<   2013年 02月 ( 27 )   > この月の画像一覧

言葉の花綵83

 俺、何時でも不思議に思ってるのは、みんながこんなに貧乏しているのに、どういうわけでこんなに貧乏かってことが、誰も分っていないことだよ。(『防雪林』 小林多喜二)

 俺なァ、俺ァの畑が可愛くてよ。可愛くて。畑、風邪でもひかねえかと思ってな。(『防雪林』 小林多喜二)

 あまり多くの果実をつくるの枝は折る。富めるのみなる其国は亡ぶるなり。国民をして天を仰がしめよ。(『自然と人生』 徳冨蘆花)

 人間は書物のみでは悪魔に、労働のみでは獣になる。(徳冨蘆花)

 私は不公平が、権利の侵害が嫌いなんだ。多分、私が嫌いなのは、これだけでしょう。私はこれから一生追っていくつもりだ。(ベン・シャーン)

 辛いことは心を強くする。楽しいことは心を豊かにする。(『ピアノの森』 阿字野壮介)

 歴史は仮借ない教師である。(ハーバート・ノーマン)

 帝国の栄誉は不幸とは同居しない。(クレマンソー)

 権力濫用の源泉である官僚制の脅威に対する真の解答は、破ることのできない法に保護された気ままな自由の領域をつくり出すことである。(『大転換』 カール・ポランニー)

 人を尊敬して、それが自分に返ってくる。(『のだめカンタービレ』)

 私は現地に本を持っていって読むという、わりに良いくせがある。(安野光雅)

 戦争は戦争を養う。(ナポレオン)

 われらが祖国、正しくも誤てるも。正しくば正しきままに。誤てるなら正さん。(unknown)

 敵はいつでも教師でもある。(諺)

 自分の世界像に狂いが来ないよう、他人からはいつも最悪のことを待ち望むことはしない。(リヒャルト・シュレーダー)

 兄弟が協力すると、山が黄金に変わる。(中国の諺)
by sabasaba13 | 2013-02-28 06:16 | 言葉の花綵 | Comments(0)

『小澤征爾さんと、音楽について話をする』

 『小澤征爾さんと、音楽について話をする』(小澤征爾×村上春樹 新潮社)読了。へえー、こんな本が出版されていたんだ、不覚にも知りませんでした。正直に言って一枚もCDは持っていないし実演を聴いたこともないのですがその存在は気になる小澤征爾氏と、拙ブログで何度もふれているように音楽への造詣が深い村上春樹氏との対談、これはつまらないわけがありません。即購入して一瀉千里で読み終わりました。中でももっとも印象深いのは、(たぶん)直観や訓練によって無意識のうちに良い音楽をつくりだしてきた小澤氏に対して、その秘訣を言葉に置き換えてもらおうとする村上氏の的確な質問の数々です。たとえば次のようなやりとりですね。
(村上) 「しかしできることにせよ、できないことにせよ、それだけ細かい指示が楽譜に書き込まれて残っていて、選択の余地がほとんどないとすれば、マーラーの演奏が指揮者によって変わってくるというのは、いったいどういう要因で変わってくるんでしょう?」
(小澤) (時間をかけて深く考え込む) 「うーん、それは面白い質問だな。面白いっていうのは、そういう風に考えたことが今までなかったってことです。さっきも言ったように、ブルックナーとかベートーヴェンの音楽に比べたら、マーラーの場合はインフォメーションがずいぶん多いから、当然ながら選択の幅が少なくなっているはずなんですよ。ところが、実際はそうならないんです」
(村上) 「それは僕にもよくわかります。いろんな指揮者、それぞれの演奏で音そのものが違っているのが、聴いていてわかるから」
(小澤) 「そういう質問されると、オレなんかずいぶん考え込んじゃうんだけど、えーと、そうだな、要するにね、インフォメーションが多い分、各指揮者はそのインフォメーションの組み合わせ方、扱い方で悩むんです。それらのインフォメーションのバランスをどのようにとっていくかということで」 (p.237)
 故寺山修司氏が「私は良い質問でありたい」と言ったような記憶がありますが、相手を考え込ませて何かを引き出す"良い質問"というのは大事ですね。本書を読んであらためてそう思いました。そして村上氏の小気味よい質問に導かれるように、小澤が語るさまざまなお話にはすっかり魅了されました。外国や日本の音楽事情、修行時代のエピソード、マーラーの音楽、指揮者の具体的な仕事などなど。そしてはじめて知ったのですが、小澤氏は若い音楽家の育成に熱情をかたむけたいへんな尽力されているですね。詳細はぜひ本書を読んでいただきたいのですが、村上氏の言を聞けばその一端がわかろうかと思います。"本当の「良き音楽」を次の世代に受け継がせていくこと。そのしっかりとした感触を伝えていくこと。若い音楽家たちの胸を根底から純粋に震わせること。そこにはおそらく、ボストン交響楽団やウィーン・フィルといった超一流のオーケストラを指揮することにも劣らない、深い喜びがあるのだろう。(p.330)"
 なお若い音楽家のために小澤氏が主宰しているアカデミーでは、ジュリアード弦楽四重奏団で第一バイオリンを弾いていたロバート・マン氏が招かれてレッスンをしています。そこに立ち会った村上氏が、彼の教授するアドバイスをいくつか紹介しているのですが、チェリストの末席を汚す者としてたいへん参考になりました。同好の士のために引用します。
(村上) あとマンさんが頻繁に口にしていたのは、ピアノという指示は弱く弾けということじゃない。ピアノとはフォルテの半分という意味なんだ。だから小さく強く弾きなさい、と。口を酸っぱくしてそう言っていました。(p.351)

