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山形編(8):上山温泉(11.8)

 そしてタクシーに乗り込み、コンチェルト館へと向かってもらいました。かかった料金は約一万円。なお、インターネットを調べていて今わかったことですが、かみのやま温泉駅には「駅から観タクン」がありました。恵那駅でも利用したのですが、小型タクシーを二時間6000円で貸し切り、観光ができるという優れものの企画です。一応コースは決まっているのですが、相当融通もきくようです。もう後の祭りですが、こちらを利用すればよかったなあ。ま、♪上をむ、う、い、て、あーるこ、お、お、お♪。ここコンチェルト館は、映画『おくりびと』で、主人公の若夫婦の居宅となった喫茶店ですね。映画評も書きましたが、なかなかよいシャシンでした。事前にインターネットで調べたところ、この映画のロケ地となったのはこの上山温泉をはじめ、鶴岡、酒田、遊佐だそうです。すべてのロケ地をまわるほどこの映画への妄執はありませんので、後は酒田でNKエージェント・ビルを訪れる予定です。
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 そしてここから羽州街道をお城の方へと歩いていきます。途中にあった白塗りの洒落た洋館は仕舞た屋のようですが、「たばことアクセサリー」という看板がかかっていました。"嫌煙"の風潮が蔓延する現今からみると、大胆不敵な看板ですね。
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 上山城への登り口の先にあったのが「パナマ通り」という看板。ぱなまどおり? そばにあった解説板によると、1914年に完成したパナマ運河工事のため、ここ上山から38名の町民が出稼ぎに行き、工事完成後に帰国してこのあたりに住居を構えた…というのはバイオレット・レッドな嘘、その命名の由来はまったくわかりません。ちょっと中に入ってみましたが、何の変哲もない路地でした。ご教示を乞う。
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 このあたりの街並みは、土蔵造りや格子窓の見事な古い商家が散見される落ち着いた雰囲気です。
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 下大湯公衆浴場と沢庵桜を写真におさめて、それでは駅へと戻りましょう。ある理髪店の店先に"震災復興ヘア スマイルカット"という髪型のポスターが貼ってありました。ドライヤーを使わないで仕上げられるというコンセプトのようですね。そして"大正12年の関東大震災より流行した「震災刈り」"も紹介されています。へえー寡聞にしてこれは知りませんでした。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2012-11-30 06:16 | 東北 | Comments(0)

山形編(7):楢下宿(11.8)

 再びバッグをコインロッカーに預け、まずはタクシーで楢下(ならげ)宿と花咲山展望台に行ってみましょう。駅まで客待ちをしていたタクシー…ん? いやにその数が多いぞ。これはもしかすると、観光客が激減しているのではないか。乗り込んだタクシーの運転手さんに訊ねると、憂鬱そうな表情で、観光客は例年の半分ほどだと答えてくれました。このあたりの放射線量測定値はわかりませんが、観光客が敬遠するのはよく理解できます。原発事故のもたらす甚大な被害に、肌に粟が生じ心肝が寒くなりました。なぜ私たちは核(原子力)発電所に反対しなかったのでしょう? なぜ核(原子力)発電所建設を推し進めた自由民主党に過半数の議席を与えてきたのでしょう? "だまされた"ではすみません。臓腑を抉るような猛省とともに、真の意味での学力、具体的には批判精神・知的好奇心・社会への関心・不正や不公正への怒りとそれを正すための戦略と行動力、そういったものを私たちは身につけなければなりません。伊丹万作曰く、"だまされるということ自体がすでに一つの悪である" 駅前には斎藤茂吉の歌碑がありました。"朝ゆふはやうやく寒し上山の旅のやどりに山の夢みつ" 1931(昭和6)年に長兄の病気を見舞うため上山に数日滞在したときに詠んだ歌で、歌集『石泉』におさめられているそうです。斎藤茂吉は山形の金瓶の生まれ、次の茂吉記念館前駅近くには彼の記念館があります。かなり前に訪れたのですが、茂吉は小便が大変近く、いつも「極楽 茂吉」と書いてある小さな金のバケツを持ち歩いて用を足したというエピソードと、そのバケツが展示してあったことしか覚えておりません。C'est la vie.
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 そしてタクシーに乗り込み、二十分ほど走ると楢下宿に到着です。宮城県七ヶ宿から金山峠を越え、上山にぬける羽州街道の宿場町で、江戸時代ここを宿場として参勤交代を行った藩は、新庄藩・庄内藩・秋田佐竹藩・津軽藩など奥州の13藩に及んだそうです。ただ残念ながら往時の俤は失われ、旧家あまり残っていませんが、そのうち大黒屋・庄内屋・滝沢屋が公開されていました。集落の真ん中を流れる金山川にかかる覗橋(1882年竣工)と新橋(1880年竣工)は、見事な石橋でした。解説板によると、明治初期に三嶋通庸が山形県令になると、西洋の土木技術を導入した石の橋を架けることを奨励したそうです。
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 そして上山市街へと戻ります。運転手さん曰く、上山温泉には、古い順に、湯町、新湯、葉山という三つの温泉街があるそうです。その葉山の裏山にあるのが花咲山展望台。未舗装の狭い山道を数分ほどのぼると到着です。そして中空に突き出たような展望台の真ん前には、出たな妖怪、「恋人の聖地」碑がありました。盲亀の浮木、優曇華の花、まさかここで遭遇するとは想定外。なお「恋人の聖地」とは、NPO法人地域活性化支援センターが、地域活性化および少子化対策として、各地を代表する公共的な観光施設・地域を中心に認定したもので、プロポーズに適したロマンティックな観光情報発信を行なっています。こ奴に対する罵詈雑言は福岡タワーのところで飛ばしたので、そちらをご参照ください。別に出会いたくもないのに遭遇してしまう物件、これまでも福岡タワー、伊良湖岬尾道で、不覚にもでくわしてしまいました。ま、別に目くじらを立てるほどのことではありませんが。なお余談ですが、"目くじら"とは目尻のことで、鯨とは関係ないそうです。閑話休題、ここからの眺めは絶景でした。
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 十重二重、重畳と連なる山々に抱かれたひそやかに息づく緑の沃野と街並み、残念ながら蔵王連峰は靄の中でしたが、それでもまるで小宇宙のような光景です。それを一望のもと手に取るように眺める、思わず"国見"という言葉を実感しました。スーパーニッポニカ(小学館)によると、"天皇や地方の首長が高い所から国の地勢や人民の生活状態などを望み見ること"ですね。天皇や首長は脇に置いておくとして、これが本来の「くに」なのだと思います。長い長い時をかけて編みあげてきたヒューマン・スケールの地域共同体とでも言えばいいのでしょうか。これくらいの規模だったら、愛くに心(愛郷心・patriotism)もおのずと湧こうというものです。思うに近代とは、経済力と軍事力を効率的に増強するために、こうした「くにぐに」を中央集権的な国家権力が絡め取り、愛国心(nationalism)という粘着剤をまぶしながら「国」へと編み直していった時代なのかもしれません。日本という「国」の歴史よりも、こうした「くに」のそれの方がはるかに長い悠久の時を刻んできたことを銘肝したいと思います。
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 なお晴れた日に撮影した写真が掲示してありましたので掲載しておきます。蔵王連峰が眺望できるこんな快晴の日に再訪できるよう、近くにあった幸の鐘を叩いて祈りました。余談ですが、私の初スキーはあそこ、雲に隠れた地蔵山。「怪我せぬようお地蔵さまにお参りしよう」と先輩に騙されてロープウェーに乗せられ、ザンゲ坂をこけつまろびつ転げ下った苦い思い出があります。
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 本日の三枚、上が覗橋、真ん中が新橋です。
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by sabasaba13 | 2012-11-29 07:56 | 東北 | Comments(2)

