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丹波・播磨・摂津編(18):清荒神(10.2)

 さて名残りは尽きねど山邑邸を後にし、ライト坂をおりながらこれからの行程を検討。予定より多少余裕ができたので、思い切って富岡鉄斎美術館に行ってみることにしました。「自然の家」と並行して読んでいる『日本の近代美術』(土方定一 岩波文庫)に次のような一節があったのにも後押しされました。
 刻むような強い筆触による形体の独自なデフォルマシオン、筆触を駆使した独自な面構成、大きな大胆な構図をもち、ときにあふるる動物精気を思わせる直接的な感動を、われわれに与える画面になっている。それに、日本の伝統美術、ことに大和絵の緑、青、赤の色彩が加わっている。造形を発見する天才者であった鉄斎は晩年になればなるほど、この作家の研究と気魄が重なり、造形のメカニズムを駆使する熟練工の感があり、この熟練工は自己の態度を語る思想に次から次へと奉仕する画家となっている。思想に奉仕する画家として、ルオーと共有する絵画観をもち、近代美術史のなかでルオーに似た位置を占めている。(p.93)
 余談ですが、土方氏は鉄斎を"近代日本美術から隔絶しながら世界的に高い評価を受ける"と紹介した後で、それにつづくは小川芋銭であると述べられています。嬉しいなあ、私も芋銭が大好きなので、満腔の意を込めて賛同します。牛久のアトリエ雲魚亭銚子の句碑を拙ブログに掲載してあるのでご笑覧ください。阪急芦屋川駅から西宮北口まで行き、今津線に乗り換えて宝塚へ、ここでまた宝塚線に乗り換えて清荒神(きよしこうじん)で下車。この間、四十分ほどかかりました。あらかじめ調べておいたところによると、清荒神は「荒神さん」と呼び慣わされ、かまど神の一種として、ここで受け取ったお札を台所の神棚に祀るなどの信仰が根付いているそうです。また先々代法主の光浄和上が、当時名物といえば歌劇しかなかった宝塚に、宗教と芸術文化を通じて多くの人々の心に平和と安らぎを与えたいと、富岡鉄斎翁との機縁によりその作品を蒐集、それが美術館として公開されています。当山のホームページによると駅から徒歩二十分、これからのこんこんに詰まった予定を考えると、バスかタクシーを利用したいのですが、駅前には"ば"の字も"た"の字もありません。右往左往していると、参道入口というアーケードがありました。しょうがない、覚悟を決めて歩を進めると、緩やかで狭い坂道はご利益を求めて参拝する善男善女で満ち溢れ、参拝客めあての店舗や屋台がこれでもかこれでもかと櫛比しています。
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 店先に並ぶ怪しげな商品、飛び交う大阪弁、エネルギッシュでキッチュな雰囲気を楽しみながら歩いていくと、「おかめロウソク」の愛くるしいホーロー看板を発見。その先には「神戸牛ステーキ」を売る屋台がありました。おなかもへったし、ここはいっちょ食べてくかと思いましたが、いや待て待て、どう考えても胡散臭い。あまりの不味さに文句を言ったら「おいちゃん、へんないいがかりつけんといて、これは"かみとぎゅう"と読むんやで」と言い返されそうだな、やめとこう。
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 広い駐車場はほぼ満車状態、なるほど、バスやタクシーでここまで来るのは無謀な行為だなと納得。歩いてきてよかった。ふと見ると、日曜・祝日のみ、一日六本、宝塚駅へのバスが運行されています。下山する際の渋滞はそれほどひどくないだろうし、宝塚まで直行できれば時間のロスも減らせます。幸い、美術館を見学してここに戻る頃にちょうど出発する便がありました。ありがたい、ありがたい、蟻が鯛なら、芋虫ゃ鯨。よろし、これを利用することにしましょう。
by sabasaba13 | 2011-02-28 06:15 | 近畿 | Comments(0)

丹波・播磨・摂津編(17):山邑邸(10.2)

