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隠岐編(22):知夫里島へ(10.9)

 ふるさと館を退出し、別府港まで歩いて五分ほどです。本当は中ノ島に寄って、後鳥羽上皇の行在所跡や火葬塚のある隠岐神社を見学したかったのですが、時間の都合上カットしました。後鳥羽上皇フリーク(いるのかな、いそうだな)の方はお見逃しなく。そうそう、菱浦港近くにの八雲広場には、ラフカディオ・ハーン夫妻の銅像があるそうです。彼は隠岐をこよなく愛し、穏やかな菱浦港の入江を「鏡が浦」と命名したとのこと。いずれも再訪を期しましょう。気がつくと、郵便配達の方が乗ったバイクや、酒屋のトラックが埠頭に集まってきました。そしてコンパクトで愛くるしいフェリー「どうぜん」が接岸、島の方々にとって重要な交通手段なのですね。日々の御勤め、ご苦労様です。車両とともに船に乗り込み、さっそくデッキに出て眺望のよい場所に陣取りました。さあ出航です、穏やかな海面を、一路、知夫里島めざして船は滑るように進んでいきます。
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 振り返れば西ノ島、左手には中ノ島、そして前方を見ると知夫里島の島影がじょじょに大きくなってきます。きれいな海と青い空、刻々と相貌を変える島影を眺めていると、時はあっという間に過ぎ去ってしまいました。三十分ほどのプチ・クルージングで知夫里島の来居(くりい)港に到着。現在の時刻は16:06、これから日没までタクシーで島内観光をすることにしましょう。港のターミナルビル…と言うよりはターミナル小屋に入ると、「密航船・密航者の発見にご協力を! 「おかしい」と思ったら110番 隠岐島に近づく外国船 保冷車型レンタカーには注意」という、島ならではの看板がありました。"保冷車型レンタカー"というのが何かいわくがありそうですね。密漁した獲物を運ぶためなのでしょうか。
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 幸い建物の中には観光案内所がありました。さっそく係の方にタクシーの手配をお願いし、連絡をとってもらうと、今お客さんを乗せて走行中とのこと。「すみませんね、島にはタクシーが一台しかないもので」 うーむ、これは想定外であった。しようがないので、宿で待機することにして送迎の車を呼んでもらいました。同じフェリーで来島した父と息子の親子連れも同乗、同じ宿に泊まるとのことです。車に乗り込み、いろいろと話をしているうちに、一緒にタクシー観光をすることにあいなりました。やりい、タクシー代が1/3になったぞ。十分ほどで今宵の塒、「ホテル知夫の里」に到着、こざっぱりとした瀟洒な宿です。チェックインをして部屋に入りベランダに出ると、きれいな海を眺望できます。旅装を解いていると、思いの外早くタクシーが到着してくれました。さっそくさきほどの親子と乗り込み、さあ知夫里島観光に出発です。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2011-12-31 08:32 | 山陰 | Comments(0)

隠岐編(21):黒木御所(10.9)

 十分ほどで別府港の東、湾に突き出た丘のふもとに到着。運転手さんに丁重にお礼を言い、車から降りるとそこが元弘の変によって隠岐に配流された後醍醐天皇が約一年間住んだと言われる伝承の地、黒木御所です。なお既述のように、島後にも後醍醐天皇行在所跡(国分寺跡)があり、どちらが本物かは決着がついていないようです。まあ肉じゃがの本家をめぐる舞鶴の争いみたいなものですか。「建武中興発祥之地」という石碑と忠魂碑の脇にある石段をのぼり鬱蒼とした木立の奥へ分け入ると、「黒木御所遺址」という碑がありました。その両脇には皇太子・皇太子妃が植樹した記念樹。やはり南朝が正統な皇統であるという認識に立っているのでしょうか、今の皇室は北朝の末裔なのにね。
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 結局、南朝の血統は二度と皇位につけなかったのですから、"南北朝合体"という物言いはやめたほうがいいと思います。さてこの後醍醐天皇、さまざまな毀誉褒貶がありますが、マルク・ブロックの言を借りれば、「ロベスピエールをたたえる人も、にくむ人も、後生だからお願いだ。ロベスピエールとはなにものであったのか、それだけを言ってくれたまえ」 そう、彼が何をしたのか、何をしようとしたのか、何をしなかったのか、そして何者なのか、それが知りたいのです。幸い、気鋭の中世史家本郷和人氏による「天皇はなぜ生き残ったか」(新潮新書312)という好著がありますので、紹介させていただきたいと思います。氏によると、武士勢力との連携を拒否する後醍醐天皇の頑なな姿勢が、天皇親政を画餅へとみちびいたということです。現実の問題としてそれは不可能であったし、股肱とすべき有能な廷臣たちも保身を考えて天皇とは距離を取り、彼は孤立することになります。鎌倉幕府の打倒に成功したのは、あくまでも幕府自身の自壊によるもので、後醍醐はそのきっかけをつくったにすぎない。また三千ほどの兵力しか保てなかった山中の南朝政権が六十年にわたって生きながらえたのは、北朝の存在を警戒した室町政権がそれを相対化するために保存しておいたため、つまり室町幕府の都合によるものである。世に流布するイメージや先入観にまどわされず、史実に立脚した緻密な考察と、大胆な仮説を打ち出す勇気、無理を承知で見習いたいと思います。
 なおこちらには後醍醐天皇を祀る黒木神社が併設されていますが、その狛犬の顔面がやはり抉り取られていました。碧風館という資料館もありましたが、時間もないので見学はスキップ、そろそろ別府港へと戻りましょう。
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 ここから港まで歩いて数分ですが、途中に「廃車・廃船引き取ります」という看板がありました。島にいるのだなあ、としみじみと実感。西ノ島ふるさと館には、「離島で初、全国で47点目! 「和同開珎銀銭」出土」という看板がありました。
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 そして「山本幡男遺品展」という大きな看板、ああさっきの方だ。少々時間もあるし、後学のために拝見していきますか。
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 二階には西ノ島でつかわれていた漁具が展示されており、一室が彼に関する展示室となっています。あまり時間もないので、彼の履歴や俘虜郵便をざっと見ていると、やはり瀬島龍三の名が出てきました。収容所内での日本語壁新聞づくりを担当する文化部長に山本幡男を推薦したのが彼だったそうです。
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by sabasaba13 | 2011-12-30 14:18 | 山陰 | Comments(0)

