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神楽坂編(4):赤羽(08.5)

 赤羽岩淵駅で下りると、赤いジャージを着た若者とよくすれちがいます。浦和レッズのサポーター諸氏で、これから試合観戦に行くようです。ここからJR赤羽駅まで歩いて十分ほどですが、途中に一番街という元気な商店街がありました。シャッターを閉めた店がほとんどなく、なかなかの賑わいです。鰻と鯉を商う店が多いのが目を引きます。
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 「赤羽ホルモン 良ちゃん」も真っ昼間から営業中、客はいないようでしたが。戦前の物件と一目でわかる「喫茶 ハトヤ」が店じまいしてしまったのは惜しいなあ。その前にはOK横丁という飲み屋街がありました。映画の影響でしょうか、まさかオットー・クラントンが開発したからではないよね。駅に近づくと、これまた戦前の物件らしい雑居ビルがあり、小さな店がところ狭しと犇いています。ちょっと那覇の牧志公設市場を彷彿とさせます。もっと丹念に歩き回れば、逸品・珍品にめぐりあえそうですが、先を急ぎましょう。
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 JR赤羽駅のガードをくぐり西側に出て、わき道に入るとそこは弁財天。小さな池があり、亀さんたちがのんびりと甲羅干しをしていました。
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 そのそばには、犬猫に対する憎悪を剥き出しにしたようなペットボトルの円列。車道に戻ると、看板が崩れ落ちつつある履物屋さんが「負けるものか」と健気に営業されていました。
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 さあ前掲書によると見事なエントランスを有する道灌湯という銭湯にまいりましょうか。…見つからない。こっちかな… 見当たらない。方向感覚は人並み以上だと自負していたのですが、その矜持が粉微塵に雲散霧消してしまいました。ここの街路は、文字通り、メロンの皮の皺です。直交する道はほとんどなく、起伏に富んだ地形に合わせるかのように好き勝手な方向に曲がりくねりながら走っています。前掲書の地図はおおざっぱすぎて当てになりません。山ノ神の神通力? 美味しいお菓子屋さんを見つける時ぐらいしか役には立ちませぬ。そして坂道の上り下りは、容赦なくわれわれの体力を、鑢のように削っていきました。これは出直した方がよさそう、撤っ収! 今度来るときはちゃんとした地図を持参することにしましょう。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2009-01-31 07:14 | 東京 | Comments(0)

神楽坂編(3):神楽坂(08.5)

 坂の天辺まで行き、ここでUターン。今度は下り方向右手の路地に分け入ってみましょう。おっとその前に、山ノ神が和菓子屋「五十鈴」に拉致されてしまいました。しばし彼女の買い物におつきあいです。毘沙門天脇の路地を入って行くと、このあたり一帯は住宅地のようです。印象としては高級ではなく、中流クラスの一戸建て住宅が多いようです。かつて陸軍士官学校のあった市谷が近いので、軍人などの官吏層が多かったのかもしれません。古い喫茶店を見かけなかったのも、官吏やサラリーマンが多いので昼間人口が少ないからなのでしょうか。町内会の掲示板は数多のお知らせで埋め尽くされていたので、この街には助け合いながら慎ましく暮らしていこうという気持ちがまだ息づいているのでしょうか。近くには熱海湯という元気に営業している銭湯がありました。
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 銭湯の右脇にある路地は石段となっていて、途中に「関西料理 別亭 鳥茶屋」という落ち着いた雰囲気の店がありました。小腹もへったし昼食はここでいただきましょう。お勧めの親子丼は、地鶏のしっかりとした味が楽しめる一品でした。
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 さてそろそろ飯田橋駅へと戻りましょう。途中で見かけたのが、「伏見火防稲荷神社」の小さな祠。玉垣の石柱には「東京神楽坂組合」とあり、寄進をした料亭や茶屋の名が刻まれていました。その近くには「東京神楽坂組合稽古場」という看板、芸妓衆が日々こちらで歌舞を精進されているのでしょうね。
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 またあまりにも小さくささやかな「駐輪禁止」という貼り紙も随所で見かけました。これも景観に対する配慮と、人を信じる心の為せるわざですね、おそらく。目抜き通りに出て坂を下ると、懐かしいブリキのおもちゃを店頭に並べている店。でも売り物ではないようですね。道をはさんで対面には「コーヒ手造りレストラン ジョンブル」という、ちょっと気になる店がありましたが、残念なことに閉業してしまったようです。
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 時はまだ午後一時、山ノ神のご機嫌もうるわしいようなので、飯田橋駅から地下鉄南北線に乗って赤羽へと向かいましょう。かつて工兵隊、被服本廠、火薬庫など軍の施設が集中しており、そこに勤める方々の古い住宅地として発展、その残り香が味わえるそうです。お目当ては同潤会が分譲した住宅地。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2009-01-30 06:26 | 東京 | Comments(0)