 この廊下に沿って和室が並びますが、これは施主の要望によって取り入れられたそうです。ライトはもともと和室をつくる気はなかったようで、よってここは遠藤新や南信が中心となって設計したのかもしれません。なお私が行った時には、山邑家の当主が京都の老舗「丸平」の三代目大木平蔵につくらせた雛人形が展示されていました。そして応接室とならぶもう一つの白眉が、四階の食堂です。まず眼についたのが宝形造りのような、四角錐をした屋根裏。そこに幾何学的な意匠に細長く黒い木材が取り付けられています。壁面上部に並んだ、採光・通気のために細長い三角形の小窓がチャーミングですね。ただ大きな窓がないために、さきほどの応接室にくらべるとやや閉ざされた空間という印象を受けました。プライベートな場ということを意識したのでしょうか。
 そして葉をモチーフにした飾り銅版がしつらえてあるドアを抜けると、広々としたバルコニーに出られます。(嗚呼やっと写真が撮れる) 素晴らしい眺望を楽しみながら、食後のひと時を過ごしたり、ガーデン・パーティーを開いたりできるよう、設計してあるのですね。ふりかえって食堂のある四階部分を見ると、この建物がさまざまな装飾で飾られているのがよくわかります。軒先に配された大谷石や庇に施された飾り石、そしてモチーフでもありアクセントでもある葉の飾り銅版。モダンな形の煙突さえも装飾に見えてきます。
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 突き当りにはアーチつきの階段があり、ここをくぐって降りるともう一つ小さなバルコニーがあります。このアーチは狭くて天井が低くなっていますが、これも応接室の入口などと同じように、狭い空間を抜けた先に開ける広い空間を強調するための演出ですね。
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 以上、拙い語りですが、この建物の素晴らしさの万分の一でもお伝えできたかどうか心許なく思います。百聞は一見に如かず、ぜひ訪れてみてください。今日は、浄土寺浄土堂と山邑邸という二つの優品に出会えてほんとうに幸せです。"祈り"の場である前者と"暮らし"の場である後者。時代状況による技法や素材の違いはありますが、「末永く真剣に祈りたい」「末永く快適に暮らしたい」という人々の思いを真摯に受け止めて、それを十全なる努力で実現しようとしたことが、この二つの傑作を生んだのだと思います。それにしても、ライトが提唱した有機的建築に住んでみたいものですが、いかんせん、われわれのまわりにはびこっている家は、"こうした「おうち」のどれでもひとつ引っこ抜けば、その分風景は改善され、空気は清々しくなっただろう。こうした家は、人間の住まいというより、巣箱とでも形容したほうがよい"と彼が皮肉るようなものばかりです。[『自然の家』(p.12)] えっ、費用がかかるのではないかって。いやいや、最新技術を駆使すれば、そうした理念をある程度具現化した廉価な家ができるはずだし、実際、ライトもそれを試みています。利潤のための爪牙に陥っている科学を、人間に仕える従者として取り戻さなければなりません。「ガリレイの生涯」(岩波文庫)の中で、ベルトルト・ブレヒトはガリレイにこう言わせています。「私は科学の唯一の目的は、人間の生存条件の辛さを軽くすることにあると思うんだ。(p.192)」

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2011-02-27 07:14 | 近畿 | Comments(0)

丹波・播磨・摂津編(16):山邑邸(10.2)

