<   2012年 05月 ( 28 )   > この月の画像一覧

グリンデルワルト編(18):メンリッヒェン(10.12)

 高度があがるにつれどんどん小さくなるヴェンゲンの街並みや、向かいに聳え立つ山なみを眺めているとあっという間に山頂駅に到着。
c0051620_6191271.jpg

 一昨日も訪れましたが、ここからはオーバーランド三山(ユングフラウ・メンヒ・アイガー)を一望することができます。おっ遊覧飛行のためのヘリコプターとセスナが待機していました。さあいっちょ滑りますか。赤の3番や青の2番を何回か滑っては、"MANNLICHEN"という四人乗りリフトに乗って山頂に戻ることの繰り返し。紺碧の空、白銀の世界、峨峨たる山々、空いているコース、良好な雪質、五拍子そろった素晴らしいスキーを満喫することができました。そして最後は、ゴンドラ山麓駅までのロングコースを一気に滑り降りました。前方の眼下には山間に佇むグリンデルワルトの家並みが広がり、まるでその中へ飛び込んでいくような爽快な気分です。
c0051620_6194022.jpg

 そして山麓駅からバスに乗って、ホテルへ。板と靴をロッカーに置いて部屋に戻り、シャワーを浴びて暮色を身にまといはじめたアイガーを見ながらビールを飲んで一服。
c0051620_620424.jpg

 そして夕食をとる店を物色しがてら、グリンデルワルトの町をぶらつくことにしました。車道の両側に櫛比するホテルやレストランやお土産屋をひやかしながら十数分歩くと、もう町の外れです。教会の鐘楼を眺めていると、スノーボードを抱えたお嬢さんが近づいてきて不安げに「ここはグリンデルワルトですか?」と訊ねます。うーん、さすがは広大なスキー・エリア、コースを間違えるとツェルマットまで行ってしまう可能性もあるわけだ(ないない)。「大丈夫、ここはグリンデルワルトですよ」と安心させてあげました。脇道では、馬が重そうに橇をひいています。
c0051620_6203025.jpg

 そしてUターン、結局、山ノ神の意に沿う店がなかったので、夕食はホテルでとることにしました。なおスーパーマーケットは二軒、ミグロとCOOPがありますが、両方に立ち寄ってソフトドリンクやらビールやらつまみを購入。
c0051620_6205142.jpg

 そろそろくれなずんできましたが、ヴェッターホルンの山頂あたりにはまだ残照が輝いています。あれっ、もう午後五時を過ぎたのに駅前の郵便局がまだ営業しているぞ。表示によると営業時間は午後六時までとなっています。山ノ神が絵葉書に貼る切手を買いたいというので中に入ってみると、まるでコンビニエンス・ストアのようにいろいろな雑貨を売っていました。これも民営化の影響なのでしょうか。
c0051620_6222225.jpg

 部屋に戻り、もう一度シャワーを浴び、ベランダに出て購入した地元産ビールをいただきました。夕闇も濃くなり、山の斜面に点在する家々に灯りがともりはじめていました。アイガーの真上には一番星も輝いています。さてそれでは夕食をいただきに一階のレストランに行きますか。今夜はブラートヴルスト、焼いたソーセージにソースをかけ、フライド・ポテトをつけあわせただけのシンプルな一品ですが、やはりスイスに来たからには外せない料理です。肉汁を味わいながらたいらげ、フロント前に貼ってある天気情報を確認すると、明日は雲の多い天候のようです。ま、とりあえず朝の様子を見て、晴れそうだったらスキー、曇りそうだったらシルトホルンまでのプチ・トリップをすることにしましょう。部屋に戻り、ウィスキーをちびりちびりと飲みながら読書。そして就寝。
c0051620_622466.jpg


 本日の四枚です。
c0051620_623972.jpg

c0051620_6233131.jpg

c0051620_6235433.jpg

c0051620_6241879.jpg

by sabasaba13 | 2012-05-31 06:25 | 海外 | Comments(0)

グリンデルワルト編(17):ヴェンゲンへ(10.12)

 まずは足慣らし、青(easy)22番のコースを、右手にアイガーを眺めながら滑降。"ARVEN"という四人乗りリフトに乗り、同じコースをもう一本。次は"EIGERNORDWAND(アイガー北壁)"というフード付き四人乗りリフトに乗りました。ここから滑る青の25番はアイガー北壁のほぼ真下のコースです。時々止まっては、写真を撮影。そして"ARVEN"に乗ってふたたびクライネ・シャイデックへ。この頃になるとやっと陽が当たりはじめ、光り輝く白銀の世界が現出してきました。登山列車も気持ちよさそうにのてのてと山を上っていきます。
c0051620_61721.jpg

