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目白編(2):目白ヶ丘教会(10.1)

 すこし東へ戻って二つ目の信号を南へと進むと、閑静な住宅街という趣です。びっくらこいたのが、道路のど真ん中に屹立する巨木です。ご丁寧に、その部分だけ道が両側にふくらんでおり、車線も木をよけるように半円状にカーブしています。前掲書によると、このあたりはいわゆる「目白文化村」、明治時代から別荘地として開発されていたそうです。おそらくその時のプランナーが、この木に敬意を表して残したのでしょう。あるいは注連縄がはってあるので、神木だったのかもしれません。いずれにせよ、見識ある行為だと思います。この光景が見られただけでもここまで来た甲斐があったというもの。
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 その先にある白い教会のところでふと足が止まりました。むむむ、これは只者ではないぞ。切妻屋根のシンプルな外観ながらも、連続する縦長の窓、ステンドグラスの洒落た意匠、斬新なフォルムの鐘楼、そそくさと近づくと日本バプテストキリスト教目白ヶ丘教会です。
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 たしか設計は遠藤新… これまでも自由学園明日館、上山田温泉「豊年虫」、真岡の久保講堂と、彼の作品と出会い、これからも追っかけていこうと思っていましたが、ここで偶然出くわすとは。己の強運には驚きます。遠藤新について、ウィキペディアを参照しながら紹介しておきましょう。
遠藤 新(えんどう あらた 1889-1951) フランク・ロイド・ライトに学び、そのデザイン・空間を自己のものとして設計活動を行った建築家。福島県相馬郡福田村(現新地町)出身。第二高等学校を経て東京帝国大学建築学科卒業。明治神宮の建設に関わった後、1917年、帝国ホテルの設計を引き受けたライトの建築設計事務所に勤める。建設費用がかかり過ぎるとしてライトは解雇され、途中で帰国してしまうが、遠藤ら弟子が帝国ホテルを完成させた。また、自由学園、山邑邸も、ライトの基本設計を元に完成。1935年からは満州と日本を行き来して設計活動を行った。1945年満州にて第二次世界大戦の終戦を迎えたが、翌年心臓発作で入院し、半年後に日本に帰国した。1949年からは文部省学校建築企画協議会員を務め、戦後占領下の日本における学校建築のあり方に対する提言を行った。1951年4月体調を崩し、東大病院に入院。2ヶ月後、同病院にて死去した。
 帰宅後、インターネットで調べてみると、竣工は1950 (昭和25)年、彼の遺作にあたるそうです。こちらでも催しごとが行われており、入るのは遠慮したのですが、ぜひ内部も拝見したいものです。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2011-01-31 06:19 | 東京 | Comments(0)

目白編(1):目白聖公会(10.1)

 一月の、とある日曜日、あまりにも空が青く澄み、あまりにも穏やかなので、「大人のための東京散歩案内」(三浦展 洋泉社COLOR新書)を読んで目をつけていた目白界隈をぶらつくことにしました。同書を持参するとともに、念のためポケット地図帳を持っていきましたが、これが大正解。このあたりは丘陵地であるため、アップ・ダウンに富んだ地形に合わせて道がメロンの皴のようにうねっているので、ややアバウトな同書の地図だけでは道に迷うところでした。
 西武池袋線の椎名町駅で下車、ここから北および東の一帯は以前に徘徊したことがあるので、「池袋モンパルナス編」をご照覧ください。今回はここから目白の方へ向かいます。駅の北口から線路に沿って東へ歩いていくと、どう見ても銭湯には見えない妙法湯と遭遇。さらに歩を進めると谷瑞川緑道と交差しますが、川とはいいながらも、完全に暗渠になっていました。三浦氏のご教示によると、この川は東京の地形を考えるうえで重要な川だそうです。左手をがばっとかぶせたような、起伏に富んだ入り組んだ地形が東京の特色であると以前述べましたが、そうした谷や段丘を作ったのが、谷瑞川・神田川・石神井川・目黒川・呑川といった小さな川なのですね。そしてこうした川沿いに庶民の街ができるので、たとえ暗渠や緑道になっていてもその周辺の散策は楽しいと、氏は語っておられます。
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 そして踏切を渡って西武池袋線の南側へ行きました。下見板張りの古い木造民家や、横にストライプの入ったモルタル造りの看板建築など、一部ですが古い町並みが散見されます。
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 目白通りに近づくと、長い壁と生い茂る木々、そこから垣間見える邸宅など、高級住宅街の雰囲気があふれています。その一画に徳川家の土地があり、尾張徳川家の所蔵品を管理する徳川黎明会という団体が所有しているそうです。見るからに、高級そうなお宅が並んでいますが、残念ながら私有地につき立ち入り禁止。監視カメラもあるしね、君子危うきに近寄らず。
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 そして目白通り沿いにあるのが、目白聖公会です。1929(昭和4)年に建立された聖堂は、都内にある聖公会の中で戦前からある唯一の礼拝堂とのこと。催しごとをしているようなので、中には入りませんでしたが、バランスのよい正統的なファサードです。ここからすこし西に歩くと「ルート・デュ・ショコラ99」というチョコレート屋さんがあります。山ノ神へのお土産にトリュフ・チョコレートを購入。帰宅後、いっしょに食べましたが、味わい深い逸品でした。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2011-01-30 08:14 | 東京 | Comments(0)

