<   2010年 08月 ( 20 )   > この月の画像一覧

五島・対馬・壱岐編(33):岳ノ辻(09.9)

 さてそろそろ行きますか、集合時刻12:30の五分前にバスターミナルに行くと、中型バスが停車しています。壱岐交通事務所で代金を支払い、やれやれ、どうせ参加者は私一人だろうな、ガイドさんとさしつさされつしっとりと… いやいやいやいやもといっ、気詰まりだなあと不安に思っていると、バスの中には他の参加者五人がいらっしゃいました。残… いやいやいやいや良かった。静岡から来た初老のご夫婦と佐世保から来たうら若き女性三人組(ハウステンボスに勤めている模様)と、不肖私、それに当意即妙の話芸が素晴らしい三十路後半(っぽい)ガイドさん、そして寡黙な運転手さん、以上八人によるアット・ホームでチープなプチ・バスツァーのはじまりはじまり。
 まずは壱岐で一番高い山、岳ノ辻(たけのつじ)へ。郷ノ浦から十数分で到着し、展望台へとのぼる途中に、折口信夫(釈超空)の歌碑がありました。「葛の花踏みしだかれて色あたらし この山道を行きし人あり」 ああここ壱岐で詠まれた歌だったんだ、いきなり嬉しいサプライズです。そういえば郡上八幡にも彼の歌碑があったっけ。そして標高212.8m、壱岐の最高地点にある展望台に到着。空気がクリアならば、対馬や佐賀の呼子も見えるそうですが、しょうしょうもやっているため発見できず。それでも美しい海、緑なすなだらかで優しげな山々、その間に見え隠れする田畑や集落、十二分に眼の保養となりました。なおこちらにも、復元されたものらしい煙台(のろし)がありました。
c0051620_6282418.jpg

 そして次なる目的地は、黒崎砲台跡と猿岩です。それにしても道路の両脇に家々が切れ間なく続きますが、対馬では見られなかった光景です。
c0051620_6285228.jpg

 焼酎の醸造元もよく見かけますが、壱岐では中国の製法をもとに十六世紀から本格焼酎をつくっており、麦焼酎発祥の地と言われているそうです。WTO(世界貿易機関)は、壱岐焼酎を地理的表示の産地として指定したそうな、こりゃ今晩が楽しみだ。
c0051620_6291990.jpg

 さてこの間、ガイドさんのトークが炸裂し続けます。いま壱岐では野良リスによる農作物の被害が深刻だそうです。観光リス園が廃業した後、逃亡して繁殖したようです。捕獲すると一匹につき800円を役所から報償費としていただけるそうです。「きゃーつかまえちゃお」とはしゃぐ三人組、ガイドさんはニタッと笑って「可愛くないリスですよ」。また映画「奈緒子」の舞台となってロケが行なわれ、上野樹里も来島したそうです。おおそうかっ、その原作、かつてビッグコミック・スピリッツに連載されていた駅伝マンガ「奈緒子」(中原裕)の舞台も壱岐だったんだ。そういえば主人公の名前は壱岐雄介だったなあ、波切島ってほんとにあるのかなあ。古い民家を指差したガイドさん、戦前には将校の宿舎であったと教えてくれました。
c0051620_6294673.jpg

 岳ノ辻から三十分弱で黒崎砲台跡と猿岩に到着です。1922(大正11)年のワシントン軍縮会議の結果、廃棄されることになった戦艦の主砲(口径41cmのカノン砲二門)を設置した砲台で、当時東洋一といわれたそうです。結局、実戦では一度も使われず、戦後GHQの命令で撤去されたとか。入口の前には砲弾のレプリカが、戦艦大和のものと並べて展示してありました。コンクリートでがっちりと塗り固められた壕に入ると、すぐロープが張ってありました。ガイドさん曰く「崩落の危険があるのでここから先は立入り禁止なのですがモゴモゴ…」。最後の部分は口を濁していらっしゃるし、ロープの脇から簡単に入れるし、そう簡単に崩壊しそうな様子もないし、ま、いいや入っちゃえ。弾薬庫だったのでしょうか、かなり広い空間を上部から光が洩れている方へ進むと、そこがかつて砲塔のあった円筒形の格納部分でした。外へ出て猿岩展望所の売店裏の山道を少し登ると、この巨大な穴を地上からも見ることができます。
c0051620_6301329.jpg


 本日の二枚です。
c0051620_6304255.jpg

c0051620_631789.jpg

by sabasaba13 | 2010-08-31 06:31 | 九州 | Comments(0)

五島・対馬・壱岐編(32):少弐公園(09.9)

 しばらく歩くと瀬戸浦という町に着き、もうすこし歩くと少弐公園に到着です。こちらにあるのがまるで海鼠のような「元寇の碇石」、元船の碇ではないかと言われてきましたが、研究の結果、日本の大型外洋船で用いられたもののようです。こうした碇石が壱岐には合計五本残っています。その隣にあるのが直方体に石を組んだ煙台(のろし)、白村江の敗北(663)以後、国防の第一線となった対馬・壱岐・筑紫に設置されたものです。これは江戸時代に復元されたもので、当時も使用されていたとのこと。近くには「弘安の役古戦場」という石碑がありました。海上はもちろんのこと、陸上でも激しい戦闘がくりひろげられたそうです。そういえば、壱岐では子どもを叱るときに「むくりこくりが来るぞ」と言うそうな。むくり=蒙古、こくり=高句麗、つまり元寇の禍々しい記憶が語り継がれてきたということなのでしょう。展望台もあり、玄界灘を一望できる素晴らしい眺望でした。
c0051620_85139.jpg

