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言葉の花綵25

 学校の任務は、将来を築くという困難な事業への楽観的な展望を与えることにある。(スウェーデンの中学教科書)

 自分の耳が許す音だけが音楽である。(F・ショパン)

 われわれ人間が自然に対して勝ち得た勝利にあまり得意になりすぎることはやめよう。そうした勝利のたびごとに、自然はわれわれに復讐する。なるほどどの勝利もはじめは、われわれの予期したとおりの結果をもたらしはする。しかし、二次的、三次的には、それはまったく違った予想もしなかった作用を生じ、それらは往々にして最初の結果そのものを帳消しにしてしまうことさえある。(フリードリッヒ・エンゲルス)

 「嫌いなものは殺してしまう、それが人間のすることか!」
 「憎けりゃ殺す、それが人間ってもんじゃないのかね?」 (『ベニスの商人』より)

 私は人を怒らせるか、笑わせるかしか考えていない。(寺西和史判事補)

 三匹の蛙が牛乳の容器のなかに落ちた。悲観主義の蛙は、何をしてもどうせだめだからと考えて、何もせずに溺れ死んだ。楽観主義の蛙は、何もしなくても結局うまくゆくだろうと考えて、何もせずに溺れ死んだ。現実主義の蛙は、蛙にできることはもがくことだけだと考え、もがいているうちに、足もとにバターができたので、バターをよじ登り、一跳びして容器の外へ逃げた。(フォン・ヴァイツゼッカー)

 みんなで渡れば怖くない? しかしどこへ渡るかによっては何百万人が死ぬかもしれないのである。(加藤周一)

 いくら逃げ出したくても、心の中で物事に対する最終的決断を下す部分が、逃げ出すわけにはいかない、と考えている。(『決着』 ディック・フランシス)

 わが宿は はしらもたてず ふきもせず 雨にもぬれず 風にもあたらず (一休宗純)

 能うかぎり善行をなし 何ものにもまして自由を貴び たとい王座の側にあるも絶えて真理を裏切ることなかれ (ベートーヴェン)

 丸山眞男の生き方で学ぶべき最大なるもののひとつは、けじめ-精神の貴族性(アリストクラシー)ではないか。

 教師のもっとも大切な役割は、弟子に対し具体的なことを抽象的に思考する訓練を施すこと、即ち、出来事や事件を抽象的思考に置き換える癖をつけることである。(中野雄)

 音楽とは音に託して伝える心のメッセージである。(フルトヴェングラー)


 麻薬をやって、ジャズがうまくなるはずがない。もしそんなことをいう先輩がいたら、麻薬についてビリー・ホリデイ以上に、何を知っているかとききただしてみるといい。

 不幸以外の何物をも期待しないでいると、わずかながら、幸福の日がめぐってくるかもしれない。

 私は二晩つづけて、一つの歌を同じように歌うことはできない。まして二年も十年もたっては絶対である。もしそれができるようなら、それは音楽ではない。それは機械か、練習か、ヨーデルか、ともかく音楽というものじゃない。(ビリー・ホリデイ)

 「あなたは、いつも違ってお弾きになりますね」
 「それは違うのが当然なのです。どうしてそれが不思議ですか? 自然がそうなのです。私たちは自然ですからね」(パブロ・カザルス)
by sabasaba13 | 2010-03-31 06:09 | 言葉の花綵 | Comments(0)

松本・上高地編(26):松本城(09.5)