 さて、これからヴェンゲンまでのロングコースを滑りましょう。以前に滑った事があるのですが、なだらかで眺めが良い、ちょっとしたハイキング気分で楽しめるコースだったと記憶しています。おっ橇をずるずるとひっぱるお二人さんも同じ方へ行くようです。Here we go ! コースは青の36番、左手には雄大なお姿のアイガーとメンヒを眺められ、右手には線路が走り時々列車が行き交います。途中で、幾重にも貼りめぐらせたネットがあり、櫓が組まれていたので、どりゃどりゃと近づいてみると、近々開催されるワールドカップ滑降の準備でした。嗚呼、本番とは言いません、公開練習でもいいから、一度プロの滑りを間近で見てみたいものです。ま、無理でしょうが(伏線)。
c0051620_6172712.jpg

 そしてコースは広くなり、ほとんど人のいないなだらかな雪原を、雄大な眺望を満喫しながら、極楽蜻蛉に滑ればこの世は天国さっ。
c0051620_6175492.jpg

 やがて林間コースとなり、そこを抜けるとヴェンゲンの街並みを見渡せるところに出ました。
c0051620_6181739.jpg

 おっインストラクターに率いられたちびっ子たちが、つーいと目の前を滑っていきます。そしてヴェンゲンに到着、ラウターの谷とメンリッヒェンの山にはさまれた狭い平場にある、人口1000人ほどのとても静かなリゾート地です。町から外へ通じる道路はなく、ラウターブルンネンあるいはクライネ・シャイデックから列車で行くしかありせん。よって通りを走るのは電気自動車と馬車だけ、何とも落着いた長閑な雰囲気の町です。そうそう先日読んだヘミングウェイの『武器よさらば』(新潮文庫)でも言及されていました。
 「ウィンター・スポーツがお望みなら」彼は言った。「ヴェンゲンにいくべきですよ。わたしの父が、そこで上等なホテルを経営しています。年中無休でしてね」(p.462)
 ここからロープウェーでメンリッヒェンへと上ります。
c0051620_6185431.jpg


 本日の五枚です。
c0051620_6192663.jpg

c0051620_6194887.jpg

c0051620_6213046.jpg

c0051620_6215997.jpg

c0051620_6222545.jpg

by sabasaba13 | 2012-05-30 06:23 | 海外 | Comments(0)

グリンデルワルト編(16):クライネ・シャイデック(10.12)

 朝起きて眼をこすりながらベランダへ出ると(おおさぶっ)、その寒気によってぱついちで眼が覚めました。厳父のようなアイガーが「はよ滑りにこんかい」と関西弁(?)で叱咤しているような、雲一つない好天です。
c0051620_617403.jpg

 「そげんあわてることなか」と九州弁(?)で答えて、とるものもとりあえずホテルのレストランに朝食を食べにいきました。のんびりと朝食をいただき珈琲を飲んで部屋に戻る前に、フロント前の天気情報をチェックすると…晴天! 無風! リーチ一発ツモドラ三! なんてついているのだろう。もしかしたら人間万事塞翁が馬のように、今回の旅は本当に本当に幸運だったりして…いやいやいやいや予断は許せない。ワールドカップ滑降の公開練習を見られたら今度こそ今度こそ幸運だと信じましょう(伏線)。おいしいパンをひとつ懐に入れて部屋に戻り、キバシガラスのアントンとマリアたちに大盤振る舞い。
c0051620_61834.jpg

 そしておもむろにスキーウェアに着替え、ホテル地下のロッカーへ。スキー靴を履き、板とポールを持ってグリンデルワルト駅のプラットホームへ。たくさんのスキーヤーやボーダーやソリ(橇)ストであふれかえっていましたが、みなさん好天のためか満面に笑顔をたたえておられます。まだ時間があるのでホテルの前をぶらついていると、"IN MEORY OF OUR DEAR FRIEND TOM MARTIN WHO LOVED AND VISITED GRINDELWALD FOR OVER FIFTY YEARS"というプレートのある木製ベンチがありました。Mr.MARTIN、その気持ちよくわかります。そして素敵な友人に恵まれた人生だったのでしょうね。
c0051620_6182734.jpg

 そして入線した列車にどやどやと乗り込みましたが、幸い座ることができました。すぐに車掌さんがやってきて切符やリフト券をチェック。列車はがたこんがたこんと坂を下りグルント駅へ。
c0051620_6185798.jpg