 近くにある壱岐神社の祭神は少弐資時、「元寇の島壱岐」という幟がはたはたと海風にはためいていました。こちらには壱岐護国神社と忠霊塔もあり、日清戦争以降の島民の戦没者の名が石碑に刻まれていました。げに恐ろしきは苛政なり…
c0051620_853075.jpg

 まだ時間があるので、瀬戸浦の町をぶらついていると、「電力王 松永安左エ門産湯の井戸」を発見。「電力王」「電力の鬼」と呼ばれた実業家で、耳庵の号をもつ茶人としてその名を知られています。神奈川県の箱根板橋にある「松永記念館」を訪れてその名を知ったのですが、ここが彼の故郷なのですね。
c0051620_855667.jpg

 さてそろそろ芦辺港へ戻りましょう。やってきたバスに乗り込み、車窓からの壱岐風景をしばし満喫。対馬とのなんたる違いであることよ! 急峻な山地はなく、なだらかな丘陵と平地がほとんどで、水田と畑が随所に見られます。陽を浴びて輝くはさかけも、あちらこちらにありました。そして時々見かけるおいし、もといっ、愛らしい壱岐牛たち。この島の豊かさを垣間見ることができました。ただ乗る人降りる人、みなお年寄りで、高齢化・過疎化が進行していることを痛感。まあ若い人はバスではなく自家用車を利用しているのかもしれませんね。
c0051620_863254.jpg

 印通寺港を通り過ぎて、五十分ほどで終点・郷ノ浦に到着です。バスターミナルの場所を確認して、さあ昼食をとりましょう。観光パンフレットで当たりをつけておいた「あじよし」で壱岐名物の生ウニ丼を堪能。ウニはあまり好きではないのですが、壱岐産のものは生臭さがなくたいへん美味しくいただけました。
c0051620_865736.jpg

 近くの喫茶店で珈琲を飲みながら、今後の旅程を再検討。これから参加する壱岐交通の観光バスツァーはたいへんたいへん有難いことに、一人でも決行してくれます。あらかじめ電話で予約して、今日の午後コースと明日の午前コースに参加して壱岐の主な見どころに連れていってもらう予定です。問題は明日、先述した「宮本常一の足跡」という本で、勝本という港町が面白いという情報が得られました。明日の行程を確認すると、郷ノ浦→かつもと・イルカパーク→勝本の朝市→城山公園→亀石→焼酎工場見学→郷ノ浦という内容です。うむむむ(沈思黙考)、この際、亀石と焼酎工場はパスして、路線バスで勝本に行き、ゆったりゆっくりと徘徊して路線バスで郷ノ浦に戻ってくるというプランに変更しよう、決めたっ! 後で明日のツァーをキャンセルできるかどうか、壱岐交通の方に確認してみましょう。

 本日の二枚です。
c0051620_872468.jpg

c0051620_874614.jpg

by sabasaba13 | 2010-08-30 08:08 | 九州 | Comments(0)

五島・対馬・壱岐編(31):壱岐芦辺港(09.9)

 目覚めてカーテンをあけると、♪Here comes the sun♪、どうやら今日も好天のようです。本日は壱岐への移動日、朝食はとらずにチェックアウトをして、徒歩で厳原港へ向かいました。ターミナルビル内には、「不法就労外国人対策キャンペーン」だの、ハングルで書かれただのが貼られており、あらためてここが国境の町だということを思い知らされます。
c0051620_8322658.jpg

 そして7:55出航のジェットフォイル「ヴィーナス」に乗り込みました。
c0051620_8325665.jpg

 風もない静かな海を快調に疾走、途中で「クジラ、イルカなど…」という船内アナウンスが入ってので、おっ見られるのかと思わず期待してしまいました。しかしその後に「大型海中生物との衝突事故が頻発しております、シートベルトをして下さい」と続きました。そりゃかなわん、とシートベルトをしっかりと締めながらも、一抹の期待を込めて船窓から眼を皿のようにして海面を凝視しましたが遭遇はできず。そして予定通り、9:00に壱岐芦辺港に到着。
c0051620_8332815.jpg