 こちらのすぐ隣にあるのが旧司祭館。長野県最古の西洋建築で、1889(明治22)年に松本カトリック教会司祭の住宅として建てられました。下見板張りの瀟洒なアーリー・アメリカン様式で、内部を無料で見学できます。廊下ぞいに配置された大きなガラス窓が印象的でした。
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 すぐ近くには現在の開智小学校がありましたが、古い校舎の意匠を取り入れたものでした。今でも自由経済(弱肉強食)社会への適応訓練がここで行われているのでしょうね。遠くに見える旧開智学校が「覆轍を踏まないでくれよ」と苦笑いをしているような気がしました。そして数分ほど歩くと、まるでお堀に浮かぶ黒い孤島のように屹立する松本城に到着です。天守閣が黒の下見板張りとなっていることから、烏(う)城とも呼ばれます。石川数正・康長親子によって、1597(慶長2)年ごろに五層六階の天守閣が完成したそうで、現存の天守閣のなかでは、犬山城天守閣、丸岡城天守閣に次いで三番目に古いものです。黒い下見板が壁面のほぼ七割を占めているところが、その古さを物語っています。後になると延焼を防ぐために、姫路城のように白漆喰壁が多用されるようです。一見、黒い城の方が白い城より堅固なようですが、実は逆なのですね。最上階に上ると、松本の町と北アルプスを一望の下に見渡せます。
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 されそれでは時間の余裕もあるので、歩いて駅に向かうとしましょう。車道の端が「自転車専用」と大書された幅広いレーンとなっているのには、識見を感じます。エコ・カーなぞという寝惚けたことをぬかしている暇があったら、自転車専用道路の整備と路面電車の導入、市街地への車乗入れ制限といった措置を行政がとるべきだと強く主張します。駅へと続く道路は今町通りといい、江戸時代には大手門を起点とする糸魚川街道の出入り口として栄えた商業の町だそうです。その名残でしょうか、スパニッシュ風装飾をもつ古いビルディングを見かけました。
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 歩道には松本城築城四百年を記念して、いくつもの道祖神が置かれています。その中の一つは、恵比寿さん(?)が貯めこんだ小銭を狙って、にこやかに小槌を振り下ろして彼を撲殺せんとする大黒さんにしか見えません。まさかね。駅近くには、「マジックショップ 風流庵」「走り抜けるだけが人生かい ほっと一息 コロちゃん家」「銀河系マホー使い協会」「しなの南京玉簾協会」という看板を掲げる摩訶不思議なお店がありました。こういう怪しい/いかがわしい物件って、町の魅力を増す重要なアイテムだと愚考します。
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 そして松本駅に到着、牛肉弁当を買い込んで特急列車に乗り込み、帰京の途につきましょう。甲府のあたりでは、綿帽子をかぶる富士山の山頂を車窓から見ることができました。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2010-03-29 07:45 | 中部 | Comments(0)

松本・上高地編(25):開智学校(09.5)

 それでは中に入りましょう。扉や灯りのところなどに彫刻がほどこされていますが、外観とは違い全体的に質素なつくりです。
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 二階の講堂には半円形のステンドグラスがありましたが、当時の子どもたちはこれを見てびっくらこいたでしょうね。なお当然あるものと思っていた御真影の遥拝所が付設されておりません。この校舎が建てられた1876(明治9)年の段階では、まだ御真影を利用して天皇崇拝をすりこむ儀式は行われていなかったのかもしれません。
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 そして外に出て、もう一度外観をしみじみと眺めました。これまでは、単純に当時の人々の教育にかける熱い想いに感服しながら明治の学び舎を眺めてきたのですが、先日「日本の歴史十三 文明国をめざして」(牧原憲夫 小学館)を読む機会があって、それとは別の見方も必要だなと教えられました。以下、引用します。
 多くの地域指導者の念頭にあったのは、「国体」「国の富強」といった観念よりも、幕末以来の混乱を収拾し地域秩序を回復させなければ村の発展は望めないという、切迫した思いだった。武蔵国多摩郡で小野郷学をつくった石坂昌孝らは、明治五年(1972)の「誓則書」で、<孝悌をおさめ、道理を弁え、御法度を会得致させ、風俗を正しくすべきため>と学校を位置づけている。彼らが依拠したのは、これまでと同じく儒教倫理と勤勉実直を説く通俗道徳であり、目の敵にしたのは、やはり若者組だった。
 もともと近世後期の教育熱の高まりも、若者組から子どもを引き離す意図があったとされる。(p.126)