山形編(6):長井(11.8)

 そして今は小桜館としてイベント会場として再利用されている旧西置賜郡役所を拝見し、最近はまっている透かしブロックを撮影して本町通りを左折すると丸大扇屋という古い商家があります。
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 解説板によると、生活必需品の販売、京・大坂との取引、苧の集荷と小千谷への販売、地主など手広い商いをしていた豪商だそうです。小間屋門をくぐりぬけ中庭に入ると、主屋、店蔵、蔵座敷、味噌蔵などが往時の雰囲気のまま残っています。
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 そしてその先にある風間書店で右折すると、貿上醤油店のモダンな建物とご対面です。時刻は午後一時ちょっと過ぎ、上山温泉も散策したいし雨の止む気配もないので、いたしかたない、終点の荒砥駅近くにあるという荒砥鉄橋には後ろ髪を引かれますが、潔く撤退することにしました。
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 長井駅に戻る途中でも、けったいな洋館や、三種類の透かしブロックを駆使した塀を見かけました。時間をかけて歩けばさらなる掘り出し物に出会えそうな町です。
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 長井駅に着き、入線してきた列車を見ると、映画『スウィングガールズ』のロゴマークやタイトルが一面に描かれ、ドアには「ジャズやるべ♪」と書かれ、車内には俳優たちの記念写真が掲げてありました。
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 そして出発進行、この頃になると雨も上がり、車窓からは遥かなる山なみと、実るほど頭を垂れた稲穂の波を楽しむことができました。いいなあ、山形。赤湯駅に到着し、コインロッカーから支援物資を詰め込んだバッグを取り出し、ホームで山形新幹線「つばさ」の到着を待っていると、ホームの屋根に上る梯子を発見。雪下ろしのためでしょう、あらためて冬の厳しさを実感しました。
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 そしてやってきた「つばさ」に乗り込み、車窓からの眺望をしばし堪能。十数分でかみのやま温泉駅に到着です。ホームに「かみのやま温泉は日本のクオアルト」というポスターが貼ってありましたが…クオアルト?
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 今さっそく調べてみると、「治す力」というホームページに詳細な説明がありましたので引用します。
 自然療法による治療がメインで行われるのは、「クアオルト」と呼ばれる長期滞在型の保養地です。ドイツ国内には、その土地ごとの自然特性を生かしたクアオルトがたくさんあります。
 クアオルトとして認定されるためには、必要な医療スタッフと治療施設が必要です。その上、体の治癒に役立つ自然環境、公害や騒音が無いこと、提供される食べ物が有機栽培を含めて自然なものであること、適切なゴミ処理やリサイクルが実施されていること、建物や建築材料の制限など、実に多くの厳しい条件をクリアしなければなりません。
 また、長期滞在の患者を退屈させないための、さまざまな娯楽施設や、運動施設も必要です。そのため、認定を受けたクアオルトには、およそ健康の回復を阻害するようなものはない…といっても過言ではありません。また、それぞれのクアオルトはその自然特性に応じて適応症の特徴があり、患者は自分に適したクアオルトを療養の場所として選ぶことができます。
 なるほど、夢は大きな少年剣士ですね。はたしてその名に値するかどうかは検証できませんでした。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2012-11-28 06:18 | 東北 | Comments(0)

