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熊野古道編(14):近露王子(10.3)

 ここまで来ればゴールは目の前、もうひと頑張りです。足元は滑りやすい石畳、こりゃあ濡れていたら一苦労だわいと思いつつ、慎重に下り坂をおりていくと、眼前に折り重なるように連なる山々と、その懐に抱かれたような近露の町が見えてきました。町並みを一望できる休憩所で一服し、坂をおりきると日高川沿いの道にでます。
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 北野橋を渡ると近露王子跡に到着、時刻は14:03、滝尻王子から約六時間半かかりました。まずは近露王子を見学、解説板によると、ここで宿泊し、日置川で禊をしたあと本宮へ向かうのが通例だったそうです。大きな石碑がたっていますが、その文字は出口王仁三郎の筆跡だそうです。1933(昭和8)年に彼がここで休息した際に、村長が懇願し揮毫してもらいましたが、その二年後に大本教は大弾圧を受けます。警察はこの碑の破却を求めますが、村長がうまくごまかして免れたとのこと。彼の揮毫はほとんど全部破壊され、残された唯一のものだそうです。大本教への弾圧といえば、坂口安吾の随筆「日本文化私観」を思い出しますね。いずれにせよ貴重な歴史の証人です。
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 道をはさんですぐ目の前にあるのが、今夜の塒、旅館「月の家」です。まるで古風な民家のような佇まい、さっそく玄関に入ると、「杖と塩を忘れるな…」と重厚な口調で助言をくれたおやっさんが現れました。心の中で手を合わせつつ挨拶をすると、二階へ通されました。そこは十数畳もあろうかと思われるだだっぴろい大広間。…テレビがない… テレビ嫌いの私としては何の痛痒も感じないのですが、これは稀有なる、というよりもはじめてですね。悪しき現代文明へと鉄槌と受け取りましょう。座布団を並べて、しばしの間気持ちよくうたた寝。清新な空気を吸って歩いた心地よい疲労感が全身を満たし、爆睡してしまいました。
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 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2011-04-30 06:21 | 近畿 | Comments(0)

熊野古道編(13):牛馬童子(10.3)

 そして小川に沿ってすこし歩くと、国道311号線に出ました。車に注意して横断すると、道の駅牛馬ふれあいパーキングに到着です。時刻は午後一時ちょい過ぎ、出発から五時間四十分ほどかかりました。駐車場はマイカーであふれかえり、ここから熊野古道をプチ楽しもうという皆の衆がお土産に群がっていました。やれやれたかだか数人の人間が移動するのに、有害物質をしこたま排出しながら何百キロもある物体を駆動させるのか、上等上等。などと引かれ者の小唄を口ずさみながら、店に入り、珈琲を…売っていません。やれやれ。よっこらしょと荷物をおろしベンチに座って、五分咲きの桜を愛でながら紫煙をくゆらしました。あれ? そういえば、滝尻からここまで、誰ともすれちがわなかったことに気づきました。逆コースということもあるのでしょうが、近露王子へと向かう人もまばらでした。まさか蟻の熊野詣といった混み方はないとは思っていましたが、これほど閑散としているとは予想外。車や観光バスで、熊野古道をつまみ食いするのが主流なのでしょうか。ちょっと残念です。
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 気を取り直して出発、ふたたび国道を横断し、閑散とした旧国道の急坂をすこしのぼって山道へと入ります。十数分歩くと、熊野古道のアイドルだかなんだか知りませんが、とにかくやたらとガイドブックで紹介されている牛馬童子に到着です。解説板によると、このあたりは箸折峠と言い、花山法皇がお経を埋めたところと伝えられているそうです。食事のときにカヤの軸を折って箸にしたので箸折峠、軸の赤い部分に露がつたうのを見て「これは血か露か」と訊ねたので近露という地名がついたという「山田君、座布団一枚取りなさい」的な由緒があるそうな。そして牛馬童子は花山法皇の旅姿を模した愛らしい像として人気急上昇中だそうです。ま、たしかに、馬と牛にまたがった童形ではありますが、故大平正芳首相似の、お世辞にも抱きしめたいと思うお姿ではありません(失礼)。苔もついておらず摩耗もしておらず、それほど古い石像にも見えません。はい、「熊野古道」(小山靖憲 岩波新書665)に種明かしがありました。「…明治二四年(1891)ごろのもので、牛馬童子の名も自分がつけたという郷土史家の話を聞いたことがある」(p.149) ♪ちゃんちゃん♪ その裏手にある中世末の宝篋印塔は、牛馬童子とは一味違い、風雪を堪え抜いた確固たる存在感があります。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2011-04-29 07:06 | 近畿 | Comments(0)