 さあそれでは中に入りましょう。入館料を払い、玄関からあがると「室内は写真撮影禁止」というつれない注意書き。嗚呼それはないでしょ、それは。ライト財団(?)に著作権等があるためか(建築だからそれはないだろうなあ)、はたまた絵葉書販売促進のためか、よくわかりませんが是非認めていただきたい。気を取り直して階段をのぼり二階へとまいりましょう。そうそう、この建物は4階建てですが、尾根の傾斜に沿って各階が階段状にずれて重なっているため、どの断面をとっても1階または2階建ての建築となっています。敷地や環境と一体になった建築、有機的建築(organic architecture)を提唱したライトの面目躍如ですね。応接室の入口は、ホームページの解説によると幅は約62cmと大変狭くなっています。ところが中に入ると、光に満ち溢れた広々とした空間が広がっています。この広さを強調するためにあえて入口の狭くしたのですね。茶室の躙口を思い起こさせます。それにしても何と明るい部屋であることか。両サイドには嵌殺しの大きな窓があり、正面にはバルコニーに通じる大きなガラス戸。そして壁面の最上部には、採光・通気のためのドアがついた小さな窓が連続して並んでいます。大きな窓からは下界に広がる街並みや港や海を眺望でき、まるで展望台にいるようです。『自然の家』の中でライトはこう述べています。
 住まいというものは、まず第一に庇護する覆い(シェルター)として見えなければならない。…建物を洞窟のように考えるのをやめ、風景と関係したゆったりとした覆いの姿をまず考えるようになった。外部へと開かれた眺め、内部に取り込まれた眺め。(p.18)
 「風景と関係したゆったりとした覆い」、なるほどねえ、この応接室にいると彼の思想が具現化されていることがよくわかります。そして外壁と同じ大谷石による装飾にあふれた壁が、部屋のあちこちに配置され、外部と内部の連続性を演出しています。また作り付けの長椅子・飾り棚・置台が壁面をおおいつくし、部屋全体を総合的にデザインしようとするライトの断固たる意志が伝わってきます。応接室の北側には、大谷石で作られたモダンなデザインの大きな暖炉がありますが、彼は赤々と燃える炎にも強い思い入れがあったそうですね。中央に二セット置かれた、六角形のテーブルと五角形の椅子が印象的ですが、これはライトのオリジナルではなく、所有者であるヨドコウ(淀川製鋼所)がライトのデザインを模して制作したものだそうです。そしてドアにあった葉をモチーフにした飾り銅版が部屋の随所にちりばめられ、いいアクセントになっています。ああ何時間でもここにいて寛いでいたい、と思わせてくれる素敵な応接室でした。
 ふたたび階段をのぼって三階へ行くと、足下までのびた大きなガラス窓が続く長い廊下になっています。ホームページの解説によると、窓は当時のアメリカではめずらしい外開きになっており、一般的だった上げ下げ窓をライトはあえて採用しませんでした。『自然の家』の中で、彼はこう述べています。"私は、外向きに開く窓のために闘った。開き窓(ケースメント)が家と外部空間を結び付け、外へと向かい自由な開口をつくり出すからだ。いわば開き窓というものは、単純なだけでなく、使う上でも、その効果においても、もっと人間的なもの―すなわち自然なものだったのだ。(p.55)" またこの窓にも葉をモチーフにした飾り銅版がしつらえてありました。同じく解説によると、太陽の光が窓から入ると銅板を通して床に影を落とし、まるで葉のすき間から射し込む木漏れ日のように見えるそうです。残念ながら曇りのため、その光と影による演出は拝めませんでした。またこの銅版は、色も自然のグリーンに近づけるためわざわざ緑青を発生させたそうです。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2011-02-25 06:19 | 近畿 | Comments(0)

丹波・播磨・摂津編(15):山邑邸(10.2)

 さて、ここヨドコウ迎賓館は、帝国ホテルの設計依頼を受けて来日した(1915‐1922)ライトによって、神戸・灘の酒造家である山邑家の別邸として設計されました。実施設計と監理はライトの弟子である遠藤新、南信によって行われ、1923(大正12)年から翌年にかけて建設されました。それでは中に入ってみましょう。門から奥へと続くアプローチの右手には石垣、その上の小高い敷地に木々の間から建物がちらちらと垣間見えます。ああ気をもたせないでえ、このいけず。建物の全貌をちらつかせながら、エントランスへと導く演出なのでしょう。そして最も奥まったところで、ぱあっと視界が開け、車寄せと玄関がその姿をあらわします。ああライトだ…
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 周囲の地形や景観との調和、水平線を強調したデザイン、大きな窓、そして装飾模様を型付けしたコンクリート・ブロック。なおこれについては、「コンパクト版建築史 【日本・西洋】」(彰国社)に興味深い記述(p.140)がありましたので、紹介しましょう。前述のように、帝国ホテル建設のために来日した頃、ライトはタリアセンの焼失やスキャンダルによる社交界からの追放で、経済的に困窮していました。そこで彼は装飾模様を型付けしたコンクリート・ブロックの開発に活路を見出し、透かし細工やマヤ装飾をモチーフとしたブロック製の建築を建て、それが中期作品の特徴となったそうです。
 ピロティのような車寄せに入ると、左手と正面から神戸の町や港を一望できるようになっています。素晴らしい眺望ですね。彫刻された大谷石がまるで額縁のように風景を切り取っていました。
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 このあたりの壁にとりつけられた灯りの洒落たデザインは統一されており、彼の手によるものでしょう。「自然の家」(ちくま学芸文庫)の中で、ライトは「すべてのしつらえが建築の統合的な一部分となるよう、できる限り造り付けにした(とくに電灯と暖房器具は必ずそうした)。また家具も建物の一部とし、その場に釣り合うよう、できる限りデザインすることにした」(p.38)と語っています。そして右手が玄関、中央に大谷石製の大きな水盤がありますが、ライトの水に対する関心と愛情がうかがえます。こうした想いが後に「落水荘」として結実したのかもしれません。あるいは茶室の蹲を模したのかな、だとしたら遠藤新による示唆があった可能性もありますね。ドアについている一枚の飾り銅版は、植物の葉を意匠したもの。このモチーフが、やがて建物の各所で華麗な変奏曲を奏でることになります。
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 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2011-02-24 06:21 | 近畿 | Comments(0)

