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南東北錦秋編(9):山形十日町(09.10)

 それでは怪しい夜の徘徊をもうすこし続けましょう。次なるは旧市島銃砲火薬店、ギリシャ神殿風の外観がユニークです。竣工は1926(昭和元)年、山形県でも最も早い時期に建てられた鉄筋コンクリート造の建築だそうです。その近くには「山形名産 焼ふ」という看板、浅尾製ふ(麩)所が元気に商いをされていました。
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 十日町方面へと路地裏を歩いていくと、イトウ製靴店を発見、靴をつくっていらっしゃる職人さんですね。硝子窓から中を見るとさまざまな道具が置かれており、職人の息遣いが伝わってきます。
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 そして旧西村写真館に到着。1921(大正10)年に当主自らが設計施工した洋風建築だそうです。正面二階のアーチといい、細部や窓の桟といい、素人が建てたとは思えないほんとうに洒落た洋館です。古い写真館には逸品が多いのですが、こちらは群を抜いた優品です。そして十日町界隈に出ると、古い門の奥に、古風な洋館が夜の闇の中に佇んでいました。おっここにも教会が…と思ったら、なんと「吉池小児科医院」でした。残念ながら門は閉ざされており接近できなかったため、細部を見ることはできなかったのですが堂々とした洋館であることはわかります。しかし、実は、堂々というよりも、不気味… これじゃあ連れてこられた子どもたちは恐怖のあまり泣き出してしまうのではないか、と余計なお世話的心配をしてしまいます。映画「サイコ」に登場するベイツ・モーテルの裏にあった洋館みたいな感じです。なお余談ですが、マリオン・クレイン(ジャネット・リー)が乗っていた55年型フォードのナンバーは「ANL709」、彼女が殺された日は1959年12月12日(土)、ベイツ・モーテルの一号室でした。以上、「スーパートリビア事典」(研究社)による情報です。さきほどインターネットで調べた結果、この建物も中條精一郎の作品であることがわかりました(竣工は1912年)。丸太中村近江屋は見事な店蔵ですね。寝装野村屋も店蔵ですが、ちょこんと乗っかった塔屋がチャーミングです。マルタニは、組み合わされた切妻屋根と入母屋屋根と海鼠壁が見事な店蔵です。
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 というわけで、いやあこれだけの物件がそろっているとは、山形恐るべしですね。観光協会作成の「こだわり探検コース」によると、他にも、明治末の建築と伝えられる山形聖ペテロ教会、県下初の鉄筋コンクリート造の山形市立第一小学校旧校舎、旧山形師範学校本館(教育資料館)と旧山形師範学校講堂(山形県立山形北高等学校)、外観洋風・内部和風の老舗料亭・千歳館、1925(大正14)年竣工の七日町二郵便局など、垂涎の物件がテンコ盛りです。これまで拙ブログで「再訪を期す」とたびたび記してきましたが、社交辞令的なところも多々ありました。しかし、こと山形市に関しては衷心より再訪を期したいと思います。土門拳記念館とそこにあるイサム・ノグチの彫刻を拝見して、酒田散策をからめると面白そうだなあ。でも何か忘れたような… あっ、伊東忠太設計の明善寺に寄るのを忘れた! ま、いいやその時に訪れることにしましょう。駅前の酒屋で「初孫 魔斬」を購入、山形駅の中央通路を抜けてホテルに帰参。明日は朝早く起きなければならないので、部屋で一献傾け、早々に寝ることにしました。
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 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2010-09-30 05:02 | 東北 | Comments(0)

南東北錦秋編(8):山形七日町(09.10)

