食はすぐ近くの店で黒豚トンカツを食しようとしたのですが、このタイム・ロスできびしくなりました。売店を見ると「安納いも」「さつま揚げ」という看板があったので、これですませましょう。種子島特産の焼き芋か、さつま揚げか。逡巡した結果後者を選択し、あげたてのさつま揚げを四つ購入してベンチに座っていただきました。
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 そして1865(慶応元)年竣工の機械工場・集成館へ。たぶん日本における近代工場の嚆矢ですね、石造平屋の重厚な外観、連続するアーチ窓、そして瓦屋根が印象的でした。なお貼り出した玄関部分は、大正時代に博物館として整備された時に増設されたものだそうです。内部は集成館に関する事業の資料館になっています。
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 近くには、島津家吉野植林所事務所(現ショールーム磯工芸館:写真左)や旧芹ヶ野島津家金山鉱業事務所(現レストラン:写真右)といった下見板張りの白い洋館がありました。
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 車道をはさんだ向かい側にあるのが異人館。洋式紡績所の英人技師のために、1866(慶応2)年につくられた居館です。一階部分のベランダと二階部分の連続する大きなガラス窓、そして半六角形の張り出し部が目にとまります。建築史家の藤森照信氏によると、このベランダ様式は、インドの熱帯地域にヨーロッパ人が進出した時に暑さを防ぐために工夫し、それが東南アジアから香港・上海を経て長崎に上陸したとのことです。長崎のグラバー邸(1863年築)にもこのベランダ様式がありましたね。残念ながら修復中のため、内部は見学できませんでした。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2008-11-29 07:14 | 九州 | Comments(0)

「悩む力」

 「悩む力」(姜尚中 集英社0444C)読了。序章に出てくる「近代のとば口で発生した問題が未解決のまま残っていて、その後百年の間に進むところまで進んでしまった」という著者の言葉には、軽い衝撃を受けました。日本も含めた今の世界のあり方が、資本主義が勃興した19世紀によく似ているな、という印象は漠然と持っていたのですが、そう考えると見通しがよくなります。私たちはまだ近代に生きており、それが抱える問題を解決できていないどころか、いっそう苛烈な形で再生産されるがままにしている。福祉社会が定着したかに見えた1945~75年は、経済的好況と大戦に対する深甚な反省に起因する例外的に安定した、言い換えれば問題を覆い隠すことができた時期と考えていいのかもしれません。それではその問題点とは何か? 姜氏の考えを私なりにまとめると、それは「自由」、または生きるための準拠や人間の行動を抑制する歯止めをなくしてしまったということです。例えば、人と人とを結び合わせていた宗教、伝統や習慣、文化、地縁的血縁的結合が、近代科学や合理主義の進展により剥ぎとられ、「われわれ」だったものが一つ一つ切り離されて「私」という単体になってしまいました。自らを守るために自我が肥大化し、それによって社会が解体し、それがさらなる自我の肥大化を招来し、さらに社会が…という悪循環のはじまりですね。あるいは、モラル・エコノミーや共同体を崩壊させることによって、飽くなき利潤追求に対する歯止めを外してしまった結果、手段を選ばぬ不公平な競争と、苛烈な富の偏りが猖獗を極めることになった。これも近代の問題点です。
 著者は、現代日本における様々な問題を、「私」「金」「知性」「青春」「信仰」「労働」「愛」「死」「老い」というカテゴリーに分けて、これらが近代の抱える問題点から派生したものであり、より「自由」になった私たちにはより過酷な形でのしかかる、という視点で考察をされています。自由を得たことと引き換えに生きるための準拠や推進力を失った私たちはいま、それに代わる何ものかを、それぞれが手に入れるよう強いられている、というのが核となる論点です。そうした事態に直面するのを忌避するために、何ものかにすがり、何ものかに逃げ込み、何ものかに没頭し、最悪の場合には耐え切れずに自らの生を断ち切ってしまう。ではどうすればよいのか。もちろん特効薬などないのは十分承知の上で、著者は徹底的に悩んではどうかと優しく語りかけてくれます。例えば、「自由な愛」に戸惑い、「セカチュー的純愛」を求める人には…
 人の愛し方などという法則はなく、チェスの勝負と同じような、あらかじめこれと決まった手順もありません。そのときそのときの配置を見ながら、最良と思える手を打っていく。それと同じように、相手から一つ一つ投げかけられる問いに、一つ一つ応えていく。そして最終的に相手に対して遂行的になる意欲がまったくなくなったときに、愛は終わるのではないでしょうか。
 そして私たちの悩む力を鼓舞してくれる先人として、姜氏は二人の人物を紹介されています。19世紀終わりから20世紀はじめ、つまり近代が確立された時代を生き、近代とは、そしてその問題点とは何かを問い続けた二人、夏目漱石とマックス・ウェーバーです。われらの悩みを先取りした先達、そしてわれらに勇気を与えてくれ続ける同時代人、うーん、こうした目で両者を見たことはなかったなあ。目から鱗が落ちコンタクトレンズをはめたような気になりました。『こころ』に登場する先生の言葉も、そうした時代背景を考えながら噛み締めると奥深いものです。
 自由と独立と己れとに充ちた現代に生れた我々は、其犠牲としてみんな此淋しみを味わわなくてはならないでしょう
 学生時代には何気なく読み飛ばした言葉、若いときの読みがいかに甘いものであったか、思い知らされます。年齢を重ねて読みなおすごとに違う輝きをみせてくれるのが古典なのですね。そう思うと、齢をとるのもそれほどわるいものではありません。あらためて彼らの著作を読み返してみようかという意欲がめらめらとわいてきました。
 もやもやとした正体不明の不気味な閉塞感も、こうしたクリアな言葉で分析されると悩むための手ごたえがでてきます。もう一つの重要にして喫緊なる課題は、悩むための大前提である"生存"を脅かしている"自由経済"の暴走への歯止めをどうかけるかですね。
by sabasaba13 | 2008-11-28 06:04 | | Comments(2)

