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クロアチア編(48):プリトヴィッツェへ(10.8)

 後日談です。NHKが放映した「世界遺産への招待状」(2010.10.30)で、スタリ・モスト(古い橋)に関するエピソードを知ることができました。水面まで約20mある、この橋からの飛び込みを競う大会はすでに400回を越え、モスタル市民にとっては大きなイベントでした。ムスリム人、クロアチア人、セルビア人といった民族の枠を越えて、男たちが互いの勇気を称えながら和気藹藹と参加したそうです。しかし内戦、橋の破壊と復元、飛び込み大会も復活しましたが、クロアチア人の参加者はほとんどいなくなりました。参加者の一人であったあるクロアチア人青年は、そのためにクロアチア人たちから悪意ある非難を受け、今後の参加には二の足を踏んでいます。チャンピオンである、あるムスリム人青年は、何とかして昔のような民族を越えた大会にしようと、彼に参加を呼びかけます。逡巡しながらも勇気をふるって練習を始めた彼の姿を見つめる、一人のムスリム人の老人がいました。かつてのチャンピオンですが、彼の弟は内戦の際にクロアチア人に狙撃されて殺されています。インタビューに対して、涙ぐみながら「復讐をするつもりはないが、二度と彼らとは接触したくない」と彼は語ります。しかし黙々と練習を続けるクロアチア人青年を見つめているうちに心の中で何かが生まれたのでしょうか、彼のところに近づきアドバイスをします。「初めの一歩を踏み出す勇気が大事だ」と。そして大会当日、クロアチア人としてただ一人参加し、飛び込んだ彼に対して、観衆は惜しみない拍手を捧げました。彼を誘ったムスリム人青年はこう言います。「民族を分ける橋ではなく、民族をつなげる橋であってほしい」 和解のためには、飛び込みのように、最初の一歩を踏み出す勇気が必要なのですね。
 そして駐車場にある有料のトイレで用を済ませ、バスに乗り込みました。これからプリトヴィッツェまで距離にして約335km、時間にして五時間半の長距離移動です。一時間ほどで、クロアチアへの国境に到着、ボスニア側では検査官がバスに乗り込んできてパスポート・コントロール、その時運転手のルイスさんが冷えたペットボトルを二本検問所に差し入れするのが見えました。蛇の道は蛇、国境によっていろいろな作法があるのかもしれません。クロアチア側ではチェックはありませんが、係官がバスのトランクを開けて中をチェックしていました。そしてバスは一路、プリトヴィッツェをめざします。しばらくは、なだらかな山なみが延々と続く広大な風景が広がります。
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 モスタルから二時間ほど走りサービス・エリアで一回目の休憩、雲じいの薫陶を受け、最近はまりつつある「公園アニマル」を撮影。河馬? ムーミン? 正体不明の物件でした。そして出発、買ってきた飲み物を置こうと前にあるテーブルを下げると、そこにはがありました。
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 しばらくすると車内放送で添乗員さんから「クロアチア・スロベニア 旅の思い出 スワロフスキー クリスタルの輝き」と称するクリスタル・ペンダント販売のお知らせがありました。あの手この手と旅行業者もたいへんですね、もちろん買いはしませんが。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2011-10-31 06:18 | 海外 | Comments(0)

クロアチア編(47):モスタル(10.8)

 橋を渡ると、チャルシャ(旧市街)、軒の低いトルコ風の町並みが続きます。このあたりから眺める橋と川と街並みはなかなかの絶景です。
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 おっ店先でまどろむを発見、その人智を超えた愛くるしさに♪私のハートはストップモーション♪。(たぶん)彼ら/彼女らは「三毛猫だけが居住する地域をつくるためにとら猫を追放し殺戮しよう」などといった愚行は犯さないでしょうね。そして昼食をとるレストランへ到着です。ケバブ風の肉料理ですが、これはほどよいスパイスがきいたジューシーな逸品。結論を言ってしまえば、今回の旅行でもっとも美味なる一皿でした。デザートのパイ風お菓子も、さくさくとした食感と鮮烈な甘さが印象的。トルコ料理ってなかなかいけますね。
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 さてそれでは、のんびり歩きながら、集合場所のバスまで戻りましょう。途中で"DON'T FORGET"と記された石を発見。あの惨劇を胸に刻み二度とくりかえすまいとする、市民の思いを代弁しているのかもしれません。道の脇に何気なく置かれている鉄兜も気になります。
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 土産屋では薬莢を利用してつくったボールペンを売っていたので購入しました。金属細工を得意とするトルコ文化の影響かと思われますが、転んでもただではおきないしたたかさを感じます。
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 またチトーの胸像やマグネットをよく売っているのにも気づきました。クロアチアやスロヴェニアではあまり見かけなかった光景です。内戦が凄惨なものであっただけに、他民族が平和共存できていたチトー時代への郷愁があるのかもしれません。このあたりでフェイス・ハンティングを一発。
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 駐車場の近くには、最近できたらしいコンクリート製のモダンなカトリック教会と天を刺すような巨大な鐘楼がありました。添乗員さんから目印になると言われたのですが、そのあまりの大きさに違和感を覚えました。
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 実は帰国後に『「民族浄化」を裁く -旧ユーゴ戦犯法廷の現場から』(多谷千香子 岩波新書973)を読み、その謎が解けました。以下、引用します。
 カトリック教徒(クロアチア人)が約千人しかいなくなったコト・ヴァロス市では、以前に増して巨大なカトリック教会が再建されるなど、他民族に対して威圧的・挑発的ですらある。世界のイスラム諸国やカトリック教会によって集められた金の多くは、従前より大きなモスクやカトリック教会の建設に回される一方、デイトン合意からそろそろ一〇年が経とうとするのに、ボスニアの多くの地域では、いまだに破壊された民家がそのままに放置されているのが現状である。(p.192)
 うーむ、なるほど。破壊された民家より、巨大な教会やモスクの再建を優先しているのか。民族間の和解にはもうすこし時間がかかりそうですね。なお教会の近くで物乞いをしている若者を見かけましたが、結局今回の旅行で出会った物乞いは彼だけでした。アテネではいたるところで見かけたのですが。