熊野古道編(12):石屑の坂道(10.3)

  飢えと疲労のため小判をくわえたまま亡くなった巡礼を祀る小判地蔵を通り過ぎ、力が強く頓智に長けた伝説上の人物・悪四郎屋敷跡のあたりからは、左手に宝泉寺境内にある福定の大イチョウが遠望できるはずです、が、見つけられませんでした。
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 そして一里塚跡を過ぎると、九十九折りの急坂があらわれました。ここが最後の難関、気合いを入れて杖をつきつき登攀。ところどころで伐採された木々が乱雑に放置されている光景を見かけましたが、なぜなんだろう? 心痛みます。
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 そしてこのルートの最高点(標高約600m)・上多和茶屋跡に到着です。やったあ… 切り株に腰をおろして水を飲み、紫煙をくゆらして一休み。解説板によると、熊野詣がさかんなころはここに茶店があったそうです。
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 ここからはゆるやかな歩きやすい下り道、しばらく行くと「三体月伝説」という解説板がありました。それによると、陰暦の11月23日、ここから三つの月が見えるそうです。三尊像をふまえた伝説なのでしょうか、ちょっと「1Q84」を思い出してしまいました。
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 そして細い林道との交差点を通り過ぎると、予想外の伏兵が待ち構えていました。その名は「坂尻の谷」、またの名を「石屑の坂道」。幅の狭い急峻な下りのうえに、すべりやすい石畳というおまけ付き。ここで滑って転んで足を挫いたら百年目ですね、ただでさえ下りは体力を奪われるのに、神経まで擦り減らされてしまいました。もし雨が降り石畳が濡れていたら…肌に粟が生じ背筋に悪寒が走ります、想像したくありません。きっとこれからの行程でこうした滑りやすい坂道が多々あるのでしょう、雨が降らないことを心底から願いました。なおまぎらわしい分岐に「この道は熊野古道ではありません」という道標があるのには助かります。
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 杖をつきつき(ほんっとに持ってきてよかった)慎重に下山、大過なく大坂本王子跡に到着しました。やれやれと安堵の溜息をつき、呵々大笑する膝に労いの言葉をかけて一休み。なおこちらにあった石造の笠塔婆は、鎌倉時代後期のものだそうです。
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 本日の五枚です。
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by sabasaba13 | 2011-04-28 06:19 | 近畿 | Comments(0)

熊野古道編(11):旧旅籠通り(10.3)

 時刻は午前十時、そろそろ出発しますか。ガイドマップによると、ここから上多和(うわだわ)茶屋跡までしばらく上りがつづきます。集落の中を抜ける急坂の小道は旧旅籠通り、かつての屋号を小さな看板で紹介してありました。江戸時代、庶民が伊勢参りのあと、熊野を含む西国巡礼をした時に利用した旅籠なのでしょう。往時の殷賑は想像するしかありません。
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 集落のはずれには「古道散策のみなさまへ ここより近露王子までは民家がなく、連絡の方法がありません。所要時間は約四時間ですので、出発にはお気をつけ下さい。中辺路町」という看板がありました。うん、これは褌を締めてかからねば。何軒かの廃屋を横目に、石畳の道を少し歩くと、やがて山道へと変わります。一里塚跡には東屋風の休憩所がありますが、トイレ・飲料水はありません。
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 先を急ぎましょう。登り坂をのぼっていくと、右手に高原池が見えてきました。まるで坂東玉三郎が湖面からぬっと出てきそうな幽遠は雰囲気の小さな池で、鏡のような水面が、周囲の木々を美しく怪しく映していました。
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 そして大門王子跡に到着、ドアがついた小さな祠があったので開けてみると、記念のスタンプでした。
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 このあたりから、左手に視界が開け、山なみを眺望することができます。少し歩くと休憩所がありました。時刻は午前11時6分、出発から三時間半が経過、すこし早いけれども小腹もへったし昼食をとることにしましょう。山小屋風木組みの休憩所に座り、昨晩寿司屋で買ったひとはめ寿司をいただきました。磯の香りをただよわせるひとはめとしめ鯖がマッチしてなかなかの美味、これはお薦めです。なおこちらにはトイレ・飲料水・非常用電話が用意してありました。
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 それでは出発、ここから数分歩いた十丈王子跡には、木製のベンチと、もっときれいな新設のトイレがあったことをつけくわえておきましょう。
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 本日の五枚です。
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by sabasaba13 | 2011-04-27 06:19 | 近畿 | Comments(0)

