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奈良編(4):天平倶楽部(10.3)

 数分ほどでバスは東大寺の近く、押上町にある「天平倶楽部」に到着。ここが夕食の会場です。入口で出迎えてくれたのは、あの悪名高いキモキャラ(気持ち悪いキャラクター?)の「せんとくん」看板。まじまじと見るのははじめてですが、それほど醜悪には見えません。しかしポスターに写っているリアル「せんとくん」(筆者注:気ぐるみか?)にはちょっと腰が引けました。街灯のない夜道で彼に出会ったら、逃げ出したくなりますね。
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 両者の写真を撮っていると、山ノ神が「ねえねえ」と袖をひっぱります。なんじゃらほいと、彼女の指さす方向を見ると「子規の庭」という看板がありました。正岡子規? 「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」という句があるのですから、彼が奈良を訪れたのは間違いないでしょう、しかし彼の庭とはどういうことか?
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 さっそく受付の方に訊ねると、にこやかにパンフレットをくれました。以下、それに基づいてまとめます。日清戦争に記者として従軍した子規は、帰途の船中で喀血、瀕死の状態となりました。郷里の松山で四カ月の療養後、上京の途中で奈良を訪問、以後七年におよぶ闘病生活を余儀なくされる子規にとって、これが生涯最後の旅となります。その際、彼は角定(對山樓)という旅館に投宿しますが、戦後廃業、その跡地がこの「日本料理 天平倶楽部」になっているということです。1901(明治34)年、病床にあった子規は奈良の旅を回想し、この對山樓で宿屋の下女からたくさんの御所柿をもらったと、随筆「くだもの」に書いています。(柿をむく女のうつむいた顔に見とれたという記述もあり) そして奈良に柿を配合するという新しい趣向を見つけ出して、非常に嬉しかったともあるそうです。前述の句や「秋暮るゝ奈良の旅籠や柿の味」など、柿にまつわる奈良の句が多いのは、この時に出された柿のおかげかもしれません。その跡地に樹齢百数十年の柿の古木が現存していることが最近判明し、子規が見て食べたであろう柿の木を保存するとともに、その周辺を整備したのがこの「子規の庭」ということです。なるほど、これまでも松山根岸鳳神社尾道三島吉見百穴横須賀など子規にゆかりの地にふれてきましたが、偶然ここ奈良でも出会えました。食事の後、散策してみることにしましょう。
 総勢約六十人が大部屋に詰め込まれ、合宿のような落ち着かない雰囲気の中で日本料理をいただきました。まあ「子規の宿味は可もなし不可もなしそれにつけても金の欲しさよ」といったところでしょうか。食べ終わると時刻は17:20、さあいよいよお松明の開始時刻午後七時が近づいてきました。添乗員さんの指示は「一緒に行く方は17:40に玄関前に集合、早く行って場所取りをしたい方はご自由に、ただし終了後20:00にはバスに集合してください」というものでした。さてどないしまひょ。山ノ神の託宣をうかがったところ、「よきにはからえ」ということ。御意、まあ一時間前に二月堂前に着けばそこそこの場所はゲットできるでしょう(筆者注:この判断が「ルノアール」のココアのように甘かった)、子規の庭を見て、転害門を見て、大仏殿の裏手の趣のある小道を歩いて行くことにしました。まずは「天平倶楽部」に隣接する「子規の庭」へ。子規の孫にあたる造園家の正岡明氏の設計によるものだそうです。入口に彼の言を刻んだプレートがあり、それによると、子規は「筆まかせ」のなかで理想の庭として「日本風の雅趣のある野生の草花が咲き乱れたるを最上とす」と述べているそうです。狭いながらも、起伏や池や石組みや落水のある変化にとんだ庭で、その最上部に柿の古木と子規の句碑がありました。木々の間からは大仏殿の巨大な屋根が垣間見え、ふりかえれば桃の花の向こうに陽がまさに落ちなむとしています。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2011-03-31 06:16 | 近畿 | Comments(0)

奈良編(3):萬葉植物園(10.3)