 ここでスイッチバックをして、クライネ・シャイデックまで標高差1114mを一気に上ります。車窓からの眺めを楽しんでいると、三十分ほどでクライネ・シャイデック駅に到着です。
c0051620_6191940.jpg

 おっスキーを載せるトロッコを連結した古い列車が通り過ぎました。いまだ現役のようですね。清冽な空気を胸一杯にすいこみながらいいかげんな準備運動(良い子のみなさんはまねしないでね)。
c0051620_6195021.jpg

 時刻は午前十時、山頂には陽が当っていますが、このあたりは山にさえぎられてまだ日陰です。寒がり屋の山ノ神、アイガーをきっと見据えて曰く「んもお、アイガーじゃま。陽が当らないじゃない」。うぉっと、天下無双のアイガーに"邪魔"と言い放ったのは、世界広しといえでも彼女が初めてではないでしょう。ま、一応、神様ということでお許しください、アイガー様。(気分を害して天気を悪くしないでね)

 本日の一枚です。
c0051620_6201668.jpg

by sabasaba13 | 2012-05-29 06:21 | 海外 | Comments(0)

グリンデルワルト編(15):ホテルへ(10.12)

 そして数分で駅に到着、時刻表を見ると17:00発のインターラーケン・オスト行きのIC(Inter City 急行)があったのでこれに乗ることにしました。われわれは往復切符を購入してあったので問題なかったのですが、切符売り場には長い長い行列ができています。たまたま持参して読んでいた『私物化される世界』(ジャン・ジグレール 阪急コミュニケーションズ)の一節を思い出しました。
 つい最近まで、スイスは公共サービスの質に関しては定評を得ていた。しかし、議会の超自由主義的な多数派がこれに終止符を打った。スイス国有鉄道(SBB)-これは19世紀末に(スイスアルプス)ゴットハルト峠の下、レッチュベルク-シンプロン間にトンネルが建設されてからは国民の誇りであった-が国の手を離れて、民間の株式会社に衣がえされた。同じ運命が通信分野をも襲った。かつては、無数の支局をもち、信じられないほどのサービスを手頃な価格で提供したスイス郵便ももはや国有会社ではない。性急な民営化の結果、スイスの村々では郵便局が閉鎖される。手紙を一通、あるいは小包を一つ出すために、または払い込みを済ませるために、これからはまだ閉鎖されていない数少ない局へ行って、延々と続く長い列に並ばねばならない。鉄道の利用者もまた、ジュネーブのコルナヴァン駅で乗車券を買おうなどという愚かな考えを起こすと、同じような面倒に出くわすことになる。(p.97)
 うーむ、これも人減らしをともなう民営化の影響なのでしょうか。ご教示を乞う。さて小腹もへったし、車内で食べるものを仕入れておきましょう。ショッピングモールのように店がならんでにぎわう駅構内をうろつき、二人の大好物ケバブと、パニーニと焼き栗を購入。二等車に乗り込んであっという間にたいらげると眠気を催してきました。
c0051620_6174551.jpg

 うとうとしているとインターラーケン・オスト駅に到着、二時間ほどかかりました。そしてグリンデルワルト行きの列車に乗り換え、40分ほどで到着。部屋に戻ってアイガーに「ただいま」と挨拶をし、シャワーを浴びて一献傾けて就寝。

 本日の一枚です。
c0051620_618623.jpg

by sabasaba13 | 2012-05-28 06:20 | 海外 | Comments(0)

グリンデルワルト編(14):バーゼル市立美術館(10.12)