熊野古道編(10):高原霧の里休憩所(10.3)

 そしてスイセンが咲き並ぶ舗装道路となり、木工品製作所を通り過ぎると高原熊野神社に着きました。
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 周囲を睥睨し、かつ見守るような楠の巨木がまず目に飛び込んできます。その存在感には圧倒されてしまいました。本殿は応永元(1394)年に建てられた中辺路最古の神社建築ですが、苔をまとったこけら葺きの屋根がいい風情を醸し出しています。
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 そのすぐ近くにあるのが高原霧の里休憩所、ここまで約二時間で到着です。広い駐車場の奥へ行くと、素晴らしい景観がお待ちかね。眼前に広がる果無の山々、手前下方には営々たる辛苦を物語る見事な棚田、息を呑んでしばし立ち竦んでしまいました。なおこちらには地元の方が運営されている休憩所があり、飲み物やお土産を入手できます。トイレ、水、自動販売機もあり、ペットボトルを一本購入しました。なおこの後、道の駅「牛馬童子ふれあいパーキング」まで約三時間かかり、その間、集落・商店や自動販売機はいっさいありませんので要注意です。トイレは一箇所ありましたが、こちらで出すべきものは出しておいたほうが無難でしょう。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2011-04-26 06:17 | 近畿 | Comments(0)

「赤い人」

 「赤い人」(吉村昭 講談社文庫)読了。吉村氏の歴史小説には心ひかれます。冷静にして要を得た筆致、綿密な考証、そして何よりもフットライトを浴びる大看板ではなく、目立たぬながらも重要な仕事をなしとげた歴史上のバイ・プレーヤーたちや、歴史の波に押し流されながらも必死に生きようとした市井の人々を主人公にすえているのがいいですね。これまでも「冬の鷹」(前野良沢)、「ポーツマスの旗」(小村寿太郎)、「長英逃亡」(高野長英)、「天狗争乱」(水戸天狗党)といったしぶい諸作を読んできましたが、どういうわけか最近とんとご無沙汰していました。先日、たまたま「シリーズ日本近現代史⑩ 日本の近現代史をどう見るか」(岩波新書1051)を読んでいたところ、詳細にして有益なブックリストが掲載されており、その中で紹介されていたのが本書です。北海道開拓の暗部に横たわる集治監の歴史、これは面白そうだと購入、あっという間に読了。その筆の冴えに魅了され、またしばらく吉村氏の歴史小説にはまりそうです。
 “赤い人”とは、赤い囚人服を着せられた囚人をさしています。まず、石が入っているもっこを担いだ囚人を描いた表紙の絵が秀逸。横山明氏の手によるものですが、徒労感を色濃く漂わせながらも、不撓不屈の意志をみなぎらせた表情が、「俺の話を聞いてくれ」と語りかけてくるようです。赤い囚衣の男たちが石狩川上流に押送されたのは1881(明治14)年、以後、鉄丸・鉄鎖につながれた彼らの死の重労働によって酷寒の原野が切り開かれていきます。その労働の凄まじさ、自然の厳しさ、そして囚徒に対する扱いの酷薄さを、著者は冷静な筆致で淡々としかし克明に描きつくします。例えば…
 十一月下旬の朝、病監で三人の囚人が冷たくなっているのが発見された。その日、三個の棺が作られて、遺体をおさめると囚人たちにかつがれて裏門からはこび出された。囚人たちは腰まで雪に没しながら棺を埋葬地へとはこんでゆく。風がおこって、雪が飛び散り、獄衣は白くなった。棺は、埋葬地の雪の中に埋められた。雪をおこし土を掘るのは困難なので、融雪期まで雪中におさめておくことにしたのだ。
 それらの死者は肺炎と推定される者二名、腸カタルの患者一名であったが、翌日には、凍傷の重症患者が激烈な痛みに叫び声をあげながら悶死した。再び、棺は埋葬地にはこばれた。
 十二月に入ると、温度計は零下十度近くを記録し、病死者が相ついだ。棺は、その都度、裏門からはこび出されていった。(p.91)