「石子順造的世界」

c0051620_714677.jpg 通勤のため、某私鉄の某駅を利用しておりますが、展覧会のポスターが何枚も並べて貼ってあり重宝しております。でも「ゴヤゴヤゴヤゴヤゴヤゴヤゴヤゴヤゴヤゴヤ」にはさすがにぶっ魂消ましたが。
 そんなある日、新しく貼ってあった巨大なポスターを見て息が止まりました。つげ義春の「ねじ式」だ… リアルタイムでは読みませんでしたが、たしか小学館の漫画文庫で読み、そのシュール・レアリスティックな表現に驚愕した記憶があります。しかしなぜまたこの漫画がポスターに? 近づいて解説を見ると、石子順造という美術評論家に関する展覧会でした。ホームページで調べていると、開催されるのは府中市立美術館。1960年代から1970年代にかけて活躍した、"いわゆる「美術」を超えてマンガや演劇、芸能、果ては誰も気にとめない「ガラクタ」の類いにまで論の対象を広げた評論家"だそうです。美術評論家を美術館が取り上げるのは異例ですね。先日、「1968年」(小熊英二 新曜社)を読み終えてこの時代に興味がわいたし、「ねじ式」の原画がすべて展示されるというし、府中の森公園の紅葉も見られるし、さっそく行ってみることにしました。
 12月好日、京王線東府中駅で下車し十分ほど歩くと府中の森公園に到着です。酷暑のためか、紅葉はかんばしくありません。ほとんどのカエデは葉が焼けて丸まったり、色づかずに落ちたりしていました。二年前に来た時は綺麗だったのですが。でも武蔵野の面影を残す雑木林はいい風情ですね。散り落ち葉を踏みしめてしばし散策を楽しみました。そして公園内にある府中市立美術館に到着。係りの方から、入口と第三展示室は撮影可能だということなので、デジタル・カメラを持ち込みました。まるで新規開店したパチンコ屋に飾られるような安っぽい花輪が、入口の両側でお出迎え。さっそく写真撮影。第一展示室は、石子が論じた作家たちを紹介し、また彼が企画に関わった「トリックス・アンド・ヴィジョン展」(1968)を最新の調査をもとに一部再現してあります。うーん、智に働いた作品がほとんどで、がつんと迫ってくる衝撃は関しません。ただ、これまでの「美術」ではいけない、新しい美術を創造しなければ、という強い思いは伝わってきました。というわけでこちらは早々に退散。そして第二展示室はマンガに関する展示です。石子曰く「マンガを表現としてアクチュアルに成立せしめているのは、あくまで価値的な芸術としての評価などとは無縁な、生活実感そのものであるだろう」(カタログp.85) なんといってもお目当ては「ねじ式」の原画。照明を落とした薄暗い部屋に、一話分すべての原画が展示してありました。間近でじっくりと見ると、作者の息遣いが聞こえてくるようです。意外と繊細な筆触が多用されているのもよくわかります。そして白昼夢のような数々の光景、現実離れした登場人物、あらためてその魅力を再確認できました。それにしても作者はいったい何を言わんとしていたのだろう? 林静一や横尾忠則の絵もお見逃しなく。
 第三展示室は「キッチュ 匿名表現のかなたへ」。キッチュとは「まがいもの」「通俗物」などと訳されますが、石子は「近代」が切り落としてきた民衆の表現ととらえていたようです。石子曰く「ぼくはキッチュといわれる諸現象の底に隠されているはずの、民衆の生活様式を発見したい。きっと、それはある。ないなら、歴史は、民衆にとってついに季節の交代でしかないだろうから」(カタログp.185) マッチ箱、絵葉書、旅行土産のペナント、造花、銭湯の背景画、安っぽくけばけばしいけれども人目を引き意表をつく雑多なコレクションが目白押し。「美術」界の人々が歯牙にも懸けないこうしたモノたちに、石子は閉塞状況からの突破口を見出そうとしたのかもしれません。それにしても何と饒舌なモノたちよ、部屋中に彼ら/彼女らの「わたしを見て見て見て見て見て」という囁きが羽音のように満ち溢れています。なおこの部屋のみ、写真撮影が可能です。
 さて、1960~70年代の(マンガを含めた「美術」の動向を語るときには、どうしても時代状況の分析が欠かせません。そう、全共闘、学園紛争、連合赤軍、"若者の叛乱"の時代です。前述の「1968年」(小熊英二 新曜社)のなかに、下記のような指摘があります。
 …「あの時代」の若者たちの叛乱は、きわめて単純化して表現すれば、高度成長にたいする集団摩擦現象であり表現行為であった。若者たちは、あたかも炭鉱のカナリアのごとく、大人たちより敏感に高度成長の毒性を感じとり、鋭く鳴き叫んだともいえる。(下p.823)