山形編(5):長井(11.8)

 ふたたび本町通りに戻り駅の方へ歩いていくと、ある商店の店頭に「東日本大震災 ゲンキオダセ…みんなで応援 風評におどるな」という貼り紙がありました。"応援"に関しては、もちろん大賛成ですが、"風評"については態度を留保します。放射能による悪影響を目いっぱい過小評価して、利権を守ろうと必死になっている原子力マフィア(官僚・政治家・企業)の存在を考えると、十把一絡げに"風評"と言うのは危険すぎます。御用学者・御用メディアを含めてそうした発言を挙げれば、枚挙に遑がありませんが、一つだけ紹介します。経済産業省と並ぶ原子力マフィアの巨頭・文部科学省が発表している「放射能を正く理解するために 教育現場の皆様へ」というパンフレットの中に「チェルノブイリ原発事故による影響」という一項があり、その最後にこう述べています。
 放射線の影響そのものよりも、「放射線を受けた」という不安を抱き続ける心理的ストレスの影響の方が大きいと言われています。
 やれやれ、これが"教育の振興および生涯学習の推進を中核とした豊かな人間性を備えた創造的な人材の育成"せんとする役所の実態です。まあ、2011年度原子力関連予算4556億円のうち、2571億円を分捕っているお役所ですから、原発利権を守ろうとする気持ちはよくわかりますけれどね。しかしそのために、子どもたちの命と健康と末来を犠牲にしてもかまわないというのですから、これはもう確信犯、大量殺戮行為です。いっそのこと、文科省まるごと福島第一原発の近くに移転して、被災者の塗炭の苦しみと底なしの不安を身に沁みていただきたいものです。話がそれましたが、"風評"と"真実"を見極める姿勢が必要だと思います。最近とんと御無沙汰していた"飛び出し小僧"を撮影し、ランドマーク的な「菓子の中央安城」ビルを右折してすこし歩くと、1933(昭和8)年に建てられた長井小学校に到着。モダンな味わいの木造校舎ですが、いまだ現役というのが嬉しいですね。門の所には、「大樹を仰いで後人を待つ」という石碑がありました。
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 そして再び本町通りへ、ある商店の店先に漬物容器が山のように積まれていたのに、この地の風土性を感じます。その先にあったゴミ収集所には、「必ず地区名、氏名を書いて出してください」という注意書き。監視の眼にはけっこう厳しいものがあります。
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 まるで武家屋敷のような芳賀醤油、1931(昭和6)年に架けられた撞木を撮影していると、雨が本降りになってきました。
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 ペディメントのある不思議なパン屋を通り過ぎ、路地の奥まったところにある上杉藩の青苧蔵御門を拝見。青苧とは「からむし」とも呼ばれ、皮をはぎとり蒸して晒して繊維とするための多年草で、上杉藩の重要な生産物だったそうです。その青苧を収める蔵の正門で、1663(寛文3)年に建てられた古い門です。大東薬品の建物は、蔵の前面をすっぽりと無粋で無機的なファサードで覆ったもの、ちょっともったいないなあ。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2012-11-27 06:17 | 東北 | Comments(0)

山形編(4):長井(11.8)

 そして出発進行、赤湯から二つ目の駅が、ウサギ駅長"もっちぃ"の勤務している宮内駅です。駅舎の脇には、「童謡のふるさと宮内」という看板があり、♪ないしょ、ないしょ、ないしょの話はアノネのネ♪という童謡「ないしょ話」の歌詞が記されていました。今、インターネットで調べてみると、作詞者の結城よしをは1920(大正9)年にここ宮内で生まれ、「ぶらんこ」「みんなよい子で」など数々の童謡を作り、戦争中に24歳で夭折したそうです。
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 そしてしばらくすると、一天にわかにかき曇り、小雨が降ってきました。"天下無双の晴れ男"を自負する私としては想定外の事態ですが、ま、こんなこともありますわな。赤湯から三十分ほどで駅に到着、ここ長井は最上川による舟運の拠点として殷賑を極め、米沢藩の陣屋も置かれ、上方との文化の交流もさかんだったそうです。まずは駅で観光地図をいただき観光ポイントをチェック、本来ならばこちらで自転車を借りたいところなのですが、降雨のため徒歩で散策することにしました。駅前の通りには、地元の方の経営らしき喫茶店が数軒ありましたが、散歩の経験則で言うと、こういう町にはずれはありません。
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 本町通りを右へ曲がると、いきなり兜のような形をした萱葺き屋根の民家に遭遇しました。その先にあるのが恰幅のよい桑島記念館(旧桑島眼科医院)、1927(昭和2)年に建てられた西洋建築です。そしてその偉容で周囲を睥睨する旧小池医院に到着。ハーフ・チンバーの切妻造りの洋館で、屋根の上に屹立する八角形の望楼がひときわ目立ちます。いやはや、これまでも古い医院をいろいろと見てきましたが、文句なく五本指に入れたい逸品でした。
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 その先も重厚な銅の看板と格子窓が印象的な茶屋の松龍園、火の見櫓と並べられた大きな甕が見事な景観をつむぎだす古い商家・山一醤油、イオニア式オーダーをもつ元羽前銀行、米穀商を営んでいたという萱葺き屋根の齋藤家住宅と、歴史を感じさせてくれる建築が目白押し。
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 歴史的な物件ではないのでしょうが、切妻屋根に小さなマンサール屋根を組み合わせた洒落たお宅もありました。雰囲気のよさそうな路地に入ると、そこかしこに土蔵が見られます。しかも朽ち果てておらずに手入れをして再利用しているものが多いので、こうした古い建物を大切に保存していこうという地域の方々の心意気を感じます。
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 また、網の目のように水路が走っているのもいい風情ですね。紬問屋の蔵を利用した「やませ蔵美術館」には、水路の流れる美しい庭園があるそうですが、残念ながら休館でした。
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 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2012-11-26 06:19 | 東北 | Comments(0)