 それではスーパーニッポニカ(小学館)に依拠しながら、壱岐を紹介しましょう。
 『魏志倭人伝』には一大(支)国として記載され、古くから朝鮮半島への通路にあたり、要地であったため一島一国を形成、壱州(いしゅう)ともよばれた。中世末は松浦党の支配下にあり、幕藩体制下では平戸藩に属した。全島玄武岩からなる低平な溶岩台地で、標高20~100メートルの間に数段になって広く分布し、その上に岳ノ辻(島の最高峰、213メートル)岳などの火山が噴出している。集落は在と浦とに分化し、在は台地上にある農業集落で、散村形態をとり、触(ふれ)とよばれる字名を有している。浦はリアス式海岸の湾奥部に位置する漁業集落で、集村形態をとり、芦辺浦、郷ノ浦、印通寺(いんどうじ)浦、湯野本浦、八幡浦、勝本浦、瀬戸浦、小崎浦の八つに限られ、壱岐八浦とよばれた。明治以後、都市的機能をもつ島の中心集落として発達したのは八浦のうちの芦辺、郷ノ浦、印通寺、勝本の四つで、湯野本浦は温泉集落となり、八幡、瀬戸、小崎が漁業の専業を続けている。
 ターミナルビルにある観光案内所でパンフレットや地図をもらい、午後に参加する観光バスの出発地、および今夜泊まるホテルのある郷ノ浦行きのバスの時刻表を確認。一時間半ほど時間があるので、芦辺周辺を散策することにしました。ビルの前にある騎馬像は壱岐守護代の少弐資時、蒙古襲来・弘安の役(1281)で奮戦し壮烈な最期を遂げた、弱冠十九歳の若武者です。ここ壱岐は蒙古襲来によって甚大なる被害を受けたことが、パンフレットなどによってわかりました。
c0051620_8335818.jpg

 漁港を歩いていると、ちょうどおかみさんたちがイカを干していました。
c0051620_8342744.jpg


 本日の一枚は、厳原港です。
c0051620_834529.jpg

by sabasaba13 | 2010-08-29 08:35 | 九州 | Comments(0)

五島・対馬・壱岐編(30):韓国展望所(09.9)

 ここからは数分で韓国展望所に着きました。朝鮮風の意匠でつくられた展望所に入ると、海峡をはさんで対岸の釜山までわずか49.5km、天気が良く空気が澄んでいればその町並みが見えるそうです。しかし曇天と湿気のため、惜しいことに何も見えず。その近くにあるのが「朝鮮国訳官使殉難之碑」、1703(元禄16)年、釜山から対馬に向かった108人が乗った訳官使船が荒天のため遭難、全員が死亡するという悲劇が起こりました。彼らを悼むために、国境や官民の枠を越えてつくられたのがこの碑です。
c0051620_810229.jpg

 さて残るは棹崎公園、善意と親切心にあふれる運転手さんは、「日本海に沈む夕日を見せてあげよう」とフルスロットル。赤馬研のような鋭いコーナーリングで、海からそそりたつ崖にへばりつく道を風のように疾駆していきます。ツシマヤマネコがいる対馬野生動物保護センターを通り過ぎ、三十分強で棹崎公園に到着。ああしかし… 無常にも厚い雲にはばまれ、夕日を見ることはできませんでした。「残念だったね」と光を発しながらくるくると回る棹崎灯台に"C'est la vie"と答えましたが、淡い夕映えと宝石のような漁り火が見られただけでも十分です。なおこちらには棹崎砲台の跡が公園として整備されていました。さてそれでは厳原へと戻りましょう。棹崎公園の近くには、山を神体とする神社がありました。ほんとうに対馬には古式が残っているのですね。
c0051620_8103825.jpg

 もう日は落ち、暗闇が対馬をおおいつつあります。せめて睡魔と闘う際の援軍になろうと、いろいろと運転手さんとおしゃべりをしました。行政の観光に対する熱意のなさへの批判から、長崎県の厳しい風俗取締りへの言及(そのため佐賀県にある嬉野温泉に泊まる方も多いとか)、話題は尽きません。かつては対馬から津軽へ移住する人が多く、今でも対馬や津島という名字が多いとか。そういえば太宰治の本名は津島修治でしたね。また対馬と壱岐がなぜ長崎県に属するのか、疑問であるというお話。距離的には福岡県や佐賀県に近いし、長崎との航路もないのに。これについては「宮本常一の足跡」で言及されていました。「明治に入ってからのこの島々の不幸は長崎県に属したということであった」(「日本の離島」) 理由としては、①壱岐・対馬は地理的に九州本土の博多に近く、経済・流通の上からも関係が深く、長崎県とは経済的関係が薄い。②県庁所在地の長崎市に行くのに博多に出て、福岡・佐賀県を経由しなければ行けない不便さがある。③漁業問題として両島周辺は素晴らしい漁場でありながら、漁獲者は他県の船であり、島民のための漁業はなにも保護されていない。福岡県や佐賀県に移してくれという転県運動は、明治の末から戦後にかけて行われましたが、離島振興法の成立(1953)とともに立ち消えとなったそうです。よかったら車内で煙草を吸ってくれ、対馬には禁煙車などない、という力強いお言葉も忘れられません。そうこうしているうちに、四十分ほどで円通寺に到着。宗貞国(10代)が厳原(府中)に館を移すまで、78年間対馬統治の府であったお寺さんで、中国鐘の影響下、朝鮮の意匠にデザインされた梵鐘を見せるために立ち寄ってくれました。暗くてよく見えませんでしたが… なお通信使の功績碑もありました。
c0051620_811944.jpg

 そして午後八時半に厳原に到着。結局、十一時間半という長丁場になってしまいました。運転手さんの十時間分の料金でいいよというご好意に甘え、33,600円を支払いました。いやはや、詳細にして要を得た観光案内、堅実な運転技術と対馬の道路事情に関する卓抜した知識、こちらの要望を取捨選択しながら適宜受入れてくれた度量、ほんとうに氏には感謝したいと思います。「しまもと」でアジのひらき定食をいただき、ホテルに戻ると、ロビーに棹崎公園から見た釜山の写真が飾ってありました。なるほどこう見えるのか。
c0051620_8113631.jpg