 春日大社はもう何度も訪れているのでスキップし、参道の途中にあった萬葉植物園(春日大社神苑)に入ってみることにしました。万葉集に詠まれている花木を中心に、約300種類の植物があるそうです。受付の方に訊ねると、梅はそろそろ終わり、桜は咲き始め、いわゆる端境期にあたっているとのこと。それほど広くはないのですが、池あり、なだらかなアップ・ダウンありの、清々しい植物園です。見ごろの菜の花、名残りの梅を愛でながら池のほとりに出ると、一袋100円の鯉の餌がありました。
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 鯉への餌やりという共通の趣味で結ばれたわれら二人、さっそく購入し池に近づくと… ずーら      ずーら      ずーらずーらずらずらずら、と"JAWS"のテーマ曲が脳裡に鳴り響いてきました。飢渇した無数の鯉たちが、餌の気配を察したのかじょじょに岸辺に押し寄せてきます。餌をまくと、そこは阿鼻叫喚の地獄絵図。互いを押しのけあうように群がり身を乗り上げ、水面に開いたいくつもの小さなブラックホールに餌が吸い込まれていきます。全国127人の飢えた鯉フリークよ、ここ萬葉植物園に来たれ。私見では、ここと渉成園(京都)と清澄庭園(東京)が「日本三大飢えた鯉のいる池」ですね。
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 池中央の神域(中ノ島)には、臥竜のイチイガシがあります。強風のため倒れた幹が、その後起き上がるように天空をめざして伸び枝を広げています。その姿はまさしく臥竜、荘厳なたたずまいに息を呑みしばし立ち竦んでしまいました。さきほどの鯉といい、このイチイガシといい、"生きる"という営為の逞しさと厳しさをあらためて痛感。もしブランコがあったら、こぎながら♪命短し恋せよ乙女♪と口ずさんでいたろうなあ。満開の三椏の花や(はじめて見ました)、緑なす苔を堪能しながら藤の園に歩いていくと、八分咲きの可憐な三波川冬桜に出会えました。
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 そして椿園ではさまざまな品種の椿の花を見ることができます。私が一番気に入ったのは「一休」、その凛とした清楚な姿には一目惚れです。ここにも、倒れながらも天高く伸びようとする坂本竜馬のような樹がありました。
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 沈丁花の香りに幼き日々の思い出を呼び覚まされ、苔の上に点々と散る赤い椿を愛でていると、出口が見えてきました。集合時間五分前、ちょうどいい頃合いです。
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 すぐ近くには鹿せんべいを売る売店があり、その前には新宿歌舞伎町に屯する覚醒剤売人のように鹿が数頭ものほしげにうろうろしています。ここで名案、知人へのお土産に鹿せんべいはいかが。絶対に東京では売っていないよと提案するも、山ノ神は即却下。
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 そして集合時刻一分前に到着すると、もうツァーのみなさんは全員お揃いでした。うん素晴らしい、団体旅行はやはりこうでなくちゃ。そしてバスは出発、車窓から奈良公園を眺めていると、鹿せんべいを買った人に鹿たちがしつこくつきまとっています。その姿を見ていると、面白うてやがて哀しくなってきます。彼ら/彼女らも生きるために必死なんですよね。
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 そして名建築との世評高い奈良県庁の脇を通りすぎました。竣工は1965年、設計は片山光生、モダニズム建築の傑作で、屋上からの眺望が素晴らしいとのこと、いつかじっくりと訪問してみたいものです。

 本日の四枚です。
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by sabasaba13 | 2011-03-30 07:33 | 近畿 | Comments(0)

奈良編(2):奈良国立博物館(10.3)

 歩いて数分で博物館に到着、片山東熊の設計による旧館を撮影し、新館で「お水取り」展を見学しました。
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 さてそれでは"お水取り"とは何ぞや。スーパーニッポニカ(小学館)から一部抜粋して引用します。
 3月12日(旧暦2月12日)、奈良市東大寺二月堂の行事。3月1日から二七日(14日間)行われる修二会(しゆにえ)のなかの一行法をいうが、俗には修二会全体の総称としても用いられている。
 二月堂修二会は、十一面観音に罪や過ちを懺悔する十一面悔過法要(けかほうよう)で、752年(天平勝宝4)に実忠によって始められたと伝える。法会は2月20日、11人の練行衆が戒壇院別火坊に入り、そこで「椿の花ごしらえ」「衣の祝儀」などの前行を終え、28日に二月堂へ上堂、3月1日より本堂内陣での本行となる。勤行は連日、六時(日中、日没、初夜、半夜、後夜、晨朝)に渡って行われる。毎晩7時には大松明に導かれて練行衆が上堂し、十一面悔過を唱えるが、これは奈良時代に盛んに行われた悔過声明の形式を伝えるものである。
 12日には「お松明」と称し、普通の日より大きい籠松明11本を童子が担ぎ、堂の回廊で大きく振り回す。ついで深夜に法会の中心となる御水取が行われる。咒師を先頭にした7人の練行衆が二月堂前の閼伽井屋の井戸で閼伽水をくみ、堂に運ぶ。縁起によると、この井の水は、天平の代に若狭国遠敷明神(おにゅうみょうじん)が、二月堂修二会の神々の勧請時に遅れ、おわびに神の霊水を本尊に捧げたものという。
 そのほか、5日に実忠忌、7日に小観音の儀式、12~14日に達陀の行がある。達陀(だったん)の行は、八天の姿をした練行衆が香水を散布し、大松明をもって内陣を激しく駆け巡る荒行である。京阪地方では、この御水取が済むと春になるといわれ、広く親しまれている。
 というわけで、見どころは何といっても「お松明」、お水取りが執行される3月12日にしか行われないと勘違いしている人が多く、当時は大混雑だそうですが、ほんのちょっと規模が小さいけれど連日行われます。ほんとは達陀の行も見たいのですが、深夜ということなので今回は省きました。さて展示ですが、過去において東大寺に多大なる寄進をした人物(ex.源頼朝、重源…)の名を書き連ねた過去帳や、写真解説による行事のプロセスなど、興味深いものもありましたが、全体としては平板単調です。独立行政法人となり財政が苦しいので市民のヘルプを乞う、という哀切きわまるポスターが貼ってありましたが、もっと外連みにあふれた奇抜でユニークな展示を期待したいですね。例えばお松明の実物大レプリカを振り回せるコーナーとか、火の粉を浴びられるコーナーとか。まあそれ以前に博物館の予算を削るという文化行政の貧困さを問題にすべきかとは思いますが。
 さて外に出てふと見上げると、壁面上部にワイヤーが張ってありましたが、おそらく鳩よけでしょう。凶悪なる意思に満ちた棘でないところに、古都の雅を感じます。車道の脇には「鹿飛び出し注意」の道路標識。そりゃそうでしょう、石子詰めにされたらたまりませんもの。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2011-03-29 21:51 | 近畿 | Comments(0)