 さすがにへこたれて腹の虫のブーイングも激しさを増しますが、そう、こんな時に唄うのは♪悲しいこともあるだろさ苦しいこともあるだろさ だけど僕らは挫けない 泣くのは嫌だ笑っちゃお♪ こけつまろびつ「シネマ旭」に到着、交差点の角に立つ、コンクリート打ちっ放しの大きなビルです(竣工1955年)。無機的に壁面を穿つ多数の小さな窓と、屋上にある神殿風の小屋から、解説は表現主義的と評したのでしょう。さてそもそも表現主義とは何ぞや、私も曖昧な理解しかしておりませんので、この際スーパーニッポニカ(小学館)を参考にしてまとめておきましょう。第一次世界大戦の直前に始まり、その戦後しばらくして終わったところの、芸術各領域での運動。その全体にわたる統一的な理論や方向といったものはありませんでしたが、19世紀までの安定した近代社会がぐらつき始めたという一種の崩壊感覚、状況への疑惑と自我・存在の不安、それを直視せねばならぬとする熱意、という、大転換期においての鋭敏な知識人たちの焦燥感や苦悩が示されているとのことです。大胆な表現、またはフォルムの単純化や変形がその特徴のようです。わかったようなわからんような… なお「シネマ旭」は惜しまれつつも閉館となったとのことです。そして数分ほどで六日町教会に到着。1887(明治20)年に伝導活動を始めた市内で最も古いキリスト教会のひとつで、1914(大正3)年に現在地に移り、本会堂を建設したそうです。大小並んだ切妻屋根と塔屋のバランスがいいですね、愛らしく瀟洒な教会です。そのすぐ裏手にあるのが文翔館、1916(大正5)年竣工の旧県庁舎と旧議事堂です。いずれ劣らぬルネッサンス様式の堂々とした物件です。米沢市出身の建築家・中條精一郎を顧問に、田原新之助によって設計されたと考えられます。中條精一郎といえば、曽禰達蔵とともに曽禰中條建築事務所を主宰し、多くの建築作品を手がけた方ですね。代表作は、慶應義塾大学記念図書館や小笠原伯爵邸、そして長女が17歳で小説『貧しき人々の群』を著し天才少女と呼ばれた百合子、後の宮本百合子です。また安積疎水の開通に尽力した中条政恒は彼の父、この間、郡山に行って彼の存在を知っただけに不思議な縁を感じます。旅って面白いですね。
 それでは七日町仲通り商店街へと向かいましょう。途中で見かけた、アーチ窓がこれでもかこれでもかこれでもかと並ぶ商業ビルの怪しげでいいですね。「まつのや旗店」も元気で営業されています。ショーウィンドウに飾ってあったプレートのサンプル「農地の貸し借り相談所」が土地柄を物語っていますね。その先にあるビルには「ヤマイチクラブ」という胡散臭い看板がかかっており、中を覗くと、まるで心の闇へと誘うような細い通路が続いています。
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 そして「元祖山形冷しラーメン」という幟を発見、盲亀の浮木、優曇華の花、ここで会ったが百年目。歩き廻れば必ずいいことがあるもんですね、さっそく「栄屋本店」に入り冷しラーメンを注文。得も言われぬ豊潤な冷たいスープに、腰のあるもっちりした麺がよく合っています。ポスターによると、牛と鰹節、昆布をベースにラ・フランスの香りを加えたとか。牛とラ・フランス、いずれも山形産品ですね。ああ美味しかった。
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 追記。「徳川無声戦争日記(四)」(中公文庫)を読んでいたら、次のような一文がありました。「旭座超満員、放送内幕話絶対に受ケル(p.277)」 彼が1944(昭和19)年6月13日に、山形に慰問公演のために行った際の記述です。もちろん今のビルではないでしょうが。

 本日の五枚です。
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by sabasaba13 | 2010-09-29 06:32 | 東北 | Comments(0)

南東北錦秋編(7):山形(09.10)