(村上) 「あとよく彼が言っていたのは『聞こえない(I can't hear you)』という言葉でしたね。たとえばディミヌエンドなんかで、最後の音が聞こえなくなってしまうのをよく注意していました。ああいうところを弱くしっかり弾くというのはむずかしいんですね、きっと」
(小澤) 「そういうことです。それと彼がよく言うのは、弱い音をきちんと出すためには、その前の音を心持ち強く弾けということです。その前に弱い音を出してしまったら、行き場所がないわけですからね。そういうところの計算というか、そういうのがちゃんとできている人です」 (p.352)

(村上) あと、マンさんがよく口にしていたのは、『しゃべりなさい(Speak)』ということだったですね。歌えというよりは、むしろしゃべれと。つまり言語的に語りなさいと。(p.353)

(村上) そういえば、マンさんはブレスのこともよく言ってましたね。人が歌うとき、どこかでブレスをしなくてはならない。でも弦楽器は不幸にして、ブレスをしなくてもいい。だからこそ、ブレスを意識して演奏しなくてはならないんだと。不幸にして、という表現が面白かったですね。それから彼はよく沈黙のことを言ってましたね。沈黙というのは、ただ音がない状態というんじゃないんだ。そこにちゃんと沈黙という音があるんだと。(p.356)

by sabasaba13 | 2013-02-27 06:18 | | Comments(0)

九州編(30):肥薩線(11.9)

 そして15:29 に真幸(まさき)駅に到着、ここで五分間停車となります。付近の方々が出迎えてくれて、地元の物産を販売していました。駅舎も古い木造(1911年開業)のもので、きれいに整備されているのが印象的。地元の方々のボランティアによるものなのでしょう。駅舎内には「世界遺産《肥薩線》夢を追って走ろう」というポスターが掲げられていました。
c0051620_6141899.jpg

 ホームにある巨石は「山津波記念石」、"昭和47年7月6日午後1時45分頃山津波が発生、約30万立方メートルの土砂が流出した。この岩塊は当時の山津波で流れ出たものを現地でそのまま山津波記念石として保存するものである。尚、この石塊は重さ約8トンである。"という解説がありました。ウィキペディアによると、死者4名、負傷者5名、住家28棟が流出したそうです。その後、付近の世帯全戸は移転、このあたりは無人地帯となりました。岩塊に触れて、大自然の猛威をあらためて痛感。なおそうした災害にちなんでか、「幸せの鐘」が設置してありました。「ちょっと幸せの方は一回 もっと幸せを願う方は二回 いっぱい幸せの方は三回鳴らしてください」とあったので二回鳴らしましたが、やはり宮沢賢治が言うように"世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない"(『農民芸術概論綱要』)と考えたいものです。
c0051620_614434.jpg

 なお牛山隆信氏の「秘境駅へ行こう!」では第39位にランクされています。そして出発進行、列車は駅で一度目のスイッチバック、そして斜面をすこしのぼったところ二度目のスイッチバック、そう、逆Z型に二回スイッチバックを行います。眼下には真幸駅が見え、地元の方々が手を振ってくれました。
c0051620_615838.jpg

 そして数分ほど走ると、列車は停止、そう日本三大車窓のビューポイントです。雄大な霧島連山と、それに抱かれるようなえびの盆地を一望できる、胸のすくような景色を堪能。桜島もかすかに見えましたが、開聞岳までは見えませんでした。なお残りの二つは、長野県の篠ノ井線・姨捨駅と北海道の根室本線・狩勝峠(旧線のため廃止)だそうです。肥薩線で最長(2,096m)の矢岳第一トンネルを抜けると矢岳駅に到着、ここでは六分間の停車です。標高536.9mに位置する、肥薩線でもっとも高い場所にある駅ですね。こちらでは地元の方々のお出迎えはなく、閑散とした雰囲気。1909(明治42)年竣工の古い木造駅舎が、寂しげに佇んでいました。
c0051620_6153678.jpg