 本日の五枚です。
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by sabasaba13 | 2011-10-30 08:44 | 海外 | Comments(0)

クロアチア編(46):モスタル(10.8)

 さて、ここモスタルは、内陸とアドリア海を結ぶ、かつてのキャラバン・ルートに位置する町として交易で栄えました。ドブロヴニクやコトルから塩、魚、オリーブ、干イチジクなどが運ばれ、内陸から肉、獣脂、蜂蜜、羊毛、穀物、蜜蝋などが運ばれました。また1463年にオスマン・トルコ帝国の領土に組み込まれ、以後約400年にわたりその支配下に置かれたため、街並みも(行ったことはありませんが)トルコのような雰囲気をただよわせています。ひしめくように建ち並ぶ石の家、絨毯や金属細工を売る土産屋、モスクやトルコ風呂、川原から集めてきた丸い石を敷き詰めた狭い路地、エキゾチックな趣を堪能できました。もちろん、弾痕など内戦の傷跡もそこかしこで見られます。
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 郵便ポストとはとりあえず撮影しておくことにしています。
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 そして町の中央を流れるのが、険しい山々をえぐるように流れるネレトヴァ川。ここにかけられている、美しいアーチを描く石橋が「スタリ・モスト(古い橋)」です。1566年、オスマン・トルコの時代につくられた橋ですが、実は内戦の砲撃によって、1993年に破壊されてしまいます。内戦が終結した後、ユネスコと世界銀行の援助、募金などにより修復が行なわれ、破壊され落下した石を川から拾い出し、足りない石は16世紀の建設時と同じ石切り場から補い、2004年4月、往時のままに復元されたそうです。橋のたもとにはたどたどしい字で"DON'T FORGET '93"と刻まれた小さな石碑がたてられていました。橋の中央から眺めると、川の両岸に肩を寄せ合うようにして家々が建ち並んでいます。何百年も平和に共存し、この橋を渡って行き来してきたムスリム人とクロアチア人が、内戦の勃発とともに川を挟んで殺し合いをはじめたのかと思うとやりきれなくなってきます。他者とつながるための心の橋は、かんたんに壊されてしまうものなのでしょうか。
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 本日の五枚です。
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by sabasaba13 | 2011-10-29 07:25 | 海外 | Comments(0)

クロアチア編(45):モスタル(10.8)