 すなわち「あの時代」の叛乱は、高度成長にたいする集団摩擦反応であったと同時に、こうもいえるであろう。それは、日本が発展途上国から先進国に、「近代」から「現代」に脱皮する過程において必要とした通過儀礼であり、高度資本主義社会への適応過程であったのだ、と。(下p.838)
 さすがは小熊氏、鋭い分析です。だとすると、前衛美術も、マンガも、この高度成長の毒性にたいする摩擦反応や叫びであったのではないか。つげ義春の「ねじ式」における斬新な表現もそう考えると納得できます。作品に描かれた蒸気機関車や漁村は、「現代」に押しつぶされようとしている「近代」を象徴しているから、どことなく歪んだ表現になっているのではないか。素人考えですが、そうした視点から、この時代の「美術」シーンを分析してみるのも面白いかもしれません。
 なお蛇足ですが、小熊氏は最後に次のように述べられています。"「あの時代」の叛乱を、懐古的英雄譚として描くなら現代的意義はない。現代の私たちが直面している現代的不幸に、最初に集団的に直面した若者たちの叛乱とその失敗から、学ぶべきことを学ぶこと。そして、彼らの叛乱が現代にまで遺した影響を把握し、現代の私たちの位置を照射すること。(下p.982)" 気になるのは、最近、あの時代に流行したマンガの、リメイク・実写版が雨後の筍のように制作されていることです。「妖怪人間ベム」「怪物くん」「ワイルド7」等々。もはやあの時代は懐古の対象でもなく、反省の材料でもなく、金儲けのために利用する素材に満ちた時代ととらえられているのかもしれません。同時代の最後のあたりに青春を送った私としては、ちょっと薄気味悪い話ですけでね。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2011-12-23 07:16 | 美術 | Comments(0)