言葉の花綵43

 思うに、希望とは、もともとあるものだともいえぬし、ないものだともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上に道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。(魯迅)

 もし虎にぶつかったら、木へよじ登って、虎が腹をすかして立ち去ってから降りてきます。もし虎がいつまでも立ち去らなかったら、自分も木の上で餓死するまでですが、その前に自分を紐で木へしばりつけて、屍体だって絶対にくれてやりません。だが、木がなかったらどうか? そのときは、仕方がない、食わせてやるより手がないが、こっちだって一口くらいは噛みついてやります。(魯迅)

 進取的な国民の中では、性急さも結構だが、中国のような麻痺した場所に生まれた以上、それでは損するだけです。どんなに犠牲をはらったところで、自分をほろぼすのがせいぜい、国の状態には影響はありません。…この国の麻痺状態を直すには、ただ一つの方法しかない。それは「ねばり」であり、あるいは「絶えず刻む」ことです。(魯迅)

 きれいごとの好きな学者たちが、どんなに飾り立てて、歴史を書くときに、「漢族発祥の時代」「漢族発達の時代」「漢族中興の時代」などと、立派な題を設けようと、好意はまことに有難いが、措辞があまりにもまわりくどい。もっと、そのものズバリの言い方が、ここにある―
一、奴隷になりたくてもなれない時代
二、当分安全に奴隷になりおおせている時代 (魯迅)

 現代の社会では、理想と妄想の区別がハッキリしない。もうしばらくしたら、「できない」ことと「しようとしない」こととの区別もハッキリしなくなるだろう。(魯迅)

「現在」を殺せば、それは「将来」を殺すことだ。―将来は子孫の時代だ。(魯迅)

 死者がもし生きている人の心の中に埋葬されるのでなかったら、それは本当に死んでしまったのだ。(魯迅)

 前に羽ぶりのよかったものは、復古を願い、いま羽ぶりのいいものは、現状維持をねがい、まだ羽ぶりのよくないものは、革新をねがう。
大ていこんなところだ。大てい! (魯迅)

 しかし暗黒であるからこそ、救われる路がないからこそ、革命が必要ではないのか? もし前途に必ず「光明」や「救いの路」という保証書がはりつけられていて、それだからこそ勇ましく革命をやるというのであれば、それは革命家ではないどころか、まったく投機家にもおとる。投機でも、それをやって成功するかどうかは、あらかじめ知りようはないのである。(魯迅)

 主人である時に一切の他人を奴隷にするものは、主人ができると、必ず奴隷をもって自ら甘んずる。これは天経地義、動かすべからざる真理である。(魯迅)

枝葉を取り除いてしまう人は、絶対に花や実を手に入れることができない。(魯迅)
by sabasaba13 | 2011-01-29 07:34 | 言葉の花綵 | Comments(0)