 車窓からときどきモスクを見かけるようになったので、ボスニアにやってきたのだなあと実感。葡萄畑もたくさんありましたが、ワインの生産もさかんなのでしょう。
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 ん? 黒いプレートに顔写真と十字架が刻まれた小さな石碑が視界を横切りました。あっまたあった。もしかすると内戦による犠牲者の碑かもしれません。
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 やがて岩肌をあらわにした峻険な山々が迫ってくると、モスタルの新市街に到着です。ドブロヴニクから約140km、約三時間半かかりました。
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 現地ガイドと落ち合い、彼女に誘導されて駐車場から世界遺産のモスタル旧市街まで徒歩で十分ほど移動します。実はその間、茫然として何回も立ち竦んでしまいました。壁一面に穿たれた弾痕、破壊された建物、内戦の傷跡がいたるところに残っています。その凄まじさには絶句するしかありません。なぜこのような凄惨な内戦が起きたのか。
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 それでは『ユーゴスラヴィア現代史』(柴宣弘 岩波新書445)、『「民族浄化」を裁く』(多谷千香子 岩波新書973)、スーパーニッポニカ(小学館)、ウィキペディアを参考にしながらボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争についてふれたいと思います。
 第二次世界大戦後のユーゴスラヴィアの状況については、クロアチアのところでまとめたのでそちらをご参照ください。1991年6月、クロアチアの独立宣言をきっかけにクロアチア紛争が勃発しましたが、それを契機にボスニア・ヘルツェゴヴィナの独立を求めるムスリム人・クロアチア人と、独立に反対するセルビア人との間で対立が深まりました。このクロアチア紛争にユーゴ連邦軍が介入したやり方は、ボスニア・ヘルツェゴヴィナのムスリム人から見れば、クロアチアの少数民族のセルビア人を支援し、クロアチアの当然の権利である民族自決権を否定し独立を阻止するもので、"大セルビア主義"を地で行くものに映りました。他方、ボスニアのセルビア人は、クロアチアの少数民族であるセルビア人の無残な姿に、ボスニアが独立に動き出した場合の自らの姿を重ね合わせます。こうして、クロアチア紛争の勃発は、ボスニア紛争を胎動させることになったのですね。そのような状況の中、セルビア人の反発を無視し、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ政府は1992年3月に独立を宣言、4月にはECが独立を承認しました。独立に不満を抱いていたセルビア人は、ECの独立承認をきっかけに大規模な軍事行動を開始し、ボスニア北部を中心に「スルプスカ共和国」の独立を宣言します。紛争の開始直後は、その数と装備の質において、ユーゴ政府の支援を受けるセルビア人勢力が優勢でした。そのため、セルビア人勢力は、最初の攻勢でボスニア・ヘルツェゴヴィナ全土の6割以上を制圧、サラエヴォを包囲します。クロアチア人勢力は、ヘルツェゴヴィナ西部の確保に専念、ムスリム人勢力は残るサラエヴォ、スレブレニツァ、ゴラジュデ、ジェパなど主要都市を含む3割弱を必死に防衛するという状況になります。国際社会は、セルビア人勢力を支援するユーゴへの制裁、サラエヴォへの人道支援などを行いますが、戦局の大勢を動かすまでには至らず、92年中はその状況が続きます。1993年春、ムスリム人勢力とクロアチア人勢力の間での対立が深まり、クロアチア人勢力は同年8月にヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国の樹立を宣言。セルビア人勢力と争う地域が少なくなっていたこともあり、クロアチア人勢力はセルビア人勢力と同盟を結びます。モスタルなどでは、ムスリム人勢力とクロアチア人勢力の間で激しい戦闘が開始され、これにより、ムスリム人勢力は一層の苦境に立たされました。94年に入ると、アメリカの圧力によりクロアチア人勢力が再びムスリム人勢力と同盟を結ぶことになります。この頃から大西洋条約機構(NATO)によるセルビア人勢力への空爆が実施され、秋ごろからは、アメリカによるムスリム人・クロアチア人勢力に対する軍事援助も開始されました。
 前述のようにボスニア・ヘルツェゴヴィナでは、ムスリム人、セルビア人、クロアチア人の三者が、住み分けができないほど混住し、長い歴史の過程で共存する知恵を生みだしてきました。しかし内戦の激化とともに、互いへの憎悪と敵愾心が爆発し凄惨な殺戮がくりかえされ、またそれぞれの民族集団の武装化が迅速に進みます。前者については、相互に類似しているがゆえの潜在的な近親憎悪の感情、第二次大戦期の「兄弟殺し」の忌まわしい記憶、民族主義に基礎を置く各勢力指導者の政治戦略とこれに追随するマスメディアのプロパガンダ、経済的不満から極右民族主義勢力のもとに結集した青年層の存在、混住地域という特殊な条件を充分に考慮することなく、民族自決や人権や「正義」を一義的に適用してユーゴの問題に介入したECやアメリカの対応のまずさといった点が指摘されています。後者については、ソ連の軍事侵攻に対する全人民防衛体制が敷かれ、有事に備えて通常兵器が各共和国や自治州に備えられていたためです。そしてこの三者がそれぞれの領域の拡大に奔走しますが、この三勢力による領土拡大のための戦闘がボスニア内戦の本質と考えていいでしょう。その際に、他民族を排除して民族の住み分けを実現するための手段を講じますが、これが「民族浄化」と称される政策ですね。この結果、ボスニア・ヘルツェゴヴィナだけで被災者・難民の数は総人口の約半数、250万人に達することになりました。
 そして95年、アメリカの主導により、ボスニア、クロアチア、新ユーゴスラヴィアの紛争3当事国の外相会議が主催され、デイトン和平合意が調印されました。この結果、20万人近い死者と250万人を超える難民、避難民を出したボスニア内戦は一応終息しました。しかし、事実上、3勢力の領域は分割されており、和平合意にもられた「単一国家」をいかにつくり上げ、経済再建を遂げるのか、難民の帰還問題をどのように解決するのかなど、課題が山積しています。