奈良編(1):奈良公園(10.3)

 山ノ神が知人から得た情報によると、JR東海ツァーズが主宰する「50+(フィフティ・プラス)」という団体旅行が廉価だそうです。さっそく二人して入会したところ、すぐに"鴨よ、葱しょってこい"メールが届きました。なになに、一泊二日旅行で、初日は奈良国立博物館と春日大社と東大寺の修二会(お水取り)見物、二日目は自由行動、往復の新幹線代と宿泊費と夕食・朝食込みで二万数千円か、なるほどこれは安い。お水取りは大学生の時に見たことがあるのですが、彼女は未見だそうです。以前からお水取りを見たいと見たいと騒いでいたので、誘ってみたところ快諾、私は二度目、彼女ははじめての国内パック・ツァーに参加することにしました。なお二日目については、いつものように丸投げの山ノ神、私の独断で旅程を決定。ひさしぶりに山の辺の道を歩いて、その後に今井町を徘徊するプランにしてみました。「雨が降ったら?」(山ノ神)、♪濡れればいいさ♪(宿六) 持参した本は「グローバル・ヒストリーの挑戦」(水島司編 山川出版社)です。

 三月十三日の土曜日、午前十一時半頃、指定された新幹線「のぞみ」に座ると、添乗員の女性が挨拶にこられました。胸につけるバッジと鞄につけるタグを差し出し、旅程についての簡単な説明がありました。売店で買った「鶏づくし弁当」をたいらげ、本を読んでいるといつの間にか京都に到着。同じバッジをつけた方々とぞろぞろ降車、どうやら総計六十人ほどのツァーのようです。グループは二つに分けられ、われわれは二号車と指定されました。旗をふりかざす添乗員の姿を見失わないよう、従順な羊のように後をついていき、団体用の出口から烏丸口にでるとバスが待機していました。この簡便さがパック・ツァーのいいところですね。でも、人間、楽をすると考えなくなる、という鉄則のように功罪ともにありますが。
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 京都から高速道路にのって一路南下、この間、バスガイドさんからいろいろなお話を聞けました。パック・ツァーのもう一つのいいところは、ガイドさんから有益・無益な情報を教えてもらえること。今回は、奈良で鹿につきまとわれたら、「何も持ってないよ」と両の掌を広げて見せればよいと教えてもらいました。以前、コートを涎まみれにされた苦い思い出があるので、これは有益な情報でした。そして午後三時には春日大社の駐車場に到着。ここから一同歩いて奈良国立博物館まで行き「お水取り」展を見学、そして三々五々春日大社を見学して午後四時半にバス集合というお達しです。添乗員さんに率いられて春日大社参道をぞろぞろと歩いていくと、さっそく鹿のみなさんがお出迎え。擦り寄ってきたら、さきほど伝授された秘法を試してやろうと満を持していたのですが、そういう時にかぎって近づいてきません。野性の本能で何か察したのでしょうか。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2011-03-26 06:20 | 近畿 | Comments(0)