 そして仙山線の列車に乗り込みました。なお山寺駅の一つ先、面白高原駅の近くには紅葉川渓谷という紅葉の名所があるそうです。
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 二十分ほどで山形駅に到着、駅構内には「第11代山形城主 最上義光」「長谷堂合戦の地」といった垂れ幕が寂しげにひろひらと風に揺れています。歴史には一家言を…もっていない私としては「はせどうがっせん???」と呟くのみ。そばにあった解説によると"出羽の虎将"(!)最上義光と"上杉の智将"(!)直江兼続が激突した「もうひとつの関ヶ原」だそうです。なんか"インドの狂える虎"タイガー・ジェット・シンvs"黒い呪術師"アブドーラ・ザ・ブッチャーみたいな、チープなネーミングには思わず緩頬してしまいます。でも観光協会にしてみれば「天地人」ブームの余沢をこうむるための切実な営業努力なのでしょうね、風景が涙で揺すれてしまいました。
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 ここで山形市について、スーパーニッポニカ(小学館)に依拠して紹介しておきましょう。山形市が内陸地方の中心となるのは、1356(正平11・延文1)年に斯波兼頼(しばかねより)が出羽按察使として入部し、馬見ヶ崎川扇状地扇端部に築城してからのことです。その後、斯波氏の子孫で戦国大名の最上義光が扇端から扇央にかけて城下の整備を行い、山形藩57万石の城下町の基礎をつくりました。1622 (元和8)年、最上氏の改易後は13回も領主交代があり、幕末には水野氏5万石にまで減少しました。このため侍町は衰微したが、町屋は紅花などの集散地となり紅花商人が活躍する村山郡最大の商業地として発展することになります。1876(明治9)年に県庁が設置され、初代県令三島通庸による近代的な街づくりが県庁周辺にかけて行われ、以来、県の行政、経済、文化などの中心として発展することになりました。
 駅裏のホテルにチェックインし荷物を部屋に置いて、さあ夕食を食べに夜の町へとくりだしましょう。ほんとは以前に訪れてぶったまげた旧済生館病院(山形市郷土館)をもう一度見たかったのですが、もうとっくに閉館の時間、これは諦めました。さきほどのタクシー運転手さんに教えてもらった山形牛の店「佐五郎」は山形駅から歩いて数分、すぐに見つかりましたが、店頭を飾る品書きを見て驚き桃の木山椒の木ブリキに狸に蓄音機。山形牛サーロインステーキ(150g)がはっせんえーんえーんえーんえーんえーん(筆者注:残響) 壱岐で大変美味しい壱岐牛ステーキを三千円で食した記憶がまだ生々しく脳裡に残っているので、この価格にはついていけません。パス。さあそれではどうしよう。♪暖かい人の情けも胸をうつ熱い涙も知らないで育った僕はみなしごさ♪と小声で唄いながら、秋風に落葉が舞い散る晩秋の街を喪家の狗のように歩き、地下歩道におりると山形市の観光地図が掲示してありました。とるものもとりあえず地元発信の情報には敬意を表しましょう、しげしげと眺めると… 大正3年に建てられた六日町教会、表現主義デザインのシネマ旭、ギリシャ・ローマ風外観の旧市島鉄砲火薬店、伊東忠太(米沢出身)設計の明善寺、大正10年に建てられた旧西村写真館、塔屋が印象的な寝装野村屋、住宅と荷蔵が連なったマルタニ、と面白怪しげな物件がテンコ盛り・目白押しです。うむむむむ、紅花商人の財力と三島通庸による近代化がうまく噛み合った結果かもしれませんね。予定変更! 夕食は後回し、さっそく写真におさめ、この地図をたよりに夜の山形を徘徊することにしましょう。でも、もし山ノ神が同伴していたら、間違いなくベトーか三下り半を叩きつけられていたでしょうね。やっぱり一人旅はやめられません。と威勢よく啖呵を切ったものの、最初の目的地「シネマ旭」まで三十分ほど歩くはめになりました。
by sabasaba13 | 2010-09-28 06:28 | 東北 | Comments(0)

南東北錦秋編(6):立石寺(09.10)

 運転手さんに丁重にお礼を言って下車すると、さすがに観光の名所、参道は多くの善男善女で賑わっています。ゆるやかな石段をのぼって境内に入り、根本中堂の前を左折すると、芭蕉の像がありました。おお曾良さん、先日、壱岐であなたのお墓に詣でたばかりです。もう他人とは思えません。その前にあるのが秘宝館、あっそこのあなた、今ちょっと期待したでしょ。残念なが、もといっ、実は立石寺の文化財を展示するほんとの秘宝館でした。
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 そして山門で拝観料を支払って、いよいよ1015段の石段に挑戦です。昼なお薄暗い鬱蒼とした木立のなか、黙々と上りつづけると、あたりは修験道に関係するらしい石碑や石塔が林立しています。
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 そして「せみ塚」に到着。明和年間に最上林崎の俳人・坂部壷中が、芭蕉のあの名句を書いた短冊を埋め、石の塚を立て蝉塚と名付けたものです。仁王門のところまで来ると、だいぶ視界が開けてきました。
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 右手には魁偉な容貌の石山、解説によると「修業の岩場」というそうです。危険な岩場を通って釈迦の御許にいたる行場で、出世や欲望のために入山した修行者は、しばしば転落死したとのこと。岩肌のところどころに穿たれている数多の穴が、その修行の場なのでしょうか。ギリシア・メテオラの修道院を思い出しました。そして岩山を覆う紅葉の見事な色づき! 奇岩と錦のコントラストがまるで一幅の絵のようです。そしてさらに石段をのぼると眺望が開け、眼下に街並みや遠くの山なみが見晴らせます。切り立った岩山の上に立てられた開山堂と納経堂も、張りつめたような緊張感を漲らせています。
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 その先にあるのがまるで舞台のような五大堂、噂に違わずここからの眺望は圧巻でした。左手には山寺の紅葉と寺容の一部、そして正面から右手にかけて家並みとほのかに色づく山なみのパノラマを堪能できました。
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 そして奥の院のあたりをぶらついて下山。山寺駅へ向かう途中にあったのが「対面石」という巨石です。慈覚大師円仁が山寺を開くにあたり、この地方を支配していた狩人の磐司(ばんじ)磐三郎とこの石の上で対面し、山岳仏教の霊場をつくるために動物を殺すことをやめてほしいと嘆願したそうです。その心に感動した磐三郎は狩猟をやめ、仏道に帰依し山寺開山の基礎づくりに協力したとのことです。ここから駅までは橋を渡って数分ほど、駅前には「山寺ホテル」という堂々とした和風建築がありましたが、どうやら廃業した様子です。
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 本日の五枚です。
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by sabasaba13 | 2010-09-27 06:28 | 東北 | Comments(0)