 ここで、ドブロヴニクで考えた二つの問いがまた脳裡をよぎります。戦後五十年もの間、旧ユーゴの人々は民族の違いを超えて、日常的には民族を意識しないで平和共存してきたのに、なぜ急に、互いに牙をむき出して血で血を洗う民族紛争を戦うにいたったのか。そして、民族紛争という宿痾をなくすにはどうすればよいのか。もうしばらく考えさせてください。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2011-10-28 06:19 | 海外 | Comments(0)

クロアチア編(44):モスタルへ(10.8)

 朝の六時ごろに目覚め、ベランダに出るとお天道様のご尊顔を拝むことができました。今日も好天のようです。本日はボスニア・ヘルツェゴヴィナのモスタルを見学した後、長駆プリトヴィッツェへと移動します。よって出発は午前八時、山ノ神の身づくろいが終わったら、はやめに朝食会場に行きましょう。昨日もいたとら猫が、ぶーたれた顔でだるそうに近付いてきます、ういやつじゃ。添乗員さんがいらしたので昨日の様子を伺うと、渋滞もなく予定通りスムーズにコトルから戻ってこられたそうです。それはよかった。朝食を食べ終え、散歩がてらホテルのビーチに寄ってみると、砂浜ではなく岩場にデッキ・チェアが並べられていました。水着をもってくればひと泳ぎできたのに、無念。部屋に戻り、セーフティ・ボックスから貴重品を取り出し、出すべきものを出し、集合時刻五分前にロビーへ。これでホテル・ネプチューンとはお別れ、定刻通りバスは出発しました。
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 まずは一昨日も立ち寄ったボスニア・ヘルツェゴヴィナの町ネウムへと向かいます。道端に魚雷艇らしき船が野外展示されていましたが、これも内戦が落した影なのでしょうか。さしがは世界有数の観光地、バスターミナルのあたりはツーリストでごった返しています。
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 そしてアドリア海に沿った道をバスは疾駆、今日は晴れているので青い空と紺碧の海がひときわ目を楽しませてくれます。
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 ボスニアへの国境検問所は簡単にスルー、一時間強でネウムに到着し、小休止です。今日はたくさんの観光バスがスーパーマーケットの駐車場に停められておりたいへんな混雑。みなさんこれからドブロヴニクに向かうのでしょうか。
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 そして出発、クロアチアへの国境検問所をスルーしてしばらく走り、広大な果樹園のあるあたりで、ネレトヴァ川に沿って内陸へと向かいます。そしてふたたびボスニア・ヘルツェゴヴィナへの国境です。今回は検査官がバスに乗り込んできて、パスポートのチェックを行いました。
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 さてそれではボスニア・ヘルツェゴヴィナについて、スーパーニッポニカ(小学館)に依拠しながら、かんたんに紹介しましょう。7世紀前半、この地方の北部と西部にクロアチア人、南部と東部にはセルビア人が定住し、さまざまな支配者が群雄割拠していましたが、12世紀後半にクリンが中世のボスニア国を統一します。東西の分岐点に位置するこの地方は、ローマ・カトリックと東方正教会双方の影響を受けることになりました。 14世紀前半、コトロマニチがヘルツェゴヴィナをも支配し、さらに領土を拡大していきます。しかしその後、内紛が続き、1463年にオスマン・トルコ帝国の領土に組み込まれ、以後約400年にわたりその支配下に置かれることになります。1875年、オスマン支配に対する農民反乱がおこり、この反乱が引き金となりロシア・トルコ戦争を誘発。1878年のベルリン条約により、オーストリアの行政管理下に置かれます。そして1908年に同国によって併合されたことが第一次世界大戦の導火線となるわけですね。同大戦後、「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国」に統一され、第二次大戦後は旧ユーゴスラビア社会主義連邦共和国を構成していた6共和国の一つとなります。その後の独立と紛争については章を改めて述べたいと思います。
 面積5万1129平方キロメートル、人口352万7000(1994推計)。首都はサライエボ。この国の特徴はなんといっても複雑な民族構成です。1991年、旧ユーゴスラヴィア時代の国勢調査によれば、ムスリム人(オスマン帝国統治下でイスラム教に改宗したクロアチア人やセルビア人。ムスリムとはイスラム教徒の意だが、しだいに民族概念となっていったため、1971年から民族として認められた。民族構成比40%)、セルビア人(32%)、クロアチア人(18%)、ほかにモンテネグロ人、アルバニア人、トルコ人、ユダヤ人、ロマ(かつてはジプシーとよばれていた)など多様な民族が住んでいますが、内戦による影響で250万人以上の難民がでるなど、人口や民族構成は著しく変化しているそうです。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2011-10-27 06:23 | 海外 | Comments(0)

言葉の花綵61

 尺八「首振り三年ころ八年」
 鰻屋「裂きは三年蒸し八年、焼きは一生」
 書道「横棒三年縦棒十年、点は一生」
 政治家「橋は三年、鉄道一生」 (unknown)