神楽坂編(2):神楽坂(08.5)

 それでは神楽坂へと向いましょう。この時に気づいたのですが、稲荷町駅入口も相当古い物件ですね。さすがは日本最古の地下鉄・銀座線です。
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 上野駅でJR山手線に乗り換え、秋葉原で中央線に乗り継ぎ、お茶の水→水道橋→飯田橋へ。飯田橋駅から堀端にそって西へ数分歩くと、牛込見附から山手の台地へ上る坂がありますが、ここが神楽坂です。江戸時代は武家屋敷と寺社地でしたが、明治の中ごろから商店街ができたそうです。関東大震災(1923)による被害を受けなかったため、その後花街として繁華を誇るようになり、昭和初期には早稲田派の文学者、演劇人たちによって広く紹介され、新宿をしのぐといわれたほどでした。今でも往時を偲ばせる料亭や路地が残っており、落ち着いた雰囲気を醸し出しているそうです。何回かは来たことがあるのですが、表通りしか歩いたことがありません。今回は裏通りや路地を中心に徘徊するつもりです。中心となる通りには老舗が散見されますが、特段の風情はありません。マ○ド○ル○やモ○バ○ガ○やロ○ヤ○ホ○トが建ち並び、町の表情を金太郎飴のように画一的で平板なものにしていました。
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上り方向の右手にある路地に分け入ると、さまざまな表情に出会えます。芸者新路、かくれんぼ横丁、本多横丁、見かえり横丁といったネーミングもいわくあり気でいいですね。鍵の手、袋小路、石段などが組み合わされて、歩いていても飽きることがありません。機能的・合理的とはとても言えませんが、先を見通せない曲がりくねった小路は精神衛生上よいものですね。角を曲がるたびに景観が変化し、視覚を刺戟してくれます。料亭や小料理屋、和風住宅の落ち着いた佇まいも興趣にあふれます。並べられた植木鉢や庭木の緑も心地よさそうに薫風に揺れていました。なお、電気・ガスメーターが露骨に露出しないように一工夫されているのが、京都を思い起こさせます。京都の場合はプライバシーを守るための措置という印象を受けましたが(壁の穴から覗き込む=敷地内に入るな)、こちらでは景観への配慮という感じが強いですね(壁面に設置されてガラス窓がついている)。
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 私が一番気に入ったのが、毘沙門天から通りをはさんで真向かいにある細い路地。まるでヴェネツィアのカッレのような光も差さぬ小路を抜けると、石段、鍵の手、旅館の黒板塀、そして庭木・生垣・植木鉢の緑に包まれた小宇宙に入り込めます。
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 ここでは首輪をつけた、人懐っこい猫に出会えました。そういえば、木戸の下部に猫用の出入り口があったり、「かわいい仔猫がいます 里親になって下さい」「ねこさがしています 飼われている方が居ましたら、心配ですのでご一報ください」といった貼り紙を見かけたりしました。「ネコのエサをかいだんにおかないで下さい」ということは、他の場所には置くのは可ということですね。猫に対するほのぼのとした愛情を感じさせてくれる街です。
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 本日の四枚です。
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by sabasaba13 | 2009-01-29 06:23 | 東京 | Comments(0)