ベン・シャーン展

 通勤のため、某私鉄の某駅を利用しておりますが、展覧会のポスターが何枚も並べて貼ってあり重宝しております。でも「ゴヤゴヤゴヤゴヤゴヤゴヤゴヤゴヤゴヤゴヤ」にはさすがにぶっ魂消ましたが。
 そんなある日、新しく貼ってあったポスターを見て体が凍りつきました。ベン・シャーンだ… その線、そのタッチ、見紛うはずがありません。三十年ほど前ですか、今はなき池袋の西武美術館で実物を拝見したきりご無沙汰しております。幸い、「ここが家だ」(絵ベン・シャーン 構成・文アーサー・ビナード 集英社)という素晴らしい絵本で、「ラッキードラゴン・シリーズ」を見ることができるのですが、やはり実物を見たいもの。よし行こう、と周囲の視線を気にしながらホームで小さなガッツポーズをつくり、美術館を確認すると…神奈川県立近代美術館葉山館。家に帰りインターネットで調べたところJR逗子駅からバスで二十分か、遠いなあ。でも行くぞ、受領は倒るるところに土をもつかめ、せっかく葉山まで行くのですから途中で三渓園に寄り道をしましょう。ちょうど紅葉が見ごろのようです。そして帰宅する前に、未踏の園、椿山荘にも立ち寄ることにしました。
 師走のある天気の良い日曜日、三渓園は大混雑が予想されるので、午前9時の開門と同時に入園できるよう早めに出発しました。湘南新宿ラインに乗って横浜で根岸線に乗り換え、根岸駅に到着したのが午前八時半。そしてバスに乗って本牧で下車、ここから七分ほど桜道を歩けば正門に到着です。詳細については後日掲載するつもりですが、春草廬(しゅんそうろ)という茶室のあたりがいい風情でした。
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 そしてバスで根岸駅に戻り、大船で横須賀線に乗り換えて逗子駅に到着。ここからバスに乗ること二十分弱で神奈川県立近代美術館(葉山)に着きました。海沿いに建つ白いモダンな建物ですね、ん? テラスのあたりで人だかりがしています。据え膳…もといっ、"何でも見てやろう"という小田実的精神で近づいてみると、おおっ、そこには海越しに富嶽がくっきりと浮かび上がっていました。"あらひざらした浴衣のやうな富士"と言いたいところですが、やはり綺麗なものは綺麗です。写真を撮りまくってしまいました。
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 そして入館、まずはスーパーニッポニカ(小学館)から、彼の横顔について引用します。
Ben Shahn (1898-1969)
20世紀アメリカが生んだ典型的な社会派画家。絵画とレタリングを組み合わせた新しいイメージをつくった。リトアニアのコブノに生まれ、1906年ニューヨークに移住。13年からリトグラフの徒弟修業についたほか、ニューヨーク大学などで学ぶ。32年、サッコ・バンゼッティ事件とトム・ムーニー事件を扱った連作を発表して一躍注目される。30年代から40年代にかけて、画家、デザイナー、写真家として活動し、壁画、ポスターなどを制作。第二次世界大戦後も精力的な制作が続き、国際展、個展などの発表が多くなり、そのかたわらハーバード大学などで連続講演を行っている。60年(昭和35)には来日して第五福竜丸事件による連作を描いたことは知られている。
 彼の業績は大別して二つあり、一つは社会意識を絵画的造形に引き付けた方法論を開発したことであり、もう一つは文字を絵画表現の有力な手段として駆使したことにある。
c0051620_6165475.jpg それでは胸をときめかせながら展示室へ。それにしてもなんて魅力的な線なのだろう。ごつごつ、とげとげ、びしびしと、まるで彼の気持ちがそのまま表れているような、武骨だけれども優しい、でも断固とした線です。アーサー・ビナード氏によると、シャーンは晩年にこう振り返っているそうです。"石版工として、石の抵抗に負けず、迷いもブレもなく線を彫り込むことを覚えた。そののち美術学校で勉強して、さまざまな画法を試して、たくさんの絵を描いたが、強い線を手放そうとはしなかった。線の力が、もはや自分の気質の一部になり、毛筆で描くときでも、私は石に刻む線を描いている"(前掲書p.51) 納得です。そして彼が描く市井の人々の魅力的なこと。それまでドレフュス事件や、イタリア系移民で無政府主義者だったサッコとヴァンゼッティの冤罪事件、サンフランシスコで起こった労働者の冤罪事件であるトム・ムーニー事件など社会的な不正を描いてきた彼が、こうした普通の人々を描くようになったのにはあるきっかけがあったそうです。1935年から38年にかけて、農業安定局(FSA)が行ったプロジェクトに写真家として参加したことで、シャーンは大きく変わります。時は大恐慌の直後、フランクリン・ローズヴェルト大統領は農村復興を企図し、議会と世論を説得する材料として窮乏する農民の写真を収集させたのですね。アメリカ南部・中西部を旅行しながら6000枚にもおよぶ農民たちの写真を撮影していくうちに、彼はこう考えるようになります。"当時私はアメリカの国内のいたるところを歩きまわり、あらゆる種類の宗教や気質をもった多くの民衆を知るようになった。こういう信仰や気質を彼らはその生活の運命に超越し、無関係にもち続けているのだった。社会的な『理論』はかかる経験の前に崩れ去った"(カタログp.57) 以後、彼は政治や具体的な事件ではなく、"人間"を描くようになります。農民、移民、貧民といった社会的にくくられた人間ではなく、どこにでもいる、あなたでもあり私でもありえるような"人間"を。寝ころぶ子どもたち、写真屋、抱擁する二人、固く握りしめた拳と腕に顔を埋め絶望する男。その思いをシャーンはこう語っています。
 人間や人間を取り巻く環境について、芸術が知り、形にするべきものはまだ多くある。こうした努力の積み重ねがニューマニズムを復活させるだろう。完全な機械化と水素爆弾のこの時代に、私自身、この目標は最も重要だと感じている。(カタログp.195)
 その思いが見事に結実した傑作が、第五福竜丸事件をテーマとした『ラッキードラゴン・シリーズ』だと思います。展示されていたのは、《病院で》《出航》《彼らの道具》《サンゴ礁の怪物》《降下物》《死んだ彼》《写真家》《船主》《ペンを持つ手》《なぜ?》《ラッキードラゴン》。竜として寓意された放射能が、普通の人々の日常に襲いかかり死に至らしめるまでを、インク、墨、テンペラ、グワッシュなど、さまざまな技法を駆使して描いた連作です。彼の言に耳を傾けましょう。
 サッコとヴァンゼッティの一連の作品を描いたとき、またムーニーの連作のときも、私は新聞の写真や切抜きを見てとても丁寧に細部描写をしました。しかし日本の福竜丸の絵では、もはやそうした資料による裏づけの必要を感じませんでした。乗船していた無線技師―この人は放射能中毒によって亡くなりましたが―は、あなたや私のようなふつうの人でした。私はもう、その技師自身を描く必要などなく、私たちを描けばよいのだと思いました。無線技師の妻を慰めている人は、苦悶のうちに在る女を慰めるひとりの男です。子供と遊んでいる無線技師は、自分の子と遊ぶひとりの父親です。そしてこの事実に最初に気づいた日本人のノーベル賞物理学者は、ひとりの物理学者です。他のどの科学者でもありえました。私はもはやその科学者を正確に描写する必要を感じませんでした。これら6枚の絵すべてに忍び寄る獣の脅威は、今も私たちに付きまとっているのです。(カタログp.61)
 《ラッキードラゴン》という絵には、目が釘付けになりました。病院のベッドに座る、極端にデフォルメされた身体の男。人間のものとは思えない泥のような肌、シーツを固く握り締める左手。怒り、悲しみ、寂しさ、あきらめ、どう表現していいかわからない表情、しかし顔の造作に特徴はなく、誰であるかは特定できません。そして彼のすぐ横でうごめく一匹の小さな竜、心なしか嬉々とはしゃいでいるように見えます。右手が持つカードには、英語で「私は久保山愛吉、生年月日は…」と彼のプロフィールが書いてあります。そう、このカードの名を書き換えれば彼はベン・シャーンであり、私であり、あなたでもあるのです。そして《ペンを持つ手》は、ペンを握るたくましい手のクローズ・アップ。いろいろな人の思いに共感し、絵として昇華し、世界中の人々に共有してもらう、それが私の仕事だと力強く宣言しているようです。
 そしてこの作品が所蔵されているのは…福島県立美術館。息を呑み、立ちすくんでしまいました。今度はわれわれの手で、あの禍々しい竜たちを呼び起こしてしまった場所です。「過ちは二度とくりかえしません」という誓いも、「私を最後にしてほしい」という久保山さんの願いもふみにじってきた日本の国家と社会。原発事故によって汚染された大地と水と空と人間。ほとぼりがさめるのを待って、原発利権にまた群がろうとする電力会社や関連企業・官僚・政治家・学者・メディア。シャーンの志を引き継いで、「ラッキーアイランド・シリーズ」をさまざまな形でつくり続け、今度こそこうした過ちを二度とくりかえさないよう記憶に刻みつけ、そしてこの経験を全世界の人々に共有してもらうこと、それが私たちの責務だと思います。最後に彼の言葉を引用して、ペンを置きます。
 「社会的活動」についてのあなたの質問にお答えするにあたって、まず、自分が軍縮の熱烈な支持者であることを表明したいと思います。そして、いかなる国によるにせよ、あらゆる原子兵器の実験に断固として反対です。この感情は、地球が、結局はそのうえに住むあらゆる人々のものである、ということなのです。したがって、どんな人間も、またどんな人間のグループも、地球のどの部分にせよ、それを生存不能の場に化する権利をもっていません。同じ論旨によって、どんなひとにも、どんなグループにも、地球の食物をだめにしたり、地球の空気をよごす権利はないのです。これはあまりにも基本的な人間の法則なのですから、これに疑いをはさむのは半分堕落しかけた一部の人間でしかありえないとわたしは思います。(カタログp.58)