「魯迅評論集」

 「魯迅評論集」(竹内好編訳 岩波文庫)読了。まずは本書を編訳した中国文学者・竹内好氏の力強い言葉を紹介しましょう。
 私たちがなやみ、おそれ、ともすれば勇気を失いそうになるとき、それとおなじなやみをかつてなやみ、おそれに直面し、しかも勇気を失わなかった一人の人間がいたことを発見したとすれば、その人間はもはや、私たちにとって他人ではなくなるだろう。古人でもなく、外国人でもないだろう。私たちの血縁であり、私たち自身であるだろう。(p.3)
 欧米・日本による植民地化、軍閥たちの内戦、国民党と共産党の対立、そして覚醒しない民衆、苦難の時代を炬火をかかげて生き抜いた魯迅。本書は、寸鉄人を刺す魯迅の数多い随筆の中から、彼の最も良き理解者である竹内好氏が選りすぐったアンソロジーです。収録されている随筆は、「『墓』の後に記す」、「花なきバラ」、「花なきバラの二」、「忘却のための記念」、「深夜に記す」、「随感録抄」、「「フェアプレイ」はまだ早い」、「どう書くか?夜記の一」、「小雑感」、「半夏小集」、「徐懋庸に答え、あわせて抗日統一戦線の問題について」、「死」、「ノラは家でしてからどうなったか」、「革命時代の文学」、「魏晋の気風および文章と薬および酒の関係」、「上海文芸の一瞥」、「私は人をだましたい」。とてつもなく凄惨な状況におおわれている日本および世界、ともすれば挫け勇気を失いそうになりますが、魯迅が残してくれた言葉を細いけれど丈夫でしなやかな杖にして歩んでいきたいと思います。楽観もせず悲観もせず、長い夜に包まれた長い道を…
 人生は苦しいことが多い。が、そのくせ人は、ごく簡単に慰められることもあるのだ。(p.10)

 私の文学を偏愛する顧客には一点の喜びを、私の文学を憎悪する連中には一点の嘔吐を与えたい―私は、自分の狭量はよく承知している。その連中が私の文学によって嘔吐を催せば、私は愉快である。(p.11)

 血債はかならず同一物で返済されねばならない。支払いがおそければおそいほど、利息は増さねばならない。(p.30)

 若いものが老いたもののために記念を書くのではない。そしてこの三十年間、私が見せつけられたのは青年の血ばかりだった。その血は層々と積まれてゆき、息もできぬほどに私を埋めた。私はただ、このような筆墨をもてあそんで数句の文章を綴ることによって、わずかに泥のなかに小さな穴を掘り、そこから喘ぎをつづけるだけなのである。これは、いかなる世界であろう。夜は長く、道もまた長い。(p.46)

 暴君の治下の臣民は、おおむね暴君よりもさらに暴である。暴君の暴政は、しばしば暴君治下の臣民の欲望を満たすことはできない。(p.71)

 暴君の臣民は、暴政が他人の頭上で暴れてくれるのを望むだけだ。自分はおもしろがって眺め、「残酷」を娯楽とし、「他人の苦痛」を見世物にして、慰安にするだけだ。
 自分は「運よく逃れた」のが自慢の種である。(p.71)

 むかし景気がよかったものは、復古を主張し、いま景気のよいものは、現状維持を主張し、まだ景気のよくないものは、革新を主張する。
 相場はこんなところだ、相場は! (p.100)

 しかもなお、ひとりの子とひとりの親、ひとりの死ぬものとひとりの生きるもの、死ぬものは心配せずに死んでゆき、生きるものは安心して生きる。嘘をいうこと、夢を見ることは、このような場合には偉大さを発揮するものです。それゆえ、私は思う。もし道が見つからない場合は、私たちに必要なものは、むしろ夢であります。(p.142)

 ですから、ノラのためには、金銭―高尚な言い方をすれば経済ですが、それがいちばん大切です。もちろん、自由は、金で買えるものではありません。しかし、金のために売ることはできるのです。人類には、ひとつ大きな欠点がある。絶えず腹がへることです。この欠点を補うためには、傀儡にならぬようにするためには、現在の社会にあっては、経済権がもっとも大切なものとなります。第一に、家庭内において、まず男女均等の分配を獲得すること、第二に、社会にあって、男女平等の力を獲得することが必要です。残念ながら、その力がどうやったら獲得できるか、ということは、私にはわかりません。やはり闘わなければならない、ということがわかっているだけであります。そして、それは参政権を要求するより、もっと激烈な戦闘が必要なのではないか、という気がいたします。(p.144)

 経済の面で自由を得たら、それで傀儡ではなくなるか、と申しますと、やはり傀儡であります。ただ、自分が人から操られることは減りますが、自分が操ることのできる傀儡はふえる、というだけのことであります。(p.147)

 ただ、人間は腹をへらせて理想世界の来るのをじっと待っているわけにはいかないので、少なくとも喘ぎだけは続けていなければならない。ちょうど轍に取り残された鮒が、わずかの水をほしがるのと同様です。まず、この比較的手近な経済権を要求しまして、それとともに、他方において別のことを考えるわけであります。(p.148)

 民族のなかには、苦痛を訴えても役に立たぬので、苦痛さえ訴えなくなる民族もあります。そうなると沈黙の民族となって、ますます衰えてゆきます。エジプト、アラビア、ペルシア、インドは、もう声さえ立てなくなりました。ところが、反抗性に富み、力のみなぎっている民族は、苦痛を訴えても役に立たぬところから、目ざめます。そして、泣き言を怒号に変えるのです。怒号の文学があらわれるようになれば、反抗はもう間近い。かれらには怒りがみなぎっている。(p.155)