山形編(3):山形鉄道(11.8)

 米沢駅を過ぎ、高畠駅で列車待ち合わせのため数分ほど停車するとの車内アナウンスが入りました。…あっそうか、ここは単線なんだ。ホームに出て煙草をくゆらしながら、列車前方に行くと、たしかに線路は一本しかありませんでした。なお高畠駅に、「レンタサイクル」という看板があることが視認できました。
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 そして赤湯駅に到着、援助物資をコインロッカーに預けて、きょろきょろすると、幸いなるかな、駅構内に観光案内所がありました。さっそく長井市の観光パンフレットと山形鉄道の時刻表を所望。そして跨線橋を渡りJR赤湯駅内に併設されている山形鉄道のホームへ行くと、正面に「もっちぃ」と記されている一両編成のディーゼルカーが停車していました。なんでも宮内駅にウサギ駅長の"もっちぃ"、ウサギ駅員の"てん"と"ぴーたー"が勤務しているそうです。会津鉄道芦ノ牧温泉駅にはネコ駅長"ばす"、わかやま電鉄貴志川線貴志駅にもネコ駅長"たま"がいるそうですが、ウサギ駅長ときたか。まあこれで観光客が来るのなら、別段青筋たてて「子ども騙し」と糾弾するつもりはありませんが、もう一工夫ほしいですね。ホオジロザメ駅長の"しゃー君"とか、イトマキエイ駅長の"万太"だったら私も飛びつくのですが。
 列車に乗り込み、さっそくいただいた時刻表でこれからの行程を確認。だいたい1~2時間に一本ほどしか運行されていないので、かなりのロスを覚悟しなければなりません。とりあえず長井の町を徘徊してから荒砥へと向かうことにしました。車内を見回すと、そこかしこに"もっちぃ"にちなんでウサギの切り絵が貼ってあります。窓ガラスには、イソップ童話「ウサギとカメ」のストーリーを切り絵で描いてありましたが、ちょっとひとひねりしています。ウサギがカメを背中に乗せて疾走、二人で仲良くゴールインするというもので、最後は「勝っても負けてもなかよしこよし」という科白でしめくくられていました。
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 いいなあ、競争原理がおぞましいほど瀰漫している現今の日本、そして世界で、足の遅い者を足の速い者が背負って一緒にゴールすることこそが求められているのではないかな。たとえタイムが遅くなるにしてもね。"競争"というと、アルフィ・コーンの名著「競争社会をこえて」(法政大学出版会)を思い起こします。著者は競争を「ある人の成功が他の人の失敗によって成り立つようなシステム」と定義した上で、そのデメリットを様々なデータや例証をあげながら執拗に主張していきます。「他の人々が敗北するのをこの目で見ようという構造的な動機が、人間関係に楔をうちこみ、敵意を生じさせずにはおかない」「競争的なやり方は、ほとんどいつも二倍の労力を必要とする。なぜなら、自分ひとりで課題に取り組むには、すでに誰か別の人がでくわして、すでに克服してしまったような問題に時間と能力とを費やさなければならないからである」「構造的な協力は、相手を助けることが、同時に自分をも助けることになるというように、状況設定を行ってくれる。今ではもう相手と運命をともにしているのである。協力というのは、賢明で、成功する可能性がとても高い戦略であり、実践的な選択である」「われわれ人間は、楽しんでやるものこそもっともうまくやれるものなのである」 それでは、私たちが競争に巻き込まれ、不安やストレスを抱えながら生き残りのために互いの足を引っぱりあい、絆や連帯がずたずたに引き裂かれると一番得をする者はだーれだ? そう、現状のシステムから利益を得ている方々、資産家、官僚、政治家のみなさんたちです。彼らが現存のシステムを維持するために最も障害となるのは私たちの連帯、それを妨害するために競争原理を煽っていることを銘肝しましょう。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2012-11-25 04:50 | 東北 | Comments(0)

山形編(2):山形へ(11.8)