by sabasaba13 | 2011-12-22 06:17 | 美術 | Comments(1)

セガンティーニ展

c0051620_14442100.jpg 通勤のため、某私鉄の某駅を利用しておりますが、展覧会のポスターが何枚も並べて貼ってあり重宝しております。でも「ゴヤゴヤゴヤゴヤゴヤゴヤゴヤゴヤゴヤゴヤ」にはさすがにぶっ魂消ましたが。
 そんなある日、掲示板の一角から清明な光があふれ出し、心なしが都会の煤けた空気を浄化しているようです。いそいそと近づいてみると、ああやっぱり、「セガンティーニ展」のポスターでした。今年の春に開催される影響でしたが、震災の影響で延期になっていたのですね。実はかなり前、サン・モリッツに行った際、たまたま彼の美術館が改修中で地団駄を踏んだ覚えがあります。開催場所も損保ジャパン東郷青児美術館と、わりと近いので行ってみることにしました。まずはスーパーニッポニカ(小学館)から、彼について引用します。
 Giovanni Segantini (1858―99) イタリアの画家。スイスの山岳風景を題材に、人間と自然の澄みきった調和を描いたことで知られる。アルプス山麓のアルコに生まれ、5歳のときに母親を亡くし、父親とも別れて、貧困と孤独の幼年時代を送る。短期間ブレラのアカデミーに学んだのち、イタリアのブリアンツァ地方に暮らし、自然主義的傾向の強い絵画を描く。
 1886年から94年まで明るい光のあふれたスイスのサボニーノに住み、独自の仕方で『編物をする羊飼いの少女』にみられるような筆触分割(分割主義)の手法を獲得する。芸術に精神的なものを求めた彼は、『生命の天使』を描いてから象徴主義に向かう。文明の拘束を嫌い、汚れなき自然のうちに、生命の輝きを表現しようと望んだ。
 また社会主義思想に共鳴し、芸術論を雑誌に寄稿する。94年からスイスのマローヤに住んだが、やがて遺作となる『生』『死』『自然』の三部作(サン・モリッツ、セガンティーニ美術館)に取り組む。スイスの高原地帯エンガディンを舞台とするこの三部作は、セガンティーニの理想とした人間の厳しく清浄な生のあり方を伝えている。しかし、彼はこの風景画を標高2700メートルのシャーフベルクで制作中、盲腸炎のために41歳で急死した。
 12月、小春日和の某日曜日、新宿から徒歩十分ほどのところにある損保ジャパン東郷青児美術館に行ってきました。閑古鳥が鳴いているのではないかと、半ば心配、半ば期待したのですが、どうしてどうして、行列とまではいきませんが、イヤホン・ガイドがある絵の前では人だかりができています。そう、最近の美術館で起こる渋滞の原因です。ま、別に咎める気持ちは毛頭ありませんが、私としてはガイドを聞く価値のある作品とない作品を誰かが決めて、それに唯々諾々と従うのがどうも性に合いません。まずはイタリア時代の作品から。まるでミレーかゴッホを思わせるような重厚かつ暗いタッチで、農民たちを描いています。この頃は、1873年からはじまった、いわゆる大不況(グレート・デブレッション)の時代。農村でも恐慌が起きていたと聞いたことがあります。そうした時代背景も彼の絵に影響を与えているのかもしれません。そしてスイスに移ると、これが同じ画家の絵かと思うくらい、劇的に画風が転換します。アルプスの澄んだ空気とふりそそぐ強い日差し、そして何よりもアルプスの雄大な自然が、画家の中に眠っていた何かを目覚めさせたのでしょう。青い空と白い雲、険しい山塊と玲瓏な冠雪、緑の牧場、そこに点景のように描かれる人々と動物たち。もう見ているだけで、心にたまった滓や頭に積もった塵が雲散していくようです。彼の絵の特徴である筆触分割をよく見てやろうとキャンバスに眼を近づけると、小さい楔の形に塗られたさまざまな色が、画面を埋めつくしています。しかし離れて見ると、そうした色が渾然と混ざり合い、深みのある色となって立ち上がってきます。やはり、「画家の目は正しい」ということですね。そして晩年、"生"や"死"をテーマとするようになると、清澄な雰囲気は影をひそめ、重く渋い色の絵がふえてきます。なお、遺作であり彼の代表作である『生』『死』『自然』の三部作は写真のみの展示でした。なにせ門外不出の傑作なので、これを見るにはサン・モリッツにあるセガンティーニ美術館に行くしかありません。ダボスでのスキーと組み合わせて、いつの日にか行ってみる所存です。
by sabasaba13 | 2011-12-21 14:05 | 美術 | Comments(0)

隠岐編(20):国賀海岸(10.9)