南東北錦秋編(5):立石寺へ(09.10)

 そして14:54に山形に到着、出迎えてくれたのは駅長さんの顔はめ看板。これは嬉しいサプライズです。鉄ちゃん・鉄子さんだったら随喜の涙を流して顔をはめこむだろうなあ。私の病はまだ膏肓には入っていないので、撮影するだけにとどめましたが。さてここから仙山線で立石寺(山寺)に向かいますが、次の列車は15:43発です。うーむ、あまりにも時間のロスが多い、山の上に着いた頃には日が暮れかかっているでしょう。よろしい、タクシーで行きましょう。駅前でタクシーに乗り込んだところ、運転手は女性の方でした。口数は少ないのですが、温もりのあるほのぼのとした話し方がなんとも素敵です。さっそく山形のご当地B級グルメ、冷やしラーメンとどんどん焼きについてお訊ねしました。前者は要するに冷たいラーメンで、この時期にはあまり食べないとのこと。後者は、海苔と魚肉ソーセージ入りのお好み焼きを割り箸にまきつけたチープなおやつということでした。そうか、それでは今晩の夕食は牛肉(米沢牛・山形牛・蔵王牛)ですかなと言うと、駅近くにある美味しい店を紹介してくれました。川を渡るときに右手をみやると、蔵王の勇壮な山なみが見えました。運転手さん曰く、この川原でよく芋煮会が行われるということです。あるとき、お客さんがどうしても食べたいというので、川原に下りて頼んだところ、快く食べさせてくれたそうです。いい話だなあ。景気はどうですかと訊くと「だめですね」と暗いお返事。なんでも米沢はNHK大河ドラマ「天地人」ブームで賑わっているが、山形は閑古鳥が鳴いているそうです。大河ドラマにふりまわされて観光地を飛び回るツーリストの主体性の無さには疑問を抱きますが、地方にしてみればそんなことを言っている場合ではないですね。三島通庸が主人公になる可能性は限りなく零に近いだろうしなあ… いっそのこと宮本常一の生涯をドラマ化してくれれば、かなりの地域が潤うのですけれどね。渋沢敬三曰く、彼が訪れたところに赤い印をつけると、日本地図が真っ赤になります。でもNHKにそのような高い志を期待しても(たぶん)無駄だしなあ。そうだ、松尾芭蕉はいかが。山寺や最上川を訪れる観光客が増え、山形市にもその余得が来るはずです。日本放送協会関係者各位、ここはひとつご英断を。てなことを考えているうちに三十分弱で立石寺(山寺)に到着です。
 スーパーニッポニカ(小学館)に依拠して立石寺を紹介しましょう。
 山形市山寺にある天台宗の寺。山号は宝珠山。山寺と通称される。本尊は薬師如来。芭蕉が『おくのほそ道』に「閑さや岩にしみ入る蝉の声」を詠んだ寺として有名である。860年(貞観2)清和天皇勅願により比叡山延暦寺の別院として慈覚大師円仁が創建した。延暦寺根本中堂の法燈を分燈しており、叡山の法燈が織田信長の焼打ちによって消えたとき、立石寺から再建の燈火が移されている。室町末期に兵火により焼失したが、天文年間(1532~55)最上義守、一相坊円海らによって再建中興され、関東北の霊場として信仰の中心となった。35万坪(115ヘクタール)の宝珠山全山が境内で、史跡名勝、県立公園とされ、40余の堂塔が散在して深閑の趣ある寺容である。
 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2010-09-26 09:33 | 東北 | Comments(0)

南東北錦秋編(4):山形へ(09.10)