「イカの哲学」

 「イカの哲学」(中沢新一・波多野一郎 集英社新書0430C)読了。特攻隊の生き残りで、戦後スタンフォード大学に留学した在野の哲学者・故波多野一郎氏が、1965年に少部数のみ出版した書『イカの哲学』。その全文を収録するとともに、中沢新一氏がそこから21世紀に通じる平和学・エコロジー学を読み取り、そして提唱しようと試みたのが本書です。
 早稲田大学在学中に太平洋戦争が勃発、学徒兵として招集された波多野氏は自分の敵は他国の人民や軍隊ではなく、他国や日本の軍部・政府であるという確信をもちながらも、いったん戦争がはじまったら、武器をとらざるをえないと覚悟を決め航空隊に志願しました。そして満州において特攻の訓練中に敗戦を迎え、そのままソ連軍の捕虜となりシベリアに送られ四年間にわたる強制重労働に服しました。なお彼は47歳で夭逝しますが、脳腫瘍発症の遠因はここにあるようです。共産主義国家ソ連の力量に驚嘆しながらも、その対極であるアメリカを見てからこの体制についての結論を出そうと留学を決意。スタンフォード大学で学びながら、漁港モントレーで水揚げされたイカを箱詰めにするアルバイトをしている時に、人間たちにからめとられた沢山のイカに共感と親近感を持つようになり、やがて閃光のような啓示を得ました。一回の投網で数万のイカに死をもたらす、これはイカにとって原子爆弾のようなものだ、と。そして、人間以外の生物に対しても敬意を持つことに関心のないこれまでのヒューマニズムには、戦争をくいとめるだけの力はないという考えにいたります。
 そうだよ!! 大切なことは実存を知り、且つ、感じるということだ。たとえ、それが一疋のイカの如くつまらぬ存在であろうとも、その小さな生あるものの実存を感知するということが大事なことなのだ。この事を発展させると、遠い距離にある異国に住む人の実存を知覚するという道に達するに相違ないのだ。
 実存とは、他ととりかえることのできない、一回かぎりのかけがえのない生と定義しておきましょう。他者と和解する、つまり戦争を止めるためには、そのかけがえのない生(実存)を知り感じなければならない、そのためには生物のかけがえのない生を知り感じなければならない。以上が、波多野氏の著した『イカの哲学』の、私なりの概略です。
 そのバトンを中沢氏が受け取って、さらに思惟を進めていきます。戦争も環境破壊も、その根っ子は一つ。資本主義経済では、魚も頭足類(イカ)も、そして人間さえももはや実存ではなく、お金に換えることのできる資源と見なされます。そして存在相互のつながりを断ち切り、実存を単なるモノに変え、貨幣価値を与えていきます。大地は利潤をもたらす工場、自然は資源とエネルギーを引き出してくる物質的な対象として取り扱われ、敵である人間は物理的に抹殺すべき対象にすぎなくなる。つまり、人間に対する戦争と、自然に対する戦争、二つの戦争を同時に止めなければならない。現代エコロジー思想の主導者であるクラウス・マイヤー=アービッヒは、エコロジー運動の目的を「自然との停戦」を実現することだと位置づけてられているそうです。中沢氏はこうまとめられています。
 自分が開発や搾取の対象としている相手が、自分と同じ実存であることを忘れるとき、そこには無慈悲が支配する戦場とよく似た絶望が広がっていく。この状況をヒューマニズムでは、超えることができない。人間ばかりか非人間の中に実存を見いだすことのできる直観に裏打ちされた思想だけが、そのような戦場の拡大をくい止める力を持つことができる。
 それではどうすれば、すべての生き物における"実存=かけがえのなさ"を直観できるのか。凡庸な考えですが、身のまわりの自然や生物に関心をもち、その精緻にして玄妙なあり方と相互のつながりに驚嘆しつづけることでしょう。美しい自然や特別な生物だけではなく、ありふれた卑近な自然や生物からも多くのことを学べると思います。夕焼けとか雨とか蟻とか蝿とかね。そしてそうした姿勢をより深めてくれるのが、やはり知識や理解でしょう。「動的平衡にある流れ」や「環世界」といった考究は、私にとって自然と生物の豊穣さを知るための良き掛け橋となってくれました。
by sabasaba13 | 2008-11-27 06:06 | | Comments(0)