 シャワーをあび、対馬産の焼酎「やまねこ」をくぴくぴ飲みながら、本日行けなかった心残りの場所に思いを馳せました。長さ150mほどの石垣が尾根に沿って続く猪垣(いがき)。陶山訥庵がつくった猪狩りの遺跡とも、中世の牧場の柵跡とも言われます。白村江の戦いに敗れた天智が築かせた朝鮮式山城、金田城(かねたのき)跡。海岸に漂着した寄藻を乾かして肥料にするために貯えておく石造りの小屋、青海の藻小屋。西津屋の立石。そして青海の段々畑。羊を数えるように思い起すうちに、いつしか睡魔の懐へ…

 本日の二枚、上は韓国展望所からの、下は棹崎公園からの眺望です。
c0051620_812069.jpg

c0051620_8122450.jpg

by sabasaba13 | 2010-08-28 08:13 | 九州 | Comments(0)

五島・対馬・壱岐編(29):豊砲台跡(09.9)

 そして四十分ほど走ると、琴の大イチョウに到着です。うむむむむ、これは凄い。周囲を睥睨し圧倒するような巨樹です。解説によると、胴回りは12.5m、これは岩手県長泉寺の大イチョウの14mについて日本第二位だそうです。「路傍という悪い条件の中にあり、尚、落雷にあい、しかも樹勢が盛んであるのは、驚異である」、はい、同感です。
c0051620_6282444.jpg

 ここから数分ほどで対馬では珍しい砂浜がある茂木浜に到着。こちらには「ロシア将兵上陸地」の碑とナヒモフの大砲がありました。日露戦争における対馬沖会戦(1905)で沈没したバルチック艦隊の装甲巡洋艦アドミラル・ナヒモフ号の乗組員約100名がこの浜に救命艇で上陸したのですね。この軍艦には大量の金塊が積み込まれていたという噂があり、戦前から幾度か引き揚げが試みられたそうです。1980(昭和55)年には、日本船舶振興会の笹川良一会長が挑戦しましたが、結局金塊は見つからず、その時に引き揚げられたのがこの大砲だそうです。なおこの件についてインターネットで調べていたところ、神戸新聞WEBニュースで面白い記事を見つけました。1933(昭和8)年に、ナヒモフ号に眠る金塊を引き揚げるための深海探査船の建造依頼が、三菱重工業神戸造船所にきたそうです。1930年のロンドン軍縮会議によって、潜水艦の製造中止を余儀なくされていた神戸造船所はこれに応じ、潜水艦の技術をもとに世界初の深海探査船「開洋」の開発に成功し、最大深度183mを記録したとのことです。なお運転手さんの話によると、離島振興法による補助金によって、砂浜のすぐ近くにコンクリート製の遊歩道と階段が整備されましたが、そのために海亀が来なくなってしまったそうです。
c0051620_6285848.jpg

 そしてあいかわらず集落も見あたらず眺望もよくない山道を延々と走り続けます。途中、道路の脇に円筒形の物体がありましたが、運転手さんのご教示で「蜂洞(はちどう)」、天然のハチミツを採取するためのものだとわかりました。
c0051620_6292748.jpg

 四十分ほどで網代の漣痕(れんこん)に到着。浅い海底にさざなみのたった状態がそのまま化石として残ったもので、岩盤の一面がぎざぎざと波打つ異形の光景でした。
c0051620_6295882.jpg

 ここから数分で、殿崎にある「日露友好の丘」に到着。巨大レリーフには、対馬沖重傷を負い佐世保海軍病院に入院中のバルチック艦隊司令長官ロジェスト・ウェンスキー提督を、連合艦隊司令長官・東郷平八郎が見舞っている場面が描かれていました。そして運転手さんお薦めの絶景ポイントで車を停めてもらい、写真撮影。
c0051620_6302783.jpg

 ここから十数分で豊砲台跡に到着です。対馬海峡を封鎖するために戦艦の砲塔を設置したもので、完成は1934(昭和9)年。なお当該の戦艦については、航空母艦に改造された「赤城」、「土佐」、「長門」など諸説あるようです。コンクリートで固められた入口の近くのボックスにコインを入れると、内部の照明がつくようになっています。弾薬庫らしき部屋をすこしあるくと、円筒形に形作られた砲台跡にたどりつきます。もちろんというか、残念というか、砲塔自体は影も形もありません。できれば上から覗き込みたかったのですが、それが可能か確認する以前にすでに午後5時47分、先を急ぎましょう。
c0051620_6305791.jpg


 本日の四枚です。
c0051620_631264.jpg

c0051620_6315150.jpg

c0051620_6321767.jpg

c0051620_6324419.jpg

by sabasaba13 | 2010-08-27 06:33 | 九州 | Comments(0)

五島・対馬・壱岐編(28):万関橋・浅茅湾(09.9)