 「小学生」が雑多であればあるほど、一定の教育水準を確保するには統一的で厳格な試験が必要だった。何より、いまや自由経済、弱肉強食の社会である。物乞いへの施しは功徳だといった<頑愚固陋>の通念を打破し、試験という難関を突破する意欲と実力のある者こそが<一身独立><立身出世>に値する人間なのだということを、子どもや親に痛感させる必要があった。
 それだけではなかった。始業時間の10分前に登校し、起立・礼・着席から教科書の取り出しまでを号令に従って素早く行ない、細かい時間割に区分された授業をじっと座って辛抱強く受けつづける、そうした身体―精神規律を身につけた者こそが文明社会に適合的な人間であり、近代的な組織体、とりわけ軍隊や工場が求めたものだった。試験は学習の成果のみならず、そうした規律を身につけたかどうかを点検する場でもあった。(p.134)
 うーむ、なるほど。地域秩序の回復、自由経済(弱肉強食)社会への適応とそのための訓練、子どもたちをめぐる様々な思惑が、こうした斬新なデザインの校舎の中でせめぎあっていたのですね。しかも子どもたち自身のためというよりは、大人たちの利害のために。近代社会のもつ光と影、その双方についてきちんと考えねば、とあらためて思いました。なお旧開智学校は、愛媛県宇和町の開明学校の姉妹館として提携しているそうです。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2010-03-28 07:09 | 中部 | Comments(0)

松本・上高地編(24):開智学校(09.5)

 松本駅に着いたのは午後三時ちょっと過ぎ、今日は晴れているので駅前通りの正面にくっきりとした山なみを拝むことが出来ます。午後五時の特急で帰郷する予定ですので、それほどのんびりと構えているわけにもいきません。泣いて馬謖を斬る、ここはタクシーに乗って一気に旧開智学校まで行くことにしました。そして駅から十分ほどで到着、いやはや、ど派手、キッチュ、奇妙奇天烈、ユーモラス、悪趣味、どんな表現を使っても笑い飛ばされてしまうようなおおらかな建物です。いわゆる擬洋風建築で、木造二階建て・寄棟造り・桟瓦葺きの和風建築に、中央部の八角塔屋やバルコニーなど洋風テイストを加味したものです。圧巻は中央部分、洋風八角塔の下には唐破風、その下には「校学智開」という看板を支える二人の天使、バルコニーの手すりには雲がもくもくとわきたち、その下の欄間では龍がのたうっています。ここまで無茶苦茶でくどくて濃いと、もう大工棟梁の立石清重にスタンディング・オベーションをするしかありません。ブラーボ! なお「建築探偵 雨天決行」(藤森照信 朝日新聞社)の指摘によると、天使と看板の意匠は、棟梁の立石清重がデザインの手がかりを得るべく東京・横浜の洋館見学にやってきて、その時手に入れた「東京日々新聞」の題字のデザインを流用したものだそうです。「東京日々新聞」は三面記事的なできごとを絵入りで伝える、今で言う写真週刊誌で、東京見物のかっこうな土産でした。なおよく見ると天使に本来ないはずの一物がついていますが、これは戦後の修理の時、文化庁の人が「それではまずい」と気を利かせてくっつけたそうです。何がまずいのか、よくわかりませんが。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2010-03-27 07:13 | 中部 | Comments(0)

松本・上高地編(23):新島々駅(09.5)

 まだ午後一時過ぎなので、座席は六分ほどしか埋まっていません。バスは新緑の大合唱の中を、いくつものダムを通り過ぎながら快走していきます。途中で梯子型のシンプルな半鐘付き火の見櫓を発見。「河岸段丘の味な町 波田(はた)」という看板がありましたが、「河川の流路に沿う階段状の地形で、氾濫原よりも高い位置にあるものをさす」河岸段丘と味がどういう関係にあるのだろふ??? 車窓を流れる風景を見ながらうつらうつらしているとあっという間に新島々に到着です。
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 松本行き列車が発車するまでまだ時間があるので付近をぶらぶらしてみました。道路をはさんだところに、旧島々駅舎が保存されて、物産販売所として活用されています。スイスの山小屋風のちょっと洒落た駅舎です。そして「島々の生んだ自然と童心の版画家 加藤大道 常設展」という掲示のあるカフェ「プレイエル」を発見。ぷれいえる? うーむ記憶のどこかに引っかかっていますがどうにも思い出せない… ま、時間もあるし、瀟洒な雰囲気だし、珈琲をいただくことにしましょう。中に入ると、上品な初老の女性店主が、地元の方らしき男性と和やかに談笑されています。珈琲を注文し、できるまで隣に併設されたギャラリーで加藤大道氏のほのぼのとした版画を鑑賞。はじめて知った版画家ですが、なかなかいい味ですね。そして趣味の良いカップで香り高い珈琲を堪能。列車を待ちながら、雰囲気の良い喫茶店で美味しい珈琲を飲む、私にとって、村上春樹氏言うところの小確幸(小さいけれども確固たる幸せ)です。それにしてもプレイエルって何だっけ… 列車に乗り込んだところでハタと思い出しました。ショパンが愛用していたピアノメーカーの名前だ! 今にして思えば、店主に尋ねた上で、その由来を聞けばよかったものを。後の祭り、後悔先に立たず、でした。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2010-03-26 06:08 | 中部 | Comments(0)

