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札幌・定山渓編(7):モエレ沼公園へ(10.10)

 そしてホテルに戻り朝食です。学生食堂のようなトレイはちょいとしょぼかったですが、豊富なメニューと落ち着いた雰囲気には満足。身も心も癒してくれたマッサージチェアにお別れを言い、チェックアウトをして、さあモエレ沼公園へと向かいましょう。
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 札幌駅から地下鉄東豊線に乗りますが、こちらの地下鉄は車内が広々として気持ちいいですね、都営地下鉄12号線とは雲泥の差です。なお我が家では、石原強制収容所所長が勝手に命名した「大江戸線」という名称は使いません。
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 環状通東駅で降りて荷物をコインロッカーに入れ、バスに乗り換えます。車窓から、玄関をガラスで覆った住宅や、雪下ろしのために設置されている梯子を見ていると、あらためて酷寒の地であることが実感できます。
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 二十分ほどすると家々の向こうにモエレ山の稜線が見えてきました。そしてモエレ沼公園に到着、私は2004年2005年に訪れたことがありますが、山ノ神ははじめてです。今回は、自転車を借りて散策することにしました。それではこの素晴らしき公園について、ウィキペディアから引用して紹介しましょう。
 半円状のモエレ沼の内側を中心に、沼の岸も含む。1988年に着工し、2005年7月1日に完成、オープンした。モエレ沼公園の整備は、札幌市の市街地の周囲を緑化しようという「緑化環状グリーンベルト構想」で始まった。1979年からゴミの搬入・埋め立てが始まり、公園の基盤整備は1982年から始まった。ゴミの埋め立てが終了したのは1990年である。
 公園の基本設計は、日系米国人の彫刻家イサム・ノグチ、監修はイサム・ノグチ財団ショージ・サダオ(貞尾昭二)、はアーキテクトファイブによる(ママ)。設計監理統括者は川村純一。彼は若い頃から彫刻作品を作る一方で「大地を彫刻する」公園計画などに興味を持ち、1930年代以来「プレイマウンテン」など様々な模型を製作し、コンペにも参加していたがなかなか果たせなかった。しかし札幌市が市街地の周りを公園や緑地など8つの緑地帯で包み込もうとする計画を建て、市長への推薦からノグチへオファーが舞い込んだ。
 1988年3月に札幌を初めて訪れたノグチは、ゴミ埋立地だったモエレ沼のために公園を設計した。この計画の中には、彼の数十年来の構想であったプレイマウンテンも含まれていた。彼はそれが形になるのを見ずに同年末に死去したが、その後も基本設計に基づき工事は進められた。当初、全施設の完成予定は2004年とされていたが、それ以前から完成済みの設備から順次利用に供用されている。2005年には最後に残された中央噴水「海の噴水」の工事が完成し、同年7月1日にグランドオープンを迎えた。
 『イサム・ノグチ 宿命の越境者(下)』(ドウス昌代 講談社文庫)を参考に、もうすこし補足します。「ぼくのベストの仕事はまだ実現していない」 ことあるごとにイサムがくり返した言葉です。彼はその仕事を、《地球そのものが彫刻》、《彫刻的風景としての遊園地》、《全体をひとつの彫刻とみなした、宇宙の庭になるような公園》と表現しています。彼の言です。「私にとって遊園地は、ひとつの世界を作りだすことを意味する。いわば理想の国を、縮小した形で建設することなのだ。それは、子供の背丈で、駆け回れる国である」「遊園地を、単純な、不思議な感情を喚起する、形態と機能への入門書として、したがって教育的なものと考えたい。子供の世界は新鮮で明るく澄んだ、はじまりの世界であろう」 子供がなく、また友人の子供にすら関心を示さなかったイサムが、なぜ遊園地づくりにこだわりつづけたのか。「レオニー」の映画評でも触れましたが、父・野口米次郎に見捨てられたイサムと母・レオニー・ギルモアは、彼を求めて異国の地日本にやってきて、母親の女手一つで育てられるという苛酷な少年時代を過ごしたのですね。「幼い子供が楽しむ普通のもろもろのものを、ぼくはあたえられずにきた」 彼が生涯にわたって抱えてきた心の傷を癒すこと、そして子供たちに理想の国をプレゼントすること、それが彼の一番したかった仕事なのですね。完成を見ずに逝去されたとはいえ、その思いがほぼ結実した作品が、ここモエレ沼公園です。

 本日の一枚は、モエレ山です。
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by sabasaba13 | 2012-01-31 06:17 | 北海道 | Comments(0)

札幌・定山渓編(6):モデルバーン(10.10)