 そして運転手さんの案内で、対馬事件に関係した「松村安五郎と吉野数之助の碑」がある大船越へ。1861(文久元)年、要衝の地・対馬を占拠しようとロシア軍が無断でこの地に上陸、それを阻止しようとした番所役人の松村安五郎は殺害され、吉野数之助はロシア艇に捕らえられた後にそれを恥辱として傷の手当を拒否して亡くなります。結局、イギリスの圧力もあってロシア軍は撤退することになります。このあたりは瀬戸が開削されていますが、かつてはもっとも陸地がくびれた部分で、船をかついで渡ったのだそうです。肉眼でもはっきりとわかるほど、うねるように潮が流れていました。
c0051620_6271375.jpg

 そして数分で万関橋へ。1900(明治33)年、軍事上の理由から海軍がこの万関地峡を開削し、鉄橋をかけたのがその嚆矢です。現在のは三代目、対馬におけるはじめての離島振興法事業だそうです。橋の中央でおろしてもらい写真を撮影。そして橋全体を眺められるポイントに連れていってもらいました。
c0051620_6274133.jpg

 さていよいよ後半戦、対馬上島の探訪です。時刻はすでに14:45、見どころをすべて廻れるかきわどくなってきましたが、運転手さんを信じるしかありません。数少ない日本在来馬の一種、小柄な対州馬と対馬鹿を飼っている「あそうベイパーク」に立ち寄り、すこし行くとまるで小雪が地面を覆ったかのように蕎麦の花が咲き誇っていました。
c0051620_628719.jpg

 そして小船越へ、こちらも陸地のくびれたところでかつて船をかついで渡ったとのことです。また遣隋使や遣唐使もここで別の船に乗り換えたといわれています。鏡のような入り江に姿を映す木々の緑がきれいでした。
c0051620_6283482.jpg

 そして和多都美(わたづみ)神社に到着、万関橋からここまで三十分強かかりました。彦火火出見尊と豊玉姫命を祭る海宮で、古くから竜宮伝説が残されています。二つの鳥居は海中にそびえ、潮の干満によりその様相を変えるそうです。ということは、昔は舟に乗って参拝に来たのでしょう。三角形に組んだ鳥居が囲んでいる神体は珍しいですね、京都の蚕の社を思い出しました。
c0051620_629395.jpg

 ここから数分ほど山道をのぼると、烏帽子岳展望台に到着です。駐車場に車を留めて長い石段を歩いてのぼると、展望台がありました。ここからの眺めは絶景、「繊細さと屈曲度は日本一」と観光協会が持参するだけのことはありますね。複雑な海岸線と鏡のような海面、緑なす小島がぽこぽこと散在するみごとな景観です。さすがは日本有数のリアス式海岸・溺れ谷。
c0051620_629315.jpg

 そして車に乗り込み十分ほど走ると、運転手さんが「無駄な公共事業の典型です」とぼそっと呟かれました。なになに、それは聞き捨てならない。指で示された方向を見ると、カルト宗教の神殿のような異形の物件が木々の上に見えます。豊玉町文化の郷の公会堂だそうです。せっかくなので近くまで寄ってもらいましたが、まるでダダイズムのような破調の造形に開いた口がふさがりません。彼曰く、設計は安藤忠雄… ほんとかなあ… 今、インターネットで調べてみたのですが判明しません。ご教示を乞います。
c0051620_630127.jpg


 本日の七枚、上から大船越、万関橋からの眺望、万関橋、小船越、蕎麦の花、和多都美神社、烏帽子岳展望台です。
c0051620_6304178.jpg

c0051620_6311653.jpg

c0051620_6314379.jpg

c0051620_6323545.jpg

c0051620_6334367.jpg

c0051620_6341010.jpg

c0051620_6343743.jpg

by sabasaba13 | 2010-08-26 06:36 | 九州 | Comments(0)

「チボー家の人々」

 「チボー家の人々」(ロジェ・マルタン・デュ・ガール 山内義雄訳 白水社)読了。高野文子氏の「黄色い本 ジャック・チボーという名の友人」(講談社)に触発され、義父の本棚にあった黄色い本書(初版本!)を紐解きました。うん、面白かった。長編小説の醍醐味を存分に味わえました。
 前半は、敬虔なカトリック教徒で実業家のオスカル・チボーの2人の息子、アントワーヌとジャック、ジャックの友人でプロテスタントの家庭の息子ダニエルの3人の若者を中心に展開されていきます。秀才で将来を嘱望される医師である現実主義者のアントワーヌ、父親に反抗し少年院に入れられる理想主義者のジャック、ませた享楽主義者のダニエル。やはりジャックの人物像に心惹かれます。後に兄アントワーヌが、「血気、過激、大胆、はにかみ、それに抽象的観念へのあこがれ、中途半端なことへの憎悪、とうてい懐疑主義にはなりきれないことへのあこがれ」と弟のことを回想していますが、こうしたことが混沌のように渦巻く内心を抱えながら、もがき苦しむジャック。ただストーリー自体はわりと淡々と進み、起伏も少なく、少々退屈する部分もありました。
 それが一気に盛り上がるのが後半、第三巻の『1914年夏』からです。ヨーロッパに夜の高潮のようにひたひたと迫り来る第一次世界大戦の影。人々の不安、反戦への動き、それを押しつぶして呑み込んでいくナショナリズム、高揚、諦め、絶望… さすがに同時代を生きた小説家だけに、そのリアルな描写には手に汗握り息を呑むこともしばしばでした。家出をしたジャックは革命家となり、反戦運動に尽力し、やがて友人ダニエルの妹ジェンニーとの激しい恋に落ちます。その愛を成就するためにも、歴史の流れを止め、"正義と清純の新しい世界(第四巻p.51)"を打ちたてようとするジャック。「世界に平和を取りもどしてやる(第五巻p.60)」という彼の叫びが耳朶に残ります。ジャックが集会で人々に戦争への非協力を訴えた演説は圧巻です(第四巻p.204)。しかし、各国で同時にゼネストを起こそうとする革命家たちの試みは挫折し、戦争は勃発、反戦運動も分断され多くの革命家たちも「祖国防衛」のために戦場へと向います。しかしジャックはあきらめず、飛行機から反戦ビラをまいて兵士に戦場からの離脱を訴えかけようとしますが墜落して重傷を負い、最後はドイツ軍のスパイと間違えられて殺害されます。一方、兄アントワーヌは戦争への協力は市民の義務だと考え軍医として従軍しますが、毒ガスを吸って入院、余命いくばくもなく病床に伏せります。彼は己の過ちに気づき、病と戦いながら戦争・文明・人類への考察を突き詰めます。ここで登場し、人類と現代文明に対する痛烈な批判を語る彼の恩師・フィリップ博士も魅力的な人物でした。そしてジャックとジェンニーとの間に生まれた遺児ジャン・ポールへの希望と、この戦争の本質と人類への懐疑を語る長い独白で、小説は終ります。