丹波・播磨・摂津編(14):山邑邸(10.2)

 本物に出会えた後の圧倒的な余韻にひたりながら、タクシーに戻り、小野駅へと向かってもらいました。さて小野から神戸の中心地・三宮に行くには、ルートが二つあるようです。神戸電鉄で谷上まで行き地下鉄に乗り換えるか、あるいは粟生に戻り加古川まで行ってJR新快速に乗るか。運転手さんにお訊ねしたところ、JRの方が早いが、加古川線は本数が少ない、というお返事でした。嗚呼不覚にも、粟生駅で時刻表を撮影してくるのを失念してしまいました。しょうがない小野駅で確認しようとしましたが、JRの時刻表はなく駅員もいない… やれやれ。ホームに入線してきた粟生行き列車の運転士さんに訊ねると、うまい具合に粟生駅で連絡があるそうです。さっそく飛び乗り、粟生で加古川線に乗り換え、加古川へ。そしてぎゅうぎゅう満員の山陽本線新快速に乗り込んで三ノ宮へ。阪急に乗り換えて芦屋川に到着したのが11:18。小野からここまで二時間弱かかりましたが、当初の予定より早く着くことができました。次なる物件は、フランク・ロイド・ライトが設計した山邑邸(ヨドコウ迎賓館)です。
 芦屋川駅には学生専用の出口があったので、付近によほど学校が集まっているのでしょう。周辺の地図がなかったので、駅員さんにお訊ねすると、すぐそこを流れる川に沿って北方向に歩き、坂をのぼれば数分で着くということでした。教えてもらった方へ歩いていくと、右手の高台に、木々に埋もれるように佇む洋館が見えてきました。きっとあれですね。
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 橋を渡り、「ライト坂」と名づけられた急坂を上っていくと到着です。
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 それではフランク・ロイド・ライトについて、スーパーニッポニカ(小学館)から要約し紹介します。
 Frank Lloyd Wright (1867‐1959) アメリカの建築家で、20世紀のもっとも重要な建築家の1人。ウィスコンシン州リッチモンドセンターに生まれ、同州立大学土木学科を卒業後、1887年シカゴに出てルイス・サリバンの建築事務所に入り、多くを学んだ。93年に独立して住宅建築を中心に設計活動を開始、やがて初期の注目すべき作品、プレーリー(草原)・ハウス・シリーズを発表していく。ここでは日本建築に関心が示される一方で、水平面に延びる線、空間の流動性、緩い勾配(こうばい)の屋根と深い庇(ひさし)がもたらす陰影など、大地とのみごとな一体感が示され、高く評価された。
 住宅以外にも、ラーキン社ビル(1904)、ユニテリアン教会(1906)があり、以上の作品をまとめて1910年ベルリンで出版し、「有機的建築」に関する主張とともにヨーロッパの建築界に大きな反響をよんだ。しかし、その後の約20年間、出奔という形での最初の妻との離婚、14年のタリアセンでの召使いの放火殺人事件によるチェニー夫人と2人の子供の死など、個人的な不幸が続いたこともあって、ライトの設計活動はマヤ様式の色濃いものとなった。シカゴのミッドウェー・ガーデン(1913)、東京の帝国ホテル(1916~22)など数も少ない。
 しかし、この不世出の建築家は、1936年の「落水荘」とよばれるカウフマン邸、38年のジョンソン・ワックス本社ビルの二つの優れた仕事によってふたたびその天才をよみがえらせ、第二次黄金期をつくる。すでに70歳台であったが、当時世界的に広がりつつあった国際建築様式を消化しつつ、30~60度角の平面構成を基調にした建築を展開させて、円熟した個性とあわせて、強靱な生命力をうたわせる造形を示している。この活躍は第二次世界大戦後も引き継がれ、第二ジェイコブズ邸(1948)、プライス・タワー(1956)が作られ、ニューヨークのグッゲンハイム美術館完成直前の59年4月9日、アリゾナ州タリアセン・ウェストで没した。
 付け加えますと、彼が設計した建物はほとんどがアメリカにあり、海外で実現したのはカナダの3件と日本の6件の計9件のみだそうです。カナダの作品はすでに現存しないので、日本はアメリカ以外でライトの作品に接することのできる唯一の国ということになります。その6件のうち現存するのは、駒沢の旧林愛作邸(1917)、芦屋の旧山邑邸(1924)、明治村に玄関部分のみ移築された帝国ホテル(1916~22)、西池袋の「自由学園明日館」(1921)。なお旧林愛作邸は、現在、電通の社宅「八星苑」となっていて非公開だそうです。よって山邑邸を見学すれば、日本におけるライト作品を制覇したことになります。「それがどうした」と言われれば、"So it goes on"としか答えられませんが。
by sabasaba13 | 2011-02-23 06:13 | 近畿 | Comments(0)