 しかし、いやしくも戦闘者としては、革命とその敵を理解するためには、むしろより多く当面の敵を解剖しなければならないでありましょう。(p.207)

by sabasaba13 | 2011-03-25 06:14 | | Comments(0)

「日本とアジア」

 「日本とアジア」(竹内好 ちくま学芸文庫)読了。ヨーロッパやアメリカと向かい合う知識人は多いのですが、中国やアジアと向かい合う知識人は少ないように思われます。その一人が竹内好(よしみ)、老婆心ながらスーパーニッポニカ(小学館)の一文を借りて紹介いたします。
竹内好(1910―77) 評論家。長野県臼田町出身。東京府立一中、大阪高校を経て、1934年(昭和9)東京帝国大学文学部支那文学科卒業。卒業直前に岡崎俊夫、武田泰淳らと結成した中国文学研究会によって、中国現代文学研究の基礎を築いた。『魯迅』(1944)は日本最初の本格的魯迅論であり、第二次世界大戦中の名著の一つとされる。戦後54年(昭和29)東京都立大教授になったが、60年安保条約強行採決に抗議して辞任した。評論家としては『現代中国論』(1951)をはじめとする、日本近代文化の近代主義的性格の批判、「国民文学論」の提唱など、中国を対極に意識した日本社会への鋭い批判で、大きな影響を与えた。翻訳者としても魯迅をはじめとする翻訳で指導的役割を果たし、個人訳『魯迅文集』六巻(1976~78)の完成近く癌のため昭和52年3月3日死去。
 つねづねじっくりと読んでみたいと思っていたのですが、たまたま書店の棚で本書を見かけ購入しました。論点は多岐にわたりますが、いくつか紹介します。
 まずキーワードとなるのは"ドレイ"です。氏はさまざまな文脈で使われていますが、私なりにまとめると、権威によりかかる態度、真理でなく発言者の社会的名目的な位置を基準にしてコトバを量る仕方、結果だけを人にもらいたがる乞食根性、「新しい」ということが価値の規準になるような無意識の心理傾向。一言で言うと、「自分の頭で考えようとしない」ということだと思います。その"ドレイ"たちを率いるのが"優等生"です。戦前でしたら軍部(士官学校の優等生)、戦後だったら官僚(帝国大学の優等生)ですね。自らの過誤を認めようとせず、すべてを"ドレイ"の力不足のせいにして君臨する"優等生"たち。しかも巧妙なことに、士官学校と帝国大学という二つの上へ向って開かれた管を通れば、"ドレイ"から"優等生"へと成り上がれる道が敷かれています。この管によって、変革を起こそうとするパワーが吸い上げられて枯れ果ててしまうことになりました。そして"優等生"の走狗・爪牙となった"ドレイ"たちが何をしたか。ハーバート・ノーマンはずばり、"最も残忍で無恥な奴隷は、他人の自由の最も無慈悲且つ有力な掠奪者となる"と言っています。そしてこの日本文化のドレイ的構造は、うえに乗った部分だけを入れ替えて(軍部→官僚)、今に至るまで維持されている。
 次のキーワードは"アジア"です。明治維新以来、日本はアジアの一員として共に生き、アジアを主体的に考え、アジアに責任を負おうとしてきた、と竹内氏は述べられます。そしてそこには朝鮮や中国との関連なしには生きられないという自覚が働いていました。もちろん韓国を併合し、中国を侵略するという乱暴もありましたが、氏はかなり思い切った表現でこう語っておられます。
 侵略はよくないことだが、しかし侵略には、連帯感のゆがめられた表現という側面もある。無関心で他人まかせでいるよりは、ある意味では健全でさえある。(p.95)
 しかし敗戦をきっかけに日本は、功罪ともにありますが、そうした姿勢を失ってしまいました。アジアを、あくまでも外にある対象として見ることができず、アメリカ・西欧とアジアの中間に立って、買弁としてサヤを取りたいという本心が見え隠れしている。日本をアジアから除外して、超越的立場から、アジアを支配と搾取の対象でしかないとする思考からいかに脱却するか。アジアの苦悩に共感して理解し共に生きる、そうしたアジア観をいかにして構築するか、そこにすべての問題がかかっている、と氏は述べられています。ドレイ根性も支配者根性も克服して、アジアから、いや世界から支配被支配の関係そのものを排除しなくてはならない、ということでもありますね。
 そしてもう一つのキーワードが"戦争"です。1945年の無条件降伏におわったあの戦争をどうとらえるのか。この問題については、下記のような大きな問いとして提出されています。
 1945年の無条件降伏におわる戦争を、福沢が設定し、明治国家に体現された思想コースの延長上にとらえるか、あるいは福沢コースの逸脱としてとらえるかは、議論の分かれるところだろうと思う。この議論が整理されないために、思想上の混迷が今日まだつづいていると見ることもできる。(p.263)
 あの戦争は、福沢諭吉と専制官僚たちが築いた明治国家からの逸脱なのか、それともその中に"野蛮"が胚胎していたのか、そうした視点で日本の近代史を見直すべきである。はい、しかと受け止めて、自分の頭で考えていきたいと思います。
 いずれの問題にせよ、権威によりかからず、自分の頭でしっかりと考えなさいという、氏のメッセージが通奏低音のように鳴り響く重厚な一冊でした。それではどうすれば、そうなれるのか。日本の、いや世界中の先生方に氏の言葉を贈ります。
 政治にはほとんど望みがない。政治家には期待がかけられない。とすれば、教育に期待するより仕方ないではないか。そしてわたしの考える教育は、教師がその全部である。(p.257)

by sabasaba13 | 2011-03-23 06:15 | | Comments(0)