 掘りさげられた竪坑に可燃ガスの存在が懸念されると、看守の指令で囚人の体に綱が巻きつけられ、宙吊りにしておろされる。囚人が頭をたれ動かなくなると、ガスの存在がみとめられ、新たに換気孔がうがたれる。むろん、竪坑におろされて悪性ガスを吸った囚人の大半は、意識が恢復せず、一命をとりとめた者も痴呆状態になった。
 落盤と小爆発は絶えず、囚人たちは、生命の危険にさらされながらも課せられた炭量をこなすことによって加増される麦飯の魅力にひかれ、ほとんど休むことなく働きつづけていた。かれらの内部には、労役に対する激しい憤懣がみち、怒声をあげつづける看守に例外なく憎悪の眼をむけていた。かれらの中には、連鎖され自由を失っている身でありながら、突然看守にツルハシをふるっておそいかかり、斬殺された者もいた。また、ひそかに外部に向かって坑道をうがち脱走の機をねらっていたことが発覚し、重罰をうけた後、鉄丸を足にはめられた者もいた。
 その年の末までに、炭山への出役によって241人が病死または衰弱死し、7名の者が射殺、斬殺された。(p.169)
 監獄を視察した金子堅太郎が、政府へ次のような復命書を提出しているそうです。「(囚徒)ハモトヨリ暴戻ノ悪徒ナレバ、ソノ苦役ニタヘズ斃死スルモ、(一般ノ)工夫ガ妻子ヲノコシテ骨ヲ山野ニウヅムルノ惨情トコトナリ、マタ今日ノゴトク重犯罪人多クシテイタヅラニ国庫支出ノ監獄費ヲ増加スルノ際ナレバ、囚徒ヲシテコレラ必要ノ工事ニ服セシメ、モシコレニタヘズ斃レ死シテ、ソノ人員ヲ減少スルハ監獄費支出ノ困難ヲ告グル今日ニオイテ、万止ムヲ得ザル政略ナリ」 “暴戻ノ悪徒”なので過酷な労働で死んでもかまわないし、死ねば死ぬほど監獄費の出費を抑制できる、というわけです。さらに彼は、労賃を抑えることもでき、さらに北海道における囚徒の悲惨な状況の話が内地に伝われば犯罪の抑止残忍なるとも語っています。その上で北海道を開発できるのですから、これは政府にとって一石三鳥、四鳥の政策です。また、維新後に続発した一連の反政府行動、佐賀の乱、神風連の乱、萩の乱、西南の役でとらえた者たちを収容して「誤マレル反乱ノ前非ヲ悔悟セシメ」、同時にこの北海道の集治監の惨状が反政府運動を企てようとする者たちを威嚇し、牽制しようとする狙いもありました。この後に起こった一連のいわゆる自由民権運動激化事件、群馬事件、加波山事件、秩父事件の首謀者たちも次々と集治監に送り込まれます。こうして見ると、当時の北海道は日本政府にとってシベリアのような政治犯の流刑地であったことがよくわかります。

 こうした人々を人枕にして開発されていった北海道の歴史を、著者の吉村氏は、その犠牲者・加害者に感情移入することなく、淡々としかし精緻に描きつくしていきます。大向こうを唸らせるような大言壮語をせず、誠実に歴史の光と影に向き合おうとする著者の姿勢に敬意を表しましょう。歴史における影の部分のみをとりあげる姿勢を“自虐史観”として批判される方がおられますが、私の読書経験ではそれほど極端な歴史書には出会ったことがありません。それよりも、歴史における光のみに言及する、私に言わせれば“自慰史観”を奉じておられる方は散見されます。そうした方々にぜひ読んでいただきたいものです。フランスの史家・マルク・ブロックの言葉です。
ロベスピエールをたたえる人も、にくむ人も、
後生だからお願いだ。
ロベスピエールとはなにものであったのか、
それだけを言ってくれたまえ。

by sabasaba13 | 2011-04-25 06:16 | | Comments(0)