 それでは港へと向かいましょう、指定された埠頭に行くと…お客は私ひとり。しょぼくれた中年男のためにわざわざガソリンを消費して出航してくれるようです、わりーね、わりーね、わりーね・ディートリッヒ。それでは出発、小さな観光船はするすると滑るように鏡のような海面を進んでいきます。後部のオープン・デッキに陣取り、紫煙をくゆらしながらまわりの風景を睥睨すれば気分はもう王侯貴族。
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 そして船引運河を抜け、島の西側に広がる外洋に出ますが思ったよりは穏やかでした。ざんざばざばざんと波を切って船は快調に疾駆していきますが、その揺れと飛沫を心配したのでしょう、船長さんの指示で室内に入り、残念ながら窓ガラスを通しての観光となりました。
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 いやあああああ絶景絶景、見上げるような断崖絶壁、魁偉な巨岩奇岩、信じられないような自然の造形には畏怖の念すら覚えます。
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 中でも圧巻は明暗(めいあん)の岩屋、長さ250mにもおよぶ細長い洞窟ですが、その中を船は進んでいきます。壁面すれすれをすりぬけるように船を進める、船長さんの見事な舵捌きには見惚れてしまいました。そして洞窟の入口・出口付近で見られる海の色の美しさ! その深いコバルトブルーは日本版「青の洞窟」と褒め称えましょう。船長さん曰く、波が高いと危険なので、明暗の岩屋に入れる確率は三分の一程度だとか。私は運が良かったわけだ、神に愛されし者よ。
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 そしてふたたび船引運河を抜けて、浦郷港へ着岸。なかなか楽しい一時間半のクルーズでした。凄腕の船長さんに丁重にお礼を言い、ターミナルビルへ行くと、さきほど乗った観光バスの運転手さんが待っていてくれました。どうやら彼が軽自動車を運転して別府港まで送ってくれるようです。200円を支払って車に乗り込み、運転手さんと四方山話。フェリーの出航時刻まですこし余裕があるので黒木御所に行くつもりだと話すと、港の近くなのでそこまで送ってくれることになりました。わりーね、わりーね、わしーりー・カンディンスキー。(あーベタなギャグだ)

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2011-12-19 06:20 | 山陰 | Comments(0)

隠岐編(19):浦郷港(10.9)

 やがてバスは山道をおり、由良比女神社に到着。神前に土俵がありましたが、こちらでも古典相撲が行われているのでしょうか。石灯籠には波間にはねる魚が彫られていました。
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 狛犬の顔面が無惨に削り取られているのはなぜでしょう。神社なので廃仏毀釈とは関係ないと思うのですが、博雅の士の教えを乞う。
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 その前に広がる浜が「イカ寄せの浜」、毎年十二月から正月にかけてイカの大群が押し寄せるそうです。それを見張るための番小屋が復元され、イカを「拾う」人形が置かれていました。
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 そして浦郷港に到着です。予定としては、15:35に別府港から出航する「フェリーどうぜん」で知夫利島に向かいたいのですが、現在の時刻は12:14。ちなみに浦郷から別府への路線バスは本数が少ないので慎重を要します。ターミナルの切符売り場の方に相談すると、13:20から国賀海岸ぞいにクルーズする遊覧船があり所要時間は一時間半、200円を支払えば別府まで送ってあげるので、出航時間には余裕の吉田さんで間に合うというお返事です。乗った! とりあえず一時間ほど時間があるので、浦郷の町を散策しがてら昼食をとることにしましょう。まずは幸先良くターミナルの前で、イカの顔はめ看板をゲット。「イカの活っちゃん」というお名前だそうですが、ちゃんと足が十本あるところにこだわりを感じます。マンホールの蓋もイカ、西ノ島にとってイカが重要な存在であることを痛感しました。
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 路地に入ると、イカを干しているお宅もありました。そしてあるお宅の瓦には、まるで人面疽のように大黒さまのご尊顔がいくつもはめこまれています。うーん、ちょっと怖い。でもこれなら悪鬼も近づかないような気がしないこともありません。
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 古い病院の前でふたたび顔はめ看板を発見。NHK連続テレビ小説「だんだん」のロケ地だったそうです。このシリーズは「おはなはん」以来、まったく見ておらず、特段興味もないので、私にとっては風馬牛。なおこの病院は「浦郷診療所」といい、1958(昭和33)年からつい最近まで、この地の医療を支えてきたそうです。御役目、御苦労さまでした。
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 そして近くにあったお食事処「はま」に入って昼食をいただくことにしました。お品書きを見ていると…「もぐり定食」? さっそく女将に質問すると、まるご(ぶり)をすこし蒸して熱々ご飯の上に散らし、その上にまた熱々ご飯をかぶせた一品とのこと。うん、それは美味しそうだ、このもぐり定食と鯵フライを注文しました。そしてお二方がしずしずとご入場、さっそく初めての共同作業…じゃなくて物の怪に憑依されたようにむしゃぶりつきました。香ばしく焙られたまるごとご飯のコラボレーションも素晴らしいし、身のつまった大ぶりの鯵の美味しさにも驚愕、大満足でした。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2011-12-18 08:27 | 山陽 | Comments(0)

隠岐編(18):摩天崖(10.9)