 第一次世界大戦が、ヨーロッパの知識人に与えた衝撃の大きさをあらためて思い知らされます。総力戦と大量殺戮、それを可能にした科学技術、そして祖国のためにすすんで命を投げ出した多くの人々。B・アンダーソンが『想像の共同体』(NTT出版)の中で指摘している通りです。「今世紀の大戦の異常さは、人々が類例のない規模で殺し合ったということよりも、途方もない数の人々が自らの命を投げ出そうとしたということにある」 暴力・破壊・狭量は人類の本能なのか、このまま人類は滅んでしまうのではないのか、人類の愚行や傲慢をくいとめる術はないのか、われわれはどうすればよいのか。ジャック、アントワーヌ、フィリップ博士が三人三様に語る、呪詛と憤怒と絶望とかすかな希望に心打たれます。そう、この問題はいまだ解決していないどころか、環境破壊というさらに深刻な問題まで加えてわれわれの眼前に立ち塞がっています。今だからこそ、彼らの言に耳を傾けてみませんか。まだ遅くはない…かもしれません。
[ジャック] 従来の権益者を追っ払ってその後に他の権益者をすえること、それでは資本主義をほろぼすということにはならない。それはただ、資本主義の位置を変えるというに過ぎないんだ。そして革命は、一つの階級-たといそれが一番多数をしめ、一番搾取されつづけていた階級であろうと-一つの階級の勝利とは別個のものでなければならない。僕は、一般的な勝利をのぞんでいるのだ…ひろく人間的な階級の。(第三巻p.180)

[ジャック] 暴力によって世界の運命を蹂躙させないたった一つの方法は、自分自身、あらゆる暴力を肯定しないことにある! (第四巻p.245)

[フィリップ博士] 人間は、真の叡智の日に達するまで、まだまだたくさんなつらい経験をなめなければならない! …そうした日になって、人間ははじめて、この地球上に生きて行くため、科学によって教えられたものをつつましく利用するようになるだろう…」 (第四巻p.300)

[アントワーヌ] 人類からその本能的な狭量さと、生まれついての暴力礼讃の気持と、人間が暴力によって勝利をしめ、自分とちがった感じ方、自分とちがった生き方をしている弱者にたいして、自分の感じ方、自分の生き方を暴力によって強要するという気ちがいじみた快感を駆逐することができるまで、はたして何百年かかるだろう? (第五巻p.179)

[フィリップ博士] いいかね、すべては次の結論に帰着するんだ、いわく、唯一つの-科学的、と言いたいところだが謙遜して、唯一つ理性的な、唯一つ人を裏切らないところの、とでも言っておこうか-態度は、真実を探すことではなく、《誤りを探す》ということなんだ…誤りを認めること、これはなかなかむずかしい。だが、やってできないことではない。そして、厳密な意味で、できることといったらそれだけなのだ! …その余のことは、全然寝ごとだ! (第五巻p.249)

[アントワーヌ] 現代の人間をその最後の一環とする有機的連鎖が、長い時を通じて今日までつづいていること、それが絶滅されることもなしにこの地球上の無数の地質学的大変動を通過して来たということ、また自然の盲目的な浪費をも運よくまぬかれ得たということ、それはまさしく奇蹟的とでもいうべきではないだろうか、と。
だが、こうした奇蹟は、はたしていつまでつづくだろう? 人類は、はたしていかなる(避けがたき)終局に向って進みつつあるのだろうか?
…人間の世界は閉された世界、人間だけに限られた世界だ。人間にゆるされた唯一の望みは、その欲望を満すため、この限られた土地を十二分に利用すること。しかも、その土地たるや、微々たる人間にくらべては大きくあろうが、これを宇宙にくらべるとき、取るにたらぬ小ささなのだ。科学ははたして、それに満足すべきことを人間に教えてくれるだろうか? 微々たることの意識によって、そこに安定と幸福とを見出させてくれるだろうか? それは必ずしも不可能ではあるまい。科学は、さらに多くのことをしてくれよう。すなわちそれは、人間に課せられている限界のこと、人間を生んだ偶然のこと、人間が取るにたりないものであることを教えてくれよう。それは、今夜このおれが感じているような平静な気持に、人間をして常にあらしめてくれるかも知れない。わが身にせまったあの虚無を、すべてを呑みこむあの虚無を、ほとんど平静にながめさせてもくれるだろう。(第五巻p.316)

by sabasaba13 | 2010-08-25 06:28 | | Comments(4)