丹波・播磨・摂津編(13):浄土寺浄土堂(10.2)

 浄土寺は真言宗のお寺さんで、聖武天皇の勅願によって行基が開創したと伝えられますが、その後荒廃。このあたりは大部之荘という東大寺の荘園だったので、鎌倉初期に俊乗坊重源が東大寺の播磨別所として中興しました。何といってもお目当ては、東大寺南大門とならび、全国でたった二つしか現存していない大仏様建築の浄土堂です。治承の兵火(1180)で焼失した東大寺の復興にあたり、大勧進に任じられた重源が、当時の中国建築の様式を取り入れてつくった建築様式で、東大寺大仏殿の造営にちなんでこの名で呼ばれます。たしか高校で受けた授業では、天竺様とも呼ぶと教わった記憶がありますが、インド様式と誤解されやすいので、こちらの名称がよく使われるようです。南大門の豪放・雄大な姿に惚れ込んでいるので、ぜひとも見たい物件でした。
 タクシーにはしばらく待っていてもらい、石段を上って境内に入ると、同じような堂宇が数棟ありますが、どれだろう。おっあったあった。宝形造で、反りがなく直線的な屋根、全体的に平べったいという感じの地味な外観ですが、柱上部の複雑な組物に大仏様建築の片鱗があらわれています。さっそく靴をぬぎ、入場料、もとい拝観料を払って内部へ。思いのほか、広大な空間であることにまず驚愕。そして中央に鎮座する約5メートルの木造阿弥陀三尊像(快慶作)の壮大さもさることながら、虚飾を排し、とにかく広い空間を確保するための巨大な屋根をどうやって支えるかという一点に英知と技術をかたむけた、そのダイナミックで雄渾な構造には眼を見張りました。本尊の四方に屹立する四本の太い柱、そこから直角・斜めに走る太い梁、それを支える幾重にも重なり柱に挿し込まれて肘木。「神聖にして劇的な空間をつくるために、僕たちはこの大きな屋根を力を合わせて支えているんだ、ただそれだけさ」という木材たちの、静かな合唱が聞こえてくるようです。新幹線の中で読んだフランク・ロイド・ライトの「自然の家」の一節、「不必要なものを除去するということ、あるがままの素材を用いることから美が生まれる」(p.20)が脳裡をよぎりました。ああもどかしい、いくら言葉を組み合わせ積み重ねても、この凄さを伝えることはできません。ほんとは写真を撮ってお見せしたかったのですが、むごいことに堂内は撮影禁止。「畏れ多い/罰が当たる」という呪術的理由、あるいは「絵葉書が売れなくなる」という経済的理由によって、仏像撮影を禁止するのは理解できますが、それ以外の構造部分については認めてほしいですね。それはともかく、一見の価値があるので、兵庫県を訪れた際にはぜひ寄ってみてください。
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 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2011-02-22 06:17 | 近畿 | Comments(0)