神楽坂編(1):同潤会上野下アパート(08.5)

 昨年五月のとある土曜日、山ノ神を供奉して都内散歩に行ってきました。旅の杖は「大人のための東京散歩案内」(三浦展 洋泉社COLOR新書)、今回はまず最後の同潤会アパート・上野下アパート、そして神楽坂、もし時間と体力が余り山ノ神の機嫌がよろしければ赤羽も訪れてみるつもりです。持参した本は「愛蘭土紀行Ⅰ」(司馬遼太郎 朝日文庫)です。

 JR上野駅で地下鉄銀座線に乗り換えて一駅目、稲荷町で下りて、すぐ北側にあるのが同潤会・上野下アパートです。(台東区東上野5-4-3) 東京に残された最後の同潤会アパート、しかとこの眼に刻んでおきましょう。なお同潤会についての詳細は、西荻窪編をご参照ください。清洲橋通りを少し歩くと、その偉容がすぐ目に飛び込んできます。路地を入っていくと、鉄筋コンクリート造四階建てアパート一棟の全容を見ることができました。スクラッチ・タイルで飾られた門柱は珍しいですね。入口は三か所、建物と塀の間の空間は狭く、また中庭等もありません。狭い敷地にぎゅっと押し込まれているような印象を受けます。手押しポンプによる井戸もありましたが、もう現役ではないようです。
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 竣工は1929(昭和4)年なので、外壁の傷みはかなり進んでいます。なお最上階が張り出しているのは、独身者用の部屋が廊下をはさんで並んでいるからだそうです。建物の脇には今はもう使われていないダスト・シュート、当時は最新式の設備だったのでしょうね。
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 入口には居住者の名が、表札にまとめて記されていました。
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 それでは清洲橋通りから眺めてみましょう。窓の配置から推測すると2~4階はそれぞれ四戸からなっているようです。一階部分は床屋・クリーニング屋・飲食店。床屋入口の床のタイルがかなり古いので、これは当時のものではないかな。右手の路地に入ると、寿湯という銭湯がありました。同潤会アパートの中には共同浴場もあったと聞いておりますが、こちらはそうではないようですね。懸魚に彫られた鶴の彫り物がなかなか見事です。
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 そして周囲を一周して再び正面入口へ。あらためてしげしげと見てみましたが、とりたてて特筆すべき意匠ではありません。しかし震災で傷ついた人々を潤すための良質な集合住宅、紛うことなき記念碑的物件です。実際に住んでおられる方々は、老朽化への不安や、内部空間の狭さなどを理由に建て直しを望んでおられるでしょう。しかし、内部の全面的な補修・改装、および構造を補強するなどして、何とかして保存ができないものでしょうか。かつて民衆の福利を本気で考えていた官僚もいたという証にもなると思うのですが。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2009-01-28 06:12 | 東京 | Comments(0)