 八月好日、大宮駅から山形新幹線「つばさ」に乗込み、上山温泉に向けて出立。郡山のあたりを通り過ぎた時、ブルーシートで一部が覆われている屋根を車窓からいくつか見かけました。
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 3.11の揺れの凄まじさがうかがわれます。そしてここ郡山は福島第一原発からそう遠く離れてはいないので、やはり放射能による汚染が心配です。数十年後、あるいは数年後、原発周辺の汚染された地に暮らす方々、とくに若者、子ども、新生児、胎児にどのような影響が出るのかと考えると、暗澹たる気持ちになってきます。もしも政府が、仮に住民の生命や健康に対する配慮の念をかけらでも持っているのであれば、すぐに、徹底的な調査、除染措置、そして場合によってはどんなに大規模になろうとも当該地からの住民の避難を、責任をもって行なうべきです。ホッブズが「いかなる形態であれ、国家が保護の職務を引き受ける限り、民衆はこの国家を正統とみなすことができる」と言っていますが、その通り、民主党でも自民党でもその他の政党でも、民衆の保護を実際に行なった政権のみを正統と認めましょう。それにしても不可解なのは、尖閣諸島や竹島や北朝鮮に関する問題が起こると"待ってました"とばかりに大騒ぎする国会議員やメディアが、この問題に関しては路傍のお地蔵さんのように黙していることです。きっと、彼らにとって「国益」とは、民衆の利益ではなくて、民衆を国家権力に従順にさせるナショナリズムの昂揚なのでしょうね。やれやれ、溜息すらでません。こんな国を愛せったって、それは無理というものです。
 さて、かみのやま温泉駅には、10:51に到着の予定。街を徘徊して、斎藤茂吉記念館を見学して、タクシーで楢下(ならげ)宿と花咲山展望台に行って、早めに投宿して温泉につかろうと考えています。椅子のポケットにあった車内誌「トランヴェール」を何気なく読んでいると、「ローカル線で行こう! その先の東北へ」という特集記事がありました。
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 会津鉄道、由利高原鉄道、五能線津軽鉄道、秋田内陸縦貫鉄道、十和田観光電鉄、三陸鉄道、阿武隈急行、福島交通、弘南鉄道、いくつかは乗ったことがあるなあ、そして山形鉄道… ん? 山形鉄道は、通過駅の赤湯からつながっているぞ。紹介文を引用しましょう。
山形鉄道 赤湯←→荒砥 〈17駅 30.5km〉
 山形鉄道は、「赤湯駅」から最上川に沿うように走る路線だ。愛称は「フラワー長井線」。「置賜さくら回廊」という43kmもの桜街道と並行するようにして走る。沿線は、江戸時代に最上川の物流の拠点として栄えた地域である。時代が明治に変わり、川から陸へと物流の中心が移った後も、開通した鉄道が最新の文化を運んできた。終点の「荒砥駅」の手前、最上川に架かる「荒砥鉄橋」はイギリス人ポーナルの設計で、明治期に完成した日本最古の長大鉄橋であり、大正12年の開業時に移築、今なお現役である。「長井駅」は大正時代に建てられた開業当時の建物の一部が残されている。駅の周辺には、昭和初期に完成した小学校や医院の建物などの洋風建築が多い。
 鉄橋と古い街並みか、これは食指をそそられます。よし、それでは予定を変更して赤湯駅で下車して山形鉄道に乗り、荒砥鉄橋と長井を見物することにしましょう。
by sabasaba13 | 2012-11-24 06:15 | 東北 | Comments(0)

山形編(1):前口上(11.8)

 2011年の夏は、諸般の事情により海外旅行には行けません。たまたま山ノ神が仙台で二泊三日の野暮用があるということなので、その後合流して四泊五日の山形旅行をすることにしました。実はわれわれ二人、大の山形ファンです。お米も蕎麦も牛肉も魚も野菜も果物も美味しいし、温泉もたくさんあるし、自然は美しいし、観光ずれしていないし、ねピ――――――し。ほんとは一ヵ月くらい滞在したいところなのですが、そうもいかないので、五日間で山形をしゃぶりつくしましょう。彼女が行ったことがあるのが、上山温泉、山形、立石寺(山寺)。私が行ったことがあるのが、山形、米沢、立石寺、最上川舟下り、酒田、鶴岡。そして二人で行ったのが蔵王と金山。さてどういう旅程にするか、ここからが素人添乗員の腕の見せ所です。とりあえず蔵王と金山は抜かして、お風呂好きの彼女のためにできるだけ温泉に泊まり、定番の観光地を中心に、私の趣味をスパイスとしておりまぜた無難な計画を立ててみました。まず上山温泉で合流して宿泊、二日目は米沢と山形を見物して山形泊、三日目は大蕨の棚田と椹平の棚田を見て銀山温泉へ。四日目は最上川を舟で下って鶴岡を見物し、湯野浜温泉泊。最終日は酒田を見物して、庄内空港から羽田へ。さっそく行程表を作成して山ノ神に奉納すると…しばし見つめた後「よきにはからえ」とひと言。推察するに、私が撮った函館夜景の写真を見て「すごーい、北海道のあのでっぱった半島(筆者注:渡島半島)が一望できるう!」と感心した地理音痴の彼女ですから、米沢や山形や銀山温泉や酒田の位置関係を全く把握できずにお手上げだったのでしょう。というわけでいつものように、旅程に関しての全面委任を受けました。そして二人でJTBに行き、宿と航空券の手配を依頼、幸いなことに銀山温泉の名物旅館「能登屋」をおさえることができました。そして「文化遺産オンライン」で、行程中に見られそうな近代化遺産を物色してリストアップ。「歩く地図」(山と渓谷社)・「小さな町小さな旅」(山と渓谷社)・「るるぶ」(JTBパブリッシング)で見どころ・見ものと名物料理を確認し、各地の観光案内のホームページを検索していくつかの地図と情報をプリントアウト。さらに時刻表を買い込んで、おおまかな移動経路と乗り継ぎ時間をチェック。特に新庄から酒田へと走る陸羽西線は要注意ですね、時刻によっては二時間に一本しか列車がありません。そして宿に電話をして送迎を依頼、うし、これでパルフェット。いやいや、石橋を叩いても渡らないのが私の性、夏休みということで最上川舟下りにワンサカワンサワンサカワンサイエーイイエーイイエイエーイと善男善女のご一行様が押しかける懸念があります。もし乗れなかったら、陸羽西線古口駅の♪落ち葉の舞い散る停車場で♪♪そこにはただ風が吹いているだけ♪状態で、一時間ほど列車を待つ羽目になってしまいます。これは予約をしておいたほうがいいでしょう。しかしまた難問にぶちあたりました。舟が草薙港のリバーポートに到着するのが11:50ごろ、最寄りの高屋駅から余目に向かう列車は13:35発車。うむむむむ、この一時間半をどうするか。いろいろと調べてみると、草薙港の近くに「幻想の森」という杉の巨木群があるようです。たぶんリバーポートでタクシーをつかまえられるでしょうから、この森を見物して時間が余ったらリバーポートで昼食、そして路線バスで高屋駅へと向かうというプランを立てました。さっそく芭蕉ライン舟下りの事務所に連絡して予約を入れ、タクシーの有無を訊ねると、草薙港からタクシーで幻想の森に行くというオプショナル・ツァーがあるそうです。料金も一人三千円強と格安、乗った! というわけで山形旅行の骨格は出来上がり、後は現地で臨機応変かつ好い加減に旅程を変えることにしましょう。持参した本は、「原発の闇を暴く」(広瀬隆・明石昇二郎 集英社新書0602B)です。そう、その通り! 事故の収束ももちろん重要ですが、それと同じくらい重要なのが、原発という利権に群がってきた諸氏や組織や企業に落とし前をつけさせることだと思います。正力松太郎・中曾根康弘まで歴史をさかのぼって、そうした方々・組織・企業の所行を明らかにするとともに、どうやって責任をとらせるのか。これをきっちりとやらないと、またぞろ私たちの命や暮らしを平然と踏み躙って己の利権の貪りかねない御仁ですから。でもそれが幾度も幾度も繰り返されてきたのが日本の近現代史だと言ったら、身も蓋もないかな。
 なお山ノ神がTVニュースで見て、米沢のグループホーム「結の木」が東日本大震災の被災者にさまざまな援助を行っており、日用品等の寄付を必要としているとの情報を得ました。このあたりが尊敬するのですが、さっそく押入れの中をごそごそと物色し、結婚式の引き出物などでいただき使用していない食器類を山ほどひっぱりだして、これを寄付しようと言い出しました。それは素晴らしい! で、推定重量数キロのその食器類を誰がもっていくの? いや愚問でした、もちろん私です。さっそく彼女が電話連絡をすると、そうした日用品の寄付は大歓迎とのこと、場所を確認して後日に来所しますと約束しました。
by sabasaba13 | 2012-11-23 07:04 | 東北 | Comments(0)