「母アンナの子連れ従軍記」

 「母アンナの子連れ従軍記」(ブレヒト 谷川道子訳 光文社古典新訳文庫)読了。十七世紀、三十年戦争下のドイツ(といっても領邦国家や都市の寄せ集めですが)、軍隊に従って幌馬車を引きながら、戦場で抜け目なく商売をしながら三人の子を育てる肝っ玉母さんアンナ。そのしたたかさを生き生きと描いた戯曲です。まず時代設定として三十年戦争(1618~48)を選んだのがブレヒトの炯眼です。「世界史リブレット 29 主権国家体制の成立」(高澤紀恵 山川出版社)を参考にしながら、この戦争の歴史的な意味をまとめてみます。まあ一般に、カトリック諸国とプロテスタント諸国の間で行われた最後の宗教戦争、というイメージで語られています。著者の高澤氏は、もっと正確に、「神聖ローマ帝国が、強力な皇帝の一元的支配のもとに中央集権国家として歩むか、それとも皇帝は名目的な存在にとどめ独立した領邦の連合体として進むか、その二者択一をかけた戦いであった」と述べられています。私なりの解釈では、ローマ教皇と神聖ローマ帝国皇帝が諸国家の上に君臨するのか、あるいはそれらの権力・権威を否定し、諸国家がそれぞれ自立した至高の存在となるのか、をめぐる戦争であったと思います。周知のように、この戦争の結果結ばれたウェストファリア条約(1648)は、前者の道を葬り去ることになりました。つまり国家が絶対的で恒久的な権力である主権を持つことが認められたわけですね。ぶっちゃけて言うと国家の判断で、お手軽に戦争ができるようになったのです。そして戦争という「緊急事態」の恒常化が、王権に広範な自由裁量権を与え、人・武器・資源の動員、徴税機構、軍事行政の整備といった国家装置の発展に寄与していくことになります。「ジャズと自由は手をつないで歩く」と言ったのはセロニアス・モンクですが、彼の言を借りれば「国家と戦争は手をつないで歩く」というわけです。ブレヒトもこの劇中である人物の口を借りてこう言っています。
 戦争のあるところだけだよ、ちゃんと帳簿があって、記録があって、履物は何箱、穀物は何袋、人間も家畜も勘定できて、すぐに動員できるようになっているのは。秩序なくして戦争はできないってことを、知っているからだ。(p.10)
 もうひとつ。"果てしなく利潤を手に入れるために、必要もないものを大量に作って消費させる"のが資本主義の本質だとしたら、その最大の消費を生みだしてくれるのが戦争です。その犠牲となる民衆がいるとともに、その余沢にあずかる民衆もいるということも忘れてはいけません。「国家と戦争と資本主義は手をつないで歩く」のでしょう。ブレヒトの視線はここまで届いています。
 お偉方の話を聞いてると、戦争は神様への畏怖の心や、善いこと、美しいことのためにやっているみたいだけど、よーく見ていると、あの衆だって馬鹿じゃない、儲けるためにやってるんだよ。でなきゃ、私ら下々の者がついてくはずないもの。(p.57)
 こうした関係が作り出されるきっかけとなったのが三十年戦争だとしたら、そのひとつの終着点が第二次世界大戦です。この戯曲が書かれたのは1939年、ヒトラーが東欧や北欧への侵略を開始し、ブレヒトの新たな亡命先スウェーデンにまで攻め入ってこようとする年です。三十年戦争のせいでドイツの発展が二百年遅れて、この後進性がヒトラーを生む機縁になった、という意見もあるとのこと。ドイツに大きな傷跡を残したこの二つの戦争、ブレヒトはこの二つの時空を行き来しながら、国家と戦争と資本主義について辛辣な言葉を紡ぎだしていきます。それではその呪詛をいくつか紹介しましょう。
 戦争も初めは馴染めんものかもしれん。いいことっていうのは何でもそういうものだ。だが一度花を咲かせれば、後は満開。平和と聞いただけでギョッとするようになる。サイコロ博打と同じだよ。やめたら負けた分の勘定、払わなきゃならんからな。戦争に尻込みするのは最初の頃だけ、まだ馴染んでないからだ。(p.11)

 曹長:入隊すれば、素敵な帽子と長靴が貰えるぞ。
 アンナ:「一緒に釣りに行こう」って、漁師がエサのミミズに言うようなもんだ。(p.20)

 賢くなるってのは、おっ母さんのとこに留まって、馬鹿にされようが、ヒヨッコと言われようが、笑ってやり過ごすことだよ。(p.25)

 主イエス様は、五つのパンを五百にする奇跡の力をお持ちでしたから、食べることに窮することはありませんでした。だから「汝を愛するように隣人を愛せよ」と要求なさることも、おできになったのでしょう。(p.37)