 裏磐梯高原駅(物産館側)でやってきたバスに乗り込み、さきほど気になった石碑を撮影するために左側の席を陣取りました。磐梯山噴火記念館、そして五色沼入口を通り過ぎ、たしか「国際スキー場」というバス停のあたりにあったはずだと、eye of the tigerになって車窓から見つめていると…あった…ぱしゃ。もう一つあったはずだ…ない。おのれ、見過ごしたか。さっそくディスプレイで確認してみると、窓枠によって三分の一ほど見えなくなっています。失敗でした。
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 それでも気になるので、帰宅後、インターネットで調べてみると、次のようなことがわかりました。1939(昭和14)年、東京電灯は秋元発電所の下流に「磐瀬発電所」の建設を申請しましたが着工には至らず、しかし戦争が始まり電力不足となったため、短期間に完成可能な発電所としてこの地が再浮上しました。1943(昭和18)年に日本発送電が着工しましたが、沼倉発電所として完成したのは敗戦後の1946(昭和21)年となります。(「福島県史」「猪苗代湖利水史」) その際に、強制連行した712人の中国人が投入され、苛酷な労働環境と酷使により、僅かに二ヶ月半の間に13名の者が、極度の栄養失調と過労と寒さのために死亡しました。1947(昭和22)年、発電所の作業現場近くに「中華民国人殉難者慰霊碑」が、その近くに「朝鮮人殉難者慰霊碑」が建てられたそうです。いつの日にか再訪する機会があったらぜひ立ち寄り、黙祷を捧げたいと思います。
 市街地に入ったところで「野口英世博士の想いで 清作が医師を志す出発地 六角橋」という掲示を見かけました。彼が三城潟の自宅から猪苗代尋常高等小学校へ通うとき、また医師試験のために上京するとき(1895)、渡った橋だそうです。猪苗代駅に到着し駅前広場をぶらつくと、ここにも野口英世物件がありました。彼と母堂シカと恩師小林栄のレリーフおよび「忍耐」と刻んだ石碑。そして1900(明治33)年に、郷里の人々に見送られ、この駅からアメリカに向かったと記する解説板。とどめは駅構内に貼ってあった「野口英世博士のふるさと 猪苗代にようこそ」という垂れ幕。
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 そして磐越西線で郡山に戻り、13:31発の山形新幹線で山形に向かいます。自由席で余裕のよっちゃんだなとなめていたら、あらまっちゃんでべその宙返り。立錐の余地が多少あるぐらいの大混雑です。やれやれ。しょうがないのでデッキに立って坂口安吾を呼んでいると、赤湯で下りる方が多くようやく坐ることができました。みなさん、温泉に行くのかな。さっそく車内販売で米沢名物「牛丼弁当 牛肉どまん中」を購入してたいらげ、珈琲を飲んでいるとそろそろ山形に到着です。おっ茂吉記念館前駅だ。斉藤茂吉は山形の金瓶の生まれ、かなり前にこの記念館を訪れたことを思い出しました。とはいっても記憶に残っているのは、茂吉は小便が大変近く、いつも「極楽 茂吉」と書いてある小さな金のバケツを持ち歩いて用を足したというエピソードだけですが。そのバケツが展示してあったのには驚愕しました。余談ですが「線路を楽しむ鉄道学」(今尾恵介 講談社現代新書1995)によると、この路線の庭坂~関根間のうち約25kmは、大半を33.3パーミル(最大で38パーミル)が占める、日本有数の急勾配だそうです。だからどうしたと言われても困ってしまいますが。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2010-09-25 06:34 | 東北 | Comments(0)

南東北錦秋編(3):裏磐梯(09.10)

 そして観光客でごったがえすレストハウスの前を進むと、毘沙門沼がその姿を現しました。いよいよ五色沼のはじまりです。それではスーパーニッポニカ(小学館)に依拠して紹介しましょう。裏磐梯、または磐梯高原は、磐梯山北麓一帯にひろがる標高約800メートルの高原です。1888 (明治21)年の磐梯山の大爆発の際に押し出された泥流によって、長瀬川水系の諸河川がせき止められ、裏磐梯三湖とよばれる桧原湖、小野川湖、秋元湖をはじめ、大小無数の湖沼が出現しました。五色沼湖沼群もその一つです。柳沼、るり沼、青沼、赤沼、みどろ沼、毘沙門沼などの小沼が、藍、コバルト、緑、赤など微妙に異なった水の色を呈しています。磐梯山の活動の跡をとどめる火山地形が、これら湖沼群の静けさと対照的な激しさをみせ、高原一帯の景観を魅力あるものにしています。また、猪苗代盆地との比高を利用して秋元発電所なども設けられています。はい、御託は終わり、さっそく歩きはじめましょう。なお距離して約4km、徒歩約一時間のコースで、終点にある裏磐梯物産館から猪苗代駅に行くバスも約一時間後の10:36に出発。間に合えば乗るし、無理だったらタクシーあるいは次のバス(11:56)で戻ることにしましょう。毘沙門沼のほとりに綺麗に色づいたモミジがあったので期待したのですが、全行程を通してそれほど真っ赤に色づいたモミジはありませんでした。
 また高木もほとんど落葉しており、燃え上がる紅葉には出会えませんでした。やはり十月中旬あたりが見ごろのようですね。しかし、晩秋の景色を水面に映す、さまざまな色合いの数々の沼を見ているだけで幸せな気分になってきます。また遊歩道も歩きやすく整備されており、ベンチや道標もきちんと設置されているので、安心して終わりゆく秋の風景を楽しむことができました。
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 ぱしゃぱしゃと写真を撮りながらのんびり歩いていると、あっという間に時は過ぎ、裏磐梯物産館に着いた時にはもうバスは出発していました。タクシー乗り場もあるのですが、その姿は見えません。電話でハイヤーを呼び出すこともできそうでしたが、料金がかかりそうだし、ここで昼食をとって周辺を散策し次のバスに乗ることにしましょう。車道を渡って桧原湖を眺め、物産館に戻って喜多方ラーメンをいただき一休み。
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 物産館のそばにある柳沼とその隣にある沼には、綺麗に色づいたモミジが数本ありました。どういうアングルで撮れば、いかにも紅葉真っ盛りに見えるか(詐欺だねこりゃ)試行錯誤・右往左往をくりかえしているうちに、そろそろバスが到着する時刻となりました。