 寒そうに凍えている「アメリカ・オバマ政権による米臨界核実験弾劾 米vs中露の新たな核軍事力増強競争反対!」という立て看板に小さなエールを送り、中央道路をもう少し進むと、正面にあるのがモデルバーンです。実はここを訪れるのははじめて、たいへん素晴らしい景観だという話を聞いていたので楽しみです。それでは「北大再発見 CAMPUS TOUR 」から抜粋して紹介しましょう。
 南北線北18条駅から西へ500mほど行くと、右手に見えるのが、通称「モデルバーン」と呼ばれる「札幌農学校第二農場」です。ここには一戸の酪農家をイメージした畜舎とその関連施設が配置されており、明治10年~明治44年に北海道最初の畜産経営の実践農場として建設されたものが保存されております。バルーンフレーム構造の洋風農業建築物として年代的にもめずらしく、北海道全域に畜産を広めた日本畜産発祥の地でもあるため、昭和44年には国の重要文化財として指定されました。
 入場は無料、入口に自転車を停めて中に入りました。広々とした芝生と点在する木造やレンガ造りの古い畜舎や関連施設、そしてそれらを優しく包み込むように生い茂る木々、清々しく心落ち着く空間です。
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 中でも心惹かれたのが、模範家畜房の質朴にして逞しい佇まい。この農場の構想を立てたクラーク博士が北海道農業の模範となるようにと願いを込めて「モデルバーン(模範家畜房)」と記載したことから、そう呼ばれるようになったそうです。マサチッーセッツ農業大学の畜舎に倣って1877(明治10)年に落成したこの「モデルバーン」は、「第二農場」の中でも一番古く、かつ象徴的な建物なため、いつしかこの建物群全体の通称になったとのこと。時を忘れ、鳥の声に耳を傾け、北の大地の清涼な空気を吸いながら、しばし散策。あまり観光客や学生も来ないとのこと、札幌に来たらぜひ訪れてみてください、お薦めです。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2012-01-30 06:21 | 北海道 | Comments(0)

札幌・定山渓編(5):北海道大学(10.10)

 その近くにあるのがクラーク像、台座には名文句"Boys be ambitious"が刻んでありました。そして本キャンパス最古の物件、1901(明治34)年竣工の旧昆虫学及養蚕学教室があります。なんと設計は中條精一郎、宮本百合子の御父君でした。なお彼の御父君・中條政恒については郡山に関する記事でふれたのでご参照を。
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 地図によるとこの付近に旧図書館があるはずですが…あったあった、切妻屋根の瀟洒な洋館です、図書館ハンターの方、お見逃しなく。堂々たる外観の旧理学部本館は、現在、総合博物館として利用されているようです。
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 そして定番中の定番、ポプラ並木に到着。「北大再発見 CAMPUS TOUR」によりますと、ポプラ(正式にはセイヨウハコヤナギ)が北海道にやって来たのは明治の中頃,アメリカから防風林用に種子が輸入されたのが最初とされています。北大ポプラ並木の嚆矢は1912(大正元)年,当時の林学科の実習生によって45本が植栽されてからですが、ポプラの寿命は60年から70年なのでもう老木だそうです。おまけに2004(平成16)年に襲来した台風のため51本のうち19本が倒れてしまいました。現在は、このポプラの枝から育てた若木が植えられ、その成長を待っているところです。その脇には札幌農学部二期生である新渡戸稲造の胸像があり、台座にはこれも名文句、"I wish to be a bridge across the Pacific"と刻んでありました。
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 中央道路を進むと、「人口雪誕生の地」という記念碑を発見。たしか寺田寅彦の門下生、中谷宇吉郎の業績ですね。理化学研究所で研究に悩んでいた中谷宇吉郎が、寺田寅彦のアドバイスにより雪の結晶についての研究をはじめたというエピソードを聞いたことがあります。1936(昭和11)年3月12日にここ北海道大学の低温実験室で、人工雪の製作に世界で初めて成功したそうです。台座には「雪は天から送られた手紙である」という彼の名文句が…刻んでありません。その近くにある見事なイチョウ並木がそろそろ色づきはじめていました。
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 さてさてここまでジテ公をこいできて何か得も言われぬ強烈な欠落感を感じていたのですが、その理由がわかりました。朝の寒風にうちふるえながら孤塁を守る一枚の立て看板。そう、かつてキャンパスを埋め尽くしていた立て看板がこれ一枚しかありませんでした。68/69世代の残り香を多少は知っている私としては、ちょっと異様な光景です。飛行機の中で出会った幼い若者たちのこともふと脳裡をよぎり、若者が政治や社会への関心を相当に失っているのだなと実感しました。知人の話によると、最近の大学では学生を集めるために就職率を上げることが至上課題となっており、入学早々企業の正社員として採用されるためのさまざまなトレーニングを施しスキルを身につけさせる"教育"に力を入れているそうです。もちろん学生たちもこうした路線に乗らざるを得ないし、早い時期から就職活動に取り組まなければならない。企業が必要とする能力を骨身を削って身に付け、激烈な就職競争に勝ち残るための四年間、これでは政治や社会、そして世界への生き生きとした関心を持つことなど無理ですね。あの幼さも、こうした"戦士"としての緊張から束の間解放された時に見せる素顔だったのかもしれません。"戦士"と"子供"、今、若者たちの人格は二つに引き裂かれているような暗澹たる思いにとらわれます。そして次々と採用試験に落とされ、人間としての自信を打ち砕かれていく。イギリスの元国会議員トニー・ベンの「政府が国民を服従させるときには、教育と健康と自信を打ち砕く」という言を思い出します。国際競争に勝ち残る経済的活力を得るため、失業と貧困と飢餓の恐怖で怯えさせて労働者を勤酷使しようとする新自由主義的政策を利用して、官僚・財界・政治家が一体となって「従順な国民」づくりを進めている、と見るのは穿ち過ぎでしょうか。もちろん、これは若者だけの問題ではありません。そのうち、すべての学校や企業、あちこちの街角に、ブーヘンヴァルト強制収容所の焼却場に続く細道にあったという標語が掲げられるかもしれませんね。
 自由への唯一の道。その道しるべは、服従、組織的労働、正直、秩序、規律、清潔、禁酒、自己犠牲を厭わない心、祖国日本への愛である。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2012-01-29 08:14 | 北海道 | Comments(0)