「子どもが減って何が悪いか!」

 「子どもが減って何が悪いか!」(赤川学 ちくま新書511)読了。なんともはや挑発的なタイトルですね。少子化が、若年人口・労働力の減少に伴う経済成長の鈍化+現行の年金制度の破綻をもたらすのではないかと憂慮し、何とかして出生率を上げようと喧喧囂囂侃侃諤諤、議論が飛び交っている世論に対して、一石どころかエアーズ・ロックをぶちこんだようなものです。著者の赤川氏は近代日本のセクシュアリティーの歴史社会学やジェンダー論がご専門ですが、さまざまなデータを分析した結果、どう考えても男女共同参画でも子育て支援でも少子化を防げないと判断し、あえて大勢に異を唱える本書を執筆されたそうです。
 論点をいくつか紹介しましょう。まず、社会調査のデータを分析し、出生率の低下は、既婚夫婦によるものではなく、未婚者の増加によるものであると氏は考えます。その理由については、経済力が十分でない男性と結婚して生活水準が低下するくらいなら、実家で両親と暮らしたほうがまし、という選択に傾く女性が増えたと推測されています。よって男女共同参画でも子育て支援では出生率アップは期待できず、それは別の問題として考えるべきである。ではどうすればよいか。少子化のデメリットを認めた上で、低出生率を前提とした制度設計によって、社会全体でその負担を引き受けるべきである。その際に、「子どもを育てながらの夫婦共稼ぎ」といった画一的なライフスタイルのみを奨励したり援助したりするべきではない。氏の言です。
 子どもの数は減ってもかまわない。そのかわり、ライフスタイルが真の意味で確保される「選択の自由」と「負担の分配」に基づいた制度が設計されていれば、それでよいのだ。GDPで測られるような経済成長や豊かさが仮に減少したとしても、画一的なライフスタイルをほとんど強要され、不公平な制度を続けるよりは、少子化がもたらす負担を共有しながら、誰もが自ら望む生と性を謳歌できる社会のほうが、はるかにましだ。
 そのような社会になら、住んでみても悪くない。
 日々を生き残るだけで精魂をつかいはたす、よって結婚・出産どころではないプレカリアート(不安定労働者)の激増という背景も見過ごせないと思いますが、おおむね納得できる結論です。「それを言っちゃあおしまいだよ」という声も聞こえてきそうですが、みんなが聞きたくない現実について勇気をもって語るのが知識人の役目ですよね。でもさすがに「四面楚歌」の状況で、男女共同参画は少子化防止に効果がないと主張するのは大変なプレッシャーだったようです。しかし自分が正しいと判断したことはきちんと主張しよう、もし間違っていたら素直にあやまるだけだ、という気持ちをキャプテン・ハーロック(「男には、負けるとわかっていても戦わなければならない時がある」)と佐々木健介(「正直スマンカッタ」 ※2001年3月、IWGPタイトルマッチを約束しながら、直前の試合でスコット・ノートンにタイトルを奪われ、約束を果たせなかったことに対する藤田和之への謝罪)になぞらえているのは緩頬。私のプロレス人生は、ダイナマイト・キッドVSタイガーマスクの一戦で終わっているので、後者については知りませんでしたが。

 また、リサーチ・リテラシーが重要なのだとわかったのも収穫でした。氏曰く、国や報道機関が公表したことならすべて事実に違いないと信じる「素朴な人」の段階をこえて、公表されているデータに対して疑いの目を向ける、つまりツッコミを入れられる人になること、そして最終的には妥当な統計とそうでないものを区別できる「批判的な人」になることを目指すこと、です。
by sabasaba13 | 2009-01-27 06:08 | | Comments(0)

蝶々夫人

c0051620_9383090.jpg 先日、プッチーニのオペラ「蝶々夫人」を見て聴いてきました。カルロ・モンタナーロ指揮の東京交響楽団、演出は栗山民也、場所は新国立劇場オペラパレスです。「蝶々夫人」と聞くと、どうしても三木のり平が♪行~かないで行かないで、お願いピンカートン♪と唄う桃屋の「いかの塩辛」のアニメCMを思い出してしまう方、♪君も今日からはぼくらの仲間♪です。昔のCMって知的レベルが高かったなあと思いつつ、人口に膾炙する超有名な名作オペラ、これまで実演を聴いたことがなかったので楽しみにしていました。20世紀初頭の長崎、アメリカ海軍将校の現地妻とされた若い元芸者が捨てられ二人の間に生まれた子供も奪われ、絶望して自害するというストーリーです。シンプルな筋立てであるだけに、蝶々さんの揺れ動く気持ち、喜び、怒り、不安、悲しみにどっぷりと感情移入できます。そしてなんと美しいメロディに満ち溢れたオペラであることよ、多彩な管弦楽の音色とも相俟って、聴き惚れてしまいました。「ある晴れた日に」「可愛がってくださいね」「さよなら坊や」など、素晴らしいアリアの数々に時を忘れてしまいました。蝶々夫人を演ずるカリーネ・ババジャニアンもいいですね、別名"ソプラノ殺し"と呼ばれる出ずっぱりの難曲ですが、その美しい声で歓喜と悲哀と絶望を見事に歌いきりました。ブラーバ! 舞台は、抽象的に表現された日本家屋と、長崎の坂を象徴する大きな階段のみというシンプルなものですが、照明を上手に使っていたのが印象的。港町の明るい空、障子を閉め切った室内の陰翳、それと蝶々さんの心象をうまく組み合わせていたように思います。階段の最上部にはピンカートンを象徴する星条旗がはためいていますが、利得や権益を求めて世界各地を荒らしまわる現在のアメリカを象徴させた演出と見るのは穿ちすぎかな。オーケストラも、歌心に充ち、ダイナミクスの変化にも富んだ演奏を聴かせてくれました。おまけに、席は二階最前列ど真ん中、ここは初体験ですがいいですね。舞台全体を一望でき、電光の字幕を見るために首を横に振る必要もなく、歌手の歌声がストレートに響いてきます。というわけで名作と名演と名席を堪能できた、ある素晴らしい土曜日の午後でした。やはりオペラはいいものですね、さあ次は何を聴こうかなとパンフレットでこれからのラインナップをチェックすると、「ヴォツェック」と「カルメン」がありました。うん、これは唾をつけておこう。