言葉の花綵34

 明日は味方だ。(山本一力)

 希望には二人の娘がいる。"怒り"と"勇気"だ。(聖アウグスティヌス)

 国境なんてものは、地球上に勝手に引かれた線である。たまたま白組に編入されたからといって、そりゃ、運動会(オリンピック、ワールドカップ等)では、「フレー、フレー、シッロッグッミッ」とはやるけど、白組のために死ねとか殺せとか言われても、ちょっとなあ。(永江朗)

 自分だけではなく相手に対しても逃げ道を残すよう心がけた。(アイゼンハワー)

 紛争の緊張を緩和させるのが善で、緊張を増加させるのが悪なのです。(冷泉彰彦)

 「ものごとがいっさい変わったのです」とわたしは静かにいった。「頭をしっかり持たなくてはならない。まだ望みがあります」「望みって」「そうです、充分の望みが―これほどの破壊にもかかわらず」 (『宇宙戦争』 H.G.ウェルズ)

 本当の悲惨は、独裁者の暴虐ではなく、善良な人々の沈黙である。(マーチン・ルーサー・キング)

 けんかはよせ。腹がへるぞ。(ねずみ男)

 テオドロスは、すぐれた人が祖国のために命を捨てないのは理にかなっていることだと言っていた。すぐれた人は、愚かな人びとのために思慮を投げ棄てることはないからだと。また、宇宙がわが祖国であるとも言っていた。(ラエルティオス)

 おまえら、みんながうんこうまいって言ったらうんこ食うのかよー!? (『レッツゴー武芸帖』 よしもとよしとも)

 たゆまざる 歩みおそろし かたつむり (北村西望)

 茶是常識 (益田鈍翁)

 七度の餓死に遇うとも、一度の戦いに遇うな。(江戸時代の俚諺)

 子供心を失った者は、もはや芸術家とはいえない。(ブランクーシ)

 現在の世界で、日本から学ばないのは日本人だけですよ。(イサム・ノグチ)

 頑寿八十三  退隠三十歳  雑詩千余篇  総足了一世 (「三足老人」石川丈山)

 農業の目的は、人の命を守ることだ。農作物は飢えの時も飽食の時も、分かち合うものでなければならない。まして国や企業の利益追求の手段であっては断じてならない。農業に金と物の論理を持ち込んではならない。生命の論理に立ち、自然に感謝し、質素に生きること。それが百姓の条件だ。(『夏子の酒』の豪田さん)

 万巻の書を読み、万里の道をゆきもって画祖をなす (富岡鉄斎)

 上は立ち中は日ぐらし下は夜まで一夜泊まりは下々の下の客 (山崎宗鑑)
by sabasaba13 | 2010-08-24 08:17 | 言葉の花綵 | Comments(0)