 外交官と女性の違いは何か。外交官が「はい」と言ったら「たぶん」の意味で、「たぶん」と言ったら「否」の意味で、「否」と言ったら外交官ではない。しかるに女性は「否」と言ったら「たぶん」で、「たぶん」と言ったら「はい」で、「はい」と言ったらもう女性ではない。(アインシュタイン)

 さくら咲く咲く 平和の空で 野暮な原爆 ためすバカ (西条八十 『大当り景気ぶし』)

 女ほど世にも尊きものはなし 釈迦も孔子もひょこひょこと産む (『お血脈』)

 ぼくはいつもこういうことになるんだ…トーストを落としても、バターを塗った方が床についてしまうんだ。(鎌田敏夫 『男女7人夏物語』)

 日々を過ごす/日々を過つ/二つは/一つことか/生きるとは/そのまま過ちであるかもしれない日々… (吉野弘 『過』)

 数字を思いついたら倍にしろ。(ディック・フランシス 『罰金』)

 妹の嫁入りでんな (値ェ(姉)と相談) (unknown)

 主張と収入の和は一定である。(渡辺和博 『金魂巻』)

 過去はなまけ者の幻だ
 末来は馬鹿者の希望だ (堀口大學 『現在教秘義』)

 子供叱るな、来た道じゃ
 老人笑うな、行く道じゃ (unknown)

 来て見れば聞くより低し富士の山 釈迦も孔子もかくやあるらん (村田清風)

 いい人と歩けば祭り
 悪い人と歩けば修業 (瞽女 小林ハル)

 才能も智恵も努力も業績も身持ちも忠誠も、すべてを引っくるめたところで、ただ可愛気があるという奴には叶わない。(谷沢永一)

 テイラー「お金がすべてじゃないわ」
 ディーン「持ってる人はそう言うんです」 (『ジャイアンツ』)

 欲深き人の心と降る雪は つもるにつけて道を忘るる (『夢金』)

 下人・下女にいたるまで、皆みな、ぬす人と心得べく候 (島井宗室)

 誰でも、生れた時から五つの年齢までの、あの可愛らしさで、たっぷり一生分の親孝行はすんでいるのさ。(岩崎老人 『塀の中の懲りない面々』)
by sabasaba13 | 2011-10-26 06:19 | 言葉の花綵 | Comments(0)

「エラスムスの勝利と悲劇」

 「エラスムスの勝利と悲劇」(シュテファン・ツヴァイク 内垣啓一訳 みすず書房)読了。去年の冬、スイスのグリンデルワルトへスキー旅行をした際、バーゼルに立ち寄り、大聖堂でエラスムスの墓銘碑を見てまいりました。渡辺一夫氏のエッセイを通して彼の業績はそれなりに知ってはいたつもりですが、お恥ずかしい話、その著作を読んだことがありません。前もって『痴愚神礼讃』と『平和の訴え』(ともに岩波文庫)を読んでおくべきだったなあと悔やんでも後の祭り。これは帰郷してからの宿題としました。その課題を果たす前に、ツヴァイクの『エラスムスの勝利と悲劇』(みすず書房)を読んだのですがこれが滅法面白い。『人類の星の時間』『権力とたたかう良心』とならぶ傑作ですね。まずはスーパーニッポニカ(小学館)から引用します。
 Desiderius Erasmus(1466―1536) オランダの人文学者。ロッテルダムに司祭の私生児として生まれる。…1488年にステインのアウグスティヌス派の修道院に入ったが、晩年には教皇に請願して僧籍を脱した。カンブレの司教の秘書を務め、その援助で95年パリに遊学、もっぱら古典ラテン文芸の研究に没頭した。自活をするためにイギリス貴族の子弟の個人教授をし、99年教え子といっしょにイギリスに渡り、トマス・モアやジョン・コレットらの人文学者と知り合った。…1506年にはイタリアからイギリスへ旅行中に着想して、ロンドンのトマス・モアのところで一気に書き上げたのが有名な戯文『愚神礼賛』(1511)である。それは「愚かさの女神」が世にいかに愚かなことが多いかを数え上げ、自慢話をするという形式をとり、哲学者・神学者の空虚な論議、聖職者の偽善などに対する鋭い風刺が語られている。
 1516年、キリスト教君主たちの間でキリスト教的平和の締結されることを切望した『キリスト教君主の教育』を公刊。またギリシア語『新約聖書』の最初の印刷校訂本を上梓したり、『ヒエロニムス著作集』(ともに1516)を公刊するなど、多彩な活動をなし、「人文学者の王」と仰がれるに至った。晩年は帰国後スイスのバーゼルに住み、そこで死去した。彼は教会の堕落を厳しく批判し、聖書の福音の精神への復帰を説いたので、その弟子からは多くの宗教改革者を出した。彼自身もルターの宗教改革に初めは同情的であったが、その熱狂的な行動には同調できず、『自由意志論』(1524)を書いて論争してからはルターと決定的に分裂した。ディルタイによって「16世紀のボルテール」とよばれたように、コスモポリティックな精神の持ち主で、近代自由主義の先駆者であるばかりでなく、ラブレーをはじめフランス文芸思潮に大きな影響を及ぼした。
 「人文学者の王」と敬慕されたゆえ、エラスムスは宗教改革の荒波に巻き込まれてしまいます。教皇派もルター派もともにエラスムスを味方につけようとしますが、寛容・理性・和解・協調・自由・独立を尊重する彼はいずれの党派にも与せず、彼の永遠の節度である公正だけに仕えようとします。"むだとは知りながら、彼は汎人間的なもの、共通の文化財をこの不和から救うために、仲介者としてその中間に、したがって最も危険な場所に身を置くのである。彼は素手で火と水を混ぜ、一方の狂信者たちを他方の狂信者たちと宥和させようと試みる" (p.18) ただ一人、個々の派閥よりも人類全体に忠実であり続けた彼は、両派から攻め立てられ、孤独に一人きりで死んでしまいます。しかしこの小さな微かに燃える燈心は、ラブレー、モンテーニュ、スピノザ、レッシング、ヴォルテール、さらにカント、トルストイ、ガンディー、ロマン・ロランへと受け継がれていくことになります。華奢な鵞ペンに守られただけの、あくまでも協調和解を旨とする知性の人エラスムス。彼が掲げた炬火が、今だからこそ一人でも多くの人間の手に渡りますように願わずはいられません。
by sabasaba13 | 2011-10-25 06:13 | | Comments(0)