札幌・定山渓編(4):北海道大学(10.10)

 朝六時に目覚めカーテンを開けると見事な快晴、札幌を抱く山なみがきれいにうかびあがっています。本日はモエレ沼公園を訪れて定山渓へと移動しますが、実はこのホテルには無料の貸自転車があります。このサービスがあると早朝も夜も徘徊ができるのでほんとうに重宝します。
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 そこで朝飯前に、ホテルで自転車を借りキャンパスの案内地図をもらってすぐ近くにある北海道大学を彷徨することにしました。わずか数分で北大に到着、ほんとに素晴らしい景観ですね、いつ来ても惚れ惚れとします。広大な敷地とそこを埋めつくすような木々、フォトジェニックな並木道、散在する歴史的建造物、そして清冽な空気。こんな素敵な環境の大学に入学できたら…やはりススキノに入り浸るだろうな。ある建物には「祝 鈴木章名誉教授 ノーベル化学賞受賞 おめでとうございます」という垂れ幕がかかっていました。
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 フランス・ルネサンス風の瀟洒な洋館、古河記念講堂にはちょいとした謂われがあります。以下、北海道大学広報誌「リテラ・ポプリ」の「北大再発見 CAMPUS TOUR」というサイトから引用します。
 1906(明治39)年、古河鉱業は足尾銅山鉱毒事件判決後も社会の非難を浴びていました。また政府は日露戦争後の財政不足のため、各地で盛り上がる帝国大学昇格運動に対応できずにいました。そこで、内務大臣で同鉱業の顧問も務めていた原敬が古河虎之助に寄付を勧めます。古河は帝国大学創設費として百万円を政府に寄付。そのうち約14万円が北大の前身・東北帝国大学農科大学に分配されました。
 古河講堂はその時新・増築された8棟のうち現存する唯一の建物です。設計は茨木出身の文部技官・新山平四郎、施工は札幌の大工・新開新太郎が担当。建築面積127.5坪、総工費3万円余の建物は6ヶ月の工期を経て、1909年11月末に林学教室として誕生しました。
 へー、原敬がからんでいるのか。実は最近読んだハーバート・ノーマンの「日本政治の封建的背景」(全集第二巻 岩波書店)の中に、次のような一節がありました。「明治時代の秘密警察については、自由主義反対派の新聞雑誌に怒りをこめて書かれた論説や暴露記事を主として集めた不思議な歴史が編まれているが、そのなかに、普通に日本最初の平民宰相といわれる原敬が、若い頃に警察の密告者であったという短い記事が出ている。原敬は、密告者として新聞界を担当し、一時郵便報知新聞の記者として働いていたが、同輩が敵意と疑惑をもっていることを感じて、急にその新聞社を退社したのであった」(p.21) やはり一筋縄ではいかないお方だ。山県有朋と真っ向からやりあって、政党政治の基盤強化に尽力した政治家というイメージは彼のほんの一面なのですね。だから歴史って面白い。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2012-01-28 06:02 | 北海道 | Comments(0)

札幌・定山渓編(3):札幌(10.10)

 そして夕食は、ホテルから歩いて十分ほどのところにある七福神商店です。途中にあった石川啄木下宿跡を写真におさめ、お店に到着。
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 ヤフー・グルメで調べて予約を入れておいた、北海道産の食材をふんだんに使った居酒屋ですが、こちらも大当たり。ここを先途と注文しまくった料理はすべて美味でした。しめ鯖、いももち、ジンギスカン、秋刀魚の塩焼き、舞茸のソテー、焼きがき、じゃがバター、河豚の唐揚げ、ブラーボ、ブラーバ、ブラービ! 中でも山ノ神にとって、ドストエフスキー的鉄槌、コペルニクス的転回だったのが舞茸のソテー。「火はかるくとおすだけでいいんだわ」と、シャキシャキとした食感にご満悦。そして印刷して持参したクーポンで10%割引をしてもらい(スクルージ的貪欲!)、ホテルへと戻りましょう。
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 札幌駅の地下街を歩いていると、山ノ神がよつ葉乳業直営のカフェ「ホワイトコージよつ葉」を発見、彼女の眼が♪eye of the tiger♪となりました。そのガルガンチュア的食欲に敬意を表し、ようがす、つきあいましょう。道産ハスカップとヨーグルト・はちみつパフェ(750円)を一つ注文して、仲良くシェアしました。
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 そしてホテルへ戻り、売店で焼酎を購入し、部屋で風呂をあびて一献傾け、マッサージ・チェアに没入。うぃんうぃんぶおんぶおんぐりんぐりん、そのマダム・ボヴァリー的快楽に身も心も委ねればやがて意識はコンラッド的闇の奥(あーしつこい)へと消え…ている場合ではない、山ノ神が指をくわえて恨めしげにこちらを見ています。危ない危ない、一生非難され続けるところだった。さっそく交代してうぃんうぃんぶおんぶおんぐりんぐりん…

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2012-01-27 05:58 | 北海道 | Comments(0)

札幌・定山渓編(2):札幌(10.10)