 料理人:大食らいではあるが、無能っていうのはなぜだい?
 アンナ:勇敢な兵隊が入り用だって言ったからよ。作戦計画のちゃんとした司令官なら、なんで勇敢な兵隊なんぞがいるの? 並の兵隊で十分なはずでしょ。手柄の美談なんぞがたくさん必要だなんて、どこか腐っている証拠よ。
 料理人:うまくいっている証拠だと、思っていたがね。
 アンナ:いいえ、どこか腐っている証拠よ。司令官や王様が愚かで部下を窮地に引っぱり込むから、決死の勇気なんていう美徳が必要になるし。ケチで少ししか兵隊を募集しないから、兵隊はヘラクレスみたいに強くならなきゃならない。上に立つ者が能なしで配慮が足りないから、兵隊は死なないように、蛇のように賢くならなきゃならない。人に頼りすぎるから、特別な忠義が入り用になる。ちゃんとした国や、いい王様や司令官なら、必要のない美徳ばかり。いい国には何の美徳もいりはしない。誰もが普通の中ぐらいの人間でいい、臆病者でもかまわないのよ。(p.39)

 誰が負けたって? お偉方の勝ち負けがそのまま下々の勝ち負けになるとは限らないよ、まったく別さ。上の連中の負けが下の連中の得になることだってある。面目がつぶれるだけでね。(p.64)

 腹立ちも、もう煙になりかけてきたってこと。つまりは短い怒りだった。もっと長い怒りが必要だったのに、さーて、どこからそれを手に入れたもんだろうねえ? (p.92)

 平和はねえ、穴あきチーズの穴とおんなじ、戦争というチーズを食いつくしてしまったら、穴はどうなります? (p.108)

 本日の一枚は、プラハのカレル城で撮影した、三十年戦争のきっかけをつくった窓です。1618年、神聖ローマ帝国の属領ベーメン(ボヘミア)王フェルディナントが信教の自由を否認して新教徒迫害にのりだし、激昂した新教貴族が、この窓から王の代官をなげとばしたのが発端です。
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by sabasaba13 | 2011-01-28 06:11 | | Comments(0)

中山道編(15):上田(10.1)

 さて時刻は午後一時、帰りの新幹線は上田発15:23なので、上田で昨日見残したところを多少は探訪できそうです。停留所「善光寺大門」からバスに乗って長野駅へ、幸い連絡が良く、すぐにしなの鉄道に乗り込むことができました。そして四十分強で上田駅に到着、なんだかんだ言って二時半になってしまいました。「行々てたふれ伏とも萩の原」、力の限り行けるとこまで行きましょう。まずは駅前から走る国道141号線沿いにある戦前の物件らしき洒落たビルを撮影。近くにあった「交通安全足型(仮称)」は、小さなモザイクで作られた手の込んだものです。
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 そして右手の路地に分け入り、海野町の方へ向かいます。ある民家の屋根には尖った突起が二つ乗っていましたが、安曇野で見かけた「雀おどし」(米などの穀物を食い荒らす雀を猛禽類の形で脅すため)のバリエーションなのでしょうか。ご教示を乞う。そしてキッチュなデザインの上田劇場を発見。こういう街のランドマークはぜひ残していただきたいですね。
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 その前には「どん底」という名のバー、隅に描かれたムンクの「叫び」がいいスパイスになっています。そして海野町界隈に着きましたが、白壁の土蔵や商家が数軒あるだけで、それほどの風情はありません。もうすこし先に行けばまた違う雰囲気なのかもしれませんが、そうのんびりとはしていられません。
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 適当なところで右折して大通りに出て、常田二丁目の信号を右に行くと常田館(ときだかん)がありました。上田を代表する製紙会社、笠原工業が1909(明治42)年に建てた洋館で、絹の資料室として製糸業界の資料を展示しているそうです。その向かいにある工場の敷地内には、繭蔵がありました。残念ながら接近はできませんが、やけに丈の低い四階建ての木造倉庫であることはわかります。藤森照信氏の「建築探偵 神出鬼没」(朝日新聞社)によると(p.169)、平地の少ない信州では、繭を収納する倉庫をどんどん多層化・高層化していったそうです。中には五階建て・六階建てのものもあるとか。きわめて軽量の繭だからこそできる芸当ですね。いずれにせよ日本の近代化を支えたのはこの毛虫の分泌物です。貴重な歴史の証人、近代化遺産として、保存されることを切に望みます。
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 さてここでタイム・アップ、ほんとはこの先にある全国唯一の官立蚕糸専門学校にして、養蚕・製糸に関する研究と指導者育成のための高等教育施設だった信州大学繊維学部の講堂(1929年竣工)を見たかったのですが、行けそうにありません。潔く撤退しましょう。駅に戻る途中で洒落た洋館を発見。またこのあたりにあった「交通安全足型」は点字ブロックに白く細長い楕円を二つ描いたシンプルなものです。さきほどの物件との落差が大きいですね。
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 駅前に着き、昨晩宿泊したホテルのトイレに駆け込むと、個室の壁にたどたどしい漢字で「一歩前へ出て、清掃する方の身なって下さい。」という貼り紙がありました。外国人労働者の方が書かれたのでしょうか。そこに誰かが正確な漢字を書き込んで訂正しています。悪意ではなく、親切心によるものだと信じたいのですけれどね。そして上田駅に到着、ホームの窓から上田の街と山なみに別れを告げ、定刻通り入線してきた新幹線に乗り込み、帰郷の途につきました。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2011-01-27 06:07 | 中部 | Comments(0)