 そろそろ集合時刻、バスに戻りましょう。おっ駐車場のわきに石碑があるぞ、とりあえず撮影して、バスの中で確認してみました。「凍てるシベリアに、故郷の海鳴りが聞こえる ろんろん ろんろんと 過酷な抑留生活に耐えながら、人間らしく生きることの大切さを自ら示した山本幡男。その生きざまを顕彰し、シベリアで亡くなった七万人同胞の鎮魂と、永遠の平和を祈念するものである。」という解説文があり、その脇に「山本幡男顕彰之碑 瀬島龍三敬書」という記念碑が建っていました。瀬島龍三…
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 一瞬、体に電流が走りました。まさか隠岐で彼の名を目にするとは… ウィキペディアに準拠して彼の履歴を簡単に紹介しますと、瀬島龍三(1911- 2007)、大日本帝国陸軍の軍人、日本の実業家。陸軍士官学校第44期次席、陸軍大学校第51期首席。大本営作戦参謀などを歴任し、最終階級は陸軍中佐。戦後は伊藤忠商事会長。しかし、内村鑑三風に言わせていただければ、近現代における「代表的日本人」として心と頭に銘じたい方です。詳細については、『沈黙のファイル 「瀬島龍三」とは何だったのか』(共同通信社社会部編 新潮文庫)を是非読んでいただきたいのですが、巻末の船戸与一氏の秀逸な解説をもとに彼という存在について紹介したいと思います。抜群の成績で陸軍士官学校・陸軍大学校を卒業して参謀本部に入り、作戦参謀としてマレー作戦、フィリピン作戦、ガダルカナル撤収作戦、ニューギニア作戦、インパール作戦、台湾沖航空戦、捷一号作戦、菊水作戦、決号作戦、対ソ防衛戦を指導しました。言わば軍事テクノクラートとして軍の中枢に君臨し、事実上、大本営命令によって陸軍を動かした人物だったのですね。後輩参謀の田中耕二は「このころ対米戦のあらゆる情報が瀬島さんの元に集まっていた。瀬島さんが起案した作戦命令には、上司もうかつに手を入れられない雰囲気があった。僕らには彼の発言は天の声のように思えた」と証言しています(p.128)。また元参謀の山本筑郎が、瀬島に大本営命令の書き方を尋ねると「瀬島さんは『大本営命令は第一項に敵情を書かず、ずばり天皇の決心を書く。天皇は敵情などで決心を左右されないからだ』と言った。なるほど大本営参謀は作戦命令を起案することで天皇と同格になり、強大な権限を持つんだと納得したよ」と回想しています(p.129)。その後関東軍参謀として敗戦を迎え、シベリアに連行され、十一年間の抑留生活を送ります。前出の山本幡男とはこの時に出会ったのですね。帰国後、元陸軍中将・本郷義夫の紹介によって伊藤忠商事に入社、参謀時代の人脈をフルに活用して、インドネシア賠償ビジネス、日韓条約ビジネス、二次防バッジ・システム・ビジネスを成功させ、それにともない田中角栄や中曽根康弘といった大物政治家との繋がりを深めていきます。そして伊藤忠商事会長になりビジネスマンとしての階段を駆け昇るとともに、政界フィクサーとしても底知れない力を貯えていきます。1995年、軍事史学会の特別講師として招かれた彼は、自衛官の前で次のように語ります。「日本は、少なくとも対英米戦争は自存自衛のために立ちあがった。大東亜戦争を侵略戦争とする議論には絶対に同意できません」 享年九十五歳。
 船戸氏はこう述べておられます。「アジア諸国の二千万の死。日本人三百万の死。これについて瀬島龍三の真摯な発言は聞かれない。要するに、この膨大な死者については彼のこころに触れることがないのだろう。したがって責任の問題は脳裏に浮上して来ることもない。徹底したプラグマチストにとって数字はただの数字なのだ。それは次のステップのための予備知識に過ぎないだろう」(p.434) 他者の痛みや苦悶に対する想像力の恐るべき欠落。その結果として、他者を犠牲にすることを一顧だにせず己の栄達を怜悧に追い求めるとともに、たとえ失敗したとしても責任を一切感じずまた責任をとろうとしないメンタリティ。その一方で身内や知己に対して示す優しさと思いやり。多かれ少なかれわたしたちが有しているこうした思考/行動様式を、見事なまでに体現しているのが瀬島龍三という人物だと思います。よって近現代における「代表的日本人」と称したわけです。そしてこれが日本をアジア・太平洋戦争へと導いた内的要因だと考えます。なお故加藤周一氏は「春秋無義戦」(『夕陽妄語Ⅳ』 朝日新聞社)の中で、閉鎖的集団主義、権威への屈服、大勢順応主義、生ぬるい批判精神、人種・男女・少数意見などあらゆる種類の差別が戦争を導いたと述べられていますが、それと一部重なります。そして氏は同書において「直接の(※戦争)責任は、若い日本人にはない。しかし間接の責任は、どんなに若い日本人も免れることはできないだろう。彼または彼女が、かつていくさと犯罪を生みだした日本文化の一面と対決しないかぎり、またそうすることによって再びいくさと犯罪が生み出される危険を防ごうとしないかぎり」(p.77)と論じられています。アジア諸国との真の和解がなされ、"東アジア共同体"とでも言うべき枠組みがつくられれば、尖閣諸島や竹島問題、米軍基地問題などのアポリアを解決するための大きな一歩が踏み出せるのではないでしょうか。その大前提が、われわれの内なる瀬島龍三的なるものと向き合い、これを乗り越えることだと思います。
 余談ですが、ウィキペディアで彼に関する記事を読んでいると、興味深い一文を見つけました。実業家・フィクサーである田中清玄によると、昭和天皇から次のような話を直接聞いたとのことです。「先の大戦において私の命令だというので、戦線の第一線に立って戦った将兵たちを咎めるわけにはいかない。しかし許しがたいのは、この戦争を計画し、開戦を促し、全部に亘ってそれを行い、なおかつ敗戦の後も引き続き日本の国家権力の有力な立場にあって、指導的役割を果たし戦争責任の回避を行っている者である。瀬島のような者がそれだ」 真偽のほどは分かりませんが、もし事実だとしたら、ほぼそのまま御本人に献上したいですね、「あなたもそうだ」と。推測ですが、瀬島に対する近親憎悪的な思いから、このようなやや感情的な発言をしたのかもしれません。また、日本の一般市民やアジア諸国の犠牲者への言及がないという点も注目。誰の発言であるにせよ、瀬島龍三的なるものをたっぷりと内に抱え込んだ人物によるものでしょう。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2011-12-17 06:15 | 山陰 | Comments(0)