松本・上高地編(22):明神池(09.5)

 さて出発です。ふたたび河童橋に戻りますが、明神池に行くには川の北岸と南岸、二つの遊歩道があるようです。往きは橋を渡って北岸のコースを選択しました。しばらく歩くと、岳沢口湿原の中に板が組まれた遊歩道となります。眺望はよくありませんが、鏡のような水面に木立や新緑が映り、目を奪われます。時々姿を見せる瀬の流れからは、清々しい涼気がほとばしります。
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 おっ、繁みの中にニホンザルを発見。パンフレットによると、近年、上高地ではサルの人慣れが進んでおり、自然の中で生きることに困難をきたすケースも増えているとのこと。監視員がサルの追い払いをしているが、決していじめているわけではないのでご理解を、という訴えもありました。わかってま、わかってま、可愛い小猿でしたが、餌などやらず遠くから眺めるだけにしましょう。やがて明神橋が見えてきましたが、河童橋からここまで約一時間といったところです。
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 橋の手前を左にすこし行くと嘉門次小屋があり、食事をとれるようになっています。もともとは上條嘉門次が1880(明治13)年に建てた山小屋で、前述のウォルター・ウェストンの山案内をしたことによってその名を知られます。当主は彼の四代目で曾孫にあたるそうです。
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 その隣にある公衆トイレは、維持管理に費用がかかるため100円程度の寄付を求められるチップ制トイレでした。そしてその隣に穂高神社奥宮があります。九州に栄えた海運民族の安曇氏が、信州に新天地を求め、かつて湖水であった安曇野を干拓して土地をつくった言い伝えにより、海陸交通守護、北アルプスの総鎮守として穂高見神(ほだかみのかみ)が祭神として祀られているそうです。なお明神池は神域の中にあるため、300円の拝観料が必要となります。
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 お金を払って神域の中に入ると、明神一之池・二之池がありました。鬱蒼とした木立に囲まれた、神韻縹渺とした幽玄な雰囲気を期待していたのですが、さにあらず。視界が開けた明るい雰囲気の中に、ぽんぽんと並ぶ普通の二つの池という印象です。私は、より広大な情景を映し出す大正池の方が好きですね。
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 そして明神橋を渡って、梓川南岸の遊歩道を歩いて河童橋へと戻りましょう。川越しに正面に見える勇壮な山が、明神岳。数分歩くと宿・食堂と無料の公衆トイレ(無料)があります。
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 ここからの道はほとんどが林間を通るもので、眺望もあまり良くなく、往きに歩いた湿原コースほど景色の変化はありません。それでもたくさんの、ほんとにたくさんのハイカーとすれちがいました。
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 途中にはニリンソウの群落があり、緑色の絨毯の上に可憐な白い花が咲き誇っていました。ある巨木には解説板がかけられており、「シナノキ 樹皮がやわらかくて強く綱や( )紙等に用いてきた。長野県以北の温帯に多く分布。昔朝廷は京都に最も近い長野県から紙を献上させ信濃の国名はシナノキが多いので名づけたと言われる。シナとはアイヌ語で結ぶ意味」と記されていました。へー、勉強になりました。すると向こうからやってくる老夫婦、その奥方が遠目で「あらっシナノキだわ」とのたまいます。凄い、よくわかりますね。植物の名前に関しては天神様に見離された小生、思わず感嘆してしまいました。
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 そして河童橋に到着、明神橋からここまで約一時間でした。時刻は午後一時、さきほどもらった整理券は13:20発のバスなのでちょうどいい頃合いですね。ターミナルに行くとバスの前で係員が十人ごとに整理券をチェックして、バスに乗せていました。「十分前に集合」という注意書きがありましたが、遅れるとキャンセル扱いにされてしまう恐れもありそうです。ご注意を。