中山道編(14):善光寺(10.1)

 さてそろそろ「背中とお腹がくっつくぞ」状態となってきましたが、さすがに善光寺、初詣客で賑わい食事処はどこも開店しているようです。しかし羹に懲りて膾を吹く、早めに食べておきましょう。たまたま眼前にあった十割そばを標榜する蕎麦屋「大善」であつあつの天ぷらそばをいただきました。
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 そして善光寺へと歩を進めますが、この中央通りは目を見張る古い建物がたくさんあります。重厚な洋館の「中澤時計本店」、風格ある商家造りの「瀧澤硝子店」、表現主義のフレーバー漂う「八十二銀行」、まるで料亭のような「善光寺郵便局」、クラシック・ホテルのような「藤屋旅館」、アンシンメトリーな意匠が印象的な洋館「St.Cousair」、いずれ劣らぬ逸品揃いでした。
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 そして善光寺参道に到着、歴史を感じさせる石畳が続きますが、近くにあった解説板によると(ちょっと長くなりますよ)、伊勢出身で江戸で財をなした大竹屋平兵衛という方がかつておりましたが、長男が放蕩息子でなかなか家に寄り付かなかったそうです。ある夜、盗賊が入ったので突き殺すと、なんとそれはわが子でした。世の無情を感じた平兵衛は家を後継者に譲り、巡礼の旅の途中に善光寺に来て、諸人の難儀を救うためにこの敷石を寄進したそうです。うーむ、どうコメントをしていいかわからないお話ですね。
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 そしてそばに火の見櫓のある仁王門をくぐるとさらに門前の商店街が続きます。
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 瀟洒な写真館「山下ART STUDIO」や洋館の「菓心美和」を横目で見ながら、人の波とともに進むと山門に着きました。
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 「山門大屋根からの落雪事故防止のため、山門通路は通行止めとさせていただいております。迂回をお願いいたします。」とは、雪国ならではの措置ですね。
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 そして善男善女であふれかえる本堂へ、その雑踏に腰が引けて(もともと信仰心は皆無なのですが)お参りはパス。そのかわりといってはなんですが、恒例の絵馬ウォッチングにいそしみました。「高校合格!!  関ジャニ∞に会いたい 世界平和」 うーん、真ん中のところがよくわかりませんが、その前者・後者については願いが叶うといいですね。「野球で、レギュラーになりたいです。」 念じて努力すれば花開く。「ジョニー・ウィアー選手がバンクーバー五輪で大活躍できますように」 ディープな願いですがなんとかなるような気がしないでもないですね。「善光寺の仏さま どうかぼくを美人で胸が大きくすてきな優しい女の人とめぐりあわせてください できればロシア・東欧の女の人と そしてぼくをその人のおっぱいで甘えさせてください ぼくをその人と結ばせてください 今の職場よりよい部署で働かせてください 今の寂しい気持ちがなくなるようにしてください ぼくの家に平穏が訪れますように」 あー写しているだけでムカムカしてきました…が、"寂しい""平穏"という言葉にちょいとほだされてしまいました。もしかしたらのっぴきならない事情があるのかもしれませんね、Kさん。だとしたら、前半部分は取り下げて(取り下げなくてもいいけど)、後半部分に関してはラインホルト・ニーバーの言葉を贈呈します。「神よ、われに与えたまえ。変えることのできないものを受け入れる冷静さと、変えるべきものを変える勇気とを。そしてその二つを識別できる知恵をわれに与えたまえ」
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2011-01-26 06:28 | 中部 | Comments(0)