 余談です。桃屋のホームページで過去のCMを見ることができました。さっそく蝶々夫人編(1971)を拝見、山ノ神と二人で懐かしさのあまり感涙にむせぶとともに、「行かないで~。イカあった、いかった。桃屋のいかの塩辛」と、いかの塩辛をつまみに、やけ酒を飲む三木のり平=蝶々夫人に大笑い。なお解説によると、彼は"ピンカートン"ではなく"ビンカートン"と歌っており、これは桃屋の瓶詰めにかけて洒落、瓶・カートンだそうです。恐れ入谷の鬼子母神。
by sabasaba13 | 2009-01-26 06:13 | 音楽 | Comments(2)

戦争遺跡

旧旭川偕行社(北海道旭川)
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旧題七師団覆馬場(北海道旭川)
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旧陸軍第七師団北鎮兵事記念館(北海道旭川)
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弾薬庫(千葉県習志野市泉児童公園)
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高射砲台座(東京都北の丸公園)
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旧近衛師団司令部(東京都竹橋)
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防空壕(御殿場秩父宮記念公園)
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御殿山第二砲台(北海道函館)
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監的哨(三重県神島)
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旧第四師団司令部(大阪城公園)
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旧海軍望楼(北海道宗谷岬)
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トーチカ(北海道根室半島)
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高射砲台座(アウガルテン ウィーン)
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塹壕(イタリア チンクエ・トッリ)
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第三台場(東京都)
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山田の凱旋門(鹿児島県姶良町)
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葭津掩体壕(鳥取県米子)
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摩天崖監視所跡(隠岐西ノ島)
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モスタル(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ)
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凱旋紀念門(浜松市渋川)
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浦上天主堂(長崎)
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壱岐:黒崎砲台跡
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竹敷(対馬):水雷艇ドック跡
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鶏知住吉神社(対馬):ロシア海軍の浮遊機雷
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対馬:棹崎砲台跡
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対馬:豊砲台跡
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高知空港周辺:掩体壕
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高知空港周辺:掩体壕
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竜飛岬(青森):旧海軍監視所
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板橋(東京):板橋火薬製造所圧磨機圧輪記念碑
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船浮(西表島):防空壕
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船浮(西表島):弾薬庫
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高尾(東京):浅川地下壕
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長野:松代大本営
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首里(沖縄):司令部壕
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江戸東京たてもの園:焼夷弾の破片で傷ついた植村邸
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十条(東京):旧陸軍造兵廠本館
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立川(東京):旧日立航空機株式会社立川工場変電所
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那覇:海軍司令部壕
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鹿児島:私学校跡
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テニアン島:エイブル滑走路
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テニアン島:ハゴイ空軍基地
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テニアン島:日本海軍司令部跡
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テニアン島:日本海軍通信所跡
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サイパン島:ナフタン岬
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サイパン島:ラウンディング・ビーチ
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サイパン島:ラウンディング・ビーチ
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マニャガハ島