言葉の花綵79

 帝国主義の中心となる政治思想は、政治の変わらざる究極の目標としての拡張である。(ハンナ・アーレント)

 誰かが偉大な高みにたどりついたとき、ほかの者たちがあとについて登ってくる手段を奪うために、自分が登ってきた梯子を蹴ってはずすというのは、ごくありふれた賢い手である。(フリードリッヒ・リスト)

 彼らがわれわれを恐れているかぎりは彼らにわれわれを憎ませておけ。(ローマ帝国の指導者の標語)

 政府が人民を恐れるときには自由がある。人民が政府を恐れるときには専制がある。(トーマス・ジェファーソン)

 理性の感情とは、愛である。(ロマン・ロラン)

 歴史から学ぶことのない人は、その歴史を再度生きることを運命づけられている。(ヨハン・ガルトゥング)

 自然界は物を作るのに、酸もアルカリもエーテルも使わない。これからは物を作る時には、自然がいかになしとげているかを、まず究明すべきだろう。そこに最善で能率的な方法が存在しているはずだからだ。(フリッツ・ハーバー)

 わたしのゆきたいところはどこか。この世ではなく、あの世でもなく、まして前世でもなく、もうひとつのこの世である。(石牟礼道子)

 おとなのいのち十万円、こどものいのち三万円、死者のいのちは三十万円と、わたしはそれから念仏にかえてとなえつづける。(石牟礼道子)

 理屈はあとで貨車でついてくる。(政界の俚諺)

 予測は、ほぼいつも「期待」という色眼鏡を通した予測なのです。(名越康文)

 皮相なものは丈夫に成長していくための十分な栄養にはならない。(ヨハン・ガルトゥング)

 悪を知らぬものが、悪を取り締まれるか。(長谷川平蔵)

 すべてのよき学問は、論争を好む。(イマニュエル・ウォーラーステイン)

 世界の歴史は不平等に対して間断なく続く反乱の歴史である。(イマニュエル・ウォーラーステイン)

 末来とは、われわれがその扉を押し開いていくほどに姿を現してくるものなのである。(イマニュエル・ウォーラーステイン)
by sabasaba13 | 2012-11-22 06:13 | 言葉の花綵 | Comments(0)