中山道編(13):川中島古戦場(10.1)

 そして駅前に戻り、長野行きのバスに乗ること十分ほどで川中島古戦場に到着です。しょぼいとはいえ、市井の一歴史学徒、やはりこの目で見てこの足で踏みしめこの胸でその空気を吸いたかったんだよお。なお川中島の戦いとは、武田信玄と上杉謙信が信濃の領有をめぐって、水内郡川中島で1553(天文22)年から64(永禄7)年まで争った合戦です。謙信の出兵の名目は信玄の信濃侵略にさらされた小笠原長時や村上義清などの救援にありましたが、信玄の信濃領有が自らの本拠地春日山を脅かすことへの懸念もあったでしょう。大きな戦いだけで5度あり、特に有名な61(永禄4)年9月の合戦では信玄と謙信が一騎打ちしたとの俗説があり、この時、信玄の弟信繁が討死しています。合戦の場所は徐々に北上し、結果的には武田氏がほぼ信濃全域を領有することになりました。さてバス停留所「川中島古戦場」で降り、車道を渡ると、八幡原史跡公園として整備されていました。信玄と謙信の一騎打ちを再現した両雄の銅像や記念碑を見学。
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 雪が一面に降り積もった公園を眺めながら、"鞭聲肅肅夜河を過る"とうなろうとも、小生詩吟はまったくできませんのでパス。奥の方には私立博物館がありますがもちろん休館でした。長野行きバスは三十分後にさきほどの停留所に来るので、そうのんびりもできません。でもあまりにも雪景色がきれいなので、雪中行軍をしながら移動して山なみや木々や湖水を撮影。そして停留所へ戻りやってきたバスに乗り込みました。
 善光寺までは行ってくれないので、途中の「かるかや山前」で下車。川中島古戦場から四十分ほどかかりました。すぐ近くにあるのが苅萱山西光寺、謡曲や説教節の題材となった苅萱上人と石童丸の終焉の地という伝説があります。今でも掛け軸を使った絵解き(文字が読めない民衆のための絵画を使った説法)が行われているそうです。
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 二人の銅像とお墓を見学。
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 境内には芭蕉の句碑「雪ちるや穂屋のすすきの刈残し」と一茶の句碑「花の世は仏の身さえ親子哉」がありました。
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 ここから善光寺まではゆるやかな上りの一本道。交差点から左の方角を眺めると、雪をまとった山々がすぐそこまで迫っています。古美術植木商店の店先では二宮金次郎の銅像をゲット。背負っているのは薪ではなくて柴、持っている本にはちゃんと「千字文」が刻んである正統派の逸品です。青葉小学校(静岡県静岡市)のものと並び賞されてしかるべきでしょう。
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 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2011-01-25 06:27 | 中部 | Comments(1)

大逆事件

 今日は大逆事件の死刑執行からちょうど100年目にあたります。ウィキペディアによると、1911年1月24日に幸徳秋水、森近運平、宮下太吉、新村忠雄、古河力作、奥宮健之、大石誠之助、成石平四郎、松尾卯一太、新見卯一郎、内山愚童ら11名が、翌1月25日に管野スガが処刑されました。(なぜ彼女だけ翌日だったのでしょう。理由はわかりませんが、死に際してまでも女性を差別/区別する心性が官僚たちにあったのだろうと推測します) 特赦無期刑で獄死したのは、高木顕明、峯尾節堂、岡本一郎、三浦安太郎、佐々木道元の5人。仮出獄できた者は坂本清馬、成石勘三郎、崎久保誓一、武田九平、飛松与次郎、岡林寅松、小松丑治。犠牲者の冥福を祈り合掌します。100年かあ、それ以後、日本はすこしは良い方向に変わったのでしょうか。
 この事件の概要については、以前にも書きましたが、あらためて岩波日本史辞典から引用します。
 初期社会主義運動の大弾圧事件。社会主義運動への抑圧に抗して管野スガ・宮下太吉らは明治天皇暗殺を企図した。取締当局は1910年5月宮下の爆裂弾実験を端緒に幸徳秋水につづき全国の社会主義者数百人を検挙、刑法第73条の大逆罪容疑で26人を起訴。12月からの大審院の公判は一審・非公開で、翌11.1.18死刑24人・有期懲役2人の判決を下す。翌日天皇の特赦で12人を無期懲役に減刑,欧米各国の抗議のなか同24日・25日処刑した。管野・宮下ら4人の暗殺計画はあったものの、それ以外は冤罪であり、社会主義運動は<冬の時代>を強いられた。
 この事件が意味するものは、天皇制を否定する社会主義者・無政府主義者への容赦のない苛烈な弾圧、そうした政府による思想統制や冤罪事件に対する知識人の無力と傍観だと思いますが、今、あらためて考えたいのはこの事件を捏造し彼らと彼女を死に追い込んだ官僚たちのことです。己の権力や地位の源泉である天皇制を死守するため、なりふりかわまず手段を選ばず、それに異を唱える者を破滅させる官僚たち。ある意味では、日本の近代史は(現代史も?)、官僚たち(※もちろん軍人を含む)が自らの権益を守るための歴史として描けるのではないでしょうか。そして政治家に対する不信感が沸騰する今、それを隠れ蓑にして暗躍するかもしれない官僚たちの動きに注視したいものです。浜口雄幸首相が狙撃された現場でせせら笑った警官(駅員?)のように民衆が政治家を軽侮した結果、軍部官僚と革新官僚が手を取り合って日本をどこへ導いていったかを忘れるべきではないでしょう。官僚は国家権力をバックに何をしでかすかわからない存在であるという冷徹なる事実を銘肝すべきです。そしてそれを抑止する重要な役目が政治家にあることも。よって政治家に対する全き不信感はちょっと心配な兆候ですね。「すべてを疑うか、すべてを信ずるかは二つとも都合のよい解決法である、どちらでも我々は反省しないですむからである」(ポアンカレ)