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マニャガハ島:LVT
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北海道旭川:旭橋
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長崎:一本柱鳥居
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広島:平和記念公園
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横須賀:猿島要塞
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横須賀:記念艦「三笠」
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観音崎:三軒家砲台跡
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観音崎:北門第一砲台跡
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観音崎:本土決戦用トーチカ
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館山:海軍航空隊掩体壕跡
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館山:赤山地下壕跡
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波左間:「震洋」特攻基地
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内原:満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所の日輪兵舎
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伊万里:川南造船所
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呉:旧魚雷揚げ下しクレーン
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針尾:通信塔
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大久野島:毒ガス貯蔵庫
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大久野島:発電所
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川棚:片島魚雷発射試験場跡
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川棚:片島魚雷発射試験場跡
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川棚:石木地下工場跡
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大津島:魚雷発射試験場跡
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東舞鶴:赤れんが倉庫群
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東舞鶴:海軍記念館
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北海道:函館山要塞
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平塚:防空壕入口
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テニアン島:防空壕
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友ヶ島:第一砲台跡
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友ヶ島:第二砲台跡
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友ヶ島:第三砲台跡
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友ヶ島:第三砲台跡
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友ヶ島:第五砲台跡
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加計呂麻島:特攻艇「震洋」基地
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加計呂麻島:安脚場戦跡
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加計呂麻島:戦闘指揮所跡
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江田島:旧海軍兵学校
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by sabasaba13 | 2009-01-25 08:03 | 写真館 | Comments(0)

阿佐ヶ谷・高円寺・西荻窪編(8):西荻窪(08.5)

 アントニン・レーモンドの名前が出たついでに、一つエピソードを紹介しましょう。(参考文献:「建築探偵 神出鬼没」) 日本で活躍したレーモンドは1938(昭和13)年にアメリカに帰国し、軍が立案した計画に参加することになります。それは"空襲"という日本の木造都市だけに有効な世界初の戦略で、アメリカ軍もその実効性には疑問がありました。そこで日本の都市や建築事情を知悉しているレーモンドを招き、彼の指導でユタ州に木造の町が作られ、繰り返し燃やされたそうです。戦後、彼は再び来日し活動を開始しますが、当然の如く日本の建築家から強い批判をあびることになります。しかし彼はこの計画に参加した理由については、黙して語りませんでした。藤森氏はその理由について、こう推測されています。レーモンドはチェコ出身で、彼が建築の勉強のため渡米した後、ナチス・ドイツによる侵攻が行われました。その際に、彼の五人の弟と妹は、ある者は国外脱出をはかって処刑され、ある者は強制収容所に送られて消息を絶ってしまいます。彼は、ナチス・ドイツと手を組む日本を叩くことによってしか、自分たちは救われないという思いがあったのではないか。そして以下は私の推測ですが、戦後彼が高崎の音楽センター建設に献身的に協力したのは、ある種の罪滅ぼしの意があったのではないか。
 大学の前には「音楽と絵と… 珈琲 グリンカ」という喫茶店がありました。「ルスランとリュドミラ」を作曲したロシア五人組の一人、あのグリンカのことでしょうか。地蔵坂上に向かう女子大通りを右に曲がると、つきあたりにあるのが天徳湯、豪壮な切妻造+二連の千鳥破風が印象的です。外国人向けに、英語版銭湯の入り方が掲示してありました。
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 この路を駅方向へと歩くと、一帯は邸宅が建ち並ぶ閑静な住宅街です。年輪を感じさせる庭木、瑞々しい生垣、ところどころにある戦前の物件らしき和風・洋風の家屋、見飽きることがありません。きれいな生垣と庭木に魅かれて、ふらふらと脇の路地に何度入り込んだことか。
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 こちらで古い表札を二つ発見。「杉並區松庵北町八十七番地」と「東京府武蔵野町吉祥寺一.一.六」ですが、後者はかなり珍しいものではないかと自負しています。
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 ある路地には、逆U字型鉄柵ではなく、ステンレス製の円柱が一本立っているだけの車止めがありました。そうか、あの化物を路地から締め出すには、こんなシンプルな存在だけでいいんだ。「21世紀の開幕栄光の前半に向って」というわけのわからない不動産屋の広告もありました。
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 ガードをくぐり駅の南側に出て、最後の目的地である喫茶店「ダンテ」に寄りましょう。シックで落ち着いた雰囲気の店内で、美味しいブルー・マウンテンをいただきました。画一的・無機的なチェーン店のコーヒー・ショップが氾濫する中で、こうした個性的な喫茶店を存続させている西荻窪の方々に敬意を表したいと思います。
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 というわけで東京小さな旅はこれにて終了。上品で落ち着いた阿佐ヶ谷、雑駁で元気あふれる高円寺、そして閑静ながらもゆるゆるとした個性のある西荻窪、それぞれ味わい深い散策を満喫することができました。一つ心残りは、荻窪にある近衛文麿の邸宅「荻外荘」(荻窪2-43-20)に行くのを失念してしまったことです。また機会を見つけて寄ってみたいと思います。
 後日談。「うさぎや」のどら焼きを山ノ神に献上したところ、上野の本家とは微妙に味は違うが甲乙つけがたい美味しさであるぞよ、と評されました。私も同感。それではここでクエスチョン、下の何の能もない二枚のどら焼きの写真、どちらが上野の「うさぎや」でどちらが阿佐ヶ谷の「うさぎや」のものでしょうか? 正解は… どっちだっけ…
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2009-01-24 07:25 | 東京 | Comments(0)