丹波・播磨・摂津編(12):浄土寺へ(10.2)

 朝目覚めてカーテンをあけるとうす曇り、天気予報によると天候は下り坂で明日には雨になるとのことです。せめて神戸の夜景を見るまではもってくれよと祈りつつ、出発の準備を整えました。本日の予定は、浄土寺浄土堂を見て神戸へ移動、山邑邸を見学して神戸市内の諸物件と布引ダムを訪問、時間があれば富岡鉄斎美術館を見て、夜景見物と、まるで下手な上方漫才のようにコッテコテの油ぎった行程です。まったく誰がこんな旅程を考えたんや(ぼけ)。あんたや(つっこみ)。などと一人で漫才をしている場合ではありません。身づくろいをすませチェックアウトをして篠山口駅へ。7:15発福知山線福知山行きの列車に飛び乗りました。実は三田市に三田学園旧校舎(中学本館)という古い学校建築があるそうなのですが、時間の関係上スキップすることにしました。車窓から朝靄たなびく幽玄な連山の姿を眺め、しばらくすると下滝駅に到着。「恐竜化石発見の里」という垂れ幕が駅のホームにかかっていました。そして7:31に谷川駅に到着、ここで加古川線に乗り換えます。途中に「黒田庄」という駅がありましたが、石母田正が「中世的世界の形成」で舞台とした荘園ではありませんね。あれはたしか伊賀国名張郡でした。
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 次の駅は「日本へそ公園」、車内の吊り広告によると、このあたりは東経135度と北緯35度が交差する日本の中心だそうです。「それがどうした」と言われれば「俺の目を見ろ何にも言うな」としか答えられませんが。そして8:03に西脇市駅に到着、ここで加古川行き列車に乗り継ぎますが、待ち時間は23分です。やれやれ。駅前に出て紫煙をくゆらしながら観光案内地図を見てみると、源頼政の墓所(長明寺)や足利尊氏と直義が激戦をくりひろげた光明寺などが付近にあるそうです。
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 珈琲を飲みたいなと思いましたが、駅前には喫茶店の"き"の字もありません。やれやれ。しょうがないのでベンチに座って、これからの行程を確認しました。次は粟生(あお)で神戸電鉄に乗り換えて小野で下車、浄土寺浄土堂をめざします。ただ気がかりなのは、駅からかなり離れていることです。神姫バス「天神」行きで10分、「浄土寺」下車すぐということですが、本数はきわめて少ないと覚悟しておいたほうがよいでしょう。駅前でタクシーが客待ちしていれば御の字なのですが、タクシーの"た"の字もない無人駅だったらどうしよう… 公衆電話でハイヤーを呼ぶしかありませんが、電話の"で"の字も…と妄想はどんどん悪い方向に向かっていきます。プディングの味は食べてみないとわからない、とにかく現地に着いて状況を見てから臨機応変に動きましょう。そうこうしているうちに、列車が入線してきました。そして8:45に粟生に到着、ちょっと時間があるので外へ出ると、まるでジョルジョ・デ・キリコの絵に出てくるような回廊のある不思議な駅舎でした。そして神戸電鉄に乗り換えて、数分で小野に到着です。案ずるより産むが易し、大きな駅ビルのある賑やかな街で、当然の如く駅前でタクシーが客待ちをしていました。さっそく飛び乗り、十分ほどで浄土寺に到着です。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2011-02-21 06:21 | 近畿 | Comments(0)

丹波・播磨・摂津編(11):篠山(10.2)