 本日の十枚です。
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by sabasaba13 | 2010-03-25 06:14 | 中部 | Comments(0)

松本・上高地編(21):河童橋(09.5)

 さて歩を進めましょう。時には林間の、時には梓川ぞいの道を新緑に染まりながらのんびりと歩いているだけでもう幸せ。
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 前方には木々の間から穂高連峰が、振り返ると焼岳が見え隠れし、「登っておいでよ」と語りかけてくれますが、無理無理。
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 そして穂高橋から一時間弱で河童橋に着きました。解説によると、芥川龍之介の『河童』は、このあたりが舞台だそうな。また名前の由来については、河童が住んでいた、橋のない時代に荷物を頭に結わえて川を渡る人の姿が河童に見えた、また水遊びをするには危険な深い淵に子供を近づかせないために河童がいると脅した、等々諸説紛々のようです。そして橋を渡って対岸から望む光景が、よく写真などで紹介されているものでした。見慣れたものとはいえ、やはり実際にこの眼で見ると感動的です。清冽な梓川とそこにかかる吊橋、両岸の瑞々しい新緑、V字型の谷の向こうには残雪をいただいて聳える峨峨たる穂高連峰。ちなみに左から、西穂高岳、間の岳、天狗岳、畳岳、奥穂高岳、吊尾根、前穂高岳、明神岳です。いやあ絶景絶景眼福眼福、しばし紫煙をくゆらしながら堪能いたしました。
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 なお橋の付近には食堂やトイレがあり、時刻は十時半ですが、かなりの人で賑わっていました。なおこちらのトイレの男女別表示は、愛らしい河童の顔。
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 そしてここから林の中を五分ほど歩くとバスターミナルです。まずは窓口で帰りのバスの整理券をもらいましょう。これから明神池へと往復するので、ゆとりをもって三時間と見て、13:20発バスの整理券をもらいました。そして昼食、昨日の運転手さんが言ったとおり、食べ物はかなりの高額です。途中にあった店では、もりそばが850円、卓袱台があったら蹴り倒したくなるようなお値段でした。「なんくるないさあ」と、忠告どおりに食事を持参しなかったことを今更悔やんでも後の祭り、やむをえず高い山菜おにぎりを二つ購入して食べることにしました。
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 本日の四枚です。
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by sabasaba13 | 2010-03-19 06:18 | 中部 | Comments(0)

松本・上高地編(20):大正池~田代橋(09.5)

 そして1915(大正4)年の焼岳の大噴火によって生じた火災泥流が梓川をせきとめてできたのが大正池。昨日のタクシーの運転手さんは、土砂でかなり埋まっているから見る価値はないとおっしゃっていましたが、どうしてどうして。思ったよりも広々とした湖面に山影や新緑が映り、ところどころに立ち枯れた木々が屹立する見事な景観です。はるか向こうを見やると、残雪をいただく穂高連峰が雲の合間から見え隠れしています。
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 そしてここから自然研究路という整備された遊歩道が続きます。
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 新緑を眼で、清涼な高原の空気を肌で楽しみ、しばらく歩くと田代池に到着。霞沢岳の砂礫層を通って湧き出してくる伏流水によってできた池ですが、残念ながら1975(昭和50)年の大雨で大量の土砂が流れ込み、その半分が埋まってしまったそうです。なおこのあたりが田代湿原で、ところどころに湧水がたまり、鏡のような水面が木々の美しい緑を映していました。
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 すこし歩くと自然研究路は梓川コースと林間コースに分岐します。私は前者を選択、やがて遊歩道は梓川ぞいの道となります。ふりかえると山頂にかかっていた雲もとれ、焼岳の全貌が見えてきました。そして玲瓏とした水を湛えて滔々と流れ行く梓川、やがて奈良井川と合流し、千曲川・信濃川となって日本海に注ぐのですね。流路延長約350km、旅はまだまだ始まったばかりです。
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 そして梓川にかかる田代橋・穂高橋に到着。大正池からここまでのんびりと歩いて約一時間です。この橋からの眺望が絶景です。大きく右に蛇行する梓川、美しいグラデーションで彩られた新緑、そして残雪をいただく高峻な穂高連峰を一望できます。ここから川の北岸、南岸いずれも歩いていけますが、ウェストン・レリーフのある前者を選びました。
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 川ぞいの遊歩道をすこし歩くと解説板があり、穂高の名声に隠れがちな名山、六百山と霞沢岳も見てくんなまし、というアピールがありました。なるほど、対岸に目をやると、光る川面に河原、そして新緑に彩られた木々とそのうえに聳え立つ双子のような六百山と霞沢岳が、一幅の絵のように眺望できました。
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 さらに歩くと公衆トイレがあり、見落としそうになったのですがその手前にあるのが、ウェストン・レリーフです。イギリス人であるウォルター・ウェストンは、1891(明治24)年から1894(明治27)年の間に、槍ヶ岳や穂高岳に登山し、「日本アルプスの登山と探検」という著書で日本アルプスを世界に紹介した人物です。日本近代登山開拓の父と称される彼を記念して、1937(昭和12)年に日本山岳会によってつくられた碑ですが、戦時中は敵国人ということで外されたこともあったそうです。
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 本日の七枚です。
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by sabasaba13 | 2010-03-18 06:13 | 中部 | Comments(0)