 なお、戦後、生き残りの坂本清馬と、死刑になった森近運平の妹森近栄子が、1961年、東京高等裁判所に再審請求を出しましたが、65年に請求棄却され、最高裁への特別抗告も67年に棄却されたという事実を付言しておきます。官僚はまず自分を守り、次に自分の仲間と給料を払ってくれる組織を守り、最後に国民を守ることがあるかもしれない…

 これまで明科新宮湯河原大平台市ヶ谷正春寺土佐中村古希庵函館市文学館雲魚亭といった大逆事件関連の史跡等を歩いてきました。よろしければご笑覧ください。

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by sabasaba13 | 2011-01-24 06:30 | 鶏肋 | Comments(0)

中山道編(12):松代象山地下壕(10.1)

 象山神社からさらに歩を進めること数分で、松代象山地下壕、いわゆる松代大本営の入口に到着です。アジア・太平洋戦争の末期に、昭和天皇や皇族・軍部と政府の中枢および三種の神器を空襲から守るために作られた巨大な地下壕ですね。地下壕掘削の中心となったのは、強制連行された方々をふくむ約六千人の朝鮮人でした。過酷な労働、事故、栄養失調、自殺、射殺などで数百人が犠牲になったと推定されています。さらに「慰安所」が設けられ、朝鮮の女性数人がいたことも付記しておきましょう。もちろん、工事への動員や強制立ち退きなので、地元の人々も大きな負担を強いられました。
 ふだんは内部を見学できるのですが、本日はお正月のため中には入れません。以前にガイドを依頼してこの壕や天皇の御座所予定地などをまわったことがあるので、今回は入口を見るだけでよしとしましょう。山の斜面に穿たれた地下壕、金網越しに覗き込むと、すべてを飲み込み溶かし込んでしまいそうな漆黒の闇が奥へと続いています。
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 沖縄戦で民衆を犠牲にして時間稼ぎをしながら、多くの朝鮮人を酷使してつくらせたこの地下壕により、誰を守ろうとしたのか? 権力者と、その力の源泉である天皇制というシステム、およびそのシンボルである三種の神器だったのですね。ちなみに敗戦後長野を訪れた昭和天皇が、長野県知事に「この辺に戦時中無駄な穴を掘ったところがあるというが、どのへんか?」と尋ねたそうです。彼はこの地下壕のことを知らなかったといっていますが、違いますね。『木戸幸一日記』(1945.7.31)に、「(三種の神器を)信州の方へ御移することの心組で考へてはどうかと思ふ」とあります。なお彼に関しては、「昭和天皇」(原武史 岩波新書1111)と 「昭和天皇の軍事思想と戦略」(山田朗 校倉書房)の書評を参照してください。
 入口脇には、「朝鮮人犠牲者追悼平和祈念碑」と、長野地区労働組合評議会が建立した「不戦の誓い」という碑がありました。
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 すぐ近くには、以前来た時にはなかった「もうひとつの歴史館・松代」という資料館ができており、強制連行や慰安婦に関する展示があるようですが、残念ながらお正月で休館。"もうひとつ"という言葉には、「官製ではない」という意が込められているそうです。さてそれではバス停に向かいましょう。近くの民家には、彩色された大黒様の鏝絵がありました。
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 象山記念館、旧横田家住宅の前を通り、火の見櫓銭湯「児玉乃湯」を撮影。
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 そして十数分ほど歩くと、1801(享和元)年につくられた旧松代藩鐘楼があります。併設されていた火の見櫓は、残念なことに明治初期に取り壊されてしまったそうです。なお佐久間象山がこの鐘楼を利用した電信実験に成功したので、「日本電信発祥之地」という記念碑もあります。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2011-01-23 07:16 | 中部 | Comments(0)