 そして飛行機は17:30に新千歳空港に無事着陸、JRの快速エアポートで札幌へと向かいます。掲示によると、山ノ神が所有するSuicaは使えて、私が所有するPASMOは使えないとのこと。なおJR北海道が導入しているIC乗車カードは、Kitacaという名称で、マスコットはムササビです。へえ、わたしゃてっきり"Samuca"だと思っていました。ちなみにJR九州は"ATUCA"ではなくて"SUGOCA"です。
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 そして列車に乗り込みましたが、優先シートが常に空いているのには驚きました。札幌駅に着くと、列車を待っていた方々はきちんと整列し、乗客がみな降りてから整然と乗り込みます。札幌の方って、たいへんマナーがよいのですね。駅構内には「世界三大がっかり」の一つ、コペンハーゲンにある人魚姫の銅像がありました。なぜ??? 解説によると、JR北海道とデンマーク国鉄の提携の記念として、贈られたそうです。ということは、デンマーク国鉄にも何か贈った可能性がありますね。クラーク博士像の複製か、はたまた安田侃氏の彫刻か。コペンハーゲンに行く機会があったらぜひ確認してみましょう。それにしてもデンマークではいまだ"国鉄"なのですね。合理化・民営化・規制緩和を極限まで推進して低賃金と解雇容易性を実現しようとするアングロ・サクソン・モデルとは違うスカンジナビア・モデルが健在なのでしょう。"絶望の海"に浮かぶ"希望の島"、その灯火を掲げ続けてください。おっ幸いなことに午後八時まで開いている観光案内所がありました。さっそく観光パンフレットを入手し、係の方に紅葉情報を訊ねましたが、猛暑の影響であまりおもわしくないようです。その近くにあったのが「宮越屋珈琲」、京都の「イノダコーヒ」のような地元民御用達の珈琲店なのでしょうか。
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 そして札幌駅から五分ほど歩くと、今夜の塒札幌アスペンホテルに到着です。こちらは素晴らしいホテルでした、料金はリーズナブル、内装は清潔で高級感にあふれ、そして何よりも部屋にマッサージ・チェアがありました! 後ほどたっぷりと楽しませていただきましょう。
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by sabasaba13 | 2012-01-26 06:17 | 北海道 | Comments(0)

札幌・定山渓編(1):札幌へ(10.10)

 先日のクロアチア旅行でマイルがたまり、ANAの国内線をロハで利用できることにあいなりました。さてどこへ行こうかな。山ノ神と鳩首会議のすえ、「どうせなら航空運賃の高いところへ」という妥当かつせこい結論に落ち着き、そろそろ紅葉が盛りかなと期待できる札幌に行くことにしました。旅程は二泊三日、彼女が強く希望するモエレ沼公園を軸に計画をねり、次のような行程に決定。金曜日の夕刻に羽田から新千歳空港に飛び、札幌に宿泊。二日目はモエレ沼公園を見物して定山渓へ行き紅葉狩り、定山渓温泉に宿泊して三日目は朝一番で豊平峡を見て札幌へ戻り市内観光、そして帰郷。なにせ山ノ神というおにも、もといっ、大切な連れがいるので没義道なプランは立てられず、シンプルかつ足腰に負担のかからないものにしました。ま、行ってしまえばこっちのもんさ。持参した本は『バッハの思い出』(アンナ・マグダレーナ・バッハ 潮文庫)です。

 2010年10月中旬、山ノ神とは機内で待ち合わせです。ん? 何やら異な雰囲気、霊界アンテナがびんびんと反応しています。(それは寝ぐせだ) リクルート・スーツに身を包んだ若い善男善女のみなさんが集団で乗り込んでいました。どうやら企業の新規採用社員で、これから北海道で入社式か研修に参加する模様です。この就職難のなかで採用されたということは、大変な苦労をされたのでしょうね。それにしてもその言葉づかいの幼稚で品がないこと、「やべー」「うっそー」「ちょー…」「ださー」、坊ちゃんご成人、まるで修学旅行のようでした。まあ"大きなお世話だ、おまえの子でなし、親でなし"と言われたら返す言葉もありませんが。それにしても、傍若無人にはしゃぐみなさんを見ていて感じる、このざらざらとした違和感は何なのでしょう。以前にも紹介したのですが、オーデンの"Prologue:The Birth of Architecture"という詩を思い浮かべました。
私の鼻先30インチに
私の人格の前哨線がある
その間の未耕の空間は
それは私の内庭であり、直轄領である。
枕を共にする人と交わす
親しい眼差しで迎えない限り、
異邦人よ、
無断でそこを横切れば
銃はなくとも唾を吐きかけることはできるのだ。
 人格の前哨線がどろどろに溶けあったような親密に閉ざされた空間、そしてそこに属していない他の人格はまるで存在しないかのように無視される。私が感じる違和感とはそういうものです。車内において携帯電話で会話をしている人に対して感じる不快感も同様のものです。ま、幸兵衛の小言として聞き流してください。
by sabasaba13 | 2012-01-25 06:16 | 北海道 | Comments(0)

「餓死した英霊たち」

 「餓死した英霊たち」(藤原彰 青木書店)読了。まずは衝撃的な一文から。
 この戦争で特徴的なことは、日本軍の戦没者の過半数が、いわゆる名誉の戦死ではなく、餓死であったという事実である。「靖国の英霊」の実態は、華々しい戦闘の中での名誉の戦死ではなく、飢餓地獄の中での野垂れ死にだったのである。(p.3)
 藤原氏の推計による病死者、戦地栄養失調症による広い意味での餓死者は、合計で127万6240名に達し、全体の戦没者212万1000名の60%強という割合になるそうです。戦死よりも戦病死の方が多い。それが一局面の特殊な状況ではなく、戦場の全体にわたって発生したことが、この戦争の特徴であり、そこに何よりも日本軍の特質をみることができます。著者は本書の目的として、悲惨な死を強いられた若者たちの無念さを思い、大量餓死をもたらした日本軍の責任と特質を明らかにして、そのことを歴史に残すこと。そして大量餓死は人為的なもので、その責任を死者に代わって告発すること、と述べられています。
 まずはその凄惨な状況を、さまざまな証言をもとに紹介されています。例えば、アウステン山では、飢えた兵士の間に次のような不思議な生命判断が流行り出したそうです。そしてこの非科学的・非人道的な生命判断は決して外れなかったとのことです。