「世界史」

 「世界史(上・下)」(ウィリアム・H・マクニール 中公文庫)読了。世界歴史の通史をずっとおっかけていますが、要を得て簡なる本にはなかなか出合えません。重箱の隅をつつくように事象を羅列する通史ではなく、世界の様々な地域や文化の関係や交流をがばと鳥瞰する通史、言うのは簡単ですが実現するのには大変な知力と知識が必要になるでしょう。そうしたわがままな私の願いにある程度応えてくれるコンパクトな世界通史に、たまたま書店で出会うことができました。それが本書です。著者はバンクーバー生まれ、シカゴ大学で歴史学を教えた方で、叙述をつらぬく基本的な考え方について序文でこう述べられています。
 いついかなる時代にあっても、世界の諸文化間の均衡は、人間が他にぬきんでて魅力的で強力な文明を作りあげるのに成功したとき、その文明の中心から発する力によって攪乱される傾向がある、ということだ。そうした文明に隣接した人々は、自分たちの伝統的な生活様式を変えたいという気持ちを抱き、またいやが応でも変えさせられる。…時代が変わるにつれて、そのような世界に対する攪乱の焦点は変動した。したがって、世界史の各時代を見るには、まず最初にそうした攪乱が起こった中心、またはいくつかの中心について研究し、ついで世界の他の民族が、文化活動の第一次的中心に起こった革新について(しばしば二番せんじ三番せんじで)学びとり経験したものに、どう反応ないしは反発したかを考察すればよいことになる。(上p.36)
 魅力的で強力な文明による"攪乱"、それに対する"反応と反発"という見方が興味深いですね。たしかに文明のもつこうした負の側面にも目を配らないと、歴史のダイナミックな動きは理解できません。このしっかりとした視点を軸として、イスラーム圏など非欧米地域にも十分に目を配っているところに著者の識見を感じます。その結果でしょうか、蒙を啓いてくれるような斬新な分析も魅力的です。例えば、世界の大洋がヨーロッパ人に開かれたことから生じた三つの大きな結果が、あらゆる文明社会に影響を与え、また同時に多くの未開民族の生活条件を変えたと指摘したうえで、それはアメリカ大陸からの大量の金銀の流入にともなう価格革命、アメリカ大陸の作物の伝播、病気の拡大であると述べられています。(下p.45~46) またロシアと両アメリカ大陸の社会を、西欧諸国のそれから区別する基本的な条件に、土地が比較的豊富であることと、労働力が不足していたことを指摘。その結果、無政府主義的平等および文化的な新原始主義、および主人と使用人という極端な分極化(新世界の奴隷制度…旧世界の農奴制)が生まれると分析されています。(下p.154~155) ロシアとアメリカの共通性とは、思いもしませんでした。目から鱗が落ちた思いです。そう言われてみると、ロシアが農奴制を廃止したのは1861年、アメリカ合衆国が奴隷制を廃止したのは1863年、ほぼ同時なのですね。
 清朝やムガル帝国やオスマン帝国が、西欧の進出に対してなぜ十分な抵抗ができなかったのか、あるいは日本ではなぜある程度それが可能であったのか? 私などは、為政者の対応の巧拙、ヨーロッパからの距離の差、近代化の前提条件が整っていたか、などと漠然と考えていましたが、著者はこう述べられています。
 ここで注意しなくてはならないのは、満州人、ムガール人、オスマン・トルコ人たちが、それらの帝国に住む国民の大多数から見れば異民族だという事実である。そのような状況では、支配者側が国民の民族的、文化的な同胞感情に訴えるのはきわめて危険となる。民族感情が高まれば、当然ながら自分たち外国人による支配体制の存立が危険にさらされることにもなりかねないのだ。だが国民全体を動かして西欧の侵入に抵抗させるには、彼らの民族感情に訴えるしか方法がないのも事実だった。したがって中国、インド、そして中東の諸帝国においては、西欧の進出に対する国民側の抵抗が効を奏するなど、期待するほうが無理だったのである。日本やアフガニスタンのように、支配層と一般民衆が同一の民族であった地域では、西欧の圧力に対してはるかに効果的な抵抗が見られた。(下p.243)
 うーん、これも鋭い。19世紀および20世紀の歴史を考察する際に、"ナショナリズム"をつねに頭に置いておかなければならぬと、あらためて銘肝しました。近代システム論のような壮大な理論体系ではありませんが、実にわかりやすく面白く興味深い通史でした。お薦めです。
by sabasaba13 | 2011-04-24 06:54 | | Comments(0)