シプリアン・カツァリス頌

c0051620_6173534.jpg 先日、浜離宮朝日ホールで、シプリアン・カツァリスのピアノ・リサイタルを、山ノ神と二人で聴いてまいりました。動機は四つ、第一に以前に某国営御用放送局で放映された彼のレッスンが印象深かったこと、第二に私が高校時代に教わった日本史の先生に髪型と雰囲気が似ていること、第三に築地市場の「磯野屋」で寿司を食べたかったこと、第四に東日本大震災・福島原発被災者の為のチャリティーコンサートであること。一番大きい動機は第四ですね、彼の「放射能汚染も地震も、怖くないので、いつでも被災者の方達を励ましに、演奏会に行く準備はできている」というメッセージに心打たれました。山ノ神は半畳を入れて曰く、「フランス人だから放射能に対する免疫があるのかしら」 うーんそれはないと思いますが、ま、それはさておき、その心意気に応えなければ。精進潔斎して当日の演奏会に臨みました。
 都営地下鉄十二号線(あの御仁が命名した"大江戸線"という名称は使わないことにしています)築地市場駅で待ち合わせ、小雨のそぼ降るなか、市場内にある「磯野屋」に入り、上にぎりを注文。店主の小気味良い手さばきから生み出される中トロ、アジ、甘エビ、イクラ、ウニ、ホタテ、鉄火巻よ、遠慮はいらないさあ僕の胃袋に飛び込んでおいで。もう舌鼓はfffで鳴り響き続けます。山ノ神はお土産に太巻きを注文。そうそう、旦那に聞きたいことがあったんだ。「豊洲への築地移転の件はどうなりました?」 彼は、かすかに諦観と瞋恚を感じさせながらも、無表情に「三年後に移転ですね」と答えてくれました。われら二人、多くの人が反対しているのに何故と訝ると、「金目当てでしょう」 虎視眈々と狙っている大企業に築地市場の跡地を提供して、巨額の利益をあげようという腹ですかね。やれやれ、東京都民はそういうお方を都知事として四選もさせたわけだ。教育や福祉の予算を削って、またぞろオリンピックの顔と顔、それととんとととんとと騒いでいるようですが、いいかげんにしてほしいものです。せっかく美味しいお寿司を食べたのに、暗澹たる気分で店を出るはめになりました。
 さてホールに入ると、ほとんど満席。そこはかとない期待感が満ち溢れています。曲目はすべてリスト、参考までに挙げておきますと、リストへのオマージュ即興、葬送前奏曲と葬送行進曲、暗い雲、ノクターン「眠られぬ夜、問いと答え」、詩的で宗教的な調べより「孤独の中の神の祝福」、ハンガリー狂詩曲第3・5・7番、二つのチャールダーシュより「チャールダーシュ・オプスティネ」(カツァリス編)。休憩をはさんで、ショパン=リスト/六つのポーランドの歌、『三つの夜想曲』より「愛の夢」、ピアノ協奏曲第2番(ソロバージョン・カツァリス編)。なんと…私の知っているのは「愛の夢」だけという体たらくです、情けない。でもこれだけリストをまとめて聴くのは初体験、楽しみです。ピアノはヤマハ、譜面台がないということは、すべて暗譜されているのですね。
 颯爽と登場したカツァリス氏、まずはリストへのオマージュを弾きはじめましたが…これがほんとうに即興演奏!? 凄い… 「アランフェス協奏曲」「アルハンブラの思い出」「眠りの森の美女」のモチーフを自由自在にアレンジしながら淀みなく流れゆく美しい音楽。ハンガリー出身のリストにちなんで、国民楽派の曲を選んだのでしょうか。そしてここからはリスト・リスト・リスト。いずれも劣らぬ難曲を、いとも楽々と、感情・表情豊かに、桁外れのダイナミクスで弾きこなすその技巧と音楽性には、文字通り、ほんとうに文字通り圧倒されました。"天衣無縫"という表現すら生ぬるく感じます。とくに最弱音の美しさと柔らかさには、息を呑みました。カルロス・クライバーの表現を借りれば、女性の産毛に触れた瞬間のような、身も心もとろけてしまう音です。あっという間に一時間が過ぎ、休憩。興奮さめやらぬなか、プログラムは後半へ。「愛の夢」で心和むと、怒涛のフィナーレ、カツァリス自身がピアノのために編曲したピアノ協奏曲第2番です。ピアノでこんな音が出せるのか、ピアノでこんなフレーズが弾けるのか、ピアノでこんなニュアンスが表現できるのか、と驚きの連続。鬼神の如く天馬の如く奔流の如く一気に弾き終えると、腰が抜けたような様子で山ノ神が「爆裂…」と呟きました。
 万雷の拍手を受けて、アンコール。譜面を手にステージに現れた氏は、Carlo Balzarettiから二日前に送られてきた「2011年3月11日」という曲だと英語で語り、「犠牲者(victim)のために」と呟くと、静謐な哀悼の曲を奏でました。ふたたび大きな拍手、そして次のアンコールはショパンの葬送行進曲。深い悲しみと万感の思いを込めた、見事な演奏でした。技巧のための技巧ではなく、より全き表現の為の技巧であることがよくわかります。最後の響きが溶け去った後も、十数秒ほど微動だにしません…まるで黙祷のように。そして静かに立ち上がると合掌をして、袖へと去っていきました。ステージの明かりが落ち、演奏会は終了。この間、私たち聴衆も、拍手もせず、彼の思いを共有して黙祷を捧げました。ちょっと意外だったのが、彼が合掌をした時に、何人かの小さな笑いが起ったことです。たぶん、受けをねらったパフォーマンスととらえたのでしょうか。カツァリス氏は、関係者から「日本における死者を悼む仕草」を教えてもらい、それを行ったのだと思います。合掌を「死者を悼む仕草」と認識できない方がおられたのですね。責める気はありませんが、今の私たちに、心の底から死者を哀悼するための、みんなが共有できる仕草があるのかと考えると、ちょっと心許ない気になります。
 素晴らしい二時間でした。また彼の演奏を聴きに、できればここ浜離宮朝日ホールに足を運びたいと思います。