 なお、かつてこの矢岳駅の周辺には、肥薩線最大の難工事といわれた「矢岳トンネル」の工事関係者が多数住んでおり、その数は当時の村民より遙かに多かったそうです。駅構内にある人吉市SL展示館には「D51 170号」が保存されており、入口には矢岳第一トンネルを抜ける運転手になりきれる顔はめ看板がありました。ホームには朝顔の形をした石鉢がありましたがこれが噂の湧水盆、蒸気機関車がトンネルを抜ける際の煤で真っ黒になった顔を洗うためのもの。なお牛山隆信氏の「秘境駅へ行こう!」では第51位にランクされています。
c0051620_616320.jpg


 本日の五枚です。
c0051620_6162668.jpg

c0051620_6164818.jpg

c0051620_617882.jpg

c0051620_6173246.jpg

c0051620_6175538.jpg

by sabasaba13 | 2013-02-26 06:18 | 九州 | Comments(0)

九州編(29):肥薩線(11.9)

 吉松駅へは14:56に到着、ここで観光列車「しんぺい4号」に乗り換えて、いよいよ肥薩線のクライマックス、いわゆる"山線"へと向かいます。標高差430.3mを上りきるために、2ヶ所のスイッチバックと半径300mのループ線が併用され、また日本三大車窓の一つも眺められる、鉄道マニアの末席を汚す小生が垂涎してきた路線、嗚呼、念ずれば花開く、やっと訪れることができました。アントニオ猪木風に言えば無感量です。吉松→人吉間を走るのが「しんぺい」、人吉→吉松間を走るのが「いさぶろう」で、一日二往復する普通列車ですが、その命名の由来は、建設・開業された当時の逓信大臣山縣伊三郎、鉄道院総裁であった後藤新平からつけられています。矢岳第一トンネルの矢岳方入口に山縣の「天険若夷」、吉松方に後藤の「引重致遠」の扁額が残るので、それぞれ揮毫者の名を冠する列車が揮毫した扁額に向かって走る形となっています。逸る心をおさえつつホームに出ると、渋い漆色の「しんぺい」号がすでに入線しています。撮り鉄のみなさんに混じって私も撮影、そして「はやとの風」とのツー・ショットも。この両雄を描いた顔はめ看板もありますので、鉄ちゃん・鉄子さん、お見逃しなく。
c0051620_6184833.jpg

 なお二十分ほど時間があるので駅前に出てみましたが、吉松駅舎は古いものではありませんでした。煉瓦造りの小振りで堅牢な倉庫がありましたが、おそらく昔のランプ小屋(ランプと燃料を収納)でしょう。
c0051620_6191296.jpg

 天気は快晴、遠くには霧島連山がくっきりと見え、いやがうえにも期待は盛り上がります。駅構内に掲示してある時刻表を見ると、人吉行き列車はなんと一日五本。よくぞ廃線にならずにきたもんだ。さてそれでは「しんぺい」号に乗り込みましょう。車内は木を基調とした、高級感にあふれる落ち着いた雰囲気です。
c0051620_6193873.jpg

 自由席は7席であとはすべて指定席、ツァー客で独占されるケースも増えてきているそうなので、「みどりの窓口」であらかじめ予約しておきました。幸い、今回は大音響をまきちらすツァー集団はおらず、ゆったりと車窓を満喫できそうです。なお老婆心ながら、座席は進行方向に向かって右側を指定すること。15:16、定刻通り出発、列車はがっしゅがっしゅと山中へと駆け上っていきます。さきほど喫茶店でいただいたパンフレットによると、吉松駅から四つめの山神第二トンネルで傷ましい事故が起きたとのことです。
 1945年、多数の復員軍人を乗せた列車が、吉松駅を出て、山神第二トンネルの中で立ち往生しました。蒸気機関車の煙が充満したトンネルを、多くの復員軍人が歩いて脱出しようとしたところ、列車が後退して50名以上が轢死するという痛ましい事故が起こりました。事故の17回忌にあたる1961年、地元婦人会の働きかけでトンネルの人吉側入口付近に慰霊碑が建てられました。
 前掲書によると、重量オーバーと粗悪石炭の使用による馬力不足が原因だったようです。カメラを持って待ち構えていると、トンネルを出た瞬間に、「復員軍人慰霊碑」という看板を発見。かろうじて撮影することができました。できればここでも停車してほしいものです。それにしても地獄のような戦場からやっとのことで帰還し、故郷へ帰ろうとした矢先の轢死。その無念の思いはいかばかりだったでしょう。合掌。
c0051620_620653.jpg