「昭和」

 「昭和 戦争と平和の日本」(ジョン・W・ダワー みすず書房)読了。「敗北を抱きしめて」で、敗戦後における日本の諸改革が、日米による合作であったことを鋭く分析した著者の、昭和期に関する小論文を収録したのが本書です。章立てを挙げると、「役に立った戦争」「日本映画、戦争へ行く」「「ニ号研究」と「F研究」」「造言飛語・不穏落書・特高警察の悪夢」「占領下の日本とアジアにおける冷戦」「吉田茂の史的評価」「日本人画家と原爆」「ふたつの文化における人種、言語、戦争」「日米関係における恐怖と偏見」「戦争と平和のなかの天皇」「過去、現在、そして未来としての昭和」。章のタイトルを眺めただけでも、著者の幅広い関心と鋭い史眼がよくわかります。また、その内容も、反日・親日といった感情に流されず、確実な史料に基づいて怜悧に歴史を分析し、時には見過ごされがちな事象にスポットライトを当て、そして未来を見据える視点も忘れないという、市井のしょぼい一歴史学徒として後塵を拝したい充実したものばかりです。各章を下手に要約して粗忽な感想を述べるよりも、考えるヒントとなる鋭利な文章を紹介して書評に代えさせていただきます。
 官僚制は戦争によって強化され、その後の七年ちかくにおよぶ占領によってさらに強化された。戦争と平和はどちらも、それぞれ独自の方法で、極度の危機感と国家安全保障への強烈な関心を抱かせた。戦争と平和は、官僚たちのあいだに革新主義的な考え方-指導された変革の必要性への傾倒-を鼓舞し、そしてこの意味で降伏以前と降伏以後のあいだになんら真の断絶はなかった。もちろん、眼前の任務は「戦争」から「平和」へと劇的に変化した。変わらなかったのは、現状維持にたいする根強い不満であり、新しい世界秩序のなかで強い国を創造するためのトップダウン方式による長期計画への傾倒である。(p.20)

 チャーマーズ・ジョンソンの言いまわしによれば、1930年代以来、日本の発展は「経済参謀本部」-いわゆる日本の奇跡の背後にある、戦争と平和が織りあげた歴史的にも思想的にも複雑な機構を説明するのにもっとも有効な比喩-による強力な指導を受けてきたのである。(p.23)

 事実は、日本が強力な資本主義国家であり、その資本主義のかたちは、「過当」競争を抑制し、国家主義的目標を増進しながら市場を維持している保守的な利害関係者たちがブローカーとして取り仕切る資本主義であるというのが、より当を得た説明であろう。(p.23)

 戦争以来、ナショナリズムと父権的エリート主義によって、日本の仕切り型資本主義の思想的統一性が保たれてきたことには、多くの観察者が同意するだろう。そうだとすれば、つぎにわれわれは戦後日本の民主主義について何を言いうるだろうか。これまた、民主主義の形式は尊重するものの、その精神はしばしば抹殺するというやり方で、取り仕切られてきたと言うことができる。(p.24)

 すなわち、日本が十九世紀なかばに経験した封建主義から工業化と「西洋化」へ移行する過程と、二十世紀なかばに経験した戦争から平和へ移行する過程との共鳴である。いずれの事例においても、偉大かつ革命的とさえいえる変革が起こった。そして、双方とも「上からの革命」であった。民主主義の理念は、一般民衆によって定義されたのでも勝ち取られたものでもない場合には比較的弱いものだ。日本の文民エリートの見地からすれば、これもまた役に立つ戦争の遺産であった。(p.26)

 しかし、ふたたび「純潔」にたいする日本人の尋常ならざる執着ぶりに注意を喚起するような、日本の戦争映画が最後に残した有害な遺産がある。これらの戦争映画を観た人ならだれもがもつ圧倒的なイメージは、純粋で、苦しみに耐える、自己犠牲的な国民としての日本人である。それは結局、永遠の犠牲者-戦争の犠牲者、運命の犠牲者、高貴な義務の犠牲者、あいまいな敵の犠牲者、誤導された敵対者の犠牲者、ある者が想像しようとするかもしれない一切のものの犠牲者-としての日本人像である。このようなイメージが浸透していることは明らかだ。それは、戦争に対する個人的責任感の欠落であり、また集団的責任感の欠落であり、あるいは、日本人は他の諸国民を犠牲者にもしたのだという認識があらゆるレベルで欠落していることを意味する。(p.45)

 しかも、1930年代にはじまった「全面戦争」への動員をつうじて、工業技術と労働技能は飛躍的に進歩していた。1944年と45年のアメリカの空襲によって古い産業施設が破壊され、戦後にもっと近代的で合理的な水準の工場に生まれ変わらせる道が開けた。戦争関連の「特需」、そして1950年の朝鮮戦争勃発にともなうアメリカからの「新特需」によって、日本経済は刺激を受けた。さらには、アジアにおける新たなパクス・アメリカーナに日本を経済的・軍事的に組みこもうというアメリカの政策のなかで、アメリカのもつ技術と特許がかなり気前よく日本の産業界に移転された。このように、じっさいには日本の目をみはるような経済成長は戦争を踏み台にしていたのである。(p.122)

 戦略的な対日政策も…1945年の終戦から52年4月の占領終結まで、四つの段階を踏んで進められたと見ることができる。1日本の「非軍事化と民主化」に重点が置かれ、未来像として非武装「中立」の日本が想定されていた段階(1945年8月から47年なかば)。2日本をソ連圏から切り離すことを主眼とした「ソフトな」冷戦政策の段階(47年なかばから49年)。3アメリカの反共戦略のなかで日本に現実的・積極的な役割を付与した「ハードな」冷戦政策の段階(49年なかばから51年9月)。4地域を軍事的、経済的に統合する具体的なメカニズム、すなわち、51年から52年にかけて締結された講和条約と一連の安全保障条約、アメリカの軍事および経済政策の調整、アメリカ、日本、東南アジアを結ぶ三極の同盟結成による断固たる中国封じ込めなどをじっさいに構築することによる統合的冷戦政策の段階(51年後半以降)、である。どうやら各「段階」の起源は、それぞれ前の時期に見出すことができるようだ。(p.127)