松本・上高地編(19):大正池(09.5)

 5:30のモーニングコールに叩き起こされ、眠い目をこすりながらカーテンを開けると、♪Here comes the sun !♪ 日頃の善行がこういうところで結実するのですね。情けは人の為ならず、人を呪わば穴二つ。ホテル一階に併設されているファミリー・レストランでモーニング・サービスをいただいて心と体に蹴りをいれて目覚めさせ、部屋に戻って荷物をまとめフロントに預けてチェックアウト。松本駅で多少割引となる往復チケットを購入して、6:32発の新島々行き松本電鉄上高地線に乗り込み、7:02に新島々駅に到着です。そしてここでバスに乗り換えて7:15に出発。座席は二割ほどしか埋まっておらず、左側最前列の御用達のシートを陣取ることができました。雨が降る様子はなさそうですが、もくもくと雲がわいてきたのがちょっと気になります。
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 バスは野麦街道(飛騨街道)、現在の国道158号線を、山間を縫うようにひた走っていきます。喜びの歌を合唱するように輝く新緑が車窓を流れていき、見飽きることがありません。
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 途中に「風穴の里」という看板がありましたが、車内アナウンスの解説によると、この水殿の付近には山の中腹にたくさんの横穴があり、冷たい空気が噴出して夏でも涼しいそうです。昔は氷などを保管するために使われていたとか。やがてバスは梓湖の右岸を疾走、このあたりはいくつものトンネルが連続しています。野麦峠スキー場という案内板があったので、野麦峠はこの近くなのでしょう。いつの日にか歩いてみたい歴史の道ですね。
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 なお、上高地はマイカー乗り入れ禁止となっており、沢渡(さわんど)・平湯で駐車し、ここからシャトルバスかタクシーを利用することになります。そして釜トンネルを抜けると、左手に大正池が見えてきました。
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 この頃になると、雲もだいぶ少なくなり、輝く太陽と青空が見えてきました。昨日のタクシー運転手さんの助言で、大正池をカットし、終点のバス・ターミナルまで乗って河童橋と明神池のあたりを散策する予定でしたが、陽光をあびて煌く池と残雪をいただく焼岳を車窓から見ているとこのまま通り過ぎるのがもったいなくなりました。よしっ、予定変更、大正池で下車して河童橋まで歩き、バス・ターミナルで帰りの便の整理券をもらって、明神池へと往復することにしよう。このへんは個人旅行の身軽さと軽快なフットワークの為せる業です。
 大正池のバス停でバスから飛び降りると、時刻は8:17、新島々から約一時間でした。ちょうどバス停前に大正池ホテルがあったので、中に入りトイレを拝借、そして大正池と焼岳を一望できるラウンジでじょじょに広がっていく青空を眺めながら、一杯の美味しい珈琲をいただきました。さてそれでは散策の開始。なおホテルの脇にも公衆トイレが設置されています。
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 その前を通ると、大正池のほとりにでることができます。正面に聳えるのが焼岳(2455m)、今なお山頂から噴煙をあげる溶岩円頂丘(トロイデ)型の活火山です…が…肝心の山頂だけがすっぽりと雲に覆われて見えません。以前に、マッターホルンに行ったときも同様でしたが、あの時はたまたま一緒にいたツーリストたちとみんなで口をすぼめて息を吹きかけ吹き飛ばすことができました。さすがに私一人の肺活量では、あの雲は吹き飛ばせそうにはありません。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2010-03-17 06:12 | 中部 | Comments(0)