 ふたたび自転車にまたがり、お徒士町武家屋敷群をめざします。途中の南新町にはきれいな竹林と井戸がありましたが、整備中のため中には入れません。その先には全国で唯一残るという南馬出土塁がありました。馬出とは、兵馬を集め隊列を組むための場所なのですね。
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 そして小林家長屋門、安間家史料館の外観を拝見。
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 そのすぐ近くがお徒士町武家屋敷群ですが、いまひとつ統一感がなく期待外れ。そして見張りや狙撃衆が陣取るために、約50m間隔で植えられたというエノキを拝見。現在では、三本しか残っていないそうです。
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 昭和レトロな町並みが残るという西町にも寄ってみましたが、こちらも期待外れ。ただ由美かおるの御御足と水原弘の御尊顔に出会えたのは収穫でした。
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 そして篠山城址へ。1609年、徳川家康の命により大阪城攻略の拠点として、わずか6ヶ月で築城されましたが、建物は取り壊され現存していません。なおこちらは桜の名所としても有名ですね。中に入ると、大規模な木造平屋建築の大書院が復元されていました。その先にある本丸跡からは、山々に抱かれた篠山の町を眺望できます。
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 お城の前にある駐車場で公衆便所に入ると、木製の男女表示がありましたが、明らかに意図的に女性を太目に表現しています。さきほどの物件といい、女性に対する揶揄なのか、あるいはここ篠山では肥えた女性に美を看取するのか。ご教示を乞う。
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 次は、景観マイスターおすすめの、山内町にある築地塀の佇まいですが、肝心の築地塀はわずか一か所しかなくこちらも期待外れ。なお京都でよく見かける、塀にあけられた検針用の小窓がありましたが、金網で厳重に警護されていました。
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 さてそろそろ夕食と洒落込みますか。自転車を観光案内所に返却し、さきほど唾をつけておいた「懐」というお店に入り、丹波牛炭火焼を注文。ついでに夜食用として寿司もお願いしました。炭火で焙られた香ばしい牛肉に舌鼓を打ち、篠山食料品店でナイト・キャップとして篠山の地酒「鳳鳴」を購入。
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 定刻どおりやってきたバスに乗り込んで篠山口駅に戻り、荷物をコインロッカーから取り出して、駅近くのビジネスホテルに投宿。鯖寿司を肴に芳醇な地酒を満喫し、就寝。
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 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2011-02-20 06:25 | 近畿 | Comments(0)

丹波・播磨・摂津編(10):篠山(10.2)

 そしてその一角にある丹波古陶館に入ってみました。いつの頃からか陶磁器が好きになり、べつに骨董として蒐集したり自ら土をひねったりはしないのですが、窯のある町を訪れてその雰囲気を味わい日常雑器を買うのを喜びの一つにしています。これまでも、有田、伊万里の大川内山、唐津、壺屋、備前、伊賀、常滑、瀬戸、信楽、笠間益子を経巡ってきましたが、今回の丹波焼の窯は町から離れたところにあるので探訪は断念。せめてこちらで丹波焼の名品を堪能することにしました。さて丹波焼について、当館でいただいたパンフレットの紹介文を引用しましょう。
 平安時代の終わりに、なぜか丹波、常滑、越前などに、同じ様式の壺が造られています。それらは一般的に「三筋壺(さんきんこ)」とよばれているもので、小振りでやや外に開いて立ち上がった口造りを持ち、胴の三ヵ所に横筋の文様が施されています。
 須恵の窯から、新しい窯業集落に変わったおおよそ八百数十年前、丹波の工人たちは、中央政庁や社寺のもとめに応じて祭器、経器、薬壺など、かなり上手物を焼きましたが、三筋壺もその一つです。しかし、陶土や窯の条件は、その目的に応えることができず、丹波窯はやがて大衆の生活を支える窯業集落として、独自の道を歩むことになります。
 紐造りの困難な成形、長い日時と破損の多い焼成の結果に、陶工たちはどのような思いで取り組んだのでしょうか。
 今、私たちが感じる器そのもののもつ力強さや、窯業の生んだ鮮やかな緑の自然釉も、不可抗力な焼物造りの障害の産物だったのではないでしょうか。平安末期から慶長年間に至る穴窯の時代は、ひたすら成形と窯とのたたかいであったのです。
 慶長末年、登窯の導入によって、新しい技法を得た丹波の陶工たちは、轆轤、釉薬を巧みに使い斬新な仕事ぶりをみせます。それは生活の用に即した、美しく逞しい器の数々でした。
 登窯と塗土が生みだした燃えるような「赤土部(あかどべ)」の輝きは、すでに陶工の心にかけがえのない"美"として映っていたでしょう。それは、陶土の悪さに阻まれた穴窯の焼締め無文の時代とは大きくイメージを異にするものです。
 江戸時代末期になると、さらに新しい釉薬や漉土による陶土の改善がなされ、白、黒、灰、鉄などの釉薬の掛け合わせによる多彩な文様と、さまざまな用途をもつ器が生まれました。
 平安時代末期に生まれ、いつの時代にも衰微することなく、常に生活の器を焼き続けてきた丹波焼は、間違いなく日本民陶の歴史を代表する焼物なのです。
 質実で剛毅なフォルムと自然釉が生み出す偶然の美、丹波焼の名品を十分に満喫いたしました。なお周囲の景観に溶け込むような、白壁・なまこ壁の建物もいいですね。観光ポスターで使われている写真はここの中庭から通りを写したものです。
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 なお近くに能楽資料館もありますが、時間の関係でスキップ。そしてしばし路地裏まで舐めるように散策、その途中であるお宅に壁に貼ってある「丹波篠山とってもレトロなまち歩き」という地図を見つけました。普通のガイドブックには紹介されていないディープな物件まで記されているすぐれものです。なぜこれを配布してくれないのだろうブツブツ、ま、いたしかたない、写真におさめこれから活用いたしましょう。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2011-02-19 09:42 | 近畿 | Comments(0)