中山道編(11):松代(10.1)

 おっそろそろ発車時間が迫ってきました、駅へと戻りましょう。列車に乗り込み、十三分ほどで松代駅に到着です。「定期券拝見」「列車遅延のお知らせ」といった手書きの看板、雪をかぶった質朴な駅舎に、旅愁をかきたてられます。
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 さて松代の紹介をしましょう。スーパーニッポニカ(小学館)から引用します。
 松代。戦国末、甲斐の武田氏が信濃北部攻略の際の根拠地とした海津城が置かれた。近世は真田氏10万石の城下町として発展し長野盆地の中心となった。明治以降、信越線の敷設が松代を外れ、長野が県都になったため町勢は衰退した。国の史跡に松代(海津)城跡、松代藩文武学校、菩提寺(長国寺にある真田家墓所)があり、このほか真田邸跡、佐久間象山邸跡などが残り、城下町の景観が各所にみられる。
 つけくわえるならば、松代大本営のためにつくられた巨大な地下壕も残されています。もひとつつけくわえると、松井須磨子の生誕地でもあるのですが、地元ではあまり評判がよくないようで、ガイドブックにも載っていません。駅前には「汽車ポッポ」の記念碑がありました。作曲者の草川信が長野市出身だそうです。そのとなりには「あいさつで知らない人も友達に」という標語がありました。その意気やよし! 「あの人は何か変だぞ110番」という、かつて長崎県大村市で見かけたえげつない標語の対極にありますね。そして駅の近くにある停留所で、長野行きバスの時刻表を確認、一時間に二本程度あるので安心です。
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 それでは町を散策しましょう。まず松代藩次席家老の小山田家住宅、冠木門の脇に、来客を確認するための番所が設けられています。そして観光案内所で地図をもらい、旧文武学校へと向かいます。白壁、和風家屋、そして山なみと、それらを飾る雪化粧がきれいですね。そして旧文武学校に到着、1855(安政2)年に開かれた藩校です。その当時の建物がほぼ完全な形で残っているのは貴重ですね。その前には寒さに凍えながらも毅然として下界を睥睨する火の見櫓がありました。
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 すこし歩くと、道の脇に凍てつく水路があらわれ景観に変化を与えています。そして佐久間象山を祀る象山(ぞうざん)神社へ。松代といえば佐久間象山(1811‐64)ですね、兵法家にして松代藩士。1839(天保10)年に江戸で塾を開き、西洋兵学を勝海舟坂本龍馬吉田松陰らに教えましたすが、ペリー来航時に松陰の密航企画に連座して処罰されます。東洋の道徳と西洋の芸術(科学技術)の融合や貿易・海外進出論を唱え、幕府の命を受けて上京し公武合体・開国進取を説いてまわったため、尊攘派の怒りを買い暗殺されてしまいます。なお横浜の野毛山公園に彼の顕彰碑が、京都高瀬川のあたりに旧居跡があったことを記憶しています。神社の境内に入ると、まず彼が蟄居していた際に来客を接待し国家の時勢を論じたという高義亭が保存されています。坂本龍馬もここを訪れたとのこと、龍馬ファンはお見逃しなく。雪をいただいた本殿や狛犬、雪の花を咲かす木々、それらを水面に映す小さな池、なかなかフォトジェニックな光景です。
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 鳥居の脇には、彼が京都で使っていた茶室「煙雨亭」が移築保存され、その奥には旧居跡・生誕地跡の碑がありました。
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 本日の五枚です。
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by sabasaba13 | 2011-01-22 08:01 | 中部 | Comments(0)