「ヤ・キ・ソ・バ・イ・ブ・ル」

 「ヤ・キ・ソ・バ・イ・ブ・ル 面白くて役に立つまちづくりの聖書」(渡辺英彦 静岡新聞社)読了。富士宮やきそばが静かな(賑やかな?)ブームになっているようですね。私は食したことはありませんが、紹介によると、硬めの麺、具には肉かす、トッピングは鰯などの削り粉、などなどとりわけ際立った特徴があるようには思えません。ご当地B級グルメを愛する私としてはその存在を気にはしていたのですが。ところが先日読んだ「B級グルメが地方を救う」(田村秀 集英社新書0462)の中で、このブームの仕掛け人・渡辺英彦がそのいきさつについて著した抱腹絶倒本があると知り、さっそく飛びついた次第です。いやあ面白かった面白かった。富士宮の地域経済を立て直すのだ、という熱き使命感に燃えた人物が、さまざまな失敗・挫折・葛藤をくりかえしながら、血と汗と涙を流し歯をくいしばり四股を踏み、我が身を犠牲とした不眠不休の苦闘と努力の末に栄光を勝ち取る…といった「プロ○ェクト○」のようなプロセスは影も形も微塵もありません。遊び心、奇抜なアイデア、オヤジ・ギャグ、そして軽いフットワークを駆使して、あくまでも軽やかに楽しく「富士宮やきそば」という情報を発信していこうという姿勢は爽快ですらあります。その中心となる戦略は、お金を使わず在るものを活かし、住民の知恵でソフト戦略を重視すること。具体的には、話題作りと情報加工と情報発信です。例えば、NHK取材の当日に、富士宮にはやきそば学会とやきそばG麺が存在するというホラを吹いた後で、内実を埋め行動を起こしていく。このネーミングが情報加工ですね。"やきそば"という庶民の味と"学会"という権威的で大仰な名称のミスマッチ、FBI(連邦捜査局)職員の俗称G(Government) Menと麺をひっかけるしょーもないオヤジ・ギャグ、こうしたちょっとした言葉の楽しい響きがみんなの耳と目をひきつけるというわけです。著者はこうおっしゃいます。
 予算がなければ出来ない、もしくは予算の範囲内の事業を行うという考えは我々にはない。効果的だと思えることは予算のあるなしに関わらず取り組む姿勢であり、そしてこれが最も重要なのだが、出来ることからすぐ始めることだ。お金がなくても出来ることはいくらでもある。NHKにホラを吹くことにお金がかかるだろうか?(p.35)
 あるいは横手やきそば・太田やきそばとの饗宴で話題をつくり(三者麺談)、以後協力してローカルやきそばの魅力をアピールしていく(三国同麺協定)。感動的なのは、こうした動きに富士宮の人々が知恵を出し合いながら楽しく明るく怪しげに自発的に参加していくというところです。それはたんなるおふざけではない、著者の高い志に共鳴した結果だと思います。渡辺氏は、地域をより良くしようという使命感をもって、目先の利益に囚われずに、自らまちづくりに参画する市民をいかに増やすかが最重要の課題であると、ことあるごとに述べられています。富士宮やきそばの味+面白怪しい情報発信と話題作り+市民の自発的参画が相俟って、このブームが起こったことがよくわかりました。

 もちろん現今の凄まじい衰微を見るにつけ、B級グルメと情報発信だけで地方を活性化できるほど甘くはないでしょう。ただそれらを通して、自らが生まれ育った場をより良くしようと、みんなと協力しながら知恵を出し合い行動する人々が増えていけば暗夜の一灯、希望はあると思います。自然と他者を収奪せずに、各地域で幸せな暮らしができるようにするにはどうすればよいのか。こうした切実な問いを投げかけ、考え抜き、地に足のついた方法で解決をめざす。そうした人々が増えることを願い、自分もその一翼を担いたいなと思います。
by sabasaba13 | 2010-03-16 06:11 | | Comments(0)