 そして下の階に行くと、ここバーゼルを拠点に活躍したハンス・ホルバインのコレクションが展示してあります。まずはエラスムスの肖像にご挨拶。華奢な鵞ペンに守られただけの、あくまでも協調和解を旨とする知性の人エラスムス、固く結ばれたその唇に彼の「人間であろう」という不屈の決意を感じます。そしてこちらもぜひ見たかった『死せるキリスト』(1521‐22)とご対面。…もう言葉もありません。縦31cm×横200cmというきわめて横長のキャンバスを棺に見立て、そこに横たわる処刑三日後のキリストの亡骸を描いた絵です。やせ衰え腐敗しかかった無惨な体、半開きの口、空ろな眼。実は『ドストエフスキー 謎とちから』(亀山郁夫 文春新書604)でこの絵のことを知ったのですが、氏によると『白痴』の中でムイシュキンはこう言っているそうです。「あの絵を見ていると、信仰を失う人だっているかもしれない!」 アンナ夫人の回想によると、1867年のヨーロッパ旅行でこの絵に接したドストエフスキーは圧倒的な感銘を受けたようです。「それから十五分から二十分ぐらいして戻ってみたが、ドストエフスキーは釘付けになったように、まだその前に立ちつづけていた。興奮したその顔には、癲癇の発作まぎわにしばしば見たことがある例の驚いたような表情が浮かんでいた」 そしてその衝撃が、『罪と罰』の主題に木霊しているというのが亀山氏の推論です。"人間は復活できるのか? 復活にはどのような意味があるのか?" 詳しくはぜひ本書をお読みください。
 そして現代絵画の部屋では、シャガール、レジェ、カンディンスキー、クレー、モンドリアンの作品群を堪能。最後の部屋では、ジャコメッティの彫刻が展示してありました。目を引かれたのが『猫』。例によって肉付けも凹凸もなく、荒々しくとげとげしい肌の細長い彫刻なのですが、なぜか愛嬌があります。猫の本質を鷲掴みにした、ということなのでしょうか。帰りにミュージアム・ショップに寄って、この『猫』と、『風の花嫁』 『エラスムス像』 『死せるキリスト』の絵葉書を購入。せっかくなので路面電車に乗ってバーゼル駅へと向かいましょう。ヨーロッパの常で、無賃乗車も容易なのですが、そこはそれ、やはり人の道を外れてはいけません。美術館の前に切符の自動販売機があったのですが、購入の仕方がよくわかりません。右往左往していると、近くを通りかかった老年のご夫婦が懇切丁寧に教えてくれました。Danke schoen! こういう親切に触れると、帰国したら困っている旅行者の手助けをしてあげようという気持ちがわいてきます。やってきた路面電車に乗ってバーゼル駅へと向かいました。
c0051620_1010222.jpg


 本日の一枚です。
c0051620_10101717.jpg

by sabasaba13 | 2012-05-27 10:11 | 海外 | Comments(0)

グリンデルワルト編(13):バーゼル市立美術館(10.12)

 旧市街のセント・アルバン通りをすこしぶらつき、ヴェットシュタイン橋からライン川と大聖堂を眺め、そして宮殿のようなバーゼル市立美術館に到着です。
c0051620_6143674.jpg

 1671年に開設された世界最古の公共美術館の一つで、ここバーゼルで印刷業などにより財を成したアマーバッハ家(Amerbach)がコレクションした美術品をバーゼル市が購入し公開したものが基となっているそうです。中庭には氷が張られ、スケートを楽しむ子どもたちや家族連れを、『カレーの市民』(ロダン)たちが気難しげな顔をして見詰めていました。
c0051620_615072.jpg