 追記その一。山ノ神が、お土産として巻いてもらった太巻きを帰宅後すぐに食しましたが、その美味なること、感服仕りました。今日は、ピアノと太巻きについての、これまで持っていた既成観念が木っ端微塵に粉砕された希有なる日です。
 追記その二。築地移転問題について、インターネットで調べてみたところ、植草一秀氏のブログに下記のような記述がありました。
 また、築地から豊洲への移転に伴い、流通の構造が激変することが予想されている。多数の中小仲卸が淘汰されて、少数の大手卸業者が新たな流通構造を支配することが見込まれている。築地市場で活動する大手上場卸企業の大株主に米国大手金融資本のゴールドマン・サックスが登場しており、結局、築地市場の豊洲への移転は、これまでの水産物流通を外国資本に支配させるための方策との側面も見え隠れしている。
 真偽のほどについて判断する能力はないのですが、いちおう参考までに。
by sabasaba13 | 2011-10-24 06:18 | 音楽 | Comments(0)

クロアチア編(43):ドブロヴニク(10.8)

 さてそれでは再び旧市街へ戻り、路地を彷徨うことにしましょう。オノフリオの噴水のあたりで右に曲がり、足の向くまま気の向くまま路地に分け入ってみました。幾重にもひしめきあいそそりたつ石づくりの家、その間から垣間見えるオレンジ色の屋根やスルジ山、石の壁の間を縫うように貫く石畳の路地、うーんどこを切り取っても絵になりますね。
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 抽象絵画のような洗濯物、暇そうなも見逃せません。
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 上の方から何か声をかけられたので見上げると、二階の窓から身を乗り出したおかみさんが、「どいてどいて」というような仕草をしています。何が起こるのかと後ずさりすると、洗濯に使った水を豪快にぶちまけました。ばしゃ さてさて気がつくとルジャ広場にたどりつきました。スポンザ宮殿に立ち寄って、中庭のアーチに刻んであるラテン語の碑文を撮影。「商品の荷を量る時には、神に量られていると思わなければならない」
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 さあそれでは夕食にしましょう。シーフードも悪くありませんが、イタリアの影響でピザが美味しいに違いないと意見が一致。さきほど見かけた、路地に椅子とテーブルを並べたレストランに行き、さっそくピザ、サラダ、ビールを注文。そして焼き立てのピザにかぶりついたのですが…うーん、生地もチーズも今一つ。これなら小田原の「葉椰子」の方がはるかにおいしいぞ、と何気なく広報活動に勤しむ私。どうも今回の旅では、なかなか美味しい一品にめぐりあえません。明日以降も思いやられるな、やれやれ。すると足元にやってきた子猫が、冷ややかな眼でこちらを仰ぎ見、「過ぎ去った時に心わずらわすな、未だ来ぬ日に思いをめぐらすな、今この瞬間から歓喜を奪え (ルバイヤ-ト)」と呟いたような気がしましたが、もちろん気のせいです。
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 さて空は濃い群青色となり、夕闇が街を包みはじめています。夜の徘徊と洒落込みますか。シックな街灯のつくりだす陰翳が素敵ですね、昼とは違った街の表情を楽しみながらあてもなく散策。夜になっても街はたいへんな賑わいです。