 そして、日本政府と皇室がともに、早い段階から日本本土の占領の早期終結と引き換えに沖縄の主権を売り渡す腹だったことを明るみに出すものである。(p.135)

 抽象的にいえば、天皇という理想化された家父長は、生まれてすぐ実の父親によって養子に出され、養父を十歳のときに亡くしている吉田の心理的な必要性を満たしていたのかもしれない。しかし、もっと確かなことは、吉田の天皇制への深い献身が、意識すると否とにかかわらず、自己保存のための行動でもあったということだ-そして、文民守旧派が進めた天皇制と国体の護持は、現状維持と特権のヒエラルキーを保持するための具体的実践だった。

 戦争への道は、逸脱、「歴史のつまずき」である-しかし、つまずきの原因が制度上、また構造上、深く根をおろしたものとは考えられなかった(アメリカの改革派や日本の左翼は、「根底」の比喩をよく持ち出したので、守旧派は不安に駆られた)。(p.171)

 当時の国務長官で、中国政策の百八十度転換を推進したヘンリー・キッシンジャーは、日本人を「貧弱でけちな帳簿係」にすぎず、世界的政策の重要な問題にかんしてほとんどまともにあつかわれるに値しない存在であると、軽蔑のまなざしで見ていたのである。
 サンフランシスコ体制下の日本外務省は、重要案件がからむところではどうしてもアメリカ国務省の出先機関として働くこととなった。「本来」の職業(戦後政治家として復活する以前)が外交官であった吉田のような誇り高い愛国主義者には、数奇な遺産である。占領終結後の日本で、独立と自主の外交政策にとって代わったものは、基本的にはのちに的確にも「経済ナショナリズム」と称されたものの追求だった。吉田とその後継者たちは、アジアでのアメリカの封じ込め政策にピタリと追従することで、経済援助というかたちの利益を得た。中国市場を失ったことを補填し、並行して他の資本主義国といっそう密接に統合するという目的のために、日本は国内的に保護主義的政策をとることを許され、それと同時に、アメリカの工業技術ライセンスと特許を入手する権利を与えられたのである。(p.182)

 戦後、日本経済が防衛生産や軍事関係の輸出に過度に依存せずに劇的な成功をおさめたことは他に類例をみない称賛すべきことである。しかし、こうしたことはみな、国家目標と国際イメージという途方もなく大きな代償を払ってなしとげられた。なぜなら、それが日本をして、世界的な指導性や政治手腕という重要なことがらは永久に他国に依存する方向へ傾斜させ、新重商主義の心理と行動に引きこもらせてしまったからだ。(p.183)

 保守派の視点からは、今日のイデオロギー上の緊急課題は、日中戦争と太平洋戦争の暗い時代の記憶をわきに追いやり、国を愛し、もっと速やかな再軍備を受け入れ、指導者とアメリカを信頼し、いっそう進んだ軍事パートナーとしてアメリカの核の「傘」の保護下に入ることを日本国民に納得させることである。(p.191)

 あえて白人優越主義と日本の人種差別とのちがいにかんして広範な観察をおこなったら、以下のような結果になるだろう。すなわち、白人の人種差別が「他者」への侮辱行為に過度のエネルギーを費やしたのにたいして、日本の人種差別的思考は「自己」を高めることに集中した。(p.213)

 西洋人は、非白人や非西洋人が根っから劣っているという理論を強調するため、似非科学や怪しげな社会科学に頼ったが、日本人はその優越性の起源を神話の歴史にもとめた。そこで優越性の起源は、神授の皇統と、臣民の人種的および文化的同質性のなかに見出された。(p.214)

 日本人には、天皇や、国民に行きわたった神話的で宗教(神道)的な伝統以外にアイデンティティはなかったし、いかなる部外者もこの共同体に侵入することは望みえなかった。これはまれにみる強力な血の愛国心であった。(p.214)

 他のアジア人にとって、日本の人種的レトリックのほんとうの意味は明白であった。「指導民族」とは優越民族を、「適所」とは下位を、「家族」とは家父長制的圧迫を意味した。(p.220)

 少なくとも一点で、日米双方の状況は似ている。日本でも、アメリカとおなじように、最近の緊張と不安感が戦争を彷彿とさせる人種差別的態度を再燃させた。このことが示すつぎの三つの見地にとくに留意すべきである。よく言われる人種的同質性や純潔性や日本人の独自性への固執。欧米人を、強力で脅迫的だが、同時に守護してくれたり福をもたらす潜在力をもつ「鬼のような」他者とみる認識。それぞれの人種と国民が「其ノ所」(適所)を担わなければならないとする世界秩序構想、の三つである。これらのなかでも、一番目の見地が現代日本における人種差別的思考のうちもっとも重要で、潜在的な有害性をもつ。(p.267)

 その古からつづく皇室の歴史をもっとも誇りとする近代国家である日本は、その歴史を真摯に開くことをかたくなに拒んでいる国でもあるのだ。
 しかし、このような不明瞭さは機能的ともいえ、おおかた近代日本の政治は、天皇が再解釈と操作にどのように力を貸すかということを軸に転回してきた。このような適応力は過去において建設的な業績にも悲惨な濫用にも一役買ってきたのであり、将来へ危険性を持ちこすことになる。(p.286)

by sabasaba13 | 2012-11-21 06:14 | | Comments(0)