丹波・播磨・摂津編(35):新大阪駅(10.2)

 公園のところまで戻ろうとすると、新淀川開削や毛馬洗堰造築で活躍した技師・沖野忠雄の銅像がありました。
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 蕪村が友どちと遊んだ土手を降り、さあ帰郷の途につきましょう。十五分ほど歩いて天神橋筋六丁目駅まで戻り、今度は地下鉄谷町線に乗って東梅田駅で下車。ここで地下街を移動してJR大阪駅へと向かいます。途中に見かけたのが立ち食いの串カツ屋、大阪だなあ、ああ美味しそうな匂いが漂ってくる… 思いっきり後ろ髪を引かれましたが、胃の腑のロックゲートを閉ざし忍の一字。一刻も早く新大阪駅に行き、新幹線の切符をおさえたほうがいいでしょう。通路にあった「すべらない、神戸土産。観音屋」という広告も関西らしくていいですね。
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 新大阪駅に着いて切符売り場に行ったところ、それほどの混雑ではありませんでした。念には念を入れて、四十分後に出発する新幹線の指定席券を購入。さあ待ちに待った夕食にしましょう。ねぎ焼きを求めて駅ビルの中を彷徨っていると、「たこ昌」がありました。うんここでもいいな、と入店し明石焼きとどて焼きを注文。前者はだし汁につけて食べる柔らかいタコ焼き、後者は味噌で煮込んだ牛すじ肉ですが、いずれも美味しくいただきました。ところがこの「たこ昌」の女将、たいへん機嫌が悪うございました。店員に大阪弁で強烈なイヤミを言うは、急いでいる客にもつれないは、聞いていて不愉快になりました。「この店は、明石焼きとどて焼きを同じ箸で食わせるのか」とからんでやろうかとも思いましたが、「喧嘩はよせ、腹がへるぞ」というねずみ男の箴言が脳裡に浮かび思いとどめました。そして新幹線に乗り込み、隣の客が食べはじめた「蓬莱551」のシュウマイの強烈な匂いに耐えながら本を読んでいると、あっという間に京都着。薄暮に浮かぶ東寺五重塔が「寄っていかへん」と秋波を送ってきましたが、ごめんね、明日は仕事なんだ。新幹線はやがて舞い降りた夜の帳を引き裂きながら、一路わが故郷へと疾駆していくのでした。
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 なお老婆心ながら、スイカを持参しましたが、私鉄・地下鉄では使えなかったことをつけくわえておきます。

 というわけで、丹波・播磨編、一巻の終わりです。いつもにも増して、慌しいけれど楽しい旅でした。歩き、見て、食べ、飲み、知り、考え、また歩く。ビートたけしも(『騙されるな』)、チェーホフも(『中二階のある家』)言っていましたが、生きるということは凄いことなんですね。

 後日談。篠山で買った栗羊羹を山ノ神に奉納したところ、顔と眼と鼻の穴を真ん丸くして美味しそうに頬張ってくれました。♪When you're smiling, when you're smiling, the whole world smiles with you.♪

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2011-03-22 07:28 | 近畿 | Comments(0)

丹波・播磨・摂津編(34):蕪村生誕地の碑(10.2)