阿佐ヶ谷・高円寺・西荻窪編(7):東京女子大学(08.5)

 そのすぐ近くにあるのが善福寺公園、二つの善福寺池からなる小さいけれど気持ちの良い公園です。ボートで遊ぶ親子連れや、その上ではためく鯉のぼりを眺めながら、しばし畔にそって散策。広場で遊んだりお弁当を食べたりしているみなさんの顔は、目にも鮮やかな新緑に染まっているようです。柄にもなく「万緑の中や吾子の歯生え初むる」という中村草田男の句を思い出してしまいました。
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 そして、みなさまお待たせしました、いよいよ東京女子大学への突入です。「入れるわけがねえだろ」という声がどこかから聞こえてきますが、何をおっしゃるうさぎさん、実は…入れませんでした。九牛の一毛とも言うべき可能性に賭けて正門に近づき、「決して怪しい者ではありません、建築好きの善良な一市民です」という感じの笑みを満面にうかべて、スペンサー・トレイシーにくりそつの警備員の方に入場許可をもらおうとしましたが、氏は穏やかかつ毅然とした態度で「電話で許可を得れば平日のみ見学できます」とおっしゃられました。「ご無体な、そこをなんとか」とくらいついたら一騒動になりそうなので、ここは鞘を収めましょう。撤退! 悔しいので門の外から、シンボルとも言うべき白亜の図書館を撮影しようとすると、二台の大型バスが邪魔して全体像が見えません。Everything happens to me…
 このままだと、女子大生の芳香を嗅ぐのが目的かと誤解されそうなので、なぜ東女にこだわるのか弁明をしておきます。わが敬愛する建築史家・藤森照信氏曰く、もっとも美しい東京の女子大。(「建築探偵 神出鬼没」 朝日新聞社) アントニン・レーモンド設計による個々の建物もさることながら、計画的に配置された建築群の整った美しさが見事だそうです。氏は、こうした基本的プランを立案したのは創立者のカール・ライシャワー(エドウィン・ライシャワーの父上)ではないかと推測されています。そして氏が絶賛するのが、1922年につくられた鉄筋コンクリート製・コンクリート打ち放しの学生寮です。鉄筋コンクリートが普及するのは関東大震災(1923)以降、それ以前ではきわめて珍しいとのこと。学外や学内の片隅ではなく、なかなか良い場所に、最も早くしかも最新の技術でつくられたのがこの学生寮なのですね。学生の暮らしの場を重視する、これは大した見識だと思います。以上、弁明になっているでしょうか。
 遠望しただけですが、この図書館(現本館)はいいですねえ。全体像を写した写真を見ると水平線の強調がフランク・ロイド・ライトを彷彿とさせますが、それもそのはず、レーモンドは帝国ホテルの設計スタッフとしてライトに連れられて来日したのですが、工事途中でケンカ別れをして独立、その後すぐに手がけた仕事だからですね。印象的な形の屋根は、武蔵野の民家を模したのではないか、と門前の解説板に書いてありました。前面に刻まれている"QUAECUNQUE SUNT VERA"というラテン語は、「すべて真実なこと」という意味だそうです。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2009-01-23 06:10 | 東京 | Comments(0)