 本日の四枚です。
c0051620_6202857.jpg

c0051620_6204819.jpg

c0051620_621965.jpg

c0051620_6212943.jpg

by sabasaba13 | 2013-02-25 06:22 | 九州 | Comments(0)

九州編(28):肥薩線(11.9)

 数分歩くと駅に到着、ホームに行くと古いレールを利用した柱が出迎えてくれました。そして13:23に鹿児島中央駅を出発した「はやとの風4号」がしずしずと入線。ロイヤル・ブラックで身を包んだ、"巧言令色鮮し仁"的な風貌がなんとも魅力的ですね。
c0051620_743115.jpg

 車内に入ると、明色の木材を多用した心暖まる内装です。
c0051620_7432698.jpg

 14:02、いざ出発進行。長閑な農村風景の中をひた走り、14:15に嘉例川(かれいがわ)駅に到着しました。1903(明治36)年に開業した木造駅舎はほとんど改修されずに、いまだ現役です。「はやとの風」はこの駅に五分間停車をしてくれるので、あわただしいとはいえ嬉しいかぎりです。(仮想)スターティング・グリッドで待機し、ドアが開くと同時にダッシュ、駅舎の前に飛び出して写真を撮影。おお、おお、よくぞ生き長らえてくれた… 厳しい風雪(※雪は降るのかな)に耐え抜き、凛として佇む"剛毅木訥仁に近し"的風格の木造駅舎にしばし見惚れてしまいました。待合室も改札も往時のまま残されている貴重な物件でもあります。「全駅下車達成者」横見浩彦氏と「秘境駅訪問家」牛山隆信氏の対談、『すごい駅!』(メディアファクトリー)の中で、御両人が「ぜひ世界遺産に」と声を揃えるのも宜なるかな。牛山氏曰く、「当時の鉄道駅は寺社仏閣と同じような扱いだったことから、重厚な建築物として造られています…」(p.35) また地元有志の方々が常日頃清掃をされているというのも良い話ですね、ほんとうにこの駅舎を愛されているのでしょう。なお氏の御教示によると、駅舎内には「建物財産標」という小さなプレートがあり、竣工した年がわかるとのことでした。鵜の目鷹の目…おっありました。天井近くの壁面に「建物財産標 鉄 本屋1号 嘉例川建1号 明治36.1」と記されたプレートを発見。"鉄"の一文字が、得も言われぬ矜持を物語っているようです。
c0051620_744014.jpg

 なお気になったのでインターネットで調べてみると、日本最古の駅舎は武豊線の亀崎駅だそうです。異論もあるようですが開業は1886(明治19)年、上には上があるものですね。どこにあるのだろう? 調べてみると、なんと以前に訪れた半田駅から二つ目の駅でした。ああ悔しい、あの時知っていれば寄ったのにい、と地団駄を踏んでもafter the carnivalです。
 そして列車に戻り、十数分で大隅横川(よこがわ)駅に到着。こちらも嘉例川駅とほぼ同じころに造られた、同じようなデザインの木造駅舎です。いち早く外へ出て重厚な佇まいを撮影し、古風な待合室の雰囲気を堪能しました。なおこちらのホーム柱には、アジア・太平洋戦争時に、米軍機によって銃撃された痕があるそうです。男、もといっ、弾痕フリークとしては見逃せません。ホームにある柱を順番に点検していくと、まごうことない弾痕が二カ所あり、「機銃掃射の跡 第二次大戦中に被災した機銃掃射の跡です。弾は屋根、柱を貫通しました。」「グラマン戦闘機の機銃弾の跡 (弾丸が残っていた)」という解説がありました。
c0051620_7441282.jpg


 本日の三枚です。
c0051620_7445886.jpg

c0051620_745161.jpg

c0051620_7453616.jpg

by sabasaba13 | 2013-02-24 07:46 | 九州 | Comments(0)

九州編(27):隼人塚(11.9)

 駅前の広場に出ると、「龍馬とお龍 日本最初の新婚旅行の地 霧島市」という大きな看板がありました。解説板によると、1866(慶応2)年、寺田屋事件で手傷を負った龍馬に、西郷隆盛と小松帯刀が温泉療養を勧め、お龍とともに近くにある霧島を訪れたとのこと。この近くに上陸し、隼人を経て霧島温泉までの旅程でした。熱心な龍馬ファンでしたら、その足跡を辿るのも一興かと思います。もうひとつ、どこかで見たような逆S字状の意匠がほどこされた、楯の大きなレプリカがありました。解説によると、平城京跡の井戸枠として発見された、所謂「隼人の楯」です。
c0051620_621138.jpg