「この世界の片隅に」

 「この世界の片隅に (上)」(こうの史代 双葉社)読了。名作「夕凪の街 桜の国」の作者による最新作です。時は昭和前期、広島近郊に住む主人公・浦野すずの少女時代から、お見合いにより呉の海軍に勤務する北條周作に嫁いでいくところまで描くのが上巻です。叙情にあふれるタッチや描線は健在、いやいやますます磨きがかかり、筆による多彩な表現力は見事の一語です。それらを駆使して描く当時の暮らしぶりや情景には、きっちりとした時代考証の跡がうかがえ、単なる戦争マンガとは一線を画します。非常食の楠公飯やモンペの作り方なんて、私もはじめて知りました。すずのちょっと抜けたところのある優しい性格、若い二人の初々しい新婚生活の様子なども、上手く描かれています。しかし時は1944(昭和19)年、この二人と縁者たちのまわりにも女子挺身隊への動員、建物疎開、防空壕掘りといった戦争の影がひたひたと押し寄せてきます。戦争に積極的に賛成・協力するわけではなく、かといって反対するわけでもない、日々を懸命に生き抜こうとする市井の人々の姿が印象的ですね。
 後半では1945(昭和20)年の二人、そして呉や広島が描かれるのでしょう。慄きをもってその発売を待ちたいと思います。
by sabasaba13 | 2008-11-26 19:03 | | Comments(0)

屋久島編(15):鹿児島(08.3)

 仙巌園は、1658(万治元)年に19代島津光久がこの地に別邸を構えたのを始まりとする庭園と邸宅のことです。また同地に併設された集成館も見逃せません。幕末に、島津斉彬が西欧諸国の動きにいち早く対応するため、製鉄、造船、紡績等の産業をおこし、写真、電信、ガス灯の実験、ガラス、陶器の製造など、日本の近代化をリードする工業生産拠点をつくり上げました。それが集成館。中でも1865(慶応元)年竣工の機械工場は操業当時の姿をとどめているそうです。前口上はこれくらいにして、さっそく入園してみましょう。NHK大河ドラマ「篤姫」の影響なのでしょう、けっこう来園者は多く混雑していました。入るとすぐそこに復元された大砲が展示されており、その向こうが反射炉跡です。残念ながら上ものは残っていません。たしか現存する反射炉は伊豆韮山との二ヶ所だけですね。
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 島津家の別邸(一時は本邸)として利用された御殿の前が、桜島を築山に錦江湾を池にみたてた雄大な借景をもつ磯庭園。雲一つない快晴のもと、桜島がクリアに眺望できます。
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 その先には発電用ダムの遺構がありました。
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 そしてくるっとUターンして小高い所にある道を戻ると曲水の宴のための庭園である「曲水の庭」にゆきあたります。曲水の宴とは、曲がりくねった流れに沿って処々に席をもうけ、上流から流した酒盃が前を通り過ぎないうちに詩歌をつくり、酒盃をとりあげて飲むという貴人の遊びですね。その舞台を発掘・復元してありますが、原型を残すのは日本で唯一ここだけだそうです。
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 その先にあるのが猫神。ねこがみ? 猫が大好きな私としてはそそられますね、どれどれその謂れを読んでみましょう。朝鮮に出兵した島津義弘は七匹の猫を連れていき、その瞳孔で時刻を推測したそうです。そして日本に生還した二匹の猫を祀ったのがこの神社。鹿児島市の時計業者のお祭りもここで行われるそうです。社前の絵馬にも猫に関する願い事が書かれています。「チャコがもう少し僕になつきますように」「はむとくまおが長生きしてくれますように」 中には「世界中の猫に幸福が訪れますように」という気宇壮大なものもあって微笑みをさそわれます。
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 しばらく歩くと濾過池とそれを覆う石造切妻屋根の重厚な建物(1907年竣工)がありました。その前には谷水の流れを利用して米を搗く装置「迫(さこ)ン太郎」が置かれています。この地では、小さな谷を"迫"、村一番の働き者を"太郎"と言うそうです。
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 ふと「観水舎跡・筆塚への遊歩道」という看板に目がとまりました。裏山を登ると桜島や錦江湾の眺望がよさそう、所要時間30分ということなのでとりあえず行ってみますか。気温は20度に近そう、汗を流しながら遊歩道を登っていったのですが、ま、結論を言ってしまえば生い茂った木々にじゃまされ眺めはよくありませんでした。(整備中?) 往復に三十分ほどかかったのですが、骨折り損。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2008-11-25 06:19 | 九州 | Comments(0)