 立つことの出来る人間は…寿命三〇日間
 身体を起して坐れる人間は…三週間
 寝たきり起きられない人間は…一週間
 寝たまま小便するものは…三日間
 もの言わなくなったものは…二日間
 またたきしなくなったものは…明日 (p.20)

 なおレイテ島で同様の経験をされた大岡昇平氏は『野火』(新潮文庫)の中で、餓死に瀕した兵士を次のように描写していましたっけ。
彼は膝の間の土をつかんで、口に入れた。尿と糞の臭いがした。
「あは、あは」
 彼は眼を閉じた。それを合図のように、蠅が羽音を集め、遠い空間から集って来た。顔も手も足も、すべて彼の露出した部分は、尽くこの呟く昆虫によって占められた。
 蠅は私の体にも襲いかかった。私は手を振った。しかし彼等は私と、死につつある彼と差別がないらしく―事実私も死につつあったのかもしれない―少しも怖れなかった。
「痛いよ。痛いよ」
 と彼はいった。それからまた規則正しい息で、彼は眠るらしかった。
 雨が落ちて来た。水が体を伝った。蠅は趾(あし)をさらわれて滑り落ちた。すると今度は山蛭が雨滴に交って、樹から落ちて来た。遠く地上に落ちたものは、尺取虫のように、体全体で距離を取って、獲物に近づいた。
「天皇陛下様。大日本帝国様」
 と彼はぼろのように山蛭をぶら下げた顔を振りながら、叩頭した。(p.128~130)
 さてそれでは、なぜこのような大量餓死が引き起こされたのか。著者は、兵士の人権に配慮しない日本軍の体質に、その原因を見ています。例えばフランス軍は、革命によって解放され独立自営の農民が中心であり、彼らは革命によって成立したフランス国家を守ることは、解放された自分たちの身分と土地を守ることになるのを知っていたのですね。それだからこそ、自発的な戦闘意志と愛国心をもち、ナポレオン軍の連戦連勝を支えたわけです。しかし明治維新は独立自営の農民層を生み出さず、貧困な小作農民を再生産させただけであったため、彼らを徴集してつくった日本軍ではフランス国民軍にみるような自発的戦争意志を期待することは不可能でした。よって兵士に対して、服従が慣性化するまで兵士を「監視」し、きびしい懲罰を加えることで服従を強制することになり、兵士の人権を蔑ろにする体質を生み出したと述べられています。さらに日露戦争の呪縛も指摘されています。日露戦争では、砲兵火力の劣勢・装備の不足という大きな弱点を持つ日本陸軍が、やっとの思いで勝利を得たため、軍中央は精神力で勝てたのだと信じ込んでしまったのですね。以後も軍備の劣勢は改善されず、そのため白兵戦を主体とする積極果敢な攻撃至上主義が作戦の中心となり、兵站や補給、給養や衛生は軽視されます。つまり、兵士の生命を病気や飢えで失うことへの罪悪感が欠落していたのですね。そして決定的だったのが、積極果敢な攻撃至上主義を徹底させるための捕虜の否定と降伏の禁止です。そのため、孤立しあるいはとり残されて、全体の戦況に何の寄与することもなくなり、ただ自滅を待つだけとなった部隊でも、降伏が認められない以上、餓死か玉砕以外に選ぶ道はないという場面が頻出したわけです。もし降伏が認められていれば、実に多くの生命が救われたでしょう。
 さらに責任の所在は、補給輸送を無視した作戦第一主義で戦闘を指揮し、大量の餓死者を発生させた陸海エリート軍人たちにあると厳しく指摘されています。氏は具体的に大本営陸軍部の三人の名をあげられています。
 大本営陸軍部(参謀本部)の中でも、とくに第一(作戦)部長田中新一中将、第二(作戦課長)服部卓四郎大佐、作戦課の作戦班長辻政信中佐の作戦担当責任者の発言権は絶大であった。対米英開戦から初期の南方作戦を指導したのもこのトリオであって、田中、服部は同じ部長、課長として、辻は戦力班長からシンガポール攻略の第二十五軍参謀としてその名を轟かせた。いずれも名うての積極論者、強硬論者で、つねに攻勢主導を主張し作戦をリードしたことでも知られている。(p.146)
 この三人がたてた、兵站を無視した無謀な作戦のせいでいったい何人ぐらいの日本兵士が死へと追い込まれたのでしょう。気になってウィキペディアで調べてみると、戦犯として訴追もされず、反省の言もなく、戦後を悠々と生き延び(辻は衆議院議員を四期、参議院議員を一期歴任)、天寿を全うした(辻は東南アジア視察中に行方不明)ようです。独善、専行、人命と人権の軽視、モラルと責任感の欠如、第二第三の田中・服部・辻をつくらないためにも、彼らの所行を教科書で取り上げるべきだと思いますが、今の文部科学省の見識では全く期待できません。その結果が、いまだに国民の命や暮らしを軽視して経済成長第一主義を主導するエリートを再生産されつづける状況につながっているのではないでしょうか。福島第一原発の大事故も、東北・関東大震災の甚大な被害も、これと無縁ではないと思います。
 日本の近現代史を貫く「人権の軽視」という心性を理解するうえでも、万人必読の書、お薦めです。
by sabasaba13 | 2012-01-24 06:14 | | Comments(0)