 体がすっかり冷え切ったので、カフェで珈琲を飲み一休み。さあそれでは入館しましょう。入館料11スイス・フランを支払おうとすると、係の女性はにこやかに曰く「第一日曜日は無料です」。やったあ! なんてついているのだろう。もしかしたら糾える縄のように、今回の旅は本当に福だったりして…いやいやいやいや予断は許せない。明日がピーカンだったら今度こそ幸運だと信じましょう。荷物と上着をクロークに預け、最上階から見学することにしました。なお写真撮影は禁止ですが、これはフラッシュの光を防ぐためか、あるいは絵葉書販売促進のためか、理由はよくわかりません。『大豹に襲われる黒人』(アンリ・ルソー)、『ドービニーの庭』(フィンセント・ファン・ゴッホ)、『ナフェア・ファア・イポイポ(あなたはいつ結婚するの?)』(ポール・ゴーギャン)といった、綺羅星のような近代絵画の名作を堪能していると、真正面の奥に一番会いたかったあの絵が見えてきました。そう、「一級の野蛮人」ことオスカー・ココシュカの縦181センチ、横220センチの大作、『風の花嫁』(1914)です。なんとせつなく、哀しく、激しく、そして美しい絵でしょう。横たわり抱き合う男女、うっとりととろけるように眠る女性、しかし男は空虚な表情で虚空を見つめています。この二人を包むようにとりまく、雲のような、波のような、空気のような"青"。幾重にも幾重にも塗り重ねられた、さまざまなニュアンスの壮絶な"青"。青の激しいうねり、女の陶酔、そして男の虚無。いったいどんなテーマが隠されているのでしょう。まずは、スーパーニッポニカ(小学館)から引用します。
オスカー・ココシュカ Oskar Kokoschka (1886―1980)
オーストリアの画家、劇作家。3月1日ペヒラルンに生まれ、ウィーン工芸学校に学んだ。1908年ごろからアール・ヌーボーの影響を脱して表現主義の傾向に向かう。10年ベルリンの「シュトゥルム(嵐)」のサークルに加わり、「絵筆の占師」の異名をとった独特の心理的肖像画によって注目される。第一次世界大戦に従軍して戦傷を受け、19年ドレスデン美術学校教授、24~31年中近東、北アフリカ、ヨーロッパ各地を旅行して、広大な視野をもつバロック的な風景画を描く。37年ナチスによって作品を没収され、38年ロンドンに亡命。同地でギリシア神話をモチーフとする作品を描いて、戦争とナチスへの抗議を行った。肖像、風景、神話のほかに幻想的な絵も描いているが、鮮やかな色彩の諧調を特色とし、思想的な内容を盛った石版画の連作も試みている。46年ウィーン名誉市民となり、53年以降はスイスのレマン湖畔のモントルーに住み、80年2月22日同地に没した。
 この絵に関しては、『世界名画の旅5』(朝日新聞社)で詳しく紹介されているので、私の文責で要約いたします。この絵に描かれた男性はココシュカ本人、そして女性はアルマ・マーラーです。貴族一門の父を早くに失い、音楽だけを心の友とする寂しい少女期を過ごした美しい彼女の初恋の相手はグスタフ・クリムト。母親は「早過ぎる」とこれを諌め、やがて彼女は指揮者・作曲家のグスタフ・マーラーと結婚します。楽才に恵まれていたにもかかわらず、マーラーはアルマに作曲を禁じ、妻としての献身だけを求めました。そして夫を失った彼女の前に現れたのがココシュカです。二人は恋に落ちますが、彼の子を宿したアルマは生むことを拒否します。彼女に母親像を求めたココシュカと、自由を求めたアルマ、二人の心はすれ違ったようです。そうした時に描かれたのがこの『風の花嫁』です。絶望したココシュカは第一次世界大戦に従軍して重傷を負い、アルマは建築家のグロピウスと結婚、二人の愛は引き裂かれました。戦争から戻ったココシュカは人形師に頼んで、細部まで克明に似せた等身大のアルマの人形をつくらせ、観劇や食事のときも傍らから離さなかったそうです。そして彼女が死ぬ十カ月前に、ココシュカからの電報が届きました。"最愛なるアルマ。バーゼルにある私の作品『風の花嫁』の中で、私達は永遠に結ばれている" 贅言はここまで、あとはただ絵に見惚れるのみ、なお余談ですが、1960年、ココシュカはマルク・シャガールとともに、ヨーロッパの文化・社会・社会科学に貢献した人物に与えられるエラスムス賞を受賞したというのも、私にとっては不思議な因縁ですね。

 本日の三枚です。
c0051620_6152473.jpg

c0051620_6154598.jpg

c0051620_616488.jpg

by sabasaba13 | 2012-05-24 06:16 | 海外 | Comments(0)

グリンデルワルト編(12):バーゼル(10.12)

 さてそれでは大聖堂とはお別れして市立美術館へと向かいましょう。地図を頼りにぶらぶら歩いていくと、"Holbein-Rundgang""Erasmus-Rundgang"というプレートが建物の壁に掲示してありました。ガイドブックによると、五つのお散歩ルートが市によって用意されているとのことです。
c0051620_6174384.jpg

 ある路地を歩いていると、ドイツ語なので詳細はわかりませんが、"HAUSE""ERASMUS"という単語が含まれた記念プレートがありました。おそらくここがエラスムスの住んでいた家なのでしょう。偶然とはいえよくぞ遭遇できたものです。感無量。
c0051620_61843.jpg

 前掲書によると、エラスムスがバーゼルに住んだのは二回。まず1521年から八年間この町で暮らしました。彼が求めたのはカトリック的でも宗教改革的でもない中立の町。"ヨーロッパの中心に位置し、静かで品よく、街路は清潔で、落着いた非激情的な人々が住み、いかなる好戦的な領主にも隷属せず、民主主義的に自由なこの町は、独立の学者に憧れの静寂を約束する" (p.149)とあります。ここで画家のハンス・ホルバインや版元のフローベンと知り合い充実した日々を送るのですが 、やがてバーゼルも宗教改革の熱病にとりつかれます。群衆は教会に殺到し、祭壇から絵画や彫刻をひったくり、それらを大聖堂の前に山と積んで焼いてしまいました。愕然とした六十歳のエラスムスはここを去り、安静を求めてオーストリア領フライブルクへと移住しました。そして1535年、七十歳となった彼は再びバーゼルに戻り、フローベンの息子やアマーバッハたちの暖かい好意に包まれて最晩年を過ごすことになります。"世界から隔絶されて、まったく静かに、疲労と体力の衰えのために一日のうち四五時間以上はベッドから離れられなくなったエラスムスは、その生涯の最後の時を内的な悪感のうちに過ごす"(p.201) なおフランソワ・ラブレーがここに彼を訪ね、「私が今日あるのも、ひたすら貴方あってのことです。…慈父ニシテ祖国ノ栄誉、文芸ノ守護者、真理ノ不敗ノ戦士ヨ」とあいさつしたという感動的なエピソードも残されています(p.202)。そして1536年7月12日、ラテン語でしか述べたり語ったりしなかった彼が硬直した唇で、「かみさま(リーヴェ・ゴッド)」と低地ドイツ語で呟き息を引き取ります。ここが、彼が最期の時を迎えた家なのですね。