隠岐編(17):摩天崖(10.9)

 そしてここから摩天崖の北にある摩天崖展望所に向かいました。道路に屯する子牛たちをよけてUターン、山道を二十分ほど走ると展望所に到着です。
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 駐車場から草地の中の道を少し歩くと、おおっ、こちらも素晴らしい。高さ257mの絶壁、摩天崖を一望することができます。アイルランドのモハーの断崖ドン・エンガスにくらべれば少々見劣りがしますが、日本国内の断崖では(たぶん)一番の迫力でしょう。時がたつのも忘れてしばし見惚れてしまいました。穏やかに草を食む馬もいい点景になっています。
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 ん? コンクリートの廃墟らしきものがあるぞ。近づいてみると、第二次世界大戦中に日本軍が使用していた監視所跡でした。たしかにここからだと、日本海を通航する船を手に取るように監視できそうですね。
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 なお「牧畑(まきはた)」についての解説板がありましたが、これがなかなか興味深いものなので、後学のため転記します。
 牧畑 放牧と畑作を四年で輪作する世界的にもユニークな農法「牧畑」は、島の急斜面で狭い土地を有効活用するために考えだされたとされ、始まった時期は不明ですが、鎌倉時代の史書「吾妻鏡」(1188年)で紹介されています。
 島を分断する高さ1m前後の石垣で、「牧」と呼ばれる四つの区域(四圃)に分け、それぞれに麦、粟、大豆などを栽培、休閑地には牛馬を放牧。一年ごとに移動し、四年でローテーションを完了、五年めには元に戻る。
 牛馬の糞尿を肥料にし、同じ作物を連続して耕作しないことで、土地がやせないことを工夫していることなどは、中世ヨーロッパで行われていた三圃式農法よりも高度で、海外の研究者からの評価も高い。
 昭和三十年代には耕作もされなくなりましたが、入会権の残る2300ヘクタールの牧には現在も約1000頭の牛馬が放牧され、雄大な草原景観をつくりだしており、平成21年には「にほんの里百選」に選ばれています。
 あらためて先人たちの智慧と工夫と努力には頭がさがります。環境に負荷をかけない持続可能な農業・牧畜が世界的に求められていると思いますが、この優れた農法から何かを学び取ることはできないものでしょうか。昭和三十年代に消滅したという事実も見逃せません。素人考えですが、農業の機械化や流通の発展、輸入農作物などによって、価格が安くなり、島外からもたらされる農作物に太刀打ちできなくなったのでしょう。

 本日の四枚です。
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by sabasaba13 | 2011-12-16 06:17 | 山陰 | Comments(0)

隠岐編(16):国賀海岸(10.9)

 やがて島後が後方へと遠ざかっていき、島前の島々が見えてきます。西ノ島、中ノ島、知夫里島に囲まれた静かな内海に入ると、ポンポンポンと海中から突き出た岩がありましたが、あれが三郎岩ですね。
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 そして中の島の菱浦港に到着。もやい綱を受け渡しする船員さんたちの熟練の技には見惚れてしまいました。
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 乗客と車をおろしてのせて出航、ほぼ対岸にある西ノ島の別府港に舳先を向けて出航。それにしても何て綺麗なコバルトブルーの海なのでしょう、もうこれだけで隠岐に来たかいがあったというものです。そして10:05に着岸、西郷港から約一時間半のプチ・トリップでした。
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 さてここから予約しておいた定期観光バスで国賀海岸の観光です。港から数分歩いたところにバス・ターミナルがあり、そこで料金を支払いバスに乗り込みました。参加者は私の他に初老のご夫婦のみ、落ち着いて観光ができそうです。10:20にバスは出発、運転手さんがときどきマイクでガイドをしてくれました。車窓から見えた郷愁をそそられる木造校舎は美田小学校、でも近々廃校となるそうです。そして西ノ島の一番くびれている地峡を貫く船引運河を渡りますが、1915(大正4)年に、岩盤の粉砕以外はすべて鍬と鶴嘴による人力でつくられたそうです。外海と内海をつなぐこの運河のおかげで、島民の暮らしはたいへん便利になったとのこと。
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 その先にあるのが島で唯一の信号機、子供たちの学習のために設置されているのかもしれませんね。そしてバスは細い山道をのぼっていきます。広々とした台地の上に出ると、一面がは放牧地になっていて、馬や牛がのんびりと草を食んでいます。車道には、溝が掘ってあり、そこに横方向に数本の金属パイプが通してありますが、これは牛や馬が逃げないようにするためですね。イギリスで見たことがあります。
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 そして赤尾展望所に到着、いそいそとバスからおりて下界を一望できる場所に行くと…絶景絶景。摩天崖や通天橋、入り組んだ入り江や緑なす草原、青い海と空が手に取るように眺望できます。いやあ素晴らしい。
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 本日の四枚です。
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by sabasaba13 | 2011-12-15 06:21 | 山陰 | Comments(0)