 『延喜式』に「赤白土ノ墨ヲ以ッテ鈎形ヲ画ク」とあるところから判明したとのことです。隼人について、「岩波日本史辞典」から引用します。
 7世紀後期~8世紀にかけての大隅・薩摩地方の居住民の称。また畿内近国に移配されたその子孫の称。南九州の隼人は<夷人雑類>の一種とされ、683(天武12)以来9世紀初頭まで、律令制の完全な適用を猶予される代りに定期的に朝貢した。記紀の海幸山幸神話は、朝廷への奉仕の淵源譚として造作された。700(文武4)の覓国使(べっこくし)剽刧(ひょうきょう)事件以降、702(大宝2)、713(和銅6)、720(養老4)に律令制の浸透への抵抗として反乱を起した。畿内隼人は隼人司に管轄され、9世紀以降も朝廷の諸儀式に関与した。平城宮からは隼人の楯が出土。
 やれやれ、各地方に林立する核(原子力)発電所を見るにつけても、地方を犠牲にして中央が肥え太るというわが日本国の体質は古代から現代に至るまで連綿と続いているのですね。なおこれから見学しに行く隼人塚は、この隼人に関する史跡だと言われています。駅前にあった観光案内所で観光パンフレットを頂戴し、近くにあった大仰な雑居ビルを撮影し、さて昼食をいただきましょう。きょろきょろ…選択肢は一つしかありませんでした。ラーメン「万作」というお店に飛び込んで、万作ラーメンを所望。まあまあ美味しい醤油味ラーメンでしたが、小鉢に盛られた大根の浅漬けを好きなだけいただけるのはこの地の食文化なのでしょうか。
c0051620_623635.jpg

 そして隼人駅前から十分ほど歩くと、隼人塚に到着です。整備された緑地の一画に、五重の石塔が三基と、それを囲むように兜をかぶった武人らしき石像が四体、置かれていました。後者は四天王なのでしょうか。今、スーパーニッポニカ(小学館)で調べてみると、熊襲の死霊を慰めるため、あるいは朝廷に討たれた隼人の慰霊のためという伝承があるそうです。ただ石造物は平安時代後期と推定されるので、熊襲・隼人との関係は疑問が残るとのこと。なお近くに、与謝野晶子の歌碑がありました。"隼人塚夕立はやく御空より馳せくだる日に見るべきものぞ" 隼人の怒りと悲しみに対して、彼女の思いが共振したような歌ですね。
c0051620_63063.jpg

 隣にあった資料館を見学して隼人駅へと戻りますが、「はやとの風4号」の出発まで四十分ほど時間があります。来る途中で見かけた「停車場」という喫茶店で珈琲をいただいて時間をつぶすことにしました。良質な喫茶店と古本屋と銭湯があるのは人間的で住みやすい街だという持論をもっております。こちらは、落ち着いて静謐な雰囲気と美味しい珈琲を堪能できる素敵な喫茶店でした。"マチのほっとステーション"なんざいらないから、こうした"decent station"が増えてほしいものです。ほっと一息つきながらガイドブックを眺め、これからの旅程に想いを馳せていると、店主の女性から「肥薩線に乗られるのですか」と声をかけられました。「肥薩線 百年の旅」という充実したパンフレットをいただき、しばし肥薩線の話に花を咲かせているとあっという間に時間が過ぎていきます。名残は尽きねどそろそろ行かねば、丁重にお礼を言って駅へと向かいました。

 本日の一枚です。
c0051620_632592.jpg

by sabasaba13 | 2013-02-23 06:05 | 九州 | Comments(0)

九州編(26):隼人(11.9)

 そうこうしているうちに、加治木駅が近づいてきました。そうそう、駅の近くに図書館フリークとしては見逃せない物件があるので寄ってもらいました。現在は加治木町立図書館として利用されていますが、1937(昭和12)年に竣工された旧郷土館陳列館です。正面に二重に配された破風がユニークですね。その奥にある付属の石造倉庫もお見逃しなく。
c0051620_6163280.jpg

 そして加治木駅に到着しましたが、一時間貸し切りで手打ちをしたのに三十分も越えてしまいました。追加料金を支払おうとすると、運転手さんは莞爾として「6000円でいいですよ」とおっしゃってくれました。感謝感激雨霰、彫心鏤骨、Kさんのことは一生忘れませぬ。丁重にお礼を言って駅の窓口へ、運転手さんに教えてもらった駅弁「百年の旅物語かれい川」を予約しようとしたところ、販売は土日のみ。なんでもJR九州主催「九州の駅弁ランキング」でしばしば第一位に輝く名物弁当だそうです、残念無念、捲土重来。駅の構内に大きな蜘蛛の看板がありましたが、ここ加治木では「くも合戦」が行われるそうです。毎年6月の第三日曜日に開催され、竿の上でコガネグモ同士を闘わせるとのこと。いろいろなリビドーの捌け口があるものですね。
c0051620_617563.jpg