日本で何番目 koneta

倉敷(岡山県)
c0051620_17342065.jpg

石巻(宮城県)
c0051620_2130423.jpg

旧軽井沢(長野県)
c0051620_839577.jpg

御代田駅(長野県)
c0051620_8384140.jpg

宇都宮タワー(栃木県)
c0051620_9415152.jpg

塩山駅(山梨県)
c0051620_212972.jpg

新千歳空港(北海道)
c0051620_15482239.jpg

すすきの(北海道札幌)
c0051620_1548235.jpg

「洋服の青山」(北海道札幌)
c0051620_15473490.jpg

いけがわ439交流館(高知県仁淀川町)
c0051620_2215556.jpg

草津(滋賀県)
c0051620_8504532.jpg

KCTPのマップ(京都)
c0051620_8502564.jpg

近江八幡(滋賀県)
c0051620_21441888.jpg

近鉄京都駅(京都府)
c0051620_2143512.jpg

坂本(滋賀県)
c0051620_21431620.jpg

近鉄京都駅(京都府)
c0051620_1854173.jpg

高崎(群馬県)
c0051620_835929.jpg

霜降銀座商店街(東京都)
c0051620_16241810.jpg

熊野(三重県)
c0051620_1833299.jpg

犬山(愛知県)
c0051620_16475943.jpg

野沢菜館(長野県諏訪)
c0051620_22144553.jpg

野沢菜館(長野県諏訪)
c0051620_22142292.jpg

道頓堀(大阪)
c0051620_21563966.jpg

三宮駅前(神戸)
c0051620_21562196.jpg

東京モノレール浜松町駅
c0051620_21554788.jpg

ひめゆりの塔(沖縄県)
c0051620_1084884.jpg

読谷村(沖縄県)
c0051620_1082659.jpg

千葉(千葉県)
c0051620_20595634.jpg

黒部平駅(富山県)
c0051620_2001845.jpg

鋸山日本寺薬師瑠璃光如来
c0051620_6301412.jpg

北海道釧路駅
c0051620_19395871.jpg

北海道ノシャップ岬青少年科学館
c0051620_19394878.jpg

東京都練馬区
c0051620_1332135.jpg

長野県三溝駅付近
c0051620_202602.jpg

長野県駒ヶ岳ロープウェー千畳敷駅
c0051620_20254112.jpg

京都府錦市場
c0051620_13104316.jpg

京都府河合神社
c0051620_13102171.jpg

栃木県佐野
c0051620_20164436.jpg

群馬県川原湯温泉付近
c0051620_20162531.jpg

群馬県館林
c0051620_20155670.jpg

栃木県佐野
c0051620_2015977.jpg

栃木県佐野
c0051620_2014474.jpg

佐賀県蕨野の棚田
c0051620_8523360.jpg

宮崎県南宮崎
c0051620_8521562.jpg

大分県中津駅
c0051620_8515142.jpg

大分県大分
c0051620_8513389.jpg

鹿児島県蒲生
c0051620_8511270.jpg

熊本県熊本
c0051620_8504729.jpg

宮崎県高千穂
c0051620_8503167.jpg

宮崎県延岡
c0051620_850320.jpg

埼玉県深谷
c0051620_8453318.jpg

茨城県土浦
c0051620_845482.jpg

長崎県諫早
c0051620_846088.jpg

by sabasaba13 | 2010-08-23 08:46 | 写真館 | Comments(0)

五島・対馬・壱岐編(27):鶏知(09.9)

 酷使に対する感謝の気持ちとしてお代を奢らせていただき、さあ出発。川沿いにしばらく東行すると、右手には東邦亜鉛の事業所、左手にはかつての東邦亜鉛従業員宿舎が見えてきました。
c0051620_8142861.jpg

 そして元寇で討死にした宗助国の首を葬ったという「お首塚」を見学。
c0051620_815951.jpg

 途中の若田は、紫式部も愛用したといわれる名硯の産地だそうです。そして山道を二十分ほど走ると上見坂公園に到着です。かつて宗氏初代の重尚と阿比留平太郎が、対馬地頭の地位をかけて激突した地と解説には書いてありました。ここから眺める対馬の山並みと、その彼方に見やれる浅茅湾の溺れ谷の眺めは素晴らしいですね。湿度が高いためか、視界がもうひとつクリアでないのが残念。夏の夜は漁り火がきらめき、素晴らしい景観だそうです。
c0051620_8153875.jpg

 またかつてこのあたりは要塞・砲台があったところで、木々の中をすこし奥へ進むと、砲座跡・兵舎跡・砲兵詰所跡などの廃墟が散見されます。
c0051620_816898.jpg

 さてこれから厳原をかすめて、対馬要塞重砲兵連隊があった鶏知(けち)へと向かいます。途中にあった古い和風家屋が、かつての将校や兵の宿舎であったと運転手さんが教えてくれました。上見坂公園から二十分ほどで鶏知に到着、鶏知中学校には重砲兵連隊の正門の柱が残されています。その近くには「対馬要塞重砲兵連隊跡」という記念碑が建立されていました。「神聖喜劇」の舞台となったこの地に来られて感無量です。主人公・藤堂太郎の言動が脳裡をよぎりました。
c0051620_816392.jpg

 そして浅茅湾を右手に十数分走ると、竹敷に到着。ここにはかつて海軍要港部が置かれ、日清戦争や日露戦争で活躍した水雷艇基地があったところです。その素晴らしい石組みのドック跡があるはずですが、さすがの運転手さんにも見つけられません。地元の年配女性に訊ねてやっとのことでわかりました。某製塩会社の敷地内にあるので、たまたまいらした社員の方の了承を得て中に入れてもらいさっそく見学。石組みのドック自体がきわめて貴重なのですが、それに加えて長年の歳月を経ても微塵の狂いも生じていないその堅固な佇まいには圧倒されました。これは一見の価値あり。
c0051620_8354838.jpg

 竹敷の先には芋﨑の砲台跡があり、そこから眺める浅茅湾は絶景という情報を入手していたのですが、運転手さん曰く、道が整備されていないので時間がかかるということでした。せんかたなし、潔く断念し再訪を期しましょう。それにしてもそうした貴重な戦争遺跡や見事な景観の場所へのアクセスはきちんと整備してほしいものです。対馬の観光に対する熱意の不足に、二人して嘆息してしまいました。はあ。そして鶏知の住吉神社に寄って、日露戦争における戦利品といわれるロシア海軍の浮遊機雷を拝見しようとしましたが、これが見当たりません。運転手さんもご存じないようで、二人してうろうろ探した結果、あった! 鳥居をくぐって石段をのぼる途中の左側に、鉄製の真ん丸い浮遊機雷が、何の解説もなく、ぽてちんと鎮座していました。横須賀の記念艦「三笠」にも同型のものがあったような気がします。
c0051620_8174587.jpg


 本日の三枚です。
c0051620_8181566.jpg

c0051620_8183639.jpg

c0051620_818576.jpg

by sabasaba13 | 2010-08-22 08:20 | 九州 | Comments(0)