「極端な時代」

 『極端な時代 (上・下)』(E・J・ホブズボーム 三省堂)読了。19世紀の歴史を総合的にとらえた三部作『市民革命と産業革命』(岩波書店)、『資本の時代』(みすず書房)、『帝国の時代』(みすず書房)を著した、20世紀後半を代表する歴史家エリック・ホブズボーム。その彼が総合的な20世紀像の構築をめざしたのが本書です。これは読まずにはいられません。20世紀の世界を理解するための地図として役立つことを望んでいる、と氏は述べられていますが、その意図は十二分に実現されていると思います。しかも驚くべき博識と鋭い分析力と先入観にとらわれない柔軟な発想によって、これまで見たこともないような20世紀像を現出させてくれました。いくつか例をあげますと、"十月革命以来の短い20世紀全期間の国際政治は、旧秩序の諸勢力の社会革命にたいする長期の闘争として、もっともうまく理解できるだろう"(上p.83)という指摘、あるいは冷戦の責任はアメリカにあるという指摘です。氏は"戦後世界におけるすべての打算、すべての戦後の政策決定において、「すべての政策決定者の前提はアメリカの経済的優越であった」ことを忘れてはならない"(上p.360)とした上で、アメリカの優位を維持するために、ワシントンが国際的な現実政治に反共十字軍の要素を入れたと述べられています。
 第一次世界大戦、ロシア革命、ベルサイユ体制、世界恐慌、ファシズム、第二次世界大戦、冷戦と、息をつかせぬ鋭利な叙述が続きますが、1973年以降現在に至るまでを「危機の二十数年」と捉え、世界の未来を展望するくだりは圧巻です。これは世界のすべての人々の耳に届き、その実現に向けて最大限の努力をしてほしい目標です。それはこれからの政治に求められるのは、成長ではなく、社会的分配であるという提言です。迫りつつある環境危機を未然に防止するには、市場によらない資源の割り当て、あるいは少なくとも市場による割り当てにたいする厳しい制限が決定的に必要であり、新しい世紀における人類の運命は、いろいろな形で公共権力の復活にかかっているという指摘です。もしこの資源割り当てが実現していれば、レアメタル(コールタン)をめぐってコンゴ一帯で殺された300万人の命は救われたはずです。そしてこの問題は、権力はすでに存在しているのだから、ある意味では技術的な問題である、という指摘も重いですね。(下p.434) もしそれができなければ…
 われわれはどこに行くのか、われわれは知らない。われわれの知っているのは、歴史がわれわれをここまで連れてきたこと、なぜそうなったかということだけである。しかし、一つのことは明らかである。もし人類にはっきりした未来があるとすれば、それは過去や現在を先に引きのばしたものではあり得ないということである。その引きのばしの基盤の上に次の千年を築こうとすれば、われわれは失敗するであろう。そして、社会の変革に失敗するならば、未来は暗黒である。(下p.445)
 手遅れにならないうちに、ホブズボームの提言に真摯に耳を傾けるべきだと思います。いやもう贅言はやめましょう。叡智にあふれた彼の言葉を紹介します。歴史家はこうでなくちゃ!
 ソ連は戦時には西欧民主主義を軍事的に救い、第二次世界大戦後には資本主義が自ら改革していく動機―さもなければ滅びるという恐怖心―を与え、経済計画なるものの評判を高めて、資本主義の自己改革のためのいくつかの手続きを提供した。(上p.13)

 戦後の政治家、少なくとも民主主義国の政治家にとっては、―有権者は1914~18年のような大殺戮を二度と許すまいということはきわめて明白なことになった。…民主主義国の政府は自国の国民の生命を救いたいという誘惑に負けて、敵国の国民の生命を完全な消耗品扱いすることになった。(上p.39)

 これらの運動(※ファシズム)をつなぎ合わせた共通のセメントは、一方は大企業という大岩、他方は興隆しつつある大衆的労働運動という固い地盤の間で押しつぶされた社会に住む、しがない人々の怒りだった。(上p.179)

 狂気じみた極右が勝利するための最適条件は、古い国で支配機構がもはや動かなくなった国であり、国民が幻滅し、方向感覚を失って不満たっぷり、どこに自分の忠誠心を向けたらよいのかがわからなくなっており、強力な社会主義運動があって社会革命がおこりそうに見えて、しかし現実にはおこすだけの力がないような国、そして1918~20年の一連の講和条約にたいして民族主義的な憤激の動きがあるという状態であった。(上p.191)

 日本人は、自らの人種的優越性を確信し、自己犠牲、絶対的な命令服従、自己否定と禁欲主義といった軍事的美点を信奉していくには人種の純粋さが必要であると確信しており、その点ではどの国にもひけをとらなかった。彼らの社会は厳格な階層制の社会、個人が(もし日本でこの言葉に西欧的な意味がいくらかでもあったとすれば)国民と神のような天皇にたいして全面的な献身を捧げる社会、自由と平等と博愛が完全に否定されている社会であった。
 しかしヨーロッパのファシズムを、帝国主義的な国民的使命を帯びた東洋的封建制に還元することはけっしてできなかった。ファシズムは、本質的に民主主義と普通人の時代のものであった。自選の指導者のもと、新しい、むしろ革命的なつもりの目的をもった大衆動員の「運動概念」そのものは、ヒロヒトの日本では意味をなさなかった。…類似性はあっても日本はファシズムではなかった。(上p.199)