 そして土手をのぼると、淀川に沿って長い堤が伸びています。どんよりと雲に覆われた広い空、そのもとを滔々と流れる淀川、そこにかかる無数の橋、どこまでも続くような堤と散歩をしている人影、とりたてて美しいものはないのですが、いつか見たような懐かしい情景です。右(東)方向へ歩くと淀川大堰と、現在稼動している毛馬閘門があります。ここを通り過ぎると「蕪村生誕地の碑」があり、彼の句「春風や堤長うして家遠し」が刻んでありました。この堤とは、たぶん今私が立っているこの毛馬の堤のことなのでしょうか、違うところなのでしょうか。あるいは帰郷して詠んだのか、故郷を偲んで詠んだのか、毛馬とはまったく関連のない句なのか。さっそく調べてみましたが、こういう本格的な評論や分析が読みたい時はやはり文献が必要です。「死ね死ね団」のテーマの歌詞が知りたいとか、そういう瑣末だけれども面白い情報を知るときには、インターネットはきわめて重宝しますが。要は使い分けですね。さっそく図書館で『与謝蕪村 日本詩人選18』(安東次男 筑摩書房)の該当部分を読んでみました。与謝蕪村(1716‐83)、ここ摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)の豊かな農家に生まれたことは間違いないようです。この句は漢詩、漢文訓読体、破調句などの雑体詩形を連鎖させた俳詩「春風馬堤曲」(1777)におさめられています。安東氏が紹介されている、蕪村が門人に宛てた手紙によって、この作品の由来がある程度わかります。
一、春風馬堤曲 馬堤は毛馬塘(づつみ)也 即余が故園也
余幼童之時、春色清和の日ニは、必ず友どちと此堤上ニのぼりて遊び候。水ニは上下ノ船アリ、堤ニハ往来ノ客アリ、其中ニハ田舎娘の浪花ニ奉公して、かしこく浪花の時勢粧(いまやうすがた)に倣ひ、髪かたちも妓家の風情をまなび、□(一字欠)伝しげ太夫のうき名をうらやみ、故郷の兄弟を恥いやしむもの有。されども流石故園の情に不堪、偶親里に帰省するあだ者成べし。浪花を出てより親里迄の道行にて、引道具ノ狂言座元夜半亭と御笑ひ可被下候。実は愚老懐旧のやるかたなきよりうめき出たる実情ニて候。
 つまり、あでやかな藪入娘が大坂から淀川沿いの堤をさかのぼって、母と弟の待ちわびるわが家へとたどる道行を描いたこの連作は、毛馬に帰郷しての作ではない、幼年時の記憶にもとづくフィクションであるということです。"「やるかたなき」懐旧の情を、幼年の日の一記憶に托して詠ん"だのであろうと、安東氏は述べられています。このとき、蕪村は六十二歳、人生はもう晩年をむかえ、さらに愛娘の離婚問題もからみ、どうしようもないほどの郷愁にとらえられたのでしょうか。なお氏は、蕪村が関東を歴行した時代の、結城・下館の川堤に関わる思い出も響いているかもしれないと指摘されています。はい、勉強になりました。また内なる図書館がすこし充実したような気がします。それにしても、散歩や旅ってほんとにいいものですね。事前に計画を立てるのが楽しい、歩き回っている最中も楽しい、そして帰郷して調べものをするのも楽しい。一粒で三度楽しめます。なおこれまで拙ブログで紹介した蕪村の足跡は二箇所、結城と、京都の金福寺です。そうそう、いろいろと調べている最中に、また彼の素晴らしい句に出会えました。
百姓の生キてはたらく暑かな
 彼とのつきあいは、これからも続きそうです。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2011-03-21 08:26 | 近畿 | Comments(0)

丹波・播磨・摂津編(33):毛馬閘門(10.2)

 その隣が住友グループから寄贈された「安宅コレクション」を展示する東洋陶磁美術館、ひさしぶりに油滴天目茶碗に再会したのですが、時間の関係で泣く泣くカット。地下鉄堺筋線の北浜駅へ降りようとすると、道路の向こう側に銅像があります。どりゃどりゃどなたさまじゃろ、と近くに行くと、五代友厚の銅像、背後のビルは大阪証券取引所でした。私の拙い受験用日本史の知識では、黒田清隆と結託し開拓使官有物払下げ事件の中心となったダーティーな実業家というイメージしかありません。しかし今調べてみると、大阪の産業の近代化に貢献するとともに、大阪商法会議所、大阪株式取引所、大阪堂島米商会所、商業講習所(大阪市立大学の前身)の設立・指導に尽力するなど、近代大阪の経済的発展を指導した人物でもありました。人間というのは多面的な存在、一面的な理解ではいけませんね。
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 そして北浜駅から地下鉄堺筋線に乗って天神橋筋六丁目で下車、毛馬閘門に向かいます。いつも愛用している『歩く地図』(山と渓谷社)が偉いのは、こうしたマイナーな物件までちゃんと地図に載せているところです。この地図と、駅にあった周辺地図で、だいたいの方向がわかりました。駅から北に向かって歩き始めると、たこ焼き屋さんがありましたが、ちょっとお値段が高い。ここは我慢して歩を進めましょう。しばらくすると、「おおよど」「豊崎東会館」という古いビルや、戦前の学校らしき物件を発見。城北公園通を渡ろうとすると、横断歩道のすぐ脇に歩道橋がありました。無駄な公共事業の典型例ですね。
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 そして十五分ほどで淀川の土手に到着、あたり一帯は公園として整備されていました。かつて長柄運河にかかっていたという眼鏡橋を渡ると、毛馬第一閘門が保存されていました。解説板によると、淀川はたびたび氾濫し周辺地域に大きな被害をもたらしていたため、1897~1910年にかけて改修工事が行われ、新淀川が開削されました。旧淀川と新淀川では水位に差があるため、船が通過する時には特別な施設が必要となりました。これがいわゆる閘門(こうもん lock)ですね。簡単に言うと、二つの扉で仕切られた空間をつくり、水を出し入れして、船を上下させるという仕組みです。閘室(ロック室)壁面の煉瓦や、重厚なロックゲートなどが良好な状態で保存されておりました。閘室が遊歩道になっていて、すぐ近くで見られるというのもいいですね。閘門自体は、名古屋の松重閘門のほうが見ごたえがありましたが、こちらのほうが閘門の仕組みがよくわかります。
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 また新淀川から旧淀川への分流施設、毛馬洗堰も保存されています。その近くにごろごろころがっているのが「毛馬の残念石」、江戸時代に大坂城を再建するときに伏見城から運ばれた石垣の石がその途中で運搬船から転落し、淀川改修工事の際に引き上げられたものとされています。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2011-03-20 08:16 | 近畿 | Comments(0)