 11:46発の日豊本線・都城行きの列車に乗って、次の駅が隼人です。
c0051620_617198.jpg

 特急「はやとの風」は14:02発、よって二時間ほどここ隼人で時間をつぶさなければなりません。とるものもとりあえず昼食を食べ、近くにある隼人塚を見学して、喫茶店で珈琲を飲んでいれば、あっという間でしょう。駅構内には日本経済新聞(2007.4.28)の「訪ねる価値のある駅」という記事が掲示してありました。後学のために転記しておきましょう。
第1位:門司港駅(北九州市)
1914年(大正3年)完成の駅舎は国の重要文化財。周辺にも歴的建造物が多く、レトロ情緒漂う
第2位:姨捨駅(長野県千曲市)
 眼下に広がる善光寺平の眺めは戦前に選ばれた日本三大車窓のひとつ。近くに「田毎の月」で有名な棚田も
第3位:嘉例川駅(鹿児島県霧島市)
 妙見温泉近くの谷あいに築104年の木造駅舎がたたずむ。週末限定の駅弁も人気
第4位:東京駅(東京都千代田区)
 1日約4000本の列車が発着する。重要文化財の赤レンガ駅舎は開業当時の3階建てに復元される計画
第5位:北浜駅(北海道網走市)
 駅ホームからオホーツク海が一望できる無人駅。旧駅事務室は喫茶店でホタテカレーなどが人気
第6位:由布院駅(大分県由布市)
 駅舎は世界的な建築家、磯崎新氏が設計。ホームには足湯があり、由布岳を眺めながらつかれる
第7位:折尾駅(北九州市)
 日本最古の立体交差駅。大正時代の駅舎やレンガアーチの通路が残る。駅弁「かしわめし」も有名
第7位:ほっとゆだ駅(岩手県西和賀町)
 駅舎内に本格的な温泉を併設。浴場には列車の接近を知らせる鉄道の信号がある。入浴料大人250円
第9位:大畑駅(熊本県人吉市)
 急こう配を登るためのループ線とスイッチバックを併せ持つ唯一の駅。沿線は日本三大車窓の眺め
第10位:外川駅(千葉県銚子市)
 銚子電鉄の終着駅。駅舎は大正時代の木造建築で、改札口を出た坂道を下ると太平洋が広がる
 ちなみに私が訪ねたことがあるのは、門司港駅姨捨駅東京駅外川駅です。二日前に由布院駅を訪れ、これから嘉例川駅と大畑(おこば)駅に行くので、未踏の駅は北浜駅・折尾駅・ほっとゆだ駅ということになります。まあ駅の何に価値を見出すかは十人十色、蓼喰う虫も好き好きなので、このランキングに半畳を入れる気は毛頭ありません。私の場合は、駅舎自体の魅力、歴史、景観といったところでしょうか。よって私にとっての駅舎ベストテンは、門司港駅、東京駅、外川駅、姨捨駅、西桐生駅道後温泉駅浜寺公園駅山崎駅出雲大社駅白河駅となります。

 本日の一枚です。
c0051620_6175379.jpg

by sabasaba13 | 2013-02-22 06:18 | 九州 | Comments(0)

九州編(25):蒲生の大クス(11.9)

 それでは蒲生の大クスへと連れていってもらいましょう。蒲生の町中に入ると、立派な石垣をよく見かけます。なるほど、こうした技術がさきほどの凱旋門に生かされたのですね。そして十分ほどで蒲生八幡神社に到着、境内の一画に言語を絶するような偉容の大楠がありました。まるで大地から盛り上がったかのような樹幹は無数の凹凸を有し、その枝ぶりは空を覆いつくせんとしています。これは凄い…その神々しさに圧倒されてしまいました。解説板によると、推定樹齢1500年、樹高30m、根廻り33.57m。1988(昭和63)年に行われた環境庁の巨樹・巨木林調査によって、日本一の巨樹とされたそうです。ま、そういう調査はけっこうなことですが、その間環境庁は水俣病の解決に向けて誠心誠意、全力を尽して努力をしていたのでしょうか。それはともかく、この巨木は一見の価値がありますね、お薦めです。
c0051620_617484.jpg