 本日の三枚です。
c0051620_6182712.jpg

c0051620_6184576.jpg

c0051620_619329.jpg

by sabasaba13 | 2012-05-23 06:19 | 海外 | Comments(0)

グリンデルワルト編(11):大聖堂(10.12)

 そして下へと降り、エラスムスの墓銘碑を探しましたが見当たりません。係の女性に訊ねて場所を教えてもらい、正面に向って左手にある柱の裏にまわると…ありました。
c0051620_6162628.jpg

 スーパーニッポニカ(小学館)から抜粋して引用します。
 Desiderius Erasmus(1466―1536) オランダの人文学者。ロッテルダムに司祭の私生児として生まれる。…1488年にステインのアウグスティヌス派の修道院に入ったが、晩年には教皇に請願して僧籍を脱した。カンブレの司教の秘書を務め、その援助で95年パリに遊学、もっぱら古典ラテン文芸の研究に没頭した。自活をするためにイギリス貴族の子弟の個人教授をし、99年教え子といっしょにイギリスに渡り、トマス・モアやジョン・コレットらの人文学者と知り合った。…1506年にはイタリアからイギリスへ旅行中に着想して、ロンドンのトマス・モアのところで一気に書き上げたのが有名な戯文『愚神礼賛』(1511)である。それは「愚かさの女神」が世にいかに愚かなことが多いかを数え上げ、自慢話をするという形式をとり、哲学者・神学者の空虚な論議、聖職者の偽善などに対する鋭い風刺が語られている。
 1516年、キリスト教君主たちの間でキリスト教的平和の締結されることを切望した『キリスト教君主の教育』を公刊。またギリシア語『新約聖書』の最初の印刷校訂本を上梓したり、『ヒエロニムス著作集』(ともに1516)を公刊するなど、多彩な活動をなし、「人文学者の王」と仰がれるに至った。晩年は帰国後スイスのバーゼルに住み、そこで死去した。彼は教会の堕落を厳しく批判し、聖書の福音の精神への復帰を説いたので、その弟子からは多くの宗教改革者を出した。彼自身もルターの宗教改革に初めは同情的であったが、その熱狂的な行動には同調できず、『自由意志論』(1524)を書いて論争してからはルターと決定的に分裂した。ディルタイによって「16世紀のボルテール」とよばれたように、コスモポリティックな精神の持ち主で、近代自由主義の先駆者であるばかりでなく、ラブレーをはじめフランス文芸思潮に大きな影響を及ぼした。
 渡辺一夫氏のエッセイを通して彼の業績はそれなりに知ってはいたつもりですが、お恥ずかしい話、その著作を読んだことがありません。前もって『痴愚神礼讃』と『平和の訴え』(ともに岩波文庫)を読んでおくべきだったなあと悔やんでも後の祭り。これは帰郷してからの宿題としましょう。後日談ですが、その課題を果たす前に、シュテファン・ツヴァイクの『エラスムスの勝利と悲劇』(みすず書房)を読んだのですがこれが滅法面白い。『人類の星の時間』『権力とたたかう良心』とならぶ傑作ですね。「人文学者の王」と敬慕されたゆえ、エラスムスは宗教改革の荒波に巻き込まれてしまいます。教皇派もルター派もともにエラスムスを味方につけようとしますが、寛容・理性・和解・協調・自由・独立を尊重する彼はいずれの党派にも与せず、彼の永遠の節度である公正だけに仕えようとします。"むだとは知りながら、彼は汎人間的なもの、共通の文化財をこの不和から救うために、仲介者としてその中間に、したがって最も危険な場所に身を置くのである。彼は素手で火と水を混ぜ、一方の狂信者たちを他方の狂信者たちと宥和させようと試みる" (p.18) ただ一人、個々の派閥よりも人類全体に忠実であり続けた彼は、両派から攻め立てられ、孤独に一人きりで死んでしまいます。しかしこの小さな微かに燃える燈心は、ラブレー、モンテーニュ、スピノザ、レッシング、ヴォルテール、さらにカント、トルストイ、ガンディー、ロマン・ロランへと受け継がれていくことになります。華奢な鵞ペンに守られただけの、あくまでも協調和解を旨とする知性の人エラスムス。彼が掲げた炬火が、今だからこそ一人でも多くの人間の手に渡りますように願わずはいられません。
 なお余談ですが、エラスムスと日本にはちょっとした縁があります。1600 (慶長5)年、豊後に漂着した最初のオランダ船がリーフデ号(De Liefde)、乗組員のウィリアム・アダムス(三浦按針)やヤン・ヨーステン(耶揚子)が徳川家康の外交顧問となったことで有名です。その旧名がエラスムス号、同船の船尾についていたエラスムスの木像は船体破棄後も保存され、貨狄(かてき)様といわれ、群馬県佐野の竜江院に伝存しました。現在では東京の国立博物館に収蔵されているので、いつかこの目で見てみたいと思います。