屋久島編(14):種子島~鹿児島(08.3)

 種子島の南部は平地が多く、水田が集中しています。さすがは南の地、もうすでに田植えの真っ盛りです。
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 20分ほど走ると、巨大なロケット発射塔や組立棟など宇宙センター関連施設を眺望できる「ロケットの丘」に到着。うーむ、どれをとっても、莫大な金をかけたのが一目でわかる大規模な施設です。ロケット発射にはそれに値するだけの意味・意義が本当にあるのか、ちょっと疑問に思いました。運転手さん曰く、ロケット発射の時は、関係者や観光客で旅館・民宿は満員となり、島の経済は大変潤うそうです。また発射が遅延すると長逗留となるので、島の人はけっこう発射遅延を期待しているそうです。(打ち上げ中止になるとみんな引き上げてしまうので、これは困るとのこと) その際にはロケットから燃料を抜くそうで、その燃料入れ替えに数億円かかるそうです。ますますもって、「無駄な公共事業」という腐臭がぷんぷんしてきますね。
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 再びタクシーに乗り、一時間ほどで西之表港に到着、11:05発の高速船に間に合いました。このトッピーという高速船は、前後の水中翼で船体を浮上させて海上を疾走するというすぐれものです。船内の速度表示ディスプレイを見ると、時速80km前後ですね。ただデッキで潮風にあたりながら移りゆく風景を眺めるという、私の無上の楽しみは味わえません。
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 やがて右手に佐多岬と大隈半島、左手には開聞岳と薩摩半島そして指宿温泉の街並みが見えてきます。錦江湾を北上すると、周囲を睥睨する桜島の威容が目に飛び込んできました。一時間三十分ほどで鹿児島港に到着です。奄美大島への飛行機は鹿児島空港17:15発なので、三時間ほど鹿児島観光をすることにしましょう。実は以前に一度鹿児島は訪れたことがありますが、その時に見損なったのが仙巌園。港からも近いので、まずはここに行きましょう。タクシーに乗って数分で到着。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2008-11-22 06:12 | 九州 | Comments(0)

屋久島編(13):種子島(08.3)