 タクシーに戻ると、運転手さんが駅へ戻る途中に龍門滝があるので寄っていきましょうかとオファーをしてくれました。滝フリークとして見逃せません、寄ってもらうことにしました。蒲生から二十分ほど走ると滝見物のための駐車場に到着、タクシーにはここで待機してもらい細い道を徒歩で数分歩いていきます。すると展望所にたどりつき、魁偉な岩肌に沿って、しぶきをあげながら幾筋も流れ落ちる滝をほぼ正面から眺めることができました。爽快な冷気を肌に感じながら写真を撮影。車に戻ると、運転手さんが説明してくれるには、滝の上には「龍門司焼」という黒薩摩の窯場があるそうです。朝鮮出兵の際に、大名たちが争って磁器を焼く陶工たち職人を拉致・誘拐した史実は有名ですが、島津義弘もその一人。彼が加治木に移り住んだときに、その陶工たちも共に移住、現在に至るまで薩摩焼をつくっているそうです。ああ、故郷忘じがたく候、ですね。窯場フリークとしては是非寄りたいところですが、いかんせん肥薩線の汽笛の音が私を誘います。ここは断腸の思いで駅へと向かってもらいましょう。車窓からふと左手を見ると、もこっと盛り上がったまるでお子様ランチのような山が見えました。運転手さん曰く、溶岩が噴き上げ周囲が陥没してできた蔵王嶽という山で、標高は164m、姶良市の名物となっているそうです。頂上まで登れますが、なんと個人が所有しているお山だそうです。
c0051620_6172319.jpg

 そうそう、申し遅れましたが、このあたりは姶良(あいら)市、そう業界では(ツッコミ:何の業界だ)"姶良カルデラ"が有名ですね。スーパーニッポニカ(小学館)から引用します。
 鹿児島湾の北端に位置する東西約23キロ、南北約17キロ、面積約430平方キロのカルデラ。1943年(昭和18)に地質学者松本唯一が提唱した九州中部から南部に連なる阿蘇型大カルデラ群の一つ。
 更新世(洪積世)末期(約2万年前)に火砕流が大規模に発生し、約150立方キロのシラス(南九州に広く分布する軽石質の火山灰砂)が噴出した結果、山体が陥没してできたと考えられ、のちにその南東縁寄りに桜島火山が誕生した。
 それがどうしたと言われたら、以前の私でしたら♪俺の目を見ろ何にも言うな♪と逃げを打つのですが、男子三日会わざれば刮目して見よ、もう昔の私ではありません。『日本の歴史① 日本史誕生』(佐々木高明 集英社)を読んで知ったのですが、実はこの姶良カルデラから噴出した火山灰は考古学的に大きな意味を持っているのですね。「姶良Tn火山灰(AT)」と名づけられたこの火山灰の分布は、なんと東北南部、朝鮮半島から日本海の海底にまでおよび、さらに放射性炭素年代測定法によってその噴出が二万二千~二万千年前ごろであったことが確認されました。つまりこのAT層は時間の指示層として利用することができ、これによって各地の後期旧石器時代の文化層において信頼度の高い年代が得られるようになったそうです。

 本日の二枚です。
c0051620_618045.jpg

c0051620_618155.jpg

by sabasaba13 | 2013-02-21 06:19 | 九州 | Comments(0)

九州編(24):山田の凱旋門(11.9)

 港から二十分強で、凱旋門に到着しました。まずは解説板から一部を転記します。
 この凱旋門は明治三十七・八年の日露戦争に当時の山田村から従軍した人たちの無事な帰還を記念して明治三十九年(1906)三月に山田村兵事会が建設したものです。『山田村郷土誌』によれば、山田村からの従軍者は、陸軍八八名、海軍二五名、計一一三名であったと記してあります。
 石造りの凱旋門は、鹿児島が誇るアーチ式の石橋技術を応用したものであり、全国的にも大変珍しいものです。使われた石材は凝灰岩であり、言い伝えによると、上名(かんみょう)の池平から切り出したといいます。昔は各地で石垣用に使われていました。石工は細山田ケサグマという人だったそうです。
 …『鹿児島県史』によれば、「県は熊本・宮崎・沖縄三県と連合して鹿児島のいずろ通広場角に凱旋門を建設し、一月に竣工、三月十二日より十五日にかけて部隊の凱旋を迎えた」とあります。(いずろ通の凱旋門は現存せず。) 恐らく山田の凱旋門も三月十二日以前に完成し、山田村の従軍者たちは、実際にこの門をくぐり、凱旋祝いを受けたと想像されます。
日露戦争の終結後、全国各地で記念祝賀会や凱旋式が盛大に行われました。
 あらためてしげしげと見てみると、威風堂々とした石造凱旋門です。当時は各地でつくられたと思われますが、私の知っている限り、現存しているのはこちらと静岡県にある渋川の凱旋門のみです。往時の状況を知る上で貴重な戦争遺産ですね、末長く保存していただきたいものです。
c0051620_617635.jpg