丹波・播磨・摂津編(32):大阪市中央公会堂(10.2)

 墓地には「餌ほっとかんといてー」「糞は始末してやー」と苛立つおかんのポスターがありました。
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 さて現在の時刻は午後二時ちょっと前、帰りの新幹線は予約していないのですが、午後六時ごろには乗車したいものです。よって旧岸和田村立尋常小学校や、大塩平八郎ゆかりの洗心洞跡や、大村益次郎殉難の碑や、適塾や、芭蕉終焉の地・南御堂はきっぱりとあきらめて、中之島中央公会堂と、毛馬閘門だけに行くことにしました。地下鉄長堀鶴見緑地線の玉造駅近くでは、愛犬家と嫌糞家が歩道をはさんで鬩ぎ合っていました。
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 さて唐突に便意をもよおしてきたので小走りに駅の階段を駆け下りると、改札に入る前にトイレがありました。セーフ。東京では駅構内にトイレを設置するという陰険な営為が多いのに、これはたいした見識ですね。賞賛に値します。そして心斎橋で御堂筋線に乗り換えますが、狭いエスカレーター入口を抜けて下ると広大な空間のホームとなっています。その対比があっというくらいに印象的だったのですが、フランク・ロイド・ライトの影響…なわけはないな。
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 地下鉄車内では愉快な吊り広告を二つ発見。「きせかえ仏壇、できました。」「想像を超えた仏壇と出会える」という広告は、グラデーションのついた鮮やかな色の扉を季節によって変えられるという仏壇の紹介。祖霊を大切にするとともにモダンなテイストも味わいたいという、大阪人のmentalityを見たような気がします。
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 もう一つは「あゝ青春の時刻表」という大阪市交通局の宣伝。「はじける青春! みなぎる血潮! 若い二人は時刻表を手に、颯爽とバスに乗る!」という映画仕立ての時刻表販売促進ポスターです。監督は壇鳥英三(=だんどりえーぞ!)、主演男優は馬須出剛(=バスでGO!)、というこてこてに脂ぎった駄洒落が炸裂しています。ただ、脚本の植部健作、主演女優の茂梅留美奈の意味がわからない… あえて考えさせるための仕掛けなのか、ネタがつきただけなのか、ああ気になります。大阪市交通局のみなさん、ぜひご教示してください。
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 淀屋橋駅で降り、淀屋橋を渡るとそこが中之島。まずは中之島図書館とご対面ですが、まるで神殿のような大仰なデザインには驚かされます。解説板によると、住友吉左衛門によって寄附されたもので、竣工は1904(明治37)年です。ライトは見たら、「なぜ図書館は図書館らしく作らないのだ!」と激怒したでしょうね。その隣にあるのが、大阪市中央公会堂(旧中之島公会堂)です。いやあ恰幅のいい堂々たる外観ですね。二本の尖塔にはさまれた半円形のアーチが見事なアクセントになっています。半円の縁を飾る石と煉瓦の装飾が、まるで陽光のようです。ウィキペディアによると、株式仲買人である岩本栄之助の寄付によって建設計画が始まり、岡田信一郎の原案に基づいて、辰野金吾・片岡安が実施設計を行ない、1918年(大正7年)オープンしました。なお岩本栄之助は第一次大戦による相場の変動で大きな損失を出し、公会堂の完成を見ないまま1916年(大正5年)に自殺したという悲話も残されています。それにしても、戦前の富豪たちは、このように多額の寄附をして公共のための施設をつくることが多かったようです。現在ではあまりそういう話は耳にしません。"ノブレスオブリージュ"という言葉はもう完全に死語なのですね。株や投資による「濡れ手に粟」的成金が激増した昨今、苦心惨憺して金を稼ぐ→高貴な行為+社会に還元する義務、という図式が崩壊してしまったのでしょうか。

 後日談。大阪市交通局のポスターの話を山ノ神にしたところ、しばし沈思黙考、「ねえ、“うえべ”じゃなくて“うえぶ”って読むんじゃないの」 うえぶけんさく…WEB検索か! じゃあ茂梅留美奈は? そんなこともわからないのと憐れむような眼で小生を見つめ「モバイル見な」と一言。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2011-03-19 06:27 | 近畿 | Comments(0)