 1945年の事実上すべての国家は意図的かつ積極的に市場の優位を否定し、国家による経済の積極的な管理と計画化の必要性を信じていた。…各国の資本主義政権は、戦間期の経済的破局への回復を阻止し、人民が共産主義を選ぶ(政府がヒットラーを選ぶように)ところまで急進化する政治的危険を避けるのは、国家の経済介入によってのみ可能であると信じていた。(上p.268)

 冷戦の特異さは、客観的に言って世界戦争の直接的な危険はなかったという点にあった。しかも、双方の側、特にアメリカの側の世界終末論的なレトリックにもかかわらず、二つの超大国の政府はともに第二次大戦終結時の世界的な権力配分を承認していた。それはきわめて不均等ではあるが一つの力のバランスであり、基本的にはどちらもそれに反対していない状態であった。ソ連は、地球の一部―戦争が終わった時の赤軍とその他の共産主義兵力が占領していた地域―を支配し、あるいはそれに優越的な影響力を行使し、その影響力の範囲を軍事力でさらに拡張させようとはしなかった。アメリカは、資本主義的な世界の残りの部分、それに西半球とその大洋とに支配権と優越的地位を保った。旧植民地列強のかつての帝国主義的指導権のまだ残っていたものをひき継いだわけであった。その代わりに、アメリカはソ連の指導権の承認されている地帯には干渉しなかった。(上p.340)

 社会主義を掘り崩したのは資本主義とその超大国との対決ではなかった。それはむしろ、社会主義の経済的欠陥がますます明白になったのに加えて、社会主義経済がもっと力強く先進的で支配的な資本主義世界経済の急激な侵略を受けたからであった。冷戦のレトリックは、資本主義と社会主義、「自由世界」と「全体主義」を橋渡しできない谷間の両側と見て、橋渡し使用とする試みをすべて拒否したが(核戦争という相互の自殺はしないための橋渡し以外は)、実はそのことが、弱いほうが生きのびることを保証していたのである。非能率でゆるみつつあった中央計画的命令経済でさえもが、鉄のカーテンに守られて存続できた。おそらくは少しずつ弱ってはいたが、短期的に崩壊するようにはとても思えなかった。社会主義を弱体化したのは、1960年代以降、ソヴィエト型経済が資本主義世界経済と相互作用をもったからであった。1970年代の社会主義指導者が、自国の経済体制の改革という手強い問題に直面しないで、世界市場の新しく利用できるようになった資源(石油価格、安い借款等)を利用していく道を選んだ時、彼らは自らの墓穴を掘っていたのである。冷戦の逆説は、ソ連を究極的に敗北させ破滅させたのが対決ではなくてデタントであったという点にあった。(上p.376)

 20世紀後半の最も劇的で広範囲な社会的変化、われわれを過去から切り離している変化は、農民層の死滅であった。(下p.7)

 世界経済が真に地球的になるにつれ、とくにソビエト地域の崩壊ののちはもっと純粋に資本主義的になり、ビジネスの支配下に入るにつれ、投資家と企業家は第三世界の政治家、公務員を買収して、彼らの国の不幸な国民から吸い取られた金を武器や威信のための企画に消費させられなければ、第三世界は利潤のおもしろみがないと思うようになった。…これらの国々のきわめて多くがアフリカという不幸な大陸にあった。冷戦が終わり、これらの国は経済援助(もっぱら軍事援助)がもらえなくなった。(下p.116)

 (資本主義的)世界経済の驚くべき「大躍進」と、その地球化の増大は、第三世界という概念を分断させ混乱させただけではなかった。第三世界の事実上全住民を意識的に現代世界の中に連れ込んだのである。彼らは必ずしもそれを好まなかった。むしろ多くの「原理主義」運動やその他、名目的には伝統主義的な運動がイスラム世界だけではなくいくつかの第三世界諸国で今や地位を確立したが、それははっきりと現代世界に対する叛乱であった。(下p.117)

 危機の二十数年(※1973~)は、国民国家がその経済権力を失った時代であった。(下p.187)

 危機の二十数年の歴史的な悲劇性は、今では生産がはっきり目に見えるように、市場経済が新しい職を発生させるよりも早くに人間を切り捨てていることであった。(下p.189)

 不況と、人間を追放することを意図して大規模なリストラが行なわれた経済とが結びついて、いわば不機嫌な緊張が醸成され、それが危機の二十数年の政治に浸透していった。…ともかく生活様式がぼろぼろと崩れつつあった。まさにそのような時に人々は方向感覚を失うのである。(下p.191)

 危機の二十数年の間に、民主的資本主義諸国のそれまで安定していた政治構造がばらばらに解体しはじめたのである。しかしもっとも大きい成長の可能性を示している政治勢力は、大衆主義的な煽動政治と、指導者個人を高度に全面に押し出す手法と、外国人にたいする敵意とを結合しているような勢力であった。(下p.194)