言葉の花綵49

 喧嘩はよせ、腹がへるぞ。(ねずみ男)

 私は一年間の就学が子どもをどのように変え、何年かの就学がいかに子どもの未来を変えるかをみてきました。私は教育の力が家族を貧困から、赤ちゃんを死から、女の子を奴隷のような暮らしから救うのをみてきました。私は自分の人生を通じて、一つの世代の子どもが教育の力で国を改善するのをみてきました。(グラサ・マシェル[モザンビーク元教育相])

 私は愛する若いあなた方のまなざしやエネルギーに溢れた体に光を見出だし、あなた方の心に希望を見出だしています。未来を築くのが私ではなく、あなた方だということも知っています。私たちが犯した過ちをただし、世界とともに正しいことを押し進めるのも、私ではなく、あなた方なのです。(ネルソン・マンデラ)

 私たちが世界の指導者の一人ひとりに対して自らが行なった約束を果たすことを呼びかけ、乞い、要求しているのもそのためである。私たちは子どものケアは単なる片手間の仕事ではなく、つまずきながら進む人類が立ち直るための唯一の必須の道であることを理解しなければならない。(エルネスト・サバト[ラテンアメリカ・カリブ海地域の子どもと青少年のための著名人委員会])

 ネイションとは、祖先についての共通の誤解と、近隣住民への共通の反感とにより結びついた人間集団である。(カール・W・ドイッチュ)

 沈黙を学べ、おお友よ、話すことは銀にもひとしいが、時機を得た沈黙は純金だ。(ヘルダー)

 知育の重要性とは、学芸に対する自発的な知的好奇心や鑑賞能力を促す点にある。(青木やよひ)

 幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。(『アンナ・カレーニナ』 トルストイ)

 私たちはお互いに、助け合うことはできない。許し合うことができるだけだ。そこで生きている以上、お互いにどれほど寛大になってもなりすぎることはない。(色川武大)

 政治家の仕事は、歴史を歩む神の足音に耳を傾け、神が通り過ぎるときに、その裳裾をつかもうとすることだ。(ビスマルク)

ちょい悪五ヶ条
大人の男にしか分からない本当の味がある。
第一条、流行に敏感で良質の素材を選び、ジャストサイズで着こなすべし
第二条、若者には表現出来ないような色気と余裕を兼ね備えるべし
第三条、見た目は悪でも、心は紳士 そのギャップを大切にするべし
第四条、何事にも正面から立ち向かい、その人生経験を糧に年を刻むべし
第五条、知らない人の悲しみに触れた時、臆面も無く泣くべし (ちょい悪ショコラ)

 いかなる歴史も、まず第一に、それが書かれた時代の産物である。(ベネデット・クローチェ)

 私は本が世界を変えうるとは考えていないが、世界が変わりはじめるとき、世界はこれまでと異なる本を求めるものと信じている。(シュロモー・サンド)

 PKを外すことができるのは、PKを蹴る勇気を持った者だけだ。(バッジョ)

 ロベスピエールをたたえる人も、にくむ人も、後生だからお願いだ。ロベスピエールとはなにものであったのか、それだけを言ってくれたまえ。(マルク・ブロック)
by sabasaba13 | 2011-04-23 07:14 | 言葉の花綵 | Comments(0)

熊野古道編(9):不寝王子跡(10.3)