 なお先日読み終えた『日本の百年4 明治の栄光』(橋本文三編著 ちくま学芸文庫)には以下のような記述がありました。
 まず二ヵ年の征戦を終えてなつかしい故国に帰った兵士たちは、しばらくのあいだは、国民の大歓迎を受け分捕り品や手柄話に人びとを喜ばせた。「乃木さんの評判はその後ますますよく、東郷さんの人気は天に冲するの慨があった。」(生方敏郎『明治大正見聞史』)
 しかしただちに彼らを襲ったのは戦後の流行語となった「生活難」にほかならなかった。「新橋に万歳の声絶ゆる隙なく、凱旋門いたるところに毅々たり。三越呉服店前には、新たに帝国万歳の文字大書されて、資本家がいかに戦争中天の恵みを受けしかを語りつつあるも、いまや一面には失業者の数、日に増加して、その総数八十万の多きに達せんとしつつあり。国民はこれをいかに見るか。」(『光』三号、1906年12月20日)
 帰還兵士たちのなかでももっとも悲惨であったのは、傷病兵と下士官兵であった。下士官兵は軍隊を離れて戦後社会の「生存競争」を闘う素養をもたなかった。廃兵もまた同じ運命にあった。(p.295~6)
 アーチをくぐると、大国ロシアとの凄絶な戦争を戦い抜き故郷に凱旋した兵士たち、それを熱狂的に迎える村人たちの歓喜の声が聞こえてくるようです。しかしその後の人々を待っていたのは、生活苦と重税、そして混乱と空虚と弛緩。そして「国民を犠牲にした富国強兵」というこれまでの政策に疑問をもつ人びと、個人主義者や社会主義者たちの登場。近代日本の大きな曲がり角を沈黙の内に証言する遺産です。

 本日の一枚です。
c0051620_6172562.jpg

by sabasaba13 | 2013-02-20 06:18 | 九州 | Comments(2)

九州編(23):山田へ(11.9)

 数分ほどで港に到着、車から下りると錦江湾ごしに桜島の雄渾な山容を眺めることができます。絶景絶景、さっそく一枚入魂、写真撮影。なお先日見た『秘密のケンミンSHOW』では、鹿児島県民は、自分が住んでいる所から見る桜島が最も素晴らしいと思っているという情報が寄せられていました。そしていよいよ山田の凱旋門へと向かいます。案内標識をふと見ると、「薩摩川内(せんだい)・日本一の巨樹・蒲生」とありました。運転手さんに訊ねると、近くの蒲生八幡神社に日本一の巨樹である大クスがあるというお返事。巨木フリークとしては見逃せませんね、山田の凱旋門を見た後に寄ってもらうことにしました。もう一つ気になったのが薩摩川内…もしや九州電力川内核(原子力)発電所があるところでは。ビンゴ! 運転手さんによると、一、二号機は点検中、三号機増設は地元の反対で凍結されているとのことです。気になったので、同核発電所の過去における事故・トラブルをウィキペディアで調べてみると、1号機では試運転中の自動停止(1983)、燃料集合体のピンホール(1986)、一次冷却材ポンプ変流翼取付ボルトのひび割れ(1988)、化学体積制御系抽出ライン元弁棒損傷(1989)、温度測定用配管弁棒損傷(1989)、蒸気発生器細管の摩耗減肉(1991)、調整運転中の手動停止(1991)、制御棒駆動装置ハウジングキャノピーシール部損傷(1996)、格納容器サンプ水位上昇に伴う原子炉手動停止(1998)、タービンソレノイド動作に伴う原子炉自動停止(1999)、蒸気発生器の細管損傷(2000)、2号機では一次冷却材ポンプ変流翼取付ボルトのひび割れ(1989)、蒸気発生器細管の摩耗減肉(1991)などの故障・トラブルの報告があるそうです。ま、電力会社の経営者にとっては、爆発さえしなければこうした事故・トラブルは平気の平左なのでしょうね。途中の路肩で、乳母車を押す老婆を見かけましたが、運転手さん曰く「実は案山子なんですよ」 なんでも地域活性化の一環として、こうしたリアルな案山子が随所におかれているそうな。「夜中なんか怖いですよ…」 うん、それは想像にあまりあります。
c0051620_6164667.jpg


 本日の一枚です。
c0051620_6171019.jpg

by sabasaba13 | 2013-02-19 06:18 | 九州 | Comments(0)