 本日の二枚です。
c0051620_6165699.jpg

c0051620_6173843.jpg

by sabasaba13 | 2012-05-22 06:18 | 海外 | Comments(0)

「雑文集」

 「雑文集」(村上春樹 新潮社)読了。村上春樹氏が、授賞式などで行なった挨拶や、未収録の随筆などをおさめた一冊です。謙虚な氏のことなので、"雑文"と謙遜されていますが、どうしてどうして。形式にとらわれず、随所に氏の考える文学論・小説論・小説家論がちりばめられています。例えば、次の一文はいかがでしょう。
 でも少なくとも文学は、戦争や虐殺や詐欺や偏見を生み出しはしなかった。逆にそれらに対抗する何かを生み出そうと、文学は飽くことなく営々と努力を積み重ねてきたのだ。もちろんそこには試行錯誤があり、自己矛盾があり、内紛があり、異端や脱線があった。それでも総じて言えば、文学は人間存在の尊厳の核にあるものを希求してきた。文学というものの中にはそのように継続性の中で(中においてのみ)語られるべき力強い特質がある。僕はそう考えている。(p.28)
 また賛否両論、話題となったエルサレム賞受賞式の挨拶ではこう述べられています。
 私が小説を書く理由は、前じ詰めればただひとつです。個人の魂の尊厳を浮かび上がらせ、そこに光を当てるためです。我々の魂がシステムに絡め取られ、貶められることのないように、常にそこに光を当て、警鐘を鳴らす、それこそが物語の役目です。私はそう信じます。生と死の物語を書き、愛の物語を書き、人を泣かせ、人を怯えさせ、人を笑わせることによって、個々の魂のかけがえのなさを明らかにしようと試み続けること、それが小説家の仕事です。そのために我々は日々真剣に虚構を作り続けているのです。(p.79)
 "人の魂を絡め取ろうとするシステム"と"人間の尊厳"、彼の小説を読み解く上で重要なキーワードのような気がします。それでは人間の尊厳とは何か。他の箇所を引用します。
 僕の小説が語ろうとしていることは、ある程度簡単に要約できると思います。それは「あらゆる人間はこの生涯において何かひとつ、大事なものを探し求めているが、それを見つけることのできる人は多くない。そしてもし運良くそれが見つかったとしても、実際に見つけられたものは、多くの場合致命的に損なわれてしまっている。にもかかわらず、我々はそれを探し求め続けなくてはならない。そうしなければ生きている意味そのものがなくなってしまうから」ということです。(p.388)
 村上氏は、大事なものを探し求め続ける営みを「物語」と捉えているのだと思います。そして人間というものは、それぞれの固有の「物語」を持って生きている、かけがえのない、交換不可能な存在であると。そうした個々のささやかな「物語」の存在を許さず、大きな「物語」へと絡み取ってしまうのが"システム"ではないのか。私はそう読み取ったのですが、そう考えると、ナショナリズムや市場原理主義といった「大きな物語」が弥漫している現状がよく理解できます。あるいは、個々の小さな「物語」に孤立感や孤独感を感じて寂しくなり、大きな「物語」に救いを求める人もいるのかもしれません。これは私の思いつきですが。その個々の、小さいけれど大事な「物語」をつなぐのが小説の大切な役割だと、氏は考えておられるのではないかな。
 僕が小説を書くひとつの大きな目的は、物語というひとつの「生き物」を読者と共有し、その共有性を梃子にして、心と心とのあいだにパーソナルなトンネルを掘り抜くことにあるからです。あなたが誰であっても、年齢がいくつでも、どこにいても(東京にいても、ソウルにいても)、そんなことはぜんぜん問題ではありません。大事なのは、その僕が書いた物語を、あなたが「自分の物語」としてしっかりと抱きしめてくれるかどうか、ただそれだけなのです。(p.72)
 いろいろな文章を勝手に切り貼りして、私が考えた、村上春樹氏の文学論です。ご海容を。もちろん、他にも楽しくて深い随筆などが目白押しです。特に、氏の愛する音楽に関する文章に佳作が多いですね。J・S・バッハやセロニアス・モンクについて語った愛情に溢れるエッセイは忘れられません。個人的に、珠玉の一編を選ぶとすれば、かつてヤクルト・スワローズで活躍したデーブ・ヒルトンについてのエッセイです。忘れもしません、時は1978年、私が大学に入学した年でした。広岡監督率いる万年弱小球団があれよあれよと勝利を積み重ね、初優勝したのですね。投手は松岡(安田でもいいですが)、捕手は大矢、一塁は大杉、二塁はヒルトン、遊撃手は…ごめん忘れた、三塁は船田、レフトは杉浦、センターは若松、ライトはマニエル、思い出は美化されるにしても素晴らしいラインアップでした。中でもヒルトンには、うまく言えませんが不思議な魅力を感じていました。(たしかこの年の打率は0.317) その魅力を、過不足なく言葉にして届けてくれた忘れ難いエッセイです。たしか「ナンバー」という雑誌に掲載され、しばらく愛蔵していたのですが、引越しの際に紛失してしまいました。まさかこんなところで再会できるとは。それ以後、スワローズのファンとして日々の試合に一喜一憂しておりますが、これは私の小さな「物語」です。
by sabasaba13 | 2012-05-21 06:15 | | Comments(0)