 乳岩の左をぐるりとまわりこんですこし歩くと不寝(ねず)王子跡に到着。
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 木の根がごつごつと浮き出る急坂をのぼっていくと、剣ノ山経塚跡がありました。剣ノ山は古来神聖な場所とされており、ここは経筒を納めた壺を埋めたところですが、明治期に盗掘されてしまったそうです。
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 さらに坂道をのぼっていくと、可憐なヤマツツジが咲いていました。そして急な階段をすこしのぼると展望台に到着です。(滝尻王子からここまで約一時間十分) 曇天なのがちょっと残念ですが、重々と連なる熊野の山々を一望することができました。
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 給水をし、紫煙をくゆらして一休み。ここからはわりと平坦な歩きやすい道が続きます。途中で舗装された林道を横切りますが、道標は完備されており、道に迷う心配はありません。なおここまで歩いてきて、樹齢の若い杉林がたいへん多いことに気づきました。そのため、正直に言って、古道という雰囲気ではないところも多々あります。(まるでおざなりにつくった都市近郊のハイキングコース) それほど古いものではない舗装の林道があるということは、戦後に植林事業が行なわれたものと推測します。針地蔵、エネーチケーのテレビ塔を通り過ぎると、高原という小さな集落が現れてきます。このあたりからは眺望が開け、折り重なり続く連山を眺めながら快適に歩くことができました。
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 本日の九枚です。
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by sabasaba13 | 2011-04-22 06:22 | 近畿 | Comments(0)

熊野古道編(8):乳岩(10.3)

 さあいよいよ奥熊野、霊域に入ります。ガイドブックによると、滝尻王子から近露までは距離にして約13km、所要時間は約5時間20分とのこと。現在の時刻は午前七時半ちょっと過ぎ、予報によると夕方ころには天気が大荒れになるそうなので、午後一時か二時には宿に到着できるよう努力しましょう。なお道標はしっかりと整備されていて、道に迷う心配はなさそうです。お賽銭を500円おさめて、道中の安全を滝尻王子に祈願…いやいや「神仏を祟びて神仏を頼らず」、ここは「我に一難二苦を与えよ」と呟き一礼して先へと進みましょう。滝尻王子の左手から裏へまわりこむと、胸を衝くような急峻な山道が眼前に立ち塞がっています。おおさっそく一難を与えてくれるとはさすがは滝尻王子、でもこやつをクリアすれば後は二苦ですむな、と天動説的に得心してしまいましたが、これがルノアールのココアのように甘かったことは後日思い知らされます。それでは覚悟を決めてアタックしましょう。ガイドブックによると、滝尻王子から展望台まで距離にして約1.6km、標高差約200mを一気に上ることになります。前掲書の「熊野古道」(小山靖憲 岩波新書665)によると、藤原宗忠が「中右記」天仁二年条の中で、この急坂を「先ず滝上坂を攀じ登り、十五町許り巌畔を踏み漸く行き登る。已に手を立つる如し。誠に身力尽き了んぬ」と記しているそうですが(p.37)、すぐに身をもって実感いたしました。なお同書によると、ここは本来の古道ではなく、神社の右脇にもっと険しい坂があったそうです(p.145)。木の根が顔を出し石がそこかしこにころがっている上り坂、すぐに息が上がってしまいました。ぜいぜい すぐに一休みして給水。そうだ、せっかく買ったのだからハイキング用ステッキを使ってみよう。するすると伸ばしたステッキをつきながら、坂を上ると、あら不思議。足への負担が減るし、バランスもとりやすい。格段に上りやすくなりました。やはり"宿のおやじの意見と茄子の花は千に一つの無駄もない"、持ってきてよかった。
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 青息吐息、十三分ほどで胎内くぐりに到着です。折り重なる巨岩の下の方に狭い隙間があり、くぐりぬけることができました。解説板によると、土地の人は滝尻王子に参拝し、竹杖をもってこの山路をのぼり、この岩穴をくぐって山上にあった亀石という石塔に参ったそうです。女性がくぐれば安産という俗信もあるとのこと。
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 そのすこし先にあるのが乳岩、巨岩がおおいかぶさり、下に座って雨宿りができそうなくらいの空間があります。解説板によると、藤原秀衡が夫人同伴で熊野参りに来た時に彼女が急に産気づき、ここで出産したという伝説があるそうです。夫妻は赤子をここに残して(なぜ?)熊野に向かい、幼子は岩から滴り落ちる乳(?)を飲み、狼に守られて無事だったので奥州に連れて帰ったとか。いろいろと疑問がわく不思議な伝承ですね。「狼に育てられた幼子」伝説なんて、南方熊楠の興味を引きそうです、何かそれに関した随筆を書いているかもしれません。と思ったら、数日後に読んだ「南方熊楠随筆集」(益田勝実編 ちくま学芸文庫)に「狼が人の子を育つること」(p.290)という随筆がちゃんと載っていました。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2011-04-21 06:18 | 近畿 | Comments(0)