 本日の八枚です。
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by sabasaba13 | 2010-09-24 06:30 | 東北 | Comments(0)

南東北錦秋編(2):裏磐梯(09.10)

 さていよいよ出発です。好事魔多し、週間天気予報によると、初日はおおむね晴れ、しかし前線の影響で、二日目は曇り後雨、三日目は曇り時々雨でぐっと冷え込み雪の可能性もあるようです。やれやれ。鳴子峡をおそらく晴れるであろう今日の午後に訪れ、山寺を明日にまわすという変更も可能ですが、うーんどうしよう。いろいろなサイトの天気予報を調べてみると、宮城県は明日も晴れとする予報が一つだけありました。自分にとって都合のよい情報を鵜呑みにするというのが、われら日本人の国民性。大日本帝国陸海軍の顰に倣って、乾坤一擲、これにかけてみよう。よって変更はなし、初志貫徹です。大宮から東北新幹線に乗って8:22に郡山に到着。8:31発の磐越西線快速喜多方行きに乗り換えて猪苗代をめざします。車窓を流れゆく光景を眺めていると、錦衣をまとったような山をときどき見かけます。まだ落葉はしていないようでほっとしました。田んぼでは稲刈りがすっかり終わっています。そして青空のもと、おぼろげに磐梯山のお姿が浮かび上がってきました。
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 9:11に猪苗代駅に到着、磐梯山を撮影し、駅前のバス停に行くと、観光客の姿がちらほらと見えます。朝早いこともあってか、それほどの混雑ではない様子で一安心。でもほぼ満席となった9:20発のバスに乗り込み、さあ出発です。山間に入ると、紅葉の色づきもひときわ見事になってきました、嬉しいなあ。ん? 今、視界を駆け抜けていった石碑に「朝鮮人慰霊…」と刻んであったようです。水路らしきものの傍なので、もしや強制連行による朝鮮人犠牲者を悼んだものでしょうか。え? 今度は「中華民国慰霊…」という碑が目の前を飛び去っていきました。次のバス停で飛び降りて、確認したいところですが、今後の旅程を考えるとそうもできません。泣いて馬謖を斬る、寄ることはあきらめ、帰りに車窓から撮影することにしましょう。
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 そして三十分弱で五色沼入口に到着。大きなビジターセンターがあったので地図を所望すると、お値段は50円。変なところで吝嗇な小生、道標はきちんと整備されているとのことなので、購入せずにすませましょう。出すべきものを出して、出発です。大きな駐車場には観光バスや自家用車がけっこう停めてあります。その一画には「日本赤十字社 平時災害救護発祥の地」という大きな記念碑がありました。どりゃどりゃ解説を読んでみましょう。1888(明治21)年に磐梯山が大爆発をして、死傷者500余名を数える大惨事となりましたが、日本赤十字社は医療救護員三名を派遣し、救護活動を行ったそうです。「当たり前田のクラッカー」と思うでしょ、私も思いました。しかし解説によると、そもそも赤十字社は戦時救護を目的としていたので、平時救護はしていなかったのですね。平時救護をその活動に加えるようになったのは1919年以降、つまり日本赤十字社によるこの救護活動は世界の先駆けだったわけです。なるほどねえ、勉強になりました。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2010-09-23 07:41 | 東北 | Comments(0)

南東北錦秋編(1):前口上(09.10)