 種子島は屋久島にくらべて、とにかく平べったい島ですね。最高点が282mというのですから、最高点1985mの屋久島とはえらい違いです。運転手さん曰く、島の産業は米・さとうきび・安納(あんのう)いも・茶とロケットぐらいだそうです。ろけっとお? ああそうか、この島には宇宙センターがあるのでしたっけ。まずは坂井神社にある日本一の大ソテツを見物。樹齢600年を越すといわれるその雄姿には瞠目です。ご丁寧に、観察するための展望台も設置されていました。なお神社には忠魂碑もあります。中央政府から遠く離れたこんな遠隔の地にまで「徴兵」という触手が伸びていたことをあらためて痛感しました。げに恐ろしきは苛政なり。途中できれいに咲き誇る菜の花畠があったので、車を停めてもらい撮影。
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 いろいろな重しを乗せた屋根をよく見かけるので、台風がよく通過するのでしょう。さらに南下していくと、彼方に山なみが見えてきました。平坦な種子島にあんな高い山があったっけ、と思いましたがすぐに気づきました。屋久島だ… まさしく「海上のアルプス」ですね。
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 そして一時間強で島の最南端、門倉岬に到着です。ポルトガル人によって鉄砲が伝えられた地で、一帯は公園として整備されていました。火縄銃を構える武士の銅像を見て、鳥居をくぐり少し歩くと「鉄砲伝来紀功碑」があります。
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 そして眼下には大きく湾曲した海岸がつづき、波が打ち寄せています。1543(天文12)8月25日、この海岸に見慣れぬ異国船が漂着し、乗船していたポルトガル人から鉄砲が伝えられたと言われています。以下、スーパー・ニッポニカ(小学館)から引用します。
 日本における銃の歴史は、1543年(天文12)に遭難し種子島に漂着したポルトガル人が、2丁のマッチロック銃(火縄銃)を伝えたことに始まる。このときに日本に伝わったマッチロック銃は、火縄が後方から前方に回転する型式で、当時ポルトガルで一般的だった火縄が後方に回転する方式と異なっていた。火縄が前方に回転する方式は中近東やインドで一般的に製造されており、日本に伝えられたマッチロック銃も、ポルトガル植民地だったインドのゴアで製造されたものの可能性が高い。
 当時日本は戦国時代で、ポルトガル人が伝えた火縄銃は、すぐに種子島でコピーされて製造され、種子島銃とよばれるようになった。各大名の新兵器に対する需要は高く、種子島だけでなく、堺や近江の国友、日野などでも製造が始められ、火縄銃は急速に日本各地に広がっていった。なかでも織田信長は、戦闘に銃を大量に使用して戦果をあげた。1575年(天正3)の長篠の戦いで織田信長は、3000丁以上の火縄銃を集中的に使用して甲州騎馬隊を撃破した。
 徳川幕府が成立すると、幕府は戦力としての火縄銃を恐れ、さまざまな制限を加えた。新たに製造される火縄銃の製造台数や口径、購入者などを制約し、新型火縄銃の開発も厳しく禁止した。幕府の銃砲に対する規制と鎖国政策によって、海外の新たな情報が流入しなくなり、日本における銃の発展改良は幕末まで停滞した。
 鉄砲が歴史に大きな影響を与えたこともさることながら、その発展・改良を抑制したことに興味を引かれます。一度手にした武器の性能を意図的に停滞させるというのは、人間の歴史においてレア・ケースだと思います。この公園には異国船の形を模した小さな展望台もあり、そこに上ると屋久島の威容を一望することもできます。また公園内には「慰霊之碑」や「出征者紀念碑」もあったので、遥か南方を見やりながらそこで戦死した島民たちを偲ぶためのものかもしれません。さて、それでは宇宙センターに向かいましょう。
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 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2008-11-21 06:07 | 九州 | Comments(0)

屋久島編(12):種子島へ(08.3)