阿佐ヶ谷・高円寺・西荻窪編(6):同潤会住宅地(08.5)

 信号からしばらく歩き、二本目の左折する路地に入ると、そのあたり一帯が同潤会住宅地です。釈迦に説法ですが、いちおう同潤会について説明しておきましょう。ウィキペディアからの引用です。
 同潤会は、関東大震災後、国策により設立された財団法人で、帝都復興の一環として住宅供給を目的とした。(中略) 1923年(大正12年)の関東大震災により、東京・横浜の市街地は大きな被害を受けた。下町では木造住宅が密集しており、街区の整備も遅れていたことから被害を大きくした。既に震災前から、不燃造の集合住宅の必要性が認識され、東京市・横浜市では鉄筋ブロック造の集合住宅を造り始めていたが、計画的な供給が課題になった。内務省は国内外から寄せられた義捐金の中から1000万円の支出を決定し、震災の翌年1924年5月、財団法人同潤会が設立され、都市計画家、建築家が評議員や理事に就任した。さっそく東京・横浜に木造バラックの仮設住宅を建設し、1925年8月から同潤会最初の鉄筋コンクリート造の集合住宅である中之郷アパートの建設が始められ、1926年8月に竣工した。(中略) 以後は同潤会の設計部が中心になって東京・横浜に次々と同潤会アパートが建設された。
 同潤会が目指したものは主に都市中間層向けの良質な住宅供給(アパートメント)で、それに付帯してスラム対策の住宅建設(改良住宅)も行った。
 というわけです。なお前掲書で教示していただいたのですが、名称の由来は「沐同江海之潤」という漢詩の一節(川や海が広く遍くこの世を潤す)で、震災で傷ついた人を潤したいという高い志をあらわしているそうです。その中心となったのが内務省の初代都市計画課長・池田宏、彼は米騒動など多発する都市騒擾対策として住宅問題の解決が重要であると考え、住宅会社法を議会に提出しようとしますが大蔵省の反対で廃案になってしまいます。その彼が震災のどさくさに紛れて義捐金の一部を使って立ち上げたのが同潤会、いうなれば潰された住宅会社法のリベンジですね。こうした官僚がかつていたことを、そして今や"この世を潤す"といった高潔な志をもつ官僚は(たぶん)存在せず、己の地位と利権を守ることだくに汲々としているのが現状であろうことを、銘肝しましょう。ここだけの話、霞ヶ関には「己潤会」という地下組織があるのではないのかな。
 閑話休題、こちらの同潤会住宅地はお馴染の集合住宅形式ではなく、一軒の家に二~四戸の世帯が住む普通住宅が中心だったそうです。残念ながら当時の建物は見つけられなかったのですが、桜並木や小公園に往時の面影を偲ぶことができました。余談ですが、同潤会アパートは2007年の時点で上野下アパートを残すのみだそうです。これは見にいかなくちゃ。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2009-01-22 06:16 | 東京 | Comments(0)