言葉の花綵70

 神様は富というものを軽蔑していらっしゃるから、ロクでもない奴にしかお与えにならない。(オースティン・オマリー)

 考えてみれば、金というのはセックスとまったく同じで、充分にある時は他のことも考えるけれど、足りないとなるともうそのことしか考えられなくなる。
(ジェイムズ・ボールドウィン)

 恋というのは本当にすてきなものだから、老いたらお金を払ってでも買うのよ。(フランソワーズ・サガン)

 貧しい者は自分が相手に近づくことができないだけでなく、もう愛していない相手から逃れることができない。(E・M・フォースター)

 貧民席の人は拍手してください。それ以外の方は宝石をじゃらじゃら鳴らしてください。(ジョン・レノン)

 金を数えられる間はまだ本当の金持ちではない。(ポール・ゲッティ)

 私をメンバーとして迎えてくれるようなクラブには入りたくない。(グルーチョ・マルクス)

 ぼくは君の意見には反対だ。しかし、きみがそう言う権利のためには命を懸ける。(ヴォルテール)

 表現の自由とは何か? 世論に逆らう自由がなければ、表現の自由など無意味だ。(サルマン・ラシュディー)

 暗殺とは究極の検閲である。(ジョージ・バーナード・ショウ)

 私に言わせれば、テレビはとても教育的だ。誰かがスイッチをいれた途端に、私は別の部屋に行って本を読む。(グルーチョ・マルクス)

 TVというのは、テリブルなヴォードヴィルの頭文字だ。(グッドマン・イエス)

 テレビは、何百万もの人々に同時に同じジョークを伝えながら、その全員を孤独なままに置く。(T・S・エリオット)

 世界の隅々まで光りをもたらすものが二つだけある。一つは太陽であり、もう一つがAP通信だ。(マーク・トウェイン)

 政治家は自分でも自分が言っていることを信じていないから、他人が信じてくれるとびっくりする。(ドゴール)

 何かを測るのはやさしい。むずかしいのは、自分が何を測っているかを正確に知ることだ。(J・W・N・サリヴァン)

 世の中には三種類の嘘がある。嘘と、とんでもない嘘と、統計だ。(ディズレーリ)

 科学というのは刃物だから、玩具にしていると自分の指を切る。(アーサー・エディントン)

 科学の目的は無限の知恵への扉を開くことではなく、過ちの可能性を有限にすることだ。(『ガリレオの生涯』 ブレヒト)
by sabasaba13 | 2012-05-20 07:54 | 言葉の花綵 | Comments(0)