「新・現代歴史学の名著」

 「新・現代歴史学の名著 普遍から多様へ」(樺山紘一編著 中公新書2050)読了。歴史を学び続けたい市井のしょぼい一歴史学徒として、今、歴史学がどのような状況にあるのかぜひとも知りたいところです。冷戦体制の終焉とグローバル化の加速という、これまでのパラダイムが解体された状況で、志の高い歴史学者たちは、どのような強靭な思考と批判を行っているのでしょう。できれば素人にも手軽に手が出せる新書でそのような本がないかなと思っていたところ、渡りに舟、あぶさんに内角球、本書にめぐりあえました。碩学・樺山紘一氏の編集により、現代の歴史学を代表する名著がそろいぶみです。ラインナップは、『中国の科学と文明』(ニーダム)、『文明の生態史観』(梅棹忠夫)、『ワイマール文化』(ゲイ)、『近代世界システム』(ウォーラーステイン)、『モンタイユー』(ル・ロワ・ラデュリ)、『チーズとうじ虫』(ギンズブルグ)、『もうひとつの中世のために』(ル・ゴフ)、『オリエンタリズム』(サイード)、『無縁・公界・楽』『日本中世の非農業民と天皇』(網野善彦)、『定本 想像の共同体』(アンダーソン)、『イングランド社会史』(ブリッグズ)、『記憶の場』(ノラ編)、『ファロスの王国』(クールズ)、『帝国主義と工業化 1415~1974』(オブライエン)、『歴史と啓蒙』(コッカ)、『1917年のロシア革命』(メドヴェージェフ)、『敗北を抱きしめて』(ダワー)、『近代移行期の人口と歴史』『近代移行期の家族と歴史』(速水融編著)。十全に咀嚼できたとはお世辞にも言えませんが既読は六冊、現在読書中が一冊、書名を聞いたことがあるもの三冊、まったく未知のもの十冊。それぞれの書を第一線の研究者が担当して、著者のプロフィールや研究活動についての概説、そして当該書の要約とそれに対するコメントが手際よく述べられているので、たいへん勉強になります。地道、挑発、斬新、さまざまなスタンスの違いはありますが、歴史に真摯に向き合い、今を理解しようとし、未来に思いを馳せる姿勢は共通しています。その戦線に加わることはとても無理なので、せめて兵站だけでも手伝いたく、何冊かを購入する予定です。ただ故サイード氏言うところの"長く連続する思考と分析"を、匍匐前進しながらも身につけようとする姿勢は持ちたいものです。
 『オリエンタリズム』における私の考えは、…私たちを好戦的で集団的なアイデンティティへと導くレッテル貼りや敵愾心むきだしの論争に閉じ込める論争的で思考停止の短気な憤激にかえて、争いの場を解きほぐし、長く連続する思考と分析を導くような人文主義的な批評を用いることである。(p.116)
 ああデシデリウス・エラスムスが掲げた炬火は時空を超えてここまで受け継がれていました。
by sabasaba13 | 2011-02-18 06:19 | | Comments(0)