 東と西は、どちらも統制できなかった超国家的経済だけでなく、冷戦権力体制の奇妙な相互依存性によって奇妙に結び合わされていた。このことが二つの超大国とその両者の間にある世界を安定させ、そしてそれが崩壊した時には両者を無秩序状態に陥れた。その無秩序は政治的なものにとどまらず、経済的なものでもあった。ソビエト政治体制が突如崩壊するとともに、ソ連圏に成立していた地域的分業と相互依存の網の目も同時に崩れたからである。ソ連圏に結合されていた各国、各地方は何の備えもなしに単独で世界経済に対処しなければならなくなった。(下p.195)

 20世紀末は、同時に暴力に満ちている。―過去よりも、より多くの暴力がある。そしておそらく同じように重要なこととして、武器に満ちている。(下p.257)

 20世紀後半の大きな発明によって―あまり認識されていないことであるが―国家は弱体化された。効果的な実力を独占することが、長期的に安定しているすべての地球で国家権力なるものの基本的な基準であったが、国家がその独占を失っていることもその一つの実例であった。これは破壊手段の民主化ないし私有化であり、それが地球上のどの地点においても、暴力と破壊の見通しを転換させた。(下p.407)

 冷戦直後のいくつかの状況―とくにボスニアとソマリアの状況―が、国家権力の限界を劇的に示して見せた。それは、次の西暦10世紀間の国際緊張の主要な原因になりそうなもの―つまり世界の豊かな部分と貧しい部分との間の急速に拡がりつつある格差から生じる緊張の原因―にも光を当てていた。(下p.408)

 人間と、人間が消費する(再生可能な)資源と、人間の活動の環境に対する影響―この三者の間に、あるバランスを打ち出さねばならない。…それは無制限の利潤追求にもとづく世界経済とは両立できない。(下p.422)

 20世紀末の世界経済には警戒を要する三つの点があった。
 第一に、技術が依然として財とサービスの生産から人間労働を締め出しており、放り出した人々に同種の仕事を十分に提供していないし、彼らを吸収するだけの経済成長率の保証もしていない。
 第二に、経済の地球化によって工業が高コスト労働力の豊かな国々にあった古い中心地から、ともかくも安い労働力―肉体と労働の―を主要な利点にしている国々へ移ったことである。そこから二つの結果が生じる。地球規模での賃金競争の圧力のもと、高賃金地域から低賃金へ職が移転することであり、そして(自由市場原理にもとづいて)高賃金地域での賃金が低下することであった。
 第三。第二の動きに対しては、歴史的には国家の行動=保護貿易主義によって対抗した。しかし、自由貿易主義と純粋自由市場のイデオロギーが勝利したために経済変動の社会的結果を管理していく道具の多くが弱体化され、あるいは除去されてしまった。(下p.425)

by sabasaba13 | 2012-01-23 06:16 | | Comments(2)

言葉の花綵66

 風になびく富士のけぶりの空に消えて 行方も知らぬわが思いかな (西行)

 銃殺隊のいない革命など意味はない。(レーニン)

 私自身が認める最大の問題は、この十七年間、要請してきたものは実際には道具なのです。人間ではないのです。自分で独立した判断基準を持たない道具になる人です。(科学技術大副学長・方励之)

 私はドイツが大好きだ。だから、いつまでもドイツが二つあってほしい。(フランソワ・モーリャック)

 権力は腐敗する。絶対的権力は絶対的に腐敗する。(アクトン卿)

 私の作品は二十二歳の自分への手紙だ。(司馬遼太郎)

 新しい音(note)なんてどこにもない。鍵盤を見てみなさい。すべての音はそこに既に並んでいる。でも君がある音にしっかり意味をこめれば、それは違った響き方をする。君がやるべきことは、本当に意味をこめた音を拾い上げることだ。(セロニアス・モンク)

 人間よ、人間よ、人間なら、憐れみなしに生きていけない。(ドストエフスキー 『罪と罰』)

 何人も無垢のまま支配することはできない。(サン=ジュスト)

 「蒸気機関が発明されて以来」と、イワノフは答えた。「世界は恒常的に異常事態下に入ってしまった。戦争と革命は、まさしくこの状態の目に見える表現だね…」(『真昼の暗黒』 アーサー・ケストラー)

 「われわれは全ての因襲を捨て去った。われわれの唯一の指導原理は論理上の必然性に従うことである。われわれは倫理という底荷(バラスト)は積まずに航海している。」
 おそらく、諸悪の根源はそこにあった。おそらく、底荷無しで航海に出るのは、人間には向かなかったのだ。おそらく、理性だけというのは欠陥のある羅針盤であり、それに従っていると、ひどく曲がりくねって、ねじくれた航海に迷い込んでしまい、最終的には、目的地を霧の中に見失ってしまうことになるのだ。
 おそらくじきに、大暗黒時代が到来するであろう。(『真昼の暗黒』 アーサー・ケストラー)

 こんな奴は沢庵石をつけて海の底へ沈めちまふ方が日本の為だ。(『坊つちやん』 夏目漱石)

 私たちは、地球にしている仕打ちを、おのれの体にもしているのだろうか? (ミッチェル・L・ゲイナー)

 数えられるものがすべて価値があるとは限らない。
 価値のあるものがすべて数えられるとは限らない。(アルバート・アインシュタイン)

 主は与え、奪いたもう。だが主はもはや、その行為ができる唯一の存在ではない。(アルド・レポルド)
by sabasaba13 | 2012-01-22 06:41 | 言葉の花綵 | Comments(0)