 前年に東北北部の紅葉狩りに行っていたく感銘したので、今回は南東北を攻めてみることにしました。時は代休をからめた十月末から十一月はじめの二泊三日、東北の紅葉だったら盛りは過ぎているかな、まあいいでしょう。選抜した見どころは、裏磐梯、鳴子、山寺(立石寺)、厳美渓、猊鼻渓、中尊寺です。これに、以前から気になっていた、明治期の建物がいくつか現存している、人呼んで(誰が呼んだ?)「東北の明治村」こと登米(とよま)をぜひからめたいですね。となると、前回のようなパック・ツァーでは普通あり得ない行程でしょう。よって個人旅行に決定、さっそく計画を立ててみました。第一日目は、東北新幹線で郡山へ、磐越西線に乗り換えて猪苗代へ。ここからバスで裏磐梯五色沼へ。同ルートで郡山に戻り、山形新幹線に乗って山形へ、そして仙山線に乗り換えて山寺へ。この日は山形泊、という感じでいいでしょう。問題は二日目です。山形から鳴子温泉へのアクセスがきわめて不便で、いろいろと調べた結果、6:05発の奥羽本線に乗って新庄まで行き、陸羽東線に乗り換えて鳴子温泉に行くのが最善のようです。これなら一日、余裕をもって遊べますね。朝五時起きというのがネックですが、もうじさまになりかかっている小生にとっては(たぶん)お茶の子さいさい。歳をとるというのも悪いものではありません。鳴子峡へはバスで十分ほど、遊歩道を散策してバスか徒歩で駅へと戻り…さあ問題はこれからです。お目当ての登米に行く方法が判然としません。ガイドブックには「東北本線瀬峰駅から登米行きバス一時間」とあるのですが、鳴子温泉から小牛田(こごた)で乗り換え、瀬峰へ行くのはまあいいとして、そこからのバスの時刻表がわかりません。仙台から直通のバスもあるようですが、手間がかかりすぎ。うーん、まいった。まいったら基本に戻る。一番近い駅からタクシーに乗ることとして、地図で確認すると石巻線の柳津(やないづ)が近いようです。よし、決まり。さてどこに泊まるか。おっ柳津から気仙沼まで列車に乗って一時間ほどだ。「日本の町100選 小さな町小さな旅 東北・北海道」(山と渓谷社)によると、気仙沼も古い建物が数多く残っている雰囲気のいい街のようです。気仙沼泊に決定。三日目は、猊鼻渓・厳美渓・中尊寺ですが猊鼻渓での舟下り+一ノ関から東北新幹線で帰郷という二つのポイントを考慮すると、気仙沼→一ノ関→平泉(レンタサイクルで中尊寺・毛越寺等を散策)→タクシーで厳美渓へ→タクシーで一ノ関へ、そしてバスで猊鼻渓へ→列車で一ノ関へ、というところでしょう。うん、これでおおまかなアウトラインができあがりました。後は気分と天候と現地の情報を適当に組み合わせながら、臨機応変、行き当たりばったりでいきましょう。持参した本は「堕落論・日本文化私観」(坂口安吾 岩波文庫)。中学生のころ、"ずいらくろん"と読んでおもいっきり笑われた甘酸っぱい記憶がよみがえってきます。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2010-09-22 16:54 | 東北 | Comments(0)

「音楽の聴き方」

 「音楽の聴き方 聴く型と趣味を語る言葉」(岡田暁生 中公新書2009)読了。クラシック音楽の歴史を、当時の時代背景や時代精神とからめながら、本当に本当にわかりやすく解き明かしてくれた名著「西洋音楽史」(中公新書1816)の著者、岡田氏が書いた本ですから、面白くないわけがない、と書店の本棚で見つけて即購入。期待は裏切られませんでした。副題が語るとおり、音楽を聴く喜びをより深めるためのスタイルと言葉について、著者の豊富な体験に基づきながら、生き生きと述べられたのが本書です。音楽と言葉の関係については、私が下手に要約するよりも、岡田氏自身の言葉で語ってもらったほうがよいでしょう。以下、引用します。
 音楽文化は「すること」と「語ること」とがセットになって育まれる。しかし「音楽を語ること」は決して高級文化のステータス、つまり少数の選良の特権であってはならない。どんなに突拍子もない表現であってもいい。お気に入りの音楽に、思い思いの言葉を貼りつけてみよう。音楽はただ粛々と聴き入るためだけではなく、自分だけの言葉を添えてみるためにこそ、そこに在るのかもしれないのだ。理想的なのは、音楽の波長と共振することを可能にするような語彙、人々を共鳴の場へと引き込む誘いの語彙である。いずれにせよ、音楽に本当に魅了されたとき、私たちは何かを口にせずにはいられまい。心ときめく経験を言葉にしようとするのは、私たちの本能ですらあるだろう。(p.81~82)
 クラシック批評などで散見される「精神性」「宗教的」といった観念的な言葉に絡め取られず、音楽をより魅惑的に感じさせてくれるような、自分なりの言葉。著者はその実例として、名指揮者たちの語った言葉をいくつか紹介してくれますが、これが傑作です。「四十度くらいの熱で、ヴィブラートを思い切りかけて」(ムラヴィンスキー)、「いきなり握手するのではなく、まず相手の産毛に触れてから肌に到達する感じで」(クライバー)、「おしゃべりな婆さんたちが口論している調子で」(チェリビダッケ)、「ここではもっと喜びを爆発させて、ただし狩人ではなく猟犬の歓喜を」(フリッチャイ)等々。 (p.61) なるほどねえ、こうした身体的・感覚的な言葉を駆使して、楽団員を共鳴させるというのも指揮者の大事な資質なのですね。また、ヨーロッパの音楽好きは、「上手い/下手」という言い方をせず、「音楽である/ない」という表現をするそうです。どうやら音を慈しみながら、語るように音楽を奏でることを心得ているか、それともモノのように音を処理しようとするかの違いらしいのですが、この表現を知ってから音楽の聴き方が随分と変わったと氏は述べられています(p.72)。うーむなるほど、一つ例をあげれば携帯電話の着信メロディは音楽ではないのですね。音程もリズムもテンポも正確無比ですが、モノの如く処理された非音楽。いかに着メロ的非音楽が巷に氾濫していることか。こうした音楽の体験に対して言葉がもつ魔法のような作用に気づき、自らも紡げるようになれば、もっと大きな喜びを得られるようになるでしょう。