 翌朝は午前六時に起床。みなさんは本日帰郷されますが、私はあと二泊居残って、種子島→奄美大島→加計呂麻島→喜界島とアイランド・ホッピングを続けることにします。窓を開けると美しい朝焼け、どうやら今日も好天のようですね。同室のF氏に礼を言い別れを告げ、フロントで朝食の弁当をいただき、前日にお願いしておいたタクシーに乗り込んで安房(あんぼう)港へと向かってもらいます。この時の運転手さんがなかなか饒舌な方で、短い時間ながらいろいろと興味深い話をしてくれました。まず「世界遺産は守るためのもの、稼ぐためのものじゃない」という真っ当な信念を持つ方で、そのためにも入山規制をすべきだと主張されます。最近も、狭い登山道で肩がぶつかり滑落事故があったそうです。自然保護という点では行政の立ち遅れもめだち、登山口でのレンタカー乗り入れ規制もしていないし(そのため路線バスが通れなくなることもある)、島内におけるディーゼル車規制もしていないそうです。山岳ガイドの資格についてもノータッチで、事実上野放し状態。島の外からやってきて、翌日からすぐにガイドを始めるなどというケースもあるとのこと。またブームにつられてお気軽な気分でやってくる観光客も増え、先日など空港から乗った客に「縄文杉まで」と言われて呆然、「そりゃあ行けるものなら行ってあげたいけどねえ」と苦笑されていました。うーむ、自分がすでに行ったから言うのではありませんが(言うのかな?)、そろそろ本気で入山規制をする時期なのかもしれません。自然保護もさることながら、先日実感したように、混雑した状況における登山道のすれちがいはあまりにも危険です。なお安房のすぐ近くにある宿には、林芙美子が泊まったそうです。つい先日、尾道で彼女の家と記念碑と顔はめ看板を見たばかり、異な縁ですね。だから旅は面白い。
 安房港に到着し、7:00発種子島行きの切符を買い、ターミナルで弁当をいただきました。そしてトッピーという高速船に乗り込み、種子島西之表港へ出発です。遠ざかる島影を眺めながら行けなかった所を考えていると、後ろ髪を引かれる想いです。白谷雲水峡、ヤクスギランド、大川(おおこ)の滝、屋久島灯台(1897年築)、宣教師シドッチ上陸の碑(新井白石が尋問して采覧異言を著す)、椋鳩十記念碑(作品で屋久島の自然を紹介)などなど。ま、いいや、いつの日にか我が家の山ノ神を同伴して再訪しましょう。屋久島の山ノ神との神通力比べにも興味があります。海からもこもこと盛り上がる屋久島にお別れです。
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 さて7:50に種子島西之表港に到着。実は11:05発の高速船に乗って鹿児島に行き、飛行機で奄美大島に飛ぶ予定がきっちりとできています。よって島内観光は正味三時間ほどしかできません。おまけにお目当ての鉄砲記念碑は南北に細長い島の最南部にあります。(西之表は北部) となりゃあ、タクシーしかないでしょう。港の前で客待ちをしていたタクシーに貸切料金を確認するとまあリーズナブルなもの。二時間貸切で島内観光をお願いしました。Here we go !

 本日の一枚は、屋久島の朝焼けです。
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by sabasaba13 | 2008-11-20 06:07 | 九州 | Comments(2)

屋久島編(11):森林軌道~ホテル(08.3)

 16:25に小杉谷小・中学校跡に到着、ここまで来たらゴールまであと一息です。小杉谷橋を渡ったところに真新しい金属性柱とランプが設置してあり、これが点灯しているとトロッコが走っているので要注意とのこと。調査目的等でいまだに時々運行する、日本で唯一の現役森林軌道です。なお往きの時には暗くて気づかなかったのですが、このあたりの道脇には露をしたたらせる苔類が密生しています。その筋に詳しい方が見たら、垂涎するかもしれませんね。
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 そして17:13に荒川登山口に到着、みごとに脱落者もなく全員完走です。かかった時間は11時間6分! 約束どおり迎えに来てくれていたタクシーの運転手さんも笑顔で出迎えてくれました。
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 なおここにあった注意書き看板の一部を引用しておきます。
・十分な装備で登山してください。
・ここを遅くとも午前7時過ぎまでには出発してください。
 (縄文杉まで往復で10時間程度かかります)
・縄文杉から遅くとも午後1時までに引返してください。
・体調が悪い時、悪天候時には、早めに引返してください。
 タクシーに乗り込むと、山すそのあたりでサルの姿を見かけました。
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 そして一時間ほどでホテルに到着。エレベーターの中になぜ一脚の椅子が置かれているのか、すこしわかったような気がします。荷物を部屋に置き、まずは夕陽を眺めに行きましょう。ホテルの大きなベランダに駆けつけると、いままさに陽は落ちなんとしています。しかし残念なことに岬に隠されて海に沈む夕陽は見られませんでした。茜色に染め上げられた暮色をしばし堪能。そして温泉にゆるりとつかり、夕食「尾之間の玉手箱」に舌鼓を打ちました。今夜の献立は、つわぶきの炒め煮、はんだまの胡麻和え、冷しゃぶサラダ、かるかん豆腐、きびなごの南蛮漬け、ながらめと海藻の和え物、お造り(水烏賊・真鯛・キハダマグロ)、飛魚の天麩羅、タルメのポワレ、黒豚のとんこつ煮。
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 食後は本部の部屋にみんなで参集し、互いの健闘を讃え、「三岳」の杯がをくみかわし、夜はなごやかに過ぎていきます。部屋のベランダに出て夜気に当たると、われわれを祝福するかのように満月が海の上に道を描いていました。そして充実感と達成感に包まれながら就寝。これまでも肉体を酷使するハードな旅(ex.瀬戸内海自転車縦断三仏寺投入堂、ケルン大聖堂)をいくつか挙行してきましたが、成し遂げた後のこの心地よい疲労感がいいですね。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2008-11-19 06:08 | 九州 | Comments(2)