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 ルジャ広場では大聖堂に向かう人々の行列に遭遇しました。そうか今日は聖母被昇天祭だったんだ、と言ってもどういうお祭りなのかはよくわかりませんが、おそらくマリア様の往生をお祝いするものなのでしょう。さきほどお目にかかった、両手・両膝がてかてかと金色に光る僧服を着た男性の銅像のところで山ノ神が立ち止まり、彼を凝視しはじめました。彼女の指差す首のあたりを見ると、貫通した穴があります。これも弾痕なのでしょうか。
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 そしてプラツァ通りをそぞろ歩きしながらピレ門を抜け、すぐ近くにあるバス停に到着。当該の路線バスはすぐにやってきたので乗りこみ、二十分ほどで終着の停留所に着きました。そしてホテルの部屋に戻り、シャワーを浴び、夜の海を眺めながら一献傾けました。

 本日の十一枚です。
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by sabasaba13 | 2011-10-23 07:39 | 海外 | Comments(0)

クロアチア編(42):ドブロヴニク(10.8)

 そして船はオールド・ポートに到着、なかなか楽しいクルーズでした。さてこれだけ見事な快晴に恵まれたのですから、もう一度城壁を歩いて写真を撮りたいと思うのが人情。おずおずと山ノ神に提案すると、「よろしおま」という神託がくだされました。城壁へのぼるチケット売り場に着くと、私の心の中に駐在する悪魔が囁きました。「さきほどのチケットの半券を見せれば、ロハで入れるかもしれないぜ」 駄目で元々、山ノ神にお願いして交渉してもらいましたが、あえなく却下。もう一度、チケットを購入しましたが、彼女曰く「後ろで待っていた観光客が"入れるわけないだろ"と小声で言ってた。あたし…へこんだ」 申し訳ない! 愛する女房にこんな赤っ恥をかかせるなんて万死に値します。四回ほど謝りましたが、ディスプレイを借りてもう一度謝罪します。ごめんなさい。
 というすったもんだはあったのですが、やはりもう一度のぼって正解でした。日の光を浴びて、屋根瓦のオレンジや海の青が、それはそれは鮮やかに燃え立つように輝いています。ふたたびミンチェタ要塞の天辺にのぼって写真を撮りまくりました。
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 半周ほどしたあたりで下へ降り、ピレ門をくぐりぬけて、ロヴリィエナッツ要塞へと行きましょう。途中にあった穏やかな入り江でカヌー教室が開かれていましたが、みなさん楽しそうでした。そして石段をしばらくのぼると要塞の入口に到着です。あった! その上部にガイドブックに載っていた名文句がラテン語で刻まれていました。「どんな黄金との引き換えであっても、自由を売り渡してはならない」 しかと銘肝しましょう。
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 入場は有料ですが、城壁への入場券を見せれば無料で入れます。さっそく最上階にのぼると、海に突き出たドブロヴニクを一望することができました。このアングルからの眺めも捨てがたいですね。ごつごつとした岩場の上に築かれた城壁と、その中に建ち並ぶオレンジ色の甍の波が手に取るように眺望できます。またスルジ山やその斜面に連なる家々が眺められるのも、このビュー・スポットの特色。しばし時を忘れて、ドブロヴニク旧市街、スルジ山、深い深い青色をした空と海、カヌーや泳ぐ人、行き交う船とその航跡を、飽きもせず眺める二人。
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 本日の六枚です。
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by sabasaba13 | 2011-10-22 08:02 | 海外 | Comments(0)