 また音楽を聴く型(スタイル)についても、興味深い指摘が多々ありますが詳細についてはぜひ本書を読んでみてください。一つだけ挙げておくと、岡田氏が音楽を聴くときの目安にしているのは最終的にただ一つ、「音楽を細切れにすることへのためらいの気持ちが働くか否か」ということだそうです(p.29)。演奏会の途中で席を外したり、CDを中断したりせず、音楽という一つの時間を、音楽とともに最後まで共体験しようという気持ちになれるかどうか。これも納得です。携帯電話の発するいわゆる着メロに対する違和感と嫌悪感の理由がこれで氷解しました。大好きなメロディが途中で途切れることを許容するその無神経さが嫌なのです。参考のため、巻末にある「聴き上手へのマニュアル」の一部だけを紹介しておきます。
 他人の意見は気にしない/世評に注意。自分のクセを知る/有名な音楽家を神格化しすぎない/そのジャンルに通じた友人を持つ/音楽は視なければ分からない/最終的には「立ち去りがたさ」を大切にすること/音楽を言葉にすることを躊躇しない/音楽についての本を読む/興味のある音楽があれば、その国の言葉を少し学ぶ/その音楽が「傾聴型」か「聴き流し型」か適切に判断する/場を楽しむ/自分でも音楽をしてみる。(p.208~213)
 そして一番感銘を受けたのが、私たちが音楽を聴く理由についての考察です。フランスの文学理論家ピエール・バイヤールによれば、誰もが「内なる図書館」を持っていて、これまでに読んだ本、読んだけれども忘れてしまった本、噂に聞いたことがある本、どこかでその批評を読んだことのある本などについての諸々の記憶の断片から、それは成っているといいます。そしてこの「内なる図書館」こそ、「少しずつわれわれ自身を作り上げてきたもの、もはや苦しみを感じさせることなしにはわれわれと切り離せないもの」、つまり自分自身の履歴書、アイデンティティーの一部です。そう、音楽もこの図書館の大切な蔵書なのですね。この内なる図書館がみすぼらしいと、われわれの生も味気なく寂しいものになってしまう。著者は村上春樹氏の美しい言葉を引用されています。「意味がなければスイングはない」(文藝春秋)の中で、彼はその図書館を"記憶のぬくもり"と捉えています。
 そしてそのような個人的体験は、それなりに温かい記憶となって、僕の心の中に残っている。あなたの心の中にも、それに類したものは少なからずあるはずだ。僕らは結局のところ、血肉ある個人的記憶を燃料として、世界を生きている。もし記憶のぬくもりというものがなかったとしたら、太陽系第三惑星上における我々の人生はおそらく、耐え難いまでに寒々しいものになっているはずだ。だからこそおそらく僕らは恋をするのだし、ときとして、まるで恋をするように音楽を聴くのだ」 (p.33)
 言葉を介して、二つの知性が共鳴・共振しているような気すらしました。言葉って、そして音楽ってほんとにいいものですね。何かしらの心構えをもって真摯に向き合えば、必ずや豊潤な喜びをもたらしてくれると、あらためて痛感します。
by sabasaba13 | 2010-09-20 06:29 | | Comments(0)